歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

Travellers of Eternity & Poetics of Creativity 悠遠の旅人と造化の詩学

2019-06-21 |  文学 Literature

Travellers of Eternity & Poetics of Creativity 悠遠の旅人と造化の詩学

ー日本の藝道(連歌・俳諧・能楽・茶道を貫く一なるもの)に関する考察ー

田中 裕

引用-1  悠遠の旅人(Travellers of Eternity)─『奥の細道』(the narrow way of the interior)より

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ、 馬の口とらえて老い をむかふる物は、日ゞ旅にして、旅を栖とす。

The months and days are the travellers of eternity. The years that come and go are also voyagers. Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them.

〇「悠遠」という語は、塩見弘子著「悠遠の人高山右近」から示唆された。彼女の高山右近のとらえかた「殉教とは死を望むことでも死に急ぐことでもなく悠遠のまなざしのなかに帰って行くことーただそれだけのことなのです」という言葉に共感したからである。

〇「百代の過客」を Travellers of Eternity と英訳したのはドナルド・キーンである。これは永遠に旅人を続けるという意味ではなく、永遠を時間において映す旅人という意味である。ちなみに「奥の細道」とは、単に奥州の旅行記であるという意味ではなく、旅をすることが内面の精神世界に還って行くという意味である。the narrow way of the interior と英訳したポイントもそこにある。細き道は、あたかも茶室の躙り口のごとく狭き門であるが、身分の高低、貧富の差別を越えて万人に平等に開かれた入り口である。

 

引用-2 造化の詩学(poetics of creativity)─『笈の小文』序文 

百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。

西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

〇造化とは外的な存在として対象化された造物主ではない。それはむしろ我々自身の内なる世界に於いて働き、自己自身を刷新する創造作用(creativity)である。

 引用ー3 他者との交わりー相互主体性の美学

「我々の自己の自覺と云ふのは、單に閉ぢられた自己自身の内に於て起るのではない。自覺は自己が自己を越えて他に對することによってのみ起るのである。我々が自覺すると云ふ時、自己は既に自己を越えて居るのである」(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」より)

序 

自覚にとって「他者に対する」ことは必要不可欠である。場所的自覚―相互主体的な場における「自覚」―は本来的に関係的性格を持っている。それは近代人の個の内面に閉ざされた「自己意識」としての「自覚」から、「私と汝」という場への開けをもつ場所的「自覚」へという後期西田哲学の発展の相を示すものでもある。このような相互主体的な場に開かれた「場所的自覚」の実例として、連歌と俳諧の座というもののもつ性格を捉えることができる。 

〇  現代詩と俳句における個性の位置

 もし、詩が作者の個性に根ざす物であり、制作(ポイエーシス)が、個の内面にあるものを外化するという意味での表現であるとするならば、個性は作品として制作される 以前に既に存在するということになろう。詩を読解するということは、外からは窺い知 れぬ作者の内的な生を読者が感情移入によって理解するということになろう。ところが、藝術作品の表現は、そのように個の内面から外面への表現と言う方向性では なく、西田幾多郎がそうしたように「(表現的)一般者の自己限定即個と個の相互限定」という方向から見ることができる。俳諧や連歌のような座の文藝に於いては、個の閉ざされた内面を表現することではなく、言葉による制作の働きを相互主体的な場で遂行すること、「作られたものから作るものへ」と創造活動が展開することによって、一巻の作品が巻き上げられる。

藝術作品の制作を作者の個性の表現と見る見方を真っ向から否定した詩論として、T・ S  エリオットの「伝統と個人の才能」がある。

「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個人性から の脱却である。 当然のことであるが、個性と情緒を持っている人だけが、個人性と 情緒から脱却するとはどういう意味か分かるだろう」(「伝統と個人の才能」)

彼は、詩人の役割を科学者になぞらえて「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と 無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によ って示唆が得られるだろう」とまで謂っているが、ここには若干の誤解があるように思う。藝術家の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということではないであろう。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的であって、そこでは、「感受の主体」は問題にならない。しかし、藝術作品の制作と鑑賞においては、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となる。客体の持つ通約可能な「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性である。藝術作品の批評においては科学者がやるような第三者(傍観者)的な藝術作品への関わりはありえない。 それでは、「没個性」の詩論が意味するところは何であるのか。おそらく、それは次のようなエリオットの文に真意を求めるべきであろう。

「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしていくこと、絶えず自己を滅却 していくことにある」

つまり、「非個性的である」ないし「没個性的である」という静的な状態ではなく、自己を犠牲にしていくこと、個性を滅却していくこと、その動的なプロセスが問題である。

エリオットの言う「個性滅却」の詩論というのは、より内容に即して考えるならば、「人格とか個人とかいうものは、経験に先立つ実体ではない」という立場から為される詩論である。彼は、もともと哲学専攻で、博士論文のテーマは、英国の形而上学者フランシス・ブラドレーに関する研究であった。ブラドレーの哲学は、主客未分の「今此処における直接経験、純粋な感情」からはじめて、絶対者に至るという点に特色がある。すなわち「個人よりも経験が先行する」ということ―これがポイントである。個性は経験することによって形成される、だから、そこでつくられた個性は、 つねにそれを越えるものに接することによって自己を越えていくものだ、という意味である。詩作も又、他の一切の経験と同じく、直接経験からスタートするのであるが、そこでいう直接経験というのは経験する主体がまず先に(実体として)存在して、それが 外界を直に経験するという意味ではなく、通常、我々が、人格なり個性を持った個体と して考えているものが、そこにおいては解体されるようなレベル(主客未分の経験)を意味する。だからこの経験を表すのにブラドレーは、感情(feeling)という言葉を使った。この文脈では「感情」  は「物」と化した個人の経験の殻を突き破る働きをする。したがって、エリオットの言わんとするところを「没個性」の詩論というだけでは十分とはいえないであろう。詩の制作に於いて個は否定されることに於いて肯定されるという逆対応的な側面があるからである。すなわち、ひとたび個が滅却された表現 的一般者の場においてこそ、掛け替えのない「個」が獲得され、表現されることを伴う ものでなければならない。彼の後年の作品「四重奏」に、 

