創造的無と宇宙の歴史性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論
田中 裕
はじめに
「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく過客(旅人)であるという認識に達したように見える。天と地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年(時間)もまた旅人に他ならない。西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々が以下に考察するのは、我々のすまう世界が根源的に歴史的過程(以下「歴程」と呼ぶ)に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないという事実の有つ意味である。
1 現代宇宙論の展開
相対性理論と量子力学を基礎とするコスモロジーは現代科学の最先端の一つである。そこでは、我々の宇宙が約140億年前のビッグバンに始まる歴史をもつという証拠(宇宙の背景輻射の存在)の発見とともに、宇宙の起源と終末に関する問題が、神話や単なる形而上学の問題としてではなく、科学の問題としても議論される段階に到達したように見える。
曾ては、創世紀の七日間の天地創造の物語を熱心に論じたのは中世のキリスト教の神学者達であったが、今日では、創造後の『最初の3分間』を現実の歴史として語ったのは、素粒子の統一理論でノーベル賞を受賞した物理学者のスチーブン・ワインバーグである。さらには、単にビッグバン以降の宇宙の歴史を物語るだけにとどまらず、宇宙の始まりという特異点を解消するという問題もまた物理学の最前線では課題の一つとなった。「無からの創造」(creatio ex nihilo)はキリスト教神学の知解を越える教義であったが、まさしくこのような教説が、ビッグバンの特異点を解消する理論の一つの理論的な可能性として、物理学者によって議論されるようになった。
ビッグバン理論によれば、宇宙の歴史の始源においては極大の宇宙は極微の宇宙でもある。それゆえに、宇宙の起源を正しく認識するためには、マクロ宇宙を記述する一般相対性理論とミクロ宇宙を記述する量子力学とを統一する理論が必要となる。重力、電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用の4種類の異なる自然力を統一する究極の物理理論が検証される領域は、人間が地上で実験可能なエネルギーのレベルを遥かに越えており、初期宇宙のような極限的な状況こそ統一理論の試金石になるのである。このように、量子論と一般相対性理論という20世紀の物理学の歴史を根底から変えた二大理論を更に高いレベルで統一するという理論物理学の課題が、『宇宙がどこから来てどこへ行くのか』という歴史の黎明期から人類が問い続けてきた形而上学的問題の探求と結び付いたものが現代宇宙論なのである。
ビッグバン以後の膨張する宇宙とは、境界をもたぬ有限の大きさの宇宙が膨張して行くことを意味している。人間の感覚を遥かに越える宇宙も単なる大きさだけでは人間を凌駕するものではなく、我々は物理的宇宙のスケールよりも寧ろその宇宙の全体を捕らえ得た人間の精神の宏大さのほうに驚嘆すべきかもしれない。それと同時に、宇宙の全体を捕らえる人間自身は、当然のことながら、時間的にも空間的にもその宇宙の内部にいる訳であるから、そのような『宇宙内存在』としての人間が、宇宙の全体を捕らえ得ることが如何にして可能となるかが問題とされねばならない。人知の限界を探求する形而上学の可能性の問題として、カントの『純粋理性批判』の課題が装いをあらたにして蘇ったというべきであろう。
カントの批判哲学が形而上学の批判を通じて深く自然神学の問題にかかわっていたように、我々を含む宇宙の全体を学問的に問題とする現代宇宙論も、こうして間接的に自然神学上の問題にコミットせざるをえないのである。 更に、この大宇宙が創造されて間もないころは量子力学が適用されるような極微のスケールをもっていたということ、すなわち初期宇宙における極大と極小の一致ということもまた、現代宇宙論の含意する事柄の一つである。我国の代表的な宇宙論学者として知られる佐藤文隆氏と佐藤勝彦氏が共同で書かれた啓蒙的な論文に『宇宙が1センチだったころ』という表題をもつものがあるが、その意味は、一つ一つが約1000億個の星を含む星雲を何兆個も含む100億光年にもわたる宏大な拡がりと膨大な量の物質を含む現在の我々の宇宙が、創造後10-36秒の時点においては半径1cm以内の微小領域におさまっていたということである。佐藤文隆氏によれば、我々の宇宙の歴史のこの時期までは、物理学者が実証性をもって溯れるということである。そして、それ以前の極微の宇宙の状態がいかなるものであったかについては、現在実験によって確認できる領域を越える高エネルギーの物理学を必要とするために、物理学者のあいだで意見が一致している訳ではなく、さまざまな仮説が提案されている状況であるという。無限の拡がりをもつように見える現在の宇宙が高々1cmの大きさしかもたなかった時期があったなどということですら門外漢には驚嘆すべき主張であるが、現在の宇宙論学者の理論的関心は、さらにその先まで行っているということであろう。専門の物理学者が宇宙の始まりについて積極的に発言すること自体が、一昔前までは考えられないことであったことを想起すれば、量子宇宙論に対する物理学者の間での最近の関心の高まりは、現代科学が、ある決定的な段階にさしかかっていることを象徴しているのかもしれない。
ビッグバンの特異性を解消して、物理学の内部で『宇宙の創造』という出来事そのものを記述しようとする試みの二つの代表的な例として、ロシア生まれの米国の物理学者アレクサンダー・ビレンキンと英国の物理学者スチーブン・ホーキングの理論があるが、彼らの述べていることは、理論の数学的な構造の類似性とは対照的に、日常言語に翻訳され解釈された地平においては正反対の主張のように見える。その理由は、『無』や『創造』にかんする日常的な概念も、また伝統的な哲学的概念もともに、現代宇宙論の遭遇した状況を表現するには不十分であるということに求められるのではないだろうか。
『無からの創造』は曾てはキリスト教神学のドグマであり、『無からは何も生じない』という古代ギリシャの原子論以来の自然哲学の根本原理に反するものと考えられて来たが、ビレンキンの理論は、量子力学と相対性理論に両方に立脚する物理学においては、『無からの創造』は自然な形で表現されるということを述べている。彼の理論は、『真空のエネルギーの揺らぎ』によって極微の時間幅において物質の創造が行われるという理論-相対論的な場の量子論では実証済みの考え-を宇宙全体に適用することを提案したエドワード・トライオンの着想(1973)をさらに展開したものである。この理論では、宇宙の全物質のもつエネルギーは重力場の負のエネルギーと相殺してゼロとなり、物質的な宇宙の総体は、言わば『真空』の表現とみなされる。ビレンキンが1982年に米国の専門学術誌のフィジックス・レターズに発表した『宇宙の無からの創造』という論文では、宇宙が不安定な『無』の揺らぎから生まれる数学的機構を提示して、誕生したばかりの宇宙の大きさを具体的に計算している。それによれば、『無から誕生した』瞬間における宇宙の大きさは10-26cmのオーダーであり、この種子のごとき宇宙が、極めて短期間に指数関数的に拡大する『インフレーション期』を経た後に、標準的なビッグバン理論に従って膨張したものが我々の宇宙である。ここで、ビレンキンが無という言葉で何を言おうとしているのかを理解するのは容易ではない。米国の物理学者ハインツ・パージェルは、この宇宙創造以前の『無』について次のように解説している。
宇宙の創造『以前』の無とは、我々が想像し得るもっとも完全な空虚であるーそこには空間も時間も物質もない。それは、場所も持続も永遠もなき世界である.しかし、この思考不可能な空虚が、存在の充実へと自らを変容させることー これが物理法則の必然的な帰結なのである。これらの法則は、その空虚のどこに書き込まれていたのであろうか。あたかも空虚ですら法則に、すなわち時間と空間以前に存在する論理に従うかのようである。
ビレンキンと同じように、『虚時間』という量子論の数学的技法を使って原始宇宙がトンネル効果によって真空中に出現する確率を計算したホーキングは、ビレンキンが『無』とよんだものを寧ろ『有』と呼び換えて、量子宇宙の波動関数によって記述される初めも終わりもない実在を表現している。ここでは、ホーキングは一昔前の物理学者ならば、単なる計算上のトリックに過ぎぬものとして『実在性』を否認したかもしれないような『全宇宙の波動関数』や『虚時間』のような数学的概念が、あたかも我々人間が巨視的尺度で経験する時間的な生成変化の世界よりも根源的な実在に対応しているかのように語っている。彼の考える量子宇宙モデルは、空間的に境界がないばかりか『虚時間』において『始めも終わりももたぬ』自己完結的な世界である。ニュートンの『プリンキピア』後300年にあたる1986年に出版された記念論文集『重力の300年』のなかで、ホーキングは自分自身の量子宇宙論の立場をビレンキンのそれと対比させて次のように要約している。
宇宙は極小の半径をもって『無から創造された』ということもできよう(ビレンキン、1982)。しかしながら、『創造』という語の使用は、宇宙がある瞬間以前には存在せず、その瞬間ののちに存在したかのような時間概念を含意するように思われる。しかるに、アウグスチヌスが指摘したように、時間はただ宇宙の内部でのみ定義され、その外部では存在しないものである。彼はこう言っている:『天地を創造する以前には神は何をしていたか。私は、かってある人が冗談で述べたように、神はそのような質問をするもののために地獄を用意していたなどとは答えまい。時間そのものも神によって作られたがゆえに、いかなる時刻においても、神は何も作られはしなかったのである。』 現代の見方もこれと非常に良く類似している。一般相対性理論では、時間は宇宙の中の出来事にラベルを貼る座標にすぎない。時間は、時空の多様体の外部ではいかなる意味ももたない。宇宙が始まる前に何が起きたかを問うことは、地球上で北緯91度の点はどこかと問うようなものである。そのような点は単に定義されていないのである。創造され、おそらくは終末に達する宇宙について語る代わりに、人は単に次のように言うべきだろう:宇宙はあると(The universe is)。
これとほぼ同じ思想は、ホーキングの書いた啓蒙書である『時間の短い歴史』のなかでも繰り返されているが、それによると彼はこのアイデアを1981年にバチカンでイエズス会が催した宇宙論会議の席で最初に発表したという。カトリック教会は、宇宙の永遠性を否定する神学的教義と一致することを理由に、ビッグバン理論にたいして初めから好意的であったことは良く知られている。しかしながら、会議の終わりに参加者に謁見したローマ教皇ののべた言葉、すなわち『ビッグバン以後の宇宙の進化を研究するのは大いに結構だが、ビッグバンそれ自身は探求してはならない、それは創造の瞬間であり、神の御業なのだから』という言葉にたいするホーキングのコメントはかなり辛辣である。
ここではホーキングは自分の提案した自己完結的な宇宙をあたかも創造神を必要としないかのように語っている。読者には、ガリレオ以来の科学とキリスト教神学との対立関係がここでも顔を覗かせているように見える。ローマ教皇とホーキングの思想の微妙な対立をどのように考えるべきであろうか。どちらかの見方が誤っているのであろうか。それともどちらとも、科学と神学のそれぞれの領分において正しいと考えるべきだろうか。『無からの創造』を説き、それの間接的な支持を現代物理学に求める考えのほうを撤回すべきなのか。それとも『創造』も『無』もありえず、端的に宇宙の『有』を説くことによって創造主を無用とする考え方のほうを改めるべきなのか。
『始めも終わりもない宇宙』といっても、それは巨視的なレベルでの宇宙が現在と同じ姿で永遠の昔から未来永劫に至るまであり続けるということではないから、曾ての唯物論者が想定したような意味で、宇宙は自己完結的なのではない。ホーキングの世界においても、巨視的世界における『実時間』においては、やはり宇宙の始まりは存在するのである。ホーキングと同じくビッグバンの特異性の解消を意図したビレンキンの論文の表題が『無からの創造』であったことを想起すれば、寧ろ我々は、ここでは、神と宇宙との関係について、このような意見の対立そのものを止揚する新しい観点をとることを要請されていると考えるべきであろう。
2. 現代宇宙論とキリスト教神学
現代宇宙論が人類にもたらす世界観の革命的な変化は、ヨーロッパ近代の黎明を告げた地動説のひきおこしたいわゆる『コペルニクス的転回』に匹敵するであろう。ガリレオの異端審問官の一人であった枢機卿ベラルミーノにとって、地動説は一定の目的にとって便利で有効な単なる『数学的仮説』にすぎず、厳密な意味での真理の名に値しないものであった。ガリレオは地動説を単なる数学的な仮説としてではなく真理として主張したために裁かれたというのがガリレオ裁判のポイントの一つであった。確かに、多くの科学史家が指摘しているように、ガリレオの時代の地動説はまだ洗練されたものではなく、現代科学の目から見れば、その細部においては多くの誤謬もあったことは事実である。しかし、この理論が近代の世界観の革命を引き起こし、科学の飛躍的進歩をもたらしたことを否定することはできないだろう。それと同様に、現代宇宙論も、その科学上の詳細においては将来修正される部分をもつことは当然予想されるが、それが人類にもたらす世界観上の革命的変化については、そのような修正可能な詳細とは独立に論じなければなるまい。
