歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

自己物語りと救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死ー(そのⅠ)

2020-11-30 |  文学 Literature

自己物語りと救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死ー
(そのⅠ)

 

 以下の文は、『彼方からの声』(シリーズ物語り論』(東京大学出版会、2007年)に寄稿した『復生の文学』および『東條耿一作品集 いのちの歌』(新教出版社、2009年)の解題に書いたことの再録である。内容は15年以上前に書かれたものであるが、現在の私から見た、いくつか新しい感想も追加した。東條耿一と岩下荘一の関係など、その後あきらかになったこともあるので、適当な機会にそれについても書く予定である。

 明石海人と北條民雄の名前は戦前の「療養所文学」の代表的作家としてよく知られているが、東條耿一についてはよく知らないという人が多いかもしれない。

 東條耿一は、戦前のハンセン病療養所、多磨全生園の文芸誌「山桜」に数々の優れた詩を発表していた詩人である。その彼が、晩年にみずからの生涯を回想しつ つ カトリックのキリスト者としての心境を綴った手記を書き残していたことを知ったのは平成十六年の春のことであった。 四谷の聖三木図書館の書棚の奥にあった「聲」の昭和一六年のバックナンバ ーに「癩者の父」に始まる東條耿一の一連の手記が掲載されていたのである。

 私は、その内容に深く突き動かされた。それは、戦後間もない 頃に書かれた「長崎の鐘」 や「亡びぬものを」のような永井隆博士の手記が、すこしも古びることのない 時代の人の証言であるのと同じように、 ハンセン病が「不治の病」として恐怖されてい た苦難の時代を生きた一詩人の回心の記録であったからである。

 それから五年の間、 東條の詩作品の素晴らしさを教えて頂いた俳人の村井澄枝氏とともに、 私は、東條耿一の全著作の編集に取りかかった。途中から、戦後の全生園の園誌「多磨」の編集長を務められ、北条民雄について優れた評論を書かれた野谷寛三氏にも加わって頂き、平成二十一年九月四日に東條耿一作品集「いのちの歌」 の出版を果たすことが出来たのである。

 ハンセン病については、隔離政策の持つ 差別と人権侵害の問題が、国賠法訴訟で問題となっ た。これについては多くの人が語ってきた。それは、たしかに重大な社会的・ 政治的問題であるが、差別の撤廃も人権の回復も、我々が生き延びること、我々の「生」を前提としている。 しかし、 生きる希望が全く奪われ、苦痛と死が不可避であるような極限的な状況というものがある。 そういう場合、人は、人権の問題を問う以前に、そうい う苦しみに満ちた現実をどのように受容し、 その苦しみの果てにある不可避の「死」 をどのように迎えるかという、より根本的な問題に直面せざるを得ないのである。

 ここで論じた明石海人、北條民雄、東條格一の生涯とその作品を理解するためには、 その日本各地にハンセン病の療養所が置かれていた時代の背景、当時の療養所の実態、 当時のカトリッ ク教会と療養所との関わりなどについて、 ある程度の予備知識を持つ ことが必要ではある。 しかし、筆者は、彼らをいわゆる「療養所文学」 ないしは「ハンセン病文学」の作者として論じるつもりはない 。その理由は、 こういう名称は、それ自身差別的であるし、 彼等の書いたものは、そういう特殊なカテゴリーを越える普遍性を持っていると信じてい るからである。ハンセン病が治癒可能な普通の病気になった現在に於いても、 治癒不可能な他の難病は存在するし、 今後もそういう難病に苦しむ人は絶えないであろう。不幸にして、 そういう病に自己自身が、あるいは自分の家族、ないし自分に親しい人が罹患したとき、ひとはどうするのか。
 それは、 いつの時代にも人間が直面しなければならない問題である。 明石海人の短歌集「白描」とその序文、北條民雄の『いのちの初夜』や川端康成との往復書簡、東條耿一の詩集と晩年の手記などは、すべての人に通じる「いのち」 の根柢にある苦しみ、 死に至る病の苦しみの現実と格闘し、そこからの救済を求めた魂の記録である。彼らは、文藝の創作活動によって、あるいはキリスト教の信仰によって、古き自己を乗り越えようとした。闇の中に光明を、 絶望の中に希望を見出した明石海人や東條耿一の自己物語りは、それを読む者自身が、他人事ではなく自己自身の問題として生と死の問題を自覚する手がかりになるだろう。すくなくとも私は、若くして帰天したこれ等の作家から、古稀を過ぎた現在の私自身が学ぶことができることを有り難く思っている。

 (1)短歌―明石海人「白描」について

 昭和十二年に改造社が明治・大正・昭和三代にわたる新万葉集全十一巻を企画したときに、一人二十首以内で公募があった。昭和十三年に出版されたその第一巻に、ハンセン病療養所長島愛生園の明石海人の歌が十一首入選している。      

 皇太后陛下、癩患者御慰めの御歌並びにお手許金御下賜記念の日、遙かに大宮御所を拝して

そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる

みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

   父の訃、子の訃共に事過ぎて月余の後に来る。帰り葬はむよすがもなくて

送りこし父がかたみの綿衣さながら我に合ふがすべなさ

童わが茅花ぬきてし墓どころその草丘に吾子はねむらむ

世の常の父子なりせばこころゆく嘆きもあらむかかる際にも

たまたまに逢ひ見る兄や在りし日の父さながらのものの言ひさま(面会)

梨の実の青き野径に遊びてしその翌の日を別れきにけり

子を守りて終らむといふ妻が言身には沁みつつなぐさまなくに

監房に狂ひののしる人のこゑ夜深く覚めて聞くその声を (病友)

   眼神経痛頻りに至る。旬日の後眼帯をはづせば視力すでになし

拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひかけて声を呑みたり

更へなずむ盗汗の衣やこの真夜を恋へばはてなしははそはの母よ

この第一首と第二首は、救癩事業を推進した皇太后の御恩に感謝する歌で、当時の療養所の短歌会では毎年のように兼題として出されていた。貞明皇太后は、昭和7年11月10日、大宮御所の歌会で、「癩患者をなぐさめて」という兼題をだし、自ら

    つれづれの友となりても慰めよ ゆくこと難きわれにかはりて

という歌を詠んでいた。海人の歌は、この皇太后の歌に対する返歌であると見て良い。

 この歌は発表当時評判となり、のちに長島愛生園の歌碑にも刻まれ、また当時の国の救癩政策の柱であった「皇室の仁慈」にいかに療養所の人々が感謝しているかを示すために縷々利用されることとなった。戦後は、その反動であろうか、「幻の明石海人」という評論を書いた光岡良二も「慟哭の歌人」を書いた松村好之も、ともに、晩年の海人の歌を代筆した伊郷芳紀の証言を引用しつつ、この歌の「儀礼的性格」を強調し、海人の代表作とは見なしていない。たしかに、海人自身が編集した「白描」では、この歌は療養所の生活を綴った多くの歌の中の一つとして扱われ、特別に巻頭に於かれているわけではない。 

 しかしながら、戦前戦後のイデオロギーや価値観の劇的変化なるものを括弧に入れて、この歌自体を眺めてみると、単なる「儀礼の歌」として片づけられないものがある。皇太后からの「御恵み」を感謝する返歌は療養所の歌人達によって数多く詠まれているが、海人のように「癩者に生れて我が悔ゆるなし」と力強い「万葉調」で堂々と言い切った歌は殆ど無い。これは皇室の恩恵をひたすら受動的に有難がっているような感謝の歌では決してない。この下の句は、返歌という儀礼を超えて、海人自身が自分の運命を積極的に受容した宣言のように思われる。海人は、のちに、歌集「白描」の序文で、

          癩は天刑である。

加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。

― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何處にも光はない ―

さう感じ得たのは病がすでに膏肓に入ってからであった。

齢三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。

 癩はまた天啓でもあった。

と書いたが、「癩者に生れて我が悔ゆるなし」という大胆な言葉を海人に言わせたものは、皇室であれ誰であれ、他者から与えられた恩恵への感謝という以前に、それに絶対的に先行していた、「自らが燃えなければ何處にも光はない」という海人自身の魂の奥底からの叫びであったろう。

 昭和一二年に改造社によって企画され、昭和一三年に第一巻が出版された新万葉集は、明治大正昭和の代表的な短歌を収録している。審査員と当時まだ活躍していた著名な歌人には新たに五〇首以内の自薦歌の投稿が求められ、物故した歌人のよく知られた歌も縁故者によって提出された。

  明石海人の歌は、第一巻に収録されている。この巻に収録された他の歌人の歌をあげると、石川啄木は、「東海の小島の磯の白砂に我なきぬれて蟹とたはむる」をはじめとする五十首、伊藤左千夫は「牛飼が歌よむときに世の中の新しき歌大いに起こる」をはじめとする五十首がある。また、歌人とは言えないが、芥川龍之介の短歌も収録されているなど、プロの歌人に留まらず、様々な職業や背景を持った人が、それぞれの自己の世界を表現している。この歌集の特徴は、作者ごとに複数の短歌が収録されているので、新万葉集という大宇宙の中に、一人一人の作者の小宇宙があるというような印象を受ける。

 ただし、いわゆる有名歌人の歌の織りなす小宇宙は、かならずしも生彩があるとは言えない。たしかに一首一首は人口に膾炙した歌であるが、五〇首を並べてみても、そのあいだに作者の人格から放射するような統一性を必ずしも感じない。これは、とくに新作を投稿した有名歌人の連作についていえる。

 新万葉集の聊か精彩を欠く職業歌人の歌群のなかにあって、海人の連作短歌のなかには、はるかに切実にして緊密な統一がある。これは、海人が最晩年に出版した歌集「白描」の場合は、さらにはっきりと言えることであるが、何度も推敲し磨き上げられた作品のみが持つ統一が、作者の個の一貫性がつよくでている。海人の短歌には叙事詩的な情念のうねりがあり、それが読むものに地底から響くような情念のカタルシスを与える。これまで、日本の歌人で、このような、すぐれた悲劇作品のみが持ちうるようなカタルシスと存在の真実を詠い得た歌人、「白描」序文に見られるような自己自身への思索と詩的世界を統一した歌人がどれほどいたであろうか。   「白描」は、次の歌から始められている。 

医師の眼の穏(おだし)きを趁(お)ふ窓の空消え光りつつ花の散り交ふ 

 春たけなわの頃、自然が生命力に満ちあふれ、桜の花の美しさに惹かれて大勢の人が行楽にくりだす季節に、海人は東大病院で診察を受け、医者の穏やかな眼を追いながら診断の結果を聴く、そのつかの間を捉えた歌である。この歌が「白描」の巻頭。そして、この歌を口述筆記した伊郷芳紀の回想に寄れば、この歌の姿を定めるのを海人は最後まで引き延ばしていたとのこと。「歌集」の最初におかれた歌は、実は、最後にそのかたちを与えられたのである。

 「不治の病」という宣告を受けたとき、これから自分はどのようにすればよいのか。どうしようもないではないか。海人の短歌に頻出する「すべなさ」(どうしようもなさ)ということばに象徴される運命的な事実がはっきりと告げられる、その直前の光景である。これに続く歌との関わりだけを見れば、いかにも人生の無常、不条理、真昼の花の輝きの中に突如侵入した暗黒を描くための序奏のようにもみえるが、この歌は、決してそのような側面だけから見られるべきものでない。

 この巻頭の歌は、「癩者」としての彼の生の始まりを意味するだけでなく、「白描」におさめられたすべての歌を、その生の始まる直前の一点に収斂させるような働きを持っている。そういう自分自身の過去の一瞬を回想において遡りつつ描き出そうとしている海人自身は、どういう状況にあったか。彼を診断し、喉の切開手術を担当した内田守医師の言葉によれば、「およそ癩者が死ぬまでに経験しなければならない一切の苦しみを引き受けている」凄絶な状態にあったとのこと。カニューレ(呼吸補助のため喉につっこんで使用する器具)をとおしてかすかに判別されるような嗄れた声で、最後の力を振り絞りながら、伊郷に口述していたのが、この歌である。

  伊郷によると、「白描」の歌をまとめあげ、原稿の発送の間際まで、海人は巻頭歌の下の句を「消え光りつつ花の散り交ふ」にするか「さくら白花真日にかがよふ」にするか、決めかねていたが、次のように云って、前者に決定したとのことである(松村好之著「慟哭の歌人」による)。     伊郷が伝える海人の言葉は以下のようなものであった。

「さくら白花真日にかがよふ」では真日にかがよふているにしても、花がじっと停止して日光を受けている、いわば静の風景だ。「消えひかりつつ花の散り交ふ」だったら、花は生きて爛漫と咲き、やがて生命を終えて散ってゆく・・・・散り交ふ花びらに生きた感情の生動を実感する。「散り交ふ」に決めよう。

 散る桜に、単なる無常ではなく、存在と生命の充足による死を彼が見ていたことがこの言葉から分かる。「花」は日本の和歌の伝統では特別の意味を持っている。西行の和歌にとってそれは日本の風土、そこにいきる人々の心のあり方の象徴でもある。本居宣長の云う大和心もしかり。海人には桜の花を詠んだ次の歌もある。

      さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘のなりくる

 長島愛生園をついの住処と思い定め、ハンセン病者としてその地で生を終えることを受容しなければならない境遇にありながらも、春になれば、日本の自然の美しさを見、日本の悠久の歴史に思いを馳せることができる。そういうとき、桜の花を詠んだ幾世代もの日本人の心を自分自身のうちに実感することがあったであろう。この歌は、海人の故郷、沼津の千本松原に歌碑として刻まれている。「幾世の底より」という言葉が、この歌に日本文化の基底を流れる桜花への想いを感じさせる。幾世の「世」は、悠久の歴史を表すが、その「底」という言葉は、地底より響き渡るような日本文化の深層を感じさせる。

 

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自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その2)

2020-11-30 |  文学 Literature

自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その2)

(2)小説―北條民雄の「いのちの初夜」とその後

 ハンセン病療養所で書かれた文藝作品として、明石海人とともにもっともよく知られているのは北條民雄の小説「いのちの初夜」であろう。 そのなかに、療養所に入所したばかりの患者であり、療養所での「最初の一夜」に重病棟の患者と共に過ごした衝撃がさめやらぬ主人公の青年尾田に、重病棟の付添をしながら文藝の創作をしている佐柄木という年長の青年が、病苦になすすべもなく死の床にある重病棟の患者達を前にして語るつぎのような一節がある。

僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。

けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。

 

「ハンセン病文学全集」の小説の部を編集した加賀乙彦は

「いのちの初夜」こそ、北條民雄の最初の優れた小説だということになる。この作品は、今回の『ハンセン病文学全集』の小説の中でも第一等の秀作である。作者自身も、多くのハンセン病小説家も、これを越える作品を書けなかったのは、不思議だが、事実がそうなのだから仕方がないというのが私のつぶやきである。(中略)

かつて日本の近代文学にこれほどの深い絶望、これほどの極限にまで苦悩した文学があつたであろうか。この作品を今度の文学全集の冒頭に置くことには、十分な意味があると私は考えている。

と言っている。この小説のなかで、佐柄木という人物は非常に印象的に描かれているが、おそらく、それは北條民雄が療養所で文藝活動をしていた諸先輩達から受けた印象をもとに、みずからのあるべき姿として造形した者と言って良いであろう。

 昭和11年2月に「文学界賞」を受賞した「いのちの初夜」は、一躍北條民雄の名前を文壇に知らしめることとなったが、北條自身は、その文学的成功を必ずしも喜ばなかったことが、友人達の証言によって知られている。

 北條民雄は、文学界賞受賞後の作品として、100枚を越える長編を二篇書いている。しかしながら、これらは、いずれも公表されず、彼の死後に刊行された北條民雄全集にも収録されていない幻の作である。しかし、川端康成の「いのちの初夜」跋から、我々は、その作品のあらましを推測することが出来る。