君がいない場所から、君がいる場所に達するためには自己陶酔なき道を行かねばならぬ
君の知らぬものに達するためには 無知の道という道を行かねばならぬ
君の持たぬものを持つためには 無所得の道を行かねばならぬ
君でないものに達するためには 君のいない道を通って行かねばならぬ[1]

 というくだりがある。エリオットは仏教徒でもなければヒンズー教徒でもなく、あくまでもキリスト者の詩人であるが、これらの詩句には、そういう宗教上の差別を越えて訴えかけるものがある。   それと同時に、「無知」「無所得」の道を歩み通すことを指示する彼の詩作品自体のほうが、個性滅却の詩論のむかうべき方向性を示しているのでは ないか。

俳句が日本以外の文学に影響を与えた事例として、二〇世紀の英米の詩人たち、とくに イマジズムの詩人のケースがある。エリオットが第一次大戦後に発表した詩「荒地」を 制作するに際して、詩人としてアドバイスを与え、原案を添削したエズラ・パウンドは、「イマジズム」の詩人として知られているが、彼の詩論に日本の俳句が大いに影響したことは文学史上の興味ある事実である。イマジズムの詩の作法というのは

(1)瞬間のうちに知的・情緒的な複合体を提示する
(2)余計な説明をせずに、具体的な「事物」それ自体を明確に表現する。
(3)メトロノームのような因習的な韻律を排し、内容に即した自由な韻律で詠む。

の三つであるが、これは英国では、自由詩の運動の延長線上にあった。 説明抜きに二つのイメージを配合する無韻の短詩は、当時の人にとっては、非常に前衛 的な「詩の作法」であった。パウンドにとって

 〇落花枝にかへるとみれば胡蝶かな

という守武の句は天啓のようなものであったという。落花という「死のイメージ」と、 上に向かって翻る胡蝶の「生のイメージ」の即物的な取り合わせが、イマジズムの詩法 の原点となったのである。俳句は日本では伝統的な定型詩のひとつであるが、それはイマジストの詩人たちには「前衛的な自由詩の作法」として受容されたことに注意したい。もともと俳諧は連歌と いう第一藝術の余技として生まれたものであったが、連歌とはちがって自由でとらわれ ない革新性をもっていたから、それはある意味で「自由詩」という性格を持っていた。 その俳諧の自由な精神が二〇世紀の英米の前衛的な詩の手法と結びついたのである。

〇 連歌とは何かー輪廻を突破する創造の時間

俳句とは元来は俳諧の発句である。そして俳諧を純正連歌にならぶ第一藝術としたのは 芭蕉であり、或る意味で、彼は連歌の伝統と俳諧の革新性を統合した人物である。したがって、俳句の起源もまた、連歌まで遡らせることができるであろう。(連歌と俳諧を合 わせて連句と呼ぶのは明治以後である)

連歌の歴史は、短連歌(短歌の上の句と下の句を二人の人が詠みあう) から鎖連歌への展開として語ることが出来る。

五七五+七七 で二人が短歌を共同製作して終わるのではなく五七五+七七にさらに五七五を続けて、交互に長句と短句を反復させ、百韻、三六韻と続けていくのが「鎖連歌」である。鎖連歌が藝術として成立するためには、第三の五七五がはじめの五七五の世界の繰り返しにならないことが必要不可欠であった。この考え方は、発句と第三の間だけでなく一般に、連続する三句の連なりにも適用された。

つまり→A→B→C→ と展開するときに、

Cの世界はAの世界から、あらゆる意味で徹底して離れることを求める。これが、連歌式目の中の「黄金律」とも言うべきもので、そこを抑えれば、連歌の他の約束事も自然に了解されよう。

Cの世界がAの世界の繰返しとなること(輪廻)は連歌俳諧の根本を支える美意識に反するのである。[2]

 連歌の正式の形態である百韻は四楽章形式の交響曲になぞらえることができる。連歌の素材は俳句よりも広く、四季折々の花鳥諷詠のみならず、世態人情、恋、述懐、羈旅、藝能、神祇釈教など、およそ詩歌の扱いうるすべてにわたっている。百韻の中にそれらを万華鏡のように詠み込むことが必要である。しかしながら、それらを詠むにあたって、一定の秩序と調和が必要になるので、それを句数と去嫌の式目によって定められる。この連歌式目には日本人の伝統的な美意識が内在するコスモロジーとして興味深い点が多々あるが、それはあくまでも複数の作者が交互にそれぞれが主となり客となって句を詠みあうときの秩序を規制するもので、式目それ自身は良き連歌を制作するための必要条件であるに過ぎない。重要なことは、それぞれの句の間に存する「附合」の美学である。

 

〇 心敬『ささめごと』ー「幽玄」・「さび」・「孤心」の美学の源流

 連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに

親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。

というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。

心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。

親句とは、客人の挨拶として投ぜられた発句に答える主人の脇のように、前句の内容に即して、それを補足しうち添える句を指す。これに対して、疎句とは、連歌の前句と付句との間に「切れ」(非連続性)があり、二つの句が独立自存しながらも深いレベルで響き合うことを意味している。連歌において即興性が重要であることは言うまでもないが、付句が前句に寄りかかり、意味の上で論理的につながるのではなく、また、「寄合」とよばれた語句の連想に頼るのではなく、その都度の作者によって見いだされた新しい世界を古い世界に対比させることを意味する。古い世界の繰り返しにとどまる付句は「付きすぎ」といって退けられる。そして、このような疎句付けを重んじる連歌の作法が、俳諧において芭蕉に受け継がれているのである。 

〇幽玄

 中世の日本の美学理念の一つは「幽玄」である。この言葉は、論者によって様々に意味が 変わるが、心敬の幽玄論を見てみよう。
 心敬の幽玄論は、恋の歌ないし述懐の歌について云われている点に特徴がある。 彼はまず白楽天の「琵琶行」から左遷された官吏の真情を揚子江上に弾く琵琶の音色に たとえた詩文