夥しい数の啓蒙書が書かれているにもかかわらず、現代宇宙論の提起する宗教的および神学的問題が何であるかについては、いまだ十分に論じられてはいない。主として欧米の科学者や神学者によって、『新しい物理学』が神学に対してもつ意味が論じられた例はたしかにあるし、ビッグバンの先駆的理論とも言うべきル・メートルの宇宙論をひいて『現代自然科学に照らした神の証明』を書いたローマ教皇ピオ12世のような例もある。また、最近では、宇宙の進化を目的論的に説明する『人間原理』を要請することによって、宇宙における人間の位置に中心的な役割を回復させると同時に、宇宙の進化の過程において新たに生じる情報と秩序の源泉として神の存在を間接的に論証する議論もある。
しかしながら、一般に科学者はこのような神学的な問題の考察には不慣れであって、それを科学上の具体的な問のレベルに還元して答えようとする傾向があることは否定出来ないし、彼らが『神』について語る場合でも、現代の神学的議論に関する無関心のゆえに、神と世界に関するまことに古色蒼然とした思想を前提にして議論をしてしまう傾向がある。これと同様に、神学者のほうもまた、現代科学の諸理論が、時空、物質、因果性にかんする科学者の常識をいかに変化させたかということに無知であるために、現代宇宙論の提起する諸問題を、彼らのやはり古色蒼然とした科学観の内部で処理しようとする傾向がある。そのために、両者の議論が常にかみ合っているとは言いがたいのである。カール・セーガンは、前述の『時間の短い歴史』に寄せた序文のなかでつぎのように述べている。
これはまた、神についての書物でもある-ひょっとすると、神の不在についての本かもしれないが。いたるところに神という言葉が現れる。宇宙を創造するとき、神にはどんな選択の幅が有ったのか、というアインシュタインの有名な問いに答えるべく、ホーキングは探求の旅に出た。少なくともこれまでのところ、この努力から導かれた結論は全く予想外のものだったー空間的に果てがなく、時間的に始まりも終わりもなく、創造主の出番のない宇宙。
ここでは、セーガンは、ビッグバン宇宙論の特異性(宇宙の始めと終末)を量子論と『虚時間』という円環的時間概念の導入によって解消することを意図したホーキングの量子宇宙論の基本的アイデアを、ホーキング以上にあからさまに、あたかもそれが無神論を支持するかのように、あるいはすくなくとも有神論を無用のものとするかのように語っている。
勿論、ここで、ホーキングやセーガンが『神』について語ったとしても、彼らが真の意味で宗教的な神について語っていると考える必要はかならずしもない。それよりは寧ろ、本来『神』抜きでも語り得るような物理学上の専門的な問題、例えば、一般理論の内部では決定出来ない任意性(初期条件や物理定数の値)をどこまでなしですませることができるかというような問題を通俗的に語るための一つの便法として、彼らは『神』を持ち出していると考える方が妥当であろう。しかし同時に、我々自身を含む世界の全体を主題とする宇宙論においては、通常の自然科学の内部では遭遇しない形而上学的な問いに直面させられることも事実であり、このような問いそのものが、自然科学そのものを通じて宗教の根本的な問題領域に我々を導くことも否定出来ないのである。
ホーキングの著書から直ちに無神論的な結論を出したセーガンの議論は、神学者によって反論されている。例えば、オランダの神学者ウィレム・ドリーは、ホーキングの宇宙論は世界を神の被造物とみる有神論的な見方と矛盾しないという趣旨の論文を書いている。確かに、セーガンの議論には幾つかの隠された前提、ないしは偏見とも言うべきものがあって、それらを共有しないものにとっては、どうして現代宇宙論が神の出番を必要としないのか理解に苦しむであろう。言い換えれば、新しい物理学から神の存在を追放するセーガンの無神論的な議論も、ル・メートルの宇宙論から有神論的な結論を出したピオ12世の議論と同様に、純粋な物理学の内部では用いられていないある種の独断的な狭い形而上学的命題を既に前提したうえで、物理学の解釈を行っているのである。
たとえば、宇宙に絶対的な意味での始まりがあるということが事実であるならば、それは有神論を支持するが、その逆に初めも終わりもない宇宙の永遠性が事実であるならば、それは無神論を支持するという類いの議論を取り上げてみよう。この種の議論は、宇宙の始まりを想定するル・メートルの宇宙論を支持したピオ12世の議論においても、また始めも終わりも無い円環的な『虚時間』の想定によってビッグバンの特異性を消去したホーキングの理論を根拠に造物主としての神を無用視したセーガンの議論においても、暗黙のうちに前提されていたようにみえる。たしかに、この種の前提ないし偏見には長い歴史があり、それこそ神と世界の関係を考える中世以来の基督教神学者の多くによって、またそれに敵対した唯物論者の多くによって共有されていたといってよい。しかしながら、筆者がここで主張したいのは、このような考え方は、過去の独断的な神学の名残であり、現在ではむしろ克服されるべき考え方だということである。
ガリレオ裁判以前の中世の基督教神学の世界では、宇宙の無限性を主張することはジョルダーノ・ブルーノの自然哲学がそうであったように異端審問の嫌疑をかけられるような事柄であった。それは、宇宙が時間的にも空間的にも有限であって、その存在が必然性をもたず、全くの無から創造されたということが正統派の見解であった基督教の神学的伝統に由来するのである。
宇宙の空間的無限性のみならず、その永遠性を説くこともまた中世の基督教神学の伝統の中では異端の嫌疑を招く教説であった。13世紀のドイツのスコラ哲学者にして基督教神秘主義者としても著名なマイスター・エックハルトは、時の教皇ヨハンネス22世によって異端者として断罪されたが、その告発理由のなかには、エックハルトが『世界の永遠性』と『魂の非被造性』を主張したことがあげられている。現存するエックハルトのラテン語著作の一つである『創世紀注解』を見ると、『何故神はもっと早く世界を創造しなかったのか』という問にたいして、エックハルトは『神が神であるまさにその時において、また神が万物の中にご自身に等しく永遠なる御子を誕生させたその同じ時に、神は世界を創造した』という見地から、神が時間の中で世界の創造のときを待っているかのような素朴な見解を退けて、ある意味では『世界が存在しない時には神も存在しない』という大胆な見解を述べている。
これは、神の根底(神性)と一つである我々の自身の根底(霊性)への突破と、霊における神の子の誕生を説くエックハルトの他の教説とともに、中世の基督教神学のドグマの限界を越えた大胆な思弁であったが、神と世界を区別したうえで、世界を神に一方的に従属させる西欧の神学的伝統の中ではあくまでも異端の教説とされたのである。
しかしながら、第二バチカン公会議以後の現在のカトリック教会における神学を、中世の独断的な神学と同一視するのは時代錯誤であろう。ガリレオを名誉回復すべきことがローマ教皇ヨハネパウロ二世によって正式に表明されたことはまだ記憶に新しいし、エックハルトもその全集の発行以来、その深い霊性が再認識されているといって良い。キリスト教以外の他の宗教的伝統のなかで啓示された真理にたいする敬意とともに、現代科学との対話を重んじることは、多元的な価値観の尊重において成り立つ近代化された社会におけるカトリック神学に不可欠の条件となっている。元来『カトリシズム』とは、普遍的な信仰の真理を意味する言葉であって、特殊な信仰者の共同体のなかでのみ通用するような疑似宗教的イデオロギー(idioV logoV=特殊言語)の否定において成り立つものである。キリスト教信仰は科学上の真理と矛盾するものではなく、それを完成させるべきものであることは、トマス・アキナス以来のカトリック神学の重要な課題の一つであった。それゆえに、もし我々が、過去の神学的ドグマにとらわれる事なく、神と世界の関係を問題として考察したとしても、それはこのような広い意味でのカトリシズムの精神には合致すると考えて良かろう。 神と世界の関係を、世界の側から、あくまでも世界に内在的な観点から考察する神学のことを、カトリシズムのキリスト教の伝統では『自然神学』と呼んでいる。それは、神の特殊な啓示から天下り的に議論を始める『啓示神学』と相補的な関係にあるキリスト教神学の伝統の一つである。
宇宙の存在に初めがあるとするならば、それは造物主の存在を証明することになるというような単純な議論の背後に隠されている宗教的前提を明らかにするためには、我々は、このカトリックの自然神学の伝統をもっと良く知る必要があろう。
現代フランスのカトリシズムの伝統に立つ神学者であるクロード・トレモンタンの『天体物理学と形而上学』という論文は、このカトリシズムの自然神学の伝統を踏まえたうえで、現代宇宙論の問題を論じている。彼はこの論文の中で、宇宙の存在そのものを問う形而上学の三つの類型を人類の思想史のなかからとりあげて、それらを対比している。
第一の類型は、物理的宇宙は見せかけのものに過ぎず、経験科学が研究の対象とするような『客観的現実』は、実際には単なる仮象であって、夢、幻のごとき、まったく実体のないものであると考える。古代インドの形而上学の伝統やプロチノスの新プラトン主義の形而上学などはこの類型に属するという。
第二の類型は、物理的宇宙が『存在そのもの』であり、存在するすべてのものの総体であって、他に存在するものは何もないと考える。ここでは宇宙こそが絶対的な存在であって、宇宙の存在は必然的である。そして、この宇宙における生成変化が認められる場合でも、宇宙の不可逆的進化の事実は否定され、常に永遠の循環が考えられる。その意味で、物理的宇宙には、始まりも終わりもなく、真の意味での生成も進化も歴史もない。パルメニデスやヘラクレイトスに代表される古代ギリシャの自然哲学や、機械論的な唯物論者の形而上学もまたこの類型に属するという。
第三の類型は、物理的宇宙は、客観的かつ現実的に、それを認識する人間の意識とは独立して存在する実在であるが、宇宙それ自身は決して自己充足的な完全な存在ではないと考える。ここでは、絶対者の存在と物理的な宇宙の存在とが厳密に区別される。経験に与えられた現実の全体、すなわち物理的宇宙とそのなかにあるすべてのものを非神格化したヘブライ人に由来する超越神論の形而上学の伝統がこの類型に属する。宇宙が神によって創造されたという思想は、このように、絶対存在でも神的存在でもない宇宙の存在をどう理解したら良いかという文脈で生まれたものであるという。 このトレモンタンの言う形而上学の三類型は、後で述べるようにそれだけで人類の形而上学的遺産のすべてを尽くしているとは言い難いが、聖書の伝統に基づくキリスト教の形而上学が、宇宙を非神格化することによって、それを科学的に探求する道を開いたという視点を提供している点で、歴史的には興味深いものである。
この宇宙が『無から創造された』というキリスト教の教義の核心は、この宇宙のどこを探しても、そこで我々の出会うのは、神ならぬ被造物のみであるということである。そしてこの世界を創造した全能の絶対者の似姿として作られた人間は、すくなくとも原理的には、一切の神的なものを剥奪されたこの宇宙の法則を完全に認識することができるであろう。我々は、呪術とは明確に区別される近代的な意味での自然科学を生み出したのが、宇宙に宗教的な意味を見いだす文化圏ではなく、宇宙から神的な意味を奪った基督教文化圏においてであったことの意味をもう一度よく考えてみる必要があるだろう。
トレモンタンは上に述べたような形而上学の三類型以外のものは、人類はいまだ見いだしていないと信じており、そういうものがあるならばぜひ教えてほしいと明言している。そして彼は、現代宇宙論はかれの言う第三番目の類型に属する形而上学の真理性を、経験的な論拠に基づいて証明していると確信しているようである。この点に関する限り、筆者は率直に言って彼に同意することはできない。筆者は形而上学には無限に多くのバリエーションの可能性があると同時に、神と世界の捕らえ方には、この三類型のどれにも帰着しない重要なものがあると考えるものである。さらに、キリスト教の教義に合致するかしないかは別としても、経験科学がアポステリオリな論拠に基づいて特定の形而上学のみを支持すると考えるのは、科学と形而上学との生産的な関係を損なう危険があるだろう。ある特定の形而上学的な先入観が、科学の発展を助長することは有り得ることであるが、それは同時にその後の科学の進歩を妨害するということも十分に起こり得るだろう。地動説を唱道したのが、カトリックの司祭であったコペルニクスであったとすれば、同様にガリレオを迫害したのも基督教の教会であった。スピノザの『永遠の観点に立つ』形而上学を愛好していたアインシュタインは、最初の宇宙論的考察において、いわゆる宇宙項を付加することによって宇宙の膨張という動的な事態を予見することができなかったことは有名な科学史上の事実である。トレモンタンが言う意味での『宇宙の存在そのものを問う』形而上学といえども、実際には、融通のきかぬ単なるイデオロギーの体系に転落する危険を秘めているであろう。真の意味での形而上学の任務の一つは、我々の思考を束縛するものから我々を解放する普遍性を獲得することである。そこで、筆者は次の章で、トレモンタンが考慮していない形而上学的立場の新しい可能性を提示することによって、自然神学と現代宇宙論の双方を射程に収め得るような、新しい視点と概念の枠組みを検討することにしたい。
