歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「在りて在る者」-出エジプト記第三章

2009-05-18 |  宗教 Religion

旧約聖書のなかで歴程神学(hayathology)にとってとりわけ重要な意味を持つのは出エジプト記第三章である。それは「歴程」(Haya)という言葉の用法が此処に典拠を有つと云うにとどまらず、「出エジプト」という歴史的出来事の有つ普遍的な意味ーそれはひとり過去のユダヤ人の民族的経験にとどまるのではなく、個と民族の歴史的自覺のありようを如実に伝える物語として、世界史の中で画期的な意味を持つ。

ユダヤ教の民族主義の壁を突破して世界宗教へと展開したキリスト教にとって、「出エジプト=脱出」は、特定の民族の自己同一性の証言にとどまらず、万人に妥当すべき歴史的現実である。そして、この第三章においてモーゼに啓示される神の名前は、中世のキリスト教神学においては、神学とギリシャに於ける哲学的な神探求=形而上学を結ぶ絆でもあった。西欧のキリスト教神学は、ギリシャの哲学と聖書の神との出会いの産物であったが、その二つの思想の流を媒介する聖書のテキストの重要な一節が、この出エジプト記第三章13節ー14節のモーゼに与えられた神の名の啓示であったのである。

それゆえに、この出エジプト記をあらためて読む場合に、そこに表現されている「神の名の啓示」とは如何なるものであったのか、それをまず確認しておこう。

 וַיֹּאמֶר מֹשֶׁה אֶל-הָאֱלֹהִים, הִנֵּה אָנֹכִי בָא אֶל-בְּנֵי יִשְׂרָאֵל, וְאָמַרְתִּי לָהֶם, אֱלֹהֵי אֲבוֹתֵיכֶם שְׁלָחַנִי אֲלֵיכֶם; וְאָמְרוּ-לִי מַה-שְּׁמוֹ, מָה אֹמַר אֲלֵהֶם.

13 モーゼ神に言ひけるは、「我イスラエルの子孫の所にゆきて汝らの先祖の神我を汝らに遣したまふと言はんに、彼等もし其の名は何と我に言はば何と彼等に言ふべきや。

 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים אֶל-מֹשֶׁה, אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה; וַיֹּאמֶר, כֹּה תֹאמַר לִבְנֵי יִשְׂרָאֵל, אֶהְיֶה, שְׁלָחַנִי אֲלֵיכֶם.

14 神モーゼに言ひたまひけるは、我は、在りて在る者なり。また言ひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫に言ふべし。我在り、といふ者、我を汝らに遣はしたまふと。

 イスラエルの神、即ちアブラハム・イサク・ヤコブの神の固有名は何というのか。一昔前の聖書の読者ならば、「エホバ」、現在の読者ならば、「ヤーウェ」と答えるかも知れないが、実は、これらは、ユダヤ人が聖書を読むときに実際に口に出す言葉ではない。所謂神聖なる四文字を読むときに彼等は「アドナイ(主)」と言うのであって、決して神を名指しで呼ぶことをしないのである。神の名は聖なるものであるが故に、みだりに口にしてはならないというのが、彼等の考え方であった。「エホバ」は神聖四文字にアドナイの母音をあてはめて読んだものに過ぎず、「ヤーウェ」という発音は旧約學者の学問的推定である。したがって、エホバにせよヤーウェにせよ、その音から、神聖四文字に込められた意味を推定することは出来ない。また邦語訳聖書で「神」と訳されているエロヒームという言葉は、普通名詞であり、偶像崇拝の對象となっている多くの神々にも共通する名前であるから、アブラハム・イサク・ヤコブの神の固有名ではないのである。

古代人にとって、或る對象の名前を知ることは、その對象と親密なる関係に入ることを意味すると共に、その對象に対する話者の支配権を確立することとも結びついている。そういう感覚は洋の東西を問わぬと思う。さらに、名指すことのできるものは、有限なるものであり、限定されたものであり以上、限定するものよりも劣った存在であるとも言えよう。「名の名づくべきは常名にあらず」とは老子の言葉であるが、そこには、人間の与えた名前などは永遠の名にはなり得ないという洞察がある。「無名」なる實在と「有名」なる現実ないし活動とのあいだの関係は、洋の東西を問わぬ哲学の根本問題である。

聖書の世界は、しかしながら、無名を始源とする世界ではなく、基本的には固有名のおりなす歴史によって形成される世界である。そこにおいて最も根本的なる存在は如何なる名前を持つのか、ということは、存在とは何かということを根本的な問とする哲学の核心に触れる問題を提示するものと言うべきであろう。

出エジプト記のこの一節をヘブライ語で読むのを聴いてみたまえ。なんと力強い響きがあることか。「ワヨーメル・エロヒーメル・モーシェ イエヒエ・アシェル・イエヒエ」。それは端的な同語反復の有つ力強さである。

