歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

反対の一致の射程ー『西田幾多郎記念講演集』を読む

2023-04-29 | 哲学 Philosophy
西田幾多郎記念哲学館でおこなった第77回寸心忌を記念した私の講演<反対の一致の射程ー『西田幾多郎講演集』を読む>が『点から線へ』72号(2023/3/30)に収録されました。
にこの講演の記録のファイルがあります。
 
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佐々木力氏の『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』を読んで

2021-01-14 | 哲学 Philosophy

 北海道大学出版会から上梓された『数学的真理の迷宮』(2020年12月10日発行)を著者から献呈され、その礼状を書こうと思っていた矢先、12月4日に著者の逝去の報に接し、この本は文字通り著者の遺作となり、私の感想を生前の著者に伝えることができなくなった。そこで、「回想」と「書評」というかたちで、著者がこの本で課題とした事柄自体を、私の立場から論じることで、故人への応答に替えたい。

 2021年年明け早々、『科哲』(東大科哲の会会誌)第22号が送られてきた。時局を反映して、新型コロナに関する寄稿が多かったが、『地球大の数学史をめざして』という佐々木氏の特別寄稿があり、これも、彼の遺稿になってしまった。(『科哲』の編集者は佐々木氏の急逝について全く言及していない)
 私は、佐々木氏の本と遺稿を読んでいるうちに、彼よりも前に東大駒場の「科哲」の教授であった廣松渉の最後の著作、『マルクスの根本意想は何であったか』(1994年、状況出版)が、廣松氏の葬儀の日に出版されたことを思い出さないわけにはいかなかった。当時の廣松氏は61歳、志半ばにしての突然の逝去であった。

 ソ連が崩壊したのはマルクス主義の「根本精神」を忘却したからだ、といえば分かりやすいが、「精神」や「理念」という語は唯物論者である廣松氏にはそぐわない。「根本意想」とは聞きなれない言葉であるが、トーマス・クーンのいう「パラダイム」にヒントを得て、廣松氏がよく使われていた「ヒュポダイム」という語とほぼ同じ意味であろう。

 ソビエト連邦が崩壊した時点で、ことさらにマルクスを持ち出すという「反時代的」考察にどんな意味があったのかーこういう疑義は当然提出されるだろう。しかし、ソ連が崩壊したからこそ、「マルクス主義とは何であったか」と問うことに意味があった。廣松氏はマルクス主義の終焉という如き歴史認識を聊かももっていなかった。マルクス自身が直面していた資本主義の問題状況、自由放任の市場経済によって貧富格差が拡大し、労働は劣悪な条件に置かれるという問題が、新自由主義的政策が席捲していた資本主義経済においても、根本的には解決されていないからである。

 廣松氏が急逝してから四半世紀が経った。多国籍企業と自由市場経済、グローバリズムとナショナリズムの対立、核開発による世界戦争と環境危機の時代、異なる文明間の軋轢と南北の経済格差の深刻化、情報革命の時代が直面する人間疎外等々ーこれらの多元的にしてますます複雑化した状況を前にして、現代の「マルクス主義者」は何を言うことができるのだろうか。

 佐々木氏は、プリンストン大学大学院でマイケル・S・マホーニイやトーマス・クーンの薫陶を受けた数学史の専門家であるが、彼の「マルクス主義科学論」(みすず書房、1997)が廣松氏の逝去後に上梓されたとことが象徴的に示しているように、廣松氏のマルクス主義理解から大きな影響を受けていた。数学史ないし数学哲学という専門領域に限定されていたとはいえ、ソ連や中国の共産党の「官製」マルクシズムではなく、マルクスの「根本意想」に立ち返りつつ、現代という時代をそれによって捉えようとする意図を共有していた。「マルクスと哲学の間」で思索した廣松氏に倣って、佐々木氏は「マルクスと数学史(数学哲学)の間」で思索し、様々な場で啓蒙教育活動をおこなっていたと思う。

 当然のことであるが、佐々木氏の中には廣松氏とは異なる部分もある。スターリンによって粛正されたトロツキーを高く評価し、「いまこそ正統と異端は役割交代する番である」と言う趣旨のことを佐々木氏は何度も述べている(『マルクス主義科学論』序文iii,『生きているトロツキー』5頁参照)。中国のマルクス主義に関しても、彼が最も評価していたのは毛沢東ではなくて陳独秀であった。

 こういう視点は佐々木氏に固有のものであるが、マルクス主義者などではない私のような読者からみれば、「誰が正統的なマルクス主義者なのか」と問うこと自体に、前近代的なイデオロギー信仰の古めかしさを感じる。ただし、「多数派」を僭称する専従の革命家のイデオロギーを信用せず、そのような「多数派」(ボルシェビキ)によって言論を封殺され、粛清された「少数派」の「マルクス主義者」のなかに、未来を切り開く実践を導く「ヒュポダイムー根本意想」を見出すということであるならば、その限りに於いて、佐々木氏の思想史へのアプローチは一般の読者にとっても価値あるものとなるだろう。

 多元的な科学史・科学哲学へのアプローチを採用しつつも、「多元を越える一」を強調するところは、クーン流のパラダイム論や単なる相対主義では説明のつかぬ事柄である。佐々木氏の場合は、そのような回帰すべき「一なる原点」がマルクスであった。その意味で、マルクスに立ち返ることによってマルクス主義を超えて、現実の科学の発展の歴史に即して、内的かつ外的に社会的な考察をすることを忘れない佐々木氏の科学論、とくに数学にかんする歴史的考察は知的刺激に満ちたものである。

『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』という著作は、第一部「真理という迷宮」、中間考察「基礎づけのない多様な数学的知識ーウイトゲンシュタインにとっての数学的真理」、第二部 「古代ギリシャにおけ公理論的数学の成立と数学革命論」という二部構成である。

 第一部は数学史に詳しくない非専門家を念頭に置いた啓蒙的著作、第二部は数学史家を念頭に置いた専門的著作のスタイルー脚注の懇切丁寧なところが専門家むきーで書かれている。そして中間考察は、ウイトゲンシュタインの「言語ゲーム」というアイデアを、数学における「基礎の危機」を克服するために提示された「論理主義」、「直観主義」、「形式主義」の三つの立場の対立に関係づけた上で、佐々木氏の数学論の根幹にある考え方ー「基礎づけなしで懐疑主義を克服する多様なる数学の哲学」ーの基本的な方向性を確認したものであって、第一部と第二部とを媒介する役割をも持っている。

 本書でもっとも読みごたえのあるのは、「ユークリッド幾何学の起源」を「エレア派の哲学者」に求めるサボー・アルバートの学説を、彼以後に登場したギリシャ数学史研究の諸文献を精査したうえで、その問題性を明らかにし、サボー説の「改訂版」ともいうべきものを佐々木氏自身の言葉で提示している箇所であろう。

 ユークリッドの公理論的幾何学を、第一次的な文献に乏しいパルメニデスやゼノンのようなエレア派の哲学者にではなく、プラトンにはじまり、アリストテレスを経由してプロクロスに至るギリシャ哲学の基本的なテキスト群を綿密に読み解きつつ、ユークリッドの生きたヘレニズム時代に優勢であった「懐疑主義」との格闘の所産として考証する議論は非常に面白かった。とくにユークリッドとアリストテレスの数学論との関係を論じている箇所は一読に値する。

 佐々木氏はアリストテレスの分析論後書第一巻3章(72b5-18)における議論ー「無限遡行」「仮設」、「循環ないし相互依存」を主張する懐疑主義を論破するアリストテレスの議論を重視し、その三つの立場は現実にアカデーメイアで起こった論争を背景としたものであると推測したうえで、アリストテレスの弁証法的議論に、懐疑主義を克服するヒントを見出している。

 あらゆることに論証をもとめることが「無限遡行」に陥ること、暫定的な「仮設」をたてて論証する「仮設の道」は、その仮設の真理性を保証するものは何かが問題となること、前提と結論が循環してもかまわないという「循環論」は、無意味な悪循環とそうでない(生産的な)循環論(相互性)との区別が明瞭でないということ、要するに、「基礎づけにかんするトリレンマ」が、アリストテレスに於いて既に明晰に自覚されていたと考えた上で、アリストテレスの分析論後書の論証科学に対する考察がユークリッドに与えた影響を佐々木氏は強調している。

 アリストテレスとユークリッドの幾何学原論との関係については、私自身も、「アリストテレスの幾何学観」(『科学哲学』15巻、1982年)という論文で書いたことがある。私の論文は38年も昔に書いたものであるが、佐々木氏が存命ならば、そこで私が論じた問題について、是非とも意見を聞きたいところであった。

 佐々木氏の遺著には、多くの自伝的な回想が含まれている。たとえば、学生時代にトーマス・クーンの「科学革命の構造」に触発された佐々木氏は、プリンストン大学でそのクーンから直接に薫陶を受け、「歴史的な科学哲学」の研究プログラムを数学史に適用するというを着想を得た。そして、クーンから「数学に革命があることは間違いないが、数学の古い定理のすべてが保持されるのがどの程度なのか」という課題を与えられ、それに対する応答として書かれたものが、本書の最終章の「数学における革命とはどういうものか」である。このような回想記は、佐々木氏が数学史の研究を志す若い世代の研究者に向けて書いたものかもしれない。、佐々木氏が自分の仕事を生成の途上にある未完結のプロジェクトとして回想していることの意味もそこにあるのだろう。佐々木氏は「ユークリッド幾何学の真理価値は、ある意味でたしかに保持されるのであるが、全面的にではない。古代ギリシャのユークリッドの平行線公準をもつ幾何学は、ヒルベルトの1899年の『幾何学の基礎』の出版後には異なる意味を持つようになった」と述べた後で、クーンの考え方を今後も数学に適用し続けると宣言して、この著書の結びとしている。

 本書は、プラトン、アリストテレスにはじまり、古代懐疑主義との格闘として出現したユークリッドの幾何学原論、近代懐疑主義の克服として顕れたデカルトやパスカルの哲学的省察、ウイトゲンシュタインの言語ゲーム論によって開かれる「基礎づけなき数学」の豊穣なる多元性、ユークリッドの幾何学原論を絶対的規範とする保守的なオックスフォードの数学者チャールズ・R・ドジソンではなくて、『不思議の国のアリス」の著者、ルイス・キャロルのほうが現在では脚光を浴びていることに注目して書かれた序論など、それぞれ別個の読み物として読んでも面白い。しかし、全体を通して著者が伝えたかったことー数学というもっとも抽象的に見える学問も、「歴史内存在」としての人間の具体的な生活の場に他ならない時代的社会的背景の中で営まれていることを忘れるべきではないだろう。 

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Principia Mathematica の「論理」とは何であったかーホワイトヘッドの視点からの再考

2021-01-11 | 哲学 Philosophy

『数学原理』の射程---新しい論理学へ

1 ラッセルとホワイトヘッド

「ホワイトヘッドはイギリスでは数学者として知られていた。哲学者としての彼を見いだしたのはアメリカである」 

とはバートランド・ラッセルの言葉である。(『自伝的回想』)

 ラッセルがケンブリッジ大学で数学の特別研究員(fellow)の資格を得るときの試験官も勤めたのがホワイトヘッドであって、二人は最初は師弟として後には共同研究者として、大著『数学原理』を公刊したわけであるが、「数理」哲学ではなくて、広い意味での哲学的著作を公刊したのはラッセルの方が早かった。一九八九年に、ラッセルはケンブリッジ大学のヘーゲル主義の哲学者マクダガードの代わりに「ライプニッツ哲学」についての講義を担当し、一九〇〇年にはそれを著書として出版している。もともとラッセルの処女作は一八九六年の『ドイツ社会民主主義』であって、そのときの二四歳という年齢を考えると、若いときから彼が様々な領域に広い関心を示し旺盛な著作活動を展開していたことに驚かされる。それと比較すると、ホワイトヘッドは、一見したところ、いかにも晩熟の哲学者に見えるかも知れない。一九〇三年に二人が『数学原理』に向けて共同研究を開始したとき、十一歳年少のラッセルは既に四冊の書物(数学基礎論に関するものが二冊、哲学研究書が一冊、政治論が一冊)を刊行していたが、ホワイトヘッドは一八九八年の『普遍代数論』ただ一冊を刊行したのみであったから。

 しかしながら哲学教授としてハーバード大学に招聘されてアメリカに渡った一九二四年以後は、今度はホワイトヘッドの多産な哲学的な著述活動が際だってくる。第一次大戦後に反戦活動や社会運動に没頭した関係で、哲学的にオリジナルな著作が少なくなったラッセルと比べると、ホワイトヘッドの哲学的著書のかなりの部分は、日本流に言えば還暦を過ぎた後に書かれたものなのである。

 正確に言えば、ホワイトヘッドの哲学的活動はアメリカに行く前、彼がロンドン大学で教えていたときから始まっている。いわゆる科学哲学三部作、『自然認識の諸原理)』『自然という概念』『相対性原理』を出版したのはロンドン大学時代であり、その仕事が認められてハーバードで招聘されたわけであった。

 アインシュタインの相対性理論が発表され、特に第一次大戦後の日食観測によるその検証という出来事は、ラッセルにもホワイトヘッドにも共に大きな衝撃を与え、彼らに数学だけでなく物理学の基礎付けという共通の課題を与えた。従ってこの時期は、ラッセルも『物質の分析』や『外的世界は如何にして知られるか』など、自然を対象とする哲学的著書があり、二人がまだ共通の関心を持っていたことが分かる。そのころの両者の関係を示すものに、ホワイトヘッドからラッセルに当てた書簡(一九一七年一月八日)が、ラッセルの自叙伝に収録されている。

バーティ学兄、とても残念なことですが、私の考えの要点があなたにはよく認識されていないように思われるのです。私は、私の考えが、現在の所、私の名においてにしろ、他の誰かの名においてにしろ、普及されることを望みません---即ち、今のところ論文のかたちでは。その結果は、不完全で誤解のもとになるような出し方になるのが関の山でしょうし、私が出版したいと思うときに、その最終的な発表の成功をだめにするのは避けられないでしょう。  私の考えや方法は、あなたのとは異なったふうに成長しているのです。その孵化期間は長いのです。そして、その結果、最後の段階において、理解しやすいかたちに到達するのです。私は、あなたが、各章にわたって、理解しやすくなっている私の草稿を、私が全面的な真理とは考えないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです。あなたが、私のこのノートの助けを借りないでは仕事に取りかかることができないと思われることは、誠に残念です。

ラッセルは、率直に、次のようなコメントをこの手紙に付けている。

第一次世界大戦が始まる前に、ホワイトヘッドは外的世界に関する我々の認識についての覚え書きを記しており、私はそれを利用して、このテーマで本を書いた。もちろんホワイトヘッドが私に伝えてくれた思想については当然の謝辞をつけたのではあるが。この手紙は、ホワイトヘッドがこのことに頭を悩ませたことを示している。実際、このために私たちの共同作業は終わりを告げてしまった。

 『数学原理』を共同で執筆したときには、どの原稿も二人が共に目を通していた。おそらく、その延長線上というつもりで、ラッセルは数学的対象がいかにして経験的な所与から抽象されるかを明らかにした「延長的抽象の方法(the method of extensive abstraction)」に関するホワイトヘッドのノートの借用を申し込んだ。そして、ホワイトヘッドに先んじて一九一四年に『外的世界はいかにして知られるか』という著作の中で、このアイデアがホワイトヘッドによるものであるとの断り書きを付けて発表した。しかし、この手法についてホワイトヘッド自身が詳しく説明したのは一九一九年の『自然認識の諸原理』だった。

私の草稿を、全面的な真理とは考えられないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです」というホワイトヘッドの懸念は、二人の哲学者の気質の違いを非常に良く表しているようである。

  ラッセルについて、T・S・エリオットは、「永遠に早熟である(permanently precocious)」という評言を吐いたことがあるが、それをもじって言えば、ホワイトヘッドは「永遠に晩熟である」ということになるだろうか。還暦を過ぎた老人が、アメリカという新天地で、それまでに書いた著作とは段違いに大部の著書を次々と刊行していったその有様はなかなか壮観である。『過程と実在』は『純粋理性批判』とほぼ同じ程度の分量であるが、やはり老齢になってから哲学的主著を公刊したカントと同じく、ホワイトヘッドも又すぐに自分の着想を発表するよりは、ゆっくりと時間をかけてそれが自然に熟するのを待つタイプの思想家であったと言えるだろう。

 ラッセルは、そのホワイトヘッドについて次のように回想している。(『自伝的回想』)

ホワイトヘッドは驚くほど関心の広い人で、彼の歴史上の知識はよく私を吃驚させたものだ。あるとき私は、彼が非常に重要だが風変わりな作品であるパオロ・サルピの『トレント公会議の歴史』を枕頭の書にしているのを見つけた。歴史的なことが問題になると、いつも彼には教えられるものがあった。たとえば、バークの政治的意見とロンドン市における彼の利害との関係や、フス派的異端とボヘミヤの銀鉱山との関係など。

 この回想は『数学原理』を共同で執筆している頃のものである。彼ら二人の関心は、高度に専門的な数学的論理学の執筆中でも、決してその世界に閉じこもっていたわけではなく、様々な問題について論じあっていたことがこの引用から伺える。ここで言及されている「トレント公会議の歴史」がホワイトヘッドの著書で引用されるのは、十年以上たってから刊行された「科学と近代世界」第一章「近代科学の起源」である。科学史と深くかかわる著作を後に自分が書くなどということはホワイトヘッド自身予想していなかったであろうが、若年からの広範な領域に亘る読書と友人との対話の習慣が、文明の諸相を扱う晩年の著作を書くに際して役立ったことは間違いない。

 ホワイトヘッドは、ラッセルと同じく多読の人であり談論を好んだ。おそらく、二人ともケンブリッジ大学の学生の知的サークルであった「使徒団(The Apostles)」のメンバーであったときに、自由でとらわれのない対話によって学ぶ習慣が身に付いていたのだろう。一般教育を英語ではリベラルアートというが、そこでは、専門を離れて自由に討論を戦わせることの出来る知的習慣が大切である。この習慣がホワイトヘッドの関心の広さと、多面的な精神の働きを説明するだろう。

 ケンブリッジ大学のトリニティカレッジと言えば、イギリス経験論の始祖とも言うべきジョン・ロックが論敵として念頭に置いていたケンブリッジ・プラトニストの伝統を継ぐ学寮でもある。使徒団の自由な対話は、そのまま古典期のギリシャの哲学の精神を彷彿とさせ、ヨーロッパの哲学の濫觴ともいうべきプラトンの対話編の世界を偲ばせるものであった。

2 いわゆる「論理主義」の立場

 『数学原理』は二十世紀の論理学と数学基礎論の歴史に一時代を画した著作として著名である。 この著作は、ホワイトヘッドとラッセルとの共著であるが、ラッセルがホワイトヘッド没後に、哲学誌「マインド」のなかで語ったように、イギリスの哲学者の間では、「二人の共同作業のホワイトヘッドの分担部分を実際よりも小さなものと考える傾向があった」。 実際は、全三巻のすべてを通じて「共同作業の結果でないようなものはなかった」のであるが、それにも関わらず、哲学者の間では、『数学原理』の基本的な哲学思想をラッセルに関連づけるのが一般的であった。その理由は、哲学や論理学関連の様々な雑誌に、『数学原理』の基本的な論理思想を発表し論陣を張ったのがラッセルであったのに対して、ホワイトヘッドは、哲学的論争をほぼラッセルに一任して、論理学の基本原理から数学の全体系を構築するという、困難なしかし壮大な体系構築に没頭していた感があるからである。

  ある一つの旗幟鮮明な哲学的テーゼを建てて論争をすることと、そのテーゼを現実化して自己完結的な体系を構築する作業は別のものである。ホワイトヘッドは、『数学原理』を執筆しているときには、他の数理哲学の立場、たとえば、直観主義や公理主義を批判する哲学的論争に参加することはなかったのである。そのために、人々はこの著作の哲学的な解釈に関する限り、どうしてもラッセルの哲学、すなわち、のちに論理実証主義など英米の分析哲学に受け継がれていく立場から論じることとなった。

 数学基礎論の分野では、二人の基本的立場を「論理主義」として要約することが多いのは事実である。この「論理主義」という言葉は、じつを言うと問題がないわけではない。ホワイトヘッド自身は、『数学入門』という啓蒙的な書物の中で、そのような表現を使って自己の数学観を特徴づけていないことに留意すべきであろう。 もともとホワイトヘッドは、論理学者ではなく応用数学者であったわけだから、彼が数学という名のもとに考えていたものは、応用を度外視した純粋数学ではなく、広く物理学に適用される豊かな経験的拡がりのあるものであった。

 論理学と数学を峻別して、論理的真理は分析判断であるが数学的真理は先天的総合判断によって基礎づけられると述べたのは、カントであった。「純粋数学はいかにして可能か」というのはカントの『純粋理性批判』の主要課題の一つでもあった。ラッセルや、後の論理実証主義者達が標的にしたものは、まさに、このような、カント哲学の数学論であったのである。

 しかし、「論理主義」という用語を用いるときには、そこでいう「論理」の内容が問題である。数学的論理学に余り高い価値を認めなかったポアンカレなどは、「数学が論理学にすぎないものであるならば、あれほど多くの数学書で探求されている事柄が、膨大な同語反復(トートロジー)にすぎぬ事になるが、そんなことをどうして信じられよう」と言っている。

 論理学的な命題の特徴は、経験的な世界に言及することなくして、その真偽が決定可能なことである。「明日雨が降るか降らぬか、いずれかである」とか、「明日雨が降るものであるならば、明日雨は降るであろう」という命題は、明日になることを待たずして(空虚に)真となる。これが論理的真理の特徴であり、言語の形式のみによって真偽は決定可能となる。日常的な語り方の中では、同語反復というものがこれに該当する。そして、数学的な公理体系を構築するにあたって、「一群の公理がもし真であるならば、そこから導き出されるこれこれの定理も真である」という仮言的命題を作るならば、その真理性、すなわち推論の妥当性もまた、論理的真理(同語反復)に依存しなければならない。この真理は必然的な真理であるが、その必然性は、同語反復の真理のもつ必然性である。

 ここまでは、別に数理哲学などをもちださなくても、ある程度数学に親しんだものならば、だれでも認めるであろう。議論が分かれるのは、我々が公理体系などを知る以前から了解している単純な数学的命題、たとえば、「1+1=2」は、そのような意味での論理的な真理か、と言うことである。

 カントは、「1+1」という主語概念は2という述語概念を含まぬ以上、「1+1=2」の真理性は「述語が主語に含まれる」分析的な判断ではなく、直観に基づく必然命題であると考えた。その直観は、数学に固有のものであり、決して論理学の一般的原理から帰結するものとは考えられなかったのである。このカントの立場は、オランダの数学者ブラウアーの直観主義に受け継がれる。彼は、論理学の一般原理を借りずに、数論的対象の独自な性格を、時間の系列の中で遂行される有限な構成によって基礎付けようとする。

 直観主義では、排中律(SはPであるかないか、いずれかである)のような論理学的原理ですら、我々が数論的な構成によって確認できない場合は無条件で適用しないことが求められる。無限個の対象を一挙に把捉することは、有限な人間の時間直観ではあり得ないからである。 しかし、この直観主義の立場を厳格に適用すると、物理学などの経験世界に適用された解析学の大部分を、疑わしいものとして放棄するという大きな代償を支払わねばならないのが問題であった。「論理主義」のテーゼとは、直観主義の制限を超えて、数学を時間直観から切り離し、論理学上の一般原理だけから、数学の全体系を構築しようと言う試みであった。それは、有限な時間直観にもとづく帰納法に訴えることなく、一般原理からの演繹によって数学を基礎づけようと言う試みでもある。

 ポアンカレは、『科学と仮説』の中で、数学は演繹だけではなく「数学的帰納法」という手法によって、特殊な事例から一般的な定理を導出する以上、論理学だけでは説明の付かぬ原理に立脚していると述べたが、『数学原理』では数学的帰納法そのものが、自然数の定義から導出される論理的原理として扱われている。そこでは、直観的には数え尽くすことの出来ない「超限数(transfinite number)」から自然数を区別する特徴の一つとして、数学的帰納法が扱われるのである。

 直観主義が厳格な有限の立場を固守する立場であるとするならば、論理主義は自由な無限の立場である。この立場が、哲学者によっては「論理主義」ではなくて「プラトン主義」の名をもって呼ばれるのも故なしとしない。

数学基礎論における主要な三つの立場、すなわち

(1)論理主義(プラトン主義)(2)公理主義 (3)直観主義 

は中世の論理学における三つの立場、すなわち

(1)実在論 (2)唯名論 (3)概念論 

になぞらえて議論される場合がある。ここで実在論というのは、普遍者(普通名詞で名指される対象)の実在を主張する論理学上の立場であるが、数学基礎論では、集合の実在性にコミットする立場がこれにあたる。

 数が特別の直観的意味を持たない論理主義では、一般に集合の持つ基本的な性質から数の概念が演繹される。その場合、もとになっている集合の実在性が前提されるならば、結局の所は、数学的言語は全く指示対象を持たない名前にはならない。これに対して、ヒルベルト等が主張した形式主義の数学観では、外的世界の指示関係を抜きに、数学的記号の使用規則そのものに意味を求めている点で、唯名論的である。 数学が対象とすべき普遍者が、世界に実在しようとしまいとそのこととは無関係に、純然たる言語の規則によって公理体系から定理を演繹する事のみが関心事となる。もはや、「真理」は不要となり、「証明可能」という言葉がそれに置き換えられる。 直観主義と概念論との対応は、前二者と比べると明確ではないが、数学を時間直観という人間の心理的な働きに基礎づける点で、普遍者の実在性を「概念」という心的対象に求めた概念論と対応するであろう。

 ここで、大切なのは、「論理主義」でいう論理学がどのような性格のものであったかと言うことだろう。数学を論理学に還元するというとき、そこでいう論理学は、いかなる意味でも実在への関わりを持たない唯名論的なものではなかったことに注意する必要がある。なるほど、『数学原理』では、集合が実在することはあからさまには主張されていなかったが、論理学者のクワインの言い方を借りるならば、『数学原理』の体系は述語のタイプと次元の区別を持つ「高階述語論理」であったが、二階以上の述語の量化を認めるという意味で、明確に、普遍者の実在にコミットしていた。(クワイン 『論理学的観点から』)すなわち、『数学原理』は基本的には、普遍に関する実在論の立場で書かれた書物なのである

 もっとも、「述語」という語は『数学原理』の本来の用語ではない。『数学原理』では、それは、「命題関数 (propositional function)」と呼ばれている。即ち、命題の構造を分析する場合に、主語と述語という区別に立脚するのではなく、引数(argument)と関数(function)という、元来は数学において用いられていた用語を援用しているところに、『数学原理』の特色があるのである。

 「実体から機能(関数)へ」とは、カッシーラーの科学論の著作のタイトルであるが、それは『数学原理』の著者達の仕事の性格を説明するのにも役立つだろう。主語―述語の区別を命題にとって基本的なものとする論理学が、主語によって名指されるものを実体化する形而上学と深い関係にあるが、『数学原理』のように、主語も述語も関数として捉える考え方は、非実体論的な存在論を準備するものであったといえる。

 もっとも、ラッセルから論理実証主義への哲学的な潮流においては、存在論を含めて伝統的な哲学そのものに対する無関心のために、このような可能性は探索されはしなかった。この点において、ボヘンスキーが、『現代のヨーロッパ哲学』の中で、数学的論理学に一章をあてて、「数学的論理学は新実証主義と同一視してはならない。フレーゲ、ホワイトヘッド、(『数学原理』執筆当時の)ラッセル、ルカシェビッツ、フラエンケル、ショルツなど、その創設者達はみなプラトン主義者であった」と指摘しているのは正鵠を得たものであろう。

 ホワイトヘッドは、後に相対性理論の専門書を書いたことからもわかるように、純粋数学ではなくて応用数学の専門家であった。彼の処女作、『普遍代数論』の序文は次のように述べている。

数学の理想は、思考や外的経験の事象の諸系列がはっきりと確認され、明晰に述べることのできるあらゆる領域に結びついた推論を容易ならしめる演算体系(calculus)を樹立することである。哲学と帰納的推論と想像的な文学を除外して、すべての真剣な思索は演算体系によって展開された数学となるべきである。(『普遍代数論』)

 ホワイトヘッドの『普遍代数論』はその書名からして、ライプニッツの『普遍的記号論』を意識して書かれたものであるが、普遍的言語としての数学(代数学)の射程は、単なる四則演算の領域にとどまらず、思考と外界の経験的事象の諸法則の表現の全領域にわたるのである。

 数学的論理学は、応用を考慮しない純粋数学の一分野というように見なされることが多いが、それは、正しい捉え方ではない。ホワイトヘッドが『普遍代数論』を書いてから、半世紀ほど後にノイマンによってコンピュ―ターの基礎原理が発明される。そして、ウイーナーによって通信と制御の一般理論であるサイバネティックスが提唱され、シャノンによって情報理論が展開される。これらは、その後のいわゆる情報革命を準備するものとなったが、ノイマンもウイーナーも『数学原理』を学んで、そこから深く影響された数学者であった。

 ホワイトヘッドが『普遍代数論』と呼んだものと、コンピュータの言語とは密接な関連がある。例えば、前に言及した「関数」の概念は、コンピューターの汎用言語として著名なC言語では、中心的な位置を占めている。「引数」に「定数」が代入されると、さまざまな「値(value)」をかえす「関数」の概念が、人間のあらゆる種類の知的活動を表現する広義の「演算体系」となることこそ、ホワイトヘッドがコンピュータによる情報革命が起きるよりも半世紀前に予見したことであった。

 数学が、このように人間の知的活動で、規則性が明瞭に表れるすべての領域で使用される「演算の体系」と見なされるならば、それが、従来論理学者にゆだねられてきた領域をも含むのは当然であろう。ホワイトヘッドの立場から『数学原理』を見ると、そこでいう論理学は、伝統的なアリストテレスの形式論理学ではなくて、「普遍代数」として数学化された論理学になっているのである。

 関数の概念が数学的論理学において中心的な役割を持つといったが、そのことを、アリストテレス論理学との対比において、説明してみよう。

典型的なアリストテレス論理学における主語―述語命題として、「人間は理性的動物である」を例にとる。 ここで、主語である人間は、種の名称であり、動物という類にそれが帰属し、「理性的」という主語によって、人間の本質的な定義が為されている。この命題は、いわゆる定言命題であって、何ら仮定的なものは存在しない。これを、『数学原理』の著者達のやり方で言い換えるならば、

「もし、xが人間であるとすれば、xは理性的動物である」という命題関数は、あらゆる引数xの値に対して、真である、

となる。

ここで、「人間(x)」を「xは人間である」,

「理性的(x)」を「xは理性的である」、

「動物(x)」を「xは動物である」

をそれぞれ表す命題関数であるとすると、

「人間は理性的動物である」は、次のような形式で書かれる。

(x)(人間(x)⊃(理性的(x)&動物(x)))

この定式で、「(x)(....⊃...)」の部分は「形式的含意(formal implication)」と呼ばれ、数学の定理であれ、自然法則であれ、およそ法則というものが持つもっとも普遍的な形式を表している。

 

 言い換えれば、プラトンーアリストテレスの伝統において、「エイドス」とか「形」とか呼ばれたものが、『数学原理』ではすべて命題関数として、関数的に定式化され、主語と述語の定言命題は、命題関数の関係にほかならぬ形相的含意によって表現されているのである。

 伝統的な論理学で主語の位置に来るものは、『数学原理』では、関数の引数(argument)である。そして、関数値として真理値をとるものが命題関数であるから、主語―述語の論理学は、広い意味での関数理論の一部に取り込まれることになるのである。

3 無限への挑戦

 ボヘンスキーが言ったように、数学的論理学の創始者のうち多くのものはプラトン主義者であった。ここで、プラトン主義という言葉の意味は、単に普遍者の実在にコミットすると言うだけでなく、「数とは何であるか」という本質定義の問題が重要な意味を持っていると言うことである。「....とは何であるか」という問いは、哲学の出発点をなす問いである。数学基礎論と数理哲学を分かつものがあるとすれば、この問いが真剣に問われているか否かが決め手であると言っても良い。

 ラッセルは、『数理哲学序説』のなかで、第二章を「数の定義」にあてて次のように言っている。

 「数とは何か」という問題は、従来よく問われてきたものであるが、正しい答えが与えられたのは我々の時代になってからのことである。その答えは、フレーゲによって、一八八四年に「算術の基礎(Grundlagen der Arithmetik」で与えられた。この書物は、短く、容易で、しかも最高の重要性を持つにも関わらず、ほとんど注目されず、そこに含まれている数の定義は、同じものが筆者によって1901年に再発見されるまでは、ほとんど知られていなかった。

 ここで、最初にフレーゲが発見し、のちにラッセルが再発見した数の定義は、集合の概念に依拠するものであった。数とは何かという問題に対して、最初に、「ある集合の数」という概念を「その集合に相似なすべての集合からなる集合(the class of all those classes that are similar to it)」で定義し)、「数」を、「ある集合の数である任意のもの(anything which is the number of some class)」として定義する方法は、集合という普遍者の実在にコミットしていた。この点が、論理実証主義やアメリカの実用主義者達の数学観と大きく異なっている[1]

 集合は、ここでは、多くの要素を持つ一つのものとして了解されており、それ自身が上位の集合の要素となりうるものである。ラッセルとホワイトヘッドが『数学原理』の中で数を定義するとき、有限な数(finite number)と超限数(transfinite number)の両者に共通する数の定義を与えていることは注目に値する。有限の集合も無限の集合も集合であるという点に関しては同一の論理に従うと言うことが、このような数の定義にとって本質的なことである。

 『数学原理』執筆当時のラッセルとホワイトヘッドは、無限集合を客体化することを認める「積極的無限論」の立場を受け継いでいた。もし、有限なる知性が、直観に基づいて一つ一つ対象を枚挙していくというやり方を採用するならば、そこで取り扱うことのできるのは、どれほど多数であっても常に有限なるもののみである。無限なるものは、ただ「数え尽くせぬもの」として否定的に規定できるだけである。

これに対して、カントールに始まりボルツァーノを経由して『数学原理』に受け継がれた「積極的無限論」では無限集合が「肯定的に」定義され、有限集合は、逆に「否定的に」定義されている。何故、そのような発想の逆転が可能になるのか。その鍵は、「対応(correspondence)」という概念にある。

 無限集合が実在すると仮定すると、有限集合では起こらない矛盾した性質を認めなければならないと言うことは、カントール以前にも知られていた。例えば、自然数の全体からなる一つの集合が実在するとすると、偶数の集合は、その部分集合となるが、この部分集合は、全体集合である自然数全体と、「余すところなく一対一に対応づける」事ができる。その意味で、無限なる集合では、部分が全体に「相似(similar)」であるということが起こりうる。同様に、どのような短い長さの線分も、もし無限個の点からなる連続体として考察するならば、その線分を含むどれほど長い直線とも、どれほど広い平面とも、またどれほど大きな立体とも、「相似」なものになりうる。もし、「部分はいかなる意味でも全体に等しくはない」と言うことを、ユークリッドの幾何学原論で言え言われているような意味で、数学の公理と見なすならば、無限なる集合は、もしそれが実在すると考えるならば、この公理に背反するのである。

  このような逆説を避けるために、「無限なる集合は実在しない」という立場を「消極的無限論」の立場であるとするならば、「積極的無限論」の立場は、そこで避けられた逆説そのものを、無限なる集合の積極的「定義」へと転換したところに成立する。即ち、無限なる集合とは「全体と相似な真部分を持つ集合」であり、有限なる集合とは、「いかなる部分集合も全体と相似ではない集合」である。そこでは、無限なる集合の定義の否定として、有限なる集合が規定されている。

 カントールに始まる「積極的無限論」は、あきらかに無限なるものを扱う際に、数学者に対してパラダイムの変換を強いるものであった。ラッセルは、このような新しい数学に出会ったときの衝撃を次のように回想している。

(はじめてカントールの著書を読んだとき)私は、その議論の骨子ををノートに書き写していった。最初の内、私は、著者の議論は、独創的ではあるが、根本的に間違っていると思っていた。しかし、最後まで読み通したときに、間違っていたのは、私の方であったことに気づいた。(『自伝的回想』)

 後に、カントールと文通するようになったラッセルは、カントールからカント哲学の手厳しい批判を聞くことになる。カントの第一批判では、「純粋数学はいかにして可能であるか」ということが課題の一つとして提起されていたが、カント自身は、その可能性を有限なる人間の感覚的直観の形式に求めたために、カントールが目指しているような無限なる集合の数学は最初から排除されてしまうからである。

「無限なる集合の数学はいかにして可能か」という問題こそ、『数学原理』の著者であるラッセルとホワイトヘッドの主要課題であった。この課題を忘却して、『数学原理』の目的を単に、数学を論理学に還元することをめざしたものというように矮小化することはただしくない。

 たとえば、1+1=2という誰もが知っている有限なる算術の命題が、『数学原理』という著書のどこで証明されているかを見てみると、それは、じつに第一巻第二部セクションAの第五三節であって、それまでに論理学と集合と関係に関する一般的理論が展開された後で、はじめて証明されるのである。

 1+1=2のごとき誰にもよく知られている命題が、膨大な論理学的準備を行った後で、証明されると言うことは、何を意味しているのであろうか。それは、我々にとって自明なものが、事柄自体において自明とは限らないと言うこと、有限なる数の算術も無限なる数の算術も共に従うべき論理と集合と関係についての一般理論が確立した後で、始めて証明されるべき命題として提示されると言うことが、『数学原理』の体系構成の大きな特徴となっているのである。

それでは、数学基礎論の歴史において一時代を画したと言われる記念碑的な著作である『数学原理』の構成を更に詳細に見てみよう。

 『数学原理』は全体で三巻、総ページ数約二千頁の大著であり、それを読み通すのは容易ではないが、きわめて整然とした構成をもっている。全体が六部形式で、

第一部 数学的論理学

第二部 基数の算術の序説

第三部 基数の算術

第四部 関係―算術(relation-arithmetic)

第五部 系列(series)

第六部 量

となっている。

 幾何学に関する部分がさらに続く予定であったが、結局のところ、それは刊行されず、量の一般理論が提示されただけで終わっている。即ち、この著作は完結したものではなく、後に幾何学と物理学へと展開する壮大な体系への序論という性格をもっていたのである。

 今日では、論理学は、「具体的な経験内容を書いた純然たる形式的な推論の学」として、自然科学のような経験科学とは一線を画するのが習慣となっているが、『数学原理』はそのような立場で書かれてはいないと言うことは、強調しておく必要がある。それは、自然科学の基礎的かつ形式的な諸部分と連続性をもっており、一般性の度合いにおいて違うだけなのである。

 『数学原理』の続編は、それがもし書かれたとすれば、そこで構築された論理学的手法を用いて、幾何学や物理学の基礎にまで及ぶ壮大な体系となるべきものであった。しかしながら、実際には、二人の共著という仕事を続行不可能としたいくつかの事情があった。一つは集合論の基礎に潜んでいた「ラッセルの逆理」を回避するために、『数学原理』の体系を手直しするのに非常な手間がかかったこと。もう一つは、逆理の発見以後、ますます実証主義的かつ唯名論的立場に傾斜していくラッセルとホワイトヘッドとの間で微妙な意見の対立があったことがあげられる。

 第一節で、ホワイトヘッドの研究ノートの借用を申し込んだラッセルに、ある懸念を表明しながらもそれに応じたホワイトヘッドの書簡を引用したが、この書簡の時期あたりから、二人の哲学的な意見の差が顕著なものとなっていった。ラッセルがホワイトヘッドの研究ノートを借りたのは、「延長的抽象化」の手法を知りたかったためであったが、この方法は、「大きさを持たない点」や「幅のない線」の様な幾何学の抽象的要素が、経験において与えられる延長を有する対象から、いかにして抽象されるかという問題を解くためのものであった。

 ラッセルは、この方法を更に一般化して、「実体は必要以上にふやしてはならない」というオッカムの唯名論的な原理と結びつけ、「推論された存在を論理的な構成によって置き換える」という科学哲学の第一原理に変容させる。彼の立場は、感覚与件を唯一の出発点とし、そこから外的世界や他人の心を、あとから論理的に構成していくという点で、基本的には、形而上学を排除した論理実証主義者達と同一の路線をとっていたといって良い。実際、カルナップは、『世界の論理的構成』という著作で、ほぼラッセルの考え方を受け継いでいたのである。

 これに対して、ホワイトヘッドの科学哲学は、形而上学を排除するものではなかった。『自然認識の諸原理』の第二版の序文は、「近い将来、(科学哲学)三部作の見地をより完全な形而上学的研究に包括することを望む」と明言していた。『数学原理』で開発された、論理学的な手法は、実証主義と結びつくのではなく、近代科学の中に潜んでいた抽象的な諸前提を批判し、新しい自然哲学を展開するための道具として使われたのである。我々の直接に知覚する世界から出発して、物理学の基礎原理の経験的根拠を反省し、それと共に、近代科学で前提されていた科学的唯物論を批判すること、実体中心的な世界観から相互関係の網の目のうちにある「出来事」を中心的とする世界観へ転換するという事が、科学哲学三部作の基本的な構図であった。

 

[1] 現代論理学では、クラス(class)と集合(set)を区別し、上位のクラスのメンバーになりうるクラスを集合と呼ぶが、ここでは意味内容上、classを集合と訳した。

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「プロセス思想」創刊号の巻頭言を読むー二十一世紀の文明の構築に向けて

2021-01-09 | 哲学 Philosophy

 南山大学で第二回国際ホワイトヘッド学会が開催されたのは1985年でしたが、その翌年に日本ホワイトヘッド・プロセス学会(創設は1979年)の学会誌『プロセス思想』が創刊されました。巻頭言として初代会長の山崎正一先生の「創刊に寄す」が掲載されています。 

 山崎先生は、日本哲学会の会長を勤められましたが、ホワイトヘッド学会の初代会長でもありました。東京谷中の(臨済宗)興禅寺の住職でもあった先生は、大学院でカントの「純粋理性批判」講読と、道元の「正法眼蔵」講読の二つの演習を担当されていました。先生が1973年に退官されるまで、私もこの二つの演習に参加していましたが、当初は、イギリス哲学とカント哲学の専門家として知られていた山崎先生がなぜ道元を演習のテキストに使われていたのか、理由がよく分かりませんでした。しかし、先生が、東京谷中にある由緒ある古刹、興禅寺の住職であることをあとになってから知りました。

 仏教的な智は近代西洋哲学とは違って、死を免れない人間の生き方を直接に問題とすること、近代人が忘却した人間存在の有限性の自覚、僧堂生活の中で伝承された「戒・定・慧」の「三学」による全人的な教育、とくに道元の「修証一等」の修道論の意味の再発見ということを、私は山崎先生の演習から学んだと思っています。

 山崎先生の『プロセス思想』巻頭言は、36年前に書かれましたが、現在でも古さを全く感じさせません。とくに近代産業社会が姿を現した一九世紀以来の文明社会を特徴付ける三つの対立関係が、「錯乱の人間(homo demens)」ともいうべき偏頗な人間像を輩出し、それが二〇世紀の文明の危機的状況を生み出したという認識は手厳しい。それは、大学で専門分化した学問を学ぶだけで、社会倫理と宗教を忘却した人間に対する警鐘ともなりましょう。

 現代文明の危機を克服するために、二十一世紀以降の人類に求められているのは、第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和であるということを山崎先生は巻頭言で説かれています。そのような観点から、「古代以来の人類の正統的な知恵の探究」に棹さすホワイトヘッド哲学の意義とその歴史的社会的使命をとくあたり、まことにホワイトヘッド学会の創立の理念に相応しい内容であると思いました。

 プロセス思想創刊号は、まだ電子化されていないので、以下にその全文を再録します。 

ーーーーーーーーー創刊に寄す(山崎正一)ーーーーーーーーーーー          

 近代産業社会が姿を現した一九世紀初頭以来、現代の文明社会は、三つの対立関係を基本的枠組( パラダイム) --fundamental presuppositional scheme(framework)--として運営せられている。
 第一は、自然と人間との対立である。人聞は、自然の内に、自然の一部として生れた存在でありながら、自然界から自己を引きはなし、自己を自然界から自立させ、そして、自然界を征服し管理し統御すべきものとせられる。人間は自然を開発し、自然界の力を、統制し運営する。そこに人間存在の意義を、人間の人間たる所以を、見出そうとする。
 第二は、人間相互の対立である。個性を重んじ、個的主体性・人格性を尊重する。相互に競争することによって、個人にとっても、社会にとっても、よりよき進歩が得られると考える。相互に相手を、自己と同様に尊重することを理想とし建て前とする。個人と個人との相克を調停するのは、正義公正の原則である。こうして、階級対立のない差別なき平等な民主的社会が実現せられると考える。
 第三は、人間における「知性」と「感情」(情念)との対立である。合理的知性は、非合理的感情(情念)を、規制し制御すべきものとせられる。これによって、人間生活を合理的に開明化し、社会生活における非合理的な人間関係と呪術信仰を排除すべきものと考える。
 以上、三つの対立関係を抜本的枠組(パラダイム)として、人間は、自然を征服し、人間世界をたえず拡大して前進してゆくべきものとせられ、相互に個性を尊重し正義公正の原則に基いて民主的社会を運営し、非合理を排して合理的に整序せられた理性的人間の社会をめぎして進歩しゆくべきものとせられた。
 しかしながら、結果において、もたらされたものは何であったか 。 二十世紀において明らかとなったことは、第一に、大規模な自然環境の破壊の進行であった。またそれは、人間の生理的身体を破壊し、さらに遺伝子に影響を与えて、将来の子孫の存在までも危うくすることが明らかになったことである。
 第二に、人間は、相互に相手を尊重することを建て前としながら、実状においては、相互に相手を圧服し征服し統御しようとする。個人では力が弱いということになれば、徒党を組み、団結し、組織を作り、こうして徒党や組織体が互いに対抗し争い合う。それは相互不信と相互抗争の世界である。個人にとって国家は敵であるが、国家にとっても他の国家は敵である。
 第三、人間存在は、理性的であるのみではなく、依然として情念的存在であるから、理性によって抑圧された情念は、様々な精神障害を惹き起す。それは内攻して内圧力を高め、吐け口を求めて一挙に噴出する。それは暴動ともなり、あるいは組織的なる反抗運動ともなる。この場合に、情念を鼓舞激励するのは「力は正義なり」という理念である。
 以上、一連の事象の意味するところは何か。それは、人間存在が主体的な理性的存在であるという点を一面的に強調することによってもたらされた「逸脱」--diviation--の世界であるということである。それはホワイトヘッドの言葉を借りれば、「具体者置き違いの誤謬」---fallacy of misplaced concreteness---ということになるであろう。即ち、それは、人間存在の在るべき姿の或抽象的な一面を描き出し、これを具体的なものと思い錯覚した誤謬である。このような誤謬に陥った人間が、(錯乱の人間)に他ならない。思うに、それは主体的合理主義の<<近代的>>誤謬であって、人間存在が存在するための必要条件にのみ注目しその充分条件を見失った誤謬ということができよう。
 人間存在の充分条件は、「対立」ではなく、むしろ「調和」(harmonia)である。人間存在のあるべき姿として、二十一世紀以降の人類に求められているのは、
第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和である。
 ホワイトヘッドの「有機体の哲学」が目指しているのは、このような新しい世界を開く基本的スキームであるということができよう。それはまた、前一千年紀以来、地中海域から、オリエント、インド、中国シナの古代文明の知性か求めた「知恵」(wisdom)の探究の伝統につながるものである。私の考えでは、このような知恵の探究は、実のところ、根源的には、石器時代以来、人類が、世海と人間とに対して抱いた基本的想念を手がかりとし、これに基づくものである。
 正義公正の原則は、人間の共同存在のための必要条件を示すものにすぎない。人間間共同存在の充分条件となるものは信愛である。そして何よりも、人類はみづからが有限な存在であることを思い、謙虚にみづからを省みるところがなければならない。そのときに、はじめて人々は、現代文明社会において見失った善美なる価値の世界をふたたび見出すことができ、近代科学も、在るべき価値秩序の中に、自己の在るべき位置を見出すことができるであろう。
 今回創刊の機関誌が、古代以来の人類の正統的な知恵の探究に棹さすものであることを想い、ここに、その出立を祝うものである。

===================================================================

ちなみに、『プロセス思想』創刊号の目次は以下の通りです。

創刊に寄す    
山﨑正一  -------1

大乗仏教とホワイトヘッド哲学ー特に中観と瑜伽行唯識の基本的問題について--------5  
武田龍精

ハヤトロギアとホワイトヘッドのプロセス思想-------19  
田中裕

ホワイトヘッド形而上学における神の観念について-------33  
京屋憲治

バルト神学とホワイトヘッド哲学-------43  
大島末男

出来事・有機体・現実的実質とシステムーホワイトヘッド哲学とシステム哲学の概念比較------55  
伊藤重行

ギリシャ教父に見る万有在神論ーエイレナイオス、マキシモス、パラマスの場合------65      
木鎌安雄

ホワイトヘッド国際シンポジウム回想 relevancy and genius------79  
松延慶二

Japanese Universities and their Function in National Development ------86 
Keiji Matsunobu

 

 

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創造的無と宇宙の歴史性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論

2020-12-17 | 哲学 Philosophy

創造的無と宇宙の歴史性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論

田中 裕

はじめに

 

「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく過客(旅人)であるという認識に達したように見える。天と地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年(時間)もまた旅人に他ならない。西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々が以下に考察するのは、我々のすまう世界が根源的に歴史的過程(以下「歴程」と呼ぶ)に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないという事実の有つ意味である。

1 現代宇宙論の展開

 相対性理論と量子力学を基礎とするコスモロジーは現代科学の最先端の一つである。そこでは、我々の宇宙が約140億年前のビッグバンに始まる歴史をもつという証拠(宇宙の背景輻射の存在)の発見とともに、宇宙の起源と終末に関する問題が、神話や単なる形而上学の問題としてではなく、科学の問題としても議論される段階に到達したように見える。

 曾ては、創世紀の七日間の天地創造の物語を熱心に論じたのは中世のキリスト教の神学者達であったが、今日では、創造後の『最初の3分間』を現実の歴史として語ったのは、素粒子の統一理論でノーベル賞を受賞した物理学者のスチーブン・ワインバーグである。さらには、単にビッグバン以降の宇宙の歴史を物語るだけにとどまらず、宇宙の始まりという特異点を解消するという問題もまた物理学の最前線では課題の一つとなった。「無からの創造」(creatio ex nihilo)はキリスト教神学の知解を越える教義であったが、まさしくこのような教説が、ビッグバンの特異点を解消する理論の一つの理論的な可能性として、物理学者によって議論されるようになった。