3 「無」の哲学再考
前章で引用したトレモンタンの言う形而上学の三類型のいずれにも帰着しない、独自の類型として、西田幾多郎の絶対無の哲学を考察し、その立場から現代宇宙論と宗教との関係を以下で論じてみよう。この西田哲学の終着点ともいうべき宗教論の特徴は、特定の宗教的伝統や特殊な民族や人物にのみ下された神の啓示の内容に拘束されることなく、万人に対して平等に開かれた経験の直接性のみをより所にして神を論じている点にある。西田の晩年の宗教論を英訳したデビット・ディルワースは、西田を『我々の時代におけるおそらく最初の世界的神学者(the first world-theologian)』と呼んだが、それは西田の宗教論の出発点が、特殊な天啓を記したと称される聖典のみを原理とする啓示神学ではなくて、世界的な宗教の様々な伝統に通底するものを、万人が自分自身の経験の中で本来確認できる事柄として捕らえる最も普遍的な意味における自然神学であったことを意味している。
われわれがここで注目したいのは、科学と宗教との関係について、内在神論と超越神論、汎神論と創造神論というような神学上の二元的対立そのものを止揚する宗教的立場が何であるかについての徹底した考察を西田が展開していることである。それは、『善の研究』のなかでは、純粋経験の立場であり、『自覚における直観と反省』では、直観と論理的反省を統合する自覚の立場に移行し、『働くものから見るものへ』では場所の立場となり、そして最後には、平常底と逆対応によって特徴づけられる絶対矛盾自己同一の立場となるが、それらは、神、宇宙、人間の三つの存在領域をどのように相互連関において捕らえるかという形而上学の根本問題に関する思索を、主客未分以前の徹底して具体的かつ直接的な経験の現場において展開するものであった。それは、この宇宙を夢や幻のごとき実体の無いものとは考えない。われわれによって経験される世界は、そのあるがままの姿で実在性をもっており、その背後にさらに優れ意味での実在を隠しているという意味での形而上学ではない。また、この世界のみが唯一の絶対存在であるという独断からもこの哲学は自由である。なぜなら、世界を必然的な存在と同一視する考えは、不生不滅の実体の存在を前提するが、西田のいう意味での絶対無の場所の哲学は徹底した非実体論であって、宇宙にはそのような実体は存在せず、すべての有は相互関係の網目に解体されると同時に、『作られたものから作るものへ』という方向性をもった因果の文脈でとらえられる。またこの哲学は、宇宙の外部にそれよりも優れた意味での『有そのもの』を独断的に構想しない点において、単なる超越神論ではない。有の総体としての宇宙それ自身が無限に開かれた絶対無の場所においてあるという意味では、西田哲学は決して宇宙の存在をもって終結するわけではないが、有を存在せしめる原理そのものを、再び有という範疇で捕らえないからである。絶対無の場所において有を捕らえる西田哲学は、宇宙と神と人間を有としてあるいは実体として捕らえる神学的伝統に対する徹底した批判の所産なのである。
『善の研究』において西田は、『超越的神があって外から世界を支配する』というごとき神学的立場を『啻に我々の理性と衝突するばかりではなくて、かかる宗教は宗教の最深なるものとは言われない』という考えを表明している。 彼が基督教神学の伝統の中で評価したのは、スコートス・エリゥーゲナ、マイスター・エックハルト、ヤコブ・ベーメ、ニコラウス・クザーヌスなど、神秘主義の伝統に立つものであったが、その理由は、これらの神学者たちが、我々の直接経験の事実において、『翻された眼』をもって神を認め、『宇宙の外にたてる宇宙の創造者とか指導者』というごとき独断的に『仮定された神』をもって満足しなかったからである。これらの思想家は、確かに西欧のキリスト教神学の伝統においては少数派であり、ときに異端の嫌疑さえかけられた神学者ではあったが、我々がキリスト教の特殊な啓示の絶対主義に捕らわれずに、宗教的視野を拡大して、世界宗教のさまざまな伝統において与えられた多様な霊的経験に通底するものを考慮すれば、これらの思想家は狭い意味でのキリスト教神学を越える普遍性をもった場所において、神と宇宙と人間の問題を論じていたということはできないであろうか。
さて、西田哲学に導かれた我々の立場からすれば、一方において、自然科学の進歩によって基礎が揺らぐような自然神学は脆弱な基盤のうえにたつものといわなければならない。
しかし、他方において、自然神学は、自然科学が歴史的に進歩することによって更に深い内的統一を獲得できるような世界観的基盤を提供すべきものであって、自然科学の進歩から切り離された孤立した場所で営まれるべきではない。自然科学の『道』も、宗教の『道』もその根底においては一つの『道』であることを示すことこそ自然神学の課題である。それはまた、そのような自然神学は、いわゆる特殊啓示を一切含まずとも、究極においては啓示神学と矛盾することはないであろう。『恩寵は自然を破棄せずに完成させる』というのが伝統的なカトリックの神学的立場であるが、我々はこれと逆対応的な命題として『自然は恩寵を破棄せずに、却ってこれを完成する』ということもまた、同等の権利をもって主張できるであろう。
3.歴程宇宙の遠近法
一般相対性理論では、宇宙時間とよばれる特別な時間が定義され、とくにビッグバン宇宙論の標準モデルでは、この宇宙時間によって、宇宙全体の歴史が語られる。そして、その語り方は、例えば、百数十億年前に溯る宇宙の歴史の中での銀河や太陽系の形成の時期について語り、また将来、宇宙の膨張が続くか、それが収縮に転ずるかなどということが語られる。その語り方は、あたかもニュートンの絶対時間が復活したかのようであり、アインシュタインの相対性原理の理念、すなわち、この宇宙にあるどの基準系も原理的に対等であるという原理に反するように見える。空間的に世界の「絶対的な中心」というものが無いのと同じように、時間的にも、他の様々な瞬間とは違った「世界の始まり」というごとき特異点が存在することは、相対性の原理に反するように見えるからである。
アインシュタインが1905年に特殊相対性理論の基礎においた同時性の相対性という概念は、最初は、世界全体に広がった客観的時間経過という観念を物理学から追放したかに見えた。そのかわりに、それぞれの観測者は固有の時間系列をもつこととなったが、この複数の時間系列のどれ一つとして、客観的な時間経過を表示するという特権を主張出来なかったのである。
しかるに、それから4半世紀がたつと、相対性理論に関連する物理的なアイデアや数学的技法をつかった宇宙論学者が、アインシュタインが退けた概念そのものを再び導入するようになったのである。ここで言う宇宙時間の本性は如何なるものであるのか、とくに、それが相対性理論で否定されているニュートン的な絶対時間とどこが違うのか、このことについて明瞭な理解をもつことは、現代宇宙論の理解にとって必要であろう。
宇宙時間は、物質の重力効果を無視できる特殊相対性理論では登場しないが、一般相対性理論を宇宙の全体に適用する場合には、物質分布に適切な条件を施した場合に限り、登場することが知られている。 宇宙時間は、宇宙全体の出来事を直線的に秩序だてる普遍的な時間を表すという意味で、特別の役割をはたすものではあるが、それは、絶対時間の存在を否定する相対性理論の内部で定義されたものであって、ニュートン的な時間の絶対的な遠近法を与えるものではない。それゆえに、宇宙の開闢のときと今此処との間の時間的な隔たりを表す百数十億年という悠久の時の経過をあらわす数字は、宇宙が空間的に一様でかつ等方的に見えるような観測者の時間を基準にしているという点で、標準的な時間であると言えるが、ニュートン物理学においてそうであったように、あらゆる基準座標系に共通する絶対時間であることはできない。この宇宙時間において『同時的』な二つの出来事は、ニュートン的な意味で同時的であることはできず、互いに因果関係を全くもたないという意味で、基準系の取り方によっては遠い未来にも、遠い過去にも属するからである。 たとえば、 ビッグバン宇宙論からインフレーション宇宙論への展開のひとつの契機となった有名な『地平線』の問題は、相対性理論の枠組みの中でのみ意味をもつ事柄である。我々から見て、同時に見える二つの宇宙領域が、過去において因果的に関係をもつことが可能であるためには、その領域は空間的に限られた狭い領域(粒子的地平の内部)になければならない。例えば、宇宙黒体輻射のやってくる領域についていえば、電波望遠鏡で数度離れた二つの領域は、過去において因果関係をもち得なかった領域である。それゆえにその2領域が全く同じ輻射を与えるということが問題となった訳であるが、この問題自体が、相対性理論の時空概念を離れては意味を失うことに注意すべきであろう。
宇宙を時間的な層によって直線的に系列化する宇宙時間で同時的な二つの領域は、因果的には独立であるということが、ニュートン物理学の絶対時間と根本的に異なるのである。
我々は、次に、宇宙の歴史の長さを測る尺度について考察しよう。ビッグバン宇宙論で、宇宙の歴史が百数十億年であると言う意味は、物質の平均的な運動に従う基本観測者の位置する系(共動系)を基準にするということである。ニュートン物理学では、二つの出来事のあいだの時間的間隔は、基準座標系の選択に依存しない絶対的な値をとるが、一般相対性理論では、それらの二つの出来事を結ぶ世界線の選択によって、それらの世界線に沿って積分されたそれぞれの固有時間の総和は異なる値をとることはよく知られている(双子の逆説)。その理由は、宇宙の物質全体に対する関係が、二つの基準系の間で異なるからである。この双子の逆説を宇宙規模で考えるならば、宇宙開闢の時から現代に至るまでの時の経過を、原理上は、無限に短いものと見なすことのできる基準系があってもかまわぬということになろう。その意味で、この百数十億年という数字は、ニュートン物理学でもち得るような絶対的な時間の経過を表す量ではないのである。
しかしながら、ここで注意すべきことは、ビッグバン宇宙論の時間は、絶対時間ではないにしても、(もし宇宙に特異点や事象の地平がなければ)我々が地球上で使用している時間を宇宙の全体へ外挿し普遍化することを可能にするという意味で、普遍的時間の資格をそなえているということである。相対論的宇宙論では、宇宙が空間的に一様でありかつ等方的であること(宇宙原理)を仮定したうえで、至るところでこの空間的な超曲面と直交する普遍時間として宇宙時間を定義したのである。
さて、宇宙の物質とエネルギーの分布はどこから見ても同じであるという宇宙原理が正しいかどうかは、最終的には観察によって決定されるべきアポステリオリな問題である。従って、宇宙時間が存在するかどうかも、相対性理論の枠組みの中では決定されておらず、事実問題として決着をつけるべき問題である。相対性理論の要請をすべて満たしながらも宇宙時間の定義できない宇宙モデルを構成したゲーデルの言葉を借りるならば、物質の分布というような偶然的な事情に依拠するような時間は、絶対時間とは呼べないであろう。
この宇宙時間の存在がアポステリオリな理由によって正当化されるならば、宇宙時間がそこにおいて成り立つような基準系は、他の基準系とくらべて特権的な意味をもつことが可能なのである。 従って、『あらゆる基準系が対等である』ことを要求する相対性原理の述べている『対等』の意味は、『事実上の対等』ではなくて、あくまでも『権利上の(法則上の)対等』であると理解すべきであろう。それは、『物理学のもっとも普遍的な法則が、どのような基準系でも平等な形で成り立つこと』を原理的に要請するが、事実問題として、宇宙の特殊な歴史について語るというような具体的目的のためには、ある特権的な基準系が、他の基準系に優先するということを妨げないのである。
例えば、ビッグバン以後の歴史を語る場合には、宇宙背景輻射が完全に等方的であるような基準系が特別の意味をもち、われわれは、この基準系に対して、地球がどのような運動をしているかを計算することもできるのである。この事情は、天動説と地動説の対立というような問題の考察のレベルでも既に現れていた事柄である。太陽と惑星の相互作用を扱う天体物理学の問題を記述するというような具体的な問題では、我々は、太陽を静止していると見なす基準系(地動説)を選択し、地球を静止するとみなす基準系(天動説)を選びはしない。しかし、そのことをもって、地球基準系と太陽基準系の原理的な対等性を要求する相対性原理が成り立たないと主張することはできないであろう。宇宙背景輻射が等方的になるような基準系は、ビッグバン以後の宇宙の歴史をかたるという目的にとって、最適の基準系であるがゆえに、特権的な位置を占めているのである。
したがって宇宙時間においては、宇宙の歴史が100数十億年であると語ることには普遍的な意味があることが認められるが、それは決して「絶対的な」意味を持つものではない。それどころか、相対論的に思考するならば、ある特別の意味においては、宇宙の開闢という遙か昔の出来事は、「今此処」の出来事に近接しているということも可能なのである。 そのことを言うために、相対性理論において二つの出来事が時空的に遠くにあるとか近くにあるということが何を意味するかということを明らかにしておく必要があろう。
話を簡単にするために、我々は宇宙に於ける二つの出来事の間の四次元的な距離に関するアインシュタイン・ミンコフスキーの基本的な考え方から出発しよう。
相対性理論では光円錐というものが基本的な役割を演じることは周知の通りである。光円錐とは四次元距離がゼロであるような時空点の集合であり、宇宙に於ける光の軌跡を表現している。この四次元距離がゼロであるということの経験的な意味は何であろうか。
我々が夜空の星を見上げる場合のことを考えてみよう。我々が肉眼ないし望遠鏡で観測している天体は、我々にとってのその都度の現在の宇宙の姿なのではない。例えば、冥王星は5時間前の、ケンタウロス座のaは4年前の、アンドロメダ星雲は150万年前のというように、過去に向かう時間的な奥行きをもった対象の姿を、今此処で見ているのである。過去の光円錐とは時間の奥行を持った三次元の空間であるが、それは決して抽象的な数学的概念などではなく、現在的直接性という様式を以て知覚される我々の経験的事実と密接に結びついているのである。
四次元世界の出来事間の隔たりをdsであらわすならば、相対性理論では、それは時間的な隔たりdtと空間的な隔たりdlを統合したものであって、dtもdlも単独では絶対的な不変量ではなく、ただdsのみが不変であることに注意したい。
そして、四次元宇宙に於ける遠近法を語る場合、|ds|<e によって、出来事のe近傍について語ることができるであろう。そのときに、相対性理論では、古典物理学では生じない独特の事情を考慮しなければならない。
まず、近傍に、time-like な近傍と、space-like な近傍の二種類があるという事である。ここでtime-like な近傍とは、ある特別な基準系では、時間的な成分のみで表示される近傍のことで、spce-like な近傍とは、或る特別な「基準系では、空間的な成分のみで表示される近傍のことである。それらのふた通りの近傍を図示すれば下記のようになるであろう。
この図が意味するように、相対論には、時間的且つ空間的に閉じた領域ではなく、双曲的に開かれた近傍の概念があり、それは無限の過去と無限に未来にむかって開かれた領域になっているのである。そしてこの近傍の概念にしたがうならば、たとえば、100万年前に百万光年離れた星雲で起きた出来事の方が、昨日、私の部屋で起きた出来事よりもtime-likeな意味に於いて「近くに」あると言うことに客観的な意味を与えることが可能なのである。
曾て、禅学者の鈴木大拙は、キリスト教徒の集会で講演したときに、『天地の創造のときに、神が光りあれと言われたら、光があったというが、一体それをだれが見ていたのか』と尋ねたと言われている。これは、臨済禅の伝統を踏まえた大拙がキリスト教徒に提示した宗教的公案とも言うべきものであるが、その趣旨は、おそらく、旧約聖書の天地創造の物語が、個々のキリスト者の今此処における宗教的実存とどのようにかかわっているのかという事であったと思われる。
この公案を、キリスト教徒に対してではなく、相対性理論を基礎として宇宙の始まりについて論じている現代物理学に提示したら、どうであろうか。 現代の物理学者は、ビッグバン理論において、『宇宙の初めの最初の3分間』について、まるで直接に見てきたかのように語っているが、そのころの宇宙の光を一体だれが見ていたのか、と問うことは現代宇宙論の認識批判という見地から意味のあることであろう。
聖書やプラトンのティマイオスの記述が神話であるのと同じく、物理学者の天地創造の物語りも、真実らしい装いを施された現代の神話であるというような批判に対して、どう答えるべきであろうか。我々はこの物理学の『公案』に対して、次のように答えることができるだろう。
『我々は、宇宙の開闢の時の光を、今此処で見ており、そしていつでも何処でも見続けるであろう』と。
もちろん、『見る』といっても、それは宇宙背景輻射というマイクロ波の形においてであるから、文字どおり肉眼で見える訳ではなく、電波望遠鏡で遥か遠方の銀河の遠い過去の姿を見るというのと同じような類比的な意味においてであるが。
宇宙の開闢時の状況(正確に言えば、物質と光の相互作用の均衡が破れて光が自由に運動可能になったビッグバン以後数百万年後の頃の状況) を示す観測データは、今此処に与えられている。一九六〇年代にこの宇宙背景輻射が発見されたことが、相対論的宇宙論を実証的な科学として認知するきっかけとなったのは理由のあることなのである。キリスト者にとって聖書の記述が決して神話ではなく、彼らの宗教的実存に照らして実証可能な霊的真理であるのと同様に、相対論的宇宙論の基本思想を受容した物理学者にとって、宇宙開闢の物語は、決して検証不可能な神話なのではなくて、原理的には今ここで起きている出来事と直結し、いまここで成り立つ物理法則を使って実証可能な事柄である、ということができよう。
あとがき
2006年10月に、米国カリフォルニア州クレアモント大学院大学で、Cosmology and Process Philosophy という国際シンポジウムにパネリストとして参加しました。パネリストの一人である、アレクセイ・ヴィレンキン氏に触発されて書いたのが、この「無の場所の創造性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論」という論文です。
ヴィレンキン氏は、旧ソビエト連邦からの亡命物理学者で、当時タフツ大学の教授でしたが、Multiple Worlds in One という著書を出したばかりなので、クレアモントではホーキングと同じくらい有名でした。ヴィレンキン氏は、ビッグバーンの特異性を解消する論文を書いたことでも有名で、現代物理学者の中ではじめて「無からの宇宙創造」を、量子論的トンネル効果によって説明する論文を書きました。ホーキングと共著で「大宇宙と小宇宙」という本を出し、また最近では「人間原理」にかんする批判的考察で著名な南アフリカ共和国の物理学者エリス氏もパネリストの一人でした。 私は「無からの創造」というキリスト教的世界観の歴史性と,東洋的なコスモロジーの円環的空間性を統合する哲学を、科学哲学と宗教哲学のふたつの分野で構想していましたので、ヴィレンキン氏の理論に大いに触発されました。彼の「無からの宇宙創造論」は、私が以前書いた論文(『現代宇宙論と宗教』、岩波講座(宗教と科学)第4巻、岩波書店、1992)でも引用しましたが、その後の彼の理論の展開、とくにeternal inflation理論と、多重宇宙論の話を直接聞くことが出来き、いろいろな点で興味をそそられました。
はじめに
「ホワイトヘッドの平和論」を語る前に、私は、嘗てケンブリッジ大学でホワイトヘッドに数学を学び、特別研究員(Fellow)の資格を得た後で、ホワイトヘッドと共に数理哲学の記念碑的な大著「数学原理(Principia Mathematica)」を著したバートランド・ラッセルの平和論、とくに、その基本的な思想を表明した「ラッセル・アインシュタイン宣言」の中で、決議文の前に置かれた次の文の引用から議論を始めたい。[1]
我々の前には、幸福、知識、知恵の絶えざる進歩の道があって、我々の選択を待っている。我々が諍いを忘れられないからといって、その代わりに、死を選択すべきなのであろうか? 我々は、人間として人間に向かって訴える― 諸君の人間性を想起し、他のことを忘れよ。もしそれが可能ならば、新しき楽園(a new Paradise)への道が開かれる。もし不可能ならば、諸君のまえには全面的な死の危険(the risk of universal death)がある。
1955年7月9日に湯川秀樹博士をふくむ多数のノーベル賞受賞科学者とともに書かれたこの決議文は、戦後の東西冷戦の時代、アメリカとソ連の全面的核戦争が人類の絶滅を招きかねないという歴史上嘗て存在しなかった新たなる事態をふまえて書かれたものである。 この宣言を受けて1957 年、米ソをはじめ世界から科学者 22名がカナダの漁村パグウォッシュに集まり、核兵器の危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について真剣な討議を行おこなった。爾来、「対立を超えた対話と科学的根拠を政策決定者に提供する」という科学者の社会的責任に立脚した活動が継続され、最近では、2015年に、第61回目のパグウォッシュ会議が長崎で開催され、原子力発電所の存否と核兵器との関連を問わねばならぬ現代の歴史的状況を踏まえた上で「長崎宣言」が出されたことが記憶に新しい。
さて、ラッセル・アインシュタイン宣言のなかの、「人間として人間に向かって、諸君の人間性を想起せよ」と訴える、上記の宣言文を、65年後の現在において振り返ってみたときに、再考しなければならない問題が多々あると思う。
ひとつは、東西冷戦の終結が世界大戦と核戦争の危機の終焉を意味しなかったという歴史的現実である。現在では、超大国であるアメリカとロシアないし中国が核戦争をするという危険は以前よりも薄れたかも知れないが、それにかわって、北朝鮮やイスラム国のような全体主義的国家ないし疑似国家が核戦争ないし核によるテロ攻撃を始める危険性が現実味を帯びている。従って「長崎を最後の被爆地に」という長崎宣言の標語は決して色褪せてはいない。
さらに、プルトニウムの軍事利用のために作られた原子炉の商業的転用であったという歴史的経緯から見ても、原子力発電を「核の平和利用(atom for peace)」と位置づけることは大きな問題を孕む。子々孫々に至るまで、未来の世代に危険な放射性廃棄物の處理を押しつけるという問題が解決されない以上、核兵器のみならず原子炉を廃絶することこそ、反核運動の目的となるべきだという認識は、日本では福島の原子力災害以前では少数派であったが、そのような考え方もまた近年では真剣に取り上げられるようになった。
これらの問題群については、既に多くの論者が様々な議論を展開しているので、私は、ここではそのような議論に深入りするつもりはない。そのかわりに、そのような政治的ないし技術的な問題の背後にある「人間の問題」をあらためて取り上げたいのである。つまり、「諸君の人間性を想起せよ」と「人間として人間に向かって呼びかける」場合に、そこで前提されている、「人間」ないし「人間性」とは何を意味するかという問題である。その場合、「人間」を「人間を越えるもの(超越者)および人間以前のもの(自然)」との関わりから切り離して、「人間」にむかって、その「人間性」に訴えるのではなく、むしろ超越者(神あるいは仏)と自然とのダイナミックな聯関において、個々の人間が生きてきている具体的な歴史的生の文脈において捉えることが肝要であろう。
今日では穏健なイスラム諸国は、西ヨーロッパ主導の人権概念を基本的に受け入れるようになったとはいえ、イスラム教の原理主義者からすれば、神から独立に、理性の限界内で「人間が固有の権利を持つ」ことを人間が演繹することを決して受け容れないであろう。西洋の人権思想の歴史においても、たとえば、仏蘭西革命を経験したドイツ理想主義の哲学者フィヒテは、啓示宗教を理性の名において批判し、個人の基本的な人権を、超越者の権威に依存せずに、カント的な実践理性の内的な根本原理から演繹したが、そのように普遍的道徳を宗教の上に置く理性の立場は当時、無神論として告発されたという歴史的事実がある。つまり、外的な権威への服従を説く制度化された宗教と実践的理性のあいだには、避けがたい緊張関係があり、既成の宗教の批判を抜きにして、単に「人間性」に訴えるだけでは不十分だということである。「人間性」とは、歴史的な状況に根ざした個々の活きた人間存在のうちに実現されねばならず、「人類」という如き抽象的存在にとどまるかぎり、その議論は地に着いたものにはならないのである。
ホワイトヘッドの宗教論の現代的意義
数理哲学、科学哲学に関しては共同研究者であったラッセルとホワイトヘッドは、宗教については、一見すると正反対の立場であったように見える。ラッセルはキリスト教の批判者として著名であり、理性を越える如何なる外的権威も認めない「自由人の崇敬(Free Man’s Worship)」を説いた哲学者である。これに対して、ホワイトヘッドの米国に於ける継承者は基本的にリベラルなキリスト教の神学者達が多く、彼らはホワイトヘッドの後期形而上学に立脚した「プロセス神学」という米国独自の神学運動を起こしたことで知られている。
ホワイトヘッドは、みずからを二〇世紀に於けるプラトン主義の復興者であると位置づけており、「科学的唯物論」と機械論的な世界像の批判者でもあり、同時に、藝術と宗教と科学の調和をめざす新たなるコスモロジーの創設をめざしていた。年代的にはホワイトヘッドはラッセルよりも前の世代に属し、イギリスの講壇哲学がドイツ理想主義の形而上学的思弁の影響下にあった時代に属しており、彼自身、英国の精神文化を受け継ぎつつもそれを普遍化したニューマン枢機卿の影響を若い頃に受けていた。このように、後期のホワイトヘッド哲学を見る限り、ラッセルとはいかにも対照的であるが、ラッセルと同じくホワイトヘッドの哲学には、宗教のドグマと宗教的狂信の批判が含まれていることを指摘したい。
しかしながら、ホワイトヘッドにはラッセルにまだ残存している科学的理性への楽天的な信頼はない。それゆえに、ホワイトヘッドは、ラッセル流の「自由人の崇敬」の立場からの宗教批判を踏まえた上で、ラッセルがいまだに囚われていた科学的な合理性への信頼をも批判する立場を内包するが故に、むしろラッセルの後に読まれるべき哲学者なのである。
「人間にとって最も大切なものは宗教である」とは、カトリック教会の昔の「公教要理」の冒頭の言葉であった。ここで云う「宗教」を普通名詞であると解するならば、それは人間の究極的な関心の所在を表現している。この命題の後で、「真実の宗教はキリスト教である」とか「真実の宗教はイスラム教である」という主張が続くならば、それはそれぞれの宗教の神学上のドグマ(独断)となるであろう。しかし、歴史的に与えられた宗教が文明に与えた役割を反省する場合、独断的にみずからの属する宗教を「真実の宗教」と主張する前に、他宗教のみならず自宗教も含めて、「宗教」の哲学的批判が先行しなければなるまい。ホワイトヘッドは、とくに普遍的な倫理・道徳との関係を論じる次のような言葉から、彼の『宗教とその形成』における宗教批判を始めている。
