歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

松本馨さんの手記を読む

2005-09-16 |  文学 Literature
松本馨さんが1962年(昭和37年)から1986年(昭和61年)にかけて毎月一回刊行された個人誌「小さき聲」を纏めて製本したものが全生園の図書館にある。私は「小さき聲」の最初の100頁ほどを読んだが、その内容には強く惹かれるものがあった。先日、前田靖幸さんから手紙を戴き、この製本の由来について教えて頂いた。

松本さんは1918年4月25日、埼玉県に生まれ、1935年、17歳の時にハンセン病と診断されて、全生病院に収容され、2005年5月23日に、87才でなくなられるまで、70年の間、療養所で過ごされた。プロミンが開発される前の戦前の療養所、戦中のもっとも苦しい暗黒の時代、戦後まもなく起きた最初の予防法改正運動、1960年代後半の自治会再建の呼びかけ、療養所の歴史を療養者の目から纏めた「倶会一処」の刊行、ハンセン病図書館の創設、など療養所の過去の歴史をつぶさに体験しつつ、そのただなかで活動された方である。

戦後まもなく、奥様が若くしてなくなられたあと、御自身も1950年に失明されるという大きな試練に出会われたが、関根正雄の無教会主義キリスト教との出会いによって立ち直られ、1962年から一平信徒としての伝道の書「小さき声」を24年にわたって刊行された。

松本さんの伝道活動は、全生園のなかでの自治会活動と不可分の関係にある。

世俗の直中において福音を証すること、という無教会主義の思想の実践者として、1968年に自治会の再建を呼びかけ、1974年から87年までの13年間、自治会長として、また全国の療養所の支部長会議と連帯しつつ、らい予防法の改正ないし廃止の必要性を訴えられた。そういう活動も、多磨誌への寄稿も、「小さき声」の刊行も、すべて、盲目と肢体麻痺というハンディキャップを乗り越えて、多くの方々の協力を得て為されたものである。

晩年の松本さんは、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上でもういちど出版したいという願いをもっていたようで、2003年5月から前田さんのご協力を得て読み上げの作業を続けられた。 2004年7月にこの校正と推敲の作業が一応終了したので、前田さんは修正ずみの原本を拡大コピーし、数部を製本された。現在ハンセン病図書館にあるものはそのうちの一部であるとのことである。

松本馨さんの公刊された著作(単著)は、

(1)「この病は死に至らず」(1971) キリスト教夜間講座出版部
(2)「十字架のもとに」(1987)   キリスト教図書出版社
(3)「生まれたのは何のために―ハンセン病者の手記」 (1993) 教文館
(4)「零点状況―ハンセン病患者闘いの物語」     (2003) 文芸社
の4点。

(1)(2)(3)はハンセン病資料館で閲覧可能。また(4)は新刊として入手可能であるが、あとはなかなか書店から入手するのも、一般の図書館で閲覧するのも難しいようだ。

これらの著作の内、創作である(4)以外は、すべて「小さき聲」に掲載されたものを中心として編集・出版したものである。たとえば(1)の第一部は、松本さんの「回心記」であって、「小さき聲」の一号から二四号にわたって連載された。松本さんはこの「小さき聲」を毎月刊行しつつ、自治会の激務をこなされ、同時に、「多磨」誌におおくの評論を寄せたが、そういう自治会活動にかかわる評論も(1)の第三部に収録されている。

「小さき聲」の復刻のためにまずWEB出版という形態で、多くの方に松本さんからのメッセージを読んでいただきたいと思う。


「小さき聲」の第一号(1962年9月17日発行)は

<あいさつ>
<この病は死にいたらず 一>(これは著書(1)に収録されています)
<平信徒の伝道>
<詩> 水先案内人
の四つの部分からなっているが、このうち<平信徒の伝道>と<詩>を紹介しよう。

======== 松本馨 「小さき聲」No1 1962/09/17 より===============

<平信徒の伝道>
(一)
伝道は長年の私の念願であるが、なかなか決断出来ない。理由は勉強の不足である。私は聖書の原文はおろか、日本語訳の聖書も満足に読めない。日本人である限り、せめて日本語訳の聖書だけでも一生かかっても、ものにしたいと希っているが思うようにならない。辞典を引いたり、註解書をしらべたりする肝心の目がない。点字を読む目も指もない。テープで聖書の一部と、先生の講義を聞いているほかに「予言と福音」「聖書の言」「聖書知識」を購読している。以上が私の学んでいる全てで、私の聖書知識はここから一歩も出ない。

 私の聖書の勉強は、貝殻で海の水を汲んでいるようなものである。私には一杯の貝殻の水は、海の水全部と同じである。貝殻の一杯の水より受くる恵みは、私の一生がどうであれおつりがくる。しかし伝道となると、なぜか力の不足を感じる。伝道が自分の側のみの問題になっているためであろう。ところでこうした私に、決断をうながしたのはパウロの次の言である。「・・・・わたくしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなた方の間では何も知るまいと、決心したからである」。コリント書の一であるが、伝道がイエス・キリストと、その十字架のほかは何をも知る必要がないとすれば、これほど単純な伝道方法は他にない。私たちが罪のために死のとりことなっていたとき、獄屋から引き出し自由の身にして下さったのはイエス・キリストと、その十字架にある。キリストは人類の生命の恩人であり、主人である。何も知らなくとも、イエス・キリストとその十字架と、復活の出来ごとは知っている。

 パウロはまた、伝道にあたって、わたくしの言も、宣教も知恵の言葉によらないで、霊と力の証明によったと記している。このことはどういう意味であろうか。パウロのみに特別働いた霊力であろうか。私にはそうとは思えない。誰でも聖霊をうけなければ、イエスを主と呼ぶことはできない。また・キリストの聖霊を受けなければ、イエスと共に十字架に死に、彼の生にあずかることはできない。聖霊は万人にのぞむものであり、彼はすべての人の言葉によってよろしく伝えられるお方である。嬰児、乳呑み子の口にも讃美できるお方である。

 十字架の言は教養でなく、神の力である。歎きを踊りにかえ、苦しみを希望に、死人を復活せしむる神の力である。無教会の信仰はこの一点にかかっていたような気がする。私が十年間、無教会の先生から学んだことは一つである。それは十字架と、復活のイエス・キリストを信ずる信仰である。救いに律法を必要としない。教会も、サクラメントも必要としない。十字架にある神の義を、信仰によって受けとらされたことである。

(二)

「渡独に際して」(予言と福音一三九号・関根正雄)に無教会者は一人一人が伝道の責任を持つ意味のことが述べられている。伝道が私自身の大きな問題になっていたときだけに、共感をおぼえた。私もまた、各自が責任を負わねばならぬと考える。その意味で、下から平信徒伝道が起こってもよい気がする。ここでは平信徒伝道は広義に解釈する。片手間伝道といってよい。地方には雑誌のほかに先生はいない。一人一人が聖言をもち運ばない限り、福音の進展はありえないのである。

 全生園の入所者は千二百名である。はじめて園を訪問する信徒は、会堂の立派なのに驚く人が多い。新教・旧教・聖公会の会堂が、天に向ってその盛大さを誇っている。千二百名の入所中・無教会者は私一人である。その存在は微々たるものである。一人になって感じたことは、私がのべ伝えなければのべ伝える者がいないことで、恵みを受けているものの責任が如何に重いかと言うことである。これは独り私のみではなくすべての人に言えることで、み前に立つときはみな一人である。恵みが大きければ大きいほど、彼のためにより多くの苦しみを受けなければならない。

 地上に私の生命はあとどれだけあるかわからないが、のこりの生命を福音のためにささげたいと思う。そして、その時が来たようである。

 私は伝道に自信はない。人間的に考えるならば、伝道者としての条件は何一つなく、かえって否定的な条件のみがそろっている。それにもかかわらず、伝道しようとするのは何故か。私にもわからない。おそらく一生かかっても、私は一人の魂を導くことが出来ないだろう。現実は私に背を向け、はじめから絶望的なりである。私が熱心になればなるほど、真剣になればなるほど、世は私に背き、信仰の道を共にしていた兄弟すら、私を離れていったのである。しかし結果は私の問うところではなく、又現実が如何ようであれ私の意とするところではない。ただ十字架の主にすべてを委ね、地上の馳場を走るだけである。

<詩>

水先案内人

あなたは、私の生れる前から私を知り
私が帆に季節の風をいっぱい
はらんで航海していたとき
嵐の牙に舵を折られ、漂流していたとき
或いは水に閉ざされていた時も
あなたは私の舳先に立って
私にあなたをさし示している
あなたは私の水先案内人であってそうではない

或る時は嵐となり、風雪となって私を打ち
或る時は燈台霧笛、港となって私を守る
あなたは誰か
それとも飢えと寒さと孤独の海に私の見た幻覚だろうか。
黒ずんだ海底に難破した一隻の船が沈んでいる。
赤錆びた船体は臓物のように海草が茂り
魚貝の住家となっている。

たとえ私の肉親、愛する人達が
太陽の光の下にさらしてみても
私をたしかめることはできない。私もまた、私を理解することはできない。
私の体の細胞を海草が喰い荒し
私の脳味噌を魚貝が喰いつくしたからである
それなのにあなたは今も私の舳先に立って私にあなたを指し示している
あなたは誰か、
あなたは私よりも確かに私の中に存在し
私に代って生きておられる。

あなたは誰か、
あなたは焼きつくす火です。
真理です。

私の生命の生命です。

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松本馨さんの手記を読む 2

2005-09-15 |  文学 Literature
 松本馨さんが「小さき声」という無教会のキリスト教の小冊子を刊行し始めたのは1962年であるが、その5年後から、1966年に閉鎖された自治会の再建を呼びかけ始める。 多磨誌には「自由を奪うもの」(1967年4月)「組合が強くなるとなぜ患者は泣くのか」(1967年7月)、「自治会再建に立ち上がろう」(1968年1月)、「再び自治会再建を訴える」(1968年5月)などの松本さんの呼びかけの記録が残っている。

 松本さんは、「小さき声」の発行の他、「多磨」の論説委員も勤めていた。毎年の定期支部長会議には代表として参加したが、当時、盲目というハンディを負いながら、会議に参加したのは松本さんだけだったとのこと。1969年6月に再建された自治会では、総務という面倒な仕事を引き受け、全生園の医療センター化運動の責任者として計画を進めた。傍から見ると、「目の見える人の三人分の働き」と思えるほどであるが、そういう仕事は、實は「失明と四肢の無感覚」という困難な状況の中で為されたものであった。

===================松本馨 「小さき聲」1973/7/29 より===================

ある友へ
         
「小さき声」誌も11年を越えましたが、ある人より、不自由な身で11年続いた秘密は何かと聞かれました。それに対して私は次のように答えました。

 失明と四肢の無感覚のために自分の目と手で書こうとしなかったためだと思います。

 また社会復帰している教会の知人が尋ねてきて、健康なときは自治活動をせず、不自由な身になってから始めたのは何故か、と聞かれました。それに対しても同じようなことを言いました。

 もし、今もなお、健康で目が見え自由に飛び歩くことができたなら、私は自治活動はしないでしょう。私の意志でないからです。 

 不自由な身になって、私の意志で出来たことは非常に限られた機能訓練だけです。それは歩行訓練と、自分の麻痺した手と感覚の鈍くなった口を使って、テープレコーダーにテープがかけられるようになったこと、もうひとつは雨戸の開閉ができるようになったことです。・・・・(中略)・・・・

 私の不自由度が、おわかりになったと思います。私に出来ることと言えば、以上揚げた程度のことです。食事についていえば看護助手さんの介助なしに一人で準備して食べることは出来ません。私は幼児のようなものです。このような極限的状況のなかで、自治活動は不可能です。人間的に言えば自治活動はおろか、生きていること自体が絶望的であり、自己の存在も無意味性に悩まされましたのが回心前の私でした。

 しかし、回心後といえども私の身に変化が起こったわけではなく、客観的には、絶望的状況にあります。その私が自治活動しているのです。どうしてそれができるのでしょうか。自治活動は精神的にも肉体的にも重労働です。健康なものでも避けて通りたいのが普通です。

 健康で目が見え、自由に飛び歩くことができたなら自治活動はしないといったのは、こうした労苦を知っていたからなのです。

 では、なぜ極限的状況に置かれたことが、その可能性を生んだのでしょうか。それは回心と無関係ではありません。キリストとの出会いということが決定的な役割を果たしているのです。

 それはキリストとの出会いによって、自己と世界とに死んだことを意味します。イエスの死に会わされたこと、そして又、イエスの生に会わされたことです。すべてがこの一事から始まっています。

 もしイエスの死と生に会わされていなかったならば、自己の生の空しさに耐えきれず、自らの生命を絶ったでありましょう。

 私は、この世界はイエスの死によって、あがなわれた神のものだと信じています。

 神はこの世界に陽を昇らせ、雨を降らせるように、神を信じないものも、信じているものも、神の支配の下にあります。

 したがって直接、信仰に関わりのないこの世的仕事であっても、神の支配の下に行われているのだと言えましょう。

私は、福音にたずさわる仕事が聖で、この世の仕事が俗だとは思いません。神の支配の下にあるとすれば、またこの世界がイエスによってあがなわれているとすれば、この世の仕事もまた聖でありましょう。俗もまた聖でありましょう。このことが明らかになるのは、世の終わりの日でありましょう。

 キリストの来臨によってすべてが明らかになりましょう。この世の俗にたずさわっている私の最後的希望は終末的希望であり、キリストの来臨であります。

 ボーンヘッファーは成人した世界のことを語っていますが、信仰と世とを分離する時代はすでに去ったのではないでしょうか。

 現代は政治、経済、文化のあらゆる分野で、キリスト者が自由に大胆に、しかも積極的に参加できる時代ではないでしょうか。

 イエスの活動の目標は取税人や罪人、また病人や障害者、寡婦など宗教の枠からはみ出した人達に真の信仰を与え解放することにありました。その極限の行為が十字架でありましょう。イエスの死が、世界のすべての人を死と罪から解放したのです。私達はイエスの死と生をこの世に持ち運ぶための努力をすべきではないでしょうか。

 彼の死と生が不可能を可能とし、絶望を希望に、暗黒を光に、無を有に変革しましょう。無意味性の生から可能が生まれましょう。
 
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松本馨さんの論説を読む

2005-09-14 |  文学 Literature
1986年「多磨」4月ー7月 に4回に分けて連載された「いのちの重み」という論説を紹介しよう。この時期、松本馨さんは、薬害(サリドマイドの後遺症)で病床にあり、おそらくは遺書のつもりで、この文を(口述筆記で)纏められたと思う。「ラザロ・恩田原」というペンネームは、「この病は死に至らず」という松本さんの著書を暗示しているようだ。

この文書は、「自治会会長」としての肩書きをはずして、戦中・戦後を生き抜いてきた匿名の「一療養者」の立場から、未来の「21世紀の日本の読者」へむけて書かれた松本馨さんのメッセージである。

この文書を発表したときの全生園は、まだ光田健輔の縁者が園長を務めていた時代であったが、松本さんは、實に明快率直に、「光田イズム」の批判を書いている。

「いのちの重み」ラザロ恩田原(松本馨)「多磨」誌1986年4-7月号から抜粋 

戦後四十年を経過して、国際的にも悪名高いらい予防法が今もなお存在していることに、今さらながら驚きをおぼえるとともに、改正できない原因がどこにあるのか、改めて考えさせられた。全患協は、らい予防法改正の是非を会員に問おうとしているが、そのような方法は問題の本質をついているとは思えない。隔離とワゼクトミーによって、患者とその子孫の撲滅をはかった行為は、ある人種は有害であるからと、ヒットラーは、六〇〇万人のユダヤ人を殺戮したが、その思想とどこかでつながっているようである。
 私がこれから問題にしょうとしているのは、このような思想の生まれた背景と、改正の障害となっているのは、厚生省なのか、現場の所長なのか? 全患協なのか? それとも他に決定的な要因となるものがあるのか、ということである。」
という文によって、松本さんの「いのちの重み」は始まる。そして、日本の過去の癩医療政策を回顧し、所謂三園長証言や、国際らい学会での宮崎発言などを引用した後で、次のように問題点を整理している。
宮崎発言からさらに二十年近くが経過しているが、光田が敷いた隔離撲滅政策のレールをライ学会は基本的には忠実に守っている。これに対して、学会からの反論があろう。我国では既に解放政策をとり社会復帰や外出の自由を認めているではないか。政府も同じような考えをもっていると思うが、我国は法治国家であり、らい予防法の骨旨となっている医療差別も今日なお生きている。WHOが非難するのはこの点なのである。一度らいの宣告を受けた者は、永久にらいの刻印を押れ、公けには健康保険は使用できない。患者はらい療養所以外では医療を受けることはできないからである。社会復帰者が健康保険を使用できるのは、もとらい者であることを隠しているからであり、公けに利用している訳ではない。現行予防法の改正ができない原因はどこにあるか。厚生省の体質によるか、らい学会の保守性にあるか、国民の合意が得られないところにあるのか。私はこの問題の原因とらい行政の責任を追求しているうちに、日本人の国民性に目を開かれ、思いがけない結論に達し愕然とした。私が、「いのちの重み」で問題にしたのはこの一点である。(中略)
 独占企業化したらい学会の隔離撲滅政策を医学上の立場から批判できる機関を大学はになうべきものと思うが、それがないということほど患者にとって不幸なことはない。京都大学皮膚特研があるが、規模が小さく、らい学会を批判できる力はないように思える。国際的に批難を浴びながら戦後四十年経ってもらい予防法の改正ができないのはこれがためである。せめてマスコミが国際感覚をもって正しい報道をしてくれればと希うが、患者弾圧をした所長達に種々の功労賞を送り結果的に隔離撲滅政策を奨励している。市民の一人は<私たちが健康で暮らすことができるのは皆さんのおかげです>といった。国民を代表する声であろうが、なんのことはない。犠牲になった患者に感謝しているようで、実は隔離撲滅政策を推進した所長達に感謝しているのである。これは日本的発想なのであろう。私は、所長達が医学上の名の下に患者を弾圧した数々の事例を上げて機会あるごとに訴えてきたが、すべては徒労に終った。日本人は「人・全世界をもうけるとも、己が命を損すれば、なんの益かあらん」という聖書のことば、「人の命は地球よりも重い」ということがわからないのではなかろうか。日本人の思想の土壌となっているものは汎神論で八百万の神々とみ仏につかえることからきている。多数の神々とみ仏につかえることから自己否定的な生き方が生まれ、己が欠落してしまうのである。日本人と対照的に欧米人が個人の基本的人権を重視するのは、キリスト教の唯一神教からきている。唯一の神とひとりの人間が義をめぐって対決し、それによって神は神となり、人は人となって自己を確立するのである。
松本さんがこの論文を書いていた頃、中曽根総理の靖国神社参拝に対して中国の学生達が猛烈な抗議デモをした。現在とよく似た状況にあったわけだが、この問題に関して松本さんは次のようにコメントしている。
中国に対して侵略戦争を起こした指導者たちが一般兵士とともに祭られている靖国神社に中曽根首相が参拝することは、侵略者たちの行為を肯定することになるが、抗議を行った中国学生の感情が日本人には理解できないのである。侵略戦争を起こした個人的責任が日本人にはほとんど理解できないからである。それは養蜂的滅私奉公の構造からきている。第二次世界大戦に敗れたとき、一億総懺悔ということがいわれた。これは一億総国民一人一人が罪を悔い改め懺悔しているということの意味であるが、実際はそれとはまったく逆に一億総懺悔のことばによって個人の懺悔は問題にされず、結局は誰も懺悔していないということなのである。 これが日本的思考であり、養蜂的なのである。
松本さんは、当時の社会状況、教育の荒廃や、弱者への容赦のないイジメの構造などについても言及している。
GNPが戦後世界第二位となった現代に生きる日本人は、養蜂化社会でますます自己を喪失しつつあるように思える。自殺者までだしている子供たちのイジメの問題もこの養蜂的社会において起こっている現象なのである。子供の働きバチ集団のなかで、なにかの原因で行動を共にすることのできない子供がイジメの対象となっているのである。このようなイジメは欧米の子供たちの間にはないという。日本独特の現象なのである。このイジメの問題は養蜂社会がわからないと理解しにくい。子供たちのイジメの問題が社会問題となるまえに横浜で中学生による浮浪者のイジメがあった。中学生たちがなにかおもしろい遊びはないかと捜していたところ、浮浪者が目についた。おもしろいから殴って遊ぼうと中学生たちは棒切れで浮浪者を襲った。浮浪者は悲鳴をあげながら悶え、苦しむ様をおもしろがり、公園に寝ている浮浪者を捜しだして次から次へと襲い、それによって死に至る者もあった。この衝撃的な事件は社会に深刻な波もんを投げかけた。学校・父兄・文化人・マスコミ等様々な立場からこうした暴力を生みだす背景と環境が問題となり、隣人愛や道徳を教えることの是非が論じられた。しかし、浮浪者を放っておくことの大人の責任については全々ふれられなかった。働く気力のないこの浮浪者は、やがては飢えと冬の到来によって死んでゆき、野犬や野良猫の死体と同じように市の係りによって片づけられてゆく身なのである。この人達を救済することは、大人の責任ではないのか。放っておくことは子供のイジメよりも残酷なイジメに思える。
松本さんは、次に、再び、光田イズムの問題点に立ち返り、次のようなメッセージを書いている。松本さんの現在の我々対する遺言として、傾聴したい。
光田・林などの隔離撲滅政策はこうした歴史的背景を考えるとき、一概に非難できない面もあるが、私が光田等を糾弾するのは個人の基本的人権を保障した民主憲法下にあっても、彼等は以前として隔離撲滅の姿勢を崩さなかっただけでなく、世界は我国の隔離撲滅政策を見習うべきであると公言していることである。また、光田の撲滅政策を支持している医師の多いのも養蜂的構造からくるものであろう。我々の組織である全国ハンセン病患者協議会は、予防法の是非を会員に問うているが、七五〇〇人のうちその大半はすでに七十歳を超えて予防法改正には批判的である。その理由は、予防法が改正されれば養療所にはいられないと思いつめているのである。横浜の中学生達によって石ころや棒切れで打ち殺された浮浪者と自分を重ねてみているのである。老人たちは、戦前の浮浪時代を実際に経験し、あるいは見聞きし、我国の養蜂的構造の何であるかを体で知っているのである。
 また、全医労傘下の職組は、危険手当改正の動きを察知して反対の署名運動をすすめている。自己の利益の為には患者として永久に予防法によって拘束しておけということなのである。私は「いのちの重み」が現代人に理解されるとは思っていない。らい患者の書いたものとして問題にされないだけでなく、気違いか被害妄想患者の書いたものとして無視されるであろう。それを承知の上で書いた。現代人に向かってではなく、二十一世紀以後の人間に向かって書いたのである。おそらく、この養蜂的構造は二十一世紀には崩壊し、各自が自己意識に目ざめるであろう。そのことが起こらなければ養蜂民族は国際社会の一員として二十一世紀には生き残ることはできないからである。自己意識とは、人の命は地球よりも重いという個としての自己を確立することである。(中略)私はこの小論文を二十一世紀の遺言として送ることにした。おそらく想像に絶した最後をとげていった収容所の先輩たちは、私のこの考えに同感してくれるものと信ずる。
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神谷美恵子について