 その一は「いのちの初夜」にひとたび得た生命観をさらに深く懐疑否定し、その彼方に光明を探ろうとするものであった。その二は、社会運動に携わってゐた青年が、さういふ世と切り離された癩院に入って、尚、プロレタリアの為に反省苦悩し腐れゆく身であくまでもその社会理想を信じて生きるものであった。

 この二作とは北條の川端康成宛の書簡(昭和十一年六月十日)によれば、「ただ一つのものを」と「監房の手記」である。どちらも、作者の生死を賭けた作品というべきものであり、北條はつぎのように自分の心境を川端に述べている。

この作(監房の手記)には、ほんとに命を賭けました。書き始めるとき、それまで手許にあった長編の書きかけも、短編の書きかけも全部破り捨てました。これは遺書のつもりだったのです。これが書きあがったら死のう、と決心して筆を執りました。けれども書き進むうち、死んではならないことだけが分かりました。死ぬつもりで書き始めながら、書き終わった時には、生きることだけになりました。進歩か転落か、それは分かりません。ただ、先生の御評を頂きとうございます。「いのちの初夜」を書いた折、生か死かの問題は解決がついたかのようにお手紙しましたけれど、あの場合はほんとに解決したつもりでいましたのですけれど、つぎつぎと襲ってくる苦しみはあの解決をぶちこわしてしまいました。(中略)それからこの作は検閲をうけずにお送り致します。検閲をうければ、発表禁止にされてしまうのです。それで検閲なしで発表して、僕はこの病院を出る覚悟に決めました。富士山麓の復生病院の院長岩下氏が僕の「いのちの初夜」に感激したと申されて、先日フランスのカトリック司祭コッサール氏が参りましたので、その人の紹介で右病院に入る予定です。自分にとっては、小説を書く以外になんにもないのに、その小説すら思うように書いてはならないとすれば、なによりも苦痛です。検閲証の紙を一しょに同封して置きますけれど、實に激しい屈辱感を覚えます。一つの作に對してこれだけ多くの事務員共の印を必要とするのです。[3]

「監房の手記」は検閲を無視して密かに川端に送った作品で、このとき北條は官立の癩療養所の内部で「癩になりきって生きる」ことを欺瞞であると考え直し、自殺を覚悟のうえで多磨全生園を飛び出し、カトリックの施設へ逃げ込むことを考えていたことが分かる。岩下壮一が自分の文学の理解者であると聞いたこと、カトリックの神山復生病院は友人の詩人東條耿一が嘗ていた病院なので、そこへ移れば、多磨全生園よりは小説執筆に自由な環境が得られると考えたのだろう。

 結局、このアイデアは実現しなかったが、北條が官立の療養所という閉鎖された場所―強制収容所という一面をもっていた-で文学活動をすることにいかに疑問を抱いていたかが分かる。

 病院に監房があることが官立の癩療養所の特徴であった。全生園はもともと放浪する患者を強制的に収容する監獄として建設されたので、初代院長は警察官あがりであった。1931年度以降、一般の患者を収容するようになってからも、そのシステムは基本的に同じであった。 のちに全生病院の院長となった光田健輔がまだ医長であった時分に、すでに「院長が患者を検束し懲戒することは違法である」とのべて抵抗した患者がいたことが報告されている。(内田守の回想)

 そういう監房の中に閉じこめられた社会運動家の苦悩を描いた「監房の手記」が検閲を通るはずがないし、そのようなものを書いたと言うことが発覚すれば、北條自身が処罰されたであろう。したがって、北條は、自分の作家としての生命を賭けてこれを書き、川端に送ったということがわかる。川端は、検閲の厳しい当時の出版状況を考慮し、また北條の作品自体、まだ大いに推敲の余地有りと判断したので、結局、これらの作品は発表されず、原稿も残ってはいないが、北條自身が真に書きたかった作品がいかなる種類のものであったかを我々に教えるであろう。彼は自分の作品が「癩文学」として読まれること、特異な環境にある特異な生を描いたものとして読まれることに反対であった。自分は文学そのものを書いているのであり、「癩文学」などというものが特別にあるわけではない-これが北條の信念でもあった。

 創元社から出版された北條民雄全集では、彼の日記が収録されているが、これは、療養所の雑誌「山桜」に北條や彼の友人である東條耿一が発表した作品と共に、当時の療養所の内部を活写すると共にかれらの内面生活を伺わせる貴重な文献である。

 とくに「山桜」という機関誌は、官立の療養所を管理する国の基本的な思想を浸透させるために刊行されていた雑誌であるが、そこには文芸欄が設けられ、詩歌や俳句、小説などの創作の発表も許されていた。患者が療養所の医療政策に対して批判がましいことを述べるような言説は、原則として、事前検閲によって掲載されては居ないが、昭和12年1月、すでに腸結核を併発して病床にあった北條民雄は、「井の中の蛙の感想」と題する分を寄稿している。この文は、前年の昭和11年8月の「長島騒擾事件」に言及して、ストライキをした患者達を「井の中の蛙」と批判した日本MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)理事の塚田喜太郎の文章に対する反論である。

 「長島事件」については、ハンセン病問題に関する検証作業の一環として現在ではその状況が解明されている[4]が、当時国家的なキャンペーンとして行われていた「無癩県運動」のために、国立療養所愛生園が定員を大幅に超過し、患者の医療・生活条件が極度に悪化したために起きた患者の作業ボイコット事件であった。[5]

 塚田は次のように書いている。(昭和十一年 「山桜」10月号)

 井の中の蛙大海を知らず、とか。実際、井の中の蛙の諸君には、世間の苦労や不幸は分からないのであります。(中略)蛙は蛙らしく井のなかで泳いでいればよいのであります。また、大海も蛙どもに騒がれては、迷惑千万であります。身の程をしらぬといふことほど、お互いに困ったことはないのであります。(中略)患者諸君が、今回のごとき言行をなすならば、それより以前に、国家にも納税し、癩病院の費用は全部患者において負担し、しかる後、一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け、社会の同情のもとに、わずかに生を保ちながら、人並みの言い分を主張する等は、笑止千万であり、不都合そのものである。

塚田のこの見解に対する北條のコメントが、翌年の山桜の一月号に「井の中の正月の感想」と題して掲載されている。

 諸君は井戸の中の蛙だと、癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論、このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら、かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか」
 全療養所の兄弟諸君、御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。しかし、私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も、今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ、井のなかに住むが故に、深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう、況や-

 

 40年以上経過した後からであるが、津田せつ子は、「北條さんの思出」というエッセイの中で、この文を引用し、「いまのように、職員や社会人に自由にものがいえる時代とは違い、すべてが検閲制度で束縛されていた時代であったから、私はずばりと言い得たその勇気に感動した。清涼剤に似た清々しさで思い起こされる。そして北條さんは若かったなといまにして思う。あのいきりたつ若さは古い患者にはもてない感覚である」と回想している。[6]

 北條民雄が昭和12年に腸結核で亡くなった後で、川端康成は彼の遺稿や日記も蒐集して、創元社から北條民雄全集を刊行したが、そのことは必ずしも療養所の管理者にとって歓迎すべき事ではなかった。 北條民雄が昭和12年に腸結核で亡くなった後で、川端康成は彼の遺稿や日記も蒐集して、創元社から北條民雄全集を刊行したが、そのことは必ずしも療養所の管理者にとって歓迎すべき事ではなかった。 たとえば、北條民雄日記の中にもたびたび登場する療養所の医師日戸修一は、次のような文を、全集刊行後に書いている。[7]

しかし、検閲するものがどうであろうと、とにかく国家が養って国家が食はせて衣食住すべてを心配しそのかげに癩を早く撲滅しやうといふ目的があるんだから、この目的に不利なものはどしどし取り締まってゆくのが当然の話で文句を言ふほうが間違ってゐる。(中略)文学なんか癩の撲滅事業のためにはおよそ屁の訳にもたたない。まして北條のやうな変な反抗ばかりしてゐるものには検閲制度は当然必要なんだと思ふ。(中略)ああいふ全集(北條民雄全集)を余り思慮なしに出した川端康成氏等の軽率な罪はとにかく非難してもいい。あまりいい癩文学などは実際からいふと必要はない。黙って患者を収めて、ぢっとして消滅する日を待てばそれでよからうといふものである。予防協会あたりは一人でも多く患者を収容できるやう費用を出せばよいので変なパンフレットや文学の話などは絶対にしない方がいいといふものである。必要なのは癩のなくなることだ。だつて一向に癩がなくならないではないか。

 この日戸の文は、当時としても極端な意見とみなすべきものであろうが、官立の療養所で営まれていた文藝活動の困難さを我々に伝えるものである。北條民雄の日記には、彼が、療養所文學-当局の管理のもとで、慰安と教化の方針のもとに編集された文学-を如何に嫌っていたか、また、自分の文学をそのような意味での「癩文学」として読まれることを拒絶していたか-そういう記述が随所に見られる。そして、そういう北條のいわば「本音」の部分は、戦前に公刊された全集では、多くの場合、伏せ字とされていたために理解不可能なものとされていたことに注意したい。

たとえば、昭和12年度の北條民雄日記には、次のような文がある。[8]

1月28日。民衆から・・・・[9]を奪ったら何が残るか。なんにも残りはしないのだ。彼等はこの言葉の中に自己の心の在り場所を求めようとしてゐる。それは何千年かの間に築かれた××であるにしろ、しかし彼等はこの・・・・[10]によって、心の安定を得てゐるのだ。それは国家そのものに対す態度である。現在の彼等にとっては、これのみが残された唯一の・・・・[11] なのだ。重要なのはこの点だ。

2月1日。夜、光岡良二来る。十時近くまで語る。一七歳のとき、・・・・[12]の洗礼を受けた自分は、一切の「権威」といふものを失ってしまひ、そのために心の置き場なく揺らぎ続けてゐるのだ。彼は形而上のもの、即ち神を持ってゐる。しかし自分には神はない。人間すらも信じきれぬ。

 この北條日記(昭和12年)には、療養所の検閲制度への批判、マルクス主義への共感、天皇が民衆の偶像であることを記した記事等があるので、日記を預かった友人の東條耿一は、当局に没収されることをおそれ、総てを書写したうえで川端のもとに送り、もとの日記を手元に置いていた。創元社の全集では問題の箇所はすべて伏せ字にしたうえで公表された。この自筆日記は、東條耿一の妹の津田せつ子より某カトリック司祭の手にわたり、戦後しばらくのあいだ行方が分からなかったが、1993年になって漸く高松宮記念ハンセン病資料館開設に際して、(還俗した)この司祭より返還され、時在は、ハンセン病記念館に展示されている。

 

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自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その3)

2020-11-30 |  文学 Literature

自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その3)

(3)詩―北條民雄の「いのちの友」東條耿一とキリスト教

 昭和12年2月の「山桜」には、北條民雄がその日記の中で「いのちの友」と呼んだ東條耿一の「初春のへど」という文章が掲載されている。昭和12年1月の「山桜」には、北條民雄の「井の中の正月」がでていたことを考えると、この文も又、昭和11年の「長島騒擾事件」、ストライキをした患者を「井の中の蛙」と批判した塚田喜太郎の文章に露骨に見られるような療養所の文藝の「あり方」に対する根本的な批判であるという、そういう文脈の中に置いて読むことが出来る。

 塚田喜太郎が昭和十一年の山桜に発表した文と、それに反論した北條の「井の中の正月」という文は、所謂療養所文藝がいかなる時代に如何なる状況の下で書かれていたかを知る重要な資料である。この時期の東條耿一と北條民雄の文学に対するスタンスは非常に近いという印象がある。

「文学をしなければ生きられないが、同時にその文学を軽蔑せずにはいられない」というジレンマに二人とも直面していた。それは、北條民雄の日記の中にはっきりと現れている。とくに療養所文學ー当局の管理の中で、慰安と教化の方針のもとに編集された文学-の限界を彼等は感じていたはずである。

 北條民雄は、マックス・シュティルナーの「唯一者と所有」一冊をもって療養所の外に飛び出し、自殺を常に念頭におきながらの放浪の後で、どうしても死にきれずに療養所に舞い戻り、再び文芸の創作に戻る。しかし彼は、心身の疲労から腸結核になって、昭和12年から重病棟に入る。こういう北條を東條耿一は側にいて、つぶさに見ていた。この時期のふたりの文章に、このシュティルナーとニーチェへの言及が見られるのは、この西欧の思想家の書いたものに共感するものがあったからだろう。「初春のへど」は様々な二律背反に苦しむ東条の分裂した姿を提示している。

  東條耿一が「初春の反吐」のなかでいっている「義務の文学」とは聞き慣れない言葉である。もっと分かりにくいのは「現実の負担を軽くする義務」という言葉であろう。何かを東条はそういう言葉で伝えようとした。誰かの思想、たとえば悲劇の哲学、不安の哲学を説き、ドストエフスキーとニーチェを論じたシェストフの本などの影響があったのかも知れないが、あくまでも東條自身の生の文脈に即して、この言葉の意味をもういちど考えてみよう。

 「現実の負担を軽くする権利」と言うのならば、現代の我々にはわかりやすい。病人には、病苦を軽減する措置を療養所に求める「権利」がある。しかし、東条は「権利」ではなく「義務」といっている。底本を確かめてみたが、これは誤植ではない。
 すると「現実の負担を軽くする義務」というのは、どういう意味か。それは文学作品、詩歌の世界に逃避して、慰めを得るということでは決してないだろう。それでは「慰安の文学」になってしまい、北條や東條がもっとも唾棄したものとなってしまうだろうから。

 おそらく、「現実の負担」は、そこから逃避することによっては、決して解決されない、それを軽減するためには、その負担を負うことを自らの義務として引き受ける事によってのみである、という決意のようなものが、そこで語られているのではないか。

 私は、この「義務」という言葉の使用そのものに、外的な権利主張とは異なるもの、きわめて内面的なもの、彼自身に固有なものにたいする責任、あえていえば「自己の存在に対する責任」を感じる。北條民雄も又、川端康成宛書簡で次のように言っている。

この作、自分でも良く出来ているような気がしますけれども、また、大変悪いんではあるまいかと不安もございます。結局自分では良く判断が出来ません。けれど、書かねばならないものでした。(中略)先生の前で申し上げにくいように思いますが、僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです。

 

「最初の一夜(いのちの初夜)」は、自分の生死を賭した問題に迫られて、「書かなければならぬ」ものであるから書いたと、北條ははっきりと言っている。文藝作品としての善し悪しなどは、二の次であった。北條のこの代表作こそ、彼が自分の存在に対して責任を負い、そこから逃避せずに、負担に満ちた現実を真正面から引き受けて書いた作品、東条の言い方を借りれば、「義務の文学」の初心に貫かれた作品のように思われる。
 更に、この「初春のへど」で注目されるのは、三好達治の詩を引用して

君よ、この詩を心ゆくまで味わつて見給へ。この一篇の作品の中に、清澄な音楽と、渺茫とした味はひが如何に巧みに秘められ表現されてゐることだらう。この詩の情操してゐるものは作者がその心の中に、魂のもの侘しい薄暮を感じ、頬白の啼いてゐる風景の中で、その心に擴がつて來る薄暮の影を、侘しく悲しげに凝視してゐるのである。

と書いているところであろう。東条はこういう三好の様な詩を書くことを目標にしていたからである。
 三好から東條が何を学び、それを自分の詩の世界で如何に展開していったかを知るために、まず「繍眼兒」という表題をもつ三好の詩を見てみよう。

     繍眼兒めじろよ 気軽なお前の翼の音 身軽なお前の爪の音
     嘴を研ぐ微かな剥琢はくたく日もすがら私の思想を慰める
     お前の唱歌 お前の姿勢  さてはお前の曲芸
     それら 願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ

 昭和10年11月に四季社から刊行された「山果集」に収録された三好達治のこの詩の反響を東條耿一の作品集にたしかに認めることが出来る。三好達治からの詩法、ないし詩語の影響を受けつつ、東條はみずからの生活世界の直中に於いて、それを受けとめ、その意味するものを変容させ、新しい世界を造形している。ここでは、昭和15年に書かれた東條耿一の短歌「静秋譜」から、おなじく繍眼兒を主題とするものを紹介しよう。


  黐棒の尖端さきに小鈴をつけむ小禽ことり来て宿らば忽ち呼鈴べるとならむか
  わが眼はや十尺とさか前方あまりはおぼつかな黐棒はがの小鈴の鳴りをし思ほゆ
  一枚の木の葉の如くぶらさがり繍眼兒は黐はに驚かずをり


 黐棒(はが)というのは、メジロをつかまえる鳥もちの棒のことである。多磨全生園は当時も今も野鳥の多いところで、北條民雄も、とりもち棒で野鳥を捕らえようとする入園者の姿を短編小説に書いている。
 第一首は、その棒の先に小鈴を付ければ、それに小鳥がとまって「盲人を導く鈴」(盲導鈴)となってくれるだろう、という意味である。当時は、作者の目が悪化し、10尺前方もみえなくなってしまった、そのころの歌。
 この短歌に出てくる繍眼兒(メジロ)は、三好の詩に於けるのと同じく、本来ならば大空を自由に飛び回る詩魂の象徴だろう。こころならずも療養所の不自由舎で盲目に近い生活をしなければならない当時の作者は、メジロに自分の姿を見ていたに違いない。

 「願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ」という三好の言葉は、三好自身の生活世界の中で発せられた「言葉」であるが、それは、療養所で生活していた東條自身によって切実なものとして受容され、東條の世界に於いてあらたに生命を得て、その独自の心の世界の表現ともなり得た。 

 昭和12年に病床にあった北條民雄に、東條耿一は「樹々ら悩みぬ」という詩を捧げている。(文末脚注参照[i]) この詩には「北條民雄に贈る」というサブタイトルが付いている。期せずして、追悼の詩にもなったが、この詩を書いた時点では、東條耿一は、まだ、北條が昭和12年の12月に急逝するということを全く予想していなかったと思う。東條耿一の詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「こころの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている-その二律背反的な苦しさが詠われている。

 北條民雄は、療養所からの脱出を試み、各地を彷徨したのちに療養所に戻り、昭和12年正月より重病棟に入った。それまでの彼の苦しみに満ちた試みを、仮に「水平的な脱出」というならば、それは不可能であった。
 日本の何処にも北條を受け容れてくれる場所はなく、彼は柊の垣根のなかに舞い戻らねばならなかった。この苦い挫折の思いは、外出許可をもらっても決して故郷には帰らなかった東條自身にもあてはまるだろう。彼らが安住できる場所は何処にもなかったのである。水平的な意味での「脱出」が閉ざされた場合、ひとは垂直的な「超越」をめざす。 西洋の詩の場合ならば、たとえばダンテの「神曲」。政治的に失脚し、行動の自由も未来への楽天的な希望も奪われたダンテは、地獄への下降と天国への上昇という垂直方向の超越に賭けて「神曲」を書いた。この大作の内容は、日常的な時間に翻訳すれば、纔か三日間くらいの出来事である。日常的な時間を縦断するような別種の時間意識がそこにあり、そのような時間に於ける、地獄から天国までの垂直方向への下降と上昇、その緊張を孕んだ運動による魂の救済が「神曲」のテーマである。

 東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教の復帰という様な具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。

 東條耿一は昭和15年に「閑雅な食欲」という詩を「山桜」に発表しているが、このタイトルそのものは、大正12年刊行「青猫」に収録されている萩原朔太郎の詩から借りたものである。表題が同じと言うことは、耿一が朔太郎の影響を受けたことを窺わせるが、その内容は非常に異なっている。そこで、この二つの詩を比較することによって、晩年の東條耿一の詩の世界の特質を考えてみたい。

 光岡良二は、「昭和10年代の全生園作家達」というエッセイのなかで、全生詩話会で盛んに詩を発表していた頃の東條は「背徳的で、朔太郎やボードレールに傾倒していた」が「病勢が次第に進み、盲目になるに及んで、静謐なカトリック信仰に入っていった」と書いている。 「詩人から信仰者へ」という要約はやや図式的に過ぎるし、光岡自身が晩年の東條を直接には知らなかったということに留意する必要があるが、初期の習作時代に東條耿一が様々な詩人達の影響を受けたことは明らかであるし、とくに東條環や環眞沙緒子の名前で投稿した詩編には、「朔太郎やボードレール」の影響は確かに認められる。

 しかし、後期の詩群、とくにここで紹介した東條の詩には、「環」時代の詩とははっきりと異なった傾向が顕著になっている。初期の詩の特質は、自己が療養所で詩を書いていると言うことを否定するようなところがある。むしろ、療養所の現実を離脱し、様々な「仮面をつけて」詠うこと-詩的言語の世界のみに没入し、そこに虚構されたもうひとつの現実を生きること-が希求されている。これに対して、北條民雄がなくなった後に書かれた詩群においては、療養生活をしている自己の現実そのものを凝視し、そこに素材を求めることが多くなっている。

 そのことは、昭和15年に書かれた東條の詩「閑雅な食欲」にもよく現れている。嘗て彼が影響を受けていた萩原朔太郎の詩から、晩年の東條耿一の詩がどれほど隔たっているかを見てみよう。(文末脚注参照[ii]


 朔太郎の詩「閑雅な食欲」の場合は、あくまでも、現実には存在しない「追憶の夢の中の珈琲店」での食事が、言葉によって造形されている。これに対して、東條耿一の詩の場合は、療養所での朝の食事の有様が、そのまま詠まれている。戦争直前の物資の欠乏している頃の療養所の食事がどれほど貧しいものであったか、我々は当時の記録から知っている。古米と麦飯、一汁一菜の貧しい食事、刑務所の場合と大差のないものだったであろう。それを朔太郎がかつて追憶の中で詠った詩のイメージを借りて東條は「閑雅な食欲」をもって「おろがみたい気持ち」で感謝とともに頂いている。

 戦争中の食糧難の時代、飢えの体験、それらを直接経験でなく、あとから回想するのであれば、我々は過ぎ去ったこととして、懐かしむことも出来るだろう。追想の場合は、現在の直接性から距離を置くことができるから。東條の詩「閑雅な食欲」の特徴的なことは、そのような苦しい現実を、我々が過去を回想するときの様な平静さで、作者が受容していることではないか。ユーモアとは、「・・・にもかかわらず笑うこと」であるとは、ホスピスや緩和医療の臨床の中で思索されたデーケン氏の言葉であるが、そのような「逆境に於けるユーモア」をこの詩から感じる。


 私は朔太郎のオリジナルな詩よりも、東條の書いた「閑雅な食欲」のほうに惹かれる。詩の技法とかイメージの配合などの点では、たしかに東條は随所で達治や朔太郎から学んでいるが、東條の詩には技法以上のものがある。藝術作品には「意匠」も大切ではあるが、それ以上に、一人の人間が詩を書くときの根本的な視座のほうを問題にしたい。
  たとえば朔太郎の「閑雅な食欲」は、現在そのものを詠んでいるのではなく、「夢の様な追憶」の中で、ある意味で理想化され美化された過去の情景が詠みこまれている。これにたいして、東條の場合は、過去でも未来でもない、「現在」の現実そのものを強く感じる。ただ、その現在の現実とは、たんなる移ろいゆく現在ではない-すぐ過去になり、未知なる未来の不安に戦いている相対的な「現在」ではなくなっている。敢えて言うならば、自分の療養生活の一こまーこまの移ろいゆく姿を、東條は、揺れ動くこと無い「現在」-絶対的な「現在」-から、見ている。


     生きることが何がなし
    嬉しいことだと考へる
    死ぬことは生きることだと考へる


 このさりげなく挿入された言葉に、私は惹かれる。とくに「死ぬことは生きることだと考へる」の一行に。

 詩や小説の創作の中で、作者は「物語る」行為の直中に於いて自己を確認する。それは自画像を描く事に似ている。これは、自己の現実から逃避して詩の中に別世界を建立することで慰安を見出していた初期の東條の詩群にも、療養所の自己の生活を直視して、それをあるがままに詩の中に詠み込もうとした後期の東條の詩群にもひとしく当て嵌まる。その場合、描かれる自己と描く自己との関係は如何なる者であろうか。  

 ここでは、彼が、療養所での直接体験を素材としたと思われる二つの物語-散文詩ともいえる-を比較することによって、物語的な自己同一性について考察してみたい。

 比較のポイントは、自己が自己を物語る場合、物語る主体としての自己のあり方が、描くことを通じて新たに再生すると言うことである。とくに、作品の推敲ないし改作という事態を詳しく検討してみると、作者の旧い自己が脱ぎ捨てられ、新しい自己が生まれるその現場に立ち会うという、稀な事態にも出くわすことがある。作品の改訂ないし推敲のプロセスの中に、読者は物語の作者の自覚の深まりを読みとることが出来るからである。

 我々が問題とする物語の一つは、「山桜」昭和12年10月号に掲載された「晩秋」で、これは同じ号に掲載された「夕雲物語」の続編になっている。

 東條耿一が昭和12年10月に「山桜」に発表した「晩秋」と、昭和16年6月に「聲」の発表した手記「鶯の歌」の最後の部分を比較してみたい。(文末脚注参照[iii]

 「晩秋」では「ハルちゃん」という女の子が、「鶯の歌」では、「三郎君」という少年に変わっている。このハルちゃんという少女には実在のモデルがいて、全生病院では評判の少女であったようで、北條民雄の随筆にも登場する。東條は、「鶯の歌」では、そういう、実在のモデルの登場するゴシップ的な内容になることを避けて、登場人物を孤児の少年に変えている。少女を少年にかえたことの理由としては、もうひとつ、新作に登場するこの少年がある意味で東條の分身であること、すなわち彼も又、東條自身の自画像でもあることを暗示しているのかも知れない。

 同一の素材が、4年後に異なる物語として語り直されるとき、それは作者自身の自己認識が大きく変容したことを意味している。たとえば、「晩秋」では、その最後のスタンザは

ああ肩の上の少女の聲に

しみじみと自省す はんぎやくの虚心・・・・・。

で終わっていたものが、「鶯の歌」では

少年は眞赤に燃えた夕雲を指して見せた。そして私が肯くと、肩の上に立上がるやうにしてバンザーイと叫んだ。私も大きく胸を張つて「ラボニ」と叫んだ。

 

と変わっている。(ここで、ラボニ(師よ)とは、新約聖書でイエスに向かって弟子達が呼びかける尊称の一つ) 短調で奏でられた「晩秋」の最後の聯が、「鶯の歌」では、一転して、肯定的な長調の協和音となってフィナーレを迎えたという印象を与える。 憂いに満ちた短調の「晩秋」が、力強い長調の調べをもつ「鶯の歌」へと変貌したこと、当然の事ながら、4年間の間に語り手である東條自身が変わったと言うことを意味するだろう。

 旧い方の作品では、少女の子供らしい信仰の世界は、作者にとってはまだ疎遠なものである。いうなればおとぎ話の世界を少女に物語る役割を自ら演じているのであり、そういう自己を東條は「肩の上の少女の聲にしみじみと自省す はんぎやくの虚心」という言葉で描いている。少女に語って聞かせた世界は、カタカナで表記されている。これは、暗に、それが仮想された世界であり、作者にとっては心底からは信じられないものであることを示している様だ。これに対して作者の自己自身の世界は平仮名で表記されている。そこには少女の物語と作者の現実との分離が表されている。物語の夢から覚めてみれば、現実の作者は「はんぎゃくの虚心」しかもちえない自己に直面せざるを得ない。そういう自己への「反省」こそがこの物語の主題であろう。

 新しい物語からは、カタカナの表記が消えているが、それは物語る世界(信仰)と物語る作者の現実を隔てていた壁が突破されたことを意味している様だ。以前の物語行為に於いては単なる夢物語に過ぎなかったものが、ここでは作者の現実そのものとなり、物語られる世界こそを現実として肯定する「ラボニ!」という叫びが、語り手の意志、新しく獲得した信仰の世界において再生した作者自身の実存の表現になっている。

 我々は、常に自己自身の過去を物語ることによって、その都度、自己が如何なる人間であるかを確認する。そしてそういう自己確認-最近の物語論ではnarrative self-identityと言うことが多くなったが-こそが、本質的に時間的な存在である我々自身のありかたを示すものなのである。 

 「自覚とは自己が自己に於いて自己を映すことである」とは西田幾多郎の言葉であるが、その自己は、實は、その都度、自らのそれまでの経験を集約統合し、それまでに遭遇した他者との出逢いを含みつつ、自己同一を獲得する。我々の自己確認は、自己の世界を、その都度一なるものとして再組織化することを意味する。そして、物語という言語行為は、それ自身が創造行為であり、その都度、自己と世界を、読者という他者の前に、作品として与えるものであるといって良いだろう。

 昭和16年の「山桜」3月号に載った「落葉林にて」という東條耿一の詩(文末脚注参照[iv])は、同じ年の「聲」一月号に載った手記「癩者の父」とあわせて読むべき作品だろう。

手記「癩者の父」を東條は次の言葉で結んでいる。

こちらに來て、私もカトリツクに復歸してみると、又老いた父母のことが氣になつてならない。恵まれなかつた生涯だけに、救霊の方法を是非講じてやらなければならぬと思つた。私は又父に對して長文の手紙をかいた。父からは何の返信もなかつた。私は重ねて手紙を書いた。その父も胃癌で今は重湯も飲めない。医師は既に餘命幾何もないと宣してゐる。若し神の存在が考へられず永生と云ふものが我々に約束されてゐないとしたら、私は父を思ふに忍びないであらう。私は主の御前に額づいて祈るばかりである。それだけが私に與へられた唯一の道であり孝心である。

 かつて父親から剃刀を渡され自害することを勧められたこと、また復生病院へ行く途中、この父親と心中したかもしれないというようなことなど、想像を絶するが如き状況を生きてきた父と子の姿が「癩者の父」では、ありしままに綴られている。

 東條自身の「親不孝」を云う以前に、子供を殺して自害したかも知れないと云う点では、父もまた息子に対する殺人未遂の罪をまぬかれない、そういう極限的な状況を嘗て共有した父と子なのである。その父のことを、東條は、昭和16年以前では殆ど作品に於いて言及していない。しかし、その父が胃癌に苦しんでいるという報せを聴き、自分自身もまた死期を予感しつつあった東條は、その父に対する情念を、この詩では、誰に憚ることもなく吐露している。

 胃癌に苦しみ「心むなしくやみたまふ」父に対して、救いの手を差しのべることが出来ない自分を、「親不孝者」として詰ること、そのような自責の念をぶちまけることこそが彼にとっては、父親に対する愛情の表現であったのであろうか。

 そのかぎりない悔恨が、落葉のなかに埋もれていく父の幻影として、あるいは落葉林を吹きすさぶ風のなかに聴きとめた呻吟する父の声によって示されている。「癩者の父」の末尾に置かれた短歌二首は、この執拗な幻影・幻聴を鎮める祈りの言葉のように思われる。

  三人の癩者の父と生れまして心むなしく病みたまひけむ

  ふたたびは生まれることなしうつし世に仕へる時よつひにあらぬかも

 この歌を詠んだとき、東條は自分のみではなく、父の魂が遂に平安を得ていないこと、自分が何一つ父のためになることができぬうちに父がなくなることがもっとも気掛かりであった。この肉親の父への切々たる思いを抜きにして、「父なる神」と子の和解というテーマをもつ遺稿「訪問者」第二編は充分には理解できないのではないだろうか-そういう思いが私の心中を去らない。

 次に東條耿一の遺稿集から「訪問者」という詩を取り上げよう。[v]

