歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

無の場と創造性ー歴程の自然学 2

2007-04-24 | 哲学 Philosophy

私は、「過程」の哲学ではなく、「歴程」の哲学という概念によって、ホワイトヘッドがその主著Process and Realityで展開したコスモロジーを批判的に継承することを心がけている。なぜ、「歴程」という語を使うか。

 それは、ホワイトヘッドの哲学的コスモロジーの要諦は、米国の process theologian のいうprocess の概念によっても、またホワイトヘッド自身のいう「有機体の哲学」という概念によっても十分に良く表現されないと考えるからである。

たとえば、「有機体の哲学」という言葉では、個的なる実存の主体性・自律性・独立性というものが表現されず、常に個的実存が全体に従属するカテゴリーとなるという含意がある。しかし、ホワイトヘッドの云う活動的存在(actual entity)は、自己創造的であり、自己原因的である。すなわち、活動的存在は個的実存であり、真の意味で実在する物(res vera)なのであるから、決して「世界」を構成する一要素にすぎない個物(individual)ではない。活動的存在は個的な実存として世界をうちに含むことによって世界と自己自身をその都度超越する存在なのである。

Process theology でいうところのprocess の概念を、ホワイトヘッドの Process and Reality の原点にたちかえってもういちど批判的に吟味し、継承すべき優れた洞察が何であり、批判すべき点はなんであるかを再考する必要があろう。

「歴程」という語を私が使用する理由は、それが単なるコスモロジーだけではなく、我々の実存的な歴史をも表現することが出来るからである。いや、むしろ話は逆であって、個的実存を本質的に特徴づける歴史性が、人間のみならず、人間がそこにおいて存在する世界、そして諸々の世界の総体に他ならぬ宇宙そのもののもつ本質的な特性であるというべきかもしれない。コスモロジーと個的実存の思索の双方を射程に収め得る概念として、私は「歴程の哲学」という用語を使用したのである。

「歴程」には、日本語ではさらに別の含意がある。それは戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもあった。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。

  「過程」という日本語には、「歴程」とは違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。

ホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、「初めと終わりの中間」にある「過ぎゆくもの」を表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。 我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。

我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世界の創造的要素である活動的存在にほかならない。 それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか-これが歴程の哲学の主題である。

ホワイトヘッド哲学の重要性を最初に認識した日本の哲学者は田辺元である。 ドイツでの在外研究中にハイデッガーの講義を聴講し、解釈学的現象学の新しい転回に直接触れた田辺は、帰国後、ハイデッガーと恩師西田幾多郎の双方の哲学の批判的継承を目指して、「種の論理と世界図式」等の一連の論文を発表している。 田辺がホワイトヘッドを引用しているのは「図式時間から図式世界へ」という論文(1932)であるが、そこでは図式論を機軸としてカント哲学の存在論的解釈を遂行したハイデッガー(『カントと形而上学の問題』1929)を批判しつつ、時空の統一体としての「世界」概念を機軸にした図式論の再解釈を提案している。田辺のいう<図式世界>は、当時の新しい物理学=相対性理論における時空概念の統一と複数の時間系の存在をふまえている点に於いて、『過程と実在』の<思弁的図式>の議論と照応していることに注意したい。即ち、一方に於いて西田哲学に於ける場所論の持つ「空間性」、他方においてハイデッガー哲学に於ける現存在分析の中核を為す「図式時間」、この両者を統合すべき、<図式世界>を具体的に転回することが田辺の狙いであった。それは、ニュートン的な唯一絶対の時間を哲学的に一般化したカントの時間論に代わるものとして、多元的な相対時間(multiple time-system)とそれらの相関を主題とするアインシュタイン・ミンコフスキーの「世界=時空」概念を哲学的に一般化することを意図していた。

不幸にして、田辺の世界図式論は、世界大戦を契機とする田辺の哲学的挫折ないし中断という事情のために、その後の田辺自身の哲学においては十分に展開されることはなかったが、彼の<世界図式>論に於ける議論は、ホワイトヘッドの『過程と実在』における範疇的図式の目指すものと一致していた。

ホワイトヘッドの哲学は、カントの逆転―即ち、カントが認識の次元で遂行した「コペルニクス的転回」を、一般的な形而上学として再度「転回」することを意図していた。すなわち、如何にして主観から世界が構成されるか、という問題だけにとどまらず、如何にして世界から主観が発現するかをも問題としていた。そのような「存在論への転回」こそ、新カント派の認識論を越えて、解釈学的現象学の立場で実存論的範疇論を語るハイデッガー、「場所」の立場によって、認識論から形而上学へ踏み込んだ西田幾多郎、アインシュタイン・ミンコフスキーの多元的時間論と時空<世界>を哲学的に一般化し、生成論と場所論の統合を目指したホワイトヘッドと田辺に共通する問題状況であった。

「過程と実在」を読む場合に、そこで「範疇」によって意味されることを理解するためには、次の事に注意しなければならない。即ち、ホワイトヘッド哲学の文脈で云う「範疇」とは、悟性に内在する形式でもなければ、超越論的な自我の自己定立から演繹されるものでもない。それは、主客対立以前の経験の具體相の一般的記述であり、構想力(imaginative construction)の働きによって遂行される経験の自己解釈の枠組みなのである。

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無の場と創造性-歴程の自然学 3

2007-04-23 | 哲学 Philosophy

1.究極の範疇としての「創造性 creativity」について

 「創造性」は、歴程哲学では、究極の範疇、即ち、それが究極の普遍(the universal of universals)と言われている。「創造性」を単独にとりだして主語化して、それについて語ることが出来ないと云う意味である。更に、「創造性」は「一」と「多」と並んで、究極的なるものの範疇と呼ばれている。 説明範疇22は活動的存在の自己―創造(self-creation)のプロセスを語る。即ち、活動的存在は「自らの自己同一性を失うことなく、自己自身に関して機能することによって、自己-形成において多様な役割を演じる。」「それは自己創造的であり、その創造のプロセスにおいて、その役割の多様性を一つの整合的な役割へと変換する。」(PR25)

ここで語られているのは、主体が自己に対して「機能functioning」し、自己形成していくプロセスに於ける<創造性>である。それは、あらかじめ主体の中に組み込まれていたプログラムが機械的に自己展開していくことではない。創造とは、主体が既在の自己(=主体の過去の履歴)の基盤の上にたって、既在の他者をうちに抱握しつつ、自己を形成する過程である。従って、このような創造的プロセスにおいては、自己-同一性(self-identity)と自己―多様性(self-diversity)の双方が意味を持っている。自己同一性は、他者を、その他性を解消せずに自己のうちに含むことによって成立する。言い換えれば、「無からの創造」ではなく、既在の自己と他者とを媒介とする自己-創造が、<創造性>の語られる文脈である。

