歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

シラーの受難劇「メアリ・スチュアート」について

2020-02-14 |  文学 Literature
細川ガラシアを主人公とする17世紀ウイーンの音楽劇「勇敢な婦人(Mulier Fortis)」の演出を引き受けたとき、私がまず読み直したいと思ったのは、フリードリッヒ・シラーの二つの受難劇、「ドン・カルロス」と「マリア・スチュアート」だった。
どちらもシラーがドイツ語でスペインとイギリスを舞台として書いた悲劇(受難劇)であって、原語のドイツ語からスペイン語、イタリア語、フランス語、英語など多言語に翻訳ないし翻案され、楽劇やオペラとして今日に至るまで様々な形で上演されている。つまりこれは、音楽と戯曲の両者によって表現された「受難劇」なのだ。それは単一のイデオロギー(特殊言語)を越えた多元的な実在を表現する普遍性があるが、音楽で云えば、ポリフォニーと対位法によって表現される交響曲のごときものである。
 実際、シラーの戯曲は、適切に翻訳され演出されるならば、それぞれの言語で、ドイツ語で上演されるのとは異なるけれども、常に新たな展開を示すことができる。さて、この戯曲を日本語で日本人の観客の前でどのように演出すれば、そういう普遍性を日本という固有の文化的土壌に相応しい形で表現できるだろうか。
 この問題を哲学的に考察する一助として、若き日のベンヤミンの書いた「ドイツ悲劇の根源」は、とくに「バロック悲劇」についての優れた考察を含む点でおおいに参考になったし、「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」は、ゲーテやシラーがシェークスピアをドイツ語の文化的土壌の中にどのように受容し、その文化の内に開花させたかを具体的に示している点で興味深いものであった。
同じように、異国の藝術を文化内開花させること、日本という独自の歴史と文化の土壌をもつ場所で、シラーの戯曲を日本語で上演することを試みること、そういう試みは私にとって非常に関心があった。
 森新太郎演出「メアリ・スチュアート」は、上演台本を書いたスチーブン・スペンダーの英訳をさらにシェークスピアの専門家の安西徹雄が邦訳したものを台本としていた。上演時間を配慮した台本の取捨選択という事情はあったが、シラーの原作からそれほど離れてはいないという印象を受けた。
https://www.youtube.com/watch?v=cE9fY6jwRuI&t=1503s にドイツ語上演の記録があるが、安西哲雄は、このビデオ録画ではカットされている部分(たとえばモーティマーがメアリーに会ってローマへの旅を感激をもって語る場面)も丁寧に再現していた。全体的に安西の翻訳は、シェークスビア劇のテンポの良さ、ポリフォニックな劇的対立と観客の予想を超えた筋の転変を、可能な限りよく日本語化していたと思う。
 そして特筆すべきは、台詞の力を生かす舞台の構造であろう。二人の女王や登場人物の衣装は華やかであり時代を感じさせるものであるが、簡素な舞台ー大道具も小道具も極小にして、あたかも能や狂言の舞台を見ているような趣があるうえに、歌舞伎の花道のようなものが観客席のなかに突き出ており、役者は、そこを通って階段を使って入退場できるようになっている。これによって、歌舞伎座のような舞台と客席の一体感を醸し出すことができるわけだ。この劇場の芸術監督が野村萬斎だというのも頷ける構造であった。
  世田谷パブリックシアターでの「メアリー・スチュアート」の観劇は、「勇敢な婦人」細川ガラシアの楽劇の演出をする私にとって、非常に興味深いものであった。メアリー・スチュアート、エリザベス一世、細川ガラシャという三人の女性には、時代と文化の相違を越えて、深きところで共通するものが見えてきたからである。彼女達の周辺には、戦国の乱世の覇権を争う者ども、陰謀と政略結婚のなかで生き残りをかけた壮絶な権力闘争があった。善悪、友と敵のめまぐるしい入れ替わりがある厳しい人間関係の中で、一人の個人が如何に自分に割り当てられた役を生きるのか、自己の運命から逃避せずに、それを摂理的に受けとめた「勇敢なる婦人」たちの物語であるからである。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「水のいのち」(髙野喜久雄 詩、高田三郎 作曲)を聴く

2020-02-10 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
「水のいのち」(髙野喜久雄 詩、高田三郎 作曲)を東京オペラシティで聴きました。高田三郎没後二〇周年記念コンサートに相応しい実に見事な合唱でした。会場で配布されたプログラムに高田三郎自身のペン書きの歌詞
「昇れ昇りゆけ/そなた水のこがれ/そなた水のいのちよ」
が掲載されていました。高田三郎の自伝的回想「来し方」によれば、「水の一生」を歌った髙野喜久雄の詩の言葉に、「(天を憧憬する)魂の音楽」を聴いて、それを合唱曲としたとのこと。
 
髙野喜久雄の詩は「雨ー水たまりー川ー海ー海よ」という五楽章からなります。四楽章のテーマ「海」が、五楽章で「海よ」と人格化して反復されて終わるのが印象的です。循環する宇宙の営為を原初の混沌たる「海」から立ち現れてまた「海」に帰って行く「水」の一生に託して歌いながら、その海に向かって、
「みえない つばさ/一途な つばさ あるかぎり」、大空の彼方へと昇れと呼びかけているーこれがこの「水のいのち」の合唱の素晴らしい点だと思いました。
 
不思議なことに、この第五楽章を聴いたあとで、第一楽章の歌詞を再び読み直してみると、そこで歌われた「雨」は、万物を活かす水として「恵みの雨」でもあったことに気づかされます。
 
Raimon Panikkar が Cosmotheandric Experience (宇宙と神と人を統合する経験)と呼び、西田幾多郎が「内在的超越」と概念的に表現したことが、髙野喜久雄と高田三郎によるこの歌曲では、詩の言葉と音楽によって実に具体的に象徴されていると思いました。
 
 このコンサートの女声合唱組曲「マリアの歌ー村上博子 詩。高田三郎 作曲」では、壮大な叙事詩ともいうべき「水のいのち」とは対照的な叙情詩の世界が歌われますが、そこでも詩のことばと音楽のハーモニーを聴くことができました。村上博子の詩のマリアは、街角のなかですれちがうマリア、カットグラスの玻璃のかおりに感じるマリア、病に苦しむ冬の日に到来を予感させるマリア、そしてこの詩の最終連、
「すべての定義を風のようにのがれて/あなたのお答えだけが/不思議な星となってまたたいている」
は、様々な神学者のマリア論を逃れるマリア、「お望みならばそうなるように」というその「答」の不思議をさりげなく歌っています
合唱のあとで、ピアノがまさに星の瞬きのようなピアニシモを後奏したのが印象的でした。
 
このコンサートの第一部「グレゴリオ聖歌と典礼聖歌」の指揮をされた西脇純さんは、細川ガラシャのラテン語によるバロックオペラの再演企画の実行委員もお願いしています。
リヒトクラウス会員の懇親会で伺ったところでは、西脇さんがドイツで書かれた神学博士論文はアンブロシウスとミラノ学派の典礼聖歌についてのものであったとのこと。東方キリスト教の伝統、とくにその神秘主義、典礼と音楽の伝統、アウグスチヌスの回心にも多大の影響を与えたアンブロシウスは、東西の対立を越えた典礼音楽の源流の一つです。
 
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする