歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

ハンスヨーナスの有機体哲学について

2012-03-03 | 国際学会 8th IWC-Ecosophia 2011

ハンスヨーナスの「生命の哲学ー有機体と自由」を読む。法政大学出版局から出たこの翻訳の原本は、Das Prinzip Leben であるが、実は、初版はドイツ語ではなく英語で書かれたThe Phenomenon of Life をもとにしている。著者はドイツ語を母国語とするユダヤ人の亡命哲学者であり、ドイツ語訳を著者自身が共同の訳者となって行ったときに、なりの増補改訂がおこなわれた。「ハイデッガーと神学」など英語版にあるがドイツ語版にない章があれば、またドイツ語版第四章「調和、均衡、生成ー体系概念およびそれを生命存在へ適用することについて」のようにドイツ語版出版の時にあらたに書き下ろされた章もある。そういうわけで、引用するときには英語版かドイツ語版かを区別することが必要だろう。

ドイツ語版前書きで、著者は「この本は生命という現象についての一つの存在論的解釈を提示するもの」だと述べている。その存在論的解釈のポイントは「観念論及び実存主義の哲学の人間中心主義的な制約とともに自然科学の物質中心主義的な制約をともに打破する」ところにある。実際には「生きている身体という神秘に於て両極は統一されている」からである。この前書きの中にある次の言葉は、のハンスヨーナスの哲学的立場をもっともよく要約するものであると同時に、ヨナスのもう一つの主著とも言うべき「責任の原理ー科学技術文明のための倫理学の試み」との連関を教えてくれる点でも貴重である。

人間が自分の内に見出す大いなる矛盾ー自由と必然、自律と依存、自我と世界、関係と個別化、創造性と可死性ーは、もっとも原始的な生命形態の内にすでに萌芽的な原型を有しているのであって、それぞれの生命形態は存在と非存在の危うい均衡をたもちつつ、つねにすでに「超越」の内的な地平を自らの内に含んでいる。私達はあらゆる生命に共通している超越というこの主題を、有機体の能力と機能が上昇していく順序に応じて、生命の発展の中で追跡する。それは物質交代、運動と欲望、感覚と知覚、想像力と技術と概念的理解を通じての発展であり、自由と危険が増大していく段階的系列であり、それは人間に於て頂点に達する。人間はもはや自分を形而上学的に孤立したものと見なさなくなるとき、おそらく自らの独自性を新に理解することができるだろう。

著者は、従来の進化論的な形而上学が過度に楽天的であり、「成功談」の如きものであったことを批判し、生命を「掛け金とリスクの増大していく一つの実験、人間の宿命的な自由において成功にも破局にも至りうる実験」とみなすが、形而上学的な思弁をあえて回避しようとは思わなかったと述べている。哲学的な議論は、現象学的記述と批判的分析が主となるべきであるが、生命について考察するという主題そのものが、私達の専門分野や研究領域を通常区分している境界線を否定するものである以上、われわれは物理学及び生物学から認識論および倫理学へと広がる問題群に巻き込まれないわけにはいかず、さらには存在すること、生きることの意味を根本的に問う形而上学的思索を要請するのである。ドイツ語版の副題は、「有機体と自由」であるが、これは、英語版の副題「哲学的生物学」よりもなお一層、ヨナスの著作の内容を要約するものである。自由は常に責任と表裏一体であり、人間は他の生命に対してより多くの力と自由をを有するものであるが故に、他の生命の諸形態に対して責任を負うからである。

ヨナスは、もともとグノーシス主義のキリスト教の研究者であり、現代の実存主義と古代グノーシス主義の霊肉二元論とを対比した論文も知られている。そして身体的な生を否定し、創造された世界を否定するグノーシス主義の現代版として、身体を軽視し、人間の純粋な意識の立場だけを拠り所とする実存主義をとらえることが、自然哲学の再興をもって現代の地球的課題と見なすヨーナスの自然哲学の背景を為していることは間違いがない。

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