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無の場と創造性 ー歴程の自然学 4

2007-04-22 | 哲学 Philosophy

2.<活動的(=現実的)存在actual entity>について

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これはホワイトヘッドの云う「存在の範疇」の中核を為すものである。どの要はタイプの存在に語る場合でも、そこには何らかの形で<活動的存在>が含まれていなければならない。"actual"という形容詞は、この基底的な存在が原子のような死せる物質ではなくて、「活動的(=現実的)存在」であること、アリストテレス的な意味での「エネルゲイア(活動態)」にあることを示している。 

 活動態(現実態=actuality)という語も、(actualitiesのように)名詞化されて使用されるが、それは、個々の活動的存在だけでなくて、それらの結合体をも含む広い意味で使われる。

<活動的存在>の範例は、我々人間の誰もが、その都度それであるところの経験の一つ一つの具体的な生起(occasion)である(PR18)。活動的生起(actual occasion)という語も、このような経験の出来事性を強調するときには使用される。

全ての存在を要素的な原子の機械的運動に還元する唯物論とは異なり、有機体の哲学では、もっとも高度に組織化された有機体である人間存在(ホワイトヘッドの用語では、人格的秩序によって結合された活動的生起の結合体)の相互の関わりが、範例となり、それを他の諸存在の領域に一般化する。複雑なシステムから出発して、その諸機能を捨象することによって単純なシステムを考察するというかたちで物事を説明する。それゆえに、ホワイトヘッドが<経験>と云うときには、それは意識を前提しない活動的諸存在の「具体的な被関係性の事実concrete facts of relatedness」において考察される。それは、<抱握prehennsion>と術語化される。

 

<抱握>という語は『科学と近代世界』では、「非認識的な把握(uncognitive apprehension)」という意味で使われた。一つの活動的存在は、さまざまな範疇の存在に関係付けられている。 すなわち、他の諸々の活動的存在、永遠的客体、結合体、命題、多岐性、対比など、およそ「ある」と呼びうるすべての存在は、一つの活動的存在の成立に際して具体的で確定した関係を持っている。この具体的な関係性の事実を表す最も一般的な用語が<抱握>である。ちなみにOxford English Dictionary は "prehension" の十六の用例を挙げているが、そのうちの七例はホワイトヘッド自身か彼の哲学に言及した用例で、この語が現在ではテクニカル・タームとして用いられることを示している。 日本語の「抱握」は、『科学と近代世界』(上田泰治・村上至孝訳)以来、定訳として使われている感があるので本稿もそれに従った。「抱」という語は、一つの活動的存在が、そのなかに全世界を含むというニュアンスを出すためにつけられたようである。

 

しかしながら、抱握は決して他者の他性を解消しないこと、とくに他者自身の<現成>の自由を拘束することは出来ないことに注意しなければならない。自己と他者は、過去―現在―未来という座標時間の分類においては、共時的(contemporary)であり、現在過去未来を共有しているが、その「生成論的分析」においては「因果的に独立」な自己決定のプロセス(固有時間)において記述される。即ち、「共時的なものは因果的に独立である」。

 

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無の場と創造性-歴程の自然学 5

2007-04-21 | 哲学 Philosophy

原子論と違って、活動的存在は、複合的であることによって要素的となること、即ち、世界を内に含む複合体であることによって、世界を構成する要素となるという古本的な性格を持っている。この二重の性格は、活動的存在の<現成concrescence>という概念によって説明される。(補注参照)

 

「活動的存在を最も具体的な要素に分析すると、それが諸々の抱握の現成(concrescence)であることが明らかになる。そしてこの抱握は、生成の過程において始まる」(PR23)。「あらゆる抱握は三つの要素からなっている。(a)抱握しつつある「主体」、すなわち、その抱握が具体的要素となっている活動的存在。(b)抱握される「与件」。(c)どのようにしてその主体がその与件を抱握するのかという「主体的形式」(PR23)。複数のさまざまな種類の抱握が活動的存在の具現において統合される過程を記述することが、『過程と実在』第三部の「抱握の理論」の主題である。

抱握の与件が他の活動的諸存在を含む場合は「物理的抱握(physical prehension)」、与件が永遠的客体を含む場合は、「観念的抱握(conceptual prehension)」と呼ばれる。さらに、与件がただ一つか複合的かによって「単純(simple)」または「複合(complex)」という形容詞がつく。物理的抱握と観念的抱握の双方を、「純粋な(pure)」抱握と言う。「不純な(impure)」抱握は、より後の現成の相において、二つの純粋なタイプの抱握を統合する抱握である。「混成的抱握」は、「他の主体に属している観念的抱握あるいは「不純な」抱握を、ある主体が抱握するそういった抱握である」(PR107)意識、情緒、好み、忌避、目的などは複合的な抱握の主体的形式である。 与件が永遠的客体であるとき、その抱握の主体形式は、特に「価値付け(valuation)」と呼ばれる。

  抱握は宇宙のあらゆる存在と関係を持つといったが、一つの活動的存在の内的構成に寄与する場合は「肯定的な抱握(positive prehension)」とよばれ、内的構成から排除される場合は「否定的な抱握(negative prehension)」と呼ばれる。「肯定的抱握」は、「感受(feeling)」と同義的に使われる。主体の統一性のゆえに、「原始的与件(initial data)」 の全体を肯定的に抱握(感受)することはできない。否定的抱握によって排除された残り、活動的存在の内的構成へと取り込まれた与件が、「客体的与件(objective data)」である。

否定的抱握の概念は、<活動的存在>が具体化する場合に、いかなる可能性を排除するかと云うことが決定的に重要な意味を持つことを示しているが、それだけでなく、それがいかなる主体形式のもとで世界を統合するかを決定する。統合の様式(modes of synthesis)は、ホワイトヘッドの哲学的範疇においては、<対比contrast>であり、相矛盾する経験の諸契機を内的に統合することによって経験に深みdepthと内的充実度を与えるものである。

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無の場と創造性ー歴程の自然学 6

2007-04-20 | 哲学 Philosophy

3.再定式化された主体主義の原理 (the reformed subjectivist principle)

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 主体主義の原理とは、「全宇宙は主体の経験の分析のうちに露にされる要素から成っている」ということを述べる。この原理を再定式化するという意味は、それを認識論の地平ではなく、存在論の文脈で定式化し直すと言うことである。言い換えるならば、主体の活動を唯物論者が考えているような物質の運動としてではなく、世界のすべての要素を抱握する働きとしてとらえるということ、世界の連帯性のうちにおいて、主体の働きを考えるということである。活動を欠いた空虚な現実態vacuous actualityという概念をホワイトヘッドが退ける理由もそこにある。 

  ホワイトヘッド自身が使った用語ではないが、汎主体主義pan-subjectivismという語がプロセス哲学の特徴をよく表すものとして用いられる。我々が出会うすべての具体的事物を、単に客体としてではなく、同時に主体として捉えると言うことをそれは意味している。即ち、主体は唯一無比のものとしてではなく、初めから、他者との連関性、連帯性のもとに把握されているのである。現実にあるものは、それ自身において考察されるときは、すべて主体であり、他者の観点から見れば客体である。そして、主体から客体への、客体から主体へのダイナミックな移行がまさしくホワイトヘッドがプロセス(過程)と呼んだものの内実を為している。

主体の複数性と言うことは、多元主義pluralismの基礎である。主体が実体として定立されているところでは、複数の実体の交流と言うことに論理的な難点が存するということはライプニッツが夙に指摘したところであった。論理的な首尾一貫性を尊んだスピノザは、唯一の実体とその様態だけを考えた。プロセス哲学においては、一つの主体の成立に、他の諸々の主体が本質的な関わりを持つ。窓なきモナドが予定調和によって他の諸々のモナドを映し出すのではなく、他のモナドを映し出す-あるいはプロセス哲学の用語に従って言えば、他のモナドを抱握(prehend)する-ことによって、新しいモナドが成立するのである。そして、この新たに成立したモナドは、その内に、現実的世界(actual world)のすべてを含んでおり、現実的世界を統一すると共に、新しい要因を付加するのである。このプロセスは不可逆であり、次に生成する活動的存在は、この新しい要因を前提して、自らの立脚点から新たに現実的世界を統合しなければならない。現実的世界という語は、ここでは、一つの活動的存在(actual entity)と相関的に言われており、それぞれの活動的存在が自らの遠近法によって、統合した世界を指している。この統合の働きによって、離散的な多者が具体化され、新たな統一性が獲得される。

唯物論的な世界観においては、このような統合の働きは存しない。物質は、他の物質を抱握する事はなく、単にあるときにある場所に位置を占めるのみである。この世界では、知覚し行為する主体というものは、意味を失い、一定の法則に従って運動する物質の集合体があるのみである。そのような物質の概念は、空虚な現実態(vacuous actuality)に他ならず、抽象を現実と置き換える虚偽(the fallacy of misplaced concreteness)の典型なのである。主体主義の立場に立脚する観念論の側についてみても、主体は依然として、主語―述語の範疇の中で考察されており、異なる主体相互の交流ということが考えられなくなっている。ホワイトヘッドは唯物論から有機体論への流れを次のように要約している。(PR309)

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コスモスと実存 主体主義の原理の再定式化(2)

2007-04-19 | 哲学 Philosophy

物理学に適用されたデカルト的主体主義は、単に外的関係をもった個体的に存在する物体というニュートンの仮説になった。われわれは、デカルトが物体の第一の属性として記述したものは、実際は、現実的諸生起間の且つ現実的諸生起内の、内的関係性の形式であると考えることによって、デカルトと分かれるのである。こうした思想の変化は、物理学の基底的な思想としての、唯物論から有機体論への転換である。

 単なる外的関係を持つ実体としての物質の概念は、ホワイトヘッドが「空虚な現実性」と呼んだものに該当している。「空虚な現実性」とは、「主体的直接性(subjective immediacy)を欠いた真なる事物(res vera)」(PR29 という概念を意味している。このような空虚な現実性を否定することは、有機体の哲学にとって本質的である。(PR29) 現実的なものは、すべて、主体にとって、直接に与えられるということは、近代の主体主義においては、独我論に直結する危険性をもっている。他我や外界の存在は、主体としての自我に内属する所与からの構成としてしか位置づけられないからである。主体が実体的なもの、主語的なものとして捉えられる限り、複数の活動的存在が主体として並存するという事態は哲学的な隘路となる。

  独我論の隘路から抜け出せない近代哲学の主体主義と違って、ホワイトヘッドのいう「再定式された」主体主義は、主体を実体ではなくて、出来事ないし生起(occasion)として捉える。より厳密に表現するならば、主体とは、現実的な経験の生起(actual occasion)のただ中において目指される(aimed at)ものなのである。最初に独立した主体がものとしてあって、それが様々な経験をするというのではなく、経験の生起という出来事の中で、主体が形作られるのである。ホワイトヘッドが現実性と呼ぶ多くの事物は、相互に連帯しており、一つの活動的存在の成立にとって、他の諸々の活動的存在が内的に連関するということ、を肯定することなのである。

知覚に客体化された所与が露呈しているということは、それらが所与になっている直接的経験と共通性community をもっていること、として知られていることである。この「共通性」は、相互含意を包含している共通の活動性という共通性である。この前提は、有機体の哲学においては、始原的事実として主張されている(PR80) 。それはわれわれの生命の組織体のどの細部にも暗々裡に仮定されている始原的事実としてである。

主体そのものが、経験の生起において形成されるということは、我々が日常に前提している個人的な人格の同一性、物体の存続性など過去との連続性、未来に向けての革新性(novelty)が、改めて、「出来事的世界観」のなかで問題となるということを意味している。その都度の経験の生起において、過去の現実性が継承され、再活性化(re-enact)される仕方を記述しなければならない。プロセス哲学においては、これは、特に、生成論的分析(genetic analysis)と呼ばれ、『過程と実在』第三部の中心的な主題となっている。その際、中心的な役割を果たすのが、ホワイトヘッドが「相依性の原理」と呼ぶものである。この原理は、物理学の相対性原理 (the principle of relativity) と原語では同じ術語であるので、混同を避けるために「相依性の原理」と訳すことにした。物理学では、the principle of relativity (相対性の原理) は、あらゆる基準系が原理的に対等であって、絶対的な基準系が存在しないという特殊な意味をもっているが、形而上学の書物である『過程と実在』では、the principle of relativity(相依性の原理)は、ありとあらゆる「有」に適合するもっとも普遍的な原理として立てられているからである。

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コスモスと実存 ー相依性の原理 (1)

