歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

無教会の神学について

2005-08-25 |  宗教 Religion
 内村鑑三とその周辺の人々を無教会主義キリスト教の第一世代、塚本虎二、三谷隆正、矢内原忠雄等の諸氏を第二世代、関根正雄、高橋三郎、量義治等の諸氏を第三世代と、仮に言うことが出来るとすれば、現在は第四世代ということになるだろう。まえにこのブログで言及した松本馨さんは、そういう分類でいうならば第三世代に属する。つまり、時代で言えば、戦中戦後の試練の時を生き抜き、敗戦による日本人の価値観の転換を経験した世代である。

ところで、先月、京都の学会で無教会運動の第4世代のひとにお目にかかった。関根正雄先生の弟子であったということだったが、現在は、無教会に飽きたらぬものを感じていると言われた。そして、「無教会運動」は、すでにその歴史的使命を果たしたと言われ、私が「無教会」を過大に評価しすぎであると驚かれていた。

 私の無教会に対する関心は、関根正雄先生と量義治氏によるものである。とくに量義治氏の「無教会的神学の構想」「存在のアナロギアと信仰のアナロギア」という二つの論文には大いに触発された。

 量義治氏は、無教会的神学の重要性を強調して次のように言う。
関根正雄先生は無教会の真理性を確信されていたがゆえに、その伝道のはじめから自己批判としての無教会批判を敢行してこられた。たとえば、無教会は『見ゆる教会』を軽視してはならない、と言われる。あるいは無教会に於ける師弟関係の問題性を指摘される。また、あるいは内村鑑三を相対化する視座の必要性を説かれる。(中略)先生はこうのべておられる。『バルトが神学なき教会は自己批判を怠る結果、晩かれ早かれ異教的となると言った言葉を無教会主義は、他山の石として深く考えなければならない』と。先生のもろもろの無教会批判のなかでの根本的批判は、無教会に於ける神学無用論に対する批判ではなかろうか
量義治氏は、このように無教会主義のキリスト教に於ける神学の必要性を強調している。量義治氏が、念頭においているキリスト教神学は、ローマン・カトリックを代表するものとして、トマス・アキナスの神学大全、プロテスタントを代表するものとして、カール・バルトの教会教義学である。この二つの神学に対して、無教会主義キリスト教は、如何なるキリスト教的思惟をもって自己自身を理解し、そして自己を批判する原理となしうるか。

 この問題提起は、私自身のものでもある。「存在のアナロギア」(トマス)と「信仰のアナロギア」についての量氏の論考については、近い将来にコメントしたいが、無教会は、プロテスタント神学の伝統だけを念頭におくのではなく、「二千年のキリスト教の教会史に無教会はどのように接続するのか(高橋三郎)」という歴史意識にもとづいて、無教会の現在を神学的に思索しなければならぬだろう。

 私の基本的立脚点は、「無教会こそ真のカトリック(普遍の教会)」というものである。従来の無教会にたいする既成教会の位置づけは、無教会は終末論や再臨信仰に根ざす、日本の「特殊な」プロテスタント・キリスト教の一形態であるというものであった。これに対して、私は、無教会の特殊性ではなく、その「普遍性」を強調する。そして、この最も普遍的なるものの視点から、個人の信仰の実存の問題を捉えることをキリスト教的思惟の核心にあるものと考える。すなわち、国家とか民族とか教会とか階級とかいうごとき特殊なる「種」や「類」を越える普遍の教会こそ、そなわち「無教会」こそが、「真の普遍の教会」である。それと同時に、その「普遍の教会」は、形あるすべての教会を否定することによって、真に生かすものとなるべきこと、即ち教会を恒に新しく刷新する原理とならねばならない。

 無教会の「無」は、相対的な否定の立場ではなく、絶対否定の立場、有を否定する相対的無ではなく、絶対無である。「無」とは如何なる意味でも対象化し得ぬ普遍であり、かかるものの自己限定として我々の個が存在する。「絶対無」こそが、世界内存在にも、国家的存在にも解消されぬキリスト教的な個的実存、すなわち「人格(ペルソナ)」の成立する場所にほかならない。

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キリスト者と靖国神社

2005-08-24 |  宗教 Religion
自由民主党が憲法改正案なるものを公表したその日に、「諸君」第9月号に、曽野綾子氏が、「一人の国民として、一人のキリスト者として、靖国に参ります」という文を寄稿していたことを、私は、朝日新聞紙上の広告で知った。

 ちなみに、この九月号は、「8・15歴史の分岐点に立って」という特集号である。 また、「正論」の9月号にも又、富岡幸一郎氏が、「キリスト信徒の靖国体験」という一文を寄稿しているという話も側聞した。私は普通は「諸君」とか「正論」のごとき雑誌は読まないのであるが、曽野綾子氏や富岡幸一郎氏が、それぞれ何を述べられているのか気になったので、書店にてこの二つの雑誌を購入した次第であった。

  まず、両方の雑誌の目次を見て驚いた。これは、あたかも「日本人はみんな靖国神社に参拝しましょう」といった「靖国応援団」のエールばかりが谺する編集内容であることが一目瞭然であった。総理の靖国神社参拝を批判する論文などは全く掲載されていない。 たとえば、曽野綾子氏の論文の前は、「陛下、後参拝を・・!」という石原慎太郎と佐々淳行との対話であり、以下、派手派手しい内容空疎な政治的デマゴギーの連続である。

こういう雑誌に寄稿するキリスト者というもののいかがわしさ、というものを曽野綾子氏も富岡幸一郎氏もさほど気にしてはいないようだ。それどころか、とくに曽野氏の場合はむしろ確信犯的に政治的キャンペーンにコミットしているように思われた。

曽野綾子氏は、嘗て「諸君」に「ある神話の背景」というドキュメンタリーを連載したが、それは、日本軍による沖縄住民の集団自決命令ということには根拠がないということを立証しようとするものであった。昭和46年―47年の頃の執筆である。このかなり昔の曽野氏の文書が、どうやら今年になって亡霊の如く再登場したらしい。 

 今月の「正論」のなかで、ある戦後生まれの弁護士が「沖縄戦・集団自決は軍が命じたというウソ」という論文を寄稿していたが、彼は、「靖国応援団」の一員として大江健三郎氏と岩波書店を旧日本軍に対する名誉毀損で大阪地裁に訴え出たとのことであった。そして、名誉毀損と考える論拠として彼は、曽野綾子氏の昔書かれた「ある神話の背景」を挙げていたのである。このように、今月の「諸君」や「正論」の形成しているイデオロギー軍団の執筆者達の間では、曽野綾子氏は、「靖国応援団」の有力な一員として数えられているようである。

「一キリスト者として靖国に参ります」という見出しは、私には、本人ではなく編集者が勝手に付けたものかも知れぬとも思われたので、本文も良く精読させて頂いたが、やはりその内容は、表題通りのものであった。 では、曽野氏が靖国神社を参拝する理由は何であるのか。彼女は次のように言う。
私(曽野綾子)は今年8月15日には、夫と二人だけで靖国に参る。カトリック教徒が靖国に参るのか、とまた非難するひとがいるが、私は「その人が望むことはできることなら叶えてあげなさい」と修道院の付属学校で、イギリス人やドイツ人の修道女先生から教えられたのである。この言葉の背後を支える思想は、聖パウロの書簡に記されている。国家のために命を捧げた人々に感謝を忘れた国家は必ず衰退する。国家などなくても人はやっていける、という人がいるがそれは間違いだ。国家なしで生きている人々など、私が歩いた世界の百二十カ国ほどのどこにも私は見たことがない。愛国心なしでは生きて行けないのだ。これが国家といえるのか、というほどの汚職と貧困に喘いでいる國でも、人々は愛国心を持っている。何時も言っていることだが、愛国心というのは、高級な信条ではないのである。その人が生きていくために必要な鍋釜なみの必需品なのである。
 「一キリスト者として靖国に参ります」という曽野綾子氏が主張していることはこの文に尽きるのである。

 子供の時に自分にキリスト教を教えた外国人の修道女が、靖国に参拝することに反対しません、といったこと、つまりその時代に彼女が受けた宗教教育を、現在でも、後生大事に守っているという以上の理由を曽野氏は語っていないのである。

 「修道院の付属学校で、イギリス人やドイツ人の修道女先生から教えられた」とあるが、そういう文脈からすると、「その人が望むこと」というのは、戦前の時代、日本のカトリック教会が、信徒の靖国神社参拝を認めたことを指している。つまり「その人」とは、愛国心に溢れる日本人であろう。そういう日本人の愛国者が「お国のために戦死した人を追悼したい」という意志を持っているならば、外国人である神父やシスター達はそれを禁止しないということであったのだろう。

 第二次大戦という異常なる時期においては、キリスト者にも又、靖国神社参拝が義務づけられたことは周知の事実である。既成の教会は、その大部分が、カトリック・プロテスタントを問わず、神父も牧師も靖国神社に参拝しなければならなかった。そうしなければ、外国人の神父は国外追放されたであろう。キリスト教のような「外来の宗教」の場合、またフランスやカナダの神父や修道士は敵性国家の聖職者であったわけだから、教会の存続のためには、そのような政治的妥協が必要とされたのである。しかし、そういう異常な時代に発せられた外国人の修道女の言葉を、曽野綾子氏が引用しているというアナクロニズムは注意すべきである。

 しかし、戦前のような軍国主義の時代にあっても、真に普遍的な信仰を持つものならば(カトリックとは「普遍の教会」というのが原義である)、日本という特殊な国家の神格化、外国を侵略して聊かも罪の意識を感じない帝国主義のイデオロギーを美化した「現人神」崇拝、こういう制度の中に潜む「疑似宗教性」をただちに見抜いたはずである。

信者の生活と生命を守るために妥協することはやむを得ない場合があったであろうが、たとえそのような妥協をしたとしても、キリスト者が、みづからすすんで「靖国神社に参拝すべきである」というキャンペーンに加わるとすれば、それは「普遍の教会」にもとる大いなる愚行である。

 「この言葉の背後を支える思想は、聖パウロの書簡に記されている」と曽野綾子氏は言うが、これもパウロ書簡の曲解である。たとえば、ロマ書13・1をみると、その日本語訳を読む限り、為政者に政治的な反抗することを戒めているように解釈されるかも知れない。しかし、それは、為政者がキリスト教の根幹にかかわること否定しない限り、という限定付きで解釈すべきものである。このパウロ書簡は、為政者に迎合するキリスト者によって良く引用されるものであるが、それが不適切な讀解に依拠するものであることを指摘することは、無駄ではあるまい。

 そこで引用されたロマ書13-1のギリシャ語原典ou gar estin exousia ei mh upo qeou, ai de ousai upo qeou tetagmenai eisin は、「神の下にあるのでなければ、それは権威ではなく、実に神の下にある権威こそ決定を下すものなのです」と読まなければならない。

  「国家のために命を捧げた人々に感謝を忘れた国家は必ず衰退する」と曽野氏は言うが、むしろ、盲目的な愛国心こそが国家を滅ぼすのである。

 靖国神社というものが、明治時代になって、近代国家として出発した日本が人工的に制作した国家宗教であるという歴史的事実を我々は直視しなければならない。それは、日本人の大地に根ざした宗教性とは区別されるべきものである。

 北朝鮮に於ける金日成崇拝と同じく、近代化の途上において、民族国家を一つに纏め、軍国主義を貫徹するために必要とした偶像が戦前の天皇制であり、天皇のために死んだ死者を慰霊し顕彰することが、靖国神社の果たした政治的・疑似宗教的役割であったのである。
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キリスト者と靖国神社その2

2005-08-23 |  宗教 Religion
曽野綾子氏が「諸君」の九月号に「一人の国民として、一人のキリスト者として足す国に参ります」という発言と呼応するかのように、「正論」の9月号に、富岡幸一郎氏の「キリスト信徒の靖国体験」が掲載されていた。曽野氏が、日本の戦前の愛国教育を受けた世代のカトリック信徒であるのに対して、富岡氏は戦後世代のプロテスタントの信徒とのことである。富岡氏は、今年6月にはじめて靖国神社に参拝し、次のような感想を述べている。
私(富岡)は三十歳を過ぎて、プロテスタントの教会で洗礼を受けたキリスト者である。靖国神社を、自らが信仰する神を礼拝する場所だとは思っていない。しかし、二拜二拍手一拜という神社の参拝の仕方を、とくに拒む者ではない。それは形式的だと非難されるかも知れないが、たとえば教会で行われる結婚式や葬儀に参列して、自分はキリスト教徒ではないから讃美歌は歌わない、といったらどうであろう。いや、浮世の義理でノンクリスチャンの人が教会に行くことはあっても、お前はキリスト者のくせに何を好きこのんで、今、問題となっている靖国神社などへ行くのか、と問われるかも知れない。答えは明瞭である。戦争で命を落とした多くの日本人があったことを改めて覚え、静かに鎮魂するためである。例年そうしているわけではなく、戦後六十年の歳に、戦争を知らぬ世代として実際に一度参拝してみたかったからである。(中略)参拝をし、遊就館を見て、私は靖国神社に来て良かったと思った。靖国は、近代国民国家となって没した人々を追悼する場所であり、それは宗派を越えて参拝できるところだと思う。靖国神社は「政教分離」の原則に反するとの見解が、キリスト者からも出されているが、それは國のために生命を捧げた人々を祭るための、国家儀式の施設であると考えるのが筋道であろう。(中略)マルクス主義がそうであったように、無宗教こそ最悪の宗教であると私(富岡氏)は考えるが、神を信じることは非理性的であると感じているらしい、現代の多くの日本人のみならず、神を信じている少数のクリスチャンの人々とも、靖国問題を真剣に語り合わなければならないと思っている。
一読して、靖国問題に関する富岡氏の、あたりさわりのない一般論から、突如として、「靖国は宗教施設ではない」かのような結論を出す、あまりのナイーブさ、もしくは歴史を無視した議論の運びに驚いた。

  戦前のキリスト教とがこぞって靖国神社に参拝したときの自己正当化の論理こそ、まさに「靖国神社は超宗派的な国家的儀礼の施設である」というものであった。その論理は、キリスト教のみならず仏教の諸宗派も共に、「日本教」ともいうべき明治以降に成立した国家的宗教の中に統合することを正当化したのである。つまり靖国参拝は、「日本教」に帰依するかどうかの一種の「踏み絵」の如き役割を果たしたということは、日本の戦時中のキリスト教の歴史の教えるところである。

  「靖国神社に一度行ってみたかった」とのことであるが、見学はしても参拝などはされるべきでなかったろう。「遊就館」を見学して何に感銘を受けたのか。そこでは、日本の戦争を正当化する趣旨の展示と、戦争映画が上映され、大陸侵略を罪とは考えない国家的エゴイズムが礼賛されている。

富岡氏については、私はこれまでどのような人であるか全く知らなかったが、昨年度、無教会主義キリスト教に縁の深い今井館で、「バルトのロマ書」に関する講義を行った人であると側聞して非常に驚いた。しかも、氏は、内村鑑三に関する著作もあるということ。

 一体、富岡氏は、あのバルトのロマ書に明瞭に現れている「宗教の絶対否定」をどのように読まれたのであろうか。バルトこそは、ドイツの国家主義・民族主義に妥協したキリスト教会に対して、ラジカルな「否」を突きつけた神学者であるが、それは宗教という美名を持つ全体主義の絶対否定に基づく者であった。靖国神社は、英霊を祭り、招魂の儀式を行うまぎれもない宗教施設である。富岡氏は、宗教的なるものが、どれほど華麗な儀式をおこなおうとも、所詮は「肉の秩序」に属するものであるというバルトの宗教批判をどのように読んだのであろうか。

あるいは、内村鑑三の教育勅語礼拝拒否という行動を、富岡氏はどのように評価されるのであろうか。公立学校にご真影を飾り、教育勅語に礼拝すると言うことは、国家によって強制された宗教儀礼であり、内村がその礼拝に従わなかったために非国民と呼ばれ、職を失い、家族共々手酷い迫害を受けたという歴史的事実をどう思われるのか。卒業式で国旗や国歌に敬意を表しないと云うだけで処罰されるごとき偏狭なる「愛国」心が教育の現場で復活しつつある現在、内村にゆかりのある今井館で、バルトのロマ書を「講義」されたという富岡氏の弁明を聞きたいものである。
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米国の禅仏教研究について

