我が国のハンセン病医療の政策は、行路病者の収容をさだめた1907年の「癩予防ニ関スル件」に始まり、1931年の「らい予防法」で、患者の終生隔離を目指した強制的な隔離政策が定められた。
戦後は、有効な治癒薬が開発されていたにもかかわらず、また療養所患者の強い抗議行動があったにもかかわらず、強制隔離規定の存続を含む「らい予防(新)法」が1953年にさだめられた。
すでに日本以外の諸国では強制隔離制度は廃止され、1956年、ローマで開催された「ライ患者の救済と社会復帰のための国際会議」では、日本の強制隔離政策が厳しく批判されていたにもかかわらず、この法律が廃止されたのは、実に、その40年後の1996年である。
2001年の国家賠償請求訴訟の判決で漸くにして国家の侵した基本的人権の侵害の事実が確定するに至ったことは我々の記憶に新しい事柄であるが、なぜ、このような基本的人権を損なう悪法が一世紀にもわたって存続したのか、とくに、戦前において「救らい」運動に関わってきた「善意」の人たちが、なぜ患者の人権を無視した政府の政策に積極的に荷担することとなったのか、その原因の究明は、終わってはいない。
現在では、多くの人々がこの問題の歴史的「検証」を行う必要性を強調している。日弁連の法務研究財団が主体となって行っている「検証会議」も、いよいよ最終報告書を提出する段階となり、また、ハンセン病学会も発足する予定と聞く。これらの共同研究の成果から学びつつも、私は一個人として、自分自身がこれまでこの問題について余りにも認識を欠いていた事実に対して責任を感じている。
公の検証とは別に、私は一個人の立場から、自分なりに「ハンセン病問題」の検証を続けるつもりである。とくに、書籍となってはいないが療養所の中で多くの人によって書き継がれた資料を収集・編集し、先入主を排して歴史的事実に肉薄しつつ、その意味するところを考察したい。
一個人に出来ることには限界があるが、厖大な歴史的資料を前にして、私は次の三つの視点から、この問題を考察したい。
1 療養所の文藝作品を手引きとして
ハンセン病が「不治の病」としてもっとも恐れられた時代の文藝を考察する。この病の告知を受けた人間の一人一人の苦悩、その家族の苦しみ、家を捨て行路病者として放浪することを余儀なくされた者たち、そして療養所に収容された人達の生活、そのさなかにあって文学や宗教によって自己救済を目指したものたちの生と死を、彼等の語る自己自身の物語を通じて理解すること。ハンセン病がそのような病であったのは過去のことではあるが、そこには、すべての人間に普遍的に通底する生と死の根本問題がある。
2 生命と医療の倫理の観点から
戦後の「ハンセン病問題」においては、強制収容された療養者の人権の回復の問題が第一義的になる。もちろん、強制収容とか終生隔離の問題の根は深く、それらは「戦前のらい予防法」の時代にまで遡る。「隔離から共生へ」というのが医療倫理の歴史に於いては重要な動向となるが、日本に於いては、「共生」を目指す医療が具体化するのが妨げられた。
多磨全生園のハンセン病資料館には、小笠原登と光田健輔のふたりの医師にかんする展示があるが、この二人の医師の医療思想は対照的であった。光田健輔には、19世紀の独逸医学の影響が顕著である。これに対して、西欧の近代医療思想のみを範型とするのではなく、日本の江戸時代からの臨床医学の伝統にたつ小笠原の医療思想から、今日、我々は多くのことを学びうるのではないか。
小笠原登と光田健輔の二人の医師の医療に関する考え方を対比し、臨床医学の成立や医療福祉の歴史に学びつつ、健康と病、生と死の隔離・差別に基づく二元論を越える医療思想、それを小笠原に倣っていえば「健病一如」「生死一如」の視点から考えたい。
3 宗教的観点から
宗教者(仏教とキリスト教)のこれまでの「救らい運動」の社会倫理・実践のどこに問題点があったかを検証する。この点に関しては仏教もキリスト教も、その実践の歴史を真摯に検証する必要がある。一部の宗教団体は、すでに謝罪表明を出しているが、今更何を謝罪するのかという批判は免れまい。私自身は一人のキリスト者であるが、いかなる宗教的イデオロギーからも自由に、しかしあくまでもキリスト教に内在的な見地から、国家からも教会からも独立の一人の人間として、個人と普遍を一つにする「無教会のカトリック」として、この問題を考えたい。「信仰と人権の二元論」を越える視点に立つことが重要ではあるまいか。