「尋陽江にものの音やみ、月入りて後、このとき、声なき、声あるに優れたり」

を重視する。つまり耳に聞こえる琵琶の音色も哀れであるが、その音がかき消えて、 月も西の山に沈んだ沈黙の瞬間こそが、「声ある」さまにまさる、ということーここに幽玄の詩情の原点を見る。

もうひとつは同じ白楽天の恋の詩、長恨歌の一節

春風桃李花開日    秋雨梧桐葉落時

である。これは楊貴妃を追慕する詩であるが、この詩の風体を「幽玄躰」とよび、「歌・連歌 の恋の句などにも、この風体あらまほしくかな」と結んでいる。ここでは、恋の情念は、直接には詠まれていないが、それらは余情として、詩文の行間の沈黙の中に切々 と湛えられている。

心敬は恋の句と述懐の句をとくに重視し、四季の景物を読む花鳥諷詠の句の上に置いている。恋と述懐の句は、「胸の底より出づべきもの」であって、決して安直に詠むべきものでなく、他の句にまさって沈思しまた推敲することを薦めている。

〇さび

語りなばその淋しさやなからまし芭蕉に過ぐる夜の村雨

 の一首をしめし「巫山仙女のかたち五湖の煙水の面影はことばにあらはるべからず」と 言ったのは心敬である。美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべき事―これが心敬の連歌の「さび」の美学の根本精神である。

「さび」の美学は、心敬以前にも俊成をはじめ様々な歌人が取り上げています。しかし、 それらは、文藝上の最高の理念を表すという位置づけを持っているわけではない。 そういう高い位置をもつに至ったのは心敬の連歌論をおいて他にはない。

このみちはひとえに余情・幽玄の心・姿を宗として、言い残し ことわり無き所に幽玄・感情は侍るべしとなり。歌にも不明体 とて、面影ばかりを詠ずる、いみじき至極のこととなり。

このような余情・幽玄の美の理念を作品に実現するためには、できる限り言葉をすくなくし、言外に深き余情を湛えさせねばならない。このような連歌に於ける至極の境地をさして、心敬は「ひえ・さび・やせ」という語を用いた。

昔、歌仙にある人のこの道をば如何やうに修行し侍るべきぞ と尋ね侍れば、「枯野の薄、有明の月」と答え侍りしと也。 これは言わぬところに心をかけ、ひえさびたる方を悟り知れ と也。境に入りはてたる好士の風雅は、この面影のみなる べし。

ここで心敬の言う「ひえ、さびたる」句を重んじる精神こそは、談林風の派手な俳諧か ら一転して、「誠の俳諧」を求めた芭蕉の「さび、しをり」の美学の源流にほかならない。

 〇孤心

連歌は「連衆心」がなければ巻くことができない。しかし、そのような付合のなかで、 我々は、それぞれが単独者であるという自覺を持つことが必要である。そういう「孤心」 を表明する心敬の付句をあげよう。

「我が心たれに語らむ秋の空」という句に

「荻にゆふかぜ雲にかりがね」      心敬

「荻には夕風」、「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でもたがいにその心をふれあうこともできようが、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれている。[3]

〇時雨の発句

応仁の頃、世のみだれ侍りしとき、あづまに下りてつかうまつりける(新撰菟玖波集)

雲は猶さだめある世の時雨かな  心敬

おもふ事侍りしころ同じ心を(老葉)

世にふるもさらに時雨のやどりかな      宗祇

興のうちにして俄に感ずることあり、ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに袂をうるほして、みづから笠のうちに書きつけ侍る(渋笠銘)

世にふるはさらに宗祇のやどり哉        芭蕉

宗祇と芭蕉の句はよく知られているが、そのルーツは心敬にある。宗祇の句は明らかに心敬を意識して作っており、芭蕉の句が宗祇の時雨の句を借りたことは明かである。心敬の句には応仁の乱を生きた作者の息づかいが聞こえます。雲は定めなきものであるが、その雲でさえ「定めある」と思わせるような乱世を「時雨」によって象徴した作品である。 

〇ありふれたものの詩情

「名も知らぬ小草花さく川辺かな」 といふ発句に

「しばふがくれの秋のさは水 心敬 」

発句の作者は蜷川親当で、後世の芭蕉の

「よく見れば薺花さく垣根かな」

 を想起させる句である。こういう句を見ると、心敬の一座した百韻で読まれた連歌と芭蕉の俳諧の風雅の精神との近さが実感できるであろう。

心敬の脇は、名もなき小草の花の「かそけき」有様を、秋の沢水の「冷え冷えと清みた」風情をもってつけた句です。「しばふがくれの」水は、その身にしみるような清冽さを表には見せない。しかし、このような発句と脇の呼応の中に、心敬は「月花の名句」 に勝る詩情を見いだしていたに違いない。

芭蕉の俳諧における重要な特質の一つは、その附合が従来の附物・心附にとどまらず、いわゆる匂附を根本としたところにある。一句の独立性と二句の連関性とは矛盾する要求であるが、この矛盾を創作の原理に転じたところに連歌の疎句付けの妙味があった。

「附心は薄月夜に梅の匂へるがごとくあるべし」

という芭蕉の言葉がある。彼によると

「秋よりのちの朝顔のいろ」(短句)

に対して、

「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」(長句)

と続ける「附心」が、匂づけである。(俳諧芭蕉談)

まず、「季節遅れの朝顔の花」の余情を尋ねる。その情は、いつか時を過ぎてなお微かに色香をたもっている女性の姿を彷彿とさせる。この余情を形に表して、「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」と続ける。つまり、「朝顔のいろ」は純然たる叙景であるが、それがある人物の姿となって現れる。これは、「風姿」→「風情」への転調と言って良いだろう。朝顔が前句にあるからといって、朝顔にゆかりのある「物」で付けたのでは「物付け」となり、情趣に乏しい。前句の余情に付けるから「匂づけ」であるが、「匂」は、その物ではなく、その「物の影」である。

ところで、「物の影」に付けるのではなくて、これが「物語」の影につける場合は、「面影(俤)づけ」といわれる。芭蕉の俳諧の場合、中国と日本の詩歌の古典―源氏物語、李白・杜甫、白楽天などの漢詩など―が、やはり下敷きになっている。そして、それらが、同時代の生きた俳諧の言葉で語られている。「面影づけ」のばあい、その句は背景を為している古典を知らない人が読んでも、情趣のあるものであることが要求される。つまり、引用であることを知らなければ理解できない句はあまり洗練されていない付け方である。

 〇 蕉風俳諧の新しみと創造性

 芭蕉の門下では、一般に「等類の句」「同巣の句」は、避けるべきことが言われる。

イ.樫の木の花にかまはぬ姿かな  芭蕉

ロ.桐の木の風にかまはぬ落葉かな 凡兆

「去来抄」によると、其角はロがイの「等類の句」であると非難したとのこと。

これに対して、凡兆は、言葉遣いは似ているけれども、句の意味内容が全然違うから「等類の句」ではないと反論した。去来の考えでは、句の主題は全然違うけれども、言葉遣いが類似しているのでロはイの「同巣の句」であると評した。つまり

「等類の句」=同じ趣向、おなじ内容の句

「同巣の句」=同じ言葉遣いの句

である。去来によると、「同巣の句」を作るのは容易安直すぎるのが問題である。「同巣の句」を詠んだとしても、それは詠み手にとって、すこしも「手柄にはならぬ」と云う。このように蕉門では、「等類の句」や「同巣の句」は、原則として避けるべきであるが、場合によっては、もとの句よりも優れた「等類の句」や、もとの句にない新しい内容を感じさせる「同巣の句」が出きる場合がある――そういうときに限って、例外的に許容された。

芭蕉自身は、たとえ自分自身の作品であっても、過去の作例と「等類」あるいは「同巣」の句を作ることを極力避けようとしたことが良く知られている。

「清滝や浪にちりなき夏の月」

という辞世の句が

「白菊の目にたててみる塵もなし」と「等類」の句となるがゆえにこれを案じ変えて

「清滝や波に散り込む青松葉」

としたことなど、「去来抄」にある通りである。

芭蕉の「俳諧の誠」は、過去を乗り越える「あたらしみ」が生命であるので、自分自身の過去ですら模倣を許さないのである。

更に芭蕉が、自らの辞世の句が過去の自作と「等類の句」となることを嫌った理由として、「誠の俳諧」をたしなむものに固有の美意識があったことがあげられる。誠の俳諧は連歌とおなじく、一巻の中に類似した発想が繰り返されることを「輪廻」や「観音開き」と言って最も嫌う。同じ趣向の反復は輪廻から解脱すべき自由なる精神にふさわしくないのである。その自由は過去からの自由であり、つねに「新しみ」をもとめて未来に賭ける創造者の自由であった。「此みちに古人なし」「我はただ来者を恐る」(三冊子)という芭蕉の言葉はかかる意味に理解されるべきであろう。

 

〇「匂ひ」の美学

芭蕉の俳諧の根本精神を表す言葉として「匂ひ」を取り上げよう。 

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

 薄月夜とは、雲などに遮られてぼんやりと月が見える様。くまなく見える月ではない。 この美学は、心敬のいう幽玄の美学の系譜に属する。あらわなもの、明るすぎるものは、 読者の想像力を働かせる余地がないが故に詩情を喚起しない。「薄月夜の梅の匂ひ」のご とく、かすかなるものほど、ほのかなるもののなかに隠れている美を象徴することーここに蕉風美学の出発点がある。「匂ひ」とはそれをあらわす独特の用語である。

「匂ひ」という言葉は、風雅の「風」と縁のある言葉である。風は、多くの言語では「霊」 的なもの(インスピレーション)と同義であり、それ自体は言語で記しがたいものであるが、藝術や宗教の生命を象徴する。その風が「雅(みやび)」であって「俗」でないことを要求するのは「風雅」という言葉である。芭蕉晩年の弟子の一人である惟然から、風雅とはどういうものかと尋ねられた芭蕉は、「句に残して俤にたつ」ことだと云っている。(一葉集遺語)

「句に残す」とは、句のなかで言い残して、却ってその「おもかげ」にたつことが風雅だというのである。従って、蕉風俳諧では、「言い尽くす」こと「言い畢ほす」ことが嫌われた。たとえば

「下伏につかみわけばや糸桜」

という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、

「言ひ畢ほせて何かある」

と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。

「匂ひ」は、しかしながら、発句のような短詩を成立させる技巧と見るべきではない。技巧のような作為は、言うなれば「臭い」のであって、こころの風光を漂わせる自然なる「匂ひ」とは正反対のものだからである。

「附といふ筋は匂、ひびき、面影、移り、推量などと形なきより起るところなり、心通ぜざれば及び難き処なり」(三冊子)

それでは、匂附の実例としてどんな附合があるのかを見てみよう。鬼貫が幻住庵の 芭蕉のもとを訊ねたときの歌仙、「夏木立」の巻から例を引く。

「うすうすと色を見せたる村もみじ  芭蕉」

に対して、どういう付けがよいのか。その場では、次の四句がでたが、どれも芭蕉によって却下された。

一   下手も上手も染屋してゐる

二  田を刈りあげて馬曳いてゆく

三  田を刈りあげてからす鳴くなり

四  よめりの沙汰もありて恥かし

最後に

「御前がよいと松風の吹く    丈草」

という付けが出たときに、はじめて芭蕉は印可したという。芭蕉の門弟達が、この附合 を「匂ひ」付けと呼んだことは、俳諧芭蕉談のつぎの言葉に明らかである。

「御前がよいと云う松風は、うすうすと色を見せたる匂ひを受けて句となる。心も転じ、 句も転じ、しまこその力をとどめず、これを「にほひ附」といふ。」



[1] In order to arrive there,

To arrive where you are, to get from where you are not,

you must go by a way wherein there is no ecstasy.

