歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

孔子の音楽論

2008-06-30 | 美学 Aesthetics
子語魯大師樂,曰:「樂其可知也:始作,翕如也;從之,純如也,繳如也,繹如也,以成。」

zi3 yu3 lu3 da4 shi1 yue4, yue1:「yue4 qi2 ke3 zhi1 ye3: shi3 zuo4, xi4 ru2 ye3; cong2 zhi1,chun2 ru2 ye3, zhuo2 ru2 ye3, yi4 ru2 ye3,yi3 cheng2。」

子魯の大師に樂を語りて曰く「樂は其れ知るべきなり:始めて作(お)こすに,翕如(きゅうじょ)たり;これを従(はな)ちて,純如(じゅんじょ)たり,繳如(きょうじょ)たり,繹如(やくじょ)たり,以って成る。」

当時(孔子の時代)の音楽は、いくつかの管楽器、いくつかの弦楽器、いくつかの打楽器をもつオーケストラであったらしい。

同時に複数の楽器が異なる音を演奏しながら、混沌に陥らずに見事なハーモニーが得られるということは、音楽のすばらしさである。その音楽のオーケストレーションの妙味を簡潔な言葉で表現したものが上で引用した論語「八佾第三」の文である。

吉川幸次郎の論語注釈によると

翕如(xi4 ru2 きゅうじょ)=もりあがるような金属の打楽器の鳴奏

純如(chun2 ru2 じゅんじょ)=諸楽器の自由な参加(從之)によってかもしだされる純粋な調和

繳如(zhuo2 ru2 きょうじょ)=諸楽器がそれぞれに受け持つパートの明晰さ

繹如(yi4 ru2 やくじょ)=連続と展開

以成(yi3 cheng2)=音楽の完成

とのこと。

ここでは「如」という言葉がキーワードだろう。孔子が人の眞實のあり方を指して言った「仁」とは、人と人との調和ある人格的関係をさすが、この関係を基盤とする社会的関係に調和と秩序をもたらしつつ、社会に於ける人格の完成を、時間的な生成の場において、「如實」に表現したものが音楽なのである。

すなわち、音楽は「一」なる始源から発し、「多」なるものへと展開発展した後に、再び一なる調和へと帰一していく宇宙と社会の調和の表現なのである。

江文也の「孔廟大成楽章」の英訳者は、「迎神」の第一楽章、「送神」の第六楽章でいうところの「神」をthe Spirits などと訳しているが、ここでいう「神」をどう捉えるべきであろうか。様々な見解が在ろうが、「怪力乱神」を語らぬ孔子を祭るときに「神」なる言葉を使うことの意味をさらに考察したいと思った。

孔子は「神」について語ることを慎んではいたが、詩と音楽を媒介として、あたかも「神」がいますがごとく、「典礼」に与ることは重視していた。すなわち、孔子の倫理はあくまでも人間の立場を離れないが、超越へと開かれた人間存在をそこに読みとることが出来る。そして閉ざされた人間の自己中心性を越えるように促すものこそが音楽であり、それ故に音楽は人間の教養の完成に不可欠なものなのであった。
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