2005-09-14 |  宗教 Religion
神谷美恵子の戦中日記(「遍歴」 神谷美恵子著作集9 169頁)によると、当時の長島愛生園では、療養所内部でも、「有毒地帯」と「無毒地帯」が截然と分かれており、その境界を越える場合には、次のような厳格な消毒作業が義務づけられていた。
ここ(昭和18年の愛生園)では、健康者の活動する区域と患者のいる区域が判然と分けられており、両者の間には厳重な消毒網が設けられている。その順を示すと
はいるとき--
(1)本館から風呂場の脱衣所に行って衣服を脱ぎ、次室でモンペをはく
(2)次室で上衣、帽子、マスクを付ける(3)試験室を出て診察棟および患者の住居区域に至る
出るとき――
(1)消毒液に浸された靴拭きマットで靴を拭く(2)準備室で手を洗って消毒(3)次室で上衣、帽子をとる(4)次室でマスクを籠の中に投げ入れる(5)次室で足袋、靴を脱ぐ(6)次室で足を消毒液に浸す(7)次室で顔を昇汞ガーゼで拭く(8)次室でモンペを脱ぎ、足をリゾール液につける(9)風呂に入って衣類を全部取り替える(10)消毒液でうがい
医師も、看護婦も、この「出入り」を日に二回繰り返す。
つまり、患者達の生活空間と医師や職員達の生活空間とは完全に隔離されており、一方から他方へ移動するときには、(1)から(10)のような煩雑な手続きーそれが果たして充分な医学的根拠に基づいていたかは別途に考察したい-が要求されていたことが判る。

  戦前の国立療養所の管理方式の特徴の一つは、絶対隔離・終生隔離の原則であるが、隔離は、療養所の内と外にとどまらず、療養所の内部においても、「有毒地帯」を「無毒地帯」から差別隔離したうえで、その二つの地域を往還するさいの消毒の実施である。消毒を徹底的に行うことによって、職員や医者・看護婦への感染を防止するという思想がそこにあるが、このようなペストやコレラにも比すべき消毒と隔離が、はたして、医学的に必要であったのかという事に対する批判的な視点、また、強制隔離が患者の人権をいかに抑圧するものであるかという視点は、神谷の手記には全く見られない。

 我々は「小笠原登の医療思想」において、1930年代において既に小笠原が、「らいは強烈な伝染病である」という思想を医学的な根拠のない迷信として斥けたことを知っているし、夫婦間でらいが伝染した統計的事例がいかに少なかったという事も知っている。そういう視点から見ると、国立のらい療養所で、このような極端な消毒と差別的な隔離が徹底されていたことの当否は、当然、問題とされるべき事であった。

 医学生として戦時中の愛生園を見学に行った神谷は、病院の医師達による患者の遺体解剖にも立ち会う。当時、(そして敗戦後、かなりしばらくの間もそうであったが)国立のらい療養所に入所する患者は、すべて、入所時に、死後、遺体解剖されることに同意することが義務づけられていた。そして、神谷は、当時の療養所では、結婚の条件として、断種手術が義務づけられていたことにも言及している。つまり、戦前の日本の公立のらい療養所においては
(1)「健康地区」と「汚染地区」との療養所内に於ける分離と両地区を出入りするときの消毒の徹底
(2)入所者全員に、死後遺体解剖に付されることを承諾させる
(3)結婚を認める条件として断種手術を行う
という顕著な特徴があり、諸外国のそれとは截然と異なっていたのである。そして、らい予防法に依れば、隔離は強制的であり、入所規定のみがあって退所規定がなく、軽快退所は例外的であって、原則として死ぬまで療養所に隔離することがめざされていた。療養所に宗教地区があり、納骨堂が設置されたのはその間の事情を物語るものである。

この戦中日記を、60年という歳月を経た上で読み直すと、未だ充分に論議されているとは言い難い様々な問題が伏在していることに気づく。

そのひとつは、前に述べたように、「健常者」と「患者」との間の極端な院内隔離と、強制収容・断種という当時の「救癩」政策の根本原則に対して、神谷が全く批判的な視点を持っていないと云うこと、そして、毎日、患者の遺体が次々と荼毘に付されるという異常なまでの患者死亡率の高さについても、それを強制収容のもとでの患者作業の過酷さと結びつける視点を全く欠いていると云うことである。それに対して、神谷の「戦中日記」を貫く基本的なトーンは、所長の光田健輔にたいする彼女のほとんど絶対的と言っても良いほどの信頼・帰依の感情である。日記の中には、遺体解剖に立ち会ったときの記述のような、医療の客体としての患者に対する記述ばかりがめだち、主体として語るのは療養所の医師達ばかりである。そして光田やその門下生がいかに賞賛すべき医師達であったかという記述に満ちあふれている。

ところで、この戦中日記が公開されたのは昭和18年当時ではなく、それから20年も経過した後である。このように、わざわざ20年後に昔の記録を出版することになった事情については、神谷自身が理由を述べているが、要するに、戦争中の愛生園の状況、とくにそこで勤務していた医師達がいかに献身的で素晴らしい人物であったかと言うことを伝えたいという意図があったということであろう。

20年の歳月、そのあいだには、患者自身による「らい予防法」に抗する闘いがあり、戦前と戦後人権無視の政策に対する抗議と共に、光田健輔とその門下の医師達の「救癩」政策に対する批判が行われるようになったが、そういう人権の問題に対する神谷自身の考え方は怖ろしく冷ややかである。たとえば彼女は次のように云う。
過去に於いて強制的に隔離されたという意識は、患者の多くのもののなかに、社会及び政府当局に対する深い恨みの一念を植えつけたようにみえる。これに対する代償として終生、医療と生活保護を受ける権利があるとの主張がここから生まれている。この特権意識は、時折強い個人攻撃性や特定の要求を主張するための手段的デモの形であらわれた」(神谷の論文「日本に於けるらい患者の精神症状」)
この文にあらわれている認識は、神谷のみならず、療養所の医師の多くに共有されていたものであり、戦前戦後のみならず敗戦後になっても持ち越された「光田イズム」の信奉者達には特に顕著なものであった。強制的な終生隔離の推進者であり、戦後になってもその態度を改めようとしなかった光田は「日本のシュバイツアー」として文化勲章を受章したが、戦後のらい予防法の改正を求める患者自身の人権闘争の挫折の後という時点で、神谷が、このような文章を公表したことに対する社会的責任は免れないであろう。

 こういう私の意見に対して、「それは現在の価値観をもって過去を断罪することだ」という批判が寄せられるかも知れない。なによりも神谷自身がそういう意見の持ち主であった。彼女は次のように云う。
戦後、サルフォン剤でらいが治るようになってみると、患者さんを強制的に隔離収容するという政策がにわかに非人道的なものに見えてきた。光田先生が主張された方針が、園内からも外国からも非難されるようになった。いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景から来る制約を免れ得るであろうか。何をするにあたっても、それは初めから覚悟しておくべきなのであろう。私はむしろ、歴史的制約の中で、あれだけの仕事をされ、あれだけのすぐれた弟子達を育てた光田先生という巨大な存在に驚く。研究と診療と行政と。あらゆる面に超人的な努力を傾けた先生は、知恵と慈悲とを一身に結晶させたような人物であった。先生との出会いは、生涯消えることのない刻印を、多くの人の心に刻みつけたのだと思う」(神谷美恵子著作集2 「人間を見つめて」より「光田健輔の横顔」)
神谷自身の個人的な感慨は別として、光田イズムの信奉者達が定年で療養所の所長を辞めた後で、入所者の人権回復が軌道に乗ったというのが歴史的事実である。

全国ハンセン病患者協議会元事務局長の鈴木禎一さんの近著「ハンセン病ー人間回復へのたたかいー神谷美恵子氏の認識について」(岩波出版サービスセンター 2003)は、このような神谷美恵子の考え方を含めて、光田イズムを、強制収容された入所者の視点から批判したものであるが、それは、基本的には、松本馨さんの「らい予防法に抗する闘い」と同じく、安直な歴史的な相対主義にたつことなく、戦前戦後の日本の「救癩」政策の主流を形成してきた「光田イズム」に対する根源的な批判である。私は鈴木さんの本から、多くのことを教えられた。強制収容された当事者自身から為された、このような批判を踏まえて、今一度、神谷美恵子の思想と実践を、再検討することが必要であろう。たんにハンセン病の問題だけでなく、神谷自身の精神医療に対する考え方、さらに一般的にはごく最近まで日本の精神医療に存在していた人権抑圧の問題点に対しても、同時に検討しなければなるまい。
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松本馨追悼講演会

2005-09-13 | 日誌 Diary
松本馨の信仰と闘い
ー世俗の中の福音ー


追悼講演会(入場無料)


日時: 平成17年10月1日(土) 13:30-16:00 開場 13:00

場所:国立療養所多磨全生園 コミュニティ・センター



講演会のパンフレット(PDF) 松本馨さんのメッセージ
今年の5月23日に逝去された松本馨さんは、「世俗の中の福音」を信じる無教会主義キリスト教の信徒として伝道活動をされる傍ら、多磨全生園入所者自治会を再建し、1974年から1987年まで自治会長としてらい予防法に抗して人権のための闘いを続けられました。当時の厚生省医務局長であり、後にらい予防法の廃止に向けてご尽力された大谷藤郎先生、故人の古くからの友人である野上寛次先生をお招きして、ここに追悼講演会を開催致します。


講演1:松本馨の闘いーらい予防法に抗して

講師:大谷藤郎(高松宮記念ハンセン病資料館館長)

講演2:松本馨の信仰ー信仰と受難

講師:野上寛次(多磨誌元編集長)

司会:森田外雄


講演はそれぞれ30-40分位 休憩を挟んで1時間程のセッションを予定しています
主催:ハンセン病図書館友の会
協力:国立療養所多磨全生園入所者自治会
会場までの地図など、詳しくは、講演会の案内HPをご覧下さい
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松本馨さんの論説を読む 2

2005-09-13 |  文学 Literature
松本馨さんの個人誌「小さき聲」をここで紹介したが、次に、松本さんが全生園の自治会長を辞任された1987年に、機関誌「多磨」に寄稿された文章、「部分改正か廃止か」を転載しよう。18年前に書かれたものであるが、現在それを読んでも古さを感じさせない。

松本さんは1986年に、<遺書のつもりで>「いのちの重み」という論説を、多磨誌に、ラザロ恩田原という洗礼名のようなペンネームで寄稿した。自治会長としてではなく、戦中戦後の激動の時代を生き抜いた一療養者として、未来の読者を想定して遺書として書かれたものであろう。

松本さんは、「光田イズム」のラジカルな批判者の一人であった。10年後に「らい予防法」が廃止され、21世紀には、国賠法訴訟が結審し、戦後における予防法改正を妨げた光田イズムにもとづく医療政策の人権侵害が、裁判所によって断罪されたが、松本さんがこの文書を書いた時点においては、療養者自身が、らい予防法の改正に対して消極的であった。厚生省や所長会議は、この差別的な悪法を残したまま、それを逆手にとって、療養所の待遇改善を求めることのほうが療養者の利益になるという論法を使っていたし、多くの療養者もまた、隔離政策が廃止されれば、後遺症に苦しむ自分たちが、療養所から放り出されるという事態を怖れていたためである。

悪法を残存させたまま、施設の待遇改善を図るというやり方では、問題の抜本的な解決にはならない。また国家が犯した人権侵害の事実に蓋をしたまま、やがて療養所自体が終末を迎えることとなる-そのような形での「予防法」の自然消滅ではなく、明確に光田イズムを断罪すること-これが松本さんの趣旨であったが、それは1986年の時点では、さながら風車に突進するドンキホーテのごとく、松本さん自身の孤立を招くこととなった。

松本さんは、以下の文章で、自治会長を辞任することを受け入れている。自身の行動が「捨て石」となることを受け入れ、希望を将来に託したのであろう。

---「多磨」誌 1987年3月号 より---

部分改正か廃止か


松本馨
(全生園患者自治会長)

 本誌、新年号に当面する問題としてらい予防法をとりあげたが、再びこの問題をとり上げることにする。そのまえに、なぜらい予防法を改正しなければならないのか、ハンセン病の宣告を受けた時の、私の小さな経験についてふれておこう。

 私は一九四三年、十六歳のときに慈恵医大でハンセン病の宣告を受けた。そのときの衝撃は筆舌に表わすことができない想像を絶したものであった。ハンセン病の治療薬がなかったことと、世間にもれれば家族、のみならず親戚をもまきこみ、村八分にされ、家族は心中でもしなければならないような恐れがあった。

 私の選択する道は、死か、入ったら最後、二度と出ることのできない隔離収容所に収容されるかどちらかであった。私は、死を選んだ。一生を拘束される収容所は死よりも辛く感じられたからである。その気持ちは五十年後の今日でも変っていない。

 私は、働きながら進学の準備をすすめていたのであるが、田舎に帰り夜になると死に場所を求めてあてもなく闇のなかをさまよった。そして、ある夜秩父の入口にあたる荒川にかかっている吊橋の上に立った。そこから川に向かって飛び降りれば体は岩石にあたって、砕け、確実に死ぬことができる。しかし、いざ飛び込もうとしたとき、「俺はなんのために生まれてきたのか」という疑問がおこった。このまま死んだのでは、自分の人生はあまりにもみじめすぎる。死ぬことはいつでもできる、疑問をといてからでも遅くはない、と思い返し収容所に入った。しかし、私の考えは甘かった。収容所は私の体を拘束するだけではなく内心の自由をも奪ってしまう苛酷な牢獄であった。

 最初の五年間は、一日として自由な社会を忘れることができなかった。さらに五年たっても同じ気持ちであった。そして、一九四九年収容されて十四年目に夢にまで見た特効薬が出現し、化学療法(プロミン)が始まったのであるが、時すでに遅かった。私は失明し、手足の感覚はなくし、重度障害の世界へ落ちていったのである。それでもなお治療をつづけ、一九六〇年代になると、化学療法の効果があがり、私の体からは菌を見いだすことはできなくなった。ハンセン病から解放されたのである。私は主治医に全生園を出て一般の視覚障害者施設に入りたいので手続を依頼したが、ライ予防法は患者の強制隔離収容を定めた条項はあるが、退所の条項はないと断わられてしまった。らい予防法を改正しない限り病気が治っても自由の身になれないことをこのときほど強く感じたことはない。

 一九六九年、会員の諸々の要求に対応できず、自治会は会員の支持が得られず閉鎖してしまった。閉鎖は戦後獲得した自由を放棄し再び収容所時代の奴隷に帰ることである。私は同志とはかり自治会再建を決意した。そして、自治会を再建し総務部長を五年勤め、一九七三年から今日に至るまで十三年間、会長をつとめた。

 ライ予防法闘争にはじまって、患者付き添い夫の職員看護切り換え、年金獲得闘争、患者作業の全面返還、大部屋雑居の個室化、医療の近代化闘争と十八年にわたる運動の結果、全生園は暗い収容所時代のおもかげは消えて近代的な文化村に生まれ変った。昔を思うとき、夢のようだと会員は口ぐせに言ったが、皮肉なことにそれが患者運動を私に断念させることになった。私の選挙基盤は第一センターであるが、八十六年の選挙に寮長会は、らい予防法改正運動をしないことを条件に私を中央委員に推薦した。らい予防法を改正すれば既得権が奪われることを恐れたからである。私はそれを断った。らい予防法は我国のアパルトヘイトであり、人種隔離政策である。予防法の改正なくして私たちに真の自由も幸せもない。この第一センー寮長会の私に対する要求は、全患協傘下の全国療養所の大かたの声であった。私は、私の患者運動が終ったことを改めて知るとともに戦後四十年間改正できなかった原因がどこにあるのか考究した。その結果、原因は全患協にも所長連盟にもあるのではなく、我国の国民性にあることを知った。本誌に四回にわたって発表した「いのちの重み」がそれである。そのなかで、我国はたて社会で養蜂民族であると定義づけた。養蜂社会では、民主主義の基盤になっている人の命は地球よりも重いという"個"が欠落していると指摘した。女王蜂のために滅私奉公が最高の善であり、忠義であり、神風と忠臣蔵はそれを代表するものであろう。

 第二次大戦に敗れたとき、連合軍によって戦争を起こした東条英樹らはA級戦犯として裁判を受け処刑されたが、国内では戦争責任の追求は起こらなかった。それだけではなく、戦争の犠牲となった二百万からの兵士とともに靖国神社に合祠されたのであった。すべては天皇陛下と祖国のためにおこした戦争であり、善かつ忠なのである。

 光田健輔らがおこなった完全隔離とワゼクトミーによる患者とその子孫を撲滅する行為は、世界に例をみない。非人道的なものであるが、大和民族をライから守ったということで時の政府と国民は最高の勲章を与えて讃えその犠牲となった患者の人権はまったく無視されている。こうした思考方法はA級戦犯を靖国神社に合祠したものと同一なのである。私は若いケースワーカから、わが国の福祉の原点は、光田健輔であると大学で教えていることを知って、飛び上るほど驚いた。ある公立の老人養護施設では、寮長は園長が任命し、付き添いは先生といわせ戦前の全生園の収容所に似た運営がされているという。

(二)

「いのちの重み」は引退を決意した私の二十一世紀への遺言のようなものであるが、これが発表されたのち、らい予防法をめぐって事態は大きく動きはじめた。現行予防法は患者の人権を侵害しているとしてWHOをはじめ海外で問題になっていたが、国内ではこの問題を全患協以外は第三者が取り上げたのは東京弁護士会にある人権擁護委員会がはじめてである。このことは特筆しておかなければならない重要なできごとであった。

 民主主義のためである「個」の畑である社会構造に、民主主義の萌芽をみたからである。私は素直にいって我国の民主主義に疑問をもっている。

 昨年、中曽根総理の自民党へむけての講演が人種差別であることに気づいた者はひとりもいなかった。アメリカで問題になってはじめて我国のマスコミと政治家、學者らが問題にし、中曽根総理を非難したが、非難するものもされるものも本質的に変ってはいない。民主主義の基本原理である「個」の尊厳がわかっていないことからおこるのである。これと同じようなことが音楽や絵画や映画などにも言われる。ヨーロッパでこれらの芸術が評価されてはじめて日本で評価されるということがしばしばおこっている。一度、外国で評価されると日本の芸術家がその高い知識水準に欧米人に劣らぬ芸術論や民主主義論を展開するのである。しかし、知識として、頭で理解しているものと、体で知っているのとでは違うのである。これが私の言う「個」の欠落である。創造性の欠如なのである。働きバチは世界を民主主義の風に乗って飛びまわっているが、ファシズムの風が吹けばそれに乗って同じように世界を飛び回るのであろう。一九四五年の敗戦によってファシズムの働きバチは民主主義の働きバチに生まれ変ったのではなく、その民主主義の制度化のなかで秀れた能力を発揮し、物質的に繁栄しているのが我国の姿である。そして、この民主主義の制度を守っているのは、中国や韓国、アジアの人達そして世界の世論ではないだろうか。日本政府をはじめ多くの関係者は、あの忌まわしい十五年戦争の侵略という言葉を教科書から消し去り、歴史を書き換えようとしたり、日韓併合は韓国にも責任があるといったりして過去の誤を合法化しようとする意図が折にふれてあらわれてくる。それに対して、中国その他の国が抗議し歴史の書き換えを許さない姿勢をとっている。しかし、外国の抗議が果たしていつまで続くのであろうか。GNPの1%という軍事予算の歯止めがはずされて、軍国主義の道を歩み始めようとしている。その力を背景に第三者の抗議を拒否する時がやがてこないだろうか。

 私が恐れるのは、こうしたファシズムの傾斜のなかで弱者は切りすてられてゆくことである。最近の世論にはこうした危険な発言が非常に多くなってきた。また、貿易摩擦による円高によって経済大国となった日本は、大きく揺れ動いている。その中で日本は増々混迷を深くし、人間崩壊がすすんでいるように思われ、親が子を、子が親を殺害し、中学生が弱者殺害を遊び道具にしたり、罪人を逮捕した警官が明日は逮捕され、同じく罪人を裁いていた者が明日は裁かれるという、宗教的観点からみれば終末を思わせるような現象がみられる。こういう状況のなかで、人権擁護委員会がらい予防法をとり上げたことに、私は大きな意義をみるのである。一億二千万の人口のなかに、施設にいるハンセン病患者は約七千人である。その家族をも含めて数万人にすぎないが、この人達の人権が法律によって抑圧されていないか、とり上げたのである。

 私が強調する人の命は地球よりも重いという民主主義の基盤にある真理をみるのである。このことは精神障害者をはじめ重度障害者弱者にとって大きな希望となるであろう。そして、ここから真の意味の民主主義が成長するように思うのである。敗戦によって餓死戦場をさ迷っていた日本人が四十年の間に経済大国となり、飽食時代を迎えたが、大切なものを見失っているように思われる。それは命そのもの、人間の尊厳である。人権擁護委員会に私が期待するのは、らい予防法によって奪われてしまっている人間の自由と命の尊さを発堀して頂きたいことである。

(三)

所長連盟は、三十二回定期支部長会議の決議によって、既に現行予防法の改正を決定し三月には具体的にその内容が全患協に提示されようとしている。こうした所長連盟に対して、全患協は関心を示し、すでに決定している部分改正について賛否両面から議論が深められ、よりよい方向が見いだされることが望ましい。私は、部分改正に賛成するものであるが、その精神は結核予防法に学ぶ必要がある。結核予防法には感染の恐れのある者についての入所規定はあるが、同時に、退所規定もある。入所期間は三ケ月から半年、長期の場合でも一年ぐらいではなかろうか。再発の場合、すすんで入院し、回復すると退院し入院前の職業につくのである。こうして入退所をくり返しているが、これに対して医師及び看護婦はもちろん一般の人達によって結核は不治の病気だと思うものは一人もいないし、結核を恐れるものもいない。

