歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

イグナチオ・デ・ロヨラの祈りの言葉

2025-01-31 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

イグナチオ・デ・ロヨラの祈りの言葉

  Anima Christi  キリストの魂

Anima Christi, sanctifica me.    キリストの魂、わたしを聖化し、
Corpus Christi, salva me.       キリストの体、わたしを救い、
Sanguis Christi, inebria me.      キリストの血、わたしを酔わせ、
Aqua lateris Christi, lava me.    キリストの脇腹から流れ出た水、わたしを清め、
Passio Christi, conforta me.      キリストの受難、わたしを強めてください。
O bone Jesu, exaudi me.        いつくしみ深いイエスよ、わたしの祈りを聴きいれてください。
Intra tua vulnera absconde me.   あなたの傷のうちにわたしをつつみ、
Ne permittas me separari a te.            あなたから離れることのないようにしてください。
Ab hoste maligno defende me.   悪魔のわなからわたしをまもり、
In hora mortis meae voca me.     臨終の時にわたしを招き、
Et iube me venire ad te,      みもとに引き寄せてください。
Ut cum Sanctis tuis laudem te.   すべての聖人とともに、いつまでもあなたを
In saecula saeculorum. Amen     ほめたたえることができますように。アーメン (ホセ・ミゲル・バラ神父による日本語訳)

 イグナチオ・デ・ロヨラが自身の『霊操』の冒頭に記しているのこの祈りは、「イグナチオ・デ・ロヨラの憧憬」と呼ばれることもある。
「霊操」の初版にすでに言及され、第二版以後は全文が引用されているこの祈りは、様々な国の言葉に翻訳されてきたが、英語訳では、ニューマン枢機卿のものが良く知られている。ニューマンはこの祈りの終わりの部分を「汝の聖人と共に永遠に汝の愛を歌うことができますように」(’With Thy saints to sing Thy love,World without end.')と、単に「ほめたたえる」と訳すのではなく「愛を歌う」と意訳している。

「キリストの魂」という祈りの根本にあるものが、「愛の頌栄」であるということは、ロヨラの『霊操』がキリストの愛を主題とする点で、ヨハネの福音書や書簡と深い内的なつながりがあることを示すものである。『霊操」の最も新しい邦訳者である川中仁によれば、ヨハネ福音書と『霊操』は、「イエス・キリストの形姿を媒介とする神と読者との間の間主観的コミュニケーションの場」を開くという共通の構造があるという(「ヨハネ福音書とイグナチオ・デ・ロヨラの霊操」ー上智大学キリスト教文化研究所篇『さまざまに読むヨハネ福音書』所収、2011)。

また、臨済宗の室内の根本修行を通過(大事了畢)して参禅指導者の資格を得たイエズス会の門脇佳吉神父は、禅の接心の初めから終わりまでを貫く根本原理を「大死一番絶後に蘇る」というダイナミックな体験とし、『霊操』の第一週から第四集までを貫く根本原理を、「一粒の麦がもし地に落ちて死せざれば、ひとつにとどまる。もし死すれば多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12-14)という「死と復活の」の経験としている。(岩波文庫の『霊操』門脇佳吉訳・解説参照)

 単なる神秘的観想にとどまるのではなく、さらに一歩進んで、さまざまな社会的な奉仕活動に積極的に参加するイエズス会の精神ー「愛の利他行」ーをささえるものが『霊操』であり、その冒頭に置かれた「キリストの魂」の祈りであろう。

Anima christi sanctifica me ( Chant Catholique )
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詩編65[66]に聴く:主の公現後第二主日の入祭唱 “Omnis terra adóret te, Deus”のグレゴリオ聖歌から

2025-01-30 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

詩編65[66]に聴く:主の公現後第二主日の入祭唱 “Omnis terra adóret te, Deus”のグレゴリオ聖歌から

まず公現後第二主日で歌われるグレゴリオ聖歌の入祭唱“Omnis terra adóret te, Deus”を聴こう。

INTROIT • 2nd Sunday after Epiphany (“Omnis terra adóret te, Deus”)

Vulgata Text:
Omnis terra adoret te, et psallat tibi; psalmum dicat nomini tuo. Jubilate Deo, omnis terra; psalmum dicite nomini ejus; date gloriam laudi ejus.
English Text used by Orthodox Church in America: 
Let all the earth worship Thee, and chant unto Thee; let them chant unto Thy name. Shout with Jubilation unto the Lord all the earth; chant ye unto His name, give glory in praise of Him.

詩編[66]は、もともとは、民族としてのイスラエルの紅海における救い(6節)、捕囚からの救い(12-c節)を想起する「感謝の歌 מִזְמ֑וֹר שִׁ֣יר(šîr miz·mō·wr;)」であった。フランシスコ会聖書研究所訳に従うと、第1節から4節までは

1 すべての地よ、神に歓呼せよ 2 み名の栄えを ほめ歌い、はえある賛美を献げよ。3 「神よ、あなたのわざは恐るべきもの。敵はあなたの偉大な力の前に屈する。4すべての地はあなたを拝み、ほめ歌い み名をたたえて歌う」。

となっている。典礼では、順序が少し変わって、4節が歌われた後で、1-2節が歌われている。そして大切なことは、典礼で歌われていなくとも、この詩を初代のキリスト者が読むときにどのように解釈したかを知るために、16-19節を引用しよう。

16 いざ聞け、すべて神をおそれる者よ、神がわたしに何をされたかを語ろう。 17 わたしは口をもって神に呼び求め、舌をもって神をあがめた。18 わたしの心に よこしまがあったなら、主は聞き入れられなかったであろう。 18 まことに神は聞き入れて、わたしの祈りの声を心にとめられた。

ここでは、詩編記者は、詩の前半部分のように、イスラエル民族としての「我々」ではなく、一人称単数の「わたし」として、個人の救済を語っていることに注意したい。旧約の時代には、巡礼者の集まる民族的な祭儀ではまず団体的な感謝が行われ、次に個人的な感謝の奉献が行われたらしい。

新約の時代では、この詩編は、「キリストを信じる者の復活を喜ぶ」詩として歌われるようになった。それは、ギリシャ語訳の古い写本と、Vulgata訳では、この詩の表題が、ᾠδὴ ψαλμοῦ ἀναστάσεως Canticum psalmi resurrectionis (復活の頌栄)となっていることから知られるのである。

アウグスチヌスは『詩編注解」のなかで、この詩編65のキリスト者にとっての重要性を次のように説明している。

この詩編は表題として「終わりに、復活の頌栄」と書かれている。詩編が朗読されるとき、「終わりに」と言う言葉をあなたたちが聞くなら、「キリストにおいて」と理解しなさい。使徒は「というのもキリストは律法の終わり、信じる者にとって義となるものだからである(ロマ書10-4)」と述べている。だから、ここで復活がいかに語られ、誰の復活が語られているのか、主御自身が与え、啓示されることを嘉しとされる限りにおいて、聞きなさい。キリスト者の復活がわたしたちの頭(かしら)においてすでに成し遂げられたこと、また肢体においては将来起こることを私たちは知っている。教会の頭はキリストであり、キリストの肢体は教会である。頭において先行したことが、身体において続いて生じるのである。これはわたしたちの希望である。このことのゆえに、わたしたちは信じ、このことのゆえに、この世のかほどの悪意のなかで、忍耐し、堅忍するのである。希望が事柄として現実となる前は、希望がわたしたちを慰める。事柄が現実となるのは、わたしたちも復活し、天的な住まいへと変えられ、天使と等しき者にされる時である。真理が約束するのでなければ、誰が敢えてこれを希望するだろうか。

「終わりにin finem」とラテン語訳されたヘブライ語לַ֭מְנַצֵּחַ は、「(聖歌隊の)指揮者に」と訳されるのが普通であるが、七〇人ギリシャ語訳 εἰς τὸ τέλος に由来する in finem をアウグスチヌスは、単なる音楽上の指示などではなく、文字通り「終わりに(むけて)」と読み、終末における復活の希望に生きるキリスト者の希望を表現するものとしてこの詩篇を読んでいることが分かるのである。アウグスチヌスは、次に、マタイ傳22:23-30を引用し、復活を否定するサドカイ派に対するイエスの応答を引用し、死者の復活の希望をもっていたユダヤ人を励ますと共に、死者の復活が、キリストを信じる異邦人にも約束されていることを強調し、「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでである」(ロマ書11-25)というパウロの言葉を引用している。

ーーーーーーーーーEnglish translation---------------

Let's listen to the Introit for the 2nd Sunday after the Epiphany, ‘Omnis terra adóret te, Deus’, from the Gregorian chant.

Vulgata Text:
Omnis terra adoret te, et psallat tibi; psalmum dicat nomini tuo. Jubilate Deo, omnis terra; psalmum dicite nomini ejus; date gloriam laudi ejus.
English Text used by Orthodox Church in America:
Let all the earth worship Thee, and chant unto Thee; let them chant unto Thy name. Shout with Jubilation unto the Lord all the earth; chant ye unto His name, give glory in praise of Him.

Psalm 66 was originally a ‘song of thanksgiving’ (מִזְמ֑וֹר שִׁ֣יר, šîr, miz·mō·wr;) recalling Israel's salvation at the Red Sea (v. 6) and deliverance from captivity (vv. 12-c). Following the translation of the Franciscan Institute of Biblical Studies, verses 1-4

1. All the earth, sing to God with joy! 2. Sing to God with praise, and give him glorious praise. 3. ‘God's deeds are awesome. The enemy is defeated before his great power. 4. All the earth worships and praises him, and sings his name.’

In the liturgy, the order is slightly different, and verses 1 and 2 are sung after verse 4. And, importantly, even if it is not sung in the liturgy, let us quote verses 16-19 to see how the early Christians interpreted this poem when they read it.

16 Listen, all you who fear God, and I will tell you what he has done for me. 17 I called to God with my mouth and praised him with my tongue. 18 If my heart was wicked, the Lord would not have listened. 18 Surely God has listened and heard my prayer.

Here, the psalmist is speaking of personal salvation, using the first person singular ‘I’ rather than the ‘we’ of the first half of the psalm. In Old Testament times, it seems that at national festivals where pilgrims gathered, group thanksgiving was offered first, followed by individual thanksgiving.

In the New Testament era, this psalm came to be sung as a psalm of ‘rejoicing in the resurrection of those who believe in Christ’. This is known from the fact that in the Greek translation of the Old Testament and in the Vulgate, the title of this psalm is ᾠδὴ ψαλμοῦ ἀναστάσεως, Canticum psalmi resurrectionis (Hymn of the Resurrection).

In his ‘Commentary on the Psalms’, Augustine explains the importance of this psalm 65 for Christians as follows

This psalm is entitled ‘For the end, a resurrection hymn’. When you hear the words ‘for the end’ when the psalm is read, understand them to mean ‘in Christ’. The Apostle says, ‘For Christ is the end of the law and the righteousness of those who believe (Romans 10-4)’. So listen to what is said here about the resurrection and whose resurrection is being talked about, as far as the Lord himself is pleased to give and reveal. We know that the resurrection of the Christians has already been accomplished in our heads, and that in the members it will take place in the future. The head of the church is Christ, and the members of Christ are the church. What has preceded in the head will continue to occur in the body. This is our hope. Because of this, we believe, and because of this, we persevere and endure in the midst of the world's evil. Before hope becomes a reality, it comforts us. The reality will come when we too are resurrected, transformed into heavenly dwellings, and made equal to the angels. Who would dare hope for this if truth did not promise it?

The Hebrew word יִזְקַנְתִי, which is translated in Latin as ‘in finem’, is usually translated as ‘(choir) conductor’, but Augustine, who derived the word ‘in finem’ from the Septuagint Greek translation εἰς τὸ τέλος, read it literally as ‘towards the end’, and not as a mere musical instruction, and we can see that he read this psalm as expressing the hope of Christians living in the hope of the resurrection at the end of time . We can see that Augustine reads this psalm as expressing the hope of Christians living in the hope of the resurrection at the end of time. Augustine then quotes Matthew 22:23-30, Jesus' response to the Sadducees who denied the resurrection, and emphasises that the resurrection of the dead is also promised to the Gentiles who believe in Christ, while encouraging the Jews who had the hope of the resurrection of the dead, and quoting Paul's words that “it was because of the hardness of some of the Israelites that the whole Gentiles reached salvation” (Romans 11-25).

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ダニエル書の「アザルヤと三人の若者の賛歌」

2025-01-24 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

聖書と典礼の研究:ダニエル書の「アザルヤと三人の若者の歌」

聖務日課の先唱、「主よ、私の口を開いて下さい」という祈りの言葉の背景には、旧約聖書によってキリスト者に伝えられたどのような状況が想定されていたのだろうか? 祈りも我々の身勝手な欲求からするものではなく、神の先導による受動から始まり、神の賛美に終わるという教えがそこにあると思われるが、それだけであろうか?

この問いに対するひとつの答えは、聖ベネディクトに由来する荘厳朝課で歌われる「アザルヤと三人の若者の賛歌」(ダニエル書3:24-90)にある。

 この賛歌は、七〇人ギリシャ語訳やVulgataラテン語訳の旧約聖書に含まれる「ダニエル書」(3:24-90)にあり、カトリック教会と東方正教会の典礼の歴史の中では非常に尊重された賛歌である。

「アザルヤと三人の若者の賛歌」では、異教徒の残忍な王ネブカドネザルによって燃えさかる炉に投げ込まれたアザルヤが、

今や、私たちは口を開くことができません。恥と屈辱が、あなたの僕ら、あなたを礼拝する者たちに降りかかりました

と「火の中で」語る。彼は、イスラエルの民の不信を痛悔したあとで、「罪の故に異教徒の王の手にかかり、今日、全地で賤しい者となりはてた民が、<打ち砕かれた魂とへりくだる心によって>神に受け入れられること」を祈るのである。

 アザルヤの祈りに続いて、ダニエル書は、主によって奇跡的に救済されたことを感謝する「三人の若者の詠頌(Benedictiones)」を記録しているが、それは、この世界のすべての被造物に呼びかける賛歌となっている。

 Benedicite omnia opera Domini, Domino:

Laudate et superexaltate eum in saecula・・・

    主の造られたすべてのものよ、主を賛美せよ

 世々に主をほめ頌え、崇めよ・・・・

カトリック教会でも東方教会でも典礼で重視してきたこの「三人の若者の詠頌」は、ユダヤ教のマソラ本に従うプロテスタント教会の旧約聖書には欠落しているので、その内容を更に詳しく確認しておきたい。それは、詩編の最後におかれた詩編148-150の「ラウダ(宇宙賛歌)」や、後で論じるアッシジのフランシスコの「太陽の歌」の賛歌の背景にあるものを理解する上で必要だからである。

「三人の若者の詠頌」は、ありとあらゆる被造物―天、天使、天の上の水、万軍、太陽と月、天、星、雨と露、風、火と熱、寒暖、露と霜、夜と昼、光と闇、氷と寒さ、霰と雪、稲妻と雲、大地、山と丘、地にはえるすべてのもの、海と川、泉、海の巨大な生き物と水中に動くすべてのもの、空のすべての鳥、地のすべての獣と家畜、人の子ら、イスラエル、祭司たち、僕たち、義人たちの心と魂、聖なる心の謙虚なものーに呼びかけ、Benedicite (賛美せよ)とLaudate (ほめ頌えよ)の交唱のなかで祈り続けた後で、

主が私たちを陰府(よみ)から救い、死の手から救い出して下さった。また燃える炎の炉から解放し、火の只中から解放して下さった

と救済の奇跡を伝え、

Laudate et confitemini ei : quia in omnia saecula misericordia eius

(ほめ頌え、感謝せよ、主の憐れみは永遠)と感謝の言葉でこの詠頌を終えている。

 

Benedicite (Latin chant, with translation)

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詩編とグレゴリオ聖歌:(Liturgia Horarum- 時課の典礼-から)

2025-01-23 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
詩編とグレゴリオ聖歌:(Liturgia Horarum- 時課の典礼-から)
 
Dómine, lábia mea apéries.
℟. Et os meum annuntiábit laudem tuam.
Deus in adiutórium meum inténde.
℟. Dómine, ad adiuvándum me festína.
Glória Patri, et Fílio, * et Spirítui Sancto.
Sicut erat in princípio, et nunc, et semper, * et in sǽcula sæculórum. Amen.
Allelúia.
 
聖ベネディクトに由来するカトリック典礼の朝の祈りは、
Domine, labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam
(主よ、私の唇を開いてください。そうしたなら、あなたの賛美を唱えましょう)という先唱から始まる。
これは、詩編50(新共同訳では詩編51)のダビデ王の痛悔の後に続く讃美の言葉(17節)である。
 
夕の祈りは
Deus in adiutórium meum inténde. ℟. Dómine, ad adiuvándum me festína.
(神よ、私を救いに来て下さい、主よ、急いで助けに来て下さい)という先唱から始める。
これは詩編69(新教同訳では詩編70)の「ダビデの歌」冒頭である。
 
 どのような深刻な嘆きや悩み、病めるものの苦しみが歌われていても、ヘブライの詩編は、基本的に「賛美の詩編」であるという性格を持っている。そしてキリスト教徒が詩篇を歌うときには、「ダビデの歌」のうちに含まれていた旧約の預言が主キリストによって成就したことを讃えるために、三位一体の神への頌栄が歌われる。

 

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コルトナ賛歌ー聖フランシスコの衣鉢を継ぐ修道士たちが作曲し、民衆と共にイタリアのお国言葉で歌った13世紀のクリスマス賛歌

2024-12-25 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

Gloria 'n cielo e pace 'n terra "Laudario di Cortona, Italian anonymous, 13th century"

コルトナ賛歌

聖フランシスコの衣鉢を継ぐ修道士たちが作曲し、民衆と共にイタリアのお国言葉で歌った13世紀のクリスマス賛歌です。
 
Gloria 'n cielo e pace 'n terra   栄光は天に、平和は地にあれ
nat'è 'l nostro salvatore!    私たちの救い主がお生まれになった
Nat'è Cristo glorioso,     お生まれになったのは栄光のキリスト
l'alto Dio maravellioso:     気高くも驚くべき神:
fact'è hom desideroso    人となることを望まれた
lo benigno creatore!      慈愛溢れる創造主!
De la vergena sovrana,     至高の乙女から、
lucente stella diana,      輝く明けの星が、
de li erranti tramontana,    迷えるものを導き、
puer nato de la fiore.      嬰児が花から生まれました。
Pace 'n terra sia cantata,    平和が地にあれと歌おう
gloria 'n ciel desiderata;     栄光は天にあれと望もう
la donçella consecrata     聖なる少女が
parturit'à 'l Salvatore!     救い主を生まれたのです!
Nel presepe era beato     飼馬桶に祝福されたかたが
quei ke in celo è contemplato,  天において頌えられ、
dai santi desiderato      諸聖人によって望まれた
reguardando el suo splendore. その輝きをみながら。
Parturito l'à cum canto,    歌と共にお生まれになり
pieno de lo Spiritu santo:   聖霊に満ちています
de li bracia li fe' manto    十字の横木をマントで 
cum grandissimo fervore.   大いなる情熱を以て包む。
Poi la madre gloriosa,     栄光の母は、
stella clara e luminosa,    光り輝く明星、
l'alto sol, desiderosa,     いと高きものを望み
lactava cum gran dolçore.   優しく乳を与え給う
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詩編を祈る-詩編は聖書に於ける祈りのシンフォニー

2024-06-20 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

詩編を祈る-詩編は聖書に於ける祈りのシンフォニー

 

教皇フランシスコは、6月19日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
 この日、教皇は「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスで、

「聖霊は花嫁に祈ることを教える。詩編、聖書における祈りのシンフォニー」をテーマに話された。
 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

**********
 来たる2025年の聖年の準備において、わたしは2024年を「大きな祈りのシンフォニー」とするように招いた。今日のカテケーシスを通し、教会がすでにもっている祈りの交響曲を思い出そう。聖霊によって編まれたこのシンフォニー、それは「詩編」の書である。
 それぞれの交響曲には様々な「動き」があるように、詩編には様々な種類の祈りがある。それらは、個人の、あるいは民の合唱の形をとった、賛美、感謝、嘆願、嘆き、語り、叡智に満ちた考察などである。
 詩編は新約聖書において特別な位置を占めている。実際、新約聖書と詩編を一緒に掲載したものがかつてあり、今も存在する。全詩編が、また各詩編の全体が、キリスト者によって繰り返し唱えられたわけではない。従って現代の人々にはなおさらである。今日の人々は、ある歴史的状況やある種の宗教的メンタリティーを、もう自分たちのものではないと考えている。しかし、それは彼らが詩編からインスピレーションを受けていないことを意味しない。古い掟の多くの部分のように、啓示のある期間・段階において、人々は詩編と結ばれていると言える。
 わたしたちに最も受け入れられている詩編は、かつてイエスや、マリア、使徒たち、またすべての時代のキリスト者たちが祈っていたものである。わたしたちがこれらの詩編を唱えるとき、神は諸聖人の交わりという偉大な「オーケストラ」によってそれを聴かれる。「ヘブライ人への手紙」によれば、イエスは「御覧ください。わたしは来ました[…]神よ、御心を行うために」という詩編の一節を胸に世に来られ(参照 ヘブライ10,7、詩編40,9)、「ルカ福音書」によれば、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という詩編の言葉と共にこの世を去られた(参照 ルカ23,46、詩編31,6)。
 新約聖書において詩編が使われたことに、教父たちや全教会も倣った。それによって、詩編はミサと教会の祈りにおいて定着した要素となった。
 しかし、わたしたちは過去の遺産だけで生きてはいけない。詩編を「わたしたちの」祈りとする必要がある。ある意味、詩編は、それを祈りながら自分のものとし、わたしたち自身が「詩編作者」となるために書かれたといえる。
 もし、自分の心に語りかける詩編が、あるいはその一節があるならば、それを一日の中で繰り返し、祈るのは素晴らしいことである。詩編は「オールシーズン」の祈りである。あらゆる気持ちや必要が、詩編の言葉を祈りに変える。他の祈りと異なり、詩編は繰り返すことで効力を失わず、むしろそれを強める。なぜなら、それは神の霊から来るものであり、信仰をもって読むたびに神に「刺激を与える」ものだからである。
 わたしたちが良心の呵責や罪に苦しめられているならば、ダビデと共にこう繰り返そう。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐みをもって」(詩編51,3)。また、わたしたちが神との強い絆を表したいときは、こう言おう。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」(詩編63,2)。そして、恐れや不安に襲われたときは、この素晴らしい言葉がわたしたちを救いに来てくれる。「主は羊飼い、[…]死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23,1.4)。
 詩編は、わたしたちの祈りが、「わたしにください、わたしたちにください」という単なる要求の繰り返しにならないように助けてくれる。「日ごとの糧」を願う前に、「み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と言う「主の祈り」から学ぼう。詩編は、賛美、祝福、感謝の祈りといったように、自分だけを中心にすることのない祈りに心を開かせてくれる。そして、賛歌の中に被造物を関わらせることで、わたしたちに全被造物の声を代弁させてくれる。
 聖霊は、花嫁である教会に、神なる花婿に祈るための言葉を贈ってくださった。さらに、聖霊は、それを今日の教会に響かせるように、また、聖年を準備するこの年を祈りのシンフォニーとするように助けてくださる。

Pope at Audience: The Psalms, 'the prayer of Jesus,' are for all seasons
During his Wednesday General Audience, Pope Francis encourages the faithful to engage in a 'symphony of prayer' by praying the Psalms, as Jesus did.