2005-08-22 |  宗教 Religion
先日、ある米国の研究者が書いた禅に関する論文のコメントを依頼され、米国の仏教研究、とくに禅にかんする研究の現状がどのようなものであるか、知る必要があり、(K)The Koan, Texts and Contexts in Zen Buddhism, edited by Steven Heine, Dale S. Wright (Oxford UP 2000)に収録されている Dale Wright, Victor Hori 氏等の論文を読む機会があった。

私が米国宗教学会などで仏教とキリスト教の対話セクションや、プロセス神学者と仏教者との対話に参加していたのはもう20年前になるが、そのころとくらべれば、確実に米国の仏教研究は前進しているという印象を持った。

それでも、細部に関する限り不満が残る。たとえば、鈴木大拙の扱い方。米国では大拙の英文著作はよく読まれているが、大拙の扱い方は思想家と言うよりは、啓蒙家としてである。彼等は、大拙の書いたものを入門書と見なしているが、それは正しくない。公案との関係で言うと、彼等は、鈴木大拙が、禅に思想性を認めず、「公案を、解決不可能なパズルと見なした」、となどと書いているが、これは誤解である。大拙の英文で書かれた通俗的啓蒙書には、確かに、そのような誤解を生む記述が見受けられるが、大拙全集で4巻にわたり書かれている「禅思想史研究」を読む限り、そこには、禅に固有の「思想」ないし「哲学」が研究されている。

鈴木大拙は西田幾多郎との相互の影響のもと「禅思想」を研究テーマとし、般若即非の知を以てその根本としていたのであって、そういう観点からみれば、公案を反合理主義、解決不能なパズルとみるのは浅薄な見方である。

一般に、誰かが禅について書く場合、著者に参禅の経験があるのかどうか、あるとすれば、どのような法系の老師のもとで参禅したのか、また、参禅の経験がなく、禅について書かれた文献に依拠してのみ、思想的な研究をしているのか、その辺に注意しなければならない。

もちろん、参禅の経験がなくとも、禅について、文学の見地から、あるいは哲学の見地から、語ることはできる。しかし、その場合、そのような言説がいかにして成り立ち得るか、についての反省が求められるであろう。

公案について論じる場合、論者が臨済宗の僧堂で、入室参禅した人であるのか、それとも曹洞宗で参禅したか、また論者が依拠している第一次文献が臨済宗系の人によって書かれたか、曹洞宗系のひとによって書かれたか、ということになんの配慮もしない論文を良く見受けたが、これは、禅の思想史的研究にとっては致命的である。

なぜなら「教外別伝・不立文字・見性成仏」とは臨済宗でのみ重んぜられる言葉だからです。曹洞宗は、ひたすら坐ること、日常生活のなかで仏道を行ずることを重んじ、臨済宗の「看話禅」とは違う行き方である。

おなじ「禅」といっても、修行者の教育システムにおいて、公案をどのように位置づけるかについては、臨済と曹洞とでは大きな違いがあり、それはそれぞれの「禅思想」においての違いとなって現れる。

たとえば、道元は、「我々に本具する佛の本質」(性)を直観(見性)して佛となるという意味での「見性成仏」を斥けたのであって、仏性が我々の本性に内属するのではなく、我々自身が仏性のうちにあると言っている。彼は経典の権威というものを重んじ、「教外別伝」という思想を外道と考えていた。先覚者の書き残した文字を大切にし、なによりも聞法という他者との出会いを重視したのである。正法眼蔵のような思想書は「不立文字」を標榜するものには書けぬと思う。

道元は、「公案」を「無理会話(理性では理解できない話)」と考えるものを「杜撰のやから」と批判している。(「山水経」参照)これは、公案と理性との関係を考える上で重要な示唆を与えている。

臨済宗では、曹洞宗と違って「見性」をめざす「公案修行」を重んじ、様々な古則公案を修行体系の中に取り入れている。秋月龍老師の「公案」(ちくま文庫)は、越渓ー禾山室内公案体系が公開されており、江戸時代以来の臨済禅の教育システムのなかで公案が如何に使われていたかを現代の読者に公開している。

秋月老師に依れば、公案は、「理致」「機関」「向上」の三つに体系化されるとのこと。 そこには、禅の修行体系に関する臨済宗の「思想」が明確に出ている。一つ一つを看れば、不合理に見える公案も、一つの修行体系に組織化される場合は、そこに、仏教に固有の「理性」、即ち、「般若即非」の「智」が働いていると看るべきであろう。

最近の米国の禅仏教研究者の間には、Reason(理) ではなくてFeeling(情)を重視する傾向があるようだ。そこでいうReason が仏教で言う分別智を意味するならば、かかる分別智は否定されるべきものだという点で正しい見方であろうが、仏教では分別智は全面的に斥けられるということで終わるのではなく、否定によって自覚された「無分別智」において、ふたたび「智」が蘇るということが重要なのである。つまり、禅とは、単なる反合理主義ではない。

また、ただの情(Feeling)ではなく意志(Will)も考慮すべきであろう。すなわち「知情意」のすべてが統合された宗教的人格が問題である。

いわゆる分別智(科学的合理性)は、情意を含む人格の全体を支配することが出来ない。無分別智という仏教的な「理」を自覚することが、仏教思想の根幹であり、それを「事」において、即ち、日常の具体的な行為と生活の内に実現することこそ禅の持つ現代的意味があるだろう。

参禅修行では、老師は修行者の人格の全体を看るわけであるから、当然、情意的なるものが重要な要素となる。その点で、禅に関する論述において「情意的」経験が持つ重要性を指摘することは正しい。しかし、他力の念仏の行とは違って、臨済禅の公案修行の中では、単なる情緒的なもの(Feeling)ではなく、意志的・知的なものが強調されていると思う。

情というのは本質的に受動的なもの、action ではなくてpassion であるわけだが、臨済禅では、修行者の主体的な行為を重んじているので、その修行を、情に還元するのは的がはずれているだろう。

また、米国の仏教研究者であるであるKasulisはIntimacy ということを強調していた。ことばによらないメッセージということは、言葉が必要ないという意味ではなく明確な言葉に表されない暗黙智の次元があるということは正しいだろう。

しかし、Intimacy という言葉は、禅の経験を秘教的なもの、仲間内にしかわからないもの、従って、公共世界に無縁なものと誤解させる危険がある。

禅の公案修行では、多くの師に歴参することが望ましいとされるが、これは一つの場所に定住して、師弟が馴れ合いになること、Intimacy の弊害に陥ることを戒めるものである。
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小笠原登の医療思想その1

2005-08-21 |  宗教 Religion
 昭和16年の「中外日報(浄土真宗系の新聞)」に掲載された小笠原登と早田浩の論争について言及したものはこれまでの文献にもあるが(たとえば大谷藤郎、藤野豊)、その詳細は十分に知られているとは言い難い。これは、戦前の日本に於ける救癩政策ー強制的な終生隔離政策-を推し進めていった光田健輔に代表される療養所学派と小笠原との間の論争を知る上で貴重な資料である。

 この論争の発端は、京大の皮膚科診療室を取材した新聞記事である。このあとで、国立療養所の医官、早田浩が、同じ紙上で反論し、小笠原登が、それに答えるという形で論争が展開された。

なお、当時の浄土真宗では、「大谷派光明会」が結成され、宗派を挙げて、「救らい」キャンペーンに参加していたことに留意すべきであろう。

「癩療養所の患者達は祖国を浄化する為に、療養所内に安住し、此処に骨を埋めることをいさぎよしとしてゐるのである」-などという文が当時のこの派の出版物に頻出している。小笠原登を取材したこの記事は、そういう光明会の活動とは別の流れが浄土真宗にあったことを示している。

