歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

アウシュビッツ以後の神学―ハンス・ヨーナスとの対話―

2016-03-29 |  宗教 Religion

アウシュビッツ以後の神学―ハンス・ヨーナスとの対話―

田中裕(プロセス思想第16号2014, pp.9-24より転載)

 ハンス・ヨーナスといえば、「責任という原理―科学技術文明のための倫理学の試み」という主著で提示された世代間倫理の提唱者として著名であり、日本でも環境倫理学の文献でよく引用されている。私もまた、二〇一〇年度の本学会シンポジウムで「共生の哲学」をテーマとして発表したときに、生命と環境に関する彼の哲学をホワイトヘッドの有機体哲学との関連において論じた。今回の講演ではその続きとして、ハンス・ヨーナスの思想を倫理学や存在論といった哲学的文脈ではなくて、伝統的には「神義論(theodicy)」として知られている神学的文脈において取り上げたい。

 (一)ハンス・ヨーナスの「アウシュビッツ以後の神概念」について

 ハンス・ヨーナスは、ハイデッガーとブルトマンの指導の下でグノーシス思想の研究で学位を修得したことから知られるように、古代末期のヘレニズム世界の宗教者の生の実存論的分析に通じていた人であったが、日本で紹介されてきた倫理学的著作においては、ユダヤ教やキリスト教の宗教的傳統に明示的に言及することは稀であり、理性的な討議を超えた宗教に関わる事柄には禁欲的な哲学者としての立場を守っていたといえる。しかしながら、その晩年において、強制収容所でなくなったユダヤ教のラビ、レオポルド・ルーカス博士を記念する賞を、チュービンゲン大学より授けられた時に、ヨーナスは、ルーカスの母と同じくアウシュビッツで死亡した自分自身の母親のことを思いつつ、受賞記念講演のテーマに選んだのが「アウシュビッツ以後の神概念―ユダヤの声」であった。その講演の内容はヨーナスから哲学者としての発言を期待していた聴衆を驚かせたが、ヨーナスは、それまで自らのユダヤ教信仰については寡黙であった自分が、敢えてこのようなテーマを選んだ理由について、「アウシュビッツの靈たちが黙せる神に向かってあげた長くこだまする叫びに対して、なにがしかのの答えのようなものを試みる、そのことを断念しないことこそ、その人々に対する責務である」と述べている。[i] 数千年にわたる受難の歴史を持つユダヤ民族にとっても、アウシュビッツの出来事は、先例のない途方もなく苛烈な経験であって、ヨーナスはこの経験が神とどう関わるのかと問わないわけにはいかなかったからである。哲学者として普遍妥当的な論證をすることはカント以後の理論的哲学ではとうに断念されたことではあるが、実践理性に関わる信仰の事柄として、ヨーナスはあえて神学の領域に踏み込んだのである。世俗化した現代においては、哲学者が神について語ることは異例である。しかしながら、理性にもとづく概念的思索が及ばぬ場合であっても、知りうるものの彼岸の領域を前にしてミュトスを語ったプラトンに倣い、ヨーナスは、様々な神話的な象徴を援用しつつ、倫理的実践の指針となるべき理念としては首尾一貫した神概念を提示することを辞さなかったのである。そのような理論理性を超えた領域に踏み込むことを、アウシュビッツの犠牲者たちと同じ時代を生きた一人のユダヤ人の哲学者の義務と考えたことが、ヨーナスがこの記念講演を行った理由であった。

「この世で義しき人、信仰篤き人が受難を被るのはなぜか」あるいは「神に選ばれた民であるユダヤ人がなぜ異教徒に侵略され、虐殺され、祖国を失い、捕囚の屈辱を受け、異教徒のうちにあって隷従しつつ生きなければならないのか」という問は、受難の民と言うべきユダヤ教徒にとっては歴史的なものであった。それは、聖書の諸書、たとえばヨブ記や預言書のなかでアブラハム・ヤコブ・イサクの神への無条件的な信仰、モーゼの律法の遵守という文脈で繰り返し語られたものであったし、ある意味で旧約聖書の根本的主題でもあった。この歴史的な問が、第一次世界大戦以後のドイツにおけるユダヤ人の虐殺という現実を前にして、新たに切実な問いとして蘇る。

ユダヤ教やキリスト教における神義論の歴史を繙いてみれば、我々は様々な解答の試みを見いだすであろう。ユダヤ人の受難は、この民族が神との契約を守らなかったこと、神に忠実ではなかったことの罰として因果応報的に説明されたか、あるいは「もっとも正しく罪のない人が民族の罪を背負って最も過酷な悪を被る」こと、つまり罪なき人の贖罪的な犠牲ないし殉教として説明されてきた。しかしながら、ヨーナスはこのような類型的な説明は、現代人にとっては説得力を失っているという。アウシュビッツという名を持つ出来事は、ユダヤの歴史経験にいまだかつてなかったものを新たに付け加えたのであり、それは従来の神学のカテゴリーでは手に負えぬものであるからである。

とくに真の救済を来世に期待するのではなく此岸に神の創造、正義と救いの場を見ようとするユダヤ教徒にとっては、アウシュビッツそのものが大きな問題となる。神は歴史を支配するものであり、この伝承された神の概念を信ずるものにとっては、厳密な学問的論證はできずとも、神義論の根本的な問いに対して新たな答えを探さなくてはならないからである。

ヨーナスの神学的議論の特徴は、伝統的なユダヤ・キリスト教の神学的な神の概念の一つである「神の全能」を否定することにあった。正統的な神学では異端とも見えるこのような見解を彼が取らなければならないとなぜ考えたのか、それを説明する前に、彼の理性的な議論の根源にあるパトスを端的に表現するものとして、ヨーナスに大きな影響を与えた一つの証言、アウシュビッツの犠牲者の一人であった若きユダヤ人女性、エティ・ヒレスムの残した次のような証言をあげなければならない。

「神が命じるところなら、私はこの地上のどんな場所にも行く。私はどんな状況でも、死に至るまでこう証言する用意がある。・・・」

「神よ、あなたが私をお見捨てにならないように、私はあなたを助けましょう。でも、私はあらかじめ何も保証することができないのです。ただひとつこのことだけが私にはますますはっきりしてきました。あなたは私たちを助けることができず、私たちがあなたを助けなくてはならないということです。そうすることで、私たちはついには私たち自身を助けることになりましょう。肝心なのはただ一つのことです。私たちのうちにあるあなたの一部を救うこと、神よ。・・・・ええ、神様、あなたにしても、この状況の多くを変えることはできないようにみえます。・・・・私はあなたから説明を求めません。あとになって、あなたは私たちに説明を求めるでしょう。ほとんど心臓が脈打つたびに私にますますはっきりしてくるのは、あなたは私たちを助けることができず、私たちがあなたを助けなくてはならないということ、私たちの内にあるあなたの住処を最後の最後まで守らなくてはならないということです。」[ii]

 ヨーナス自身が引用しているこのユダヤ人女性の証言は、我々の外部にあって、世界と歴史を支配する「全能の神」にたいする信仰の告白ではない。その点において、義人の受難という問に対して旧約聖書のヨブ記の作者が与えた解答とは全く異なっている。アウシュビッツという極限的な状況で発せられたこの言葉は、全能の神でなければ信仰に値しないと考える伝統的なユダヤ・キリスト教の神概念では説明ができないであろう。

