歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

顔の現象学-レヴィナスの他者論に寄せて

2009-07-02 |  宗教 Religion

「顔」を形而上学のテーマとしたのはレヴィナスである。彼の云う顔とは、第一義的には「他者の顔」である。それは自己の表象の世界にあって、自己に内在する物の中に解消されぬ他者の世界の侵入を示すものである。

しかし、顔が「他者の」表象であると言うだけであるならば、同じ論理によって、すべての表象は「他物」の表象である、と云うことも出来よう。表象とは、つねに表象ならざるもの「の」表象である。その物自体は、表象の中に解消されはしない、卓越した意味での存在であり、我々の主観の中に客体化された表象は、つねにそのもの「の」表象である。いいかえるならば、「他物」も「他者」と同じく、自己の表象の世界の中にはつくされぬものを開示しているのである。

それでは、何故に、「他者の顔」が「他物」に優る特権を有するのであるか。

その理由は、「他者の顔」が「自己の顔」を知ること、即ち自己の覺知にとって必要不可欠な存在であるからではないか。

その顔が、自己に向かって「汝殺すなかれ」と語る。その語りは、聲をもってかたるのではなく、死者の聲のごとく、聲なき聲の如く、沈黙を以てアウシュヴィッツ以後の生を生きるレヴィナスに語りかけているかのようだ。

「他者の顔」は存在の領域から倫理の領域へ、単なる事実の「存在とは別の仕方」において、自己の支配権の属さぬ他者の、自己の世界の只中における顕現を示す。そして、そのような他者に攪乱されることによって、そのような他者を鏡として、自己は自己自身の存在の覚醒へと促される。その覚醒は閉ざされた存在の世界の中で、結局の所は他者を自己実現の媒介として位置づけようとする自己の存在を揺り動かす。通常の自己意識を越えて、意識よりもさらに深いレベルでの自覺がそこで生起する。

私はレヴィナスの他者論を上のような意味での攪乱として、意識を越える自己意識として、捉える。それは「存在とは別の仕方で」生起する自覚であるから、それを「無の自覺」と言おう。存在でもなく意識でもない自覺は、無の自覺という以外に如何なる適切なる言い方があるだろうか。しかし、そこでいう「無」とは何を意味するか。

「無」の第一義の意味は「無の場所」であるが、場所は世界とは異なる。世界は常に現実の世界であり、現実的なものは有限であり、個に対して相対的である。絶対的世界などというものはない。世界は歴史的である、すなわち、その都度、作られたものから作るものへと生成の過程のうちにあり、完結することなく未来に向けて開かれている点に有限なる世界の本質的特徴がある。

私は、西田幾多郎に倣い、一切の生成消滅する世界がそこに於いてある場所を、「絶対無の場所」と呼ぶ。絶対無の場所においては世界も個もともに徹底して相対化されている。かかる無の場所の自覺においては、「本来の自己」とは、「絶対他者」である。レビナスの言う他者の超越とは、実は自己自身の超越であり、他者の顔を知ることは、同時に自己の顔を知ることでもある。すなわち、自己と他者という両極的なるものの矛盾的自己同一とは、他ならぬ絶対無の場においてこそ成立する根源的な事実なのである。

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