まず、中外日報の昭和16年2月22日に「癩は不治ではない-伝染説は全信できぬ 小笠原博士談」という記事がでたことが論争の発端となった。
 癩は現在の学説では伝染病となっており、それは不治を約束されてゐる難病だという社会的常識すら有る。然るにこの癩伝染説に疑問符を持ち「癩は不治の難病にあらず」と断定したら、学会も一般社会もさだめて驚くことであろう。ところがこの逆説的な研究に身を委ねて去大正14年以来今日まで、実に16年間、孜々として倦むところを知らない人に京大医学部講師小笠原登博士がある。
實は、この記事の見出しには医学的にはやや不正確なところがあり、あとで示すように、小笠原登の考え方によると、癩は「不治の病」というのは迷信であると喝破してはいたが、らい伝染説を否定したのではなく、らいが危険な伝染病であることを否定したのであった。つまり、小笠原と療養所学派との論争点は、決して、「伝染説か体質説か」という二者択一にあったのではなく、「らいは強制隔離をおこなうほど危険な伝染病か否か」にあったと言うべきであろう。しかし、この点は後で又論じることとしよう。
 中外日報の記者は、次に小笠原登を次のように読者に紹介している。
 小笠原博士は愛知県海部郡甚目寺村大谷派円周寺の出で、令兄は現に大谷大学に教鞭をとってゐられる。兄弟とも五十を過ぎて独身で両人して荘厳院西之町に借家し簡素な自炊生活を続けて居られるが、博士は連日学内皮膚科特別研究室に屯して三十人たらずの入院患者と多数の外来患者を相手にこの貴重な研究を続けてゐる。癩の治療には祖父以来浅からぬ因縁があって、祖父は治療を求めに来た患者を本堂の縁に灰を積み、その上に新聞紙を布いて据らせこんねんに治療に当たったもので、しかも食事など家族も共にやるといふ大胆なやりかたで時に召使いのものの不機嫌を購はねばならぬことも多かったといふ。ともかくさういふ具合で博士の家は伝統的に癩患者をいたはり、その治療の為に考へ、至力をここに尽くすべく宿命づけられてゐるものとも見られるわけで、社員は博士の高き風格に直接してその篤実な学者的態度に撃たれた一人である。以下は博士の談話の要旨である。
ここで注意すべきは、小笠原の家が代々漢方医として癩の治療に当たっていたという事実である。彼は西洋医学だけではなく、東洋の伝統的な漢方医療にも通じていた。そして、祖父以来の豊富な臨床的な経験から、らいは決して危険な伝染病ではないこと、らいは決して不治の病ではないことを確信していたのである。光田健輔のように、らいの原因をらい菌のみに求め、その病原菌を強制隔離によって日本から撲滅しようと言う考え方を小笠原はとらなかった。彼は隔離ではなく患者との「共生」をめざす医療思想を説いたが、それは、伝統的な東洋の医療思想に根ざすものでもあった。我々は、あとで、小笠原の「漢方医学の再評価」という著作を検討するが、近代西洋医学一辺倒であった光田学派の非人間的な医療政策の問題点を、なぜ小笠原が戦前の時点において洞察し得たか、それを医の倫理の根源に遡って検証することとなるであろう。
 さて、中外日報の記者は、小笠原の談話を次のように伝えている。

癩は神代の昔からあったといひ伝えられて居り、大宝令の令義解にはすでにその伝染説が出てゐます。しかし、癩が果して強烈な伝染性のものなれば今日までに国中が癩で充満したといふやうなこともありませうが(何等予防の施設のなかった長き歴史に於て)嘗てさういふことを聴きません。

 小笠原は、らいという病気の原因を、病原菌だけではなく、それにたいして感染し発病する人間の体質ないし感受性、および患者の生活する衛生的環境の三つの因子の相関関係の中で捉えようとする。それを判りやすく示すものが、「鐘と撞木」の譬えである。
 今ここに一つの撞木があるとする。この撞木を用ゐるときには大きな鐘も小さな鐘も皆一様に鳴るといふならば頗る妙な撞木だといふので、この撞木を問題とせねばならぬ。しかるに反対に、この撞木を用ゐるときは何れの鐘も鳴らぬのであるが、唯一、二の特別の鐘のみが鳴るとしたならば、撞木を研究して見るよりも鐘の方を研究せねばならぬのである。今、癩の場合に於いては、癩は何れの撞木の場合に当て嵌まるかを考へるならば、癩の場合における病菌の関係は正しく後者の撞木の場合に合致するのである。

この鐘と撞木の譬えが適切であるという根拠は、次のような病理学的なデータがあるということを小笠原は指摘する。
 何故ならば、人体実験及びその他を考へ併せるならば癩菌はさほどに病原性を有するものでは無いといはねばならぬからである。即ち此場合に於ては癩菌の研究よりも寧ろ病原性の乏しい癩菌に遭遇して発病するがごとき体質のほうが問題とせらるべきであるとするのが私の主張であります。私が文献的に知ってゐる人体接種実験は約220例ありますが、この実験によって癩が現れたのは僅かに五例で、約2.3%に過ぎませぬ。またフィリッピンに於てこんな統計の出た実験があります。それは患者の子を親達から隔離して健康者の手によって養育した結果発病を見たのが23%、そのまま親の手元においたのが11.5%といふのです。これなども考へささるべき統計ではありませんか。
我々は「伝染病」という言葉の意味が決して一つではないという事を小笠原は指摘する。
 およそ伝染病にも二種の区別があり、広い意味のと狭い意味のとおのづから別れてゐます。広い意味からいへば、いはゆる飛火グサなども立派な伝染病でせう。癩はけだしこの広い意味における伝染病と申す外はありません。従って療養所も厚生当局も病菌の研究のみに専注しないで体質の研究に邁進すべきだと思ひます。
具体的には、国民の栄養の改善、衛生環境の改善のほうが、隔離よりも効果的であるという含意が小笠原説にはあった。それは統計的な考察から明らかであったが、其れにもかかわらず、人々が隔離政策を当然視したのは、癩は不治の病であるという考えに呪縛されていたからである。この不治と言うことについても、小笠原は再考を求めている。

 最後に私は癩の全治を確信するものでありますが、それは今日までの私の実験が立派に証拠だててゐてくれます。しかし、それを諒解して貰ふのには一つの前提が必要で、即ち病気が治るといふことは病菌が無くなって人体の組織を破壊する力がなくなったといふことを条件とせねばなりません。私の実験上、この条件に達したのは無数にあります。しかし、病歴の結果、指が屈んだとか、腕が曲がったとかいふ現象の残るのは、それが後遺症である場合、避けがたいことで、その現象のみを見て素人考へに彼の人はまだ癒ってゐないとするのは妄談であります。内臓の病気でも何処かに痕跡を残しているもので、その痕跡を突き止めてお前の病気はまだ治って居らぬといへば酷でせう。チプスの如き場合、三十年も潜んでいた病菌がまた再発するといふ事すらありますから、これらはよほど慎重に考へねばならぬところだと信じます。
この小笠原の談話を紹介したあとで、中外日報記者は次の如くコメントしている。
 博士の主張は最近学会の多く認むる所となり各地の療養所でもこれを尊重してゐるといふことであるが、取締関係上厚生当局では、まだこれに疑問符を残してゐるといふことである。社員は、博士の主張が徹った場合、その与へる社会的影響がどうであるかをも考へぬではないが、それよりも真実が明るみに出るといふことは医療文化のために喜ばしいことだと信じて敢へて博士の説を紹介した。なほ博士には「癩と佝僂病体質」「癩とヴィタミン」「二,三の皮膚病」「癩の話」などの諸研究がある。なほ、小笠原博士は最近全治した朝鮮青年を自坊に引とっていそぐ患者をそのベッドに入れようとして居られるなど涙ぐましい献身的なはたらきをしてゐられる。