In order to arrive at what you do not know

you must go by a way which is the way of ignorance.

In order to possess what you do not possess

you must go by the way of dispossession.

In order to arrive at what you are not

you must go through the way in which you are not.

[2]この黄金律に反する典型的事例が「観音開き」である。観音様を安置している厨子は扉を開けると左右対称になっている。そこで、中の句を挟んで、前句とつけ句が同じ姿をしているもの、同じ趣向になっているものを「観音開き」という。「観音開き」あるいは一般に「輪廻」となる連なりは、連歌俳諧の伝統の中ではもっとも嫌われたものであった。

 

[3] 「この秋は何で年よる雲に鳥」という芭蕉の発句と通底する心情が詠まれているといえよう。

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懺悔(さんげ)道と菩薩行

2019-06-03 | 哲学 Philosophy

懺悔(さんげ)道と菩薩行

 

田中 裕(上智大学名誉教授)

略説

 

(1) 『懺悔道としての哲学』[1]は敗戦時の日本の「歴史的現実」─自己と自己の帰属する民族・文化の「自己同一性の危機」―への哲学的応答であった。田辺自身は親鸞の浄土真宗、とくに『教行信証』の言葉に導かれていたが、それは、仏教だけに限定されたものではなく、田辺が後に書いたように『キリスト教の辯證」へと展開されるべき契機を含むものであった。民族の自己同一が問われた亡国の危機こそは、まさにユダヤ教の預言者的精神と、ユダヤ教を世界宗教へと刷新したキリスト教の起源であった事を思えば、田辺の直面した歴史的現実が、キリスト教と関わるのは当然である。

(2)戦後の田邊の宗教哲学は、理論的哲学(理観=テオーリア)を越えて、実践的な「理性の事実」にもとづく道徳を語るカントの批判哲学の立場、そこから「理性の限界内で」宗教を語るカントの立場を更に徹底させたものである。[2] 田邊は戦後を生き延びた哲学者であり、出陣学徒を戦地に送った帝大教授であった。生き延びたものが死者達へ感ずる罪責と懺悔の情念、自己の理性の無力を実感した田邊に、更に哲学を続けることを可能にしたもの、「哲学ならざる哲学」として恩寵の如く与えられたものが「懺悔道としての哲学」であった。

(3)田辺の言う「懺悔」は、「過去」の悔悛にとどまらず、「現在」を生きる人間の実存の根本的な転換、すなわち廻心を意味すると同時に、「未来」に約束された救済の福音を、「今此処」の「世俗の中」で生きることを意味している。すなわち「懺悔道」は、救済の時のもつ過・未・現の三一構造をふまえて語られている。その救済の時のもつ三一論のダイナミズムが、過去・未来・現在の世代を相互に媒介する実存協同論となることによって、戦後の田辺哲学は、日本民族(種)の特殊性を越えた、普遍的な救済論の可能性を提示している。

(4)宗教的経験の事実(それは個人的であると同時に社会的であり、歴史の中にあって歴史を越える事実)を解明することは西田と田辺に共通する課題であった。田邊から西田に遡って、「懺悔道としての哲学」の課題を引き受けることが重要であろう。

西田六二歳の時の著作、『無の自覺的限定』の宗教論は、まさにキリスト教論であると言ってもよい。滝沢克己はこの著作を読み、後に西田のすすめによりカールバルトの神学を聴講したときに、非キリスト者である西田がバルトと同じ問題を論じていることに驚き、後年、「西田哲学はこのときに生まれ、この国の言葉をもって語られたる真(まこと)の神の証言(あかし)としての悔改(メタノイア)の哲学である」[3]と書くことになったが、それはある意味で西田がキリスト教的な経験の事実にそれだけ肉薄したことを意味している。 西田はまず「哲学史上自覚の深き意義に徹底し万物をその立場から見た人」としてアウグスチヌスの言葉を引用し、その「三位一体論」を神学的人間学として評価し、「我々が外物を離れて深い内省的事実のなかに自己自身の実在性を求めるとき、自ら神に至らざるを得ない」と書く。[4]ここで注意すべきは、「自覚」を促す神の働きを「創造」という言葉で西田が表現するようになることがあげられる。これ以降、創造という働きが、単に「自己が自己に於いて自己を映す」という写像作用の代わりに用いられると共に、自己の内に完結する自己内写像の作用を突破する「絶対の他」という用語が「無の自覺的限定」のなかに登場するようになる。
(5) 「無の自覺的限定」では、他者論とアガペ論、そして原罪論というキリスト教的テーマが集中的に取りあげられる。まず、「肉親」への愛、「我国人」への愛を越える愛が、エロスならぬアガペとして位置づけられ、絶対に分離せるものの結合としてキリスト教的愛が考察される。[5] 次に自己知よりも「汝」の呼びかけ、「物のよびかけ」が先行することが指摘され、「過ぎ去った汝として過去を見ることから歴史が始まる」という歴史認識が示される。「自己自身の底に蔵する絶対の他と考へられるものが絶対の汝という意義を有するが故に、我々は自己の底に無限の責任を感じ、自己の存在そのものが罪悪と考へられねばならぬ」という立場からキリスト教的な「原罪」の意味するものが語られる。すなわち「自己自身の底に絶対の他を見るということの逆に絶対の他に於いて自己を見る」という意味に於いてのみ、真に自己自身の底に原罪を蔵し、自己の存在そのものを罪とする人格的自己」が考えられること、そこに西田はキリスト教の云うアガペの意味を見出している。[6]
(7) 西田にとって宗教の問題は、ある意味で彼の哲学的思惟のアルファであると同時にオメガでもある。しかし、その思惟は、アルファの以前、およびオメガの以後を限りなく追求するということを付記せねばならない。西田は、哲学的思惟の可能根拠を求めて、思惟の原理以前の経験、原理(アルケー)をさらに遡る無底の経験、ないし経験の無底へと下降する。この下降的な超越ないしケノシス的な超越こそが、西田の宗教哲学に於ける超越論的経験の基本的な特徴である。「有を存在せしめる根拠」を再び存在者として定立することはできない。したがって、(卓越した意味での)存在者、もっとも完全なる存在者を目指す「上昇的超越」、すなわち神的なエロスにもとづくプラトン的な超越は、下降的超越の経験無くしては成立しない。上昇的超越は、対象化しえぬものを対象化する「ノエマ的超越」に立脚する限りは、経験の裏付けを持たぬカント以前の形而上学的思惟として斥けられる。西田のいう場所的論理においては「ノエーシス的超越」という語が使用されたが、それは知的直観としてのノエーシスの立場をもって哲学的思惟の終結と見なす立場そのものの超越、すなわち「メタ・ノエーシス」の立場をも含意している。田辺の『懺悔道としての哲学』の立場は、ある意味に於いて西田のうちに既に存在していたものである。
(8) 最晩年の西田哲学のキリスト教論は、それ以前の西田哲学の行為論の要をなしていた「行為的直観」をも越えるものであった。そこでは、「神の言葉」が、聞くべくして見るべからざるものとして、主題化される。[7] 「場所的論理と宗教的世界観」を執筆中に鈴木大拙に宛てた書簡に依れば、西田は第二次世界大戦に於ける日本の敗北と予感しつつ、その終末論的な意識のもとで、旧約の預言書を読み、おそらくはじめて旧約聖書に内在する預言者の精神に触れたと思われる。西田は大拙に向かって、バビロン捕囚時代のユダヤ民族の精神に学ぶべきことを指摘し、「民族の自信を唯武力と結合する民族は武力と共に亡びる」と述べる。それと同時に、鈴木大拙の言う『即非』の論理に共感し、その立場から、「人というもの即ち人格」というものを出し、それを現実の歴史的世界に結合することを自分の課題としていると述べる。[8]
(9)戦後の田辺の宗教哲学のもうひとつの根源語は「菩薩行」であるが、「懺悔道」と「菩薩行」との連関を解明するために、田辺が頻繁に用いた「行道」と云う言葉の意味を次に考察する。この言葉は、もともとは、仏教寺院で本尊や堂塔の周りを念仏して回り歩く礼拝儀式をさすものであったが、田邊は、そのような単なる宗教儀礼を念頭に置いているのではない。彼の「行道」とは、文字通り「懺悔の道」を「行ずる」ことであった。[9] 