 ビッグバン理論によれば、宇宙の歴史の始源においては極大の宇宙は極微の宇宙でもある。それゆえに、宇宙の起源を正しく認識するためには、マクロ宇宙を記述する一般相対性理論とミクロ宇宙を記述する量子力学とを統一する理論が必要となる。重力、電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用の4種類の異なる自然力を統一する究極の物理理論が検証される領域は、人間が地上で実験可能なエネルギーのレベルを遥かに越えており、初期宇宙のような極限的な状況こそ統一理論の試金石になるのである。このように、量子論と一般相対性理論という20世紀の物理学の歴史を根底から変えた二大理論を更に高いレベルで統一するという理論物理学の課題が、『宇宙がどこから来てどこへ行くのか』という歴史の黎明期から人類が問い続けてきた形而上学的問題の探求と結び付いたものが現代宇宙論なのである。

  ビッグバン以後の膨張する宇宙とは、境界をもたぬ有限の大きさの宇宙が膨張して行くことを意味している。人間の感覚を遥かに越える宇宙も単なる大きさだけでは人間を凌駕するものではなく、我々は物理的宇宙のスケールよりも寧ろその宇宙の全体を捕らえ得た人間の精神の宏大さのほうに驚嘆すべきかもしれない。それと同時に、宇宙の全体を捕らえる人間自身は、当然のことながら、時間的にも空間的にもその宇宙の内部にいる訳であるから、そのような『宇宙内存在』としての人間が、宇宙の全体を捕らえ得ることが如何にして可能となるかが問題とされねばならない。人知の限界を探求する形而上学の可能性の問題として、カントの『純粋理性批判』の課題が装いをあらたにして蘇ったというべきであろう。

 カントの批判哲学が形而上学の批判を通じて深く自然神学の問題にかかわっていたように、我々を含む宇宙の全体を学問的に問題とする現代宇宙論も、こうして間接的に自然神学上の問題にコミットせざるをえないのである。 更に、この大宇宙が創造されて間もないころは量子力学が適用されるような極微のスケールをもっていたということ、すなわち初期宇宙における極大と極小の一致ということもまた、現代宇宙論の含意する事柄の一つである。我国の代表的な宇宙論学者として知られる佐藤文隆氏と佐藤勝彦氏が共同で書かれた啓蒙的な論文に『宇宙が1センチだったころ』という表題をもつものがあるが、その意味は、一つ一つが約1000億個の星を含む星雲を何兆個も含む100億光年にもわたる宏大な拡がりと膨大な量の物質を含む現在の我々の宇宙が、創造後10-36秒の時点においては半径1cm以内の微小領域におさまっていたということである。佐藤文隆氏によれば、我々の宇宙の歴史のこの時期までは、物理学者が実証性をもって溯れるということである。そして、それ以前の極微の宇宙の状態がいかなるものであったかについては、現在実験によって確認できる領域を越える高エネルギーの物理学を必要とするために、物理学者のあいだで意見が一致している訳ではなく、さまざまな仮説が提案されている状況であるという。無限の拡がりをもつように見える現在の宇宙が高々1cmの大きさしかもたなかった時期があったなどということですら門外漢には驚嘆すべき主張であるが、現在の宇宙論学者の理論的関心は、さらにその先まで行っているということであろう。専門の物理学者が宇宙の始まりについて積極的に発言すること自体が、一昔前までは考えられないことであったことを想起すれば、量子宇宙論に対する物理学者の間での最近の関心の高まりは、現代科学が、ある決定的な段階にさしかかっていることを象徴しているのかもしれない。

 ビッグバンの特異性を解消して、物理学の内部で『宇宙の創造』という出来事そのものを記述しようとする試みの二つの代表的な例として、ロシア生まれの米国の物理学者アレクサンダー・ビレンキンと英国の物理学者スチーブン・ホーキングの理論があるが、彼らの述べていることは、理論の数学的な構造の類似性とは対照的に、日常言語に翻訳され解釈された地平においては正反対の主張のように見える。その理由は、『無』や『創造』にかんする日常的な概念も、また伝統的な哲学的概念もともに、現代宇宙論の遭遇した状況を表現するには不十分であるということに求められるのではないだろうか。

 『無からの創造』は曾てはキリスト教神学のドグマであり、『無からは何も生じない』という古代ギリシャの原子論以来の自然哲学の根本原理に反するものと考えられて来たが、ビレンキンの理論は、量子力学と相対性理論に両方に立脚する物理学においては、『無からの創造』は自然な形で表現されるということを述べている。彼の理論は、『真空のエネルギーの揺らぎ』によって極微の時間幅において物質の創造が行われるという理論-相対論的な場の量子論では実証済みの考え-を宇宙全体に適用することを提案したエドワード・トライオンの着想(1973)をさらに展開したものである。この理論では、宇宙の全物質のもつエネルギーは重力場の負のエネルギーと相殺してゼロとなり、物質的な宇宙の総体は、言わば『真空』の表現とみなされる。ビレンキンが1982年に米国の専門学術誌のフィジックス・レターズに発表した『宇宙の無からの創造』という論文では、宇宙が不安定な『無』の揺らぎから生まれる数学的機構を提示して、誕生したばかりの宇宙の大きさを具体的に計算している。それによれば、『無から誕生した』瞬間における宇宙の大きさは10-26cmのオーダーであり、この種子のごとき宇宙が、極めて短期間に指数関数的に拡大する『インフレーション期』を経た後に、標準的なビッグバン理論に従って膨張したものが我々の宇宙である。ここで、ビレンキンが無という言葉で何を言おうとしているのかを理解するのは容易ではない。米国の物理学者ハインツ・パージェルは、この宇宙創造以前の『無』について次のように解説している。

 宇宙の創造『以前』の無とは、我々が想像し得るもっとも完全な空虚であるーそこには空間も時間も物質もない。それは、場所も持続も永遠もなき世界である.しかし、この思考不可能な空虚が、存在の充実へと自らを変容させることー   これが物理法則の必然的な帰結なのである。これらの法則は、その空虚のどこに書き込まれていたのであろうか。あたかも空虚ですら法則に、すなわち時間と空間以前に存在する論理に従うかのようである。

 ビレンキンと同じように、『虚時間』という量子論の数学的技法を使って原始宇宙がトンネル効果によって真空中に出現する確率を計算したホーキングは、ビレンキンが『無』とよんだものを寧ろ『有』と呼び換えて、量子宇宙の波動関数によって記述される初めも終わりもない実在を表現している。ここでは、ホーキングは一昔前の物理学者ならば、単なる計算上のトリックに過ぎぬものとして『実在性』を否認したかもしれないような『全宇宙の波動関数』や『虚時間』のような数学的概念が、あたかも我々人間が巨視的尺度で経験する時間的な生成変化の世界よりも根源的な実在に対応しているかのように語っている。彼の考える量子宇宙モデルは、空間的に境界がないばかりか『虚時間』において『始めも終わりももたぬ』自己完結的な世界である。ニュートンの『プリンキピア』後300年にあたる1986年に出版された記念論文集『重力の300年』のなかで、ホーキングは自分自身の量子宇宙論の立場をビレンキンのそれと対比させて次のように要約している。

 宇宙は極小の半径をもって『無から創造された』ということもできよう(ビレンキン、1982)。しかしながら、『創造』という語の使用は、宇宙がある瞬間以前には存在せず、その瞬間ののちに存在したかのような時間概念を含意するように思われる。しかるに、アウグスチヌスが指摘したように、時間はただ宇宙の内部でのみ定義され、その外部では存在しないものである。彼はこう言っている:『天地を創造する以前には神は何をしていたか。私は、かってある人が冗談で述べたように、神はそのような質問をするもののために地獄を用意していたなどとは答えまい。時間そのものも神によって作られたがゆえに、いかなる時刻においても、神は何も作られはしなかったのである。』 現代の見方もこれと非常に良く類似している。一般相対性理論では、時間は宇宙の中の出来事にラベルを貼る座標にすぎない。時間は、時空の多様体の外部ではいかなる意味ももたない。宇宙が始まる前に何が起きたかを問うことは、地球上で北緯91度の点はどこかと問うようなものである。そのような点は単に定義されていないのである。創造され、おそらくは終末に達する宇宙について語る代わりに、人は単に次のように言うべきだろう:宇宙はあると(The universe is)。 

 これとほぼ同じ思想は、ホーキングの書いた啓蒙書である『時間の短い歴史』のなかでも繰り返されているが、それによると彼はこのアイデアを1981年にバチカンでイエズス会が催した宇宙論会議の席で最初に発表したという。カトリック教会は、宇宙の永遠性を否定する神学的教義と一致することを理由に、ビッグバン理論にたいして初めから好意的であったことは良く知られている。しかしながら、会議の終わりに参加者に謁見したローマ教皇ののべた言葉、すなわち『ビッグバン以後の宇宙の進化を研究するのは大いに結構だが、ビッグバンそれ自身は探求してはならない、それは創造の瞬間であり、神の御業なのだから』という言葉にたいするホーキングのコメントはかなり辛辣である。

 ここではホーキングは自分の提案した自己完結的な宇宙をあたかも創造神を必要としないかのように語っている。読者には、ガリレオ以来の科学とキリスト教神学との対立関係がここでも顔を覗かせているように見える。ローマ教皇とホーキングの思想の微妙な対立をどのように考えるべきであろうか。どちらかの見方が誤っているのであろうか。それともどちらとも、科学と神学のそれぞれの領分において正しいと考えるべきだろうか。『無からの創造』を説き、それの間接的な支持を現代物理学に求める考えのほうを撤回すべきなのか。それとも『創造』も『無』もありえず、端的に宇宙の『有』を説くことによって創造主を無用とする考え方のほうを改めるべきなのか。

 『始めも終わりもない宇宙』といっても、それは巨視的なレベルでの宇宙が現在と同じ姿で永遠の昔から未来永劫に至るまであり続けるということではないから、曾ての唯物論者が想定したような意味で、宇宙は自己完結的なのではない。ホーキングの世界においても、巨視的世界における『実時間』においては、やはり宇宙の始まりは存在するのである。ホーキングと同じくビッグバンの特異性の解消を意図したビレンキンの論文の表題が『無からの創造』であったことを想起すれば、寧ろ我々は、ここでは、神と宇宙との関係について、このような意見の対立そのものを止揚する新しい観点をとることを要請されていると考えるべきであろう