宗教は決して必然的に善ではない、それは非常な悪であり得る。悪の事実は世界の仕組みとからみあうと、それは事物の本性の中になお堕落をうむ力が残っていることを示している。諸君が契約を結んだ神は、諸君の宗教的経験において、破壊の神であるかもしれない。すなわち、すなわち、通り過ぎた後に、より大きな実在の喪失を残す神であるかもしれない。宗教を考える場合、我々はそれが必然的に善であるという観念にとりつかれてはならない。これは危険な幻想である。注意すべき点は宗教の超越的重要性であり、この重要性の事実は歴史に訴えることによって十分に明らかである。[2]
90年前に書かれたこの文章に、ホワイトヘッド研究者は、存在するものの彼方にある「善のイデア」の立場から同時代の反道徳的な宗教を批判したプラトンの現代的反響を見いだすであろうが、「諸君が契約を結んだ神は、諸君の宗教的経験において、破壊の神であるかもしれない」という一節は、宗教的狂信とテロリズムとの結びつきを指摘したものとして、現代的なリアリティをも感じさせる。それは、ヨーロッパで教育を受けながら世俗化した近代世界に空虚さを覚えてイスラム原理主義に帰依し、テロリズムに走った若い世代のイスラム教徒や、オウム真理教に荷担した日本の若き科学者達の特殊な事例を我々に想起させるが、それだけでなく、いかなる宗教にも潜在的に内在する原理主義のもつ破壊性を自覚すべきことを指摘したものである。ただし、ここで注意すべきことは、このような宗教批判は、宗教の持つ「超越的重要性」を決して否定するものではないということである。宗教を無視するもの、単にそれを否定するものは、自らが、科学技術の成果の物神崇拝や、異民族排斥によって国家の結束を図るナショナリズムという疑似宗教に絡め取られる危険を免れないであろう。
それでは、破壊と戦争をもたらす宗教ではなく、創造と平和をもたらす宗教としてホワイトヘッドはどのようなものを考えていたのか。『宗教とその形成』ではそれを次のように語っている。
宗教とは、孤独性(solitariness)である。諸君が孤独でなければ、諸君は決して宗教的ではない。集団的熱狂、信仰復興運動、宗教団体、教会、儀式、聖書、行動の成典は宗教の外飾物であり、その移行的な形式である。それらのものは有益であるか、あるいは有害である。それらは権威を以て定められることもあろうし、あるいは単なる一時的な便法であるかもしれない。しかし宗教の目的はこれら一切を超えている。…
信仰と合理化が十分に確立されて後、初めて孤独性が宗教的重要性の中心を為すものとして認められるのである。文明化された人間の想像力に絶えず浮かんでくる偉大な宗教的諸概念は孤独性の情景である。岩に縛られたプロメテウス、砂漠で黙想するマホメット、仏陀の瞑想、十字架上の孤独の人がそれである。神によってさえ、見捨てられたと感じたことこそ宗教的精神の深さに属する。[3]
一読すると上記のような宗教観は、孤独性(単独者)を強調する点で、キルケゴールのような実存主義的なキリスト教を連想させるであろう。しかしながら、孤独性と人間の連帯性ないし社会性という相対立するものの間の動的な聯関を考える点で、ホワイトヘッドは単なる実存主義者ではない。人間の孤独性を深い意味での理性と結びつけ、最も個的なるものと最も普遍的なものとの逆対応的な動的統合を考えるところに彼の哲学の主題があるのである。ホワイトヘッドを実存主義の文脈で捉えた批評家のひとりにコリン・ウィルソンがいる。彼が1957年に出版した「宗教とアウトサイダー」の最終章でホワイトヘッドに言及し、次のように指摘しているのは、卓見であろう。
いくら英国人が形而上学に無関心であるとは言え、驚くべきことにホワイトヘッドが彼独自の実存主義を創造したと言う事実に気づいた人は一人も居ない。しかも彼の実存主義は、ヨーロッパ大陸の如何なる思想家のそれよりも充実したものなのである。『科学と近代世界』は二〇世紀の『非学問的後書き』にほかならず、おまけにそれは読むに値するという利点を有している。[4]
『科学と近代世界』は『宗教とその形成』とほぼ同時期に執筆された姉妹編とも云うべき著作であり、前者が科学批判を後者が宗教批判を扱っている。コリン・ウィルソンは前者をキルケゴールの「非学問的後書き(unscientific postscript)」にそれをなぞらえているが、ホワイトヘッドの場合、それはあくまでも否定ではなく批判であって、我々が「科学」や「宗教」として考えているところのものを、具体的な生活世界の現場に立ち戻ることによって、そこから批判的に考察し、科学を科学のドグマから、宗教を宗教のドグマから解き放つことを目的として書かれた二つの書物なのである。
我々は、科学の発達が人類の幸福を保証するという楽天的な進歩史観のリアリティが失われた時代を生きている。知識と技術は加速度的に進歩したが、知恵(wisdom)においてもそうであるというわけにはいかない。「宗教が必然的に善である」と考えてはならないのと同じように、我々は、「科学の進歩が必然的に善である」と考えてはならないであろう。すくなくとも科学の進歩によって、地上に「新しき楽園(a new Paradise)」が構築されるなどと云う楽天的な考え方そのものを批判しなければならない時代を我々は今生きているのである。 人類の存続そのものの危機は、核戦争だけによってもたらされるものではなく、現在では地球の環境危機という新たなる問題が登場している。この問題は、「自然と人間との共生」の問題、すなわち「エコロジー文明」の創出という新しい研究課題を哲学に与えるものとなったが、この問題にいち早く対応したのが、米国でホワイトヘッドの影響を受けたプロセス神学者達であった。
文明の転換期における平和の重要性
すでに四半世紀前になるが、1987年にアメリカのバークリーで開催された、仏教とキリスト教の対話を主題とする国際会議のテーマは、「地球の癒し(Global healing)」であった。 この国際会議を主導した米国のプロセス神学者のジョン・カブは、クレアモント大学あるホワイトヘッド研究のメッカともいうべきProcess Centerの創設者でもあるが、彼はホワイトヘッドのコスモロジーが地球の環境危機を考察する上で極めて重要であるという認識を早くから持っていた。彼はこの国際会議の基調演説で次のように述べた。
宗教的な観点から死について語る場合、従来は、ほとんど個人的な次元にとどまっていて、私という個人の死、あるいは、死後の世界はどのようなものであるかという観点から、この問題が扱われた。今日では、我々は、地球全体に死が広がりつつあるという状況に直面している。このことは、もはや、様々な宗教的伝統に属する人間にとって、避けられない問題となっている。[5]
地球全体に「死」が拡がりつつあるということは、あくまでも人間的な比喩、もしくは、神話的象徴によって語られていることであって、科学的事実の客観的な記述ではない言う意見があるかもしれない。普通に我々が理解している自然科学には「病」とか、「死」という語は登場しない。もし、自然科学の最も基底的な言語に、生死(生成と消滅)、価値、目的というような範疇が存在しないならば、自然科学的な事実を根拠として、「病める」地球の「癒し」について語ることはできないであろう。健康であったり、病気であったりするのは、あくまでも人間についていえるのであって、他の生物種や無生物について言うのは無理であるとも思われよう。 しかしながら、「健康」や「病」を人間にのみあてはまる特殊な述語と考え、自然そのものを人間の外部に対象化された単なる物質の運動に還元するような自然観そのものが、現在の生態学的危機と密接に結びついているとしたらどうであろうか。 宗教が人間の個人的な内面的生の問題のみに関わり、科学が自然を外部から操作可能な物質の機械論的システムに還元するとき、自然と人間の関わりを問う「環境問題」を、「科学的にかつ宗教的に」語るという道はほとんど閉ざされていたと言ってよい。ホワイトヘッドの自然哲学のコスモロジーはまさにそのような近代に固有の機械論的自然観と、科学から切り離された実存的宗教観の断絶を克服するために亭主すされたものであった。すなわち、人間の生死を、ひろく生きとし生けるもの生命のつながりにおいて捉え、自然を外部から操作し、意識を持つ人間の自己中心的な価値に奉仕させる道具的存在と見做す考え方そのものを批判することが『科学と近代世界』の根本的テーマの一つであった。
単なる科学的な理性は、手段知としていかに優れていても、無知の自覚において成りたつ本来の哲学的智の基準からすれば、人間と自然との間の分離不可能な依存関係について、また自己と他者との社会的依存関係に対しても、甚だしき無智と共存しうるのである。
ホワイトヘッドの哲学は、自然を支配する道具として理性を見る立場が批判されるだけでなく、「存在するために他者を必要としない」実体の哲学的概念が迷妄として斥けられている。これは、これまでの西欧のプラトン主義やアリストテレス主義にはなかった哲学の新しい考え方であり、仏教の縁起説に通じる徹底した実体否定論を説いている。このような実体否定論に基づいて、ホワイトヘッドは、自然の外部から神の如き立場で干渉する人間の科学的理性の「暴力」を斥けるだけでなく、一神教の中にあってこれまで無批判的に受容されてきた神概念、すなわち世界に全く依存しないが、世界のほうは全面的に依存する絶対的な実体としての神の概念、万有を外部から専制君主のように支配する神の概念を、一神教に特有の偶像崇拝として批判し、またその偶像崇拝に基づく暴力の是認を、平和を脅かす宗教的イデオロギーとして斥けるのである。
ホワイトヘッドは、『過程と実在』の「神と世界」の関係を論ずる章で次のように伝統的な「万軍の主」の神概念を批判している。
「不動の動者」としての神の観念は、すくなくとも西欧思想に関するかぎりアリストテレスに由来する。「勝義にリアルな実体」としての神の観念は、キリスト教神学好みの説である。此等二つの神の観念が結合して、根源的で、勝義にリアルな超越的な創造主-その命令一下、世界が成立し、それが課した意志に世界が服従する超越的な創造主の説になるのであるが、これは、キリスト教とイスラム教の歴史に悲劇を注入してきた誤謬である。西欧世界がキリスト教を受け容れたときにローマ皇帝が勝利を収めたのであるし、西欧の神学の受け取ったテキストは、ローマ皇帝の法律家達によって編集された。ユスティニアヌス法典とユスティニアヌス神学とは、人間精神の一つの運動を表現している二巻である。ガリラヤの謙譲についての簡潔なヴィジョンは、諸時代を貫いて、不確かに明滅した。キリスト教の公式化においては、救世主に対して誤解を抱いたということを、唯ユダヤ人だけのものとみなす些末な形をとった。しかし、神をエジプト、ペルシャ、そしてローマの皇帝のイメージにかたどって作るという、より深刻な偶像が保持された。教会は、もっぱら皇帝に属しているいろいろな属性を付与したのである。[6]
ここでユダヤ人が救世主に対して誤った観念を抱いたというのは、失われた王国をダビデの子孫として復興する王としてのメシアというユダヤ人中心の考え方であり、民族の壁を越えて異邦人をも救済するという普遍的な救済の教えではなかったことを指している。しかし、ホワイトヘッドは、誤解したのはユダヤ人のみならず、初期のキリスト教の神学者達もまた、神を皇帝のイメージにかたどるという、より深刻な偶像崇拝に陥っていたというのである。
嘗ての西欧文明がキリスト教を非キリスト教国に宣教する場合でも、歴史はその布教活動が帝国主義的な政治的支配と分かちがたく結びついていたことを示している。この点がホワイトヘッドのいう一神教のなかでまだ克服されていない深刻な偶像崇拝のポイントであろう。ホワイトヘッドがキリスト教において重視するのは、「統治する皇帝でも、呵責のない道徳家でも、不動の動者でもなく」、「世界の内で、ゆるやかに、そして静謐の内に働く」「ガリラヤの謙遜(humility)」、すなわち福音書に記されているキリストのケノーシス(自己譲与の愛のはたらき)である。
先に名前を挙げたプロセス神学者のジョン・カブは、ホワイトヘッドの哲学が、キリスト教だけでなく仏教にも深い関わりを持っていることを理解し、米国宗教学会で仏教とキリスト教との宗教間対話を積極的に推進した人でもあった。ホワイトヘッドは、大乗仏教については知識を持たず、当時英訳された倶舎論に示されていたような小乗仏教的を論じただけにとどまったが、彼自身が『過程と実在』で展開した宗教哲学が、小乗仏教の二世界説的形而上学を克服した大乗仏教の根本思想と通底するものであることは、日本のホワイトヘッド研究者もまた詳細に指摘している。[7]
ホワイトヘッドが積極的な意味での平和を語っているのは、『観念の冒険』の文明論においてである。ここで云う平和(Peace) は「平安」とも訳しうるが、単に個人の心の内面的な世界だけにとどまるものではない。平和は、宗教論の文脈では外的なものに優先する個の内面に関わるが、内的なものは常に外化され他者によって受容され、継承されるという意味で、内なる世界と外なる世界は互いに動的に転換するという働きがあるからである。言い換えるならば個人の魂に平安のないところに、政治的・外的な意味での平和も到来することはないのであり、地の平和のないところに、魂の平安もあり得ないのである。
まず、ホワイトヘッドは、文明を「まこと(Truth)」「美しさ(Beauty)」「冒険(Adventure)「藝術(Art)」の四つの徳性がいかに実現されているかによって特徴付ける。美を重視するのは、ホワイトヘッドに特徴的であって、広義の美的判断がそれ自身において価値あるものを我々に伝える点で、また最も具体的な生に直接に関わるという意味で、倫理学の形式的な当為判断よりも実質的な重要性を持つというホワイトヘッドの考え方が現れている。しかし、此等の特質をひとつひとつ彼自身の哲学の立場から論じた後で、ホワイトヘッドは次のように「平和」の重要性を説くのである。
我々が探し求めているのは、他の四つの徳性を総括し、それらの徳性に実際しばしばつきまとってきたやむことのない自我主義を文明の観念から排除するような、<調和の調和>の観念である。「非人格性」は死語でありすぎるし、「優しさ」は、狭すぎる。私は破壊的な騒々しさを鎮静し、文明を完成させる<調和の調和>に対して、<平和>という用を選ぶ。こうして社会が文明化されていると呼ぶことができるのは、そのメンバーが五つの徳性―<まこと><美しさ><冒険><藝術><平和>に関与する場合である。
ここで云われている文明は、近代科学の成立以後に意味されているような機械文明ではない。それは精神的な文明であり、構成員が関与する徳性である。<冒険adventure>は、未来の方から到来して過去を刷新する力を表わしており、進取の気性をもつ自由人としての個人の気概を表現するものである。しかし、真理を探究する科学も、美を探求する藝術も、冒険を重んじる起業家の気概も、それだけでは文明を構成しはしない。それらの徳性、古い哲学の用語を使うならば、知的卓越性や倫理的卓越性を統合する宗教的卓越性の根本を表現するものが、ホワイトヘッドにあっては「調和の調和( Harmony of Harmonies)」としての「平和」なのである。ここでいう「平和」は消極的な概念ではなく、「魂の生命と躍動の花冠である積極的な感情(positive feeling)」である。それは「未来に対する希望」ではなく、「現在の細々したものへの興味」でもない。言葉で表現することは難しいが、「人格性の超越を伴う、相対的な価値の逆転」であり、「目的の制御を越えた賜物として到来するもの」である。この<平和>は抑止の除去であって、抑止の導入ではない。
転換期に於ける文明を特徴付ける徳性としてのこのような「平和」の概念は、諸宗教で伝統的に語られてきた「平和の概念」でもある。即ち、創造の御業を完成し休息された神に倣う「安息日の平和(シャローム)」、キリスト教のミサで唱えられる「主の平和」、そして、生死の苦しみに満ちた世界から逃避して来世に希望を託す消極的な涅槃ではなく、衆生の苦の世界をみずから積極的に引き受けて、生死の世界との往還のダイナミズムにおいて捉えられた大乗仏教的な涅槃(無住處涅槃)など、様々な宗教的叡智の伝統につながる「平和」である。このような宗教的伝統のなかで育まれた叡智の伝統を尊重しつつ、なお既成の宗教や疑似宗教的イデオロギーのなかに認められるさまざまな偶像崇拝的要素を除去し、そのような集団的エゴイスムを乗り越える「平和」を、文明論の転換という文脈で論じたものがホワイトヘッドの平和論である。
[1] ラッセル・アインシュタイン宣言の英語原文は、日本パグウォッシュ会議のHP
http://www.pugwashjapan.jp/ 参照 ただし、日本語訳は私自身のものである。
[2] Alfred North Whitehead, Religion in the Making, 1926, Newyork: Fordham UP, 1996, p.7 ホワイトヘッド著作集7巻『宗教とその形成』(齋藤繁雄訳)松籟社7頁
[3] 前掲書 p.9 邦訳8頁
[4]Colin Wilson, Religion and the Rebel, Littlehampton Book Service, 1957
『宗教とアウトサイダー』、中村保男訳、河出文庫、1992,下巻271頁、
[5] この国際会議については、拙著『ホワイトヘッド』講談社、1998、183頁以下を参照
[6] A.N.Whitehead, Process and Reality, 1929, Corrected Edition. New York:Free Press, 1978,p.342 ホワイトヘッド著作集第11巻『過程と実在』下、山本誠作訳、松籟社、610頁
[7] 武田龍精、「大乗仏教とホワイトヘッド哲学―特に中観と瑜伽行唯識に関して」、「プロセス思想」創刊号、1985,5-18頁は、ホワイトヘッド哲学でいう創造性を大乗仏教の動的な「空」の理解に結びつけている。
ホワイトヘッドの教育論の現代的意義―古典教育と科学の統合
田中 裕
1 ホワイトヘッド自身が受けた古典教育の「公共性」
1861年に生まれたホワイトヘッドは「自伝的覚書」[1] のなかで、南部イングランド・ドーセットシャー州のシャーボン校で自分が受けた古典語学習と一体化した教養教育について語っている。10歳でラテン語を12歳でギリシャ語を学び始めたホワイトヘッドは、19歳6ヶ月に至るまで、休日以外毎日、ギリシャ・ラテンの古典的著作について数頁ずつ解釈しつつ文法を学んだおかげで、登校前には何頁ものラテン語文法規則をすべてラテン語で暗唱、引用文で例証することができるようになったという。後にケンブリッジで数学を専攻したホワイトヘッドは、数学の学習を間に挟みつつ、ヘロドトス、クセノポン、ツキディデスなどの歴史書を含む古典の学習によって、ペリクレス時代のアテネの民主制を大英帝国の民主主義と重ね合わせつつ、「近代生活を古代文明と無意識のうちに比較させる古典の授業」が如何に楽しいものであったかを回想している。さらに、このような古典教育は人文教育だけではなく宗教教育も包含していた。ベネディクト修道会の教育機関として西暦741年に創立されたという伝承を持つシャーボン校は、古典語による教養教育のなかに、キリスト教的な宗教教育を統合していた。毎週日曜午後と月曜日朝の聖書の授業では、英訳聖書(欽定訳聖書)ではなく、新約聖書はギリシャ語原文、旧約聖書はアレクサンドリアのユダヤ人達がキリスト教成立以前にヘブライ語からギリシャ語に翻訳し、新約聖書のギリシャ語にも多大の影響を与えた「七〇人訳聖書(Septuaginta)」が読まれた。「学校で誰かが聖書を英語で読んでいるなどと聞いたこともなかった」と言うホワイトヘッドは、「ギリシャ語で宗教を学ぶものにおのずから備わる中庸の美徳(Golden Mean)」を重視し、「プラトンの薫陶を受けていたアレクサンドリアのユダヤ人たちが、五月のドーセットシャー州の修道院の建物(シャーボン校の校舎でもあった)と私の心の中で溶け合っている」と当時を回想している。
ギリシャ語聖書による宗教教育と古典重視の人文教育を少年時代に受けたということは、東方教会の霊性に由来するキリスト教的プラトン主義の伝統とホワイトヘッドの晩年の宗教哲学との関係を考える上で重要である。ホワイトヘッドの祖父はイギリスの国教会の牧師であったが、この教会は、ローマ・カトリック教会と同じく「カトリック(普遍の教会)」を名乗る「聖公会」であり、キリスト教教会の持つ古き「伝統」と「公共性」を大切にしていた。聖公会の聖職者達は、「教会と国家によって神に奉仕する」ことをモットーとしていたが、彼等は、ラテン語を公共語とする西方教会の伝統だけではなく、ギリシャ語を公共語とする東方教会(ギリシャ正教)の霊性的伝統もまた重視したのである。
ホワイトヘッドの晩年の宗教哲学は、『過程と実在』の最終章「神と世界」で展開されているが、そこで彼が使用しているキーワードは「神化(テオーシス)」である。[2] この語は対象化しえぬ神の活動(エネルゲイア)と、恩寵に基づく人間の自由な「協働(シュネルギア)を重視する東方教会の霊性的伝統に由来するものである。有限なる世界と無限なる神との活きた相互関係にもとづく「万有の神化」を主題とするホワイトヘッドの形而上学は、東方教会の「受肉の形而上学」を独自な形で20世紀において刷新し展開したものだということができるだろう。
ところで英国の中高等教育をになう代表的な学校は「公共学校(public school)」と呼ばれるが、これは日本でいうならば「公立学校」ではなく「私立学校」である。国家や行政の支配から独立した「私立」学校が、なぜ英国では「公共学校」と呼ばれるかは、学校教育の公共性にかんするひとつの大切な視点を与えているように思う。それは単に私的利益を求めない公共機関ではあることを示すという税法上の理由だけではなく、「普遍のキリスト教」の宗教的な教育理念が根底にあると考えるべきではなかろうか。
キリスト教の信仰告白の起源に他ならない初代キリスト教徒の「使徒のしるし」は、一人称単数形で「私は信じる credo」という形で宣言する。「普遍の教会」に所属するものは、「一個人の立場」で「公に」信仰を宣言するのであって、「我々は信じる」という複数形で特殊な宗派団体への帰属関係を宣言するのではない。言い換えれば、最も普遍的な公共性は、一人称単数の「私」の告白を原点としており、その立場からすれば、個人を越えるように見える組織や政府のもつ公共性よりも更に普遍的な公共性の理念の表明という性格をもっている。このような「個の人格」を重視する立場は、個人の人権の尊重や信仰の自由を支える「公共性」を重視する立場であり、公共性の名を借りて私的利益を追求する特殊な集団的イデオロギーを批判することを可能ならしめる「個に具体化した普遍」の立場であろう。このように何処までも自由なる個の単独者性に立脚しつつ、他者との連帯を求め、常に異質なもの対立するものの統合を自己と公共世界に於て求める立場こそ、ホワイトヘッドの宗教哲学と文明論および教育論の根底にあるものであるが、その淵源のひとつは、彼が受けた「公共学校」での教養教育にあったと言って良いであろう。
2 ケンブリッジ大学の「使徒団」とプラトン的対話による自己啓発
1880年にホワイトヘッドは19歳でケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学するが、そこでは「純粋数学と応用数学以外の教室に足を踏み入れたことはない」と述べている。彼は、ケンブリッジ大学では専門教育の科目のみを受講したわけであるが、実は講義は教育の一面に過ぎず、午後6時か7時頃夕食と共に始まり、十時頃まで続く友人達とので、知的会話が、その専門教育を補うものとしてあった。この知的会話を行った友人達は専門科目の一致によって作られたのではなく、古典語による教養教育を受けてきた仲間達と共に政治、宗教、哲学、文学の全ての領域が論じたという。ここでの知的刺激を受けて、ホワイトヘッドは1885年に数学専攻の特別研究員(フェロウ)になるまえにカントの純粋理性批判の一部を殆ど暗唱するまでになっていた。それは、「プラトンの対話の日常版」という様相を呈していた当時のケンブリッジ式の教養教育の特徴であった。そして、1820年代後半に詩人テニスンが友人達と共に始めた「学会(ザ・ソサイアティ)」―外部からは「使徒団(アポスルズ)」と呼ばれていた―の例会は、学生のみならず、卒業生―とくにケンブリッジに週末を過ごしに来た判事、科学者、国会議員―も含めて、毎土曜日午後10時から翌朝まで、プラトンの方法を踏襲する自由な哲学的討論の場があった。後にホワイトヘッドの勧めで1892年に「使徒団」に加えられたバートランド・ラッセルによれば、
「この集会で議論するに当たっては、何のタブーも設けないこと、何の制限もおかないこと、どんなことを言ってもショッキングなこととは考えないこと、いかなる推測も理論も絶対に自由であって何等の妨げもないこと」[3]
が根本方針であった。「使徒団」という通称は、創始者達が12人であったということに由来するが、そこでは特定のイデオロギーを宣伝することが目指されていたのではない。「使徒のしるし」はいかなるドグマも究極のものと見做さない「知的誠実」ということであり、「画一性の福音」も「力の福音」も斥けられた。[4] すなわち、自己の思想と根本的に対立する異論にも謙虚に耳を傾け、自己が公理として暗黙の下に前提していたことを認めないものを積極的に対話の相手とすることによって理性的な討議を続行するという意味での「プラトン的な弁証法・対話術(ディアレクティケー)」の実践が重んじられたのである。清教徒的な息苦しい家庭の雰囲気の下で育てられたラッセルは、後に彼の自伝の中で、この「使徒団」の一員となったことが彼の精神を如何に自由にしてくれたかを感激を以て語っている。
プラトン哲学の神髄は、イデア説や二世界説のような所謂プラトン主義のドグマにあるのではなく、我々自身が「公理」と考えてきたものを、異質な思想を持つ他者の前で常に批判的な吟味に晒し、そのような「公理」のもつ独断的性格を乗り越えて、自己と他者の対立するドグマをさらに越えていく「普遍性」をめざす探求にほかならないからである。プラトン対話編の自由な精神の働きを直観するものにとっては、アリストテレスのイデア説批判であれ、ニーチェの反ソクラテス主義であれ、プラトン主義に対する有名な反論ないし異論は、すでにプラトン自身によって、「対話編」の中で先取りされていること、そのような徹底した自己吟味の精神こそがプラトンの弁証法(対話術)の精神であることに気づくであろう。このことは、「西洋哲学の伝統をプラトンの対話編の脚注」として要約したホワイトヘッドのプラトン理解の根本的特徴であったが、そのルーツをたどっていくならば、ケンブリッジ大学の「使徒団」での自由討論の習慣がそれを涵養したといえるだろう。