 東條耿一は、「癩者の父」という自伝的回想と「落葉林にて」という詩の中で、実の父とのあいだの過酷な関係と心の葛藤を表現していたが、この遺稿「訪問者」の「父」は、「父なる神」である。

 東條は、神山復生病院で受洗したが、退院後、カトリック信仰から離れ、文藝の創作のほうに生き甲斐を見出すようになる。北條民雄の葬儀後、カトリック教会に復帰したが、その時の心境をテーマにしたものが、この詩であろう。 この詩の中では、

 

吾今より汝が裡に住まむ

汝もまた吾が裡に住むべし

父よ、忝けなし

われ、何をもておん身に謝せむ

わが偽善なる書も、怯懦の椅子も

凡て炉に投げ入れむ

わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ

 

という箇所に注目したい。つまり、冬の寒い日の戸外で佇んでいた「父なる神」に暖をとってもらうために、自分が安逸を求めて坐っていた椅子と、自分がもっとも重んじていた過去の創作を炉にくべるという箇所である。 

 そこには、非キリスト教的な文学と訣別して、信仰の道を一筋に歩もうとする彼の決意があった。妹の津田せつ子によれば、実際に東條は自分の未公開の詩作品を焼いてしまったという。そのために、彼の遺稿には、この訪問者以外の詩が残っていない。

 この詩では、東條自身の「父なる神」との和解が、東條を訪れた訪問者のイメージを借りて詠われるが、それは同時に地上に於いて「三人の癩者の父」として辛酸をなめつくした肉身の父のイメージを借りて表現されているようだ。嘗て父に対して門を閉ざした子は、信仰に目覚めぬ一人の人間の姿でもあるが、それと同時に、肉親の父を拒絶した東條自身でもあったろう。凩の吹き荒ぶなか戸外で佇む父、「久しく凩の門辺に佇ちて、汝を呼ぶことしきりなれば、吾が手足いたく冷えたり」と語る父は、なんと「落葉林にて」の父と似ていることだろうか。

 父なる神との和解は、「父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ/父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ」という言葉で示されているが、父なる神との和解の祈りが、同時に、それを通して、肉身の父との和解と救済への祈りになっているように感ぜられる。

アッシジの聖フランシスの「平和の祈り」には、

我等は、与えるが故に受け、ゆるすが故にゆるされ、

おのが身を捨てて死するが故に、永遠の生命を得る

という言葉がある。これは、カトリック教会、とくにフランシスコ会の教会ではミサの後でよく唱える祈りであるが、「死するが故に永遠の生命を得る」とは、ヨハネ伝の「一粒の麥」の譬えとおなじく、新約聖書の核心にあるメッセージである。

 東條耿一の昭和17年7月の「山桜」に掲載された「病床閑日」という詩を最後にとりあげよう。東條は同年9月4日に亡くなっているから、遺稿「訪問者」を別にすれば、これが東條の最後の詩であるといってもよいかも知れない。

  病床閑日

私はけふ 晝のひと時を

庭の芝生に下りてみた

陽はさんさんとそゝぎ 近くの樹立に松蝉が鳴いてゐた

私は緑のやは草を踏みながら 踏みながら

そのやはらかな感觸を愛しんだ

不思議なほど 妖しいほど 私の心にときめくもの

一体この驚きは何だらう

思へ寝台の上にはやも幾旬――

もうふたたび踏むことはあるまいと思つてゐた

この草 この緑 この大地

私の心は生まれたばかりの仔羊のやうに新しい耳を立てる

新しい眼を瞠る そうして私は

私の心に流れ入る一つの聲をはつきり聞いた

それは私を超え 自然を超えた

暖いもの 美しいもの

ああそれは私のいのち いのちの歌

(「山桜」昭和17年7月号)

 私は、この詩の最後に出てくる、「いのちの歌」という言葉に撃たれた。これこそ、かつて北條民雄が「いのちの友」と呼んだ東條耿一の作品の精神をもっともよく表すものではないだろうか。

 東條はこの詩が発表されてから二ヶ月後に亡くなったが、結核性の腹膜炎を併発し、非常に体調が悪い時期であった。この詩は、そういう苦しい病床の中で、比較的、病が小康状態であったときに詠まれたものである。 

 この詩で、「新しい眼を瞠る」という箇所に注目したい。作者は、もはや「古い眼」で外なる自然を見ているのではない。そこで「私を超え、自然を超えた」声、鳥たちの囀りを聴いていると、それは、もはや「束の間の消えゆくもの」としてではなく、「永遠のいのち」として、そして同時に「私のいのち」として聴かれている。「この草 この緑 この大地」は、この世のものであるが、そこにおいて、「永遠なるもの」が先取されているような、そういう響きがある。 

 アッシジのフランシスの平和の祈りには、様々なバージョンがあるが、あるバージョンでは「永遠の生命を得る」ではなく「永遠の生命に目覚める」となっている。眠りから覚めて、新しい眼を瞠るとき、どういう情景が見え、どのような聲がきこえるのか。それは決してまだ訪れない未来のこととしてのみ語られているのではない。そういう未来は、必ず訪れるべきものとして、病床の中にいる東條の「新しい眼」において、直接に経験されている-そういう強い印象をこの詩は読むものに与えるのである。

 最後に、 東條耿一の遺稿「癩者の改心」を取り上げよう。 全生園のハンセン病図書館が閉鎖され、その書籍をハンセン病資料館に移転することが自治会によって決定されたとき、 私は、図書館の利用者の一人として、旧い書籍の整理の手伝いをしていた。そのおりに偶然、 カトリッ ク愛徳会の旧いガリ版刷りの園誌「いづみ」のなかに、 この東條耿一の遺稿を発見したのである。

 

 この遺稿の内容は、「癩者の父」 にはじまる東條耿一の手記と並んで、 彼の最晩年の心境を伝える貴重なものであっ た。当時のカトリック教会の聖務日課の祈りが引用を中心に配して、東條は死を前にして、「改心」した自己自身について次のように語っている。

主の御胸によりかかりて
福音のきよき流れを、主の
御胸の聖き泉より飲みぬ、かくて
神の御言葉の恩寵を全世界にそそぎいだせり。
(福音史家聖ヨハネの聖務日課の答唱)

 私は苦痛の重荷を感ずると何時も、ヨブ記を繙くことにしています。 これはヨブ記に自己の苦しみを紛らせる為でなく、 ヨブの如く苦しみを愛したいが為であります。 ヨブが神の試みに逢ってサタン の手に渡され、 その持物、 羊、 駱駝、 馬、 夥しい 僕(しもべ)等をことごとくサタンの手により奪われ、家は覆され、身は癩になって了い、かくして激しい苦杯を舐め、惨苦のどん底に突き落されたのでありますが、 ヨブはなお天を仰ぎ地に伏してエホバの御名は讃むべ きかなと神に光栄を帰しています。 惜しみなく奪う神の愛をヨブははっきりと知っていたに違いありません。 
 私は基督教的苦しみの忍従が限りなき喜びであり愛の勝利への転換であることを述べましたが、 私の貧しい言がどれだけあなたの心を掴み得たかと思うと甚だ心淋しさを覚えます。 私は己に苦しみを望みませんが与えられる苦痛は神の愛として肯定し、 喜んで力の限り愛したいと思います。 苦痛を愛の忍従に転嫁してヨブの如く生きたいと思います。 惜しみなく恩恵を奪われた者のみ、よく真に神の愛を感ずる事が出来るでしょう。 苦痛を愛の忍従に転嫁してヨブの如く生きたいと思います。
   私を癩者に選び給いし神は讃むべきかな。

 この最後の言葉、「私を癩者に選び給いし神は讃むべきかな」は、 東條耿一が我々に残してくれた作品集の最後の言葉となった。それはきわめて重い言葉である。いまの読者は、このような東條の言葉をどううけとめるであろうか。「癩」という言葉すら差別語として禁句となり、 聖書の翻訳でもそれを「重い皮膚病」 と置き換えるようになってはいるが、今回出版された東條耿一作品集では、 現在の基準では差別語として使われない 言葉であっても、東條が使った言葉をそのまま収録したのである。
 いうまでもなく「癩病」 を「ハンセン病」と言い換えるようになったのは、この病が治癒可能な病気となっ たことを一般の人々に告知徹底するという啓蒙的な意味があった。「不治の業病」 というイメージの固着した「癩病」 という言葉を使用禁止にし、 ハンセン病と言い換えることは、 病の意味づけを変更し、 偏見を打破する必要から積極的に推し進められたのである。 それは時代の要請であったし、 また社会復帰者を支援するとい う意味からも当然のことであった。

 しかし、 文学や宗教が問題となっているときには、 機械的に言葉の置き換えを行うことによっ て失われるものも多い。 とくにこの病に苦しんできた旧い 世代の回復者の中には、 自分の罹患した病気が「重い皮膚病」と呼ばれることに納得できない ひとも居るのである。 また、 ヨブ記の主人公のかかっ た病気は、 医学的に考えるならば、現在我々が理解してい るとおりの「ハンセン病」ではなかったかもしれない 。 しかし、その病は歴史的に「ハンセン病」 として理解されてきたことは事実であるし、 東條自身もそのように読んでいたのである。 大事なことは、 ヨブの受難の意味であり、 その医学的な病名が何であったかということではない 。
 東條耿一は、「癩者」という差別と偏見に充ち満ちた言葉を忌避せずに、 それを全面的に引き受けた上で、その世間的な意味を宗教的に転換して、神の讃美と感謝の祈りとしている。 これ以上の回心があるだろうか。 「癩者の改心」 は、時代を超えて読者に宛てられた、 東條耿一の内面を吐露した書簡なのである。

 

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自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(脚注)

2020-11-30 |  文学 Literature

自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(脚注)

脚注

[1] 「日本のハンセン病問題」は日本人の韓国と台湾に対する戦中戦後の責任問題も含むということは注意されるべきである。

 

[2] ここに云う「カトリック」とは、使徒信条に云う「普遍の教会」であって、ローマン・カトリックとか「聖公会」のような特殊な教団に限定されない。信仰告白は、「私は信じる」と述べるものなのであって、決して「我々は信じる」ではない。常に「一人称単数」で宣言するところに、信仰宣言ないし信仰告白(Credo=I believe)の特徴がある。それは、組織のメンバーとしての「我々」の中に個の主体性を埋没させることではなく、あくまでも「一個人に徹する」ことを通じて、「普遍の教会」を信じることを「公に」宣言するのである。

[3] 昭和10年代の療養所の検閲、また、一般の文壇に於ける検閲がどのようなものであるかは、戦後になってから北條民雄全集が再刊されたときに、川端康成が公開したつぎのような療養所の「検閲係」からの書状に示されている。
「謹啓愈々御清栄の段奉賀上候陳者毎度本院収容患者に対して種々と御懇篤なる御指導を賜り誠に有難く御礼申上候。扱て先日来故北條民雄の遺稿に関して之が検閲方を光岡良二より申出有之侯。依て慎重なる検閲の結果、只今御手許へ御送附申上候二編は本院の統制上之が発表せられるは甚だ面白からざる事と存ぜられ候実は故北條民雄の旧友よりの懇望も有之一応右の二編の遺稿を御送附申上候条、何卒御高覧の上は御迷惑ながら御返却被下度伏御依頼申上侯
全生病院検閲係    昭和十二年十二月三十一日   川端康成殿」

[4] 近現代日本ハンセン病問題資料集成(藤野豊編・解説 2002.6- 不二出版)戦前篇第5―6巻参照

[5] 当時の愛生園は、定員過剰のため、12.5疊の部屋に平均して8名から10名の者が雑居生活をしていた。園内作業の賃金は、定員分の経常費から捻出していたため、定員過剰に伴い園内作業賃も切りつめられた。長島事件とは、患者たちが結束して「待遇改善、作業慰労金の値上げ、患者自治会の結成、職員総辞職」を掲げ、作業をボイコットした事件である。この患者作業ボイコットは、昭和11年8月13日に始まり、岡山県の特高課長の仲介で、8月28日に中止された。

[6] 津田せつ子(渡辺立子)曼珠沙華より「北條さんの思出」(昭和56年私家版)

[7] 「人間北條民雄」『医事公論』特輯 昭和14年3月18日

 

[8] 真筆版北條民雄日記 昭和12年 「柊の垣にかこまれて」(山下道輔・荒井裕樹編集 平成16年6月)による。

[9] 伏せ字(天皇)

[10] 伏せ字(偶像)

[11] 伏せ字(偶像)

[12] 伏せ字(マルキシズム)


 

文末脚注

 

本文で言及した萩原朔太郎の詩とともに、東條耿一のいくつかの詩を文末脚注としてここに補足する。なお東條耿一の全作品は

https://tourikadan.com/yutaka_tanaka/tojo/tojo_index.htm

で閲覧できる。

ここでは、本文で引用した作品を注釈で紹介したい。

[i] 樹々ら悩みぬ
―北條民雄に贈る-

東條耿一        
月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 悲しげに 身を顫はせて呟きぬ
   蒼夜なり
   微塵の曇りなし
   圓やかに 虔しく 鋭く冴え
   唯ひとり 高く在せり
月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 手をとり 額をあつめ
   あらはになりて 身を顫ふ
   されど地面にどっしりと根は張り
      地面はどっしりと足を捉へ
  (悲しきか)
  (悲し)
  (苦しきか)
  (苦し)
   樹樹らの悩み 地に満ちぬ
   彼等はてもなく 呼び應ふ
ああ月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 翔け昇らんとて
   翔け昇らんとて 激しく身悶ゆれど
   地面にどつしりと根は張り
   地面はどつしりと足を捉へ
(昭和十二年 「四季」 十一月号)

 

 

[ii] 閑雅な食慾
萩原朔太郎

松林の中を歩いて

あかるい氣分の珈琲店かふぇえをみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。

をとめは戀戀の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取って

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいそう閑雅な食慾である

===================

閑雅な食欲
東條耿一

食卓の上に朝日が流れてゐる

どこかで木魚の音がする

読経の聲も微かに聞える

わたくしは食卓の前に

平らな胡座をくんで

暫くはホータイの白い

八ツ手の葉のやうな自分の手をながめる

いつの間にこんなに曲つてしまつたらう

何か不思議な物でも見る心地である

わたくしはその指に

器用に肉又(フォーク)をつかませる

扨て、と云つた恰好で

食卓の上に眼をそそぐ

今朝の汁の実は茗荷かな

それとも千六本かな

わたくしはまづ野菜のスープをすする

それから色の良いおしん香をつまむ

熱い湯気のほくほく立ちのぼる

麦のご飯を頬ばりこむ

粒数にして今のひと口は

どのくらゐあつたらうかと考える

わたくしは療養を全たうした

友のことを考へる

療養を全たうしようとしてゐる

  自分の行末について考へる

生きることは何がなし

  嬉しいことだと考へる

死ぬことは生きることだと考へる

食事が済んだら故郷の母へ

  手紙を書かうと考へる

考へながらもわたくしの肉又は

まんべんなく食物の上を歩きまわる

「有り難う」とわたくしは心の中で呟く

誰にともなくおろがみたい気持ちで・・・・


九月某日
(昭和十五年「山桜」二月号)

 

[iii] 晩秋  

東條耿一 

       

 芒のさ揺れ 赤松の幹の光 静かな疎林のほとりからこころに沁みいる アンジェラスの鐘―

―小父チャン 天ニモオ家ガアルンデシヨ 

アレハ迷子ニナラナイヤウニ 天ノオ家デ鳴ラスノネ 天ノオ家ハホントノオ家ネ アソコニハ オ父サンヤ オ母サンモ ミンナヰルンデシヨ アタイハヤク行キタイナ ミンナハ天ノオ家 知ラナイノ?

―ミンナハ遊ブコトバカリ知ツテヰテ ホントノオ家ヘ帰ルノヲ 忘レテシマツタ オバカサン イケナイネ・・・・

―ヂヤア 小父チヤンハ?

―アア小父チヤンモ忘レテヰタヨ コレカラハハルチヤント 仲良ク帰ラウネ

―ミンナトンボニナツテ帰ルノネ ステキ ステキ

止んでまた鳴りつぐ 鐘の音の 枯野は寂し

ああ肩の上の少女の聲に

しみじみと自省す はんぎやくの虚心・・・・・。

(昭和十二年「山桜」十月号)

 

 この物語は、4年後に、手記「鶯の歌」(「聲」昭和16年6月号)に於いて、もういちど語り直され、次の様な作品に変貌している。

 

 

 

鶯の歌

東條耿一

 

 夕食後、縁先で萬年青の葉を洗つてゐると、小父さん、と三郎君がやつてきた。

 三郎君は今年七つの癩者の孤児である。入院してまだ半年にみたないが父親は十年ほど前に入院し、盲で咽喉を切開し、つい先頃重病室で死んだ。三郎が入院してまもない或日収容病室の付添夫をしてゐる友がつれてきた時、梨かなにかを與へたのが縁で、私と三郎はすつかり仲良しになり、それから少年は毎日のやうに來て、食事も一緒にするやうになつた。三郎は額にちょつぴり赤斑紋があるきりだが、繃帯だらけの私を少しも嫌はず平氣で抱きついたり、肩車に乗つたりした。

 私は水筆を捨てて早速三郎君とつれだつて散歩にでかけた。垣ぞひの道まで來ると、私は少年を肩車にのせた。

「望郷臺に登らうよ。だけど、あたいを肩車にのせて、小父さん登れるかい。小父さんはのつぽだけど、ひよろひよろしてゐるからな」

 少年は頭の上から私の顔を覗き込むやうにして云ふ。私は桃畑を突切り、椎の並木を望郷臺へ向つた。

「さあ、小父さん、しつかりしつかり」

爪先き上りの細道を喘ぎ喘ぎ登る私に、少年は足をばたばたさせながら云ふ。どうやら頂上に出た私は思はずほつと大きく息をした。冷い風が汗ばんだ肌に快い。一望に開けた眼界を見、少年はバンザーイと叫んだ。私の眼には近くの寮舎の屋根だけが朧に見えた。遠く夕陽がもえ、あたりには早や黄昏の色が立ちこめてゐた。折柄ベトレヘムの園で打鳴らすアンジェラスの鐘が冴々と大空に響き渡つた。

「サブちやん、一寸の間静かにしてゐるんだよ」

と私は十字を印した。少年は祈が濟むまでおとなしくしてゐた。

「小父さん、今の鐘は何處で鳴らすの」「あれかい、天のお家で鳴らすのさ」

「天にもお家があるの」「あるとも、とても良い所で、綺麗なお國さ、良い人ばかりゆけるところさ。サブちやんも行きたいかい」

「うん何時ゆくの」

「死んでからさ」

「ぢや、つまんないなあ」

「つまんなくないさ、サブちやんは死んでから本當のサブちやんになれるんだよ。それに天のお家には、サブちやんのお父さんやお母さんもゐるんだよ」

「みんな天のお家知つてるの、正ちやんや牧ちやんは?」

「忘れてしまつたお馬鹿さん」

「あたい家に帰つたら天のお家のこと正ちやんや牧ちやんに知らせてあげよう」

 さういつて少年は暫く黙つてゐたが、小父さんと又言つた。

「天のお家はあの赤いところ?」

少年は眞赤に燃えた夕雲を指して見せた。そして私が肯くと、肩の上に立上がるやうにしてバンザーイと叫んだ。私も大きく胸を張つて「ラボニ」と叫んだ。

 

[iv]

落葉林にて

                                                                                                                        東條耿一

私はけふたそがれの落葉林を歩いた。粛條と雨が降ってゐた。

何か落し物でも探すやうに、私の心は虚ろであった。 何がかうも空しいのであらうか。
私は野良犬のやうに濡れて歩いた。幹々は雫に濡れて佇ち、落葉林の奥は深く暗かった。
とある窪地に、私は異様な物を見つけた。それは、頭と足とバラバラにされた、男の死體のやうであつた。私は思はず聲を立てるところであつた。
 よく見ると、身體の半ばは落葉に埋もり、頭と足だけが僅かに覗いてゐる。病みこけた
皺くちやの顔と、粗れはてた二つの足と……。その時、瞑じられてゐた眼が開かれ、

白い眼がチラツと私を見た。
「アッ、父!!」と私は思はず叫んだ
「親不幸者、到頭來たか……。」
と父は呻くやうに眩いた。許して下さい、許して下さい、と私は叫びながら、父の首に抱きついた。父の首は蝋のやうに冷たかった。
それにしても、どうして父がこんな所に居るのであらうか、胃癌はどうなのであらうか、
その後の消息を私は知らないのだ。
「胃癌はどうですか、どうして斯んな所に居るのですか、さあ、私の所へ行きませう。」
私は確かに癩院の中を歩いてゐたのに、はて、一體此處は何處なのか、私は不思議でな
らなかった。
「お前達の不幸が、わしをこんなに苦しめるのだ。」と父はまた咳くやうに云った。私は
はやぼうぼうと泣き乍ら父に取縋つて、その身體を起さうとした。しかし、父の身體は石
のやうに重かった。
「落葉が重いのだ、落葉が重いのだ。」
と父がまた力なく叫んだ。
「少しの内、待ってゐて下さい。今直ぐに取除けてあけますから……。」
 私はさう答へると、両手で落葉を掻きのけた。雨に濕つて、古い落葉は重かつた。

苔の馨りが私の鼻を掠めた。しかし、幾ら掻いても、後から後からと落葉が降り注いで、父の身體にはなかなかとどかない。私は次唐に疲れて來た。腕が痛くなり、息が切れた。私は悲しくなって、母を呼んだ、兄を呼んだ……。
どの位経つたのであらうか。
私は激しい疲勞のために、その揚に尻もちをついた。ぜいぜいと息か切れた。降り積る
落葉は見る見る父の顔も足も埋め盡して、からから佗しい音を立てた。
「噫、父よ、父よ……。」
日はとつぷりと暮れて、雨はさびさびと降つてゐた。
「親不孝者、親不孝者……。」
何處からか苦しげに呻く父の聲が、私の耳元に、風のやうに流れてゐた……。

(昭和16年 「山桜」三月号)

 

 

[v]  遺稿「訪問者」 第二編

               東條耿一

 

吾子よ、吾なり、扉を開けよ

汝を地に産みし者来たれるなり

吾、はるばると尋ね来るに

汝、如何なれば斯く門を閉じたる

吾子よとく開けよ

外は暗く、凩はいよよ募れり

 

噫父なりしか

父なりしか、宥せかし

おん身と知らば速やかに開きしものを

噫何とてわが心かくは盲ひ、かくは聾せり

わが父よ、しまし待たれよ

わが裡はあまりに乏しく

わが住居あまりに暗し

いとせめて、おん身を迎ふ灯とな点さむ

 

これ吾子よ、何とて騒ぐ

吾が来たれるは

汝をして悲しませむとにはあらで

喜ばさむ為なり

吾が来れば

乏しくは富み、そが糧は充たされるべし

吾久しく凩の門辺に佇ちて

汝を呼ぶことしきりなれば

吾が手足いたく冷えたり

 

噫わが父よ、畏れ多し

われおん身が、わが門を叩き

われを求むを知り得たり

されど、われ怯懦にして、おん身を疎み

斯くは固く門を閉したり

噫おん身を悲しませし事如何ばかりぞや

われ如何にしてお宥しを乞はむ

さはれ、われは伏して、裡に愧づなり

わが父よ、いざ来たりませ

 

吾子よ、畏るゝ勿れ

非を知りて悔ゆるに何とて愧づる

夫れ、人の子の父、いかでその子を憎まむ

吾今より汝が裡に住まむ

汝もまた吾が裡に住むべし

父よ、忝けなし

われ、何をもておん身に謝せむ

わが偽善なる書も、怯懦の椅子も

凡て炉に投げ入れむ

わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ

われ囚人めしうどにして、怯懦の子、蝮の裔

おん身を凩の寒きに追ひて

噫如何ばかり苦しませしや

 

最愛の子よ、吾が膝に来よ

而して、汝が幼き時の眠りを睡れ

そは吾が睡り甘美あまければなり

われおん身を離し去らしめじ

わが貧しきを見そなはして

わが裡に住み給へば

われもまたおん身の裡に生きむ

噫永久とこしへに、われ、おん身の裡に生きむ

父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ

父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ

 

 

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社会科学のための実在論ー第42回ホワイトヘッド学会パネル提題への応答

2020-11-29 | 哲学 Philosophy

 ホワイトヘッド学会パネル提題
Realism For Social Sciences への応答

創造的無と統合的経験の立場から

2020-11-28

田中 裕

 生成の「過程」から実現する「実在」を捉える方法、もしくは論理は如何なるものかーこれはホワイトヘッドの主著 Process and Reality の核心にある方法論的課題でもあった。彼のいう「思弁哲学」の概念の構図は、「絶対的観念論を転換して(経験という大地に根ざした)実在論的な基盤のうえに据えること」(PR xiii)をめざしていたので、具体的な経験から遊離した抽象的な論理を超える方法が要求されたからである。

 

 それは、プラトンの対話篇の精神に立ち返って、弁証法的な理性を再興することでもあり、彼の生きた20世紀の諸科学のおかれた状況のただなかで、「思弁哲学の理念」を掲げることでもあった。

 

 プラトンの対話篇の精神にもとづく「学問」とは―我々の主観的な先入主を超えている「実在」について、「それは何か」と、どこまでも「問い」続けることによって、共に探求する「他者」との対話を通じて、「事がら自体」から「学ぶ」ことであるということができよう。浦井氏の提示された「探求の論理」を、私は、このように理解し、それを今回のパネル討論の出発点にしたい。

 時間の制約があるので、ここでは浦井氏のとりあげた、「ヘーゲル的弁証法との関わりについて」コメントしたい。これについて浦井氏は次のように論じている。

 

ヘーゲルは大論理学において、その徹底したカント批判の中においては「どこまでも問う」こと、その「無限」の 問いの重要性を徹底しながらも、それが「無限」として主語的に語られねばならない宿命がある限り、ありとあらゆる名詞は、固定化され、主語となり、そして「具体性が取り違え」られる危険性と表裏一体に関わっている。そうした不要な(具体性の取り違えが顕著な)主語的名詞を、述語化、関係性化、プロセス化していくということの 必要性が、そこに常にあるのではないか。

 

 ホワイトヘッドの「思弁」(speculative)という言葉を、ヘーゲルの『エンチクロペディー』講義で展開された「論理的なるもの」第三段階の「思弁的」段階と対比する必要がある。ヘーゲルは次のように彼の哲学の方法論を素描している。(たとえば、『小論理学』第79節参照)

  • 抽象的あるいは悟性的な側面: 実定的科学の方法 -経験的実証の肯定
  • 弁証的あるいは否定的・理性的な側面: 実定的科学の批判-弁証論的否定
  • 思弁的あるいは肯定的・理性的な側面: (a)(b)両者をふまえた思弁哲学の統合論

 

私は、ホワイトヘッドは20世紀の科学の状況をふまえて、ヘーゲルのいう「思弁哲学」の理念を復興させた哲学者であると理解しているが、次の諸点を、さしあたって指摘しておきたい。

 

  • ヘーゲル哲学の方法を広義の「弁証法論理」とよび、客観的な弁証法的論理法則があるという考え方は、上記の「論理的なもの」の第二段階を不当に全体化したものであり、弁証法と言いながらも、論理法則をそのまま実在の法則とみなすという如き物象化的錯視である。

  • ホワイトヘッドの方法は、純粋な「有」を論理学の始原とする絶対的観念論の自己展開ではない。自然哲学の運動論と時間論、場所論から形而上学へと移行したアリストテレスと、同じく、統合的にして創造的な経験論の「構想力」による「記述的一般化」が彼の思弁哲学の方法である。

  • 「反対対立するものの統合 (coincidentia oppositorum)」は、矛盾律を否定する「無教養なもの(アリストテレス)」の主張ではない。矛盾律があるからこそ「統合」が要請されるのである。反対対立するものに遭遇することこそ、我々の経験の深さと充実度(intensity)を高める創造的な機会であり、それらを排除し抑圧することこそ、実定的な科学の衰退をもたらすものである。

 

次に、西田哲学の哲学的方法が、社会科学に対して持つ意味について浦井氏は次のように書かれている。

 

そのような問題を表面化するために、例えば西田は、ヘーゲル的「概念」ではなく、「場所」的な論理という言葉を用い、また「私」と「自覚」といったことを(主体性に基づく「働きかけ」の契機として)そこに取り入れ、いうなればヘーゲル的な客観性とも、また解釈学的な主観性に偏った嫌いからも距離を置いた、主客合一、多即一、 一即多、ということを包摂した視座を、導入したと考える。RFSSにおいても、「運動」という言葉、「真知」という言葉、「論理」、「方法」、鍵概念となる主語的名詞に向けては、そのような姿勢が貫かれてしかるべきである。

 

「ヘーゲル的な客観性とも、また解釈学的な主観性に偏った嫌いからも距離を置いた、主客合一、多即一、 一即多、ということを包摂した視座」の重要性は私も認めるが、そこでいう「即」の一語の中に内包された「ダイナミックな転換の論理」に着目したい。

 それは抽象的な「同一性」ではなく、矛盾的「自己同一」という動詞として理解すべきであろう。また、「真理」ではなく「真如」という言葉を使うときには、「理性」によってかえって隠蔽された実在を如実に経験するという意味が込められていると思う。

 西田のいう純粋経験、自覚における直観と反省、場所的論理、弁証法的世界の論理は、「宗教哲学の論理」としてきわめて独創的なものであり、私もそこから多くを学んだが、社会科学の論理としてそれを、納得のいく形でそれを展開することは、今後の共同研究の課題であろう。

次に、社会科学のための実在論に寄せて-経済学方法論についての実在論的覚書(葛城政明氏提題)への応答に移ろう。

 葛城氏の提題は経済学と実在 2. 経済学方法論 3. ヒュームの形而上学的因果性批判と経済学方法論には、現代の経済学者たちの実在に関する興味深いコメントが掲載されているが、時間の制約もあるので、ここでは、4.  バスカー、ローソンの批判5.  実在論から社会と経済の存在論について応答したい。

 

 バスカー初期の科学哲学は、ヒュームとカント、そしてそれに由来する実証主義、論理実証主義、反証主義の流れを、カントの「超越論的議論 (transcendental argument) 」に着想を得たレトリックによって批判し、近代科学の成功の内実を前提とすれば、ヒューム、カントが、そして、論理実証主義者が葬り去ろうとした古代以来の伝統的形而上学、存在論の再構築、再構成が可能であることを論じたものと私は見ている。

 

 ここで言及されているロイ・バスカーの「批判的実在論」ないし「超越論的実在論」の構想には、後期のホワイトヘッド哲学の主題のダイナミックな推移、すなわち科学哲学から形而上学および宗教哲学へという「統合体の哲学(the philosophy of organism)」の発展と並行関係があることに注目しつつ、ホワイトヘッドの議論と対比してみたい。

 

 葛城氏はヒュームの因果性に関する議論を要約した後で、バスカーの実在論を次のように要約している。

バスカーは、この印象-観念のある領域を、「経験領域 (empirical domain) 」と呼び、その中にあるものを「経験(experience)」と呼んだ。そしてさらに、心の外で生じている「事象 (event) 」と、それによって生じている「経験(experience)」のどちらもが、実現 (actualise)しているのであるから、これらをまとめて「実現領域 (actual domain)」と呼んだ。問題は、われわれの世界に存在するものはそれだけかということである。この世界に実現した経験と事象しか存在しないという立場をバスカーは、経験的実在論と呼び、それらは実現していることしか実在の資格を与えないので「アクチュアリズム (actualism)」と呼んで批判した。