 

2. 現代宇宙論とキリスト教神学

 現代宇宙論が人類にもたらす世界観の革命的な変化は、ヨーロッパ近代の黎明を告げた地動説のひきおこしたいわゆる『コペルニクス的転回』に匹敵するであろう。ガリレオの異端審問官の一人であった枢機卿ベラルミーノにとって、地動説は一定の目的にとって便利で有効な単なる『数学的仮説』にすぎず、厳密な意味での真理の名に値しないものであった。ガリレオは地動説を単なる数学的な仮説としてではなく真理として主張したために裁かれたというのがガリレオ裁判のポイントの一つであった。確かに、多くの科学史家が指摘しているように、ガリレオの時代の地動説はまだ洗練されたものではなく、現代科学の目から見れば、その細部においては多くの誤謬もあったことは事実である。しかし、この理論が近代の世界観の革命を引き起こし、科学の飛躍的進歩をもたらしたことを否定することはできないだろう。それと同様に、現代宇宙論も、その科学上の詳細においては将来修正される部分をもつことは当然予想されるが、それが人類にもたらす世界観上の革命的変化については、そのような修正可能な詳細とは独立に論じなければなるまい。

 夥しい数の啓蒙書が書かれているにもかかわらず、現代宇宙論の提起する宗教的および神学的問題が何であるかについては、いまだ十分に論じられてはいない。主として欧米の科学者や神学者によって、『新しい物理学』が神学に対してもつ意味が論じられた例はたしかにあるし、ビッグバンの先駆的理論とも言うべきル・メートルの宇宙論をひいて『現代自然科学に照らした神の証明』を書いたローマ教皇ピオ12世のような例もある。また、最近では、宇宙の進化を目的論的に説明する『人間原理』を要請することによって、宇宙における人間の位置に中心的な役割を回復させると同時に、宇宙の進化の過程において新たに生じる情報と秩序の源泉として神の存在を間接的に論証する議論もある。

 しかしながら、一般に科学者はこのような神学的な問題の考察には不慣れであって、それを科学上の具体的な問のレベルに還元して答えようとする傾向があることは否定出来ないし、彼らが『神』について語る場合でも、現代の神学的議論に関する無関心のゆえに、神と世界に関するまことに古色蒼然とした思想を前提にして議論をしてしまう傾向がある。これと同様に、神学者のほうもまた、現代科学の諸理論が、時空、物質、因果性にかんする科学者の常識をいかに変化させたかということに無知であるために、現代宇宙論の提起する諸問題を、彼らのやはり古色蒼然とした科学観の内部で処理しようとする傾向がある。そのために、両者の議論が常にかみ合っているとは言いがたいのである。カール・セーガンは、前述の『時間の短い歴史』に寄せた序文のなかでつぎのように述べている。

これはまた、神についての書物でもある-ひょっとすると、神の不在についての本かもしれないが。いたるところに神という言葉が現れる。宇宙を創造するとき、神にはどんな選択の幅が有ったのか、というアインシュタインの有名な問いに答えるべく、ホーキングは探求の旅に出た。少なくともこれまでのところ、この努力から導かれた結論は全く予想外のものだったー空間的に果てがなく、時間的に始まりも終わりもなく、創造主の出番のない宇宙。 

 ここでは、セーガンは、ビッグバン宇宙論の特異性(宇宙の始めと終末)を量子論と『虚時間』という円環的時間概念の導入によって解消することを意図したホーキングの量子宇宙論の基本的アイデアを、ホーキング以上にあからさまに、あたかもそれが無神論を支持するかのように、あるいはすくなくとも有神論を無用のものとするかのように語っている。

 勿論、ここで、ホーキングやセーガンが『神』について語ったとしても、彼らが真の意味で宗教的な神について語っていると考える必要はかならずしもない。それよりは寧ろ、本来『神』抜きでも語り得るような物理学上の専門的な問題、例えば、一般理論の内部では決定出来ない任意性(初期条件や物理定数の値)をどこまでなしですませることができるかというような問題を通俗的に語るための一つの便法として、彼らは『神』を持ち出していると考える方が妥当であろう。しかし同時に、我々自身を含む世界の全体を主題とする宇宙論においては、通常の自然科学の内部では遭遇しない形而上学的な問いに直面させられることも事実であり、このような問いそのものが、自然科学そのものを通じて宗教の根本的な問題領域に我々を導くことも否定出来ないのである。 

 ホーキングの著書から直ちに無神論的な結論を出したセーガンの議論は、神学者によって反論されている。例えば、オランダの神学者ウィレム・ドリーは、ホーキングの宇宙論は世界を神の被造物とみる有神論的な見方と矛盾しないという趣旨の論文を書いている。確かに、セーガンの議論には幾つかの隠された前提、ないしは偏見とも言うべきものがあって、それらを共有しないものにとっては、どうして現代宇宙論が神の出番を必要としないのか理解に苦しむであろう。言い換えれば、新しい物理学から神の存在を追放するセーガンの無神論的な議論も、ル・メートルの宇宙論から有神論的な結論を出したピオ12世の議論と同様に、純粋な物理学の内部では用いられていないある種の独断的な狭い形而上学的命題を既に前提したうえで、物理学の解釈を行っているのである。

 たとえば、宇宙に絶対的な意味での始まりがあるということが事実であるならば、それは有神論を支持するが、その逆に初めも終わりもない宇宙の永遠性が事実であるならば、それは無神論を支持するという類いの議論を取り上げてみよう。この種の議論は、宇宙の始まりを想定するル・メートルの宇宙論を支持したピオ12世の議論においても、また始めも終わりも無い円環的な『虚時間』の想定によってビッグバンの特異性を消去したホーキングの理論を根拠に造物主としての神を無用視したセーガンの議論においても、暗黙のうちに前提されていたようにみえる。たしかに、この種の前提ないし偏見には長い歴史があり、それこそ神と世界の関係を考える中世以来の基督教神学者の多くによって、またそれに敵対した唯物論者の多くによって共有されていたといってよい。しかしながら、筆者がここで主張したいのは、このような考え方は、過去の独断的な神学の名残であり、現在ではむしろ克服されるべき考え方だということである。 

 ガリレオ裁判以前の中世の基督教神学の世界では、宇宙の無限性を主張することはジョルダーノ・ブルーノの自然哲学がそうであったように異端審問の嫌疑をかけられるような事柄であった。それは、宇宙が時間的にも空間的にも有限であって、その存在が必然性をもたず、全くの無から創造されたということが正統派の見解であった基督教の神学的伝統に由来するのである。 

 宇宙の空間的無限性のみならず、その永遠性を説くこともまた中世の基督教神学の伝統の中では異端の嫌疑を招く教説であった。13世紀のドイツのスコラ哲学者にして基督教神秘主義者としても著名なマイスター・エックハルトは、時の教皇ヨハンネス22世によって異端者として断罪されたが、その告発理由のなかには、エックハルトが『世界の永遠性』と『魂の非被造性』を主張したことがあげられている。現存するエックハルトのラテン語著作の一つである『創世紀注解』を見ると、『何故神はもっと早く世界を創造しなかったのか』という問にたいして、エックハルトは『神が神であるまさにその時において、また神が万物の中にご自身に等しく永遠なる御子を誕生させたその同じ時に、神は世界を創造した』という見地から、神が時間の中で世界の創造のときを待っているかのような素朴な見解を退けて、ある意味では『世界が存在しない時には神も存在しない』という大胆な見解を述べている。

 これは、神の根底(神性)と一つである我々の自身の根底(霊性)への突破と、霊における神の子の誕生を説くエックハルトの他の教説とともに、中世の基督教神学のドグマの限界を越えた大胆な思弁であったが、神と世界を区別したうえで、世界を神に一方的に従属させる西欧の神学的伝統の中ではあくまでも異端の教説とされたのである。

  しかしながら、第二バチカン公会議以後の現在のカトリック教会における神学を、中世の独断的な神学と同一視するのは時代錯誤であろう。ガリレオを名誉回復すべきことがローマ教皇ヨハネパウロ二世によって正式に表明されたことはまだ記憶に新しいし、エックハルトもその全集の発行以来、その深い霊性が再認識されているといって良い。キリスト教以外の他の宗教的伝統のなかで啓示された真理にたいする敬意とともに、現代科学との対話を重んじることは、多元的な価値観の尊重において成り立つ近代化された社会におけるカトリック神学に不可欠の条件となっている。元来『カトリシズム』とは、普遍的な信仰の真理を意味する言葉であって、特殊な信仰者の共同体のなかでのみ通用するような疑似宗教的イデオロギー(idioV logoV=特殊言語)の否定において成り立つものである。キリスト教信仰は科学上の真理と矛盾するものではなく、それを完成させるべきものであることは、トマス・アキナス以来のカトリック神学の重要な課題の一つであった。それゆえに、もし我々が、過去の神学的ドグマにとらわれる事なく、神と世界の関係を問題として考察したとしても、それはこのような広い意味でのカトリシズムの精神には合致すると考えて良かろう。 神と世界の関係を、世界の側から、あくまでも世界に内在的な観点から考察する神学のことを、カトリシズムのキリスト教の伝統では『自然神学』と呼んでいる。それは、神の特殊な啓示から天下り的に議論を始める『啓示神学』と相補的な関係にあるキリスト教神学の伝統の一つである。

 宇宙の存在に初めがあるとするならば、それは造物主の存在を証明することになるというような単純な議論の背後に隠されている宗教的前提を明らかにするためには、我々は、このカトリックの自然神学の伝統をもっと良く知る必要があろう。

 現代フランスのカトリシズムの伝統に立つ神学者であるクロード・トレモンタンの『天体物理学と形而上学』という論文は、このカトリシズムの自然神学の伝統を踏まえたうえで、現代宇宙論の問題を論じている。彼はこの論文の中で、宇宙の存在そのものを問う形而上学の三つの類型を人類の思想史のなかからとりあげて、それらを対比している。

 第一の類型は、物理的宇宙は見せかけのものに過ぎず、経験科学が研究の対象とするような『客観的現実』は、実際には単なる仮象であって、夢、幻のごとき、まったく実体のないものであると考える。古代インドの形而上学の伝統やプロチノスの新プラトン主義の形而上学などはこの類型に属するという。 