By Deborah Castellano Lubov
"It is necessary to make the Psalms our prayer, making them ours and praying with them," urged Pope Francis during his Wednesday General Audience in the Vatican.
As the Holy Father continued his catechesis series on the Holy Spirit, this week he reflected in a special way on the Psalms.
The Pope had begun by recalling that in preparation for the 2025 Jubilee, he had proclaimed 2024 a Year of Prayer.

Symphony of prayer
"With today’s catechesis," he therefore explained, "I would like to recall that the Church already possesses a symphony of prayer, whose composer is the Holy Spirit, and it is the Book of Psalms."
The Book of Psalms, like any symphony, he observed, "contains various “movements,” that is, various genres of prayer: praise, thanksgiving, supplication, lamentation, narration, sapiential reflection, and others, both in the personal form and in the choral form of the whole people".
These, he said, "are the songs that the Spirit Himself has placed on the Bride’s lips."
All the Books of the Bible, the Pope reiterated, are inspired by the Holy Spirit, but the Book of Psalms, he added, is especially "full of poetic inspiration" and have had a special place in the New Testament. 
"What most commends the Psalms to our attention is that they were the prayer of Jesus, Mary, the Apostles and all the Christian generations that have preceded us."
When we recite Psalms
When we recite them, the Holy Father explained, "God listens to them with that grandiose “orchestration” that is the community of saints."
He recalled that Jesus, according to the Letter to the Hebrews, entered into the world with a verse from a Psalm in His heart: 'Lo, I have come to do thy will, O God' (cf. Heb 10:7; Ps 40:9), and He left the world, according to the Gospel of Luke, with another verse on His lips: 'Father, into thy hands I commit my spirit' (Lk 23:46, cf. Ps 31:6).
The use of psalms in the New Testament, the Pope added, is certainly followed by that of the Fathers and the entire Church, but has an important role in our world today.
"We cannot only live on the legacy of the past," he argued, saying, "it is necessary to make the Psalms our prayer. It was written that, in a certain sense, we must ourselves become the “scribes” of the Psalms, making them ours and praying with them."
For all seasons
When Psalms, or verses, "speak to our heart," he said, "it is good to repeat them and pray them during the day."
Since they are prayers “for all seasons,” he said, "there is no state of mind or need that does not find in them the best words to be transformed into prayer." Unlike other prayers, the Pope stated, they do not lose their effectiveness by being repeated, but, "on the contrary, they increase it."
This is so, he said, because "they are inspired by God and 'breathe' God, every time they are read with faith."
Always a Psalm to accompany us
The Pope insisted that if we feel oppressed or fearful, or loving and joyful, there is a Psalm that can help accompany us, and enrich our prayer by not reducing it merely to requests.
They help us, he said, open ourselves to a prayer that is less focused on ourselves, and rather on praise, blessing, and thanksgiving.
Pope Francis concluded by praying that the Holy Spirit "make this year of preparation for the Jubilee a symphony of prayer."

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ヨハネパウロ二世によるペテロとパウロの祝祭ミサーモーツアルト戴冠ミサ曲(カラヤン指揮)

2023-06-29 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
1985年6月29日(使徒聖ペトロ・使徒聖パウロの祝日)にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂で教皇ヨハネ・パウロ二世によって挙行された荘厳ミサの記録が、CDおよびYoutubeで視聴可能です。
ミサの間に演奏されたのは、カラヤン指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウイーン楽友協会合唱団による「モーツアルトのミサ曲ハ長調K.317(戴冠ミサ)」でした。この記録は、日本でもCDを購入ことが出来ますが、Youtube版もCDもどちらも完全収録ではありません。
CD版では、ミサの奉献文が省略されていますし、Youtube版は(FULL)と書いてありますが、使徒書の朗読や共同祈願など多くの箇所が省略されています。またどちらも教皇の説教(ホミリア)の原文が掲載されていません。幸い、この日のヨハネ・パウロ二世の説教は、https://www.vatican.va/.../hf_jp-ii_hom_19850629_ss...
で読むことが可能です。モーツアルトのミサ曲を演奏会場ではなく実際のミサ曲の中で聴くという貴重な記録であるだけに、完全収録でないことが惜しまれます。Youtube版には、欠落している箇所のラテン語歌詞と式文およびその英訳を補って、私が(complementaという名で)コメント欄に投稿しておきました。
サン・ピエトロ大聖堂を観光客としてではなく、カトリックの信徒として巡礼することの意味がこの説教を読むと良くわかります。また、モールアルトの「戴冠式ミサ」は、演奏会場で聴くだけでもその優れた音楽性によって感銘深いものですが、聖堂で挙行される祝祭ミサの場で聴くと、その宗教性をも深く感じることが出来るでしょう。
この日のミサの式次第は次のようになっています。
(Youtube版の時間表記をつかう)

開祭の儀 0:00
 使徒言行録12:11 Ritus Initiales Antiphona ad introitum (ACT 12,11)
挨拶および回心の祈り2:00 Formula salutationis et actus paenitentialis
キリエ(あわれみの賛歌)kyrie (W.A.Mozart) 3:13
グローリア(栄光の賛歌)Gloria (W.A.Mozart) 6:43
集会祈願 10:57 Oratio
 
言葉の典礼 Liturgia Verbi
第一朗読 使徒言行録12:1-11 Lectio prima (Act 12,1-11) (ビデオでは省略)
答唱詩篇Responsum graduale(D.Bartolucci) (Ps 34[33],5b.2-3) (ビデオでは省略)
第二朗読 テモテへの第二の手紙 Lectio secunda (2 Tim 4,6-8.17-18) (ビデオでは省略)
アレルヤ唱 システィナ礼拝堂合唱団 Alleluia (Cappella Sistin) (ビデオでは省略)
福音朗読(マタイ16:13-19) 11:55 Evangelium (Mt 16,13-19)
 
ヨハネパウロ二世の説教 (ビデオでは省略)
感謝の典礼  Liturgia Eucharistica
共同祈願 Oratio fidelium (ビデオでは省略)
奉納の歌23:09 Cantus ad offertorium (D.Bartolucci)
Schola
Mundi Magister, atque caeli Janitor, Romae parentes, arbitrique gentium, Per ensis ille, hic per crucis victor necem, Vitae senatum laureati possident.
24:05 Cappella Sistina
O Roma felix, quae duorum Principum Es consecrata glorioso sanguine: Horum cruore purpurata ceteras Excellis orbis una pulchritudines.
Schola Mundi Magister....
Capella Sistina: Amen
祈りへの招きと奉納礼願
et oratio super oblata (ビデオでは省略)
序唱 25:48 Predation
サンクトス(感謝の賛歌)Sanctus (W.A.Mozart) 29:18
ベネディクトス     Benedictus (W.A.Mozart) 31:26
奉献文(CD解説でも欠落しているのでラテン語原文を補う)
34:46 Prex eucharistica
Summus Pontifex
Vere Sanctus es, Domine, et merito te laudat omnis a te condita creatura, quia per Filium tuum, Dominum nostrum Iesum Christum, Spiritus Sancti operante virtute, vivificas et sanctificas universa, et populum tibi congregare non desinis, ut a solis ortu usque ad occasum oblatio munda offeratur nomini tuo. Supplices ergo te, Domine, deprecamur, ut haec munera, quae tibi sacranda detulimus, eodem Spiritu sanctificare digneris, ut Corpus et Sanguis fiant Filii tui Domini nostri Iesu Christi, cuius mandato haec mysteria celebramus. Ipse enim in qua nocte tradebatur accepit panem et tibi gratias agens benedixit, fregit, deditque discipulis suis, dicens:
"ACCIPITE ET MANDUCATE EX HOC OMNES: HOC EST ENIM CORPUS MEUM, QUOD PRO VOBIS TRADETUR."
Simili modo, postquam cenatum est, accipiens calicem, et tibi gratias agens benedixit, deditque discipulis suis, dicens:
"ACCIPITE ET BIBITE EX EO OMNES, HIC EST ENIM CALIX SANGUINIS MEI NOVI ET AETERNI TESTAMENTI, QUI PRO VIBIS ET PRO MULTIS EFFUNDETUR IN REMISSIONEM PECCATORIUM. HOC FACITE IN MEAM COMMEMORATIONEM."
Mysterium fidei
R: Mortem tuam annuntiamus, Domine, et tuam resurrectionem confitemur, donec venias.
交わりの儀 Ritus Communionis
主の祈り 38:12 Oratio dominica
平和の挨拶 Ritius pacis (ビデオでは省略)
アニュス・デイ(平和の賛歌)Agnus Dei (W.A.Mozart) 40:15
47:41 Invitatio ad convivium
 
拝領の歌 Cantus ad communionem:
アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618 Ave verum (W.A.Mozart) 48:05
拝領祈願51:00 Oratio post communionem
 
閉祭 51:50 Ritus Conclusionis
 
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茶道とキリスト教ー文化内開花と宇宙的典礼

2022-01-06 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 キリスト教文化研究所が昨年主催した「茶道とキリスト教」の連続講演会とシンポジウムで同席した陶芸家の椿嚴三さんから「バリニャーノの紋章」の入った創作茶碗を頂戴しました。
 ルイス・フロイス、通辞ロドリゲス等、日本語に精通した宣教師たちを重用し、ヨーロッパ人に日本文化を、日本人にヨーロッパ文化を学ばせ、「普遍のキリスト教」を日本固有の文化に根付かせることに努力したバリニャーノの伝道精神は、後世の「文化内開花」の理念を先取りするものであったと言えるでしょう。
 日常生活の中に「禅」の精神を生かす茶湯の作法とキリスト教の典礼との相互的交流は、鎖国によって中断したとはいえ、日本のキリスト教徒が創造的に継承できる現代的課題のひとつです。
 キリシタン時代の茶器を骨董的に賞翫するのではなく、現代の陶芸作家として茶道の中に宇宙的な典礼の精神を織り込んでいる椿さんからの有難い贈り物でした。
 
          一碗の底にイエスの息吹く春
 
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「旅ゆく人の心ーペトロ岐部の十字架の道行」ーなぜ彼はエルサレムに巡礼したか、またなぜ日本に戻ったのかー

2021-07-01 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
私がペトロ岐部カスイのことを知ったのは、1982年に刊行された遠藤周作の『銃と十字架』を通じてであった。遠藤といえば、英雄的な殉教者ではなく、踏み絵を踏んだ「隠れキリシタン」の苦しみ、「神の沈黙」ゆえに転ばざるを得なかったヨーロッパ人司祭など、「弱き人」を主題として小説を書き続けた作家である。その遠藤が、ペテロ岐部を小説の主人公に選んだ動機はなんだったのだろうか。彼は、西洋の植民地主義を背景としてもつキリスト教の宣教活動の矛盾について次のように指摘している。
 
 「基督教国の侵略と植民地政策、そして宣教師の日本人蔑視の感情。有馬神学校の卒業生たちはイエスの教えを学びながら、その教えとはあまりに矛盾したこの西洋教会の現実と直面せねばならなかった。そして棄教した卒業生はこの矛盾を克服できなかったから基督教から離れたのである。」
 「ペドロ岐部の波瀾と冒険にみちた生涯にも、この西洋を学んだ最初の若い日本人の苦悩がすべて含まれている。有馬神学校で彼が触れた西洋の基督教はこの男の魂をひきつけたが、その西洋の欠陥が同時に彼を苦しめつづけた。彼は誰にもたよらず、ほとんど独りでこの矛盾を解こうとして半生を費した。その殉教は彼の結論でもあった。彼は西欧の基督教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ」
 
 「ペトロ岐部はイエスの教えと日本人とのために死んだ」という遠藤の言葉に私は強く動かされた。まことのキリスト教を求めてエルサレムまで巡礼し、そして迫害されていた日本の隠れキリシタンために日本に戻って殉教したペトロ岐部の実像を知りたいと思ったからである。
 
  その後、チースリック神父や五野井隆史などキリシタン史の専門家の研究や、詩人の松永伍一の評伝「ペトロ岐部」(中公新書1984)、加賀乙彦の歴史小説『殉教者』(講談社2016)も興味深く読んだ。特に加賀乙彦は、敗戦時の陸軍幼年学校の学徒を描いた「帰らざる夏」や、自伝的長編「永遠の都」の作者でもあり、loyalty (至誠の心)を貫いた日本人とキリスト教の関係を描き続けた作家であると同時に、死刑囚や、不治の伝染病にかかった人々の心を描く多くの文芸作品の著者であったから、遠藤周作とは違った意味で、彼の歴史書小説は読み応えがあった。
  ペトロ岐部は、なぜエルサレムにわたったか、そして彼は殉教する危険を冒してまで、なぜ日本に戻ってきたのか?
  これは、さまざまな歴史的評伝や小説を読みながら、常に私の念頭を離れぬ問いである。
  私は、ザルツブルグで開催されたヨーロッパ学藝アカデミーの研究会で、
「旅ゆく人(homo viator)の精神ーペテロ岐部カスイの十字架の道行」という内容の講演をしたことがある。
 日本で「福者」としてローマ教会から顕彰されたとはいえ、ペトロ岐部の生涯は、ただ日本だけのものではなく、キリスト教の精神を理解する上で、ヨーロッパの人々にも知ってもらいたいと思ったからである。
 
  ペトロ岐部の往路(求法の旅)帰路(伝法の旅)を見ると、地球に架けられた大きなロザリオに見えた。このロザリオに沿って、かれは地上を旅しつつ、十字架の道行きをしたということ、それが私のペトロ岐部理解の出発点だった。
 まことのキリスト教に触れるために、エルサレムに巡礼する。当時の聖地はイスラム教徒に支配されていたために、ザビエルも果たせなかったエルサレム巡礼を、彼は、誰からの援助も受けずに単身で敢行した。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市は、そのままロザリオの数珠に見えたのである。
  カスイとは「活水」つまり「Aqua Vita(活ける水)」であり、イエスの十字架上の死と深い関わりがある名前であったと推定されている。
  それにしても岐部はどうして日本に戻ったのであろうか?
ここでどうしても思い出されるのは、使徒ペテロが、ローマで迫害されていたクリスチャンの元を離れようとしたときに、キリストが示現したという伝承である。「Quo vadis, Domine? 主よ、どこに行かれるのですか」というペテロの問いに対して、キリストは「ペトロ、あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかろう」と言われた。この示現に接して、使徒ペテロはローマに戻って殉教したという伝承である。
  岐部の洗礼名はペテロであり、没落した武士であった両親のつけた洗礼名であった。くしくも、岐部は使徒ペテロと同じ道を辿り、迫害されていた信徒のために日本に戻り殉教したのであった。
 
  万里を遠しとせず、命がけで求道/伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであったといえる。
 はるか遠くスペインから海を渡って日本にキリスト教を伝えたザビエルには「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」という祈りがある。
 
「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありません。ただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです」
 
 上で引用したザビエルの「純一なる愛の働き」という詩では、もはや自分が天国へゆくことへの期待も、永劫の罰を受けることへの恐怖も、何か報いを受けることを希望するがゆえに神を愛するのではない、とはっきりと歌っている。そういうことを望むのは、「純一なる愛の働き」ではなく、ただひたすらに十字架につけられたイエスを愛することのみが歌われている。これこそが、殉教したキリスト者の愛の働きではないだろうか。
 
「諸王のなかの王」なるキリストに対する忠誠を誓いつつ、他者のために十字架の道を行くキリストに倣う心を表現したこの詩は、ザビエルの騎士道精神を表現したものとも言えようが、中世から近世へと移行する転換期にあった日本の戦国時代の武将たちに伝えられたときには、彼らの主君に対する忠誠心、サムライの「士道」の精神にも直接訴えかけるものでもあった。
 
 ポルトガルやスペインのような大帝国の覇権主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めて単身で陸路を取りエルサレムに巡礼した岐部。さらにペテロの殉教の地であるローマに行ったのちに、再び海路をたどって、苦難の旅を続けたのちに日本の信徒のために帰国したペテロ。最後は江戸のキリシタン屋敷で殉教した彼の生き様こそ、初代のキリスト者の心そのものであり、使徒と同じく「十字架の行道」を実践した人であったと思う。
  江戸の切支丹屋敷で逆さ吊りの拷問を受け無惨な死を迎える前に、彼は、将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守から糾問されている。徳川幕府の最高権力者とそれに追従していた当代の第一級の知識人たちは、みすぼらしい姿で自分たちの前に現れた「禁制」のキリシタン司祭のことをどう思っていたのであろうか。
 
 ペトロ岐部カスイは長きにわたって「隠れたる日本人司祭」であった。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」では、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。
 
 彼が難民としてマカオに脱出した後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、潜伏を余儀なくされたキリスト者達を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、ドイツ人司祭フルベルト・チースリックの長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになったことであった。 
 
 先日、レンゾ神父様のZoom講演「ペトロ岐部神父叙階400年」をYoutubeで拝聴し感無量の思いがあった。チースリック神父はじめとする先人の多大な努力によって、再発見されたペトロ岐部カスイは、今も「活ける水」であり400年前の人とはとても思えなかったからである。
 
 
 
 
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列王記上の預言者エリシャの故事と高山右近

2021-06-25 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 細川家譜によると前田利家に従って小田原征討作戦に従軍した高山右近は蒲生氏郷と細川忠興に陣中で牛肉を振る舞ったとある。 このエピソードは日本人が牛肉を食するようになった歴史を語るときによく引用されるが、その時の高山右近の心の中まで立ちいって考察したものは見当たらない。 
 従来誰も指摘してこなかった事柄であるが、乱世の戦国時代の福音伝道者ともいうべき高山右近の心中を理解するために重要であると思うので、ここでひとつの旧約聖書の故事を指摘しておきたい。それはカトリックのミサで読まれる旧約列王記の記事である。
 列王記が当時のキリシタンに知られていたことは、たとえばキリシタンを迫害した(フランシスコ大友の)奥方が、列王記にならって「イザベル」とよばれていることからも推察できよう。
 列王記第一八章では、イスラエルの神ヤーウエを礼拝するか、それともアハブとその妻イザベルが信じるバールを礼拝するかという信仰の決断が問題とされており、第一九章では預言者エリヤが自分の後継者としてエリシャを指名した後で、エリシャが古い習慣を改めて、農耕牛を屠って友人と会食する故事が引用されている。  
 
旧約聖書列王記上19-21(現在のカトリックの弥撒典礼ではC年、年間第一三主日の旧約聖書朗読箇所)に次の記述がある。
 
「エリシャはエリアを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼はエリアに従い、彼に仕えた(新共同訳)」
 
 フランシスコ会聖書研究所の注解によれは、農耕用の家畜であった牛を調理して食することは、古い生活に終止符を打つことを意味する、とのことである。またヨハネ・パウロ2世編纂の英語版の主日典礼書では、「牛の装具」と邦訳された上記箇所のラテン語aratrumを鋤(plough) と英訳して、He used the plough for cooking the oxen (牛を調理するために鋤を用いた)としている。 
 もし高山右近が旧約聖書列王記の故事を念頭に置いて牛を調理したとすれば、それは文字通り「鋤焼き」をして蒲生氏郷と細川忠興に振る舞ったと理解してよいだろう。 
 
 秀吉のキリシタン迫害の一つの理由は、農耕用の牛を南蛮坊主が食するのは野蛮であるということであったが、高山右近の「鋤焼き」は、旧約列王記の故事に習って、古き習慣を改めさせるという意味があったであろう。
 
ミサ典礼で上記の列王記の故事と並行して読まれるのは、パウロのガラテヤの信徒への手紙であるが、そこには
 
「自由を得させるためにキリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷の軛に二度つながれてはなりません。」
 
とあり、古き習慣にとらわれた奴隷の身からキリストに従って自由の身となることが勧められている。高山右近の「鋤焼き饗応」のエピソードも従来理解されてきたような非キリスト教的な文脈とは違った意味で理解できるのではないだろうか。
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詩編に聴くー「聖書と典礼の研究」 聖グレゴリオの家での講演( 2021/2/18)から

2021-02-17 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

詩編に聴くー聖書と典礼の研究

田中裕

けふよりは詩編百五十 日に一編読みつつゆけば平和来なむか 

(南原繁歌集『形相』所収)

 75年前、無教会キリスト者の内村鑑三の平和主義から大きな影響を受けた南原繁の読んだこの短歌は、東京大空襲の戦禍のさなかに詠まれた歌ですが、それはまた、敗戦後の日本が、平和な国として再出発するには何をなすべきか、その理念と祈りを聖書の詩編にもとめたものでもありました。内村鑑三と南原繁の平和への願いを想起しつつ、これから、『詩編に聴く』というテーマで「聖書と典礼」の研究を続けようと思っています。

この研究は内村鑑三の『聖書の研究』を一つの手本としていますが、内村があまり問題としなかった「典礼(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教)のなかの聖書」という視点をあらたに付け加えました。内村はフィリピの信徒への手紙4:8 を引用した後で、諸宗教の伝統に敬意を表して次のように言っています。

「キリスト教徒は、すべての人や物事のうちに真理を探り出さずにはいられないのだから。他の宗教に欠点を見いだして喜ぶキリスト教の代表者達は実に哀れな人たちである。キリスト教徒というものは、仏教であれ、儒教であれ、道教であれ、何であれ、そこに良いものを見いだしたなら喜ぶはずだ。彼の目は光を見いだすことには鋭敏であるが、闇を見ることには消極的なのだから。このようにキリスト教は、その真価を発揮するときには、世界のうちに最良のものを発見する力となる」

(日本と世界の友へーThe Japan Christian Intelligencer 創刊の辞, 1926)

聖書と典礼の時間

詩編51-聖灰水曜日の懺悔と賛美
詩編118-ペテロの証しー受難の民の希望
詩編148-天と地の交響ーアッシジのフランシスのLaudato Siへ
詩編150-復活祭のハレルヤ唱ーキリストとともに復活した人間と宇宙の大詠唱
51→118→148→150  昨日→今日→明日
150→148→118→51  明日→今日→昨日
今日を中心として三位一体的な時間を生きること

詩編150に聴くー復活祭のアレルヤ唱

旧約聖書「詩篇」の最後に置かれた150番は、ヘブライ語のハレルヤで始まりますが、キリスト教の典礼では、この詩篇は復活祭の時に必ず歌われます。「宇宙の大栄唱」とも呼ばれるこの詩篇を、ヨッピヒ指揮、「聖グレゴリオの家」の合唱隊の聖歌で聴きましょう。

 

1 Laudate Dominum in sanctis ejus;                            聖所で 主を賛美しよう

laudate eum in firmamento virtutis ejus.                    大空の砦で 主を賛美しよう

2 Laudate eum in virtutibus ejus;                               力強き御業のゆえに 主を賛美しよう

laudate eum secundum multitudinem magnitudinis ejus. 大きな御力のゆえに 主を賛美しよう

3 Laudate eum in sono tubæ;                                     角笛を吹いて 主を賛美しよう

laudate eum in psalterio et cithara.                             琴と竪琴を奏でて 主を賛美しよう

4 Laudate eum in tympano et choro;                            太鼓に合わせて踊りながら 主を賛美しよう

laudate eum in chordis et organo.                                弦をかき鳴らし笛を吹いて 主を賛美しよう

5 Laudate eum in cymbalis benesonantibus;               シンバルを鳴らし 主を賛美しよう

laudate eum in cymbalis jubilationis.                           シンバルを響かせて 主を賛美しよう

6 Omnis spiritus laudet Dominum!                            霊に息吹かれたものが、こぞって主を賛美する!

 

 教父アウグスチヌスの詩編注解によると、第一節の 'in sanctis eius' 「主の聖なる場所」は、地上の「聖所」ではなく、「主キリストに倣って聖とされた人」を指します。エルサレムの第二神殿のように、どれほど豪壮な建造物といえども、人の手で作られたものは滅びを免れません。しかし、キリストという「聖なる場所」において生きる人は、主の死と復活にあずかり、全ての被造物と共に「ハレルヤ」を復活祭で歌うことができます。

 この讃歌は、天と地の全ての被造物とともに歌うので「宇宙讃歌」とも呼ばれます。第三節にあるように「角笛の音」が明瞭に響き渡ると、主を賛美する歌が交響唱和します。ここで登場する弦楽器、管楽器、打楽器は、地上の演奏に呼応して天上からも響きわたり、その交響は、朽ちるべき地上の肉体が、もはや朽ちることのない身体に換えられることを示し、詩編を唱える人を祝福している、というのがキリスト教の復活祭の典礼でこの詩篇が歌われる理由になっています。日本の『典礼聖歌』では、14番と15番が詩篇150からの抜粋です。

詩編148とアッシジのフランシスの祈り-ラウダート・シに寄せて

フランシス教皇の回覧書簡「ラウダート・シ(御身は頌えられよ)ー共に暮らす家を大切に」の冒頭で引用されたアッシジのフランシスの賛歌は、宗教と宗派の区別を越えて人々の宗教心に訴えかけてきた歌です。小鳥にむかってキリストの教えを説くフランシスの画像はインドでも日本でも人気があった。 彼が、囀る小鳥達に向かって「小さい姉妹達よ、もしあなたたちがおしゃべりしたいことが終わりましたら、今度は私の方が話を聞いて頂く時なのです」と話しかけると、小鳥たちは静かに説教に耳を傾けた、というエピソードも伝承されています。そこには、共に大地に住む生きとしいけるもののすべてを祝福する福音伝道者フランシスの精神が良く現れています。このような精神が、自然環境破壊の危機に直面した現代の我々にとっても必要であることは、ヨハネ・パウロ二世が、アッシジのフランシスを「環境保護の聖人」と頌えたことにも良く現れています。 

「御身は頌えられよ」という讃歌の前半部分が、旧約聖書詩編148を踏まえていることは良く指摘されています。天と地、太陽と月と星など、創造されたすべてのものを通して主を賛美する「ハレルヤ」詩編は、旧訳の民の典礼の祈りであり、フランシスコの時代にも、とくに、夜明けの頃の祈りとして歌われていたでしょう。現代のキリスト教会の典礼で読まれる新共同訳聖書では、次のように訳されている詩編です。

ハレルヤ。天において主を賛美しよう。

高い天で主を賛美しよう。

御使いらよ、こぞって主を賛美しよう。

主の万軍よ、こぞって主を賛美しよう。

日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美しよう。

天の天よ 天の上にある水よ主を賛美しよう。 主の御名を賛美しよう。

主は命じられ、すべてのものは創造された。

主はそれらを世々限りなく立て越ええない掟を与えられた。

地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ

御言葉を成し遂げる嵐よ 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ

野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ 地上の王よ、諸国の民よ

君主よ、地上の支配者よ 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。

主の御名を賛美しよう。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。 

主は御自分の民の角を高く上げてくださる。

それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。

主に近くある民、イスラエルの子らよ。

ハレルヤ。 

次にアッシジのフランシスの賛歌を「賛歌」を原語(イタリア語ウンブリア方言)と日本語訳(黒田正利)で引用します。

    

Altissimu, omnipotente bon Signore,          いとも高く、万能にして、恵み深き主よ

Tue so le laude, la gloria e l'honore et onne benedictione.   賛美、栄光、ほまれ、すべての恵みは主のものなれ       

Ad Te solo, Altissimo, se konfano,               いと高き主よ、こはみな主のものにして、

et nullu homo ène dignu te mentouare.          人はそのみ名を呼ぶにも足らず

Laudato si, mi Signore cum tucte le Tue creature,       ほむべきかな、主よ、主のつくりませる物みなと、

spetialmente messor lo frate Sole,             ことに昼を与へわれらを照り輝かす

lo qual è iorno, et allumini noi per lui.         はらから太陽と。

Et ellu è bellu e radiante cum grande splendore: 日は美しく眩しきまでに照り渡る、

de Te, Altissimo, porta significatione.         かれこそは主の御姿、ああ高きにいます主よ

Laudato si, mi Signore, per sora Luna e le stelle:   ほむべきかな、わが主よ、わがはらから月は星は、

in celu l'ài formate clarite et pretiose et belle.主はこれをみ空に作りたまひ、すみて貴く美はし

Laudato si, mi Signore, per frate Uento.        ほむべきかな、わが主よ、風は、

et per aere et nubilo et sereno et onne tempo, 大気は、雲は、曇りてはまた晴るる日和(ひより)は

per lo quale, a le Tue creature dài sustentamento.これによりて主はその造りまししものを育みたまふ

Laudato si, mi Signore, per sor'Acqua,         ほむべきかな、わが主よ、やさしきはらから水は

la quale è multo utile et humile et pretiosa et casta. いと役立ちて、低きにつき貴く清らなり

Laudato si, mi Signore, per frate Focu,         ほむべきかな、わが主よ、はらから火は

per lo quale ennallumini la nocte:           夜のくらきを照らし   

ed ello è bello et iucundo et robustoso et forte. 美はし、たのし、たけくつよし 

Laudato si, mi Signore, per sora nostra matre Terra,     ほむべきかな、わが主よ、はらから母なる大地は       

la quale ne sustenta et gouerna,            われらを育みわれらを治め、

et produce diuersi fructi con coloriti fior et herba. 木の実を結び、花を装ひ、草をはぐくむ 

Laudato si, mi Signore, per quelli ke perdonano per lo Tuo amore ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し

et sostengono infirmitate et tribulatione.     病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは

Beati quelli ke 'l sosterranno in pace,      めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに

ka da Te, Altissimo, sirano incoronati.   いと高き主よ、主の冠はかれにあらん

Laudato si mi Signore, per sora nostra Morte corporale,    ああほむべきかな わが主よ、はらから死は、

da la quale nullu homo uiuente pò skappare: 誰か死をのがれん いけるもの皆は。

guai a quelli ke morrano ne le peccata mortali; いたはしきかな罪の死に滅ぶ者は      

beati quelli ke trouarà ne le Tue sanctissime uoluntati, されどほむべきかな 主の聖意にすむ者は

ka la morte secunda no 'l farrà male.     第二の死の害ふことはあらじ

Laudate et benedicete mi Signore et rengratiate  主を頌めたたへ、主に感謝せよ

e seruiteli cum grande humilitate.        いとへりくだりて主に仕えよ  

 

 12世紀のイタリアの方言で書かれたこの「歌」の邦訳は、やや古めかしい印象を受けますが、もとの歌の醸し出す雰囲気を、可能な限り典雅な大和言葉で簡潔に再現しています。 しかし、この明るいイタリア語の響きで歌われた歌詞の終わりの四連の内容は、作者のフランシスがまさに重病で床につき、目もほとんど見えなくなった時期のものであったことを示しています。

詩編148は中世以来良く歌われていた賛歌でしたが、アッシジのフランシスのLaudato Si には、全被造物に創造主の賛歌を呼びかけているに留まりません。

 まず彼は、被造されたものたちを、すべて人格化して「兄弟姉妹」と呼びかけています。そして、「ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し、病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは」「めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに、いと高き主よ、主の冠はかれにあらん」というキリスト者の受難と忍耐の歌を付け加えています。

 伝承に拠れば、眼病で目の見えなくなったフランシスに手術のために灼熱した鉄の棒をあてる必要が生じたときに、彼は、十字を切って、「兄弟なる火よ、自分は汝を神の最も美しい被造物としてこよなく愛した。どうかあまり自分を痛めつけないで欲しい」と云ったという。そして、最後には最もおそるべき肉体の「死」にむかっても「はらから」と呼びかけています。 

詩編118に聴く-ペテロの証言と受難の民の希望

詩編118は、新約聖書のなかで繰り返し引用され、最初にイエスをキリスト(救世主)と宣言した信徒の心を如実に伝えてくれる詩となっています。

 まず、マタイ21-9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118-26)」が引照され、おなじくマタイ21-49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118-22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4-11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。その言葉の意味は、ペテロ書前書2-7の「人々からは見捨てられたキリストが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのだから、あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい」というペテロ自身の言葉に示されている。

 この詩にはまた「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、人間がわたしに何をなしえよう」「人間にたよらず、主をさけどころとしよう。君侯にたよらず、主をさけどころとしよう」のように、主にたいして一人称で語る「わたし」が、一切の地上の権威を恐れずに主に拠り頼む心意気も示されています。

「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の「自由なる奉仕活動」を見いだしたマルチン・ルターが、この詩編を愛唱したことはよく知られています。もっとも個人的にしてもっとも普遍的なキリスト信仰のありかたを旧約聖書の中で預言した詩編のひとつがこの詩であるいえるでしょう。

 

詩編118はカトリックの典礼聖歌87番で(抜粋して)歌われています。歌詞は次の通り。

答唱:きょうこそ神が造られた日 よろこび歌えこの日を共に

1 恵み深い主に感謝せよ そのあわれみは永遠   イスラエルよ叫べ 神のいつくしみはたえることがない。

2 神の右の手は高くあがり どの右の手は力を示す わたしは死なずわたしは生きる かみのわざを告げるために

3 家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと

  この歌詞の答唱(繰り返し歌われる箇所)の「きょうこそ神が造られた日」とは、復活の主日、あるいは復活祭の第二主日(白衣の主日)を指しています。

復活祭の時に受洗したひとが白衣を着けた故事にならって「白衣の主日」と呼ぶのですが、女性の場合は白いベールを付けるという習慣もここに由来するのでしょう。そのこころは、洗礼を受けた人は「新しい人として、キリストを着るものとなった」こと、「神の国の完成を待ち望みながらキリストに倣って歩む人」を力づけ祝福するためです。

旧約聖書の時代にこの詩編がどのように歌われたかはよく分かりませんが、ヘブライ語で朗唱された詩編がどんなものであったかをある程度窺わせる朗詠を紹介します。とくに、「ほむべきかな主の名によりて来る者」とか「家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと」という詩をヘブライ語の原語で聴くことができます。

 現代的な伴奏が付けられているにもかかわらず、受難と亡国の危機に抗して信仰を守り抜いたユダヤ教徒の心の歌が、現代に至るまで脈々と受け継がれていると感じました。

 詩編51に聴く-ダビデ王の懺悔/賛美と灰の水曜日の聖歌

詩編51(ダビデ王の懺悔/賛美)が、エルサレム第二神殿でどのように伴奏付きの合唱隊によって歌われていたのかはよく分かりませんが、現代のユダヤ教徒が、この詩に曲を付けてヘブライ語で朗詠する事例はたくさんあります。そのなかでも私が特に心動かされたのは、Christene Jackmanの作曲した「Choneni Elohim(主よ、我をあはれみたまへ)」である。歌詞はヘブライ語聖書の詩編51から抜粋されたものに、現代風な伴奏が付けられているが、ラテン語詩編のmiserere mei Deus にあたるChoneni Elohimのリフレインが非常に印象的であった。詩編は、ヘブライ語では「賛美」を意味するTehillim とよばれるので、どのような深刻な嘆きや悩み、病めるものの苦しみが歌われていても、また、時には教訓や処世の知恵を主題とする場合でも、基本的に「賛美の詩編」なのであり、単にユダヤ教徒だけのものでなく、キリスト教が、ユダヤ教から受け継いだ聖書の啓示を集約的に含むものであると同時に、あらゆる宗教と宗派の区別を越えて、全ての人の宗教心に直接に響く音楽であるといってよいでしょう。

講演「細川ガラシャの時代の典礼聖歌」のなかで、私はレオポルド一世作曲の詩編51の解説をしましたが、それは器楽による伴奏付きの典礼聖歌のなかで最もよくもとの詩の内容を良く捉えた曲であると思ったからです。悲嘆の底から、懺悔を通じて主の賛美へと大きく転換するヘブライ詩編のダイナミックな心の動きをどのように音楽で表現するか、レオポルド一世はその課題を一つの作品としてみごとに結実させている。たとえば、教会の朝の祈りで唱えられる「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん(domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam)」の詩句は、まさにそのような深き淵に沈んだ詩人の心底からの叫びが聞き届けられ、懺悔が賛美へと転ずる臨界点で歌われる詩でした。作曲者のレオポルド一世は、この一行の詩句を何度も繰り返しつつ様々な声部でうたわせるが、深き淵の底から天上に叫ぶコロラツーラ・ソプラノの表現は音楽的な美しさを越えて、聴く者の魂をゆさぶるような旋律です。

1 Miserere mei, Deus   1 神よ、あなたのいつくしみによって、
 Secundum magnam misericordiam tuam わたしをあわれみ、

Et secundum multitudinem miserationum tuarum あなたの豊かなあわれみによって、
2 Dele iniquitatem meam  わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

 Amplius lava me ab iniquitate mea  2 わたしの不義をことごとく洗い去り、

 Et a peccato meo munda me   わたしの罪からわたしを清めてください。

3 Quoniam iniquitatem meam ego cognosco3 わたしは自分のとがを知っています。
 Et peccatum meum contra me est semperわたしの罪はいつもわたしの前にあります。

4 Tibi soli peccavi  4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
 Et malum coram te feci あなたの前に悪い事を行いました。
 Ut iustificeris in sermonibus tuis それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
 Et vincas cum iudicaris あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

5 Ecce enim in iniquitatibus conceptus sum 5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。
 Et in peccatis concepit me mater mea わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

6 Ecce enim veritatem dilexisti incerta 6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。

Et occulta sapientiae tuae manifestasti mihi それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

7 Asparges me hysopo et mundabor 7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。

Lavabis me et super nivem dealbabor わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。

Auditui meo dabis Gaudium  8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、

8 Et laetitiam exultabunt ossa humiliate あなたが砕いた骨を喜ばせてください。

9 Averte faciem tuam a peccatis meis9 み顔をわたしの罪から隠し、 
Et omnes iniquitates meas deleわたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

15 Domine labia mea aperies15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。

 Et os meum annuntiabit laudem tuamわたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

16 Quoniam si voluisses sacrificium dedissem 16 あなたはいけにえを好まれません。
 utique holocaustis non delectaberis たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。

17 Sacrificium Deo spiritus contribulatus 17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。

Cor contritum et humiliatum  Deus non spernet神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。

18 Benigne fac Domine in bona voluntate tua Sion18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、

Et aedificentur muri Hierusalemエルサレムの城壁を築きなおしてください。

19 Tunc acceptabis sacrificium iustitiae19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、

  oblationes et holocausta全き燔祭とを喜ばれるでしょう。

 Tunc inponent super altare tuum vitulos. その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

 

 バロック時代のイタリアが生んだ詩編51の典礼音楽としては、アカペラで歌われるアレグリ作のミゼレーレもよく知られています。1630年代に作曲されたこの作品が、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂だけで聴くことをゆるされた「秘曲」であったが、それを少年モーツアルトが二度聴いただけで写譜したというエピソードはあまりにも有名です。

 この曲の特徴は、答唱の部分も先唱の部分も、すべてラテン語訳詩編の言葉を用いているところでしょう。曲の旋律は同一であることによって答唱であることを示されているが、歌詞はそれぞれ異なっていて、すべて詩編のラテン語訳からとられています。そして天才モーツアルト以外の人間には譜面化不可能だと思われる答唱部分は9声部をもつ複雑な構造をしていますが、ここでも、レオポルド一世のmiserere mei と同じように、ソプラノの天上世界へと突き抜けるような高い声部が印象的です。

 

日本では、カトリックの典礼聖歌6,7番「あなたのいぶきをうけて」が詩編51(の抜粋)への答唱です。答唱の言葉「あなたのいぶき」は、聖書的文脈では「聖霊」を意味し、神の御前に原罪を認めて告白した人(詩人としてのダビデ王)が「聖霊に息吹かれ」て、新しい人として、再び創造されることを意味しています。

 

答唱:あなたの いぶきを うけて わたしは あたらしくなる

6-1 神よ いつくしみ深く わたしをみ 豊かなあわれみによって 私のとがを るしてください。

         罪に染まった わたしを 洗い 罪深い わたしを 清めてください。

6-2   わたしは 自分のあやまちを め、 罪はわたしの目の前に る。

        あなたが わたしを さばかれる き、 そのさばきは いつも しい。

6-3  わたしは生まれた日から悪に み   母の胎に宿ったときから罪に れていた

  あなたは まごころを び  心の深みに知恵を けられる

6-4  ヒソプで水を り注ぎ わたしの罪を りさって

  わたしを洗い めてください  雪より白く るように

6-5  わたしに喜びと楽しみの声を し うち砕かれたわたしを また 喜びで満たしてください

   わたしの罪を つめず 犯した悪をすべて ぐいさってください。

7-1  神よ わたしのうちに い心を造り あなたの いぶきでわたしを強め らたにしてください

  わたしを あなたのもとから 退けず 聖なるいぶきを わたしから り去らないでください

7-2  救の喜びをわたしに し あなたのいぶきを送って 喜び仕える心を さえてください

  わたしは あなたへの道を えよう 罪人があなたのもとに るように

7-3  あなたは いけにえを まれず はんさいを ささげても ばれない

 神よ わたしのささげものは 打ちくだかれた こころ あなたは悔い改める心を 見捨てられない。

7-4  み旨のままにシオンを恵みで し エルサレムの城壁を たにしてください

  その時あなたは 正しいさげものを皆 ばれ わたしは あなたの祭壇で えるようになる

 

日本語でこの詩編を朗詠するときの注意は、典礼聖歌集の終わりの部分に掲載されていますが、それによると

歌詞でゴシックで書かれたところは、行の途中の音の変わり目を示し(下の高田三郎作曲の譜面参照)

変わる前にすこし速度をおとして、丁寧に歌うこと、「ます」「さい」「メン」の歌詞表記は、

大文字をいくらかのばして、小文字を軽く付けるように歌うこと、などの指示があります。

追記

聖グレゴリオの家宗教音楽研究所での教会音楽科で聖灰水曜日の翌日(2021年2月18日)におこなわれた講義の記録をコロナ禍の緊急事態宣言のためにこられなかった方々のためにアップしました。(YOUTUBEの限定公開) 

 

詩編に聴く-聖書と典礼の研究講演録

聖グレゴリオの家宗教音楽研究所での教会音楽科で聖灰水曜日の翌日(2021年2月18日)におこなわれた講義の記録です。コロナ禍の緊急事態宣言の...

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 橋本周子先生から、アッシジのフランシスの「太陽の歌」に言及した日本語の文献をドイツの修道院の方に伝えたいので、どういう本が良いか教えて欲しいと言われたので、私が影響を受けた次の本を紹介しました。
①『アシジの聖フランシスコの小品集(フランシスコ会叢書4)』庄司篤・浜村富哉共訳、中央出版、1974年
②『アシジの聖フランシス』(キリスト教歴史叢書9)下村寅太郎著、南窓社、1991年
③ 『マザー・テレサ』(人と思想44)和田町子著、清水書院、1998年
特に①はフランシス自身の書いた書簡や当時の聖務日課も伝えてくれますので、私の「詩篇に聴くー聖書と典礼の研究」の続編で紹介したいと思っています。
 
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詩篇150に聴くー復活祭のアレルヤ唱

2020-11-17 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
旧約聖書「詩篇」の最後に置かれた150番は、ヘブライ語のハレルヤで始まりますが、キリスト教の典礼では、この詩篇は復活祭の時に必ず歌われます。「宇宙の大栄唱」とも呼ばれるこの詩篇を、ヨッピヒ指揮、「聖グレゴリオの家」の合唱隊の聖歌で聴きましょう。

 

復活祭のグレゴリオ聖歌 アレルヤ(Alleluja) 詩編150番

復活祭のグレゴリオ聖歌から、アレルヤ 詩編150番です。 演奏は 聖グレゴリオの家聖歌隊 指揮は ゴーデハルト ヨッピヒ 聖グレゴ...

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Alleluja. ハレルヤ
 
1 Laudate Dominum in sanctis ejus; 聖所で 主を賛美せよ
laudate eum in firmamento virtutis ejus. 大空の砦で 主を賛美せよ
2 Laudate eum in virtutibus ejus; 力強き御業のゆえに 主を賛美せよ
laudate eum secundum multitudinem magnitudinis ejus. 大きな御力のゆえに 主を賛美せよ
3 Laudate eum in sono tubæ; 角笛を吹いて 主を賛美せよ
laudate eum in psalterio et cithara. 琴と竪琴を奏でて 主を賛美せよ
4 Laudate eum in tympano et choro; 太鼓に合わせて踊りながら 主を賛美せよ
laudate eum in chordis et organo. 弦をかき鳴らし笛を吹いて 主を賛美せよ
5 Laudate eum in cymbalis benesonantibus; シンバルを鳴らし 主を賛美せよ
laudate eum in cymbalis jubilationis. シンバルを響かせて 主を賛美せよ
6 Omnis spiritus laudet Dominum! 霊に息吹かれたものが、こぞって主を賛美する!
 
 教父アウグスチヌスの詩編注解によると、第一節の 'in sanctis eius' 「主の聖なる場所」は、地上の「聖所」ではなく、「主キリストに倣って聖とされた人」を指します。エルサレムの第二神殿のように、どれほど豪壮な建造物といえども、人の手で作られたものは滅びを免れません。しかし、キリストという「聖なる場所」において生きる人は、主の死と復活にあずかり、全ての被造物と共に「ハレルヤ」を復活祭で歌うことができます。
 この讃歌は、天と地の全ての被造物とともに歌うので「宇宙讃歌」とも呼ばれます。第三節にあるように「角笛の音」が明瞭に響き渡ると、主を賛美する歌が交響唱和します。ここで登場する弦楽器、管楽器、打楽器は、地上の演奏に呼応して天上からも響きわたり、その交響は、朽ちるべき地上の肉体が、もはや朽ちることのない身体に換えられることを示し、詩編を唱える人を祝福している、というのがキリスト教の復活祭の典礼でこの詩篇が歌われる理由になっています。
 
 日本の『典礼聖歌』では、14番と15番が詩篇150からの抜粋です。
(典礼聖歌編集部作詞、髙田三郎作曲によるものを引用します)
 
答唱:アレルヤ アーレルヤー アレールーヤ
 
14−1 聖所にいます かみをたたえよ 大空にいます力あるかみをたたえよ
そのわざは不思議  かみをたたえよ その栄光は偉大 かみをたたえよ
14−2 角笛を吹いて   かみをたたえよ 琴とたて琴を奏でて かみをたたえよ
鼓と舞をあわせて かみをたたえよ 弦をかなで笛を吹いて かみをたたえよ
15-1 聖所に立って 主をほめよ
その力を表す 大空のもと 主をほめよ
15-2 力ある みわざに向かい 主をほめよ
大空にいます 力ある  主をほめよ
15-3 角笛を 吹き鳴らしつつ 主をほめよ
たて琴の響きにあわせて 主をほめよ
15-4 楽器と コーラスで 主をほめよ
息あるものはみな 主をほめよ
 
詠唱:栄光は ちちと こと せいれいに 
初めのように 今も いつも 世々に アーメン
 
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詩編に聴くー 詩編51:懺悔/賛美の歌から「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん」

2020-11-14 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

 詩編51(ダビデ王の懺悔/賛美)が、エルサレム第二神殿でどのように伴奏付きの合唱隊によって歌われていたのかはよく分からないが、現代のユダヤ教徒が、この詩に曲を付けてヘブライ語で朗詠する事例はたくさんある。そのなかでも私が特に心動かされたのは、Christene Jackmanの作曲した「Choneni Elohim(主よ、我をあはれみたまへ)」である。歌詞はヘブライ語聖書の詩編51から抜粋されたものに、現代風な伴奏が付けられているが、ラテン語詩編のmiserere mei Deus にあたるChoneni Elohimのリフレインが非常に印象的であった。詩編は、ヘブライ語では「賛美」を意味するTehillim とよばれるので、どのような深刻な嘆きや悩み、病めるものの苦しみが歌われていても、また、時には教訓や処世の知恵を主題とする場合でも、基本的に「賛美の詩編」なのであり、単にユダヤ教徒だけのものでなく、キリスト教が、ユダヤ教から受け継いだ聖書の啓示を集約的に含むものであると同時に、あらゆる宗教と宗派の区別を越えて、全ての人の宗教心に直接に響く音楽であるといってよいだろう。

 

Choneni Elohim, from Psalm 51 (Be Gracious to me O G-d)

www.ShuvStore.com Choneni Elohim (Be Gracious to Me, O G-d), From Psal...

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講演録画「細川ガラシャの時代の典礼聖歌1-3」のなかで、私はレオポルド一世作曲の詩編51の解説をしたが、それは器楽による伴奏付きの典礼聖歌のなかで最もよくもとの詩の内容を良く捉えた曲であると思ったからである。悲嘆の底から、懺悔を通じて主の賛美へと大きく転換するヘブライ詩編のダイナミックな心の動きをどのように音楽で表現するか、レオポルド一世はその課題を一つの作品としてみごとに結実させている。たとえば、教会の朝の祈りで唱えられる「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん(domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam)」の詩句は、まさにそのような深き淵に沈んだ詩人の心底からの叫びが聞き届けられ、懺悔が賛美へと転ずる臨界点で歌われる詩である。作曲者のレオポルド一世は、この一行の詩句を何度も繰り返しつつ様々な声部でうたわせるが、深き淵の底から天上に叫ぶコロラツーラ・ソプラノの表現は音楽的な美しさを越えて、聴く者の魂をゆさぶるような旋律である。

 

(音楽付)細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1- 3

ーダビデ王の懺悔ー Domine, labia mea aperies 22:15 Gloria Patri 35:10 ...

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 バロック時代のイタリアが生んだ詩編51の典礼音楽としては、アカペラで歌われるアレグリ作のミゼレーレもよく知られている。1630年代に作曲されたこの作品が、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂だけで聴くことをゆるされた「秘曲」であったが、それを少年モーツアルトが二度聴いただけで写譜したというエピソードはあまりにも有名である。

 この曲の特徴は、答唱の部分も先唱の部分も、すべてラテン語訳詩編の言葉を用いているところであろう。曲の旋律は同一であることによって答唱であることを示されているが、歌詞はそれぞれ異なっていて、すべて詩編のラテン語訳からとられているのである。そして天才モーツアルト以外の人間には譜面化不可能だと思われる答唱部分は9声部をもつ複雑な構造をしているが、ここでも、レオポルド一世のmiserere mei と同じように、ソプラノの天上世界へと突き抜けるような高い声部が印象的である。

 

Miserere Mei Deus

This piece is Psalm 51, but first set to music by Allegri around 1630....

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日本では、カトリックの典礼聖歌6,7番「あなたのいぶきをうけて」が詩編51(の抜粋)への答唱である。

答唱の言葉「あなたのいぶき」は、聖書的文脈では「聖霊」を意味し、神の御前に原罪を認めて告白した人(詩人としてのダビデ王)が「聖霊に息吹かれ」て、新しい人として、再び創造されることを意味している。

答唱:あなたの いぶきを うけて わたしは あたらしくなる

6-1 神よ いつくしみ深く わたしをみ 豊かなあわれみによって 私のとがを るしてくださ
         罪に染まった わたしを 洗い 罪深い わたしを めてくださ
6-2   わたしは 自分のあやまちを め、 罪はわたしの目の前に る。
        あなたが わたしを さばかれる き、 そのさばきは いつも しい。
6-3  わたしは生まれた日から悪に み   母の胎に宿ったときから罪に れていた
  あなたは まごころを び  心の深みに知恵を けられる
6-4  ヒソプで水を り注ぎ わたしの罪を りさって
  わたしを洗い めてくださ  雪より白く るように
6-5  わたしに喜びと楽しみの声を し うち砕かれたわたしを また びで満たしてくださ
   わたしの罪を つめず 犯した悪をすべて ぐいさってくださ

7-1  神よ わたしのうちに い心を造り あなたの いぶきでわたしを強め らたにしてくださ
  わたしを あなたのもとから 退けず 聖なるいぶきを わたしから り去らないでくださ
7-2  救の喜びをわたしに し あなたのいぶきを送って 喜び仕える心を さえてくださ
  わたしは あなたへの道を えよう 罪人があなたのもとに るように
7-3  あなたは いけにえを まれず はんさいを ささげても ばれない
  神よ わたしのささげものは 打ちくだかれた ころ あなたは悔い改める心を 捨てられない。
7-4  み旨のままにシオンを恵みで し エルサレムの城壁を たにしてくださ
  その時あなたは 正しいささげものを皆 ばれ わたしは あなたの祭壇で えるようになる

日本語でこの詩編を朗詠するときの注意は、典礼聖歌集の終わりの部分に掲載されているが、それによると

歌詞でゴシックで書かれたところは、行の途中の音の変わり目を示し(下の高田三郎作曲の譜面参照)
変わる前にすこし速度をおとして、丁寧に歌うこと、「ま」「さ」「メ」の歌詞表記は、
大文字をいくらかのばして、小文字を軽く付けるように歌うこと、などの指示がある。

 

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詩編118に聴くー家造りの捨てた石が隅の親石となった

2020-11-12 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

詩編118は、新約聖書のなかで繰り返し引用され、最初にイエスをキリスト(救世主)と宣言した信徒の心を如実に伝えてくれる詩である。
 まず、マタイ21-9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118-26)」が引照され、おなじくマタイ21-49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118-22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4-11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。その言葉の意味は、ペテロ書前書2-7の「人々からは見捨てられたキリストが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのだから、あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい」というペテロ自身の言葉に示されている。

 この詩にはまた「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、人間がわたしに何をなしえよう」「人間にたよらず、主をさけどころとしよう。君侯にたよらず、主をさけどころとしよう」のように、主にたいして一人称で語る「わたし」が、一切の地上の権威を恐れずに主に拠り頼む心意気も示されている。

「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の「自由なる奉仕活動」を見いだしたマルチン・ルターが、この詩編を愛唱したことはよく知られているが、プロテスタントではないわたしもまた、この詩編の言葉に鼓舞される。それは、もっとも個人的にしてもっとも普遍的なキリスト信仰のありかたを旧約聖書の中で預言した詩編のひとつだと思うからである。

詩編118はカトリックの典礼聖歌87番で(抜粋して)うたわれている。歌詞は次の通り。

答唱:きょうこそ神が造られた日 よろこび歌えこの日を共に

1 恵み深い主に感謝せよ そのあわれみは永遠   イスラエルよ叫べ 神のいつくしみはたえることがない。

2 神の右の手は高くあがり どの右の手は力を示す わたしは死なずわたしは生きる かみのわざを告げるために

3 家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと

  この歌詞の答唱(繰り返し歌われる箇所)の「きょうこそ神が造られた日」とは、復活の主日、あるいは復活祭の第二主日(白衣の主日)を指している。

復活祭の時に受洗したひとが白衣を着けた故事にならって「白衣の主日」と呼ぶのであるが、女性の場合は白いベールを付けるという習慣もここに由来するのであろう。

そのこころは、洗礼を受けた人は「新しい人として、キリストを着るものとなった」こと、「神の国の完成を待ち望みながらキリストに倣って歩む人」を力づけ祝福するためである。

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高田三郎作曲のこの典礼聖歌はYoutubeで聴けます。

きょうこそ神が造られた日

作曲/高田 三郎 演奏:中央大学混声合唱こだま会 指揮:森永 淳一 2015年12月22日 府中の森芸術劇場ウィーンホール 第48回定期...

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旧約聖書の時代にこの詩編がどのように歌われたかはよく分かりませんが、ヘブライ語で朗唱された詩編がどんなものであったかをある程度窺わせる朗詠がYoutubeにあります。とくに、「ほむべきかな主の名によりて来る者」とか「家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと」という詩をヘブライ語の原語で聴くことができました。

 現代的な伴奏が付けられているにもかかわらず、受難と亡国の危機に抗して信仰を守り抜いたユダヤ教徒の心の歌が、現代に至るまで脈々と受け継がれていると感じました。

 

Psalm 118 sung in Hebrew - א֭וֹדְךָ - תְּהִלִּים קיח [NEW HALLEL TUNE]

Enjoy this new Hallel tune for Odekha (א֭וֹדְךָ כִּ֣י עֲנִיתָ֑נִי), Ps...

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詩編148とアッシジのフランシスの祈りーラウダート・シに寄せて

2020-11-08 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 
 フランシス教皇の回覧書簡「ラウダート・シ(御身は頌えられよ)ー共に暮らす家を大切に」の冒頭で引用されたアッシジのフランシスの賛歌は、宗教と宗派の区別を越えて人々の宗教心に訴えかけてきた歌である。小鳥にむかってキリストの教えを説くフランシスの画像はインドでも日本でも人気があった。 彼が、囀る小鳥達に向かって「小さい姉妹達よ、もしあなたたちがおしゃべりしたいことが終わりましたら、今度は私の方が話を聞いて頂く時なのです」と話しかけると、小鳥たちは静かに説教に耳を傾けた、というエピソードも伝承されている。そこには、共に大地に住む生きとしいけるもののすべてを祝福する福音伝道者フランシスの精神が良く現れている。このような精神が、自然環境破壊の危機に直面した現代の我々にとっても必要であることは、ヨハネ・パウロ二世が、アッシジのフランシスを「環境保護の聖人」と頌えたことにも良く現れている。 
 しかし、この「太陽賛歌」は、フランシスが晩年、重い病に苦しみ、ほとんど盲目の状態にあって、肉体の死の予感のなかで口述した歌であったことを知る人は少ないのではないだろうか。
 まず、この「賛歌」をまず原語(イタリア語ウンブリア方言)で、次にイタリア文学者の黒田正利(1890-1973)の日本語訳で聴いてみよう。
 

Original text in Umbrian dialect:               邦訳(黒田正利による)            

Altissimu, omnipotente bon Signore,       いとも高く、万能にして、恵み深き主よ
Tue so le laude, la gloria e l'honore et onne benedictione. 

                   賛美、栄光、ほまれ、すべての恵みは主のものなれ       
Ad Te solo, Altissimo, se konfano,  いと高き主よ、こはみな主のものにして、

et nullu homo ène dignu te mentouare.     人はそのみ名を呼ぶにも足らず

Laudato si, mi Signore cum tucte le Tue creature,

                   ほむべきかな、主よ、主のつくりませる物みなと、
spetialmente messor lo frate Sole,     ことに昼を与へわれらを照り輝かす
lo qual è iorno, et allumini noi per lui.  はらから太陽と。
Et ellu è bellu e radiante cum grande splendore: 日は美しく眩しきまでに照り渡る、
de Te, Altissimo, porta significatione.  かれこそは主の御姿、ああ高きにいます主よ

Laudato si, mi Signore, per sora Luna e le stelle: 

                 ほむべきかな、わが主よ、わがはらから月は星は、
in celu l'ài formate clarite et pretiose et belle.主はこれをみ空に作りたまひ、すみて貴く美はし

Laudato si, mi Signore, per frate Uento. ほむべきかな、わが主よ、風は、
et per aere et nubilo et sereno et onne tempo,   

                  大気は、雲は、曇りてはまた晴るる日和(ひより)は
per lo quale, a le Tue creature dài sustentamento. 

                   これによりて主はその造りまししものを育みたまふ

Laudato si, mi Signore, per sor'Acqua, ほむべきかな、わが主よ、やさしきはらから水は
la quale è multo utile et humile et pretiosa et casta. いと役立ちて、低きにつき貴く清らなり

Laudato si, mi Signore, per frate Focu, ほむべきかな、わが主よ、はらから火は
per lo quale ennallumini la nocte:     夜のくらきを照らし   
ed ello è bello et iucundo et robustoso et forte. 美はし、たのし、たけくつよし 

Laudato si, mi Signore, per sora nostra matre Terra,

                    ほむべきかな、わが主よ、はらから母なる大地は       
la quale ne sustenta et gouerna,    われらを育みわれらを治め、
et produce diuersi fructi con coloriti fior et herba. 木の実を結び、花を装ひ、草をはぐくむ 

Laudato si, mi Signore, per quelli ke perdonano per lo Tuo amore  

                   ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し
et sostengono infirmitate et tribulatione.  病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは

Beati quelli ke 'l sosterranno in pace,   めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに
ka da Te, Altissimo, sirano incoronati.   いと高き主よ、主の冠はかれにあらん

Laudato si mi Signore, per sora nostra Morte corporale,  

                     ああほむべきかな わが主よ、はらから死は、

da la quale nullu homo uiuente pò skappare:  誰か死をのがれん いけるもの皆は。
guai a quelli ke morrano ne le peccata mortali; いたはしきかな罪の死に滅ぶ者は      
beati quelli ke trouarà ne le Tue sanctissime uoluntati, 

                            されどほむべきかな 主の聖意にすむ者は
ka la morte secunda no 'l farrà male.    第二の死の害ふことはあらじ

Laudate et benedicete mi Signore et rengratiate  主を頌めたたへ、主に感謝せよ
e seruiteli cum grande humilitate.         いとへりくだりて主に仕えよ  

 

 私は12世紀のイタリアの方言で書かれたこの「歌」の原語を正しく読めるという自信はないが、それでもアッシジの太陽の光のような清澄な音調を感じ取ることはできる。黒田氏の邦訳は、やや古めかしいが、もとの歌の醸し出す雰囲気を、可能な限り典雅な大和言葉で簡潔に再現しているような気がするのである。

 しかし、この明るい響きで歌われる歌詞の終わりの四連の内容は、作者のフランシスがまさに重病で床につき、目もほとんど見えなくなった時期のものであることを如実に示している。

 この詩の前半部分が、旧約聖書詩編148を踏まえていることは良く指摘されている。天と地、太陽と月と星など、創造されたすべてのものを通して主を賛美する「ハレルヤ」の歌は、旧訳の民の典礼の祈りであり、フランシスコの時代にも、とくに、夜明けの頃の祈りとして歌われていたであろう。現代の新共同訳聖書では、次のように訳されている詩編である。

ハレルヤ。天において主を賛美せよ。
高い天で主を賛美せよ。
御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。
主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
天の天よ 天の上にある水よ主を賛美せよ。 主の御名を賛美せよ。
主は命じられ、すべてのものは創造された。
主はそれらを世々限りなく立て越ええない掟を与えられた。
地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ 地上の王よ、諸国の民よ
君主よ、地上の支配者よ 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。

主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。 
主は御自分の民の角を高く上げてくださる。
それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。
主に近くある民、イスラエルの子らよ。

ハレルヤ。 

 詩編148は中世以来良く歌われていた賛歌であったが、アッシジのフランシスのLaudato Si には、全被造物に創造主の賛歌を呼びかけているに留まらない。
 まず彼は、被造されたものたちを、すべて人格化して「兄弟姉妹」と呼びかけている。そして、「ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し、病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは」「めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに、いと高き主よ、主の冠はかれにあらん」というキリスト者の受難と忍耐の歌を付け加えていることであろう。

 伝承に拠れば、眼病で目の見えなくなったフランシスに手術のために灼熱した鉄の棒をあてる必要が生じたときに、彼は、十字を切って、「兄弟なる火よ、自分は汝を神の最も美しい被造物としてこよなく愛した。どうかあまり自分を痛めつけないで欲しい」と云ったという。そして、最後には最もおそるべき肉体の「死」にむかっても「はらから」と呼びかけている。 

グレゴリオ聖歌で歌われる詩編のラテン語訳も併記しておこう。幸い、中世の頃を偲ばせる歌唱がYoutubeに掲載されている。

 

Laudate dominum de caelis (Psalm 148) - Medieval chant

"North of the Alps and even on the Iberian Peninsula, a curious ceremo...

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Alleluja.                                                                      
1 Laudate Dominum de cælis;  laudate eum in excelsis.  
2 Laudate eum, omnes angeli ejus;  laudate eum, omnes virtutes ejus.   

Laudate eum, sol et luna;    laudate eum, omnes stellæ et lumen.   
4  Laudate eum, cæli cælorum; et aquæ omnes quæ super cælos sunt, 

5  lauudent nomen Domini.   Quia ipse dixit, et facta sunt;    ipse mandavit, et creata sunt.
6  Statuit ea in æternum, et in sæculum sæculi;

   præceptum posuit, et non præteribit. 
7  Laudate Dominum de terra,  dracones et omnes abyssi;
8  ignis, grando, nix, glacies, spiritus procellarum,    quæ faciunt verbum ejus;
9  montes, et omnes colles;   ligna fructifera, et omnes cedri;
10 bestiæ, et universa pecora;  serpentes, et volucres pennatæ;
11 reges terræ et omnes populi;    principes et omnes judices terræ;
12 juvenes et virgines; senes cum junioribus,   laudent nomen Domini:
13 quia exaltatum est nomen ejus solius.
14 Confessio ejus super cælum et terram;    et exaltavit cornu populi sui.
    Hymnus omnibus sanctis ejus;    filiis Israël, populo appropinquanti sibi.   Alleluja.

 

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