 

バスカーによるreal とactual の区別を、彼がA Realist Theory of Scienceで提示した次の図表を手引きとして考察しよう。

Table 1.1

 

Domain of Real Domain of Actual  Domain of Empirical

Mechanisms         レ

Events           レ       レ         

Experiences        レ        レ         レ

 

 バスカーがメカニズム(機械論)で何を意味しているかは、この図表だけではよくわからないが、おそらく決定論的な数学的法則の実在性を意味するのであろう。

 ニュートン以来、物理学は類種的な「実体の実在性」ではなく、微分方程式のような数式で表現される「一般法則の実在性」を前提して、実験室で観測測定される可変的な様々な現象を統一的に説明してきた。近代経済学が「精密科学」としてのニュートン物理学を理想的なモデルとしたとしても、様々な意味で「複雑」な経済現象の決定論的な予測は困難であり、せいぜい確率的なモデルによる蓋然的な結論以上のものは望みえないということは、門外漢の私でも理解できる事柄である。 

それにしてもバスカーの「機械論(メカニズム)」という言葉の用語法が、量子現象の根本的な非決定性や、古典力学の積分不可能性の証明、プリゴジンの複雑系に関する議論などが知られている現代科学の状況を踏まえると、いささか奇異なものに見えるのは私だけだろうか。

  ホワイトヘッドの統合体の哲学では、バスカーとは異なる仕方で、Real,actual,empiricalの区別をしていることに注意したい。

 まずホワイトヘッドの「統合体の哲学」でも、reality(実在性) は、actual(現実的) なものに関連付けられた potential (潜在的)なものにも認められているので、reality の領域は、actuality の領域よりも広大である。しかし、このようなreal potentiality の領域は、決して決定論的な法則のもつrealityではない。量子論的事象の持つ「存在確率」のもつ実在性について、かつて物理学者のD ・ボームは、量子力学は実は「力学」ではなく、「量子非力学(quantum non-mechanics)」と呼ぶべきだと主張したが、ホワイトヘッドの「統合体の哲学」でいうところの「現実的生起を可能ならしめる実在的なるもの」は、決して決定論的な力学モデルが適用されるようなものではなく、様々なレベルで整序された潜在的な諸可能性の持つ実在性である。

 さらに empirical(経験的) という言葉は、「経験する主体を離れては、いかなるものも存在しない」という「根源的な経験論(radical empiricism)」、ないし「汎経験主義(pan-experientialism)」の意味で使用されている。つまり、ありとあらゆる対象(objects)は、今ここで、自己創造的な主体によって経験(肯定的あるいは否定的に把握prehend)されているのであって、そのような主体的経験を欠いた現実性は、「空虚な現実性(vacuous actuality)」であるというのが「統合体の哲学」の立場である。私にとっては、こちらの方が、経験を超える現実とか、現実を超えるメカニズムの実在性を主張する(科学哲学時代の)バスカーの議論よりも現実的な議論であると言わざるを得ない。

 

付録:「統合体の哲学」からみた確率論の覚書
-歴史的に形成された社会と確率判断を下す主体との相互関係にもとづく確率論のために

 

参考資料-1 ホワイトヘッドとケインズとの関係について

 

ケインズの「哲学」を主題化した日本の文献として、伊藤邦武著『ケインズの哲学』(岩波書店 1999)があるが、ケインズとケンブリッジの哲学者との関係に関しては、ムーア、ラッセル、ウイトゲンシュタイン及びラムジーとの交流に焦点が当てられており、ホワイトヘッドについては言及が少ない。

ただし、ケインズが1907年にキングズ・カレッジのフェローに申請するために提出した論文(1921年に出版された『確率論』の原型と言われている)に対して審査官をつとめたホワイトヘッドの以下のコメントは引用されている。

 

「これはきわめて大規模な研究であり、非常に多様な著作を徹底的に読解することで生まれた成果である。ここでは多様な視点が比較され批判されている。その読解において、筆者の精神は一貫して活動的である。…確率をめぐるいくつかの対立する見方の提示や、その提示に並行して展開されている批判的な議論は、卓越したものである思われる。しかし、この新鮮な知識が、主題の哲学に適用されている部分については、私はそれが混乱していて、かなり凡庸なものであると考える。私の判断はおそらく、彼の反対意見にみかかわらず、私自身がヴェンらによって代表される[頻度説の]学派を支持していることから偏っているのだろう。この学派の中心的な主張にたいする彼の批判はおざなりであり、・・・・彼はそれをもっとも説得力のない、独断的な仕方で退けている。また、ラッセルの『数学の原理』に対する彼の関係もきわめて不十分である。一見したところ筆者はその理論を全面的に受け入れている。しかし同時に、彼はこの本の論理的な基盤全体をつぶしてしまう(ように私には思われる)「推論」の理論を主張している。私は思うには、彼はその推論をラッセルの「含意」にきちんと関係づけるか(それは可能なはずである)、それとも、この本の論理的主張にはっきりとした批判的態度をとるかの、どちらかであるべきであった。[1]

 

資料-2:『過程と実在』(Process and Reality以下PRと略記)の「命題論」でホワイトヘッドの確率に対する考え方が示されている。ホワイトヘッドの「命題論」は、アリストテレスの「命題論」とおなじく、時間的様相を配慮した解釈学的命題論であって、時間を捨象した真偽二値の単なる論理計算ではない。つまり、時間の中で生をいとなみ、ある特定の環境社会の中で生きている判断主体の下す蓋然的判断の根拠が問題となっている。

 

以下はPR204からの引用である。

形而上学的な問いを立てよう。帰納的推論ないし一般的な真理判断が、 意味をもって 「正しい」 とか 「正しくない」 とか言われ得るような何かが、諸事物の本性のなかに在るのか?

すべての蓋然的判断が関わっていなければならない究極的な 「根拠」 は、判断する主体において客体化されたものとしての現実世界そのもの以外にはあり得ない、 ということは明らかである。 判断する主体は、 つねにそれ自身の所与に対して判断を下している。 したがってもし統計理論が効力をもつべきだとすれば、 判断する主体とその所与との間の関係は、 その理論が陥りやすい諸困難を避けるようになっていなければならない。

現実的存在は、 どれもその本性上、 本質的に社会的である、 しかもこれは二つの仕方においてである。 第一に、 それ自身の性格の輪廓は、 その環境がその感受の過程のために提供する所与によって決定される。 第二に、 これらの所与は、 その存在に外来的なものではない。それらは、 その存在に内在する宇宙の表示を構成している。 したがって主体が判断を下す所与は、 それ自身、 判断する主体の性格を条件づけている構成要素なのである。 そこで、 経験する主体の性格に関する一般的前提は、 その主体にとっての表示を提供する社会的環境に関する一般的前提を伴っている。 換言すれば、 或る種の主体は、 その具現の予備の相としての或る種の所与を必要とする、 ということである。 しかしそのような所与は、客体化によってもたらされる抽象の下での、 社会的環境以外の何ものでもない。 またこの抽象の性格それ自身が、 その環境に左右される。 仮定されている判断主体に必要とされる種類の所与は、 或る社会的性格の環境を前提している。

 

前の節では、 確率に対する秘かな訴えがなされていたのである。 この節の目的は、 このように呼び出された確率が、 いかに統計的理論によって解明され得るか、 を説明することである。 最初に、 この確率への訴えがどこで帰納の概念の中へ入ってくるのか、 を正確に書きとめなければならない。 帰納的推論は、 つねに一つの仮説を含んでいる。 すなわち考察された主題である環境が、 現在の社会に類似する現実的生起の社会を含んでいるという仮説である。 しかし類似の社会は、 それらそれぞれの生起にとっての類似の所与を必要とする。 そして類似の所与は、 類似の環境によって与えられる客体化によってだけ供給される。 しかし自然の諸法則は環境を統御している社会の性格から導き出される。 したがって当の環境を統御している自然の諸法則は、 隣接した環境を統御している自然の諸法則と或る類似をもっているのである。

 

さて、 「類似」 の概念と 「統御」 の概念とは、 両方とも不確実さの余地を残している。 われわれは、 「どれだけ類似しているか?」、また 「どれだけ統御しているか?」 と問い得るのである。 もし精確な類似や完全な統御があるとすれば、 そこには、 一般的諸条件に関する確実さと特殊な細部に関する完全な無知との混合があることになるだろう。 しかしこうした記述は、 われわれの直接の現在についての、 或いは過去についての知識にも、 未来についての帰納的知識にも、 当てはまらない。 われわれの意識的経験は、 確実さ、 無知、 蓋然性のとらえどころのない混合物を含んでいる。

さて、 宇宙時期(cosmic epoch)の理論は、 現実的存在の諸社会の統御によって、 確率の統計的説明にとっての基盤を提供していることは明らかである。 どの一つの時期にも、 或る秩序づけられた相互に連結した特定の一組の支配的な諸社会が存在する。

またいずれかの社会に属するものとしては分類され得ない混沌とした諸生起の混合状態がある。 しかしいずれかの宇宙時期の巨大な広がりを考慮するならば、われわれは、実際に無限を扱っていることになるのであり、したがって或る標本抽出の方法が必要とされるが、 それはその事例の本質に根ざしているのであって、 勝手に採用される方法ではない。

この標本抽出の自然な方法は、 どれか一つの現実的生起の始原的相を形成する所与によって提供される。 各々の現実的生起は、他の現実的生起を自分の環境において客体化している。 この環境は、 宇宙時期の関連ある部分に制限され得る。 それは、 現実的な諸生起間の個々の相違に関してふさわしい重要性が問題になっている限り、 延長的連続体の有限の領域である。 また、 個々の相違の重要性に関して、 この領域内のそれぞれ関連ある生起の広がりには、 より低い限界があると仮定してもよいであろう。 これら二つのことを仮定すると、 任意の一つの生起にとって関連ある所与を形成する関連ある客体化は、 環境における現実的生起の有限な標本描出に関係している、 ということになる。 したがって外界についての、またその法則が基づく条件についての、われわれの認識は、徹頭徹尾、確率の統計的理論が要求する数的性格のものである。 そのような理論は、厳密な統計的計算がなされることを必要としていない。 この理論が意味しているのは、 せいぜい、 われわれの蓋然性の判断が究極的には数的な意味での 「より多いか、 それともより少ないか」 という漠然とした見積りから導き出され得る、 ということである。 われわれは、 事物がどのように生起するかという仕方の統計的基礎について、 不精確な直観をもっているのである。

 

[1] ホワイトヘッドは、12年前の1895年にラッセルのフェロー資格論文の審査官をつとめたが、審査の席では非常に厳しい批判をする教師であったようだ。幾何学の基礎にかんする哲学的問題をほとんど解決したと自負していた当時のラッセルの資格申請論文に対して、ホワイトヘッドの評価は非常に厳しく、ラッセルは不合格を覚悟したが、あとで合格通知をうけたので、驚いてその理由を聞くと、ホワイトヘッドは「これがラッセルの研究論文をまじめに批評する最後の機会となるだろうと考えた」と答えたとのこと。(ラッセル『自叙伝Ⅰ』より)。

PRの命題論の注解においてホワイトヘッドはケインズの『確率論』を次のように評価している。

 確率の哲学理論についての群を抜いた最高の議論は、 J ・メイナード ・ ケインズ氏の 『確率論』 に見出される。 この著作は、この主題に関する標準的労作として永く残るにちがいない。 本章での私の結論は、 ケインズ氏が彼の著書の第二十一章の末尾に向けて立てた結論と、 根本的に異なっているとは思われない。
しかしケインズ氏はそこでは私が示唆したように、 彼が第八章で厳しく (そしてその特殊な形態に関する限り、 正しく) 批判した 「頻度理論」 の形態に酷似した確率の見方に逆戻りしているように思われる。

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詩篇150に聴くー復活祭のアレルヤ唱

2020-11-17 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
旧約聖書「詩篇」の最後に置かれた150番は、ヘブライ語のハレルヤで始まりますが、キリスト教の典礼では、この詩篇は復活祭の時に必ず歌われます。「宇宙の大栄唱」とも呼ばれるこの詩篇を、ヨッピヒ指揮、「聖グレゴリオの家」の合唱隊の聖歌で聴きましょう。

 

復活祭のグレゴリオ聖歌 アレルヤ(Alleluja) 詩編150番

復活祭のグレゴリオ聖歌から、アレルヤ 詩編150番です。 演奏は 聖グレゴリオの家聖歌隊 指揮は ゴーデハルト ヨッピヒ 聖グレゴ...

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Alleluja. ハレルヤ
 
1 Laudate Dominum in sanctis ejus; 聖所で 主を賛美せよ
laudate eum in firmamento virtutis ejus. 大空の砦で 主を賛美せよ
2 Laudate eum in virtutibus ejus; 力強き御業のゆえに 主を賛美せよ
laudate eum secundum multitudinem magnitudinis ejus. 大きな御力のゆえに 主を賛美せよ
3 Laudate eum in sono tubæ; 角笛を吹いて 主を賛美せよ
laudate eum in psalterio et cithara. 琴と竪琴を奏でて 主を賛美せよ
4 Laudate eum in tympano et choro; 太鼓に合わせて踊りながら 主を賛美せよ
laudate eum in chordis et organo. 弦をかき鳴らし笛を吹いて 主を賛美せよ
5 Laudate eum in cymbalis benesonantibus; シンバルを鳴らし 主を賛美せよ
laudate eum in cymbalis jubilationis. シンバルを響かせて 主を賛美せよ
6 Omnis spiritus laudet Dominum! 霊に息吹かれたものが、こぞって主を賛美する!
 
 教父アウグスチヌスの詩編注解によると、第一節の 'in sanctis eius' 「主の聖なる場所」は、地上の「聖所」ではなく、「主キリストに倣って聖とされた人」を指します。エルサレムの第二神殿のように、どれほど豪壮な建造物といえども、人の手で作られたものは滅びを免れません。しかし、キリストという「聖なる場所」において生きる人は、主の死と復活にあずかり、全ての被造物と共に「ハレルヤ」を復活祭で歌うことができます。
 この讃歌は、天と地の全ての被造物とともに歌うので「宇宙讃歌」とも呼ばれます。第三節にあるように「角笛の音」が明瞭に響き渡ると、主を賛美する歌が交響唱和します。ここで登場する弦楽器、管楽器、打楽器は、地上の演奏に呼応して天上からも響きわたり、その交響は、朽ちるべき地上の肉体が、もはや朽ちることのない身体に換えられることを示し、詩編を唱える人を祝福している、というのがキリスト教の復活祭の典礼でこの詩篇が歌われる理由になっています。
 
 日本の『典礼聖歌』では、14番と15番が詩篇150からの抜粋です。
(典礼聖歌編集部作詞、髙田三郎作曲によるものを引用します)
 
答唱:アレルヤ アーレルヤー アレールーヤ
 
14−1 聖所にいます かみをたたえよ 大空にいます力あるかみをたたえよ
そのわざは不思議  かみをたたえよ その栄光は偉大 かみをたたえよ
14−2 角笛を吹いて   かみをたたえよ 琴とたて琴を奏でて かみをたたえよ
鼓と舞をあわせて かみをたたえよ 弦をかなで笛を吹いて かみをたたえよ
15-1 聖所に立って 主をほめよ
その力を表す 大空のもと 主をほめよ
15-2 力ある みわざに向かい 主をほめよ
大空にいます 力ある  主をほめよ
15-3 角笛を 吹き鳴らしつつ 主をほめよ
たて琴の響きにあわせて 主をほめよ
15-4 楽器と コーラスで 主をほめよ
息あるものはみな 主をほめよ
 
詠唱:栄光は ちちと こと せいれいに 
初めのように 今も いつも 世々に アーメン
 
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詩編に聴くー 詩編51:懺悔/賛美の歌から「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん」

2020-11-14 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

 詩編51(ダビデ王の懺悔/賛美)が、エルサレム第二神殿でどのように伴奏付きの合唱隊によって歌われていたのかはよく分からないが、現代のユダヤ教徒が、この詩に曲を付けてヘブライ語で朗詠する事例はたくさんある。そのなかでも私が特に心動かされたのは、Christene Jackmanの作曲した「Choneni Elohim(主よ、我をあはれみたまへ)」である。歌詞はヘブライ語聖書の詩編51から抜粋されたものに、現代風な伴奏が付けられているが、ラテン語詩編のmiserere mei Deus にあたるChoneni Elohimのリフレインが非常に印象的であった。詩編は、ヘブライ語では「賛美」を意味するTehillim とよばれるので、どのような深刻な嘆きや悩み、病めるものの苦しみが歌われていても、また、時には教訓や処世の知恵を主題とする場合でも、基本的に「賛美の詩編」なのであり、単にユダヤ教徒だけのものでなく、キリスト教が、ユダヤ教から受け継いだ聖書の啓示を集約的に含むものであると同時に、あらゆる宗教と宗派の区別を越えて、全ての人の宗教心に直接に響く音楽であるといってよいだろう。

 

Choneni Elohim, from Psalm 51 (Be Gracious to me O G-d)

www.ShuvStore.com Choneni Elohim (Be Gracious to Me, O G-d), From Psal...