田辺元の道元論に大きな影響を与えた和辻哲郎の『沙門道元』は、道元の思索と実践を「禅宗」という如き「宗派」を越えた普遍的な場で道元の「学道」ないし「行道」の精神を捉えようとした書である。この書で、和辻は、阿弥陀仏の本願他力に随順する親鸞の念仏行と、峻厳なる戒を守る出家の功徳を説き、知恵の完成行を無窮に行じる道元の座禅とは、前者が阿弥陀という名を持つ絶対者の慈悲による救済をとき、後者が、自己の救済よりも他者の救済を先立てる菩薩行としての座禅を選択したという方法上の違いはあっても、その根底に於いては慈悲を根本とする大乗仏教の根本精神があると述べている。「道得」や「葛藤」を重視する道元の道(ことば)に「日本哲学の先蹤」を見る点では、和辻も田辺も共通している。それでは、道元の中にも単なる哲学ではなく、田辺の言う意味での「懺悔道」の先蹤も見ることができるであろうか。

 

(10)「随聞記」は受戒と懺悔についての道元と懐奘との間の次のような対話を収録している。

問云、「受戒の時は、七逆の懺悔すべし、と見ゆ。如何」

答云、「實(まこと)、懺悔すべし。受戒の時、不許事(ゆるさざること)は、旦、抑止門(おくしもん)とて抑ふる儀也。又、上の文は、破戒なりとも還(また)得受せば、清浄なるべし。懺悔すれば清浄也。未受に不同(おなじからず)。

問云、「七逆、已に懺悔を許さば、又、受戒すべきか如何」

答云、「然也、故僧正、自所立の義也。已に懺悔を許さば、又、是、受戒すべし。逆罪なりとも、悔いて受戒せば、可授(さずくべし)。況、菩薩は、直饒(たとひ)、自身は破戒の罪を受くとも他の為に受戒せしむべし。

この「菩薩は、たとえ自分は破戒の罪を受けるとも、他のために受戒させるべきなのだ」という道元の言葉は、七逆という最も仏法に違背した罪を犯したものをも、救済しようという菩薩の徹底した精神が表現されている。

(11)「黄泉に下る菩薩」―道元の遺偈についての考察

入滅を前にして道元禅師は法華経神力品の一節を唱えながらそれを柱に記した。[10]

その翌朝、彼は居ずまいを正して次の遺偈を弟子達に残した。(建撕記)

五四年照第一天(五四年第一天を照らす)

打箇𨁝跳 触破大千(この𨁝跳を打して大千を触破す)咦(にい)

渾身無覓 活落黄泉 (渾身に覓むる無し  活きながら黄泉に陥つ)

道元禅師の遺偈の「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)という結びの言葉は、何を意味するのであろうか。

(11)この遺偈を単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察したい。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。

如浄禅師の遺偈:六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 咦 従来生死不相干

孤雲懐奘の遺偈:八十三年如夢幻 一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去 虚空踏翻没地泉

如浄─道元─懐奘 と受け継がれた一連の遺偈に通底するものを、徹底した菩薩行として、衆生の罪を一身に引受けて黄泉に下る菩薩の懺悔道と捉えることができる。菩薩の道は、一切の衆生を救済しようという大悲の誓願に基づいている。

(12)如浄から嗣法し、懐奘に伝えた道元の仏道は「見性成仏」を云う「禅宗」の禅ではなく、大悲の誓願に基づく菩薩行としての座禅であったことは、如浄が道元に語った次の言葉が示している。

いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)

如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。この菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する言葉である。それこそが、自己と無関係なものは何一つない縁起の法を生きる菩薩の心であろう。

(13)面山瑞方が編集した『傘松道詠』に収録されている道元の道詠  

愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん

  草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん

もまた、菩薩行を説くものであるから、如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元、その道元との対話を記録した懐奘の遺偈もまた「黄泉に下る菩薩」の「行道」の言葉として読むことができよう。

(14)『教行信證』再考-─五逆の罪を犯し、正法を誹謗した者に救済はあるか?