 エティ・ヒレスムの証言に深く突き動かされたヨーナスは、この信仰のパトスのうちに内在しているロゴスを「アウシュビッツ以後の神学」のなかで展開している。その議論の出発点は、「神の全能」、「神の善性」、そして「神の理解可能性」をすべて認めることは論理的に不可能であるというトリレンマである。全能にして絶対的に善なる存在でありながら、アウシュビッツのような根源悪を前にして沈黙する神は、全く理解不能なものとなるであろう。しかしユダヤ教の教えであるトーラーは、神の理解可能な言葉によって預言者に伝えられたものであり、完璧ではないにせよ、人間が神を理解できるということを前提としている。したがって、神を理解可能であって、善であり、しかも世界にはアウシュビッツのような不合理な災禍が現に存在したということを真摯に認めるならば、神の属性と伝統的に考えられたもののなかで真に否定しなければならないのは「神の全能」という概念である、というのがヨーナスの議論である。

 しかしながら、いかにアウシュビッツが新しい神学的思索を要求するといっても、その神学は、それを語るものがユダヤ教徒あるいは、キリスト教徒であるならば、ユダヤ教やキリスト教の傳統と無縁なものであることはできない。伝承された様々な物語、ミュトスの再解釈ということが必要となるであろう。ヨーナス自身は、もともとグノーシス思想の研究者であったという経歴があるからであろうか、ユダヤ教の「神の収縮Zimzum」[iii]という神話を手掛かりにして、神と世界の関係を次のように説明している。

この仮説的ミュトスによれば、世界を存在せしめるために神は自己の存在を断念し、その完全性をみずから放棄したというのである。つまり世界の創造とは、超越的なる神の自己否定に他ならず、このような神の自己否定によって、世界が存在するのである以上、私たちの世界に対する帰属は、世界の外に立つような「摂理」によっては決して緩和されることのない厳しいものともなりうるのである。このような世界において、人間は世界の外部からの「全能なる神」の超越的救済をあてにすることはできない。本質的に偶然と冒険に支配されたこの苦しみに満ちた世界のただ中において、人間は、被造物としての自己に内在する神に対して責任を負わなければならないというのである。

 ヨーナスはそのようなミュトスから、(1)受苦する神(2)生成する神(3)気づかう神、という三つの神概念を引き出している。最初の「受苦する神」という概念はキリストの受難という概念と類似しているが、救済論ではなく創造論の文脈ですでに語られている点で、伝統的なキリスト教神学とは異なっている。「生成する神」とは「永遠に自己と同一である完璧な存在を所有する代わりに、時間の中で明らかとなる神」という概念である。それは、超時間性、非受動性、不可変性を必然的属性としてもつという伝統的なキリスト教神学の神概念とは矛盾するが、旧約聖書の神概念とは対立しないものである。またこの「生成」という概念は、キリスト教的形而上学に対するニーチェの代替案にほかならぬ「永劫回帰」とも矛盾し、同一事態の反復を決して許さない。神自身が、世界の歴史的過程を通じて冒険を行っている以上、世界と共につねに、否定によって自己の同一性を越えて時間的に進展しゆく存在である。最後に「気づかう神」とは、「遠くに身を置き、自らのうちに完結している神ではなく、自分が気づかうことに巻き込まれてしまう神」であり、「被造物のことを被造物のために気づかう神」であって、それこそが聖書にもとづくユダヤ教の根本信仰の中でもっともよく知られたものである。そしてこの三つの概念によって、聖書の傳統と結びつきつつ、「全能なる神」という絶対的に超越的な力を強調する伝統的な神概念を否定するところにヨーナスの神学的思弁の特徴があると言って良いであろう。

 (二)プロセス神学における神義論について

 ここで、ヨーナスとは独立に、「神の全能」という概念を退けてきた米国のプロセス神学における神義論を参照しつつ、「アウシュビッツ以後の神学」というテーマをヨーナスとは違った観点から再考してみたい。ヨーナス自身は、プロセス神学については全く言及していないし、またプロセス神学者達も、神義論の文脈では、私の知る限りでは、ハンス・ヨーナスの神学的思弁を無視しているようである。そうであるにもかかわらず、前節でのべた神概念の三つの契機と神の全能という概念の否定は、基本的にはプロセス神学の基本的特徴でもある。そしてこの一致は偶然ではなく、両者ともにホワイトヘッドの形而上学的思弁の影響をそれぞれが違った形に於てではあるにせよ受けているからであろう。

 たとえば、チャールズ・ハーツホーンの『全能およびその他の神学的誤謬について』は、ハンス・ヨーナスの「アウシュビッツ以後の神概念」とほぼ同じ時期に出版された著作であるが、その後のプロセス神学の神義論の背景となる神学的な論点を要約したものと言って良い。そこで彼は、従来のキリスト教神学の「誤謬」として(1)神は絶對的に完全であるがゆえに不変である(2)神は全能である(3)神は全知である(4)神の善性は共感を欠いている(5)不滅とは死後に生命の担い手が存続することである(6)啓示は不可謬である、という六つの論点を挙げている。[iv] この本のタイトルにもしめされているように、「神の全能」の否定こそが、彼が提唱するプロセス神学、すなわち「新古典主義的有神論(neo-classical theism)」の根本特徴であるという主張を展開している。また、デイヴィッド・グリフィンの『神、権力、そして悪―プロセス神義論』[v]は、伝統的な「神の全能」概念を前提すれば、悪の實在という経験的な論拠から無神論が帰結するという直截な議論を展開している。それは、神の理解可能性、神の善性、および神の全能という三つの概念は同時に主張することができないという点でヨーナスの議論と同じである。

このようにプロセス神学者達は、伝統的な神学上の概念である「神の全能」を退ける点において、ヨーナスと同じであるが、ヨーナスとは違って、単なる神話的なイメージによって、真実らしき物語として神学的思弁をしているわけではなく、ホワイトヘッドの「過程と實在」の形而上学と「形成途上の宗教」における宗教哲学に依拠しつつ、「新古典主義神学」ないし「プロセス神学」という新しい神学を積極的に提唱している点が異なっている。

ヨーナスにおいては、神の存在の自己否定という出来事―自らの力を放棄して世界に完全に譲渡する神について神話的に語られたために、この神話的な物語において、世界創造以前の神が、「存在するもの」として、依然として前提されている。そのような存在者としての神が「存在」と自らの「完全性」を放棄することによって世界の「創造」という一回限りの出来事が生起し、それ以後は、神は全能をみずから放棄して、世界の進行を世界自身にゆだねるというごとき図式が残存している。これに対して、ホワイトヘッドの「過程と實在」で中心的な位置を占める概念は、「無からの創造」という天地開闢のときにのみ生起した一回限りの出来事ではなく、今この瞬間において、そしていかなる瞬間においても同じように絶え間なく作用している「創造性(creativity)」である。

 「創造性」は如何なる意味でも対象化されざる根源的な活動であり、現実的な存在者としての神よりも存在論的に先行する。時空を越えた無限なる現実的存在者としての神をすら超越する「創造性」は、一性と多性とならび、神と世界とに共通の超越論的述語であり、普遍の普遍(the universal of universals)である。「創造性」は存在と価値に関しては無記であり、それが現実化するために神と世界を共に必要とする。活動的存在(Actual Entity)としての神は、伝統的神学で前提されていたような「全能の創造主」ではないが、決して無力なる存在ではない。そもそも「存在とは力である」というのがホワイトヘッドの存在論の根本的特徴であり、神であれ有限なる活動的生起であれ、およそ現実に存在するものにして無力なるものは何一つ存在しない。ただし、ここでいう力とは、ホワイトヘッドが、プラトンの対話編である『ソフィステース』に登場するエレア派の客人の言葉から取ったものであるが、それは「他者からの影響を受容し、かつ他者に影響を与えることのできる力(デュナミス)」という意味であり、「力」の概念は「他者」を必然的に前提するのである。ホワイトヘッドはこの考え方をさらに徹底的に推し進め、存在者としての自己と他者の相互主体的な関係性を、創造性の活動によって常に新たなる活動的存在が生成していく出来事としてとらえている。すなわち、経験の主體は他者の存在を前提として生成し、自らをあらたなる一つの存在として、他者の新たなる生成のために自己を与える自己超越的主體(subject-superject)でもある。ヨーナスは、唯一回限りの世界創造において神はその力を世界に譲渡したと物語的に語ったが、ホワイトヘッドの場合は、自己の存在の他者への譲渡は、生成する歴史的世界のひとつひとつの存在者の間で各瞬間瞬間において常に生起している根源的な出来事である。いうなれば、それは神話としての物語ではなく、客観的にして主体的な事實そのものである。「創造性」は、さらに「一」と「多」という超越論的述語と組み合わさって究極の範疇(the categories of the ultimate)を形成する。「多」を「一」とならんで超越論的述語とするところに、ホワイトヘッドがプラトン主義の伝統を批判的に継承しつつ、プラトン以後の人類の経験を総括して、世界の多様性を積極的に肯定する独自の形而上学を構想したことを示している。すなわち、自己同一性(self-identity)だけではなく、自己差異性(self-diversity)が創造性の活動に必要であり、自己同一は、「多」と「一」が時間的に相互に創造的に転換するプロセスによって歴史的世界が成立する。それは「多は一となることによって、一によって多様化される(The many become one, and are increased by one)という根本命題によって表現されている。

 ホワイトヘッド哲学における創造性と神の関係は、伝統的なキリスト教神学には見られぬものである。アリストテレスの実体概念を前提すれば、創造性は実体の属性であり、創造性よりも実体という「存在」が優先するであろう。しかるに、「具體的な関係性の事実(Concrete facts of relatedness)を実体よりも根源的と見なすホワイトヘッドにおいては、創造性は、神にせよ世界内存在にせよ、およそ存在するものに先行し、それらを存在せしめる究極の活動であり、それ自身は「存在」ではない。この世界における自由の起源を、存在者としての神を神ならしめる神の根柢に求める点で、形而上学的に究極的なる活動を、存在者としての神から区別している。その点においては、シェリングの『自由論』に於ける「神の内なる自然」と神の関係、ないしベーメの「無底」と神の関係と類似しているように見えるが、「全能」という言葉と伝統的に結合していた「絶対者」の概念をホワイトヘッドが否定する点において、ドイツの理想主義哲学の自由論とは区別すべきであろう。ホワイトヘッドの神概念は、単に全能でないというにとどまらず、「絶対者」としての神という概念を、抽象的な無力な概念として退けている点に根本的な新しさがある。その形而上学の根本原理は、「普遍的な相対性の原理」であって、活動的存在を存在概念の基盤とする「存在論的原理」は、実体概念のラジカルな否認に他ならぬこの「相対性の原理」とともに理解されるべきである。すなわち、創造性と神との関係は、伝統的なキリスト教神学における属性とその基体としての実体という概念ではとらえられず、むしろ「縁起・無自性・空」を存在者の存在よりも根源的と見なし、そこにおいて、かたちある仏の存在を考える大乗仏教の傳統のほうに親和性を持っていることはプロセス神学と仏教との対話において縷々指摘されることである。仏教的にいえば苦悩する衆生の救済を、煩悩に満ちたこの世からの解脱としての涅槃寂静においてではなく、むしろその世界を絶対的に肯定し、言うなれば此岸と彼岸をともに超越して、両者が交互に転化する歴史的な世界の創造性のただなかに求める点が、ホワイトヘッドの宗教哲学の根音特徴である。そこにおいては、輪廻転生する生死の円環的連鎖、永劫回帰する世界(そこには来世においても新しきものは無い)からの解脱ではなく、一回きりのかけがえのない歴史的世界における創造性の活動が根本であり、そこに救済を求める点に、「空性」ではなく「創造性」を超越論的述語とした意味があろう。

神も世界における有限なる存在者も、およそ存在するものはすべて力を持つものであつと前に指摘したが、それと同時に現実に活動している存在者はすべて物質性と精神性を兼備している。このばあい意識を持つ人間だけに精神性があるのではない。すなわち、ホワイトヘッドの語る歴史的世界においては、既在性が物質的世界からの限定を表現するとすれば、将来性が理念的世界からの限定を表現するのである。両者の限定のもとに現在に於いて自己形成を行う主体は、自己創造的被造物(self-creating creature)であり、世界をその都度抱握することによって、世界を内在させ、そのことによってその現実世界を超越する存在として、他者としての諸々の現実的存在に自己を与える。この自己能与の結果が活動的存在の自己超越性(superjective nature)である。

 この意味で、有限なる活動的存在は、物質性と精神性を両極として統合するモナド的な生起であるが、世界を内在させることによって、本質的に新しい未来の世界に向けて自己超越するのである。この点に於いて、個々の活動的生起は、創造的世界の創造的要素として、神と世界との関係を、逆対応的に表現する。すなわち、神に於いては、無尽蔵の永遠的形相の理念的評価が先行し、物質的世界によるこれらの理念の世界による制約された実現が後行するのに対し、個々の有限なる活動的生起は、世界に於て既に実現された諸理念を物質的に抱握することから自己形成を開始し、自己の主体性を導く原初の目的因を神より理念的に与えられること(理念的転換)によっての自己をあたらしき存在として既存の世界に与える。神において先なるものは個的実存である活動的生起にとっては後なるものであり、神に於いて後なるものはその活動的生起にとっては先なるものである。このような神と個々の実存者との逆対応的関係によって世界の歴史的過程が成立する。

 (三)不滅性と今日の実存―ヨーナスの神話的象徴の哲学的解釈

  ハンス・ヨーナスの神学的思弁として「アウシュビッツ以後の神概念」とならんで特筆すべきものは、一九六一年に彼がハーバード大学でおこなったインガソル特別講義、「不滅性と今日の実存」である。「不滅性」の世俗的な意味、すなわち「名声や影響の不滅性」が如何に信頼し得えないかということ、また「人格の不滅性」という神学的な観念が、時間的な現象と永遠的なる本質という形而上学的二元論に基盤をおいているかぎり、第二次大戦の瓦礫の中にたたずむ現代人の根本的気分に他ならぬニヒリズムを超克するものとはなり得ないであろう。このニヒリズムを真正面から取り上げた実存哲学の主張にヨーナスは賛同しないが、その精神を共有し、とという二重の無の狭間、時間の中の孤独な足場に身を置いて不滅性を再考することを試みている。

ヨーナスの出発点は、「永続性」とは異なる意味を持つ「永遠」を、持続のうちにではなく、決断の瞬間においてとらえることである。すなわち、「持続というかたちで自己を肯定するもののうちではなく、自己を否定するものの内に、永遠への―まだ確定されていない―関係を探し求める」こと、これが不滅性を再考するときの指針となる。ただし、永遠との接点が瞬間であるといっても、それは神秘主義者が時間の運動からの解放を味わう静止した「今」としての瞬間ではなく、まさに時間の運動を生み出し、それを内奥から動かすものとしての瞬間である。彼は、このような時を生み出す瞬間について次のように語る。

この瞬間は、行為の敷居のところで時間を宙づりにし、私たちの存在を、時間を越えたものに曝し、決断という転回によって私たちの存在を行為と時間へと速やかにもたらす。瞬間は、それが始めた運動にすぐに絡め取られてしまうとはいえ、まさに状況の中の滅びうるものを私たちにゆだねるが故に、私たちが超越に対して開かれていることを示している。あらゆる関心の本質を構成するこの(現世的なものと超越への)二重の開放性において、瞬間は責任を持って行為するものを永遠と時間の間に置く。この二つの狭間から新たな始まりの可能性が、したがって、人格の真の歴史性の可能性が生じる。その際の歴史性が意味しているのは、とへその都度飛ぶようにして舞い戻ることである。[vi]

 ヨーナスがここで問題としている不滅性は、実体的な霊魂や人格の概念にもとづくものではないとはいえ、決断と行為の「瞬間」のうちに永遠なるものとの関係を見いだし、我々の活動的な経験、自由、責任が経験において示唆するものに従いつつ、「正義」という倫理学の中軸的概念に実質的な意味を恢復しようとする試みである。そのために、ヨーナスは、のちに「アウシュビッツ以後神概念」のなかで反復される神話的物語に依拠しつつ、「生命の書」と「超越的な肖像」という二つの象徴を提示している。

「生命の書」とは、元来はユダヤ教の伝承において、我々の名前が功績に応じて書き込まれている天上の台帳を意味していたが、それをヨーナスは、功績の如何に関わらず、我々の時間的行為それ自体が現世に関する永遠の記録簿に登録されるという意味に再解釈する。すなわち、いまここで行われている全てが、時間の因果関係の編み目を通じたその影響と最終的なその消失を超えて、あらゆる未来にわたって超越的な領域に影響を刻印し、存在に関する未完の記録帳書にほかならぬ「生命の書」を常に刷新していくという意味をそこに見いだしている。死すべき定めをもつ私たち自身の時間的世界における運命は不確定であり予測のできない偶然性に曝されているが、それは、永遠なるものの根柢としての神が自己と共に行う冒険にほかならぬという思想がそこで暗示されている。

「超越的肖像」とは、ヨーナスがイラン周辺のグノーシス主義の様々な文献に発見した神話的象徴である。それよると、人は皆天上界に「大切にまもられている」もう一人の私をもちながら、この地上を勞苦しているのであるが、自分の最終的な状態については自らの責任にゆだねられている。このような「超越的な肖像」を、個々人の水準だけでなく人類全體にまで拡大したバージョンをヨーナスは一九三〇年頃にエジプトで発見されたマニ教のテキストにも発見している。それは、世界のプロセス全体にわたって、そしてそのプロセスそれ自体を通じて、徐々に作成される人間の「最後の肖像」であって、不滅でありながら受苦しうる神が起源において有していた全体性を、歴史において具体化し完成するものである。この神は、個々の人間の本来的自己として「原人」とも呼ばれており、それが世界の誕生に先立って自己を生成の暗闇と危険へ委譲することによって、物質的な宇宙が可能となったというコスモロジーがこの神話の背景として考えられるであろう。

「生命の書」と「超越的肖像」という二つの神話的象徴が、現代人に対して有している潜在的な意義を確認するために、ヨーナスは次のような神学的思索を展開している。

束の間のがたえずに貪り食われていく時間をもつ世界の出来事において、一つの永遠の現在が育っていく。その永遠の現在の相貌は、神的なものが時間の中で経験する喜びと苦しみ、勝利と敗北をつうじて描線が刻まれていくにつれて、ゆっくりと姿を現す。それらの経験はこのような仕方で不滅のものとして持続する。絶えず消え去っていく行為者ではなく、彼の行為そのものが生成する神のなかに入り込み、決して確定されることのない神の像を、拭い去れないすがたで形成する。この万有において賭けられているのは神自身の運命なのである。神は自らの実体を、知を欠いた万有の過程にゆだねたのであり、人間は、この最高の、常に見捨てられ得る信託財産の、卓越した管理者となったのである。ある意味で神の運命は人間の手に握られているのだ。[vii]

ヨーナスが神学的思弁の手引きとして依拠している神話的な象徴は古代後期のグノーシス主義であることから、そのような特殊な思索が普遍的な意義を有することに疑義を申し立てることは十分にあり得るであろう。また、神話的な象徴其者は本来概念的な水準で思索すべきものを表象の水準で語っている以上、哲学としては根據を持ち得ないという疑義も考えられよう。しかしながら、宗教哲学においては、個々の実存の宗教的経験の深みの中で経験された事柄が、普遍的な意義を獲得するということが起こりうる。また、事柄が、従来の神学的な思惟では手に負えぬアウシュビッツの体験を踏まえた神学としてヨーナスが提示したものは、実存的経験のただなかにあってそれを超えていく普遍的なる哲学の道を示唆するものでもある。

