歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

東條耿一作品集 「いのちの歌」刊行

2009-09-19 |  文学 Literature

新教出版社より、「東條耿一作品集-いのちの歌」が2009年9月4日に上梓されました。

書籍は新教出版社のサイトから直接に注文できます。

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東条耿一作品集「いのちの歌」解題

2009-09-06 |  文学 Literature

「いのちの歌」というタイトルのもとにここに編集された東條耿一の作品は、初出の雑誌によれば基本的に次の三種類に分類することが出来る。

一つは、全生園の園誌「多磨」の前身である「山桜」に昭和九年から昭和十七年まで掲載された作品、もう一つは、戦前の文芸誌「詩人時代」「蝋人形」「文学界」「四季」などに投稿された作品、そして三番目には、昭和十六年にカトリックの雑誌「聲」に連続して掲載された作品である。尚、このほかに、東條の没後十一年の昭和二十八年に、全生園のカトリック愛徳会の機関誌「いづみ」に、遺稿「癩者の改心」が掲載されている。

これらの雑誌に、我々の詩人は、昭和九年一月から昭和十一年六月までは「環真沙緒子」あるいは「東條環」の名前で、昭和十一年九月以降は、短編小説「霜の花」と詩「望郷台」を小杉不二の名前で発表した他は、晩年に至るまで、すべて「東條耿一」の名前で投稿した。

らい予防法にもとづく強制的な隔離政策の時代、入所者が実名を名乗ることは稀であった。療養所の作家は、入所時に選んだ仮名の他に、さらに、複数のペンネームを使うのが普通であった。異なるペンネームを使う作家を、後世のものが同定することはなかなか難しい。幸い、「ハンセン病文学全集」の刊行と共に、療養所の作家達の経歴を克明に調査された皓星社の藤巻修一氏と、東條耿一の詩の卓越性にはやくから着目されていた俳人村井澄枝氏のご努力で、環真沙緒子、東條環、小杉不二のペンネームで投稿した作者が東條耿一と同一人物であったことが、さまざまな文献的証拠によって確定した。そのおかげで、昭和九年から始まる東條耿一の詩人としての遍歴とその人間的苦悩、昭和十二年の北條民雄の死、その後の東條耿一のカトリックの信仰への回帰、「聲」に執筆した晩年の信仰告白、昭和十七年の遺稿「訪問者」に至るまでの魂の歴程をたどることができるようになった。

二〇〇二年に刊行された作品集「ハンセン病に咲いた花(戦前編)」(皓星社)は、東條耿一の「霜の花」を収録している。この作品は、昭和十五年の「山桜」文芸特集号で、木下杢太郎選第一等にえらばれた短編小説であるが、その編者、盾木氾は、戦前の全生詩話会の中でピカ一的存在であった東條耿一に触れて、

「東條には、当然詩集があってしかるべきと思うが、それがないという事は寂しいことである」

と書いている。また、北條民雄に関する評論「いのちの火影」を書いた光岡良二は、大正八年に創刊された「山桜」の書誌的研究を集大成した「書誌・多磨『五〇年史』」のなかで、東條耿一の詩から「誕生」「念願」「一椀の大根おろし」の三篇を引用している。このうち、「一椀の大根おろし」は昭和十四年四月の「山桜」文藝特集で選者の佐藤信重が一席に選んだ詩であり、おそらく東條の詩の中で最もよく知られていたものであろう。尚、この書誌の中で光岡は、東條が「晩年のある日、一切の自筆原稿を焼却し、所持の文学書を手放してしまった」と書いているのが注目される。同じ趣旨のことは、東條の実妹の津田せつ子も彼女の兄を偲ぶエッセイの中で言及しているが、東條の一途な性格を示すエピソードであろう。

尚、東條耿一の義弟で戦後の全生園カトリック愛徳会の中心的存在であった渡辺清二郎が、昭和四十九年に亡くなった後で、遺稿集「いのち愛しく」が私家本として編集されたが、それには、東條耿一の詩作品として、「一椀の大根おろし」「爪を剪る」「夕雲物語」「樹樹ら悩みぬ」「心象スケッチ」「閑雅な食欲」「奥の細道」「散華」の九篇が収められている。 

