歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

五輪開会式に寄せてー孔子の視点から

2008-08-15 | 日誌 Diary
子曰:「學而時習之,不亦説乎?有朋自遠方來,不亦樂乎?人不知而不慍,不亦君子乎?」

zi3 yue1:xue2 er2 shi2 xi2 zhi1,bu2 yi4 yue4 hu1? you3 peng2 zi4 yuan3fang1 lai2,bu2 yi4 le4 hu1? ren2 bu4 zhi1 er2 bu2 yun4,bu2 yi4 jun1zi3 hu1?

「有朋自遠方來,不亦樂乎」の箇所が北京オリンピックの開会式のときにアナウンスされたことは記憶に新しいが、国威発揚を目的としたセレモニーに孔子の言葉が利用されたという印象を拭えなかった。文化大革命の時には、反右派闘争の名の下に孔子批判をやったことなど今の共産党政権は忘れてしまったのだろうか。この後に続く「人不知而不慍,不亦君子乎(他者が自分を認めてくれなくとも、怒ることが無いというのは君子ではないだろうか)」という精神は、夜郎自大的な自己主張とは無縁のものだ。中国が如何に優れた国であるかを諸外国に見せつけようとするあまり、現在の中国政府はずいぶんと背伸びをしているように見える。そんなことをしなくとも、古典時代の中国のすばらしさは知る人ぞ知るのである。

 ところで、上の孔子の言葉のなかにある「樂」であるが、これは自他の調和した関係を表現する言葉では無かろうか。単に「喜ばしい」というような主観的な(ややもすれば手前勝手な)意味ではなく、他者の目(他者としての主観)から見ても調和のとれた人間関係を意味するということは、孔子の次の言葉から分かる。

子曰:「知之者不如好之者,好之者不如樂之者」

zi3 yue1: zhi1 zhi1 zhe3 bu4 ru2 hao3 zhi1 zhe3, hao3 zhi1 zhe3 bu4 ru2 le4 zhi1 zhe3

これを知るものはこれを好むもの如かず。これを好むものはこれを楽しむものに如かず。

「知る」という場合は、いまだ全人格的な関係ではなく、単なる知的な関係である。また主観が客観を知るのであって、客観をもうひとつの主観としてみる域には達していない。「好む」という場合は、情意が入ってくるから、知的な「知る」以上の深い関係であるが、強調点は主観の側にあり、「好まれる」客体のもつ主観性への配慮に欠ける。よって主観的には「好んで」いても、相手がそれに応じてくれるとは限らない。客観もまた自分と同じ主観であることが考慮されていないのである。真の意味での相互主観的な関係の理想、それが「樂」という言葉で表されている。樂(楽しむ=le4) は音樂の樂(yue4)でもあり、オーケストラが目指すハルモニアがそこに生まれる。

次の五輪の開催国であるイギリスでは、五輪の花火の中継がCGであったことや、開会式で歌った少女がいわゆる「口パク」で、実際に歌った少女は別人であったことに対する批判が出てきた。そういう演出が個人を全体の道具に供する点において、人権無視であって、「中国政府はその非倫理性に気づいていない」というのが批判の眼目である。聴けば、リハーサルの時の共産党のお偉方の指示で、こういう姑息な演出になったとのこと。

もっとも英米の映画やショー・ビジネスでは、こういった欺瞞は日常茶飯事なのではないか。たとえば、マイフェアレディを映画化するときに美貌のオードリーヘップバーンの歌を別人の歌手とすり替えた先例がある。だから、英国から出た批判は、むしろアマチュア精神を忘れ、市場経済と国威発揚の精神に飲み込まれた五輪の現状への批判でもあったろう。中国が本来の意味での儒教的な「禮」の精神を重んじていたならば、こういう不正直な演出をすることはなかったと思う。

子曰:「人之生也直,罔之生也幸而免。」

zi3 yue1: ren2 zhi1 sheng1 ye3 zhi2, wang3 zhi1 sheng1 ye3 xing4 er2 mian3

人の生くるや直し。罔(あざむ)くものの生くるは、幸にして免る。
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恨の情念-「長恨歌」 に寄せて

2008-08-08 | 美学 Aesthetics
七月七日長生殿,夜半無人私語時。
在天願作比翼鳥,在地願為連理枝。
天長地久有時尽,此恨绵绵無絶期。

「恨」とは、日本語では怨恨の「恨」であり、うらみ、つらみという意味であるし、現代中国語でも似たような意味である。ニーチェやマックスシェーラーの言葉を借りるならば、「ルサンチマン」という語がピッタリとするかも知れない。しかしながら、この言葉(中国語読みではhen4)は韓国では重要な意味を持つ言葉だということを、友人の韓国人から聴いて認識を新たにしたのである。この言葉は韓国語では「ハン」と読むが、それは大韓民国の「韓」に通じるのだという。抑圧された情念という意味だけでなく、もともと人間が生きるということの根柢にある情念の力を表す言葉なのであり、韓国とは「ハンの国」であるというのだ。哲学的に云えば、プラトンの云う神的なるエロース、新約聖書に云うアガペーにも匹敵する哲学的含意があるとのことであった。アガペーの神学というかわりに「ハンの神学」というものもあり得るのである。

 私がただちに思い浮かべたのは、白楽天の長恨歌の最後の言葉であった。

「永久に存在するように見える天地もいずれはつきることがあろうが、この「恨(ハン)」の情念のみは絶えることがない」

とは、まさに恨の神学の根源的命題とも云うべきものだ。キリスト教の福音書では「天地は滅びようとも御言葉(ロゴス)は永遠である」という。それに対して、ハンの神学では、おそらく「天地は滅びようとも恨は永遠である」ということになろうか。
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