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小笠原登の医療思想その2

2005-08-20 |  宗教 Religion
中外日報の小笠原論文に対する早田皓の反論

前回、小笠原登に関する昭和16年の中外日報の記事、「癩は不治ではない 伝染説は全信できぬ 研究16年  小笠原博士談」を転載したが、これに対する療養所学派、長島愛生園医官早田皓の同紙によせた反論、「癩の遺伝説と治癒の限界に就て―京大小笠原博士に呈すー 」はどんなものであったか、それを検討しよう。早田は、この反論を次のように書き起こす。
「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、鐘と撞木の間が鳴る」穿った民謡であるが、之を学説に応用されると面倒なことになる。本年の春京大小笠原博士は談話の形式で本誌に癩は多分に遺伝であり、また癩は不治ならずとして、患者の随喜渇仰に値すべき説を発表されたが、本紙が医学専門雑誌でない関係から、一筆呈上に及ばうとは思つたもののご迷惑とさしひかへて見たが、良く考へて見れば本紙の読者層は主として宗教家であり、地方の指導者階級である以上之を放任して今更に癩が遺伝であったかと信じられては本病予防もいよいよ峠の見え出した今日この頃、徳川の初期、隔離事業がやつと緒に就いた處をキリシタン禁制と一所におぢゃんになり、三百年の放任主義が遂に明治初頭の癩暗黒時代を現出したことを思えば、敢て一言博士に苦言を呈し、併せて読者諸賢の癩予防事業に対する全幅のご協力をお願いしたく筆を執った次第である。筆者は博士には昭和八年以来御厚誼を願っており感情上の問題ではなく純学問的討論であることを初頭に於て御断り申し上げて論旨を勧めて行く。」
まず早田は、小笠原の主張を要約した新聞記事が「伝染説は全信できぬ」という見出しを掲げたことを取り上げ、小笠原が、らいは遺伝病だというすでに論破された学説に固執しているといって非難した。これは、絶対隔離政策を推進した療養所学派が、小笠原説を非難するときの常套文句であったが、彼らは、小笠原がすでに1931年に「癩は遺伝病である」ということを「三つの迷信」のうちの一つとして斥けたことを無視している。小笠原の論点は、らい菌に触れただけでは滅多に感染が起こらないこと、夫婦の間で感染発病するケースが稀であることであった。従って、配偶者が癩であったからといって悲観する必要は全くない、というのが本来の論点であった。

「癩は強烈な伝染病ではない」という小笠原説の核心については、早田はどういっていたか。

「夫婦間に癩の発病が少ない、すなわち夫婦間に於ける伝染は何百例に就いて一例ほどしかないといはれる、これは少なくとも日本においては事実である」

癩は成人同士の間ではめったに伝染しないこと、この根本に於いて早田は小笠原の主張を認めている。それだけでなく

「(小笠原)博士の御祖父が患者を世話し、博士も幼少時代に於いて殆ど同居生活を続けられたが、未だに癩を発病しないと言われ、同じ浴槽で入浴されたとのことであるが、太田教授の最近の研究では、60度で既に癩菌は死ぬ由であるし、入浴ということ自身が本病予防上重大な役目を演ずるので、草津に於いては、健康者で嘗て癩の発病した例がないとの伝説さへある。石鹸の使用量と癩の発生は反比例するともいはれており、皮膚を清潔にすれば、少なくも余り危険なものではない。」
と言っている。

次に断種については「重症者においては梅毒の場合と同じく、胎内感染がみとめられる」ことと「先天癩の子供の暗黒さを考えてやらねばならぬ」ことから、

「断種法を実行することは楽しみの少ない癩患者に対して、僅かながらも人生を味わせる親心であり、素質遺伝を肯定するからでもなんでもなく、病的な子供を必要としない、大和民族の大英断である」

と述べている。そして、「癩は不治ではない」という小笠原の論点に対しては、癩が完治するなどということはあり得ないとし、早田は次のように反論した。
「自覚症状がなければ治癒したと仮定が真理なら、我が国一万五千の癩者はたちどころに、二千人に減じ得る。誤れる仮定のもとに治癒を決定し恐るべき伝染病患者を世に送る事は、医人としての重大な罪悪である。情に負けて人工妊娠中絶、あるいは伝染病患者の届出でを励行しない徒と何等異ならない。厳たる科学的観察と冷静なる判断のもとにのみ決すべき治癒の問題を軽々に取り扱うことは、果たして真の医人であろうか。」

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小笠原登の医療思想その3

2005-08-19 |  宗教 Religion
小笠原の解答-我が診療所よりみたる癩

中外日報に於ける早田皓の小笠原批判は、結論を見れば判るように、大日本帝国の国策として、らい病を撲滅することが第一義的と定められたのだから、小笠原もそれに従えというにつきる。医学上の知見としては、小笠原の「体質説」は結局は遺伝説にほかならぬと、位置づけた上で、早田は一応それに反対するデータを揃えはしたが、結局のところ「癩は強烈な伝染病ではない」という小笠原の意見は認めたのである。

それでは、それほど弱い伝染性しか持たないものをなぜ強制的に絶対隔離するのかというと、この病気が不治であるというのが、その論点であった。これに対して、小笠原は中外日報紙で、この早田の批判に対して、あくまでもひとりの臨床医としての医療経験に基づき、自分の云う体質説が遺伝説とはことなることを次のように説明した。
「ここに誤解してはならぬことがある。癩に罹りやすき素質が遺伝しうるものとするならば、子々孫々に伝わって永遠に危害を貽すものであると考へてはならぬ事である。凡そ、天地間に常住なるものは一つもない。恒に転変を続けているものである。また自存するものも一つもない。万有の相関関係によって流転の真っ直中に於いて仮に一時存立するにとどまる。癩性素質も亦此の鉄則に漏れぬのである。環境の変化はよくこの素質に転化を与える。癩に罹りやすき素質も亦生活法の改善を行ふだけにても消失する。
 地方には癩系と称せられてゐる家があって、有名であるにもかかはらず、今日は一介の患者すらないことが通例となってゐる。かた、某県に於いて、舊幕時代に患者を放逐した小島があって、現在の戸数63戸ほどであるが、何れも皆患者の子孫のみであると聴いてゐる。しかるに該島には今ひとりの患者すらないのみならず、所属隊の壮丁成績が頗る佳良であるといふのである。この事実は、また、癩に罹りやすき素質も亦環境によって消失するものであることを察知せしめる事実である。」
 つまり、遺伝病であるならば、環境の如何によらず、患者が発生するはずであるが、癩に罹りやすい感受性は、環境を改善することによって消失するというのが、小笠原の云う体質説と所謂遺伝説との決定的な違いなのであった。

 また、隔離せずとも癩の患者の数は、近代化とともに減少傾向にあることを統計によって示し、小笠原登は、
「明治24年以来、徴兵検査の際に発見せられた癩患者数は次第に減少したと共に、また北里博士の明治39年の統計に於いて、二万三千八百十五名であったのに対して、昭和十五年三月の統計では一万六千五十四名となってゐるのである。すなわち、隔離法が行われざる以前より、患者数は減少に向かっていたのである。」
という統計的事実を指摘している。

また、当時の外国の学者の説をも引用して
 「ジャンセルム氏は「ハンセン氏菌の感染力の弱きことは単純な観察がこれを論証するに十分である」と云ひ、ダウル、ロング両氏もまた、伝染力の微弱なことを認め、ヴェダー氏は「癩は伝染によって蔓延することが一般に認容せられてゐるにもかかわらず、吾人の期待を満足せしむるに足る論拠がない」と云っていつのと相通じるところがある。急激な伝染を思はしめるような特殊な例を挙揚し、之を一般化して考へてはならぬ。」
「クリングミュラー氏は、その著「癩」において、「癩問題は吾等の世紀に入って新時代にすすみ行ってゐる。なぜならば、今や、新時代の治療法によって癩不治のドグマは転覆しているといふことを確言し得るからである」
と療養所学派の隔離政策を批判している。この最後の言葉、すなわち「癩不治のドグマは」転覆している」というのは、この論文が掲載されたのが昭和十六年六月七日であることを考えると、まさに歴史の趨勢を言い当てたものであった。小笠原の結論を引用しよう。
「要するに、癩は細菌性の疾患ではあるが、その伝染力は頗る微弱であるたがために、俗眼をもってしては伝染性の有無を辧じがたきほどに緩慢なものであって、羅病の素質あるものが特に病原の害毒を受ける物であると考へられる。しかし、万物流転の鉄則に従って、癩羅病の素質は、なきものにも生じ、有るものには又消えうるものであって、永遠に伝わるといふのではない。クリングミュラー氏は「きわめて単純な衛生法にて癩の伝染を防ぐに十分である」といってゐる。患者諸君は絶望する所なく、治療に専念せられんことを希望してここに筆をおく。」