2007-04-18 | 哲学 Philosophy

4.相依性の原理 (the principle of relativity)

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  アメリカのプロセス神学者で、仏教徒の宗教的対話に積極的に参加しているジョン・カブは、相依性の原理に従って現成する現実的生起を、仏教の中心的概念である縁起(pratitya-samutpada=依存的生起)と空性(sunyata)の概念になぞらえている。ホワイトヘッド自身も、『過程と実在』の中で、「有機体の哲学は、西アジアやヨーロッパの思想よりも、インドや中国の思想のもつ体質に一層近いように思える。一方は、過程を究極的たらしめるが、他方は、事実を究極的なものにしているのである」(PR7)と述べていることからもわかるように、このような親近性は意識していたように見える。仏教的な縁起説との比較は、それ自身興味ある主題であるが、ここでは、ホワイトヘッド自身の文脈に即して、「相依性の原理」とは何であるかを検討しなければならない。

この原理は、まず最初に、主語述語、実体属性という用語で語られるアリストテレスの形而上学の枠組みを批判するものとして提示されている。事柄の重要性に鑑み、ホワイトヘッドがこの原理を説明している箇所を引用してみよう。(PR50)

「普遍的相依性」universal relativity の原理は、「実体は主体のうちにない」というアリストテレスの格言を否認する。その原理に従えば、これとは反対に、活動的存在は他の活動的存在のうちにある。事実、われわれが関連の度合を、また無視しうる関連を、斟酌するならば、あらゆる活動的存在は、あらゆる他の活動的存在のうちにある、といわなければならない。有機体の哲学は、「他の存在のうちにある」という概念を明晰にするという課題に主にあてられているのである。この文句は、ここではアリストテレスから借用したが、それは幸運な文句ではないのであって、以下の議論では、「客体化」という用語にとって代わられるだろう。このアリストテレスの文句は、一つの活動的存在が他のものに単に付加される、という生硬な概念を示唆している。これは、有機体の哲学が意味していることではないのである。永遠的客体の一つの役割は、それらが、或る一つの活動的存在がどのように他の現実的諸存在との綜合によって構成されているか、またその活動的存在が、最初の与えられた相から、その個体的な享受や欲求を含むそれ自身の個体的な現実的な存在へとどのように発展するか、を表現している要素である、ということである。活動的存在とは、それが宇宙のそうした特殊な現成であるが故に、具体的なのである。

 アリストテレスの哲学においては、第一義的な実体とは、主語となって述語とならぬものであり、より詳細に定式化すれば、「いかなる主体のなかにもなく」かつ「いかなる主体についても語られない」ものであった。そこにおいては、実体の範疇が関係の範疇に対して優先している。相依性の原理は、そのような意味での「実体」は、我々の経験のもっとも根源的なレベルにおいては存在しないことを述べている。そして、この「他の存在の内にある」ということの意味の解明が『過程と実在』の中心的な主題の一つであるというのである。

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コスモスと実存 相依性の原理(2)

2007-04-17 | 哲学 Philosophy

ホワイトヘッドが「相依性の原理」を提示するときに、事物の相互内在だけでなくて、生成が存在に優越すること、「生起」とが「存続するもの (enduring object)」に優先することを述べていうことに注意しなければならない。言い換えれば、存続する事物の相互内在は、もっとも基底的なレベルでの諸生起の関係を前提している。二つの生起の間には、() 一方が他方に因果的に内在するか、あるいは ()その逆か、() 相互に因果的に独立であるか、の三つの内のどれか一つ成立しない。この第三の選択肢が成立するとき、二つの出来事は、共時的 (contemporary) であるという。言い換えれば、それぞれの生起が、共時的な諸生起とは独立に決断を下しうるということ、それにも関わらず、その決断は、諸生起の連鎖に他ならぬ「存続する事物」の未来に影響を与えるということが、事物の相互内在の意味なのである。これは、次のような図によって示すことができよう。

 

左図は、二つの「存続する事物」ABの相互内在の関係を表現したものである。事物Aは生起A1, A2, A3,...の連鎖(nexus)であり、事物Bは生起B1, B2, B3,...の連鎖である。A1B1A2B2A3B3...は相互に因果的に独立であり、それぞれが、自立的な主体として、独自のパースペクティブの元に世界を抱握する。A1が因果的に内在するのはB2より後のBの諸生起であり、同様に、B1が因果的に内在するのは、A2より後のAの諸生起である。従って、時間を捨象して、事物が相互内在するということは、全く意味がなく、過去から未来へのベクトル的な方向性が、因果的内在の基本的な様式を決定しているのである。共時的なものの因果的独立性という事は、それぞれの事物の未来は、自己自身の決定だけではなくて、自己と共時的な他者の決定にも依存してるということを含意している。各瞬間瞬間において、Aは生起としては完結した自律性を持つが、継時的には自己のあずかり知らぬ他者の決定の影響に常にさらされているということを意味している。従って、この図式によって理解される事物の相互内在は、世界の創造的前進のただ中において考察されねばならないのである。

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コスモスと実存ー相依性の原理(3)

2007-04-16 | 哲学 Philosophy

ホワイトヘッドが現実と呼ぶものは、一つは形成の活動そのものをさすが、もう一つは、曖昧さのない、すべての側面において確定した「還元不可能な頑固な事実」の集積を意味している。現実の成り立ちには、決断があり、事実それに先立つ決断によって、所与となるのである。

 「決断」は、活動的存在の因果的付加物と解釈されることはできない。それはまさに現実性の意味そのものに等しいのである。活動的存在は、そのための決断から生ずるのであって、そしてまさにその存在によって、それに取って代わる他の活動的存在のための決断をもたらす。こうしてその存在論的原理は、「活動的存在」、「所与性」、「過程」の概念を含む理論を構成する最初の段階なのである。「過程のための可能態」が一属普遍的な術語である「存在」或いは「事物」 の意味であるのと同様に、「決断」は「現実的」という語によって「活動的存在」という句の中にこめられた付加的意味なのである。「現実態」 は、「可能態」の真只中の決断である。それは避け得ない頑固な事実を代表している。(PR43)

さて、生起A1 生起B2に因果的に内在するということの意味を、普遍者と特殊という伝統的な範疇と対比して考察しよう。ホワイトヘッド哲学でいう「因果的客体化(causal objectification)」によって、他に掛け替えのない一回限りの生起が完了して「もの(entity)」となるときに、それは、もはや特殊者ではなくて、普遍者として、他の多くの活動的存在の内に反復されるという性格を持つのである。 形成的に(formally)に見れば、A1は主体として、A1の因果的過去に属するすべての活動的存在を客体化している。主体としてのA1のうちに現実的世界(the actual world)が内在しているのである。A1が完全な現実態として満足するということは、A1が自らを客体として、他の諸生起に与えるということを意味しており、ここでは、A1は他の諸生起のレアルな構成要素として、その記述に入り込むという意味で、普遍者の役割を担うのである。言い換えれば、主体的な統一性を持つA1は、客体として、他の諸生起の中で反復されるのである。このことは、特殊と普遍との関係を我々が見直さなければならないということを意味している。いかなる活動的存在も、特殊であると共に普遍という性格を持つことを、ホワイトヘッドは繰り返し指摘する。

存在論的原理と、現在の形而上学的議論が基礎をおいている普遍的相依性についての一層広範な理論とは、普遍的であるものと特殊的であるものとの間の鋭い区別を不鮮明にする。普遍者の概念は、多くの特殊者の記述の中に入りうるものの概念であるが、一方、特殊者の概念は、普遍者によって記述されるが、それ自身は他のどの特殊者の記述にも入らないということである。この講義の形而上学的体系の土台である相依性の学説に従えば、これら両概念は誤解を含んでいる。活動的存在は、普通者によっては、不十全にせよ記述されえないのである。なぜなら他の活動的存在がまさにどれか或る一つの活動的存在の記述に入り込むからである。したがってすべてのいわゆる「普遍者」は、他のあらゆるものとは違った、まさにそれがそれであるところのものである、という意味で特殊である。またあらゆるいわゆる「特殊者」は、他の活動的存在の構成に入り込むという意珠では普遍である。(PR48

 従って、永遠的客体と活動的存在の相違は、普遍と特殊の間の相違なのではなく、決して主体とならず客体としてしか機能しないものと、最初に主体として形成され、しかるのちに客体として機能するものとの間の相違なのである。客体化された活動的存在は、さまざまな媒介を経て他の現実的諸存在の内にあるが、それらは、いずれも一つの活動的存在の多くの事例となるのである。ここで、ホワイトヘッドが「客体的同一性の範疇」と呼ぶものが重要な意味を持ってくる。この範疇によれば、一つの現実的生起A1は、さまざまな媒介を経て他の現実的生起(例えばB3)のうちに客体化されるが、それらは、最終的な満足の相においては、一つのA1として客体化されるということを述べている。

そもそも統合が存在するという事実は、客体的同一性の範疇によって表現される条件から生ずる。活動的存在であれ、永遠的客体であれ、同一の存在は、一つの現成の形成的構造においては、再度、感受されえない。一つの客体についての多くの感受を伴う未完の諸相は、その一つの客体についての一つの感受を伴う最後の満足によって、解釈されるにすぎないのである。したがって客体的同一性は、一つの客体についての多くの感受がその客体についての一感受へと統合されることを要求する。(PR227)

この客体的同一性の範疇は、客体的多様性の範疇 (the Category of Objective Diversity )、及び主体的統一性の範疇 (the Category of Subjective Unity )と並んで、現実的生起の内的過程を制御するもっとも基本的な制約となっている。それは、我々に対して諸事物が我々の現実世界の中で、一つの固有の機能をもって存在していること、それぞれの事物は、その都度その都度一つのものとして、抱握され、主体によって統一された現実世界の中で確定した位置を占めるということを表現している。

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コスモスと実存ー相依性の原理(3)

2007-04-15 | 哲学 Philosophy

ホワイトヘッドが現実と呼ぶものは、一つは形成の活動そのものをさすが、もう一つは、曖昧さのない、すべての側面において確定した「還元不可能な頑固な事実」の集積を意味している。現実の成り立ちには、決断があり、事実それに先立つ決断によって、所与となるのである。

 「決断」は、活動的存在の因果的付加物と解釈されることはできない。それはまさに現実性の意味そのものに等しいのである。活動的存在は、そのための決断から生ずるのであって、そしてまさにその存在によって、それに取って代わる他の活動的存在のための決断をもたらす。こうしてその存在論的原理は、「活動的存在」、「所与性」、「過程」の概念を含む理論を構成する最初の段階なのである。「過程のための可能態」が一属普遍的な術語である「存在」或いは「事物」 の意味であるのと同様に、「決断」は「現実的」という語によって「活動的存在」という句の中にこめられた付加的意味なのである。「現実態」 は、「可能態」の真只中の決断である。それは避け得ない頑固な事実を代表している。(PR43)

さて、生起A1 生起B2に因果的に内在するということの意味を、普遍者と特殊という伝統的な範疇と対比して考察しよう。ホワイトヘッド哲学でいう「因果的客体化(causal objectification)」によって、他に掛け替えのない一回限りの生起が完了して「もの(entity)」となるときに、それは、もはや特殊者ではなくて、普遍者として、他の多くの活動的存在の内に反復されるという性格を持つのである。 形成的に(formally)に見れば、A1は主体として、A1の因果的過去に属するすべての活動的存在を客体化している。主体としてのA1のうちに現実的世界(the actual world)が内在しているのである。A1が完全な現実態として満足するということは、A1が自らを客体として、他の諸生起に与えるということを意味しており、ここでは、A1は他の諸生起のレアルな構成要素として、その記述に入り込むという意味で、普遍者の役割を担うのである。言い換えれば、主体的な統一性を持つA1は、客体として、他の諸生起の中で反復されるのである。このことは、特殊と普遍との関係を我々が見直さなければならないということを意味している。いかなる活動的存在も、特殊であると共に普遍という性格を持つことを、ホワイトヘッドは繰り返し指摘する。

存在論的原理と、現在の形而上学的議論が基礎をおいている普遍的相依性についての一層広範な理論とは、普遍的であるものと特殊的であるものとの間の鋭い区別を不鮮明にする。普遍者の概念は、多くの特殊者の記述の中に入りうるものの概念であるが、一方、特殊者の概念は、普遍者によって記述されるが、それ自身は他のどの特殊者の記述にも入らないということである。この講義の形而上学的体系の土台である相依性の学説に従えば、これら両概念は誤解を含んでいる。活動的存在は、普通者によっては、不十全にせよ記述されえないのである。なぜなら他の活動的存在がまさにどれか或る一つの活動的存在の記述に入り込むからである。したがってすべてのいわゆる「普遍者」は、他のあらゆるものとは違った、まさにそれがそれであるところのものである、という意味で特殊である。またあらゆるいわゆる「特殊者」は、他の活動的存在の構成に入り込むという意珠では普遍である。(PR48