東條の詩人としての主たる活動の舞台となったのは「山桜」であるが、これは、大正八年四月に、浄土真宗の熱心な信者でもあった全生病院の入所者の栗下信策と若くして病没した月島不二男らを中心として創刊され、昭和十九年七月に休刊されるまで、ほぼ毎月刊行された。最初の頃は俳句や短歌を中心とする文藝活動が主体であったが、昭和六年に生田花世や後に療養所の詩の選者となった詩人佐藤信重らが全生園を慰問して文芸講演をした頃から、詩の創作が盛んとなり、昭和十年には合同詩集「野の家族」が全生詩話会の名前で刊行された。これを契機として、我々の詩人はペンネームを環真沙緒子から東條環に変更したのであるが、「野の家族」には「柚の實」のように、短いながらも印象的な東條の作品が含まれている。

昭和十年は、前年に入所した年少の友人北條民雄との親密な交流の始まる年でもあった。北條民雄日記によると、このころの東條は、多くの詩を「山桜」に投稿してはいたが、他方、病気の進行によって失明するかも知れないと言う不安に苦しんでいた。この精神的な危機を、東條は療養所の中で文子という伴侶を得ることで乗り越えたようである。 

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東條耿一作品集 「いのちの歌」 解題2

2009-09-05 |  文学 Literature

我々の詩人は、昭和十一年九月より、ペンネームを東條耿一とあらためて、それ以後は、基本的にはこの名前で詩の創作活動を続けた。また、北條を通じて外部の文壇とも繋がりを得て、しばらくの間三好達治から詩作の指導を受け、「四季」「文学界」といった詩誌や文芸誌に彼の詩が掲載されるようになった。東條耿一の三好に対する傾倒ぶりは、昭和十二年正月の「山桜」に投稿した随筆「初春のへど」に現れている。

この随筆は、療養所で文藝活動を続けていくことの困難、そしてさまざまな二律背反に苦しむ東條の姿を浮き彫りにしているが、同時に、怨恨や復讐としての文学ではなく、「義務としての文学」を志したいという東條の文学観も語られている。「権利」ではなく「義務」という言葉を使うところに戦前の詩人であった東條の面目が現れているが、そこでいう義務とは、療養所の管理者や一般読者に対する義務ではなく、あくまでも自己自身に対する義務であり、自分が書きたいことを書くのではなく、どうしても書かなければならないことを書き残してから死を迎えたいと言う意味であろう。

 昭和十二年に病床にあった北條民雄に、東條耿一は「樹々ら悩みぬ」という詩を捧げている。この詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「こころの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている―その二律背反的な苦しさが詠われている。

北條民雄は、療養所からの脱出を試み、各地を彷徨したのちに療養所に戻り、昭和十二年正月より重病棟に入った。それまでの彼の苦しみに満ちた試みを、仮に「水平的な脱出」というならば、それは不可能であった。日本の何処にも受け容れてくれる場所はなく、彼は柊の垣根のなかに舞い戻らねばならなかった。この苦い挫折の思いは、外出許可をもらっても決して故郷には帰らなかった東條自身にもあてはまるだろう。彼らが安住できる場所は何処にもなかったのである。

水平的な意味での「脱出」が閉ざされた場合、ひとは垂直的な「超越」をめざす。東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教の復帰という具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。

 昭和十六年の「山桜」三月号に載った「落葉林にて」という東條耿一の詩は、同じ年の「聲」一月号に載った手記「癩者の父」とあわせて読むべき作品だろう。かつて父親から剃刀を渡され自害することを勧められたこと、また復生病院へ行く途中、この父親と心中したかもしれないというようなことなど、想像を絶するが如き状況を生きてきた父と子の姿が「癩者の父」では、ありしままに綴られている。そういう極限的な状況を嘗て共有した父が胃癌に苦しんでいるという報せを聴き、自分自身もまた死期を予感しつつあった東條は、その父に対する情念を、「落葉林にて」という詩では、誰に憚ることもなく吐露している。

胃癌に苦しみ「心むなしくやみたまふ」父に対して、救いの手を差しのべることが出来ない自分を、「親不孝者」として詰ること、そのかぎりない悔恨が、落葉のなかに埋もれていく父の幻影として、あるいは落葉林を吹きすさぶ風のなかに聴きとめた呻吟する父の声によって示されている。「癩者の父」の末尾に置かれた短歌二首は、この執拗な幻影・幻聴を鎮める祈りの言葉のように思われる。そこで、東條は自分のみではなく、父の魂が遂に平安を得ていないこと、自分が何一つ父のためになることができぬうちに父がなくなることがもっとも気掛かりであった。この肉親の父への切々たる思いを抜きにして、「癩者の父」に始まる東條の晩年の手記が、なぜ「聲」誌に投稿されたかは理解できないであろう。 

遺稿となった詩「訪問者」のテーマは「父なる神」と子との和解であるが、その「父」のイメージには、東條を受洗した神山復生病院のレゼー神父、また全生園の重病棟を定期的に訪問して死を迎えんとする患者の世話をしたコッサール神父など、異国に骨を埋める覚悟で献身的に奉仕したカトリック神父たちも含まれているようだ。

東條の妹の渡邉たつ子は、カトリック愛徳会の会誌「いづみ」(1954)のなかで、東條とコッサール神父にかかわる次のようなエピソードを伝えている。

生前、兄はよく次の話をした。ある日、文学をやる友達と一緒に神父様の前で兄はこんなことを言ったそうである。「キリストが十字架に犠牲になろうが、どんな死に方をしようが、私には別にかかわりのないことである。」神父様は呆れて兄をじつとみつめていたが、「あなたの云われることが眞實だったら、私がはるばる日本に宣教師として来ていることは何の意味もないことになるのです。」兄はこのことを述懐するごとに、「俺はあんなおそろしい冒涜の言葉を吐いて、よくこの口がまがらなかったと不思議な位だ」と冷汗三斗の思いのようだった。

東條耿一がキリスト教信仰に復帰したことを示す「訪問者」という詩のなかでとくに印象深いのは、冬の寒い日の戸外で佇んでいた「父なる神」に暖をとってもらうために、自分が安逸を求めて坐っていた椅子と、自分がもっとも重んじていた過去の作品や大切にしていた書物を炉にくべるという箇所であろう。そこには、非キリスト教的な文学と訣別して、信仰の道を一筋に歩もうとする彼のひたむきな決意が認められよう。実際、昭和十六年以降は、東条の作品は山桜の文藝欄ではなく、カトリックの機関誌「聲」に寄稿したもののほうが主体となっている。ただし、晩年の東條は詩作そのものを断念したわけではなく、独自の優れた宗教詩を書き残している。

昭和十七年七月の「山桜」に掲載された「病床閑日」という詩は、遺稿「訪問者」を別にすれば、東條の最後の詩であるといってもよい。この詩の最後に出てくる、「いのちの歌」という言葉こそ、北條民雄が嘗て「いのちの友」と呼んだ東條耿一の晩年の作品の精神をもっともよく表すものではないだろうか。東條はこの詩が発表されてから二ヶ月後に亡くなったが、結核性の腹膜炎を併発し、非常に体調が悪い時期であった。この詩は、そういう苦しい病床の中で、比較的、病が小康状態であったときに詠まれたものである。この詩で、「新しい眼を瞠る」という箇所に注目したい。作者は、もはや「古い眼」で外なる自然を見ているのではない。そこで「私を超え、自然を超えた」声、鳥たちの囀りを聴いていると、それは、もはや「束の間の消えゆくもの」としてではなく、「永遠のいのち」として、そして同時に「私のいのち」として聴かれている。「この草 この緑 この大地」は、この世のものであるが、そこにおいて、「永遠なるもの」が先取されているような、そういう響きがある。

カトリック教会でよく唱えられるアッシジのフランシスの「平和の祈り」には、様々なバージョンがあるが、あるバージョンでは「永遠の生命を得る」ではなく「永遠の生命に目覚める」となっている。眠りから覚めて、新しい眼を瞠るとき、どういう情景が見え、どのような聲がきこえるのか。それは決してまだ訪れない未来のこととしてのみ語られているのではない。そういう未来は、必ず訪れるべきものとして、病床の中にいる東條の「新しい眼」において、直接に経験されている―そういう強い印象をこの詩は読むものに与えるのである。

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