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講演録画「細川ガラシャの時代の典礼聖歌1-3」のなかで、私はレオポルド一世作曲の詩編51の解説をしたが、それは器楽による伴奏付きの典礼聖歌のなかで最もよくもとの詩の内容を良く捉えた曲であると思ったからである。悲嘆の底から、懺悔を通じて主の賛美へと大きく転換するヘブライ詩編のダイナミックな心の動きをどのように音楽で表現するか、レオポルド一世はその課題を一つの作品としてみごとに結実させている。たとえば、教会の朝の祈りで唱えられる「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん(domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam)」の詩句は、まさにそのような深き淵に沈んだ詩人の心底からの叫びが聞き届けられ、懺悔が賛美へと転ずる臨界点で歌われる詩である。作曲者のレオポルド一世は、この一行の詩句を何度も繰り返しつつ様々な声部でうたわせるが、深き淵の底から天上に叫ぶコロラツーラ・ソプラノの表現は音楽的な美しさを越えて、聴く者の魂をゆさぶるような旋律である。

 

(音楽付)細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1- 3

ーダビデ王の懺悔ー Domine, labia mea aperies 22:15 Gloria Patri 35:10 ...

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 バロック時代のイタリアが生んだ詩編51の典礼音楽としては、アカペラで歌われるアレグリ作のミゼレーレもよく知られている。1630年代に作曲されたこの作品が、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂だけで聴くことをゆるされた「秘曲」であったが、それを少年モーツアルトが二度聴いただけで写譜したというエピソードはあまりにも有名である。

 この曲の特徴は、答唱の部分も先唱の部分も、すべてラテン語訳詩編の言葉を用いているところであろう。曲の旋律は同一であることによって答唱であることを示されているが、歌詞はそれぞれ異なっていて、すべて詩編のラテン語訳からとられているのである。そして天才モーツアルト以外の人間には譜面化不可能だと思われる答唱部分は9声部をもつ複雑な構造をしているが、ここでも、レオポルド一世のmiserere mei と同じように、ソプラノの天上世界へと突き抜けるような高い声部が印象的である。

 

Miserere Mei Deus

This piece is Psalm 51, but first set to music by Allegri around 1630....

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日本では、カトリックの典礼聖歌6,7番「あなたのいぶきをうけて」が詩編51(の抜粋)への答唱である。

答唱の言葉「あなたのいぶき」は、聖書的文脈では「聖霊」を意味し、神の御前に原罪を認めて告白した人(詩人としてのダビデ王)が「聖霊に息吹かれ」て、新しい人として、再び創造されることを意味している。

答唱:あなたの いぶきを うけて わたしは あたらしくなる

6-1 神よ いつくしみ深く わたしをみ 豊かなあわれみによって 私のとがを るしてくださ
         罪に染まった わたしを 洗い 罪深い わたしを めてくださ
6-2   わたしは 自分のあやまちを め、 罪はわたしの目の前に る。
        あなたが わたしを さばかれる き、 そのさばきは いつも しい。
6-3  わたしは生まれた日から悪に み   母の胎に宿ったときから罪に れていた
  あなたは まごころを び  心の深みに知恵を けられる
6-4  ヒソプで水を り注ぎ わたしの罪を りさって
  わたしを洗い めてくださ  雪より白く るように
6-5  わたしに喜びと楽しみの声を し うち砕かれたわたしを また びで満たしてくださ
   わたしの罪を つめず 犯した悪をすべて ぐいさってくださ

7-1  神よ わたしのうちに い心を造り あなたの いぶきでわたしを強め らたにしてくださ
  わたしを あなたのもとから 退けず 聖なるいぶきを わたしから り去らないでくださ
7-2  救の喜びをわたしに し あなたのいぶきを送って 喜び仕える心を さえてくださ
  わたしは あなたへの道を えよう 罪人があなたのもとに るように
7-3  あなたは いけにえを まれず はんさいを ささげても ばれない
  神よ わたしのささげものは 打ちくだかれた ころ あなたは悔い改める心を 捨てられない。
7-4  み旨のままにシオンを恵みで し エルサレムの城壁を たにしてくださ
  その時あなたは 正しいささげものを皆 ばれ わたしは あなたの祭壇で えるようになる

日本語でこの詩編を朗詠するときの注意は、典礼聖歌集の終わりの部分に掲載されているが、それによると

歌詞でゴシックで書かれたところは、行の途中の音の変わり目を示し(下の高田三郎作曲の譜面参照)
変わる前にすこし速度をおとして、丁寧に歌うこと、「ま」「さ」「メ」の歌詞表記は、
大文字をいくらかのばして、小文字を軽く付けるように歌うこと、などの指示がある。

 

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詩編118に聴くー家造りの捨てた石が隅の親石となった

2020-11-12 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

詩編118は、新約聖書のなかで繰り返し引用され、最初にイエスをキリスト(救世主)と宣言した信徒の心を如実に伝えてくれる詩である。
 まず、マタイ21-9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118-26)」が引照され、おなじくマタイ21-49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118-22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4-11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。その言葉の意味は、ペテロ書前書2-7の「人々からは見捨てられたキリストが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのだから、あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい」というペテロ自身の言葉に示されている。

 この詩にはまた「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、人間がわたしに何をなしえよう」「人間にたよらず、主をさけどころとしよう。君侯にたよらず、主をさけどころとしよう」のように、主にたいして一人称で語る「わたし」が、一切の地上の権威を恐れずに主に拠り頼む心意気も示されている。

「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の「自由なる奉仕活動」を見いだしたマルチン・ルターが、この詩編を愛唱したことはよく知られているが、プロテスタントではないわたしもまた、この詩編の言葉に鼓舞される。それは、もっとも個人的にしてもっとも普遍的なキリスト信仰のありかたを旧約聖書の中で預言した詩編のひとつだと思うからである。

詩編118はカトリックの典礼聖歌87番で(抜粋して)うたわれている。歌詞は次の通り。

答唱:きょうこそ神が造られた日 よろこび歌えこの日を共に

1 恵み深い主に感謝せよ そのあわれみは永遠   イスラエルよ叫べ 神のいつくしみはたえることがない。

2 神の右の手は高くあがり どの右の手は力を示す わたしは死なずわたしは生きる かみのわざを告げるために

3 家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと

  この歌詞の答唱(繰り返し歌われる箇所)の「きょうこそ神が造られた日」とは、復活の主日、あるいは復活祭の第二主日(白衣の主日)を指している。

復活祭の時に受洗したひとが白衣を着けた故事にならって「白衣の主日」と呼ぶのであるが、女性の場合は白いベールを付けるという習慣もここに由来するのであろう。

そのこころは、洗礼を受けた人は「新しい人として、キリストを着るものとなった」こと、「神の国の完成を待ち望みながらキリストに倣って歩む人」を力づけ祝福するためである。

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高田三郎作曲のこの典礼聖歌はYoutubeで聴けます。

きょうこそ神が造られた日

作曲/高田 三郎 演奏:中央大学混声合唱こだま会 指揮:森永 淳一 2015年12月22日 府中の森芸術劇場ウィーンホール 第48回定期...

youtube#video

 

旧約聖書の時代にこの詩編がどのように歌われたかはよく分かりませんが、ヘブライ語で朗唱された詩編がどんなものであったかをある程度窺わせる朗詠がYoutubeにあります。とくに、「ほむべきかな主の名によりて来る者」とか「家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと」という詩をヘブライ語の原語で聴くことができました。

 現代的な伴奏が付けられているにもかかわらず、受難と亡国の危機に抗して信仰を守り抜いたユダヤ教徒の心の歌が、現代に至るまで脈々と受け継がれていると感じました。

 

Psalm 118 sung in Hebrew - א֭וֹדְךָ - תְּהִלִּים קיח [NEW HALLEL TUNE]

Enjoy this new Hallel tune for Odekha (א֭וֹדְךָ כִּ֣י עֲנִיתָ֑נִי), Ps...

youtube#video

 

 

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詩編148とアッシジのフランシスの祈りーラウダート・シに寄せて

2020-11-08 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 
 フランシス教皇の回覧書簡「ラウダート・シ(御身は頌えられよ)ー共に暮らす家を大切に」の冒頭で引用されたアッシジのフランシスの賛歌は、宗教と宗派の区別を越えて人々の宗教心に訴えかけてきた歌である。小鳥にむかってキリストの教えを説くフランシスの画像はインドでも日本でも人気があった。 彼が、囀る小鳥達に向かって「小さい姉妹達よ、もしあなたたちがおしゃべりしたいことが終わりましたら、今度は私の方が話を聞いて頂く時なのです」と話しかけると、小鳥たちは静かに説教に耳を傾けた、というエピソードも伝承されている。そこには、共に大地に住む生きとしいけるもののすべてを祝福する福音伝道者フランシスの精神が良く現れている。このような精神が、自然環境破壊の危機に直面した現代の我々にとっても必要であることは、ヨハネ・パウロ二世が、アッシジのフランシスを「環境保護の聖人」と頌えたことにも良く現れている。 
 しかし、この「太陽賛歌」は、フランシスが晩年、重い病に苦しみ、ほとんど盲目の状態にあって、肉体の死の予感のなかで口述した歌であったことを知る人は少ないのではないだろうか。
 まず、この「賛歌」をまず原語(イタリア語ウンブリア方言)で、次にイタリア文学者の黒田正利(1890-1973)の日本語訳で聴いてみよう。
 

Original text in Umbrian dialect:               邦訳(黒田正利による)            

Altissimu, omnipotente bon Signore,       いとも高く、万能にして、恵み深き主よ
Tue so le laude, la gloria e l'honore et onne benedictione. 

                   賛美、栄光、ほまれ、すべての恵みは主のものなれ       
Ad Te solo, Altissimo, se konfano,  いと高き主よ、こはみな主のものにして、

et nullu homo ène dignu te mentouare.     人はそのみ名を呼ぶにも足らず

Laudato si, mi Signore cum tucte le Tue creature,

                   ほむべきかな、主よ、主のつくりませる物みなと、
spetialmente messor lo frate Sole,     ことに昼を与へわれらを照り輝かす
lo qual è iorno, et allumini noi per lui.  はらから太陽と。
Et ellu è bellu e radiante cum grande splendore: 日は美しく眩しきまでに照り渡る、
de Te, Altissimo, porta significatione.  かれこそは主の御姿、ああ高きにいます主よ

Laudato si, mi Signore, per sora Luna e le stelle: 

                 ほむべきかな、わが主よ、わがはらから月は星は、
in celu l'ài formate clarite et pretiose et belle.主はこれをみ空に作りたまひ、すみて貴く美はし

Laudato si, mi Signore, per frate Uento. ほむべきかな、わが主よ、風は、
et per aere et nubilo et sereno et onne tempo,   

                  大気は、雲は、曇りてはまた晴るる日和(ひより)は
per lo quale, a le Tue creature dài sustentamento. 

                   これによりて主はその造りまししものを育みたまふ

Laudato si, mi Signore, per sor'Acqua, ほむべきかな、わが主よ、やさしきはらから水は
la quale è multo utile et humile et pretiosa et casta. いと役立ちて、低きにつき貴く清らなり

Laudato si, mi Signore, per frate Focu, ほむべきかな、わが主よ、はらから火は
per lo quale ennallumini la nocte:     夜のくらきを照らし   
ed ello è bello et iucundo et robustoso et forte. 美はし、たのし、たけくつよし 

Laudato si, mi Signore, per sora nostra matre Terra,

                    ほむべきかな、わが主よ、はらから母なる大地は       
la quale ne sustenta et gouerna,    われらを育みわれらを治め、
et produce diuersi fructi con coloriti fior et herba. 木の実を結び、花を装ひ、草をはぐくむ 

Laudato si, mi Signore, per quelli ke perdonano per lo Tuo amore  

                   ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し
et sostengono infirmitate et tribulatione.  病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは

Beati quelli ke 'l sosterranno in pace,   めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに
ka da Te, Altissimo, sirano incoronati.   いと高き主よ、主の冠はかれにあらん

Laudato si mi Signore, per sora nostra Morte corporale,  

                     ああほむべきかな わが主よ、はらから死は、

da la quale nullu homo uiuente pò skappare:  誰か死をのがれん いけるもの皆は。
guai a quelli ke morrano ne le peccata mortali; いたはしきかな罪の死に滅ぶ者は      
beati quelli ke trouarà ne le Tue sanctissime uoluntati, 

                            されどほむべきかな 主の聖意にすむ者は
ka la morte secunda no 'l farrà male.    第二の死の害ふことはあらじ

Laudate et benedicete mi Signore et rengratiate  主を頌めたたへ、主に感謝せよ
e seruiteli cum grande humilitate.         いとへりくだりて主に仕えよ  

 

 私は12世紀のイタリアの方言で書かれたこの「歌」の原語を正しく読めるという自信はないが、それでもアッシジの太陽の光のような清澄な音調を感じ取ることはできる。黒田氏の邦訳は、やや古めかしいが、もとの歌の醸し出す雰囲気を、可能な限り典雅な大和言葉で簡潔に再現しているような気がするのである。

 しかし、この明るい響きで歌われる歌詞の終わりの四連の内容は、作者のフランシスがまさに重病で床につき、目もほとんど見えなくなった時期のものであることを如実に示している。

 この詩の前半部分が、旧約聖書詩編148を踏まえていることは良く指摘されている。天と地、太陽と月と星など、創造されたすべてのものを通して主を賛美する「ハレルヤ」の歌は、旧訳の民の典礼の祈りであり、フランシスコの時代にも、とくに、夜明けの頃の祈りとして歌われていたであろう。現代の新共同訳聖書では、次のように訳されている詩編である。

ハレルヤ。天において主を賛美せよ。
高い天で主を賛美せよ。
御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。
主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
天の天よ 天の上にある水よ主を賛美せよ。 主の御名を賛美せよ。
主は命じられ、すべてのものは創造された。
主はそれらを世々限りなく立て越ええない掟を与えられた。
地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ 地上の王よ、諸国の民よ
君主よ、地上の支配者よ 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。

主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。 
主は御自分の民の角を高く上げてくださる。
それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。
主に近くある民、イスラエルの子らよ。

ハレルヤ。 

 詩編148は中世以来良く歌われていた賛歌であったが、アッシジのフランシスのLaudato Si には、全被造物に創造主の賛歌を呼びかけているに留まらない。
 まず彼は、被造されたものたちを、すべて人格化して「兄弟姉妹」と呼びかけている。そして、「ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し、病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは」「めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに、いと高き主よ、主の冠はかれにあらん」というキリスト者の受難と忍耐の歌を付け加えていることであろう。

 伝承に拠れば、眼病で目の見えなくなったフランシスに手術のために灼熱した鉄の棒をあてる必要が生じたときに、彼は、十字を切って、「兄弟なる火よ、自分は汝を神の最も美しい被造物としてこよなく愛した。どうかあまり自分を痛めつけないで欲しい」と云ったという。そして、最後には最もおそるべき肉体の「死」にむかっても「はらから」と呼びかけている。 

グレゴリオ聖歌で歌われる詩編のラテン語訳も併記しておこう。幸い、中世の頃を偲ばせる歌唱がYoutubeに掲載されている。

 

Laudate dominum de caelis (Psalm 148) - Medieval chant

"North of the Alps and even on the Iberian Peninsula, a curious ceremo...

youtube#video

 
 

Alleluja.                                                                      
1 Laudate Dominum de cælis;  laudate eum in excelsis.  
2 Laudate eum, omnes angeli ejus;  laudate eum, omnes virtutes ejus.   