「我在り」と云ふもの我を遣はしたまふ-これも、二つの「我」という言葉が響き合う。 絶対無限なる、一切の相を絶した「我」という言葉、その「我」を「絶対の他」として、それ自身によって、それ自身と共に、それ自身のうちに成立する「我」という言葉が響き合う。絶対に切り離すことができず、しかし決して同一ではなく、不可逆なる絶対の順序を有つ根源的な関係の自覺である。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私」の無限の重み - 「意志と表象としての世界」再読。

2009-05-02 |  宗教 Religion

  第一巻で「世界は表象である」と規定し、第二巻で、「世界は意志である」と規定したショーペンハウアーは、第三巻において、プラトンのイデア論とカントの言う物自体の議論を独自の仕方で統合することを試みる。イデア論は彼の藝術論と深く関わるので、私自身、このあたりがもっとも興味深いところなのだが、このたび再読してみて、以前気が付かなかったこと、些細なことにみえてその実、重大な意味を秘めている事柄に気づいた。

 第一巻、第一章では著者は「世界は私の表象である」(Die Welt ist meine Vorstellung)と言っていた。表象(Vorstellung)という名詞につけられた「私の」という形容詞が、第三巻第30章では欠落し、単に「第一巻で我々は世界を単なる表象として、主観に対する客観として展示した」と述べているだけなのである。「世界は私の表象である」とか、「世界は私の意志である」いう一人称表現には、ある独特の強さがあり、それに比べると「世界を、主観に対する客観として展示した」という三人称表現は、ずっと常識的であって迫力に欠ける。著者は、「純粋理性批判」に関しては独我論的ともみえる第一版をとり、観念論論駁を付した第二版を後退と見るカント解釈を打ち出したのであるが、その著者自身が、第一巻の強い表現から、第三巻の弱く常識的な表現に後退したように見えるのは残念であった。

 「世界は私の表象である」は、あきらかに独我論的な表現であり、「私の」表象を離れた世界自体の存在を否定する意味合いを含む。これに対して、「世界は主観に対する客観である」という表現では、私という主観以外に、他我の存在も認められている。すなわち複数の主観が有るということが認められており、私にとって表象として立ち現れなくとも、私とは独立にある他の主観に対する客観として現象するものを世界は含むこととなる。その場合には、どの主観も、「世界は私の表象である」といって世界を私物化することは許されないが、「世界は表象である、すなわち、或る主観に対する客観の総体である」ということは許されるであろう。いってみれはこれは弱められた主観主義であり、常識とさほど離れたものではない。常識は主客が常に相関していることなら容易に認めるであろうから。

 「世界は私の表象である」「世界は私の意志である」というときの「私」は、「公」に対する「私」ではなく、ウパニシャッドの哲学で言うところの「アートマン」すなわち「自己」であると解さなければなるまい。私=自我よりもはるかに深い自己の存在。世界や物自体の「私物化」ではなく、「私」と「公」の区分を越えた自己自身の自己に於ける自覚という文脈で、ショーペンハウアーの第一テーゼは捉えられるべきである。

 もちろん、ショーペンハウアーの言う「私」をそういう方向に解釈することについては、様々な異論が立てられ得るであろう。そのような「自己」は、たとえば一なる者として存在するのか、多なるものとして存在するのか。それとも一多のごとき現象にのみ当てはまる範疇を、かかる「自己」に妥当させることが出来るかどうかも問題としなければならない。なによりも、かかる「自己」が自己に対して自己において、「世界」として、すなわち「私の表象」として、あるいは「私の意志」として「如何に」「現象」するのか、それを「現象に即して」記述することが求められるであろう。

 「世界は私の表象である」あるいは「世界は私の意志である」この二つの言明は、誰もが云うことの出来る命題であると共に、決して三人称に置き換えられぬ独自性を表現する命題でなければなるまい。この「私」を、だれか特定の個人の名前で置き換えることは出来ない。いや、それのかわりに、三人称で語らえるような「神」で置き換えることも出来ないのである。かつてバークリーが、「存在するとは知覚されてあることである(esse est percipi)」という主観的観念論のテーゼを打ち出したときに、私にも誰にも知覚されていない事物の存在を保証するために、無限なる精神としての「神」がつねに知覚しているというかたちで、特定の主観に知覚されていない事物の客観的存在を保証したが、私ならば、「世界は神の表象である」も「世界は神の意志である」もともに偽であると言うだろう。客観化して語られるような神などは、ここでいう「私」の重みに耐えきれないであろうから。

 ショーペンハウアーは第3巻34章で、バイロン卿の詩

「山も波も空も、私と私の心の一部ではないだろうか。ちょうど私がそれらの一部であるように」

またヴェーダのウパニシャッドから

「われこそこれらすべての被造物なり。われをよそにしていかなるものも或ることなし」

を引用している。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする