Travellers of Eternity & Poetics of Creativity 悠遠の旅人と造化の詩学
ー日本の藝道(連歌・俳諧・能楽・茶道を貫く一なるもの)に関する考察ー
田中 裕
引用-1 悠遠の旅人(Travellers of Eternity)─『奥の細道』(the narrow way of the interior)より
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ、 馬の口とらえて老い をむかふる物は、日ゞ旅にして、旅を栖とす。
The months and days are the travellers of eternity. The years that come and go are also voyagers. Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them.
〇「悠遠」という語は、塩見弘子著「悠遠の人高山右近」から示唆された。彼女の高山右近のとらえかた「殉教とは死を望むことでも死に急ぐことでもなく悠遠のまなざしのなかに帰って行くことーただそれだけのことなのです」という言葉に共感したからである。
〇「百代の過客」を Travellers of Eternity と英訳したのはドナルド・キーンである。これは永遠に旅人を続けるという意味ではなく、永遠を時間において映す旅人という意味である。ちなみに「奥の細道」とは、単に奥州の旅行記であるという意味ではなく、旅をすることが内面の精神世界に還って行くという意味である。the narrow way of the interior と英訳したポイントもそこにある。細き道は、あたかも茶室の躙り口のごとく狭き門であるが、身分の高低、貧富の差別を越えて万人に平等に開かれた入り口である。
引用-2 造化の詩学(poetics of creativity)─『笈の小文』序文
百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。
西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
〇造化とは外的な存在として対象化された造物主ではない。それはむしろ我々自身の内なる世界に於いて働き、自己自身を刷新する創造作用(creativity)である。
引用ー3 他者との交わりー相互主体性の美学
「我々の自己の自覺と云ふのは、單に閉ぢられた自己自身の内に於て起るのではない。自覺は自己が自己を越えて他に對することによってのみ起るのである。我々が自覺すると云ふ時、自己は既に自己を越えて居るのである」(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」より)
序
自覚にとって「他者に対する」ことは必要不可欠である。場所的自覚―相互主体的な場における「自覚」―は本来的に関係的性格を持っている。それは近代人の個の内面に閉ざされた「自己意識」としての「自覚」から、「私と汝」という場への開けをもつ場所的「自覚」へという後期西田哲学の発展の相を示すものでもある。このような相互主体的な場に開かれた「場所的自覚」の実例として、連歌と俳諧の座というもののもつ性格を捉えることができる。
〇 現代詩と俳句における個性の位置
もし、詩が作者の個性に根ざす物であり、制作(ポイエーシス)が、個の内面にあるものを外化するという意味での表現であるとするならば、個性は作品として制作される 以前に既に存在するということになろう。詩を読解するということは、外からは窺い知 れぬ作者の内的な生を読者が感情移入によって理解するということになろう。ところが、藝術作品の表現は、そのように個の内面から外面への表現と言う方向性では なく、西田幾多郎がそうしたように「(表現的)一般者の自己限定即個と個の相互限定」という方向から見ることができる。俳諧や連歌のような座の文藝に於いては、個の閉ざされた内面を表現することではなく、言葉による制作の働きを相互主体的な場で遂行すること、「作られたものから作るものへ」と創造活動が展開することによって、一巻の作品が巻き上げられる。
藝術作品の制作を作者の個性の表現と見る見方を真っ向から否定した詩論として、T・ S エリオットの「伝統と個人の才能」がある。
「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個人性から の脱却である。 当然のことであるが、個性と情緒を持っている人だけが、個人性と 情緒から脱却するとはどういう意味か分かるだろう」(「伝統と個人の才能」)