戦後は、有効な治癒薬が開発されていたにもかかわらず、また療養所患者の強い抗議行動があったにもかかわらず、強制隔離規定の存続を含む「らい予防(新)法」が1953年にさだめられた。
すでに日本以外の諸国では強制隔離制度は廃止され、1956年、ローマで開催された「ライ患者の救済と社会復帰のための国際会議」では、日本の強制隔離政策が厳しく批判されていたにもかかわらず、この法律が廃止されたのは、実に、その40年後の1996年である。
2001年の国家賠償請求訴訟の判決で漸くにして国家の侵した基本的人権の侵害の事実が確定するに至ったことは我々の記憶に新しい事柄であるが、なぜ、このような基本的人権を損なう悪法が一世紀にもわたって存続したのか、とくに、戦前において「救らい」運動に関わってきた「善意」の人たちが、なぜ患者の人権を無視した政府の政策に積極的に荷担することとなったのか、その原因の究明は、終わってはいない。
現在では、多くの人々がこの問題の歴史的「検証」を行う必要性を強調している。日弁連の法務研究財団が主体となって行っている「検証会議」も、いよいよ最終報告書を提出する段階となり、また、ハンセン病学会も発足する予定と聞く。これらの共同研究の成果から学びつつも、私は一個人として、自分自身がこれまでこの問題について余りにも認識を欠いていた事実に対して責任を感じている。
公の検証とは別に、私は一個人の立場から、自分なりに「ハンセン病問題」の検証を続けるつもりである。とくに、書籍となってはいないが療養所の中で多くの人によって書き継がれた資料を収集・編集し、先入主を排して歴史的事実に肉薄しつつ、その意味するところを考察したい。
一個人に出来ることには限界があるが、厖大な歴史的資料を前にして、私は次の三つの視点から、この問題を考察したい。
1 療養所の文藝作品を手引きとして
ハンセン病が「不治の病」としてもっとも恐れられた時代の文藝を考察する。この病の告知を受けた人間の一人一人の苦悩、その家族の苦しみ、家を捨て行路病者として放浪することを余儀なくされた者たち、そして療養所に収容された人達の生活、そのさなかにあって文学や宗教によって自己救済を目指したものたちの生と死を、彼等の語る自己自身の物語を通じて理解すること。ハンセン病がそのような病であったのは過去のことではあるが、そこには、すべての人間に普遍的に通底する生と死の根本問題がある。
2 生命と医療の倫理の観点から
戦後の「ハンセン病問題」においては、強制収容された療養者の人権の回復の問題が第一義的になる。もちろん、強制収容とか終生隔離の問題の根は深く、それらは「戦前のらい予防法」の時代にまで遡る。「隔離から共生へ」というのが医療倫理の歴史に於いては重要な動向となるが、日本に於いては、「共生」を目指す医療が具体化するのが妨げられた。
多磨全生園のハンセン病資料館には、小笠原登と光田健輔のふたりの医師にかんする展示があるが、この二人の医師の医療思想は対照的であった。光田健輔には、19世紀の独逸医学の影響が顕著である。これに対して、西欧の近代医療思想のみを範型とするのではなく、日本の江戸時代からの臨床医学の伝統にたつ小笠原の医療思想から、今日、我々は多くのことを学びうるのではないか。
小笠原登と光田健輔の二人の医師の医療に関する考え方を対比し、臨床医学の成立や医療福祉の歴史に学びつつ、健康と病、生と死の隔離・差別に基づく二元論を越える医療思想、それを小笠原に倣っていえば「健病一如」「生死一如」の視点から考えたい。
3 宗教的観点から
宗教者(仏教とキリスト教)のこれまでの「救らい運動」の社会倫理・実践のどこに問題点があったかを検証する。この点に関しては仏教もキリスト教も、その実践の歴史を真摯に検証する必要がある。一部の宗教団体は、すでに謝罪表明を出しているが、今更何を謝罪するのかという批判は免れまい。私自身は一人のキリスト者であるが、いかなる宗教的イデオロギーからも自由に、しかしあくまでもキリスト教に内在的な見地から、国家からも教会からも独立の一人の人間として、個人と普遍を一つにする「無教会のカトリック」として、この問題を考えたい。「信仰と人権の二元論」を越える視点に立つことが重要ではあるまいか。