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小笠原登の医療思想その4

2005-08-18 |  宗教 Religion
早田皓の再反論

小笠原の「我が診察室よりみたる癩」が掲載された後で、早田皓は、昭和16年7月4日の中外日報で再び、「癩は伝染病なり」という論文を発表して、療養所学派の強制隔離政策のキャンペーンを次のように展開した。

これは早田自身がはじめにことわっているように、小笠原の諸説は無関係に

(1)癩の発病は遺伝的関係を有しない
(2)癩の治癒が困難であること
(3)現在に於ける癩予防事業の方向
の三点を論じた。

それらは、彼の属する療養所学派の医療政策そのものであるが、(3)の結論部に於いて小笠原に言及しているので、その箇所を引用しよう。
「癩の治療は前述のごとく困難である、羅患を防止させる以外に蔓延を停止させる策はない。環境衛生の完備によって或いは軽症者との同居なら何等支障を来さないようになるかも知れない。しかし、その対象たるや全国七千万の同胞に及ぼさなければならない。僅かに残余五千名の隔離により本病が根絶せしめられ得るならばこれほど容易なことはないであろう。即ち一万六千の絶対隔離の断行こそ本病絶滅の捷径である。
ここで、「僅かに残余五千名の隔離により本病が根絶せしめられ得るならばこれほど容易なことはないであろう。」という箇所に注意したい。隔離押された一人一人の人間の命の重みという視点はそこにはない。「即ち一万六千の絶対隔離の断行こそ本病絶滅の捷径である」というが、はたして絶対隔離の断行が実際に患者の新規発生を減少させるのに効果があったのかどうか、それは国民の衛生環境、栄養水準の向上以上に有効なファクターであったのかどうか、その点に関する学問的、統計的資料を早田は提出していない。光田派の医師の一人でもあった内田守が戦後に発表した論文によると、癩患者の新規発生の現象と言うことと上水道の普及ということには強い因果関係があるが、そういう統計的事実を調べようと言う姿勢も見あたらないのである。
 早田の議論は、次に大東亜戦争開始前の状況を反映して、次のような議論へと移っていく。
 東亜共栄圏には癩が多い、志那に百万、印度に十万、果して伝へられる如きものかは不明であらうが、何れはこれらの癩者にも福音を与える時が来よう。まず隔離、新患者の根絶、しかしこれによっても療養所内には多数の癩者は其の病と闘って居る。新薬の発見、新治療法の創案もまた望みなしとはしない。難を捨てて易につく、或いは大丈夫の志ではないかも知れないが、いたずらに聲を大にし犠牲者の蔟出を来すことも大丈夫たるものの為す所ではあるまい。すなわち曰く「まず所謂撞木を処理せよ」と。」
早田自身は沖縄の療養所に派遣されたが、それのみならず、韓国や台湾の療養所もこのような光田イズムにしたがって運営され、強制隔離政策が実施された。
 早田は、驚くべき事に、明石海人の短歌まで持ち出して、それを強制隔離政策の正当化に利用している。
「「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか」こんな議論を続けるより、一時も早く、撞木を処理することにある。撞木がなければ鐘も鳴らぬ、三千年来、苦しんだ業病癩の根絶は、既に今一歩の先に迫って居る。「日の本の癩者に生れて我悔ゆるなし」と歌った一癩者の聲は、全国十余箇所の療養所内で生活する九千の病者の聲である。九重の雲深き處、仁風薫じ慈雨に浴する感激の生活は其の隔離政策においても何らの暗黒面なき世界に冠絶した救癩事業であることを知らねばならぬ。区々たる感情による誤れる診断、誤れる予後判定に由来する幾多の悲惨、「畳師の悔むともなく云ひつるは惜しみなく捨てし薬料のこと」「人参飲んで首くくり」の愚を演ぜしめざるにある。今や、上下一万五千の病者に安居の地を与え、楽業の土を分つことこそ我等大和民族の最初に実行すべき、民族浄化の聖業である。志那百万の癩を救い、印度十万の癩を助ける日こそ、八紘一宇の大理想顕現の明日であろう。」
はたして、このような強制隔離政策が、早田の自負していたように「何らの暗黒面なき世界に冠絶した救癩事業」であったかどうか、歴史は全く異なる事実を我々に示している。後で示すように、愛生園においても、沖縄の療養所においても、強制収容された患者達の戦争中の異常なる死亡率が、その一端を物語るであろう。

再論の結論部で、早田は、療養所への入所が、いかに癩者にとっても福音であるかを強調しつつ、小笠原について次のような評価を下している。
「(癩は不治であるが)然し治らないからあきらめて療養所に入院しろと云ったところで肯んずるものは殆どない。結局、軽快するから治療せよとすすめるが、一度療養所の門をくぐった時、病者の過半は再び社会生活への欲望を断念するほどに住みやすい處である。最近においては、岡山医大では、癩と診断したものは殆ど愛生園への紹介の労をとる。経済的な圧迫を加えられずに送りうる園内生活に感謝の念を生じないものは一人もない。癩全治の宣伝は世を誤らせること甚だしい、ことにその経済的負担は、その精神生活を悪化させること無限である。浮浪患者が脅迫をやり、窃盗を敢えてするのもその遠因は此処にある。 徒然の友として栄えある使命を達せんとするものは、病者にその正しき道を辿らしめねばならぬ。かう私が書いてきたとき、私の毒舌の対象は小笠原博士であると云ふのではない。私は博士の心境は一番よく知って居る心算である。博士は御祖父の遺志を継がれて真の病者の友として立たれたのである。病者の翹望はなんと言ってもその治癒にある。金オルガノゾルにより大風子油剤以上の効果に驚喜せられた博士は次第に此の薬の虜になられたものである。しかし治療を加えていく裡に次第に不満足の点が生じて来た。神経癩においての後遺症なるものの範囲を拡大されて、治癒の限界の程度を下げられた。しかし、慢性伝染病である関係から特に著名に実害が現れてこない。遂に癩菌そのものの存在すら否定される様になったわけである。伝染病でなければ、隔離は無用である。博士は遂にこんな考へかたから現在皮膚科特別診察室では、特に消毒を厳重にされていない。幼時における御祖父の感化であるかも知れない。かうして治癒の条件を非常に寛大にして浸潤の消褪だけでも治癒と決定されるに至ったものである。即ち、博士の許に於ける治癒率は百%にちかいものになった訳である。夜11時まで外来を許される博士の心やりも良く病者の心理を穿ったものである。同情心は遂に遺伝説にもおよび、伝染病者解放運動に迄進展して行った。前述した不徳義な面々とは雲泥の相違があるり、殊に清貧に安んじられた貴い姿は現世に菩薩を拝するの感がある。
 だが、今や、世相は一変した。個人個人の翹望を容れての医学より、民族全体の浄化を計る時機に到来した。一患者を解放することにより、僅かに少数の犠牲者を出すだけであるからといって、これを許すべき時ではない。将来の犠牲者をまず根絶し、而して後に現在の人たちを救うべき時である。真実に現在の人たちに福音をもたらすためには金オルガノゾルに百倍すべき偉効を有する薬剤を必要とするからである。折角の癩者に対する献身が、病者を溺愛するの余りにあらぬ方向に走りつつあるのを悲しむものであり、私は、今、博士の冷静なる御熟考、御再考を祈りつつ、この稿を終わるものである。
執筆者の早田皓は、長島愛生園医官で、光田健輔のもとで当時、「救らい」活動をしていた。この小笠原との論争の後で、「大東亜共栄圏」の救癩活動の一環として、内地の軽症患者を海を越えて外地に派遣しようと提案した人物でもあった。彼は、日本が侵略した東南アジア地域の癩患者を20万人と推定した上で、療養所を20カ所設置し、それに日本と朝鮮の軽症患者3000人に「個人主義を排撃した精神的な猛訓練」を施し、「全国12カ所に世界に比類なき病者の楽園を築き上げた日の本の癩者達は、御恵を遠く救はれざる民草に及ぼすべき大使命を負はされて居る。救癩挺身隊の出現之こそ日の本の癩者に生まれた幸を獲得する日でなくてなんであろう」と言っている。(「誰が東亜の癩を戡定するか」愛生 1942年4月号)

 早田皓は、のちに、沖縄愛楽園の園長となり、その地で沖縄に於ける癩患者の強制収容、強制労働に奔走した人物でもあった。

付録:愛生園と愛楽園の入所者数と死亡者数の推移

国立療養所    1940  1941  1942  1943  1944  1945  1946
長島愛生園(入所)1533  1784  1883  2009  1851  1478  1299
     (死亡) 119   138   167   163   227   332   163
沖縄愛楽園(入所) 304   357   483   503   835   657   518
     (死亡) 17   19   12   18   58   58   252     

沖縄愛楽園の死亡率が1945年に激増しているが、これは空襲によるものである。米軍が癩療養所を誤爆したことは、戦争犯罪であったが、この空襲時には、患者は全員防空壕に避難していたために、直接に爆撃で死亡したものは少数である。しかし、防空壕を掘る作業は患者の強制労働であり、そのなかでの生活という劣悪な環境が死亡率を増加させた。(清水寛 第二次世界大戦の障害者(1)-太平洋戦争下の精神障害者・ハンセン病者の人権-)埼玉大学紀要教育学科、39巻1号 1990)
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大乗起信論を読む 1

2005-08-10 |  宗教 Religion
なぜ大乗起信論を読み直すか

「大乗起信論」は、本覚思想の成立に多大の影響を与えた書物である。近年、本覚思想は仏教にあらず、という学説が袴谷氏によって提出された。これは、「如来蔵思想」を非仏教的と見る松本氏の説と共に、今日、起信論を読むものが真正面から問題とすべき事柄である。

しかしながらその反面に於いて、「衆生心」そのものに世間的なるもの出世間的なるものも、一切が内蔵されるという「起信論」の根本思想は大乗仏教の真に普遍的なものとしたこと、これによって外来の宗教であった仏教が、内発的なものに転換したという事実も見落とすべきでない。

なによりも現世逃避ないし現世離脱ではなく、否定を肯定へと転換する大乗仏教の精神が、起信論の本覚思想を生み出したのである。本覚思想とは何かを、天台本覚論のごとき頽落態ではなく、本来の姿に於いて、明らかにするために、我々はもういちど「起信論」という原点に立ち返る必要がある。


同時に、「衆生が本来仏であるならば、無明は何を理由にあるのか、そもそも発心や修行は何の爲にあるのか」という、若き日の道元の問によって端的に示される大乗仏教の根本問題もそこに生じてくる。

私は、「本覚思想」の問題は、決して、「何が真正の仏教か」というに留まらぬ射程を持つと思う。たとえば、滝沢克己氏の「インマニュエル」の神人論というのは、私の見るところでは、キリスト教の文脈に於ける「本覚思想」である。それは、超越神論の根強い伝統のもとにあるキリスト教神学に対する根本的問を内包すると同時に、汎神論的な傾向をもつ日本の土着思想に対するラジカルな批判でもあった。

それゆえに、仏教とキリスト教という枠組みをはずして、本覚思想の問題を、宗教哲学の根本問題として論じる必然性があると考える。

以下では、漢訳(サンスクリット原典は知られていない)と、その英訳を手掛かりにしながら議論することとする。英訳としては、真諦のテキストによるものとしてYoshito S. Hakeda 氏のものを使用させて頂く。

また、鈴木大拙による英訳(実叉難陀のテキストに従う)は、一世紀前のものであるが、大拙自身の大乗仏教にたいする見方が反映され、また、彼の「大乗仏教概論」との関連も深いので、大拙自身の思想形成を辿るという意味で、適宜、引用することとする。その他の解説としては、

「大乗起信論講義」      衛藤即應著  名著出版
「大乗起信論読釈」      竹村牧男   山喜房
「如来蔵と大乗起信論」    平川彰編   春秋社
「縁起と空ー如来蔵思想批判」 松本史朗   大蔵出版
「本覚思想批判」       袴谷憲昭   大蔵出版

を参照する。


大乗起信論 伝馬鳴著 真諦訳

THE AWAKENING OF FAITH IN MAHAYANA attributed to Asvaghosha
(translated by Yoshito S. Hakeda)

序分 帰敬偈(三宝への帰依・論述の動機を詩偈に託す)

帰命尽十方 最勝業偏知 色無礙自在 救世大悲者、
及彼身体相 法性真如海 無量功徳蔵、如実修行等。
為欲令衆生 除疑捨邪執、起大乗正信、仏種不断故。

Invocation

I take refuge in the Buddha, the greatly Compassionate One, the Savior of the world, omnipotent, omnipresent, omniscient, of most excellent deeds in all the ten directions;
And in the Dharma, the manifestation of his Essence, the Reality, the sea of Suchness, the boundless storehouse of excellencies;
And in the Sangha, whose members truly devote themselves to the practice,
May all sentient beings be made to discard their doubts, to cast aside their evil attachments, and to give rise to the correct faith in the Mahayana, that the lineage of the Buddhas may not be broken off.



正宗分 (本論の主題と目次)

論曰、有法能起摩訶衍信根、是故応説。説有五分。云何為五。一者因縁分、二者立義分、三者解釈分、四者修行信心分、五者勧修利益分。

The Contents of the Discourse

There is a teaching (dharma) which can awaken in us the root of faith in the Mahayana, and it should therefore be explained. The explanation is divided into five parts. They are (1) the Reasons for Writing; (2) the Outline; (3) the Interpretation; (4) on Faith and Practice; (5) the Encouragement of Practice and the Benefits Thereof.

第一段 因縁分(本論執筆の理由:八箇条・問答)

初説因縁分。問曰、有何因縁而造此論。答曰、是因縁有八種。云何為八。一者因縁総相、所謂為令衆生離一切苦、得究竟楽、非求世間名利恭敬故。二者為欲解釈如来根本之義、令諸衆生正解不謬故。三者為令善根成熟衆生於摩訶衍法、堪任不退信故。四者為令善根微少衆生修習信心故。五者為示方便消悪業障、善護其心、遠離癡慢、出邪網故。六者為示修習止観、対治凡夫二乗心過故。七者為示専念方便、生於仏前必定不退信心故。八者為示利益勧修行故。有如是等因縁、所以造論。問曰、修多羅中具有此法、何須重説。答曰、修多羅中錐有此法、以衆生根行不等、受解縁別。所謂、如来在世衆生利根、能説之人色心業勝、円音一演異類等解、則不須論、若如来滅後、或有衆生能以自力広聞而取解者、或有衆生亦以自力少聞而多解者、或有衆生無自心力、因於広論而得解者、自有衆生復以広論文多為煩、心楽総持少文而摂多義能取解者、如是、此論為欲総摂如来広大深法無辺義。故応説此論。

The Reasons for Writing

Someone may ask the reasons why I was led to write this treatise. I reply: there are eight reasons.
The first and the main reason is to cause men to free themselves from all sufferings and to gain the final bliss; it is not that I desire worldly fame, material profit, or respect and honor.
The second reason is that I wish to interpret the fundamental meaning of the teachings of the Tathagata so that men may understand them correctly and not be mistaken about them.
The third reason is to enable those whose capacity for goodness has attained maturity to keep firm hold upon an unretrogressive faith in the teachings of Mahayana.
The fourth reason is to encourage those whose capacity for goodness is still slight to cultivate the faithful mind.
The fifth reason is to show them expedient means (upaya) by which they may wipe away the hindrance of evil karma, guard their minds well, free themselves from stupidity and arrogance, and escape from the net of heresy.
The sixth reason is to reveal to them the practice of two methods of meditation, cessation of illusions and clear observation (samatha and vipasyana), so that ordinary men and the followers of Hinayana may cure their minds of error.
The seventh reason is to explain to them the expedient means of single-minded meditation (smriti) so that they may be born in the presence of the Buddha and keep their minds fixed in an unretrogressive faith.
The eighth reason is to point out to them the advantages of studying this treatise and to encourage them to make an effort to attain enlightenment. These are the reasons for which I write this treatise.
Question: What need is there to repeat the explanation of the teaching when it is presented in detail in the sutras?
Answer: Though this teaching is presented in the sutras, the capacity and the deeds of men today are no longer the same, nor are the conditions of their acceptance and comprehension. That is to say, in the days when the Tathagata was in the world, people were of high aptitude and the Preacher preached with his perfect voice, different types of people all equally understood; hence, there was no need for this kind of discourse. But after the passing away of the Tathagata, there were some who were able by their own power to listen extensively to others and to reach understanding; there were some who by their own power could listen to very little and yet understand much; there were some who, without any mental power of their own, depended upon the extensive discourses of others to obtain understanding; and naturally there were some who looked upon the wordiness of extensive discourses as troublesome, and who sought after what was comprehensive, terse, and yet contained much meaning, and then were able to understand it. Thus, this discourse is designed to embrace, in a general way, the limitless meaning of the vast and profound teaching of the Tathagata. This discourse, therefore, should be presented.

