歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

ペトロ岐部とシドッチ-「 十字架の道を行く旅人の心」

2019-07-01 |  宗教 Religion

 ペトロ岐部とシドッチー「十字架の道を行く旅人の心」

 

田中 裕

 1「隠れキリシタン」ではなく「隠れたるキリスト者」

「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」という用語は、江戸時代から明治初めにかけての日本のキリスト教史に固有の特殊な用語という理解が一般的であるが、キリシタンとはポルトガル語でキリスト者を意味する以上、決して特殊な言葉ではない。そこで、この講演では、「隠れたるキリスト者Hidden Christian」という用語を使うことによって、原始キリスト教の宣教の基本精神との関係の中で日本のキリシタンの歴史を再考したい。そのために、まず「隠れたるキリスト者」の三つの意味を区別したうえで、歴史的な順序にしたがいつつ、それらを関係づける。

1-1 隠れたるキリスト者-A (Hidden Christian -A)
-
迫害の中で隠れた所にいます神に祈る-「マタイ福音書の初代キリスト者の祈り」

あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる」(6-6)

ステパノのように信仰告白すれば、殉教する危険にさらされていた當時のキリスト者の一人がマタイ福音書の書記者であった。「奥の部屋にはいって」祈るというところ、日本の隠れキリシタンとおなじではないだろうか・

1-2 隠れたるキリスト者-B (Hidden Christian-B)   
-非キリスト教のなかに隠れているキリスト者ー(使徒行伝、アテネでのパウロのアレオパゴス説教)

「アテネの人々よ、私はあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、私は、あなた方の拝む様々なものを、つらつら眺めながら歩いていると「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました…….神はすべての人に命と霊と万物を与えてくださった方です。一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。『私たちは神のうちに生き、動き、存在する』のです。」 「死者の復活のことを聞くと、(ギリシャ人の)あるものたちは嘲笑い、あるものたちは「そのことは、いずれまた聞こう」といった。しかし、パウロに従って信仰に入ったものも、幾人かいた。そのなかには、アレオパゴス(アテネの貴族院)の一員だったディオニシオスや、ダマリスという婦人、その他の人がいた。」(使徒行伝17:22-34)


 フランシスコ・ザビエル、バリニャーノ、マテオリッチなど日本と中国ーヘレニズム時代の希臘よりも古い伝統をもつ仏教と儒教の文化をもつ国ーに伝道活動をしたイエズス会士達の「順応主義」の宣教のお手本は、異邦人への使徒パウロのアレオパゴス説教であった。

1-3  隠さたるキリスト者-C (Hidden Christian-C) ─時の権力者の言論統制によってその信仰と生死が隠蔽されてしまった個々のキリスト者、あるいは「隠されたキリスト者」

たとえば細川ガラシャ(1563-1600)の場合、彼女がキリシタンであったと云う事実は、島原の乱以後の厳しい鎖国時代には隠されていた。たとえば儒者黒沢宏忠の「本朝列女傳」(1668)は、夫の名誉のために自決した「細川忠興孺人(夫人)」を「細川内室、當時節女、婦而有儀・・」と頌えているが、林羅山の弟子筋に当たるこの著者が、「細川内室」が「ガラシャ」という洗礼名をもつキリシタンであったことを知ったならばさだめし仰天したことであろう。


 ペトロ・カスイ・岐部の場合も長きにわたって「隠されたキリスト者」ないし「隠された日本人司祭」といえよう。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」のような開拓者的著述でさえも、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。彼が難民としてマカオに脱出した後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、潜伏を余儀なくされたキリスト者達を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、チースリック神父の長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになった。

2-1 十字架の道を行く旅人ペテロ岐部カスイー地球に架けられたロザリオ

 このペトロ岐部の往路(求法の旅)帰路(伝法の旅)を見ると、全体が地球に架けられた大きなロザリオに見える。このロザリオに沿って、かれは地上を旅しつつ、十字架の道行きをしたのである。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市は、そのままロザリオの数珠であろう。                  

 1582(天正10) 本能寺の変 天正少年遣欧使節日本出発(8年後に帰国)

1587(天正15) 豊後国浦部(大分県国東半島)でペトロ岐部誕生。岐部一族は大友氏の水軍衆の家系。大友宗麟の死去と秀吉の宣教師追放令直後の政治的・宗教的混乱の中で、父のロマノ岐部は宣教師の代役として領民に受洗する資格を得ていた。

1593(文禄2) 大友義統が豊後の国を秀吉に召し上げられ、父ロマノ岐部は所領を失い牢人となる。1600(慶長5) 石垣原での大友家再興のための合戦に敗れたロマノ岐部は、13歳の息子ペトロ岐部を長崎のイエズス会セミナリオに入学させるも、セミナリオが火災で焼失したため、翌年、肥後の有馬に移新築された有馬セミナリオに移住。

1606(慶長16)、セミナリオ卒業時に、将来イエズス会士となるための仮誓願をたて、「カスイ」という号を名乗り同宿として神父の補佐として働く。この号は、おそらく「活水(生ける水 aquaviva)」で、當時のイエズス会の総長のClaudio Aquavivaの苗字を頂き諱としたものであろう。

1614(慶長14)江戸幕府の吉利支丹禁令、教会堂の破壊、宣教師国外追放。

1615 (元和元) ペトロ岐部、日本人司祭となることを志して、長崎からマニラ経由でマカオに渡る。

1617 (元和3) マカオで現地人の日本人難民に対する反感と差別に出会い、三人の同宿と共にマカオを脱出、インドのゴアに到着。ゴアから海路リスボンをめざした同宿と別れて、単身、ホルムズ海峡を渡り、陸路でバクダード・ダマスカス経由、エルサレムに行く。

1619(元和3)エルサレム着。オスマントルコの支配下にあったが、フランシスコ会の聖地教会で巡礼。1620(元和6)パレスチナからヴェネチアを経てローマに到着。11月司祭となり、イエズス会に入会。聖アンドレア修練院に入り、コレジョ・ロマーノで倫理神学を学ぶ。

1622(元和8) 6月に帰国願いを出して、ローマを去り、バルセロナ・エヴォラ経由でリスボンに行き11月リスボンの修練院で誓願をたてる。

1623(元和9) 3月リスボンを出発。喜望峰・モザンビーク経由でインドに戻る。当時の日本は将軍家光ののもと、江戸の大殉教。各藩が幕府の命により厳しい迫害を開始。

1624(寛永元)  ゴア到着。 仙台大殉教。1625(寛永2)マカオ到着。1627(寛永4)2月マカオを去り、マラッカ海峡でオランダの海賊船に遭遇、5月にシャムのアユタヤに行く。

1627(寛永4) アユタヤからマニラに渡る。

1630(寛永7) 六月ルパング島出発、七島海峡で難破するも帰国がかない坊津に上陸後、長崎へ。(出国後15年が経過。ペトロ岐部43歳)

1633(寛永10)長崎で厳しい迫害。フェレイラ神父棄教。ペトロ岐部は長崎を去り東北に行く。

1639(寛永39) 仙台領内でポルロ・式見両神父と共に捕縛され、大目付井上筑後守政重の屋敷で査問を受ける(将軍家光、柳生但馬守、沢庵和尚も同席、棄教した沢野忠庵ことフェレイラ神父とも再会)。

棄教を拒否したため、小伝馬町の牢屋で殉教。(H。チースリックと五野井隆史の考証による)

 3 ザビエルの初心に還ることー「純一なる愛の働き」

 3-1 旅行く人(homo viator)の心

ペトロ岐部とシドッチに共通する精神として Homo Viator (旅ゆく人)の心をあげたい。万里を遠しとせず命がけで求道/伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであった。日本に普遍のキリスト教を伝えた最初の宣教師ザビエルの「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」[1]という祈りは、諸王のなかの王なるキリストに対する忠誠を誓いつつ、他者のために十字架の道を行くキリストに倣う心を表現したものである。西洋の騎士道精神とキリストの出会いの所産ともいうべきものであったが、それは日本の戦国時代、中世から近世へと移行する転換期の武将たちの儒教的な「士道」の精神に直接訴えかけるものでもあった。

 そして、ポルトガルやスペインのような大帝国の国家主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めてエルサレム経由でペテロの殉教の地であるバチカンに巡礼の旅をしたペトロ岐部もまた、ザビエルと同じく「十字架の行道」を志した人であった。