 従って、永遠的客体と活動的存在の相違は、普遍と特殊の間の相違なのではなく、決して主体とならず客体としてしか機能しないものと、最初に主体として形成され、しかるのちに客体として機能するものとの間の相違なのである。客体化された活動的存在は、さまざまな媒介を経て他の現実的諸存在の内にあるが、それらは、いずれも一つの活動的存在の多くの事例となるのである。ここで、ホワイトヘッドが「客体的同一性の範疇」と呼ぶものが重要な意味を持ってくる。この範疇によれば、一つの現実的生起A1は、さまざまな媒介を経て他の現実的生起(例えばB3)のうちに客体化されるが、それらは、最終的な満足の相においては、一つのA1として客体化されるということを述べている。

そもそも統合が存在するという事実は、客体的同一性の範疇によって表現される条件から生ずる。活動的存在であれ、永遠的客体であれ、同一の存在は、一つの現成の形成的構造においては、再度、感受されえない。一つの客体についての多くの感受を伴う未完の諸相は、その一つの客体についての一つの感受を伴う最後の満足によって、解釈されるにすぎないのである。したがって客体的同一性は、一つの客体についての多くの感受がその客体についての一感受へと統合されることを要求する。(PR227)

この客体的同一性の範疇は、客体的多様性の範疇 (the Category of Objective Diversity )、及び主体的統一性の範疇 (the Category of Subjective Unity )と並んで、現実的生起の内的過程を制御するもっとも基本的な制約となっている。それは、我々に対して諸事物が我々の現実世界の中で、一つの固有の機能をもって存在していること、それぞれの事物は、その都度その都度一つのものとして、抱握され、主体によって統一された現実世界の中で確定した位置を占めるということを表現している。

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コスモスと実存 時間の原子論批判 (1)

2007-04-14 | 哲学 Philosophy

付録1フォードの「時間の原子論(temporal atomism)」の批判

  ルイス・フォードはホワイトヘッドの時間論を「時間の原子論」(temporal atomism)として特徴付けた。小乗仏教の説一切有部の「刹那滅」の形而上学にもにた思想は、ホワイトヘッドの云う「エポック的時間論」をフォードの立場から解釈したものである。ホワイトヘッド解釈としてもこの説は様々な問題を孕むが、私は、事柄自体として、時間の原子論(フォード)いう議論は成立しないと考える。そのわけは、いうところの時間の「原子」がいかほど持続するか、という計量に関する問に難点が潜むからである。事柄は、時間の原子論を、4次元時空の原子論として一般化してもこの困難は解消されない。その理由を以下に説明しよう。

 時間の原子(刹那説)や時空の素領域を考えるものは、基本的に相対性理論以前の時空理解に立脚している。すなわち、拡がりを有つ閉ざされた有限の領域に不変の計量を与えることが出来るという前提である。これは時間と空間を分離して考える古典物理学の近傍概念であり、非相対論的な概念である。

ニュートン物理学では、時間的な近さと空間的な近さは、それぞれ独立であって、ある出来事の時間的かつ空間的なε近傍は、時間をdt、空間距離をdlとして|dt|<ε かつ |dl|<εによって表示される。要するに、ニュートン物理学の遠近法は、近傍が有界な閉じた領域を形成するという意味で、基本的には常識と一致するといってよかろう。

これに対して、相対性理論の遠近法は、時間と空間とが不可分離的であるために、dtdlもそれぞれ単独では不変の意味を持ち得ない。そこで、基準座標系の変換にたいして不変であるのは、|ds|<εであり、それは時間的にも空間的にも無限に延長する、開かれた領域であるという特徴を持っている。それは四次元ミンコフスキー時空におけるε近傍が、時間的にも、空間的にも双曲的な構造を持つことによって表されている。ミンコフスキー時空では、(光速度 c=1として)座標時間の経過をdtで、空間座標で表示された距離をdl(dl=(dx2+dy2+dz2)1/2)として、時間的な四次元距離は<v:shapetype id=_x0000_t75 stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <v:stroke joinstyle="miter"></v:stroke><v:formulas><v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></v:f><v:f eqn="sum @0 1 0"></v:f><v:f eqn="sum 0 0 @1"></v:f><v:f eqn="prod @2 1 2"></v:f><v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></v:f><v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></v:f><v:f eqn="sum @0 0 1"></v:f><v:f eqn="prod @6 1 2"></v:f><v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></v:f><v:f eqn="sum @8 21600 0"></v:f><v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></v:f><v:f eqn="sum @10 21600 0"></v:f></v:formulas><v:path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></v:path><o:lock aspectratio="t" v:ext="edit"></o:lock></v:shapetype><v:shape id=_x0000_i1025 style="WIDTH: 72.75pt; HEIGHT: 15.75pt" type="#_x0000_t75"><v:imagedata o:title="" src="file:///C:/windows/TEMP/msoclip1/01/clip_image001.wmz"></v:imagedata></v:shape>によって、空間的な四次元距離は<v:shape id=_x0000_i1026 style="WIDTH: 72.75pt; HEIGHT: 15.75pt" type="#_x0000_t75"> <v:imagedata o:title="" src="file:///C:/windows/TEMP/msoclip1/01/clip_image003.wmz"></v:imagedata></v:shape>で表示されるから、四次元時空のε近傍は、ニュートン物理学のように、|dt|<ε かつ |dl|<εのような閉じた領域によって与えられるのではなく、|ds|<εによって与えられる双曲的な超曲面で囲まれた領域で表示される。それゆえに、この時空における「今此処」の近傍は光円錐に沿って過去と未来へ向かって限りなく延長しているのである。

 

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コスモスと実存 ー時間の原子論批判 (2)

2007-04-09 | 哲学 Philosophy

相対論でいう時空の計量にとって、基準系の変換に対して不変であるのは、四次元距離dsであって、そのなかに現れるdtdlではないということが、ここで重要な意味を持ってくる。それは、言い換えるならば、空間を捨象した「今」や、時間を捨象した「此処」という概念に、不変の意味がないということを意味している。

過去の光円錐とは時間の奥行を持った三次元の空間である。それは、現在的直接性をもって知覚されるのであり、ここで示されたような相対論的宇宙論の遠近法によれば、我々が見上げる夜空の星は、そのままで、ビッグバン以後の悠久の宇宙の歴史的過去を、今此処で直接に開示していることになろう。