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大乗起信論を読む 2

2005-08-09 |  宗教 Religion
第二段. 立義分 (本論の主題:仏教の普遍性=大乗の意義と根據)

已説因縁分、次説立義分。摩詞衍者、総説、有二種。云何為二。一者法、二者義。所言法者謂衆生心。是心則摂一切世間法出世間法、依於此心、顕示摩詞衍義。何以故。是心真如相即示摩詞衍体故、是心生滅因縁相能示摩詞衍自体相用故。所言義者則有三種。云何為三。一者体大、謂一切法真如、平等不増減故。二者相大、謂如来蔵、具足無量性功徳故。三者用大、能生一切世間出世間善因果故。一切諸仏本所乗故、一切菩薩皆乗此法到如来地故。

Outline

The reasons for writing have been explained. Next the outline will be given. Generally speaking, Mahayana is to be expounded from two points of view. One is the principle and the other is the significance.
The principle is "the Mind of the sentient being". This Mind includes in itself all states of being of the phenomenal world and the transcendental world. On the basis of this Mind, the meanings of Mahayana may be unfolded. Why? Because the absolute aspect of this Mind represents the essence (svabhava) of Mahayana; and the phenomenal aspect of this Mind indicates the essence, attributes (lakshana), and influences (kriya) of Mahayana itself.
Of the significance of the adjective maha (great) in the compound, Mahayana, there are three aspects: (1) the "greatness" of the essence, for all phenomena (dharma) are identical with Suchness and are neither increasing nor decreasing; (2) the "greatness" of the attributes, for the Tathagata-garbha is endowed with numberless excellent qualities; (3) the "greatness" of the influences, for the influences of Suchness give rise to the good causes and effects in this and in the other world alike.
The significance of the term yana (vehicle) in the compound, Mahayana: The term yana is introduced because all Enlightened Ones (Buddhas) have ridden on this vehicle, and all Enlightened Ones-to-be (Bodhisattvas), being led by this principle, will reach the stage of Tathagata.

第三段. 解釈分 (主題の解説)

已説立義分、次説解釈分。解釈分有三種。云何為三。一者顕示正義、二者対治邪執、三者分別発趣道相。

Interpretation

The part on outline has been given; next the part on interpretation of the principle of Mahayana will be given. It consists of three chapters: (1) Revelation of the True Meaning; (2) Correction of Evil Attachments; (3) Analysis of the Types of Aspiration for Enlightenment.

第一章 顕示正義 (正しい意義を明らかにする:仏教の普遍性=大乗は人々の心に基づく)

Revelation of True Meaning

1. 一心二門 

顕示正義者依一心法有二種門。云何為二。一者心真如門、二者心生滅門。是二種門皆各総摂一切法。此義云何。以是二門不相離故。

One Mind and Its Two Aspects 

The revelation of the true meaning of the principle of Mahayana can be achieved by unfolding the doctrine that the principle of One Mind has two aspects. One is the aspect of Mind in terms of the Absolute (tathata; Suchness), and the other is the aspect of Mind in terms of phenomena (samsara; birth and death). Each of these two aspects embraces all states of existence. Why? Because these two aspects are mutually inclusive.
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大乗起信論を読む 3

2005-08-08 |  宗教 Religion
心真如門
 
心真如者即是一法界、大総相法門体。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別、若離心念則無一切境界之相。是故一切法、従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相、畢寛平等、無有変異、不可破壊、唯是一心、故名真如。以一切言説仮名無実、但随妄念、不可得故、言真如者亦無有相、謂言説之極、因言遺言。此真如体無有可遣、以一切法悉皆真故、亦無可立、以一切法皆同如故。当知、一切法不可説、不可念故、名為真如。

問曰、若如是義者、諸衆生等云何随順、而能得人。

答曰、若知一切法難説、無有能説可説、雛念、亦無能念可念、是名随順、若離於念、名為得人。復次、真如者、依言説分別、有二種義。云何為二。一者如実空、以能究竟顕実故。二者如実不空、以有自体具足無漏性功徳故。

The Mind in Terms of the Absolute 

The Mind in terms of the Absolute is the one World of Reality (dharmadhatu) and the essence of all phases of existence in their totality.
That which is called "the essential nature of the Mind" is unborn and is imperishable. It is only through illusions that all things come to be differentiated. If one is freed from illusions, then to him there will be no appearances (lakshana) of objects regarded as absolutely independent existences; therefore all things from the beginning transcend all forms of verbalization, description, and conceptualization and are, in the final analysis, undifferentiated, free from alteration, and indestructible. They are only of the One Mind; hence the name Suchness. All explanations by words are provisional and without validity, for they are merely used in accordance with illusions and are incapable of denoting Suchness.
The term Suchness likewise has no attributes which can be verbally specified. The term Suchness is, so to speak, the limit of verbalization wherein a word is used to put an end to words. But the essence of Suchness itself cannot be put an end to, for all things in their Absolute aspect are real; nor is there anything which needs to be pointed out as real, for all things are equally in the state of Suchness. It should be understood that all things are incapable of being verbally explained or thought of; hence the name Suchness.

Question: If such is the meaning of the principle of Mahayana, how is it possible for men to conform themselves to and enter into it?

Answer: If they understand that, concerning all things, though they are spoken of, there is neither that which speaks, nor that which can be spoken of, and though they are thought of, there is neither that which thinks, nor that which can be thought of, then they are said to have conformed to it. And when they are freed from their thoughts, they are said to have entered into it.
Next, Suchness has two aspects if predicated in words. One is that it is truly empty (sunya), for this aspect can, in the final sense, reveal what is real. The other is that it is truly nonempty (a-sunya), for its essence itself is endowed with undefiled and excellent qualities.

1. 空真如 
 
所言空者、従本已来、一切染法不相応故、謂離一切法差別之相、以無虚妄、心念故。
当知、真如自性非有相、非無相、非非有相、非非無相、非有無倶相、非一相、非異相、非非一相、非非異相、非一異倶相、乃至、総説、依一切衆生以有妄心、念念分別、皆不相応故、説為空。若離妄心、実無可空故。

Truly Empty

Suchness is empty because from the beginning it has never been related to any defiled states of existence, it is free from all marks of individual distinction of things, and it has nothing to do with thoughts conceived by a deluded mind.
It should be understood that the essential nature of Suchness is neither with marks nor without marks; neither not with marks nor not without marks; nor is it both with and without marks simultaneously; it is neither with a single mark nor with different marks; neither not with a single mark nor not with different marks; nor is it both with a single and with different marks simultaneously.
In short, since all unenlightened men discriminate with their deluded minds from moment to moment, they are alienated from Suchness; hence, the definition "empty"; but once they are free from their deluded minds, they will find that there is nothing to be negated.

2. 不空真如 

所言不空者、已顕法体空無妄故、即是真心。常恒不変浄法満足故名不空、亦無有相可取、以離念境界唯証相応故。

Truly Nonempty

Since it has been made clear that the essence of all things is empty, i.e., devoid of illusions, the true Mind is eternal, permanent, immutable, pure, and self-sufficient; therefore, it is called "nonempty". And also there is no trace of particular marks to be noted in it, as it is the sphere that transcends thoughts and is in harmony with enlightenment alone.
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