Laudate eum, sol et luna;    laudate eum, omnes stellæ et lumen.   
4  Laudate eum, cæli cælorum; et aquæ omnes quæ super cælos sunt, 

5  lauudent nomen Domini.   Quia ipse dixit, et facta sunt;    ipse mandavit, et creata sunt.
6  Statuit ea in æternum, et in sæculum sæculi;

   præceptum posuit, et non præteribit. 
7  Laudate Dominum de terra,  dracones et omnes abyssi;
8  ignis, grando, nix, glacies, spiritus procellarum,    quæ faciunt verbum ejus;
9  montes, et omnes colles;   ligna fructifera, et omnes cedri;
10 bestiæ, et universa pecora;  serpentes, et volucres pennatæ;
11 reges terræ et omnes populi;    principes et omnes judices terræ;
12 juvenes et virgines; senes cum junioribus,   laudent nomen Domini:
13 quia exaltatum est nomen ejus solius.
14 Confessio ejus super cælum et terram;    et exaltavit cornu populi sui.
    Hymnus omnibus sanctis ejus;    filiis Israël, populo appropinquanti sibi.   Alleluja.

 

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詩編に聴くー「聖書と典礼」の研究

2020-11-07 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
けふよりは詩編百五十 日に一篇読みつつゆけば 平和来なむか (南原繁ー『形相』所収)
 
 75年前に南原繁の読んだこの短歌は、敗戦後の日本が、いかなる国をめざすべきか、その「理想(イデア=形相)」を聖書の詩編にもとめたものである。彼のひそみに倣って、これから、断続的にではあるが、『詩編に聴く』というテーマで「聖書と典礼」の研究を続けたい。
 これは内村鑑三の『聖書の研究』を一つの手本としつつも、内村やその門弟達があまり問題としなかった典礼(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教)のなかの聖書という視点をあらたに付け加えたい。私は、カトリック教会の伝統から深く学んだものでもあるので、単なる無教会運動の立場は取らないが、「無」に徹底した信仰は、 既成教会を否定せずにこれを完成に導くこと、そのいみでの「普遍の教会」となると考えるからである。
  詩編がどのようなかたちで、ユダヤ教やキリスト教の典礼のなかで読み続けられてきたかを重視する。典礼聖歌、とくに原始キリスト教の典礼を直接に受け継いだ東方教会、その修道院の霊性と典礼に於いて詩編の詠唱が持っていた意味を知るためには、ヘブライ語で書かれたテキストだけでなく、70人訳ギリシャ語詩編にみられる詩編解釈も重要である。また、東方キリスト教の霊性を西方教会で受け継いだベネディクト修道会にはじまるミサの伝統の中で次第に発達したグレゴリオ聖歌と多声的な典礼音楽の統合の歴史をたどることも課題の一つである。
  過去に遡ってユダヤ教の伝統を刷新したキリスト教の典礼の歴史をたどるだけでなく、詩編の霊性を現代人の日常生活の中で生きるかという将来に向けた眼差しも必要である。世俗を離脱した隠遁者としてではなく、在俗者として詩編を読み、詩編に聴く修道をめざしたい。
 
内村鑑三は、嘗て、フィリピの信徒への手紙4:8 を引用した後で、諸宗教の伝統に敬意を表して次のように言っている。
  「キリスト教徒は、すべての人や物事のうちに真理を探り出さずにはいられないのだから。他の宗教に欠点を見いだして喜ぶキリスト教の代表者達は実に哀れな人たちである。キリスト教徒というものは、仏教であれ、儒教であれ、道教であれ、何であれ、そこに良いものを見いだしたなら喜ぶはずだ。彼の目は光を見いだすことには鋭敏であるが、闇を見ることには消極的なのだから。このようにキリスト教は、その真価を発揮するときには、世界のうちに最良のものを発見する力となる」
  私自身のキリスト教の見方もこれと基本的に同じである。そしてさらにつけくわえることがあるとすれば、これは諸宗教の良いとこ取りという意味での折衷主義ではなく、内村がそうであったように、既成の諸宗教や諸文化が陥りやすい偶像崇拝の批判という預言者の精神を忘れぬ事が肝要であろう。
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詩編に聴く-ヴィヴァルディのモテット『主がその愛するものに眠りを与へ給し時』について

2020-11-06 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
詩編に聴くー「主がその愛する者に眠りを与へ給ひし時に」(共同訳127・Vulgata典礼訳126) 
ヴィヴァルディ作曲 モテット Nisi Dominus (主いまさねば)から 
 
-----主がその愛する者に眠りを与へ給ひし時---
Cum dederit dilectis suis somnum,
主がその愛する者に眠りを与へ給ひしとき
ecce hæreditas Domini, filii;
見よ,子供らは主の嗣業(ゆづり)にして
merces, fructus ventris.
胎の實はその報(むくい)なり
-----------------------------------------------------
 
 ヴィヴァルディの『四季』は自然の移ろいゆく様を叙景した表題音楽であり、印象的な旋律と即興的なヴァイオリンの合奏のおかげで、バロック音楽の人気演目として名高い。欧米だけでなく、異文化の壁を超えて、日本でも最も好まれているバロック音楽の一つであろう。季節の移り変わりに美を見出す独特の感性を持っている日本文化の伝統もまた、この曲を親しみやすくさせた理由の一つだろう。
このような「自然」をテーマとした曲と比べて、「超自然」をテーマとしたヴィバルディの「宗教曲」は日本では聴く機会が少ないが、彼の作曲したモテット、Nisi Dominus (主いまさねば)の中の Cum dederit dilectis suis somnum (主がその愛するものに眠りを与へ給ひし時)は、ミサ曲「グロリア」と並んで、ヴィヴァルディの代表的な宗教音楽として欧米ではよく上演される。
これは、旧約聖書の時代に「都上りの歌ーソロモンの詩」としてヘブライ語で朗詠された詩篇に由来するが、ギリシャ語訳聖書を通じてヘレニズムの文化の中に受容された。このギリシャ語訳詩編に従うラテン語訳が、Vulgata聖書に踏襲され,カトリック教会の典礼に採用された。ビバルディの音楽はそれを歌詞としている。
 もともとヘブライ語で書かれたこの詩篇が、成立当時にどのような意味で朗詠されていたか、またその前半部分と後半部分は一つの詩なのか、元来二つの詩であったものを後世の編集者が一つにまとめたものなのか、そういうことには専門の聖書学者の間で様々な意見があるが(関根 正雄 『詩篇注解』下巻51頁参照)、ヴィヴァルディ自身がここをどのように解釈したのかを知る手がかりとしては、彼が、この歌詞を後半部分の始まりにおいていることが重要な意味を持つように思われる。
 この詩は「ソロモンの詩」であるから、「神に愛された人」はソロモンと取るのが自然であり、サムエル記下12:24-25や列王記上3:5−14のが背景にある。おそらく、神に最も愛された人であるソロモン王が夢の中で、神に祝福されたという伝承に基づくものであろう。
 しかしながら、ヴィヴァルディのこのモテットの冒頭の調べは、悲痛に満ち満ちた嘆きで始まる。それは、子宝に恵まれた家の繁栄というような意味での世俗的な幸福の約束とはとても思われない。
 何度も繰り返されるCum dederit dilectis somnum の調べも、伴奏のヴァイオリン合奏も、死によって全てが失われる世界の空虚さをも響かせているようにも感じる。
「もし主いまさねば、すべての労苦は虚しい」という通奏低音の只中に登場する「fructus ventris」の言葉は、ニヒリスムの極点からの大いなる転換ー悲哀の極点からの祝福への転換ーを先取りしているかのようにも聞こえる。「胎の實はその報(むくい)なり」という一節に注目したい。これはアヴェ・マリアの言葉の予示でもある。つまり、70人ギリシャ語聖書からカトリック典礼へと受け継がれた詩編解釈の伝承の中では、この詩編は、主の受肉と受難および復活という超自然の出来事をソロモンの夢の中で予言する詩として、歌われているのである。
 アウグスチヌスも、その「詩篇釈義」の中で、この詩篇126をキリストに関係づける霊的な意味に解釈している。
 ヘブライ人にあっては地上の家族と子孫の繁栄を主に祈る詩であったものが、そのような幸福を絶たれた人たちを救済するために自然を超えた神が夢の中に登場するのである。
物質的な自然の只中に受胎し、一人の人となって、すべての人を救済するために自ら受難を引き受けたこと、そのような主なるキリストによってこそ、ソロモンの知恵が、世俗の知恵ではなく神の知恵となったことを示す詩として解釈できるだろう。そうしてみるとヴィバルディという「自然」を歌うことにかけては天才的な作曲者は、同時に「超自然の自然」を賛美する作曲家でもあったと言えるのではないだろうか。

Vivaldi, Nisi Dominus - Cum dederit - Sara Mingardo, Giovanni Paganelli

Esecuzione dal vivo su strumenti originali a Busseto (PR). Sara Minga...

youtube#video

 

 

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復活のキリストと共に生きるー田辺元のいわゆる「死の哲学」の背後にあるもの

2020-11-05 | 哲学 Philosophy
 晩年の田辺元の宗教哲学の背後にある彼独自の哲学的信仰の消息を如実につたえてくれるものは彼が逝去した妻を詠んだ短歌であろう。(田辺元・野上弥生子往復書簡集より)
 
  あけくれに妻を思ひて暮らす日も はやふたとせにならんとはする
  三回忌などて営まん日々が 忌日ならぬなき我にあらずや
  汝れと共に我も死にたり今もなほ 日毎に死にてよみがへり生く
  汝れもわが心によみがへり共に生く 二人の命なほも続くか
  わがためにいのちささげて死に行ける 妻はよみがへりわが内に生く
  クリストに倣ひて死にしわが妻は 福音を証す復活の光
  汝れ死にて二たとせのけふ我を活かす 福音のまことおほけなきかも
 
    一九五三年九月                  田辺元
 
 この歌をきっかけとして亡妻の友人であった野上弥生子との交流も始まったわけであるが、田辺元とキリスト教との関わりをみるうえで見落とせないのは、「クリストに倣ひて死にしわが妻は 福音を証す復活の光」とか「汝れ死にて二たとせのけふ我を活かす 福音のまことおほけなきかも」のような歌であろう。
 キリスト者であった妻によって「福音を証す復活の光」を自覚したという田辺は、どこまでも批判的理性の徹底をめざす一人の哲学者として既成のキリスト教教団に入会したわけではないが、一九五六年二月十二日の野上弥生子宛書簡には次のように
「復活のキリストと共に生きる」ことを妻から教えられた田辺自身の信仰が語られている。
 
 「ここで敷衍致さねばなりませぬのは、<復活>という概念でございます。キリスト教徒でもない小生が、復活を口に致すのは
全く空語ににとどまりはしないかという御疑は必定と存じます。今日はキリスト教の内部においてさえ、神話排除の主張が起こっております。況んや、科学を尊重致す小生が、復活の如き神話的伝説を信じるなどとは、言語道断とも申せましょう。小生自身も今日までこの点を突破できなかったのでございます。しかし、妻の死はこれを可能にしました。
 もはや復活は、客観的自然現象としてではなく、愛によって結ばれた人格の主体性に於いて現れる霊的体験すなわち実存的内容として証されます。
 キリストの復活も、マグダラのマリアが復活せる主の肉体に手を触れるつもりでそれを禁止せられ、ただ二人の天使を見たばかりでその言いつけを聞いたに過ぎなかったと伝えられる如く、全くマリアにとっての霊的体験に外なりませぬ。
 この主体的実存内容としては、それは疑いを容れない事実であります。
 小生にとっても、死せる妻は復活して常に小生の内に生きて居ります。同様に、キリストを始め、多くの聖者人師は、小生の実存内容として復活し主体的に小生の存在原理となって居るのでございます。
 その意味で、いわゆる「聖徒の交わり」に、小生も参し得るわけです。これは神話でもなく,譬喩でもなくして、厳然たる霊の秘密です。
 これを神秘的と申すならば、「時」そのものが、「歴史」そのものが神秘的でなければなりませぬ。
 かかる主体的統一においてある復活のキリストと共に生きることが、すなわちキリスト模倣ですから、それはコッピイでもなく理想観念でもありませぬ。
 エックハルトやトマス・ア・ケンピスや、キェルケゴールにおけるキリスト模倣は、そういうものだと存じます。
 妻の死を通して、小生もこれに眼を開かれました。」 
 
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永井隆博士を主人公とする英国のDVD映画

2020-11-01 | 日誌 Diary
NHKの朝の連続ドラマでは、永井隆博士をモデルとする医師が登場しましたが、英国では、NHKよりさきに永井博士を主人公とした映画が制作されました。「長崎の鐘」の英訳を読んだ映画監督 Ian&Dominic Higgins が、永井隆を主人公とする映画制作を思い立って、クラウド・ファンディングで一般の人々から資金を調達し、長い歳月を準備期間にあてたのちに完成したものです。英米の一般の映画館で上映されたかどうか分かりませんが、2013年にYoutubeに、予告編 https://www.youtube.com/watch?v=E7OyOCPo2Eg
が公開されました。まだその時点ではこの映画の全編をみることはできなかったようですが、2015年、イグナチオ・プレス
から、"All that remains"というタイトルでDVDが販売されていましたので、私もそれを購入できました。

https://www.ignatius.com/All-That-Remains-P9.aspx

 登場人物は全員英語を話していますから、日本の視聴者にはなじみにくいかもしれませんが、長崎という地名も、また禁教時代に多くの殉教者を出した浦上の天主堂に、原爆が投下されたと言う事実さえ知らない英米の多くの人々に、この映画を観て貰うことは意義があると思いました。

 DVDのパンフレットによると、映画監督の「長崎の鐘」を読んで「これは現在では忘れ去られた物語のヒーローであるにもかかわらず、永井はガンジーやマルティン・ルーサー・キングと並ぶ二十世紀の偉人である」と確信したと述べています。
 また共同制作者のDominic Higginsは、永井を主人公とする映画は、できうる限り歴史的な事実を尊重しつつ、科学者として、また軍医として、次に白血病にもかかわらず被爆者の手当に奔走した医師として、さらに(多くの殉教者を輩出した長崎の)キリスト者として描いたと言っていました。
 NHKの連続ドラマでは、永井隆の言葉「どん底に大地あり」を手がかりにしていましたが、この映画の題名"All that remains"は、「(被爆によって何もかもが失われた後)唯一残るものは何か」を主題としています。DVDのカヴァーには、浦上の原子野(atomic wilderness)を前に佇む永井博士のシルエットと「平和を」と書いた彼の揮毫と千羽鶴が描かれていました。
 
 この映画の制作者の声を記録した
https://www.youtube.com/watch?v=RQkasPIYaVI
もご覧ください。

All That Remains Promo

Promo for our new film, "All That Remains" -- the story of atomic bomb...

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All That Remains - Extended preview

An extended preview of our third feature project. "All That Remains" t...

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