彼は、詩人の役割を科学者になぞらえて「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と 無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によ って示唆が得られるだろう」とまで謂っているが、ここには若干の誤解があるように思う。藝術家の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということではないであろう。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的であって、そこでは、「感受の主体」は問題にならない。しかし、藝術作品の制作と鑑賞においては、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となる。客体の持つ通約可能な「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性である。藝術作品の批評においては科学者がやるような第三者(傍観者)的な藝術作品への関わりはありえない。 それでは、「没個性」の詩論が意味するところは何であるのか。おそらく、それは次のようなエリオットの文に真意を求めるべきであろう。
「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしていくこと、絶えず自己を滅却 していくことにある」
つまり、「非個性的である」ないし「没個性的である」という静的な状態ではなく、自己を犠牲にしていくこと、個性を滅却していくこと、その動的なプロセスが問題である。
エリオットの言う「個性滅却」の詩論というのは、より内容に即して考えるならば、「人格とか個人とかいうものは、経験に先立つ実体ではない」という立場から為される詩論である。彼は、もともと哲学専攻で、博士論文のテーマは、英国の形而上学者フランシス・ブラドレーに関する研究であった。ブラドレーの哲学は、主客未分の「今此処における直接経験、純粋な感情」からはじめて、絶対者に至るという点に特色がある。すなわち「個人よりも経験が先行する」ということ―これがポイントである。個性は経験することによって形成される、だから、そこでつくられた個性は、 つねにそれを越えるものに接することによって自己を越えていくものだ、という意味である。詩作も又、他の一切の経験と同じく、直接経験からスタートするのであるが、そこでいう直接経験というのは経験する主体がまず先に(実体として)存在して、それが 外界を直に経験するという意味ではなく、通常、我々が、人格なり個性を持った個体と して考えているものが、そこにおいては解体されるようなレベル(主客未分の経験)を意味する。だからこの経験を表すのにブラドレーは、感情(feeling)という言葉を使った。この文脈では「感情」 は「物」と化した個人の経験の殻を突き破る働きをする。したがって、エリオットの言わんとするところを「没個性」の詩論というだけでは十分とはいえないであろう。詩の制作に於いて個は否定されることに於いて肯定されるという逆対応的な側面があるからである。すなわち、ひとたび個が滅却された表現 的一般者の場においてこそ、掛け替えのない「個」が獲得され、表現されることを伴う ものでなければならない。彼の後年の作品「四重奏」に、
君がいない場所から、君がいる場所に達するためには自己陶酔なき道を行かねばならぬ
君の知らぬものに達するためには 無知の道という道を行かねばならぬ
君の持たぬものを持つためには 無所得の道を行かねばならぬ
君でないものに達するためには 君のいない道を通って行かねばならぬ[1]
というくだりがある。エリオットは仏教徒でもなければヒンズー教徒でもなく、あくまでもキリスト者の詩人であるが、これらの詩句には、そういう宗教上の差別を越えて訴えかけるものがある。 それと同時に、「無知」「無所得」の道を歩み通すことを指示する彼の詩作品自体のほうが、個性滅却の詩論のむかうべき方向性を示しているのでは ないか。
俳句が日本以外の文学に影響を与えた事例として、二〇世紀の英米の詩人たち、とくに イマジズムの詩人のケースがある。エリオットが第一次大戦後に発表した詩「荒地」を 制作するに際して、詩人としてアドバイスを与え、原案を添削したエズラ・パウンドは、「イマジズム」の詩人として知られているが、彼の詩論に日本の俳句が大いに影響したことは文学史上の興味ある事実である。イマジズムの詩の作法というのは
(1)瞬間のうちに知的・情緒的な複合体を提示する
(2)余計な説明をせずに、具体的な「事物」それ自体を明確に表現する。
(3)メトロノームのような因習的な韻律を排し、内容に即した自由な韻律で詠む。
の三つであるが、これは英国では、自由詩の運動の延長線上にあった。 説明抜きに二つのイメージを配合する無韻の短詩は、当時の人にとっては、非常に前衛 的な「詩の作法」であった。パウンドにとって
〇落花枝にかへるとみれば胡蝶かな
という守武の句は天啓のようなものであったという。落花という「死のイメージ」と、 上に向かって翻る胡蝶の「生のイメージ」の即物的な取り合わせが、イマジズムの詩法 の原点となったのである。俳句は日本では伝統的な定型詩のひとつであるが、それはイマジストの詩人たちには「前衛的な自由詩の作法」として受容されたことに注意したい。もともと俳諧は連歌と いう第一藝術の余技として生まれたものであったが、連歌とはちがって自由でとらわれ ない革新性をもっていたから、それはある意味で「自由詩」という性格を持っていた。 その俳諧の自由な精神が二〇世紀の英米の前衛的な詩の手法と結びついたのである。
〇 連歌とは何かー輪廻を突破する創造の時間
俳句とは元来は俳諧の発句である。そして俳諧を純正連歌にならぶ第一藝術としたのは 芭蕉であり、或る意味で、彼は連歌の伝統と俳諧の革新性を統合した人物である。したがって、俳句の起源もまた、連歌まで遡らせることができるであろう。(連歌と俳諧を合 わせて連句と呼ぶのは明治以後である)
連歌の歴史は、短連歌(短歌の上の句と下の句を二人の人が詠みあう) から鎖連歌への展開として語ることが出来る。
五七五+七七 で二人が短歌を共同製作して終わるのではなく五七五+七七にさらに五七五を続けて、交互に長句と短句を反復させ、百韻、三六韻と続けていくのが「鎖連歌」である。鎖連歌が藝術として成立するためには、第三の五七五がはじめの五七五の世界の繰り返しにならないことが必要不可欠であった。この考え方は、発句と第三の間だけでなく一般に、連続する三句の連なりにも適用された。
つまり→A→B→C→ と展開するときに、
Cの世界はAの世界から、あらゆる意味で徹底して離れることを求める。これが、連歌式目の中の「黄金律」とも言うべきもので、そこを抑えれば、連歌の他の約束事も自然に了解されよう。
Cの世界がAの世界の繰返しとなること(輪廻)は連歌俳諧の根本を支える美意識に反するのである。[2]
連歌の正式の形態である百韻は四楽章形式の交響曲になぞらえることができる。連歌の素材は俳句よりも広く、四季折々の花鳥諷詠のみならず、世態人情、恋、述懐、羈旅、藝能、神祇釈教など、およそ詩歌の扱いうるすべてにわたっている。百韻の中にそれらを万華鏡のように詠み込むことが必要である。しかしながら、それらを詠むにあたって、一定の秩序と調和が必要になるので、それを句数と去嫌の式目によって定められる。この連歌式目には日本人の伝統的な美意識が内在するコスモロジーとして興味深い点が多々あるが、それはあくまでも複数の作者が交互にそれぞれが主となり客となって句を詠みあうときの秩序を規制するもので、式目それ自身は良き連歌を制作するための必要条件であるに過ぎない。重要なことは、それぞれの句の間に存する「附合」の美学である。
〇 心敬『ささめごと』ー「幽玄」・「さび」・「孤心」の美学の源流
連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに
親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。
というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。
心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。
親句とは、客人の挨拶として投ぜられた発句に答える主人の脇のように、前句の内容に即して、それを補足しうち添える句を指す。これに対して、疎句とは、連歌の前句と付句との間に「切れ」(非連続性)があり、二つの句が独立自存しながらも深いレベルで響き合うことを意味している。連歌において即興性が重要であることは言うまでもないが、付句が前句に寄りかかり、意味の上で論理的につながるのではなく、また、「寄合」とよばれた語句の連想に頼るのではなく、その都度の作者によって見いだされた新しい世界を古い世界に対比させることを意味する。古い世界の繰り返しにとどまる付句は「付きすぎ」といって退けられる。そして、このような疎句付けを重んじる連歌の作法が、俳諧において芭蕉に受け継がれているのである。