『無量寿経』の第一八願の願文の末尾に「唯除五逆誹謗正法」とあり、これは従来「ただ五逆の罪と誹謗正法の罪だけは救いの対象から除外する」という排除規定として読まれてきた。そうすると摂取不捨という弥陀の本願と矛盾しないだろうか?

(14)すでに曇鸞の時代に、この問題は意識され、道綽の安楽集では、の第一八願趣意では、排除規定は省略されている。善導は、これを排除の意味ではなく如来の願いを込めた抑止門とされ(謗法・闡提・廻心皆往)未造の者に対する抑止、已造の者は廻心さえすれば救うという意味に解釈する。除外規定は教育的配慮として付加されたと解釈する。

(15)もう一つの可能な解釈は、漢訳経典の本文批評にもとづき、「五逆」も「誹謗正法」も、そのような罪を犯した「罪人」をいうのではなく、「罪そのもの」と読み、この文は「五逆と誹謗正法の罪を犯した者を救いの対象から除外する」のではなく「五逆と誹謗正法の罪そのものを取り除く」と解する。たとえば、観無量寿経に「除八十億劫生死之罪」「除無量億劫生死之罪」「除却千劫極重悪」・・・の文があり、多く「除・・」は極悪人を救いから除外するという意味ではなく、罪そのものを端的に除くという意味である。[11] 一切衆生の救済を願う弥陀の誓願に、救済から除外されるものを含ませるのは不自然であり、本来的な「摂取不捨」の誓願には相応しくないとする解釈である。

(16)道元は七逆の重罪を犯した者には受戒させないという戒律規定を「抑止門」とみることによって、そのような者でも、「懺悔」させることによって受戒させるのが菩薩の道であることを述べたが、親鸞も又、弥陀の本願の「唯除五逆誹謗正法」を次のように釈義している。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふ言葉なり、五逆の罪人をきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんためなり。(『尊号真像銘文』)

五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪をけすまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらしめんがためなり。(『唯信証文意』))

『教行信証』は信巻の根本主題として、「逆謗摂取釈」を取り上げ、浄土三部経だけでなく涅槃経の「阿闍世王懺悔」の物語を長文に亘って引用している。

(17)涅槃経は「一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易」を説くと同時に、五逆の重罪を現に犯してしまった人の救済の物語を主題としており、道元もまた鎌倉行化の際に在家の信者の家で書き留めた「白衣舎示誡」でこの物語に言及している。そこでは、仏教の因果応報の理を否定して、阿闍世王の父王殺害を正当化する言説を説く六人の大臣の(六師外道の説)が書き記されている。仏陀の弟子の耆婆が、「慚愧の心」が人を人たらしめることを王に説いたあとで、「阿闍世の犯した悪業の罪は決して逃れられず、釈尊以外の誰も阿闍世を救うことはできないから、六人の大臣の詭弁に従ってはならぬ」という亡父の声が天上より響き渡り、釈尊による阿闍世王の救済が語られる。

(18)悪人正機説は法然および親鸞の浄土教の核心にあり、更に『歎異抄』では弥陀の本願は「親鸞一人のためなりけり」という言葉が記されているが、涅槃経では、摂取不捨を衆生救済を誓う弥陀の役割を、「阿闍世独りの為に涅槃に入らぬ」釈尊が引き受けている。一切の衆生というのではなく、なぜことさらに阿闍世ひとりのためというのかという迦葉の問に対して釈尊は、「阿闍世王独りの救済は一切の五逆を造る者に普く及ぶからであり、私が世に留まるのは、一切有為の衆生(煩悩具足の衆生)のためである、と答えている。[12]



[1] 私は懺悔道を「さんげどう」と読み、敗戦直後の「一億総懺悔」の如き無責任な「懺悔(ざんげ)」の喧伝から区別して用いることにしている。

[2] 「宗教は心霊上の事実に基づくものであり、哲学はその事実を解明すべきものであって、理性の立場から概念的に宗教的経験を捏造すべきではない」とは、最晩年の西田幾多郎の宗教哲学の立場であった。戦前・戦中の田辺の「種の論理」にもとづく国家論や宗教論にはそのような概念的図式の偏重があったことは確かであるが、「懺悔道としての哲学」に始まる田辺の宗教哲学にはもはや当て嵌まらない。

[3] 「西田哲学の根本問題」こぶし書房刊、214頁、2004(法蔵館「滝沢克己著作集第一巻」1972)

[4] 「場所の自己限定としての意識作用」西田幾多郎全集6:116 

 「哲学史上自覺の深き意義に徹底し萬物をその立場から見た人はアウグスチヌスであったと云ひ得るであらう。その「三位一體論」の一篇は一種の神學的人間學と云ふことができる。我々が外物を離れて深い内省的事實の中に自己自身の實在性を求める時、自ら神に至らざるを得ない。彼は「懺悔録」の始に Thou awakest us to delight in Thy praise; for Thou madest us for Thyself, and our heart is restless, until it repose in Thee と云って居る。彼は我々の自覺的實在の根抵を神に求めた。メーン・ドゥ・ビランの「人間學」といふ如きものも我々の精神的生命の基を神に帰して居る。」

[5] 「自由意志」 西田幾多郎全集6:319

「汝の隣人を汝自身の如く愛せよといふキリスト教的愛は、絶対に分離せるものの結合でなければならぬ。我親なるが故に、我子なるが故に、愛するのではない。又我国人なるが故に愛するのでもない、否、何等の価値のために愛するのでもない、唯、人なるが故に愛するのである。」

 