彼はマカオで難民生活の苦渋を味わったのちに、ゴアに行き、現地の信徒組織の人々からの支援だけをたよりに、陸路を一人でエルサレムまで旅をした最初の日本人であった。そして彼は、使徒ペテロと同じく祖国日本の迫害のさなかにある切支丹のもとへと帰還の旅に出る。帰国後も国内を潜伏しつつ旅を続け、東北で逮捕され江戸の切支丹屋敷で糾問される。そこで彼は将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守と対面している。岐部は、殉教者として、「キリストの法の真理」を証言するために徳川幕府の権力者と対面したといって良いだろう。 

 3-2 シドッチの旅と新井白石との対話

 江戸時代に来日した「最後の宣教師」としてのシドッチもまた、「旅する人」であり、キリスト教の真理を証言するために殉教した人であった。 

 新井白石の『西洋紀聞』とあわせ読むべき資料として、徳川実紀ー文昭院殿御実紀(十九世紀前半に編輯された江戸幕府の公式史書 全517巻)がある。その宝永6年11月22日(1709)の条に、シドッチを「行人」と呼んでいる箇所がある。

 ローマ法王の密使としてシドッチは来日したのであったが、途中長崎に立ち寄ったときに、当時ローマ・カトリック諸国と敵対していたオランダ人によって、彼が持っていたローマ法王の署名入りの手紙(通行手形)を没収され、単なる密入国の宣教師として処理されることとなった。そのため、正式の国信を持っていないことが江戸の裁判で問題とされたのである。しかし、白石は、シドッチがみずから「行人」と名乗っていたことに注目し、「行人は、礼に於て誅すべからず。後日其言の徴あるを待て」と幕府に進言した。つまり、「行人」であるシドッチを処刑することは正しくない。シドッチの言葉が真実であることの徴があるまで待つようにと白石が述べたので、シドッチは切支丹屋敷の中で、みずからの信仰を捨てることなく遇されたというのである。

 「行人」とは訓で「こうじん」と読めば、「旅人」であり、「ぎょうにん」と読めば「修行者」を意味するが、シドッチは自らをそのような「旅人であり修行者」であると白石に言っていたらしい。私は、さらに「修証者(あかしをするひと)」という意味を付け加えたい。すなわち殉教を意味するギリシャ語の原義は「証をする」という意味であり、その覚悟がなければ波濤万里を超えて日本まで旅することはなかったであろうから。「修証一等」とは、中国にまことの仏法を求めて旅に出た道元の言葉であるが、江戸時代の寺請制度のなかで身分を保障され体制化した仏教には、このような求法/伝法の旅の精神は失われてしまったのではないだろうか。ザビエル、ペトロ岐部、そしてシドッチに共通するものは、まさにキリスト教的な「修証一等」の精神であり、国家権力と妥協せずに「キリストの真理」を証しする「旅ゆく人」の精神である。 

3-3 シドッチと長助・はる夫妻の殉教

シドッチによってキリスト教信仰を告白した長助はる夫妻にかんする新井白石の記述によると

「正徳四年甲午の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりしといふ夫婦のもの〈此教師は、黒川寿庵といひしなり。番名はフラソシスコ=チュウアンといひしか。奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ〉、自首して、「むかし二人が主にて候もの世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず。年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」と申す。まつ二人をば、其所をかへてわかち置かる。明年三月、ヲゝランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の初申せし所にたがひて、ひそかにかの夫婦のものに戒さづけし罪を糺されて、獄中に繋がる。ここに至て、其真情敗れ露はれて、大音をあげてののしりよばはり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を変ずまじぎ由をすすむる事、日夜に絶ず。……此年の冬十月七日に、彼奴なるものは、病し死す。五十五歳と聞えき。其月の半よりローマン人も身病ひすることありて、同じき二十一日の夜半に死しぬ。其年は四十七歳にやなりぬべき。」    

 二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「授戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。

一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。

 ここで注目すべきは、「此ほど彼国人の我法のために身をかへり見ず万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。」という文である。「我が法のため」とはキリスト教のためと云うことであるが、長助・はる夫妻は、キリスト教を「我法」と呼び、自首して信仰告白をすることによって殉教の意思を表したと云うことである。浦上の隠れキリシタンが、自らキリスト者であることを名乗り出たのは、明治維新の直前であったが、長助とはるもまた、信仰告白をして殉教した「隠れたキリスト者」であったと思う。

 

                                                                                        



[1] 「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありませんただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです

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