それゆえに、ビッグバンが140億年前の出来事であるからといって、その出来事が遙か昔の過去にある、今此処の出来事とは殆ど無関係の出来事ということはできない。この140億年というのは宇宙の歴史を全体的に考察するために設定された直線的時間(宇宙時間)であるが、ニュートン的な意味での絶対時間ではないのである。ビッグバン宇宙論の経験的証拠として知られる宇宙の背景輻射は、マイクロ波という目に見えぬ「光」であるが、それは常に宇宙のあらゆる方向から我々の上に注がれている。それは宇宙開闢の頃の原初の「光」であり、百数十億年前の過去と現在とを四次元距離ゼロの直接性をもって結び、その「光」を我々は過去に於いても観測し、今も観測し、未来に渡っても引き続き、観測することが出来るのである。

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コスモスと実存ー円環的限定即直線的限定

2007-04-08 | 哲学 Philosophy

付録2 直線的限定即円環的限定 円環的限定即直線的限定

という時間の両極的構造の図解

Physical Pole:過去の現実世界のすべての現実存在とそこに内在する永遠客体が抱握される     efficient and material causation

Mental Pole:未来における全ての可能性が評価され、個的実存の主体の統一と生成を方向付ける  formal and final causation

 円弧PM は直線的時間に於る現在から無限の過去のすべての現実性を捉える

 円弧MP は直線的時間に於る永遠の未来から現在に至るすべての可能性を評価する

現実的なる物、可能的なる物の一切がなんらかの形で、今此処に於ける活動的生起の現成において抱握される。<v:shapetype id=_x0000_t75 stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> </v:shapetype>

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コスモスと実存 ー自然の概念

2007-04-06 |  宗教 Religion

自然の概念

 「自然」という言葉は、哲学・科学・宗教・文藝の諸領域に於いて、様々な意味で使用されてきた。それは決して一義的な語ではない。そこで、多義的なものを統一性を全く欠いた偶然的な多義性として放置するのではなく、ある基底的・焦点的な意味を定め、そこから、様々なる「自然」の意味を系統的に整序したうえで、それらを批判的に考察することを試みたい。

まず、さまざまな自然概念に共通して「ものの自体的なあり方」が合意されることに注意したい。列子の張湛の注に「自然とは、外より資らざるなり」とあるが、そこでは「自然とは他の力を借りないで、自ずからそうなること、もしくはそうであること」が含意されている。この意味での「自然」は、ギリシャ語の physis の用法に近い所がある。アリストテレスは「自己自身の内に運動の原因をもつもの」として physis を定義したが、そういう意味での自然概念には、運動ないし変化の原因を、外に求めずに内在化する考え方が現れている。

しかしながら、こういう哲学的議論は、我々の具体的なる経験の現場を離れて次第に抽象化され、やがては、我々自身の経験の現場を離れて、自然が対象化され、実体化されていく傾向性があることに注意しなければならない。そのように対象化された議論の枠組みにおいて、両立しがたい様々な体系――形而上学的なるものと反形而上学的なる物の双方がある――が構築されるからである。

たとえば、荘子の注釈者として著名な郭象の「無因自然」論をとってみよう。そこでは、「万物には主宰者は存在せず、個々の事物は、それぞれに存在根拠をもち、他者の介入を許さない」という意味での「自然」が強調される。これは、単に、万物の主宰者の存在を否定するという意味での無神論であるだけでなく、そもそも事物には原因なるものは存在しないと言う意味で包果を撥無する議論でもあった。これは形而上学を拒否する自然主義の一事例である。

それとは対照的に、単なる個物の感覚的認識ではなく、ものの原理と原因の認識を持って学的認識の特徴とするアリストテレスにおいては、いわゆる四原因論こそが自然学の基本となる。因果性を撥無するところには科学は生まれない。そして、自然界の全体的な認識のためには、第一の原因・原理の探求こそが要求されるのであって、かかる原因の探求は、究極するところでは、形而上学において完結する。それゆえにアリストテレスの伝統を継承する自然学は、最終的には、自己自身を越える根拠としての第一哲学=神学(テオロギケー)を必要とするのである。こちらのほうは形而上学に対して開かれた自然主義の事例である。

哲学的な思索においては、事物の原因の探求、あるいは事物の本来的なありかた、生成消滅の根拠と言う文脈において「自然」が語られるが、宗教においては、それと同時に、我々の救済の根拠を求めるという文脈で、「自然」という言葉が語られる。

仏教に於いては、「自然」という語は、良い意味でも悪い意味でも使われると言う点で両義的な用語である。救済の究極的な根拠を表現する場合にも使われるが、救済が実現されるためには否定されるべきものとして語られる場合もある。 中国仏教に於いては、無因自然のごとき考え方は、仏教の基本にある縁起説、因果の理法とは相容れぬものと扱われた。道教のいわゆる「無為自然」は「自然外道」と等置され、だから、仏教的な「空」の立場との混同を戒める議論も行われた。他方に於いて、親鸞の晩年の言葉を筆録した『末燈抄』では、「自然法爾」が、絶対他力の信心の究極を表す言葉として使用されている。

 <o:p></o:p>

「自然といふは、自はおのづからと言ふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふ言葉なり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。…すべて、人のはじめてはからざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とす、としるべきなり」

 <o:p></o:p>

『歎異抄』にも「わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします」ということばがあり、ここでは、自然は、人為のはからいを捨てて絶対他力に帰依信心のありかたを指しているのである。

キリスト教の場合、カトリックとプロテスタントの神学の相違点の一つは、啓示神学にたいする自然神学の位置づけである。バルトに於いて典型的に見られるように、聖書原理を重視するプロテスタントの神学は、基本的な傾向として、自然神学というものの価値を認めない。聖書の啓示こそが神学の与件であり、その与件に基づいて神学体系を組織する啓示神学のみが、本来の意味での神学である.その他に神学なるものはない。あるとすれば、それは神学の装いのもとに展開された世俗の哲学に過ぎない。

これに対し、カトリシズムの伝統に於いては、基本的に、自然神学の価値を承認する。それは、さしあたっては特定の経典に立脚せずに、異教徒にもキリスト者にも共通するもの、いわば両者が共に認める自然なる与件としての世界から議論を組み立てる。それは、古くはプラトンやアリストテレスのこころみた哲学的な神学(テオロギケー)の系譜を引くものであって、キリスト者と非キリスト者とが、ともに共通の場において議論可能な地平をもつ神学である。