[6] 「私と汝」西田幾多郎全集6:419-420,424 

「道徳的にはわれわれは有限なる自己の中に無限の当為を蔵することによつて人格と考へられ、宗教的には罪の意識なくして人格といふものは考へられないと云はれる。併し我々の人格的自己は何故に斯く考へられねばならぬのであろうか。それは我々の自己自身の底に絶対の他を蔵するといふことを意味するに外ならない。自己自身の底に蔵する絶対の他と考へられるものが絶対の汝といふ意義を有するが故に、我々は自己の底に無限の責任を感じ、自己の存在そのものが罪悪と考へられなければならない。我々はいつも自己自身の底に深い不安と恐怖とを蔵し、自己意識が明となればなる程、自己自身の罪を感ずるのである。」

「自己自身の底に絶対の他を見るといふことの逆に絶対の他に於て自己を見るといふ意味に於てのみ、真に自己自身の底に原罪を蔵し、自己の存在そのものを罪とする人格的自己といふものが考へられるのである。そこにキリスト教の所謂アガペの意味がなければならない。」

[7] 「哲学の根本問題」西田幾多郎全集7:428
「現実が現実自身を限定する世界を絶対否定の肯定として絶対弁証法的世界の自己限定と考へるならば、自己自身を限定する現実の世界の底に、我々は行為的直観を越えて、無限なる表現に対すると考へなければならぬ。それは唯何処までも我々の行為的直観を越えるもの、行為的直観によつて達することのできないものと云ふだけでなく、行為的直観を否定する意味を有つたものでなければならない、道徳をも否定する意味を有つたものでなければならない。それがキリスト教徒の所謂神の言葉と考へられるものである。それは聞くべくして見るべからざるものである。絶対の彼方にあるのである。」 キリスト教を度外視した西田哲学解釈では「行為的直観」をもって西田の最終的立場とするものが多いが、上のテキストは、それが適切ではないことを示している。

[8] 「鈴木大拙宛書簡」 西田幾多郎全集19:399,426「私は今宗教のことを書いています。大体従来の対象論理の見方では宗教といふものは考へられず、私の矛盾的自己同一の論理即ち即非の論理でなければならないと云ふことを明にしたいと思ふのです。私は即非の般若的立場から人といふもの即ち人格を出したいと思ふのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいとおもふのです。」(昭和20年3月11日 鈴木大拙宛書簡) 「君の東洋文化の根柢に悲願があるといふことよく考へて見るとそれ非常に面白い。私もさういふ立場から考へて云って見たいと思ふ。その故に西洋の物の考へ方がすべて対象論理的であったのだ。此頃猶太民族の宗教発展の歴史を読んで色々考へさせられる。猶太人がバビロンの捕囚の時代に世界宗教的発展の方の基礎を作った。真の精神的民族は斯くなければならぬ。民族の自信を唯武力と結合する民族は武力と共に亡びる。」(昭和20年5月11日 鈴木大拙宛書簡)

[9] 懺悔道における行道は「懺悔の道行ずる」とも読める。「私が道を行ずる」のではなく、「道が私を行ずる」のである。『正法眼蔵随聞記』では、「学道の人、もし悟を得ても、今は至極と思て行道を罷ることなかれ。道は無窮なり。さとりても、行道すべし」とあり、「無窮の行道」が道元の言葉として伝えられている。

[10] 建長五年(1253)道元は義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念邸で自身の病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、この館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる。(建撕記巻下などの伝承による)そこには次のような言葉がある。「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、転法輪の場所であり、完全なる涅槃に入る場所であるというのが、道元の京都での最後の在家説法の趣旨であろう。

「放下身心(しんじんをほうげして)、一向(いっこうに)可入仏法(ぶっぽふにいるべし)」と仏向上を説く道元が、出家の功徳と在家のための菩薩行を同時に説く法華経の行者であったことを、この偈は如実に示している。

[11]北村文雄著『教行信証と涅槃経』、(永田文昌堂2014) 参照。 

このような解釈は、キリスト教におけるイエスキリストへの信仰告白「世の罪を除きたもう主よ、憐れみたまへ」に通じるものでもある。この「キリエ・エレイソン」と呼びかけられる「主」は、「世の罪人を除く〔裁く〕」のではなく端的に「世の罪を除く」のである。私の理解するところでは、キリスト教における信心業の「十字架の道行き(via crucis)」は、キリストに倣う「行道」である。

「使徒信条」のなかの「黄泉に下るキリスト」を論じたバルタザールの「過越の神秘」、ラッティンガ―の教義学(終末論)、はアウシュビッツ以後の「十字架の神学」を、カトリックの伝統を配慮しつつ受けとめたものであるが、それに拠れば、「黄泉に下るキリスト(discendit ad inferos))は、救済からもっとも遠い場所へキリスト自身が下ることによって、神から切断された極悪人の苦しみを自ら引き受けたものである。

Transdescendence (下への超越)がTranscendence(上への超越)に外ならないこと、最も神から遠い(黄泉の)暗黒を照らす光としての「まことの菩薩」としてのキリストが一切の被造物の「救済の希望」の根拠であるという解釈についてはHans Urs Von Balthazar, Dare we hope “that all men be saved”?(Ignatius,1987)(ドイツ語原書のタイトルは Was dürfen wir hoffen? 我々は何を希望することが許されるか?)参照。また、大乗仏教の菩薩の背後に「まことの菩薩」としてのキリストを見るキリスト教教義学の立場については、Joseph Rattinger Eschatologie-Tod und ewiges Leben (Kleine Katholische Dogmatik, Verlag Friedrich Pustet Regensburg, 1977) 参照。

 

 

[12]我今當爲是王住世至無量劫不入涅槃 迦葉菩薩白佛言 世尊 如來當爲無量 衆生不入涅槃 何故獨爲阿闍世王….. 阿闍世者普及一切造五逆者 又復爲者 即是一切有爲衆生  我終不爲無爲衆生而住於世 何以故 夫無爲者 非衆生也 阿闍世者 即是具足煩惱等者  

(大般涅槃經卷第二十 北涼天竺三藏曇無讖譯 梵行品第八之六)

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