ホワイトヘッド自身の受けた古典的教養教育は、現代の我々から見れば嘗ての大英帝国の民主制が「大衆支配」の衆愚政治に陥らないように、その制度を実質的に支えてきた知的エリートのものであって、宗教の世俗化、学問の専門化、大学の大衆化がすすみ、科学技術の進歩による国力の増大を至上命令とする近代国家には適合しないのではないかという見方もあるであろう。
1869年に『教養と無秩序』を書いたマシュー・アーノルドは、オックスフォード大学の詩学教授を務めた詩人でもあったが、彼のいう「教養」の背景にあるものは、ホワイトヘッドが受けた古典教育と通底するものがあったと言って良かろう。アーノルドは、ヘブライズムの道徳的宗教性とギリシャ哲学の知的誠実性を統合する「完全性の追求」をもって「教養」の定義し、「この世を我々が見いだしたものよりも、よりよく、より幸福にしてゆこうとする崇高な理想」のもとに「理性と神の意志を世におこなわしめる」こと、すなわち旧約聖書の道徳的エネルギーをプラトン的理想主義に結合することを力説したからである。[5]
しかしながら、1888年になくなったアーノルドの「教養主義」の理念とおなじようなものを繰り返すことだけがホワイトヘッドの教育論の特質ではない。文学と芸術の価値を力説する点では、ホワイトヘッドもアーノルドと同じであるが、ホワイトヘッドは同時にケンブリッジ大学とロンドン大学では応用数学と理論物理学を研究する科学者でもあった。「科学と近代世界」の関係を主題としたことは、アーノルドとは異なるホワイトヘッドの文明論と教育論の特質である。それは、あくまでも伝統的な教養教育の意義を保持しつつも、科学技術の発達が文明の行方を左右するようになった近代において生じる複雑な課題に対応するものでもあった。そのような教育論はとくにケンブリッジ大学を退職して彼が務めたロンドン大学時代の教育論の特質でもあった。
3 ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論―教育の目的と自己啓発の三段階
1880年からホワイトヘッドは、最初は特待生として、次は特別研究員兼主任講師としてケンブリッジ大学に在籍し、弟子のバートランド・ラッセルとともに数理哲学の歴史に於ける記念碑的な大著「數學原理」第一巻を1910年に出版したが、その直後、彼はケンブリッジ大学を退職してロンドン大学に移った。1911年から1914年夏にかけてユニバーシティ・カレッジで、1914年から1924年夏までインペリアル理工カレッジの教授を務めたが、この時期に彼はロンドン大学理学部長、ロンドンの教育行政を司る学術評議会議長、市会議員、ゴールドスミス・カレッジ評議会長、大ロンドン自治区ポリテクニーク評議員など大学及び理工学校を含むロンドンの教育行政に深く関わるようになった。近代社会が直面する教育上の様々な問題について、ホワイトヘッドは次のように回想している。
14年にわたりロンドンの抱えている諸問題を経験したことは、近代産業社会における高等教育の問題にかんする私の考え方を変えた。大学の機能については狭い見解をとることが当時の風潮であったーまだ消えてはいないが。オクスフォード=ケンブリッジ型」とドイツ型とがあり、他のあらゆるタイプは無知から来る蔑視の対象となった。知的啓蒙をもとめる職工大衆、適切な知識を求めるあらゆる社会層の青年達、彼等のもたらす各種の問題―これらはみな、文明社会に於ける新たな要因であった。しかし、学問の世界は過去に浸りきっていた。ロンドン大学は、近代生活のこのあらたな問題に対処するための相異なる各種の施設の連合体である。(中略)実業家、弁護士、医師、科学者、文学者、学部長達―このあらたな教育問題に専任ないし兼任の男女のグループが、焦眉の急だった改革を達成しつつあった。こうした企画は彼等のものだけではなかった。アメリカでも、異なる状況の下で同様なグループが同様な諸問題を解決していた。教育のこのあらたな適応は文明を救済する要因の一つであると言っても言い過ぎではない。[6]
ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論は、さまざまな機会に彼が行った講演が主体であるが、ここでは、まず、1916年にホワイトヘッドがイギリス数学者協会会長に就任したときの記念講演「教育の目的」を取り上げよう。この講演で、ホワイトヘッドは教養(culture)を、「思惟の能動性(Activity of thought)であり、美と人情に対する受容性(receptiveness to beauty and humane feeling)」と定義する。様々なテーマについて広く浅い断片的知識をもつ単なる「物知り」は、彼が定義する「教養」とは無縁である。自己啓発(self-development)の能力としての教養は、専門知識を哲学のように深め、芸術のように高めるものであるとのべる。
ホワイトヘッドのロンドン大学時代の教育論でもう一つ特筆すべきものは、1922年、ロンドン師範学校協会でおこなった「教育のリズム」と題した講演であろう。[7]音楽論はアウグスチヌスやプラトンにまで遡るヨーロッパの伝統的な教養教育の要諦であったが、ホワイトヘッドはその伝統を換骨奪胎して、近代の産業化時代の教養教育に適応させようとして居る点が注目される。
ホワイトヘッドはまずヘーゲルの正反合の三組みにもとづく知的成長の三段階に言及した後で、「教育理論にヘーゲルの考えを応用した場合、かかる名称は内容を伝えるのに適切なものとは思えぬ」と批判した上で、彼自身の知的成長の三段階説を提唱している。それは、「ロマンスの段階」「精密化の段階」「普遍化の段階」である。
第一段階の「ロマンスの段階」とは、「生の事実から出発して、いまだとらえられていない個々の関係がいかなるものかについての認識へと移行する過程で生じる」ロマンチックな感動である。第二段階の「精密化の段階」とは、言語や文法を習得し、認識相互の関係を正確に秩序立てることによって知識の範囲を広げ、諸事実の分析方法を教え込むことによって分析に適した多くの新事実を与える段階である。そしてホワイトヘッドが強調するのは、現場の教育でもっとも避けなければならないのは、第一段階抜きで第二段階から始めることである。その理由は、たとえ漠然としたものであっても、幅広い全体的な理解がなされていなかったならば、事象を分析したところで、抽象的で他との関連もない空虚な事実を無意味に叙述しただけで終わってしまうからである。そして最後の「普遍化の段階」とは、秩序立てられた概念や適切な処理がなされた専門的知識をもってするロマンチシズムへの復帰であり、前の二つの段階を統合するものである。ホワイトヘッドは、このようなリズム重視の教育論を、「自由と規律とのリズミックな要求」という論文の中でも更に詳しく展開しているが、主知主義的なヘーゲルの三段階の理性的なものの弁証法と違う点は、美的感性の涵養と情操教育が理性の発達に先行すべきだと言う論点である。それは大学に於てなされる教育活動のなかで、惰性的で応用力のない細分化された知識が無目的に学生に注入されていく結果、学生の創造性が低下し、思考が麻痺していく有様への警鐘でもあった。
4 ハーバード大学時代のホワイトヘッドの哲学における「宇宙の直観と感情」
ホワイトヘッドは1924年63歳の時にハーバード大学から哲学科教授として招聘され、以後1936年名誉教授になるまでアメリカで活動したが、この時期は、『科学と近代世界』、『宗教とその形成』、『過程と実在』『観念の冒険』といった彼の哲学上の主著が書かれた時代である。ケンブリッジ大学の時代が論理学と数学の哲学、ロンドン大学の時代が自然哲学であるのに対して、ハーバード大学の時代は形而上学と文明論をテーマとしていると言って良いであろう。この時代は、『科学と近代世界』の最終章をのぞけば主題的に教育を語った論文は少ないとはいえ、我々の宇宙と社会にかんする普遍的な理論を展開したかれの後期哲学は、教育の問題にもロンドン時代におとらず多大の示唆を与えるものである。
西洋の哲学史をプラトンの対話編の脚注にすぎないと喝破したホワイトヘッドは、同時に自己の提示する「有機体の哲学」が20世紀のプラトニズムの復興であるという自覚を持っていた。ドイツ理想主義が仏蘭西革命以後の時代の近代ヨーロッパに於けるプラトン主義の復興という側面をもっていたことと類比的に言えば、ホワイトヘッドの場合は、第一次世界大戦というヨーロッパの文明の危機と試練の経験を踏まえた上で、文明の未来のために、あらためてプラトンの哲学の精神を復興させようとしたものであるといってよかろう。
ホワイトヘッドの後期哲学がイギリスの経験論だけではなくシェリングやヘーゲルに代表されるドイツ理想主義との関わりが深いということは従来たびたび指摘されてきた[8]が、ホワイトヘッドに先立つこと約100年前、ドイツ理想主義の全盛期、ベルリン大学の創設時に、国家や教育行政から独立した大学の学問の自由を力説し、ヘーゲルと対立しつつヘーゲルは異なる意味での「弁証法」―プラトン的な開かれた対話の精神―と、「解釈学」の始祖でもあったシュライエルマッハーの思想と対比することが、ホワイトヘッドの後期哲学と、それが教育の問題に対して有する意味をよりよく理解ならしめるであろう。[9]
ホワイトヘッドの後期形而上学とその宗教論を理解する鍵のひとつは、「宇宙(universe)」と「世界」との間の厳格な区別である。キリスト教の神学者は「世界」と「神」の区別と関係を強調し、有神論と汎神論の選択肢を立てた上で「有神論」の優位を主張するものであるが、ホワイトヘッドは『宗教とその形成』でキリスト教のみならず仏教にも世界宗教としての普遍性を認めていた関係上、『観念の冒険』の文明論および宗教論では、「現実世界」と区別されつつも、「現実世界」と不可分の関係にある「宇宙」のほうを「神」にかわるキーワードとして使っているのである。[10]
「宇宙」という語のこのようなホワイトヘッド的用法は、シュライエルマッハーの『宗教論』にその先駆的な形をもっていることに注意したい。「宗教を軽蔑する教養人への講話」として書かれたシュライエルマッハーの『宗教論は』、啓蒙主義とロマン主義の洗礼を受けた教養人との対話のために、キリスト教的教義学の用語を使わず、また倫理道徳や政治からは独立の領域に宗教を確保するために、有限な個が無限なる宇宙を直観し感受するところに宗教の本質を見たが、このような「宇宙の直観と感情」こそは、ホワイトヘッドの形而上学の原点でもあった。ホワイトヘッドにとって、哲学とは一言で要約するならば「無限なる宇宙を有限なる言葉で表現しようとする試み」であり、そのような有限なる人間の理性的な営みにふさわしい作業は「対話において開かれた諸々のシステム(Open Systems in Dialogue」の統合にほかならないのである。[11]
「直観」という語は、シュライエルマッハーの場合は、おそらくシェリングの知的直観と同一視されることを恐れたためであろうか、『宗教論』の第二版以後では使用を差し控えるようになったし、「感情」もまた、哲学的な範疇としてではなく、「絶対依存の感情」として説かれるようなったこと、そのために彼の宗教論は、反理性主義という批判を浴びるようになったことは良く知られており、この点はホワイトヘッドとは違うところであろう。ホワイトヘッドの場合は、このような反理性主義の立場をとるものではなく、むしろ反理性主義の立場を否定せずに、それとの対話によって刷新された新たなる理性主義という性格を持つものである。したがって、彼の形而上学では、「宇宙の直観と感情」は、根本的な哲学的範疇となっている。たとえば宇宙の「直観envisagement」は『科学と近代世界』においては、現実の与件を越えて新しきものを創造していく創造性(基底的な活動力)を可能ならしめる「見る」働きとして、無限なるプラトン的形相の領域の三重の「直観」として表現されている。[12]
ホワイトヘッドの場合は、宇宙に於ける「感情feeling」もまた、諸々の活動的な個と、それぞれの個の内に多様なパースペクティブのもとに対象化された現実世界とを可能ならしめる「無限なる宇宙」の活きた関係性をあらわす根源語である。それは、ヘーゲルがシュライエルマッハーを揶揄したときに意味したような単に主観的かつ心情的な概念などではなく、主客の対立以前にあって主観と客観の双方を成立せしめる活動であり、自己と世界を結ぶ宇宙を貫く根源的にして具體的な関係性である。[13]
5 日本の教養教育の今後とホワイトヘッド―岡潔の思想との対比を通して
私はこの論文の第3節で、ロンドン時代のホワイトヘッドが理工系の大学で数学の専門教育を行う教員を対象とした講演会で、「美と人情に対する受容性」の涵養を重視したことに言及した。科学教育の基礎にある数学と美的感性と情意との間に存する密接な関係を指摘している点で、数学を情緒とは無縁の論理にのみ立脚する学問と見做す一般的通念とは全く異なったユニークな見解とも思われよう。しかし、これは決してホワイトヘッドだけの特殊な数学論ないし教養論なのではない。
日本の代表的な数学者の一人であり、多変数解析関数論の独創的な世界的業績によって文化勲章を受章した岡潔の数学論と教養論はホワイトヘッドの思想に深く通底するものがある。岡潔にとって、数学教育は情操教育と切り離すことが出来ず、情緒の涵養こそが、「ないものからあるものを作る」数学者の創造活動の根本であった。岡潔は、数学者リーマンの全集とともに道元禅師の「正法眼蔵」を座右の書として常に参照しており、また浄土教の明治時代の刷新者の一人であった山崎弁栄上人の念仏三昧の実践者でもあった。彼は、大乗仏教の唯識教学にも造詣が深く、学問的知識が人間に謙虚さを忘却させ自我への執着によって無意識のうちに抑圧と差別の構造を産み出すこと、そしてそのような「妄知」としての「分別知」を乗り越えることのできる「眞智」としての「無差別智」を重視していた。彼は、さらに座右の書として芭蕉の七部集と蕉風俳論をあげており、自分でも連句の実作を行っていたが、このような文学的教養が、小林秀雄との対話「人間の建設」や、蕉風俳諧についての山本健吉との文学的対談を可能ならしめたものであった。[14]
岡潔は晩年、様々な場所で日本の教育システムにかんする提言をしているが、そのひとつは、日本人の心を伝統的に形成してきた古典の教育によって情緒を涵養することが大切にすることがあげられている。ホワイトヘッドが人格形成をおこなった英国のパブリックスクールの教養教育の基礎はギリシャ語とラテン語であったが、それに対応するものは日本の場合は、漢文と古文による古典教育であろう。グローバリゼーションという掛け声のもとで、近代語の一つに過ぎない英語の学習に没頭する以前に、日本人の精神文化を形成した伝統を伝えるということが教育の一つの大切な務めである。ホワイトヘッドは英語ではなくギリシャ語で聖書を読んだが、それは漢文で仏典を読んできた我々日本人の父祖達の伝統と対応するであろう。仏教は日本だけではなく東アジアの精神文化の規定を為すものであり、イデオロギーを越えた普遍宗教としての大乗仏教の伝統に基づく教養教育は、科学的な専門知や形式的な倫理学だけでは与えることの出来ない宇宙論と社会論の深き教養の基盤を与えるであろう。
ホワイトヘッドの哲学は、ヨーロッパの人権や自由にかんする理念の根底にある宇宙論と社会論が何であったかを教えるものであった。「自由・平等・博愛」といった民主政治の根本理念を、単に外来思想の受売りないし押しつけと考えるのでは、排外的な国粋主義に顛落するであろう。それらを真に日本の伝統的な精神文化に受肉するためには、その背後にある「普遍のキリスト教」の精神的伝統から学ぶことが必要である。「自由(自在ないし無礙)」も「平等」も元来は大乗仏教に由来する宇宙的な広がりを持った概念であったことをおもえば、私は、キリスト教と仏教という二つの世界宗教を視野においたホワイトヘッドの哲学こそは、岡潔の力説したような「日本人の心」にさらなる宇宙的普遍性を与えると考えるものである。
[1] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” in Science and Philosophy, A Philosophical Paperback, New York , 1948, pp.9-21
[2] Alfred North Whitehead, Process and Reality, Corrected Edition, Ed.by David Griffin and Donald Scherburne, The Free Press, 1978, pp.342-351
[3] Bertrand Russell, Autobiography 1872-1914, George Allen and Unwin LTD, 1967, pp.68-69
[4] 人間の魂による思想の冒険を欠いたGospel of Uniformity も、他者の自由を尊重する説得ではなく暴力に訴えるGospel of Force も共にホワイトヘッドは文明の衰退をもたらすものと考えていた。A.N.Whitehead, Science and the Modern World, The macmilllan Company 1925, The Free Press, 1953, Chap.XIII pp.193-208参照
[5] マシュー・アーノルド、多田英二訳、「教養と無秩序」、岩波文庫、2015, 58頁参照
[6] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” (前掲書) pp.18-19
[7] Alfred North Whitehead, The Aims of Education, The Free Ppress, 1925, pp.15-28
[8] Whitehead und deutsche Idealismus, herausgegeben von R.Lucas, Jr. Antoon Braeckman, Peter Lang, Berlin・Frankfurt am Mein・New York・Paris, 1990
[9] シュライエルマッハーの思想史的意義については、山脇直司、「シュライエルマッハーの哲学思想学問体系」、廣松渉監修 講座「ドイツ観念論」弘文堂、第四巻「自然と自由の深淵」(1910)所収 (218-258頁)参照。また、シュライエルマッハーの解釈学や弁証法とホワイトヘッド哲学との関係については、Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・NewYork, 2004 参照
[10] ホワイトヘッド自身の形而上学の用語を使って表現するならば、「現実世界(actual world)」とは一個の活動的生起(an actual occasion)において対象化された「既成の」現実的諸存在(actual entities)の「全体」をさすのであって、当該のその活動的生起に相対的に定まる有限なる結合体(nexus)である。このような閉じた有限な存在である「現実世界」に対して、「宇宙」とは、現在生成しつつある一個の活動的生起と現実世界との活きた相互関係がそこにおいて成りたつ「無限への開け」を示す言葉である。そしてこの「無限への開け」は第一義的には直観され感じられるものなのであって、我々の意識や悟性によって対象化されるものではないということがポイントである。
[11] 2003年にクレアモントで開催された「システムと生命―シュライエルマッハーとホワイトヘッド」という学術会議において、プロセス神学者のジョン・カブはシュライエルマッハーの『宗教論』を、多元主義の時代における宗教間対話(それは宗教を否定するものとの対話をも含む)」の可能性を示した先駆者として位置づけている。Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・Newyork, 2004 pp.315-333参照。
[12] 三重の直観とは(1)永遠的客体の直観(2)もろもろの永遠的客体の総合という点から見た価値のもろもろの可能性の直観(3)未来を待ってはじめて成就される境位全体に加わらなければならない現実的事実の直観である。(SMW 105)ホワイトヘッドの言う直観(envisagement)は、フッサールの本質直観や範疇的直観と同じように、我々の経験が単なる感性的直観の所与を越えていくことを可能ならしめるものである。
[13]感情(feeling)とは、既存の他者と他者の世界をすべて肯定的に抱握(prehend)することによって新たなる主体としての自己を形成するはたらきである。実体的な自己が先ず存在して、それが他者を「感じる」というのではなく、諸々の「感情」が、感じる主体を目指すのである。ホワイトヘッドの宇宙的感情は、彼がカントの三批判書のなかで第三批判をもっとも重視し、「純粋理性批判」ではなく、「純粋感情批判(the critique of pure feeling)」こそが、第一批判(科学批判)と第二批判(道徳批判)の根底になければならぬと言ったことに対応している。
[14] 情緒の涵養を重視する岡潔の数学論・教育論・宗教論については、高瀬正仁、『岡潔とその時代』―評伝岡潔 ⅠおよびⅡ(医学評論社)2013が詳しい。
追記
本論稿は「教養教育と統合知」(山脇直司編、東京大学出版会、2018)に寄稿したものであるが、若干の改訂と補足をおこなった。
第42回日本ホワイトヘッド・プロセス学会Symposium提題は
「多元的一」の「一」とは、静的な「モナド」ではなく、多と一の間の生成と存在の転換のリズムを伴った「一」です。それは、「特異性をもった一(singularity)」、すなわち「どのひとつも他とは異なる代替不可能な一」ですが、孤立した「モナド的な窓なき一」ではなく、すべての他者をうちに含むことによって「主體的一」として生成し、みずからを「新たなる客体的一」として、「すべての他者に自己自身を与えます。私は『統合体の哲学』で表現された「多元的な一」の力動性をこのように要約してみましたが、如何でしょうか。
スペイン出身の司祭で日本に帰化された結城了悟師の「ザビエル」史伝には、時代を隔てて受け継がれた宣教師の精神と日本の文化を大切に思う気持ちに溢れています。この本の表紙のザビエル像は、結城了悟師が館長をつとめておられた日本26聖人記念館にあるものですが、いかにも東洋の使徒にふさわしいイメージだと思いました。
都を目指したザビエルの目的のひとつは比叡山に行くことでした。このときの彼は貧しい托鉢僧の身なりで(アッシジのフランシスと同じく)裸足で雪道を歩くという苦行を自らに課していました。そのときの乞食同然のザビエルの姿は、布教許可を獲得するという彼の目的には全くかなわないものでしたが、それでも堺の商人たちとの出会いと彼らの助力が後の日本布教に大いに手助けとなりました。時の権力者に贈呈する高価で珍しい進物や、西欧の王侯の使節と見まがうばかりの豪奢な装いをする南蛮の宣教師のイメージとは程遠い、このときのザビエルの乞食姿のほうに、私は惹かれます。
ザビエルに出逢ったポルトガルの商人でのちにイエズス会に入会し、西洋医学を初めて日本に伝えるとともに、日本の漢方医と協力して、貧民救済のための病院施設を造営したアルメイダは、訪日前のザビエルの印象を次のように記している。
『ある日、突然インドの俗僧のような黒衣をまとい、腰帯も長衣もつけていないみすぼらしい人がこの島(モルッカ諸島)にあらわれました。彼の行動を見てみますと、現地人たちをさかんにイエズス会に改宗させようとして働いているのです。どうして南方のこんな野蛮で未開な僻地の島々にまで来て、何のためにあんなに命がけで改宗の仕事に従事しているのか。彼の行動は、不思議であり、私には謎のような人物に見えました。そのとき彼はしばしば、アモール(愛)ということばを話していました。この日本では「アモール」という言葉はありません。この「アモール(愛)」に相当する言葉は、「Taixet(大切)」であると、あとになってから知りました。この黒衣をまとった人物こそフランシスコ・ザビエルでした・・・・・
そしてこのザビエル師の行動の中から、ひとつのたしかな心の安らぎになるような生き方を教えられました。それは「Taixetyni moyuru(大切に燃ゆる」というものでした。私はこのザビエル師の処世の信条である「大切に燃ゆる」という生き方に強く心を動かされました。そのころ私は帆船の船主という身分で万に届くほどの莫大なクルサド貨幣を獲得していましたが、なぜか心の中は空しく、強い罪悪感のようなものがうごめいていました。私はこのことについてザビエル師に告解しました』
『一五五四年夏、ドアルテ・ダ・ガーマらの船主たちと共同経営で、四隻の商船に財貨ー唐生糸、絹織物、琥珀織を満載し、日本に向かったところ、まもなくひどい暴風雨に遇いました。そのとき生まれて初めて自然の脅威と神の恐ろしさに戦慄しました。勇壮だった私の帆船の大きな白布はずたずたに破れ、マストは捻れるように折れ曲がり、竜骨だけがむきだしに残りました。マストの下方には船員や雇用兵たちが溺死しないようにしかりと躰をマストにくくりつけていましたが、最後の祈りのまま、無慚な姿で息絶えていました。その悲惨な光景を見た瞬間、それまで私が執拗に憧れ求めたもの、それがどんなに儚い幻のようなものであったかということが一瞬のうちに私の全身を貫きました。そのときザビエル師がつねづね申されていたマタイの言葉が大きく耳底で聞こえました。(一五五五年九月一五日付フロイスの書簡)
ここでいうマタイの言葉とは、「人、もし、全世界を得るとも、その魂を失わば何の益があろうか」(16:26)でしょう。
アルメイダは、貿易商人として成功する前、一五四六年に母国で外科医の資格を取得していたので、回心後に豊後に、社会から見捨てられた人々のための病院を作ることを発願します。
『私が豊後に来て Nossa Senhora da Piedade (慈悲の聖母の住院)のため病院を創りたいと思ったのも、ひとつにはそれまでのおろかだった私のデウスに対するせめてもの贖罪のようなものでした。
私が南の香料の島でザビエル師からこの目で学んだ「大切に燃ゆる(Taixetni moyuru)」これが病院創設の発願の動機になったように思います。・・・・
私は「病める人間」の治療には「肉体の薬」と「魂の薬」の二通りの薬を併用しなければならないということを知りました。しかし、現在の私の力では、少しばかりの肉体の薬を与えることしかできません。必ず死ぬ運命にある人間の治療には「魂を癒やす薬」こそ最高の薬だと思っています。』
(ガゴ、トルレス、ビレ等、アルメイダの書簡)
使徒行伝と福音書を書き残したルカも、パウロによって「愛する医師ルカ」(コロサイ4-14)と呼ばれているように医者でした。時代は変わって、パウロやルカの時代ではなく日本の戦国時代でしたが、アルメイダもまた、当時のイエズス会の宣教師を財政的に援助するために全財産を抛って当時の日本社会で差別されていた人々を収容する病院を豊後(いまの大分県)に創設したのです。