〇幽玄
中世の日本の美学理念の一つは「幽玄」である。この言葉は、論者によって様々に意味が 変わるが、心敬の幽玄論を見てみよう。
心敬の幽玄論は、恋の歌ないし述懐の歌について云われている点に特徴がある。 彼はまず白楽天の「琵琶行」から左遷された官吏の真情を揚子江上に弾く琵琶の音色に たとえた詩文
「尋陽江にものの音やみ、月入りて後、このとき、声なき、声あるに優れたり」
を重視する。つまり耳に聞こえる琵琶の音色も哀れであるが、その音がかき消えて、 月も西の山に沈んだ沈黙の瞬間こそが、「声ある」さまにまさる、ということーここに幽玄の詩情の原点を見る。
もうひとつは同じ白楽天の恋の詩、長恨歌の一節
春風桃李花開日 秋雨梧桐葉落時
である。これは楊貴妃を追慕する詩であるが、この詩の風体を「幽玄躰」とよび、「歌・連歌 の恋の句などにも、この風体あらまほしくかな」と結んでいる。ここでは、恋の情念は、直接には詠まれていないが、それらは余情として、詩文の行間の沈黙の中に切々 と湛えられている。
心敬は恋の句と述懐の句をとくに重視し、四季の景物を読む花鳥諷詠の句の上に置いている。恋と述懐の句は、「胸の底より出づべきもの」であって、決して安直に詠むべきものでなく、他の句にまさって沈思しまた推敲することを薦めている。
〇さび
語りなばその淋しさやなからまし芭蕉に過ぐる夜の村雨
の一首をしめし「巫山仙女のかたち五湖の煙水の面影はことばにあらはるべからず」と 言ったのは心敬である。美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべき事―これが心敬の連歌の「さび」の美学の根本精神である。
「さび」の美学は、心敬以前にも俊成をはじめ様々な歌人が取り上げています。しかし、 それらは、文藝上の最高の理念を表すという位置づけを持っているわけではない。 そういう高い位置をもつに至ったのは心敬の連歌論をおいて他にはない。
このみちはひとえに余情・幽玄の心・姿を宗として、言い残し ことわり無き所に幽玄・感情は侍るべしとなり。歌にも不明体 とて、面影ばかりを詠ずる、いみじき至極のこととなり。
このような余情・幽玄の美の理念を作品に実現するためには、できる限り言葉をすくなくし、言外に深き余情を湛えさせねばならない。このような連歌に於ける至極の境地をさして、心敬は「ひえ・さび・やせ」という語を用いた。
昔、歌仙にある人のこの道をば如何やうに修行し侍るべきぞ と尋ね侍れば、「枯野の薄、有明の月」と答え侍りしと也。 これは言わぬところに心をかけ、ひえさびたる方を悟り知れ と也。境に入りはてたる好士の風雅は、この面影のみなる べし。
ここで心敬の言う「ひえ、さびたる」句を重んじる精神こそは、談林風の派手な俳諧か ら一転して、「誠の俳諧」を求めた芭蕉の「さび、しをり」の美学の源流にほかならない。
〇孤心
連歌は「連衆心」がなければ巻くことができない。しかし、そのような付合のなかで、 我々は、それぞれが単独者であるという自覺を持つことが必要である。そういう「孤心」 を表明する心敬の付句をあげよう。
「我が心たれに語らむ秋の空」という句に
「荻にゆふかぜ雲にかりがね」 心敬
「荻には夕風」、「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でもたがいにその心をふれあうこともできようが、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれている。[3]
〇時雨の発句
応仁の頃、世のみだれ侍りしとき、あづまに下りてつかうまつりける(新撰菟玖波集)
雲は猶さだめある世の時雨かな 心敬
おもふ事侍りしころ同じ心を(老葉)
世にふるもさらに時雨のやどりかな 宗祇
興のうちにして俄に感ずることあり、ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに袂をうるほして、みづから笠のうちに書きつけ侍る(渋笠銘)
世にふるはさらに宗祇のやどり哉 芭蕉
宗祇と芭蕉の句はよく知られているが、そのルーツは心敬にある。宗祇の句は明らかに心敬を意識して作っており、芭蕉の句が宗祇の時雨の句を借りたことは明かである。心敬の句には応仁の乱を生きた作者の息づかいが聞こえます。雲は定めなきものであるが、その雲でさえ「定めある」と思わせるような乱世を「時雨」によって象徴した作品である。
〇ありふれたものの詩情
「名も知らぬ小草花さく川辺かな」 といふ発句に
「しばふがくれの秋のさは水 心敬 」
発句の作者は蜷川親当で、後世の芭蕉の
「よく見れば薺花さく垣根かな」
を想起させる句である。こういう句を見ると、心敬の一座した百韻で読まれた連歌と芭蕉の俳諧の風雅の精神との近さが実感できるであろう。
心敬の脇は、名もなき小草の花の「かそけき」有様を、秋の沢水の「冷え冷えと清みた」風情をもってつけた句です。「しばふがくれの」水は、その身にしみるような清冽さを表には見せない。しかし、このような発句と脇の呼応の中に、心敬は「月花の名句」 に勝る詩情を見いだしていたに違いない。
芭蕉の俳諧における重要な特質の一つは、その附合が従来の附物・心附にとどまらず、いわゆる匂附を根本としたところにある。一句の独立性と二句の連関性とは矛盾する要求であるが、この矛盾を創作の原理に転じたところに連歌の疎句付けの妙味があった。
「附心は薄月夜に梅の匂へるがごとくあるべし」
という芭蕉の言葉がある。彼によると
「秋よりのちの朝顔のいろ」(短句)
に対して、
「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」(長句)
と続ける「附心」が、匂づけである。(俳諧芭蕉談)
まず、「季節遅れの朝顔の花」の余情を尋ねる。その情は、いつか時を過ぎてなお微かに色香をたもっている女性の姿を彷彿とさせる。この余情を形に表して、「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」と続ける。つまり、「朝顔のいろ」は純然たる叙景であるが、それがある人物の姿となって現れる。これは、「風姿」→「風情」への転調と言って良いだろう。朝顔が前句にあるからといって、朝顔にゆかりのある「物」で付けたのでは「物付け」となり、情趣に乏しい。前句の余情に付けるから「匂づけ」であるが、「匂」は、その物ではなく、その「物の影」である。
ところで、「物の影」に付けるのではなくて、これが「物語」の影につける場合は、「面影(俤)づけ」といわれる。芭蕉の俳諧の場合、中国と日本の詩歌の古典―源氏物語、李白・杜甫、白楽天などの漢詩など―が、やはり下敷きになっている。そして、それらが、同時代の生きた俳諧の言葉で語られている。「面影づけ」のばあい、その句は背景を為している古典を知らない人が読んでも、情趣のあるものであることが要求される。つまり、引用であることを知らなければ理解できない句はあまり洗練されていない付け方である。
〇 蕉風俳諧の新しみと創造性
芭蕉の門下では、一般に「等類の句」「同巣の句」は、避けるべきことが言われる。
イ.樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉
ロ.桐の木の風にかまはぬ落葉かな 凡兆
「去来抄」によると、其角はロがイの「等類の句」であると非難したとのこと。
これに対して、凡兆は、言葉遣いは似ているけれども、句の意味内容が全然違うから「等類の句」ではないと反論した。去来の考えでは、句の主題は全然違うけれども、言葉遣いが類似しているのでロはイの「同巣の句」であると評した。つまり
「等類の句」=同じ趣向、おなじ内容の句
「同巣の句」=同じ言葉遣いの句
である。去来によると、「同巣の句」を作るのは容易安直すぎるのが問題である。「同巣の句」を詠んだとしても、それは詠み手にとって、すこしも「手柄にはならぬ」と云う。このように蕉門では、「等類の句」や「同巣の句」は、原則として避けるべきであるが、場合によっては、もとの句よりも優れた「等類の句」や、もとの句にない新しい内容を感じさせる「同巣の句」が出きる場合がある――そういうときに限って、例外的に許容された。
芭蕉自身は、たとえ自分自身の作品であっても、過去の作例と「等類」あるいは「同巣」の句を作ることを極力避けようとしたことが良く知られている。
「清滝や浪にちりなき夏の月」
という辞世の句が
「白菊の目にたててみる塵もなし」と「等類」の句となるがゆえにこれを案じ変えて
「清滝や波に散り込む青松葉」
としたことなど、「去来抄」にある通りである。
芭蕉の「俳諧の誠」は、過去を乗り越える「あたらしみ」が生命であるので、自分自身の過去ですら模倣を許さないのである。
更に芭蕉が、自らの辞世の句が過去の自作と「等類の句」となることを嫌った理由として、「誠の俳諧」をたしなむものに固有の美意識があったことがあげられる。誠の俳諧は連歌とおなじく、一巻の中に類似した発想が繰り返されることを「輪廻」や「観音開き」と言って最も嫌う。同じ趣向の反復は輪廻から解脱すべき自由なる精神にふさわしくないのである。その自由は過去からの自由であり、つねに「新しみ」をもとめて未来に賭ける創造者の自由であった。「此みちに古人なし」「我はただ来者を恐る」(三冊子)という芭蕉の言葉はかかる意味に理解されるべきであろう。
〇「匂ひ」の美学
芭蕉の俳諧の根本精神を表す言葉として「匂ひ」を取り上げよう。
「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)
薄月夜とは、雲などに遮られてぼんやりと月が見える様。くまなく見える月ではない。 この美学は、心敬のいう幽玄の美学の系譜に属する。あらわなもの、明るすぎるものは、 読者の想像力を働かせる余地がないが故に詩情を喚起しない。「薄月夜の梅の匂ひ」のご とく、かすかなるものほど、ほのかなるもののなかに隠れている美を象徴することーここに蕉風美学の出発点がある。「匂ひ」とはそれをあらわす独特の用語である。
「匂ひ」という言葉は、風雅の「風」と縁のある言葉である。風は、多くの言語では「霊」 的なもの(インスピレーション)と同義であり、それ自体は言語で記しがたいものであるが、藝術や宗教の生命を象徴する。その風が「雅(みやび)」であって「俗」でないことを要求するのは「風雅」という言葉である。芭蕉晩年の弟子の一人である惟然から、風雅とはどういうものかと尋ねられた芭蕉は、「句に残して俤にたつ」ことだと云っている。(一葉集遺語)
「句に残す」とは、句のなかで言い残して、却ってその「おもかげ」にたつことが風雅だというのである。従って、蕉風俳諧では、「言い尽くす」こと「言い畢ほす」ことが嫌われた。たとえば
「下伏につかみわけばや糸桜」
という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、
「言ひ畢ほせて何かある」
と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。
「匂ひ」は、しかしながら、発句のような短詩を成立させる技巧と見るべきではない。技巧のような作為は、言うなれば「臭い」のであって、こころの風光を漂わせる自然なる「匂ひ」とは正反対のものだからである。
「附といふ筋は匂、ひびき、面影、移り、推量などと形なきより起るところなり、心通ぜざれば及び難き処なり」(三冊子)
それでは、匂附の実例としてどんな附合があるのかを見てみよう。鬼貫が幻住庵の 芭蕉のもとを訊ねたときの歌仙、「夏木立」の巻から例を引く。
「うすうすと色を見せたる村もみじ 芭蕉」
に対して、どういう付けがよいのか。その場では、次の四句がでたが、どれも芭蕉によって却下された。
一 下手も上手も染屋してゐる
二 田を刈りあげて馬曳いてゆく
三 田を刈りあげてからす鳴くなり
四 よめりの沙汰もありて恥かし
最後に
「御前がよいと松風の吹く 丈草」
という付けが出たときに、はじめて芭蕉は印可したという。芭蕉の門弟達が、この附合 を「匂ひ」付けと呼んだことは、俳諧芭蕉談のつぎの言葉に明らかである。
「御前がよいと云う松風は、うすうすと色を見せたる匂ひを受けて句となる。心も転じ、 句も転じ、しまこその力をとどめず、これを「にほひ附」といふ。」
[1] In order to arrive there,
To arrive where you are, to get from where you are not,
you must go by a way wherein there is no ecstasy.
In order to arrive at what you do not know
you must go by a way which is the way of ignorance.
In order to possess what you do not possess
you must go by the way of dispossession.
In order to arrive at what you are not
you must go through the way in which you are not.
[2]この黄金律に反する典型的事例が「観音開き」である。観音様を安置している厨子は扉を開けると左右対称になっている。そこで、中の句を挟んで、前句とつけ句が同じ姿をしているもの、同じ趣向になっているものを「観音開き」という。「観音開き」あるいは一般に「輪廻」となる連なりは、連歌俳諧の伝統の中ではもっとも嫌われたものであった。
[3] 「この秋は何で年よる雲に鳥」という芭蕉の発句と通底する心情が詠まれているといえよう。