時間的世界の根本的特徴を「絶えず滅び行く(perpetually perishing)」ととらえたのはホワイトヘッドであるが、そのような生々流転する世界の出来事において、「一つの永遠の現在が育っていく」とヨーナスが言うとき、それはは、まさにホワイトヘッドが「神の結果的本性(the consequent nature of God)」と呼んだものに符合していることに注意したい。この結果的本性を持つことによって、神は生成する神となり、つねに世界のすべての活動的生起の決断による影響を受容する。それは文字通り「受苦する」神でもあるが、このような神の結果的本性は、神の永遠なる「原初的本性」が世界の内に受肉することの結果として世界と共に生成していくのである。この結果的本性と不滅性との関わりについてについてホワイトヘッドは『過程と実在』の結語の部分で次のように言っている。

われわれは、ここに、客体的不滅という学説の最後の適用に達する。時間的な被造物の各々の生命における消滅する諸生起のいたるところにみられる、嫌悪ないし刷新の内奥の源、事物の真の本性から生じてくる審判、救済者ないし災いの女神、それは、神の存在のうちに永続している〔その被造物〕それ自身の変換なのである。このようにして、執拗な渇望は、義とされる- 存在への心からの喜びが、消滅しつつもなお永久に生きるわれわれの直接の行為のつねに現在し衰えることなき重要さによって更新されるように、と願う執拗な渇望が。[viii]

 アウシュビッツはユダヤ民族の絶滅の可能性を示すものであったが、アウシュビッツ以後の人類は、たんにユダヤ民族には止まらないさらなる普遍的な絶滅の可能性に直面している。すなわち人類は、みずからを含む地球の生態系を、人間自身の力によって絶滅させてしまう可能性に直面している。

ヨーナスは、「希望の原理」ではなく「責任の原理」にもとづく倫理学を提唱した。「人類の存続」を定言命法とする彼の倫理学の背景には、このように、自由なる人間に被造物としての責任を問う神学的な思想がある。

ホワイトヘッドはヨーナスに先行する思想家であり、ヨーナス自身がその生命の哲学を構築する際に大きな影響を受けたことを認めている。アウシュビッツの悲劇も核兵器による人類の絶滅の危惧、地球の環境危機などは、基本的にはホワイトヘッド以後の世代において顕在化した問題である。我々は、アウシュビッツ以後の神学のあり方にかんする根本的な問題提起と、責任倫理をあらためてホワイトヘッドの形而上学とそれにもとづく神学思想から捉え直す必要があるであろう。

 



[i]  この受賞記念講演は、のちに論文集 Gedanken über Gott, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main, 1994に収録された。邦訳(品川哲彦)は「アウシュビッツ以後の神」叢書ウニベルシタス924、2009

[ii] エティ・ヒレスム(Etty Hillesum 1914-1943)の日記と書簡は、一九八一年に公刊され、ヨーナスの前掲書の第三章で引用されている。

[iii] ユダヤ教神秘主義者Isaac Luria (1534-1572)の秘伝(カバラ)の神話のなかの中心的概念のひとつ。原初の無限なる神En Ssof が、神ならざるものを自己の内に創造するために、被造物の存在する場所を空けるために自ら収縮すると考えた。

[iv] Charles Hartshorne, Omnipotence and other Theological Mistakes, State University of New York Press, 1984,p.3

[v] David Ray Griffin, God, Power, and Evil-A Process Theodicy, The Westminster Press, 1976, p.9

[vi] Hans Jonas, Das Prinzip Leben, suhrkamp taschenbuch 2698,Erst Auflage 1977, Insel Verlag Frankfurt am Main 1994, S.384
(細見和之・吉本陵訳)『生命の哲学』(法政大学出版局)2008, 四二六頁

[vii] Ibid. S.389

[viii] A.N. Whitehead, Process and Reality, edited by David Ray Griffin、p.351

 

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