 これに反してハンセン病の場合、ひとりでも再発すると、医師看護婦はもちろんのこと、一般の人も、そして再発患者もやはりハンセン病は治らないのかという、あるいはハンセン病は不治の病気なのかと思い込んでしまう。こうした両者の相違はどこにあるのか。その原因は、結核の場合一看護する者とされる者、治療する者とされる者とが交替する。つまり、医師なり看護婦が感染し患者になってしまって、そしてよくなると、また、もとに復するということである。それによって、結核を病むものの痛み、悲しみを知っており、また、体でもって病気そのものの性格をも知っていることである。ハンセン病の場合、八十年近い歴史のなかで、医師、看護婦のなかに一人の犠牲者も出なかった。つまり隔離されるものの痛み、悲しみがわからない。外見の悲惨なだけをみて、隔離の必要性を強調することである。その代表的なものは光田健輔を頂点に病院時代の所長達であろう。

 結核予防法に習うといった場合、たんに法律に限らず、そこに働く医師看護婦の対応にも学んでほしいと思う。さらに重要なことは患者自身の病気に対する自覚にも相違があるようである。全生園の定員は約九百名弱であるが、そのうちの有菌者は、私自身が驚いたのであるが五十余名で、残りの八百余名は菌陰性の快復者なのである。この数字からみれば、らい予防法は無名であり、全生園そのものの存在が不必要にさえ思われる。しかし、現実には存在している。さらに、担当の医師から説明を受けたのであるが菌陰性者のうち約三百五十人は、ただ治療を継続していることである。再発を防ぐための治療として医師のすすめによって継続しているものと本人から申し出て治療を受けている。この人達の多くは、ハンセン病は完全には治らないと思いこんでいる。菌陰性者に治療をすすめる医師も同じような考えをもっているのである。こうした現実は、ハンセン病菌組織の解明ができないことをからくるものであろう。それと長期にわたる隔離療養のなかから身についたものであろう。

 私がらい予防法の廃止を基本的には望みながら、それを表面に出して言えないものもこうした療養所の現状を思うからである。全生園の現状は、そのまま全国療養所にもいえることである。予防法の全廃を主張した場合、全患協傘下の会員の支持と協力を得ることは不可能であろう。しかし、会員のなかには小数であってもらい予防法を廃止することを強く望んでいる者もある。所長の間にも廃止して一般病院への転換をはかろうとする者もいる。こうした考えをまったく無視することはできない。私が結核予防法に学べというのは、こうした人達をも念頭において言っているのである。現在、すでに結核療養所の多くは結核予防法の下で、多くは成人病の病院や総合病院、重度障害者の施設等に切りかわっている。そうしたなかの一部を結核病棟にあて、治療にあたっている所もある。ハンセン病療養所も、この結核療養所に習うべきではないだろうか。おそらく療養所は僻地にあることと、医師の不足によって一般病院への転換はできないであろうが、なかには総合病院を目ざして整理している施設もあるので、その可能性のある所は切り換えていけばよいと思う。

 現行のらい予防法は、患者を終身隔離するための施設として作られ、その枠のなかにはめこまれている。あくまでも、らい予防法のための収容所なのである。この両者は切り離して考えることはできない。しかし、ハンセン病予防法は、そうあってはならない。あくまでも今後発生する患者に対する予防対策としての法律で現在療養している者を取り締まる性格のものではないことを明らかにしておく必要があろう。そうでなければ、部分改正の意味はまったくない。現行予防法が悪法なのは隔離収容を目的にしたというだけではなく、社会に復帰できないよう、もろもろの規則を含めていることである。たとえば、就職の禁止、消毒、医師の診療禁止、治療薬の発売禁止など、ハンセン病ほど徹底した差別は世界に例をみないであろう。部分改正のハンセン病予防法は、今あげたようなことは一切解除し、ハンセン病にも保険が使用できること、このことは医師の選択の自由をハンセン病患者にも与えることである。従来、隔離からの解放の唯一の目玉の如くいわれた外来診察は、絶対作るべきではない。これは、あくまで社会参加を認めようとしない差別なのである。

 しかし、ハンセン病予防法についていえば、専門の立場から、また、患者の立場から徹底した討議が必要であり、軽々に決める性質のものではない。部分改正にしても全面廃止にしても一長一短があり、その精神は我々がうけた偏見と差別をなくすための改廃でなければならない。そして、この改廃の前堤となるものは患者自身が偏見と差別をもたないこと、職員についても同じことがいえよう。今日もなお危険手当が必要であると主張する全医労のハンセン病職組の感覚は差別以外の何ものでもない。全患協支部報に本部と職組がこの問題で話された内容が明らかになったが、危険手当のひとつとして(お嫁さんにゆけない)とのことばには驚いた。二十年・三十年前にはうなづけようが、今日のハンセン病療養所に勤務しているゆえに嫁に行けないという事実があるのだろうか。給料の低下を恐れる気持ちはよくわかるが、実際に少ないのであればもっと違った形で我々がいっしょになって運動をできるような運動に切り換えるべきであろう。

 私がもっとも恐れるのは、現行予防法改正の反対者が、予防法を喰いものにすることである。今日の療養所は、国民から職員は患者のために犠牲的に働いている聖者の如く思われ、患者はまた長い隔離の苦難に対する同情を受けているが、明日はまったく逆転し、国民から厳しい非難を受ける事態がおこらないとはいえない。現行予防法の改正は、そうした状況に陥ることのないために健康な療養生活を目ざすものでなければならない。

 終りに、私は、本年一月をもって自治会長を辞任した。十三年の長い間、関係者各位から心強い支援と指導を賜ったことを深く感謝する。会長の前に総務部長を五年勤め、十八年間にわたって患者運動の指導的役割を果たしてきた。私の自治会活動は無教会キリスト者の信仰的実践はいかにあるべきかということを課題に関わってきた。この課題についての私なりの結論を得たつもりであるが、その評価は会員にお任せしたい。(了)
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復生という言葉の意味

2005-09-12 |  文学 Literature
「復生の文学」を英語でどう訳したら良いのか、と南山大学のP・スワンソン氏から聞かれた。「復生」という言葉は、100年以上前に御殿場にフランス人テストウィード神父によって創設されたハンセン病療養所の名前からとったものである。この療養所は、英語ではthe Resurrection Hispital と言うが、日本語名は神山「復生」病院。つまり、「復生」とは「復活」で、「死者が再び生命を取り戻すこと」を意味する。だから、英語で言うならば、 the narrative of retrieved life もしくは、the narrative of resurrected life となるであろうか。

「復活(resurrection)」ないし、「復生(retrieval)」とはいかなる事態か。キリスト教的な意味としては、それは、「死者の蘇り」という終末論的な希望を意味するが、私は、それを、文藝作品の創作に関連させて、過去と未来にかかわる人間的実存のありかたを現すものとして理解する。「過去」は「現在」において記憶というポテンシャルとして存在するが、それに形を与え、アクチャルにするものは、現在において「物語る」という言語行為である。

作者は、その物語によって、またその物語りに於て、自らを「語る主体」として自覺する。過去の生は、それに形をあたえ完了させたときに初めて、語り手と聴き手が共に与る相互主体的な現在の場に於て「蘇る」-このような含意を込めて、私は、「復生の文学」という言葉を使った。