すなわち、自然を重視し、そこから神学的な思索を行うことは、自己と異なる伝統に由来する他宗教との対話のために必要なことがらであり、自己の宗教のもつ特殊性、独自性を超える普遍性を獲得するために、必要な営みなのである。

自然の概念は、このように、仏教に於いてもキリスト教に於いても両義的である。このような両義性の由来を追尋することは、キリスト教的な創造論や救済論の文脈で自然を語る場合に於いても、あるいは大乗仏教に於ける仏性論との関係で自然を語る場合においても避けて通ることのできぬものであろう。さらに、如何なる宗教的な価値にたいしても中立的な自然科学的な意味での「自然」概念があり、これは宗教的な自然概念と如何に関係するかと言うことも、考察されるべき問題である。

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コスモスと実存 ー自然の概念(2)

2007-04-02 |  宗教 Religion

「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」

というトマス・アクィナスの言葉がある。

歴史的に見れば、この言葉は、キリスト教が自然を学問的に研究するアリストテレスの哲学を受容したあとで、信仰と理性という相反する二つの立場を、信仰の側から統合する立場を表明したものである。これは、カトリシズムに於ける啓示神学と自然神学との根本的な関係を表明したものとして良く引用される。この言葉は、単に西欧のキリスト教の歴史のある段階に於いて発せられた特殊な命題であるにすぎないものではない。およそ、恩寵という言葉が宗教的な救済の出来事を表すものであり、自然という語が、我々の本性に由来する物を表すとするならば、この言葉は、宗教の成立する根幹にかかわる問題を指示している。いいかえれば、それは現在に於いても、我々に対して、思索を促すだけの普遍性をもっているのである。

この言葉は、トマスの言う意味での「普遍の信仰」の立場を述べたものであるから、それを単に、中世西欧のキリスト教的思惟という歴史的な文脈で理解するだけではなく、時代と思想の風土も異なる現代の日本において、我々の思索を促すものとして採り上げよう。

すなわち、我々は、あらためて、次のように問うのである。

「恩寵は自然を破棄せずに、却って完成させる」という、そのことは、如何にして可能となるのであろうか。

さしあたっては、我々が事物を経験するときの、そのものの「自然なありかた」、および経験する主体である我々の「自己のありかた」の様態を形容するものとして、すなわち「ものはどのように生成するのか」、「私はどのように生きているのか」を言い表す語としての「自然」に焦点を定めたい。そういう考察に於いては、経験する主体を捨象したうえで対象化された事物の総体としての自然ではなく、対象と経験する主体との間の不可分なる具体的な関係性そのものが問題となろう。

このような「生成の〈如何に〉」を表現する「自然」は、「しぜん」というよりも「じねん」と言う、より古い読み仮名で表現する方が適切であるかもしれない。今日、「自然(しぜん)」は、主体抜きの純然たる客体、ないし客体の総体としての世界、即ち近代以後の自然科学の対象世界を指す意味で使われることが多くなったからである。しかし、自然科学が扱う自然の概念を如何に位置づけるかと言うことも我々の議論の射程に入る。現代に於いては、自然科学で言う意味での自然概念が如何にして生まれるかという問題を追尋することなくして、自然一般を論じるだけでは不充分である。自然科学で対象化された自然も又「生成の〈如何に〉」を表示する基底的な自然概念から派生するものとして議論することが出来るものでなければならない。

「生成の〈如何に〉」を表す意味での自然を第一義とする場合、それは、神と世界という二元的な対立図式の片方のみ、すなわち神から区別された世界のあり方のみを指すと固定して考えるべきではない。「自然(じねん)」を専ら神と区別された世界に限定することは、ひとつの先入主である。それは、神と世界をそれぞれ別個の「もの」として実体化した後で、時間的生成という働きを世界の側に帰し、神を自然的世界から峻別された非時間的なる存在として捉える考えを既に前提してしまっているからである。しかるに「生成する神」の概念は受肉と歴史が本質的な意味を持つキリスト教にとって必要不可欠である。

ここで、現代に於ける自然神学の一つの試みとして、神学に於ける「自然」概念の根柢は、「世界の自然」にではなく、「神の自然」にあるという考え方を提唱したい。

この提唱は、直接的には、先程提示した「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」というトマスの言葉の可能根拠を指し示すものである。すなわち、恩寵とは「神の自然」に他ならず、普通言われる意味での「世界の自然」を完成するという意味である。

もちろん、こういったからといって、トマスの命題の意味するところ、その意味の全幅的な射程を覆い尽くしたなどと主張するつもりはない。そうではなくで、トマスの命題を受容し、そこから、形而上的なるもの(神的なるもの)へと開かれた自然主義の、新しい形態を出きる限り明晰に述べること、そのために必要な概念を提示するひとつの試みなのである。

そういう概念の適合性ないし有効性を判定する基準は、あくまでも我々自身の直接経験の現場以外にはない。各自が、自己自身の宗教的経験が、はたして有効に解釈され照明されるか、それを判定していただかなければならない。

「神の自然」は、「自然」というそのありかたにおいて「世界の自然」と通底している。そのゆえに、かかる「世界の自然」のありかたを深く捉えることが、「神の自然」を捉えることに繋がり、かかる「神の自然」を捉えることによって、始めて「世界の自然」の捉え方が完成する――これが、「神の自然」という概念の意味するところである。

もし、このような言い方が許されるとするならば、「恩寵」とは、まさに、かかる「神の自然」の働きに他ならず、この「神の自然」の働きこそが、「世界の自然を破棄せずに、これを完成させる」ことの可能なる所以を与えるのではないか。

しかしながら、この間題はさらに突き詰めて考察する必要があろう。神と世界の「自然」について論ずることは、両者の区別と関係性を如何に語るかという問題の考察を要求するからである。

世界の「自然」が、単に「自己自身のうちに生成の根拠を持つ」ことにつきるのであるならば、「恩寵」はそのような自己を否定するという意味を持つはずである。仏教徒の表現を借りるならば、「自力作善」の立場が根柢から否定されると言うことが、「恩寵」には本来含まれる。神の「自然」には、世界の「自然」の自己充足性を突破するものが含まれているのでなければならない。したがって、我々は、神と世界との区別と関係性を、如実に述べるために必要にして適切なる範疇とは何であるか、それを省察することを求められるのである。我々にとっては「世界の自然」の方が先立つものであるが、事柄自体としては、「神の自然」こそが「世界の自然」に先行し、それを可能ならしめるものである。しかし、そのことは、我々にいかに如実に経験されるのか、それが経験される場というのはいかなるものであるのかが指示されなければならない。

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