「復生」は単なる「反復」ではなく、常に「新しさ」によって活かされた「取り戻し」である。
過去の生を取り戻すためには、過去に決着を与え、過去から自由にならねばならない。過去を忘却することによって、過去から解放されるのではなく、過去を自覚的に引き受け、過去に決着を付けることによって得られる自由こそが「復生の文学」を可能にするのである。 
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恨(HAN) と復生

2005-09-11 |  文学 Literature

6月末の京都フォーラムでは、韓国の参加者の「恨(HAN,한)」にかんする発表から大きな示唆を得た。

具正義氏に依れば、「恨」には、①情動的 ②知的 ③倫理的 ④ 社会政治的 ⑤ 宗教的 という五つの次元がある。それはけっして「怨恨(ルサンチマン)」の「恨」と考えるべきではないとのこと。

また金泰昌氏によると、「韓」国とは「恨」の国という意味であり、朱子学の用語で云えば「気」に該当するものであり、恨が閉塞し塞がれた場合にのみ怨恨(ルサンチマン)となるが、元来は、宇宙と人間をあらしめる根源的な大いなる活動を表すものであるとのこと。氏によれば、中国文化は「理」を、韓国文化は「気」を、そして日本文化は「場」を重んじるということで特徴づけられるとのこと。それぞれに本来的なありかたと非本来的なあり方があるが、「気」の非本来的なありかたが「恨」であるという意見であった。

「恨」については、さまざまな捉え方があるであろうが、私は、それを韓国の人々にのみ固有の情念であるとは思わない。受難の民である韓国の民衆が、キリスト教を生んだイスラエルの民と同じように、「恨」の深い経験を積み、それに関する根源的な洞察を持ったと云うことは言えるであろうが、それはすべての人間のありかたにかかわる普遍性を持っている。

個人的ないし民族的な受難・受苦によって生まれた「恨」は、救済への祈りを内在させている人間の根本的な情態性である。意識的な生以前の段階で、我々は「恨」のただなかにいる自己自身を見出すのである。「恨」を客体化して云々する以前に、それを私達自身の「実存の仕方」を表す範疇として捉えたい。

私は、ハンセン病療養所で書き継がれた文藝作品を「復生の文学」と表現したが、この韓国生まれの言葉を使うならば、それは同時に、「恨の文学」でもあると思う。つまり、それは、失われた生、失われた人間関係、安住すべき場所を、回復する物語なのである。

「恨の文学」の主人公は、まず、家郷の喪失という事態を経験する。帰るべき家も故郷もなく、そこから疎外されて生きなければならない。人間として生きるに不可欠な関係性を喪失し、個人の尊厳の喪失、これらの様々な受苦、苦難の過去の経験が、「恨の文学」を生むのである。

私は具正義氏から、韓国の小説家、李清俊(Lee Chongjun 이청준)の「南道の人」および「白衣」という二つの作品-それはまさに「恨の文学」と呼ぶにふさわしい-について教えられた。

「南道の人」は映画化され、日本でも「風の丘を越えて」というタイトルで公開された。この映画は韓国では空前のヒット作であったという。おそらく韓国の人々は、自分たちの文化の根柢にある情念にほかならぬ「恨」に共鳴したからであろう。この映画の御陰で、私達は、「パンソリ」という韓国の民衆藝能に触れることが出来るが、それは、なんと、日本の人形浄瑠璃や、能楽と似ていることだろうか。ある意味では、能も浄瑠璃も、「恨を晴らすことなく」なくなった死者の霊魂を主人公(シテ)として物語らしめ、生者と死者との関係をただし、和解させる宗教劇である。それは、さまざまな苦しみと迫害に耐えてきた民衆の大地的霊性の所産である。

この「恨を晴らす」物語は如何なるものであるのか。それは日本語で言う「うらみをはらす」こと、つまり「復讐する」物語ではなく、「赦し(forgiving)」の物語である。

李清俊は、「南道の人」の第5部の「生まれ変わる言葉」のなかで、次のように語る。
チウギはさっきから言葉の自由というのは何であるかを考えていた。この時代は實に過酷な言葉の復讐にさいなまれている。それはもちろん自分自身への裏切りに対する当然の報いであるが、この時代の殆どすべての言葉が信頼を失い、さまよいながら人々に復讐しているのである。しかし、チウギは復讐を選ばない言葉に出会ったのだ。復讐を選ばず、何度も生まれ変わる苦痛に耐えながら信頼を守り続けている言葉があるのだということを知ったのだ。それらの言葉は人間の生に深く根を下ろしていた。さらに、それらの言葉は、生そのものだといえるほど、生との和解を築いていた。それらの言葉は、復讐を選ばず、自らの信頼を守り抜くために何度も苦しい生まれ変わりに耐えてきた。そのため、その言葉は真の姿を見極めるのが難しいほど多様なのである。しかし、それらの言葉は、形式の変身を経てこそ深い信頼が得られるのであり、苦痛に満ちた和解を通じて最後の自由に到達するのである。生が言葉になり、言葉が生となるとすれば、生に代わる言葉以上に自由な言葉の世界があり得るだろうか。

「復生の文学」の言葉もまたうえで李清俊が述べているのと同じいみでの言葉によって生まれる文学である。私は又、「白衣」のなかで、朝鮮戦争の惨禍の記憶を物語る語り部の老人の次の言葉にも深く共感した。
(過去の恨の)堅い束縛の鎖をほどかなければならない。あの虚しい理念と思想を晴らしていくべきだろう。対立と憎しみと恨みと復讐の鎖、偽りと迷妄の鎖、・・それらをこの子供達が受け継がないようにしなければならない・・・魂のまだ解かれていない恨を晴らすために、そして生者達も自分たちを苦しめる記憶から解かれ、自由に生きることが出来るようにと。」
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東條耿一詩集について

2005-09-04 |  文学 Literature
昨年の9月4日に東條耿一詩集朗読会を開催してから丁度一年が経過しました。私が東條耿一という名前を知ったのは、北條民雄の最期を看取った東條の手記を創元社の「北條民雄全集」で読んだことに始まります。その文章と彼の人柄に惹かれました。また、東條耿一の妹の津田せつこ(渡辺立子)さんの随筆には、昭和一七年になくなった兄の臨終の模様が描かれており、それは三十歳でなくなった兄に対する思いの溢れた者でした。とくに、病苦に苦しむ中で、東條が彼女に、「一篇の詩を詠み、私に代筆してくれと言った。あの緑の草原の上を素足で歩いてみたいそんなような意味の美しい詩だった。私は口述を書き留めながら、涙が流れた。いまはその詩の一節さえ憶えていないのが、悔やまれてならない」と書かれていた、その文が印象的であったので、彼の詩を読んでみたいと思いました。

しかし、東條耿一の詩を読むといっても、公刊された書籍に収録された彼の詩は微々たるものでした。1950年に出版された多磨全生園合同作品集「癩者の魂」の中の詩3篇(皓星社の「ハンセン病文学全集」第六巻に再録されています)、「倶会一処」に光岡良二さんが紹介した詩2編、その程度が知られていただけでした。

その「東條耿一詩集」を、村井澄枝さんと私が、主として「山桜」から蒐集・編集してWEB出版(第一版)したのが昨年の6月8日でした。昨年の9月4日の朗読会開催後、昭和9年、10年代に東條耿一が、環眞沙緒子というペンネームで、詩誌「蝋人形」「詩人時代」に投稿していた詩群が見つかり、また、カトリックの雑誌「聲」に昭和16年に投稿していた晩年の手記も発見しましたので、新しく見出された詩群を付加して

東條耿一詩集第二版(PDF)

を、今日(2005年9月4日)WEB 上で出版しました。

また、詩以外の小説・随筆・手記を集めて、

東條耿一著作集

というWEB頁を作りましたので、どうかご覧下さい。
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