第二の類型は、物理的宇宙が『存在そのもの』であり、存在するすべてのものの総体であって、他に存在するものは何もないと考える。ここでは宇宙こそが絶対的な存在であって、宇宙の存在は必然的である。そして、この宇宙における生成変化が認められる場合でも、宇宙の不可逆的進化の事実は否定され、常に永遠の循環が考えられる。その意味で、物理的宇宙には、始まりも終わりもなく、真の意味での生成も進化も歴史もない。パルメニデスやヘラクレイトスに代表される古代ギリシャの自然哲学や、機械論的な唯物論者の形而上学もまたこの類型に属するという。 

第三の類型は、物理的宇宙は、客観的かつ現実的に、それを認識する人間の意識とは独立して存在する実在であるが、宇宙それ自身は決して自己充足的な完全な存在ではないと考える。ここでは、絶対者の存在と物理的な宇宙の存在とが厳密に区別される。経験に与えられた現実の全体、すなわち物理的宇宙とそのなかにあるすべてのものを非神格化したヘブライ人に由来する超越神論の形而上学の伝統がこの類型に属する。宇宙が神によって創造されたという思想は、このように、絶対存在でも神的存在でもない宇宙の存在をどう理解したら良いかという文脈で生まれたものであるという。  このトレモンタンの言う形而上学の三類型は、後で述べるようにそれだけで人類の形而上学的遺産のすべてを尽くしているとは言い難いが、聖書の伝統に基づくキリスト教の形而上学が、宇宙を非神格化することによって、それを科学的に探求する道を開いたという視点を提供している点で、歴史的には興味深いものである。

 この宇宙が『無から創造された』というキリスト教の教義の核心は、この宇宙のどこを探しても、そこで我々の出会うのは、神ならぬ被造物のみであるということである。そしてこの世界を創造した全能の絶対者の似姿として作られた人間は、すくなくとも原理的には、一切の神的なものを剥奪されたこの宇宙の法則を完全に認識することができるであろう。我々は、呪術とは明確に区別される近代的な意味での自然科学を生み出したのが、宇宙に宗教的な意味を見いだす文化圏ではなく、宇宙から神的な意味を奪った基督教文化圏においてであったことの意味をもう一度よく考えてみる必要があるだろう。

 トレモンタンは上に述べたような形而上学の三類型以外のものは、人類はいまだ見いだしていないと信じており、そういうものがあるならばぜひ教えてほしいと明言している。そして彼は、現代宇宙論はかれの言う第三番目の類型に属する形而上学の真理性を、経験的な論拠に基づいて証明していると確信しているようである。この点に関する限り、筆者は率直に言って彼に同意することはできない。筆者は形而上学には無限に多くのバリエーションの可能性があると同時に、神と世界の捕らえ方には、この三類型のどれにも帰着しない重要なものがあると考えるものである。さらに、キリスト教の教義に合致するかしないかは別としても、経験科学がアポステリオリな論拠に基づいて特定の形而上学のみを支持すると考えるのは、科学と形而上学との生産的な関係を損なう危険があるだろう。ある特定の形而上学的な先入観が、科学の発展を助長することは有り得ることであるが、それは同時にその後の科学の進歩を妨害するということも十分に起こり得るだろう。地動説を唱道したのが、カトリックの司祭であったコペルニクスであったとすれば、同様にガリレオを迫害したのも基督教の教会であった。スピノザの『永遠の観点に立つ』形而上学を愛好していたアインシュタインは、最初の宇宙論的考察において、いわゆる宇宙項を付加することによって宇宙の膨張という動的な事態を予見することができなかったことは有名な科学史上の事実である。トレモンタンが言う意味での『宇宙の存在そのものを問う』形而上学といえども、実際には、融通のきかぬ単なるイデオロギーの体系に転落する危険を秘めているであろう。真の意味での形而上学の任務の一つは、我々の思考を束縛するものから我々を解放する普遍性を獲得することである。そこで、筆者は次の章で、トレモンタンが考慮していない形而上学的立場の新しい可能性を提示することによって、自然神学と現代宇宙論の双方を射程に収め得るような、新しい視点と概念の枠組みを検討することにしたい。 

3 「無」の哲学再考

 前章で引用したトレモンタンの言う形而上学の三類型のいずれにも帰着しない、独自の類型として、西田幾多郎の絶対無の哲学を考察し、その立場から現代宇宙論と宗教との関係を以下で論じてみよう。この西田哲学の終着点ともいうべき宗教論の特徴は、特定の宗教的伝統や特殊な民族や人物にのみ下された神の啓示の内容に拘束されることなく、万人に対して平等に開かれた経験の直接性のみをより所にして神を論じている点にある。西田の晩年の宗教論を英訳したデビット・ディルワースは、西田を『我々の時代におけるおそらく最初の世界的神学者(the first world-theologian)』と呼んだが、それは西田の宗教論の出発点が、特殊な天啓を記したと称される聖典のみを原理とする啓示神学ではなくて、世界的な宗教の様々な伝統に通底するものを、万人が自分自身の経験の中で本来確認できる事柄として捕らえる最も普遍的な意味における自然神学であったことを意味している。

 われわれがここで注目したいのは、科学と宗教との関係について、内在神論と超越神論、汎神論と創造神論というような神学上の二元的対立そのものを止揚する宗教的立場が何であるかについての徹底した考察を西田が展開していることである。それは、『善の研究』のなかでは、純粋経験の立場であり、『自覚における直観と反省』では、直観と論理的反省を統合する自覚の立場に移行し、『働くものから見るものへ』では場所の立場となり、そして最後には、平常底と逆対応によって特徴づけられる絶対矛盾自己同一の立場となるが、それらは、神、宇宙、人間の三つの存在領域をどのように相互連関において捕らえるかという形而上学の根本問題に関する思索を、主客未分以前の徹底して具体的かつ直接的な経験の現場において展開するものであった。それは、この宇宙を夢や幻のごとき実体の無いものとは考えない。われわれによって経験される世界は、そのあるがままの姿で実在性をもっており、その背後にさらに優れ意味での実在を隠しているという意味での形而上学ではない。また、この世界のみが唯一の絶対存在であるという独断からもこの哲学は自由である。なぜなら、世界を必然的な存在と同一視する考えは、不生不滅の実体の存在を前提するが、西田のいう意味での絶対無の場所の哲学は徹底した非実体論であって、宇宙にはそのような実体は存在せず、すべての有は相互関係の網目に解体されると同時に、『作られたものから作るものへ』という方向性をもった因果の文脈でとらえられる。またこの哲学は、宇宙の外部にそれよりも優れた意味での『有そのもの』を独断的に構想しない点において、単なる超越神論ではない。有の総体としての宇宙それ自身が無限に開かれた絶対無の場所においてあるという意味では、西田哲学は決して宇宙の存在をもって終結するわけではないが、有を存在せしめる原理そのものを、再び有という範疇で捕らえないからである。絶対無の場所において有を捕らえる西田哲学は、宇宙と神と人間を有としてあるいは実体として捕らえる神学的伝統に対する徹底した批判の所産なのである。

 『善の研究』において西田は、『超越的神があって外から世界を支配する』というごとき神学的立場を『啻に我々の理性と衝突するばかりではなくて、かかる宗教は宗教の最深なるものとは言われない』という考えを表明している。  彼が基督教神学の伝統の中で評価したのは、スコートス・エリゥーゲナ、マイスター・エックハルト、ヤコブ・ベーメ、ニコラウス・クザーヌスなど、神秘主義の伝統に立つものであったが、その理由は、これらの神学者たちが、我々の直接経験の事実において、『翻された眼』をもって神を認め、『宇宙の外にたてる宇宙の創造者とか指導者』というごとき独断的に『仮定された神』をもって満足しなかったからである。これらの思想家は、確かに西欧のキリスト教神学の伝統においては少数派であり、ときに異端の嫌疑さえかけられた神学者ではあったが、我々がキリスト教の特殊な啓示の絶対主義に捕らわれずに、宗教的視野を拡大して、世界宗教のさまざまな伝統において与えられた多様な霊的経験に通底するものを考慮すれば、これらの思想家は狭い意味でのキリスト教神学を越える普遍性をもった場所において、神と宇宙と人間の問題を論じていたということはできないであろうか。 

 さて、西田哲学に導かれた我々の立場からすれば、一方において、自然科学の進歩によって基礎が揺らぐような自然神学は脆弱な基盤のうえにたつものといわなければならない。

 しかし、他方において、自然神学は、自然科学が歴史的に進歩することによって更に深い内的統一を獲得できるような世界観的基盤を提供すべきものであって、自然科学の進歩から切り離された孤立した場所で営まれるべきではない。自然科学の『道』も、宗教の『道』もその根底においては一つの『道』であることを示すことこそ自然神学の課題である。それはまた、そのような自然神学は、いわゆる特殊啓示を一切含まずとも、究極においては啓示神学と矛盾することはないであろう。『恩寵は自然を破棄せずに完成させる』というのが伝統的なカトリックの神学的立場であるが、我々はこれと逆対応的な命題として『自然は恩寵を破棄せずに、却ってこれを完成する』ということもまた、同等の権利をもって主張できるであろう。

3.歴程宇宙の遠近法

 一般相対性理論では、宇宙時間とよばれる特別な時間が定義され、とくにビッグバン宇宙論の標準モデルでは、この宇宙時間によって、宇宙全体の歴史が語られる。そして、その語り方は、例えば、百数十億年前に溯る宇宙の歴史の中での銀河や太陽系の形成の時期について語り、また将来、宇宙の膨張が続くか、それが収縮に転ずるかなどということが語られる。その語り方は、あたかもニュートンの絶対時間が復活したかのようであり、アインシュタインの相対性原理の理念、すなわち、この宇宙にあるどの基準系も原理的に対等であるという原理に反するように見える。空間的に世界の「絶対的な中心」というものが無いのと同じように、時間的にも、他の様々な瞬間とは違った「世界の始まり」というごとき特異点が存在することは、相対性の原理に反するように見えるからである。

 アインシュタインが1905年に特殊相対性理論の基礎においた同時性の相対性という概念は、最初は、世界全体に広がった客観的時間経過という観念を物理学から追放したかに見えた。そのかわりに、それぞれの観測者は固有の時間系列をもつこととなったが、この複数の時間系列のどれ一つとして、客観的な時間経過を表示するという特権を主張出来なかったのである。

 しかるに、それから4半世紀がたつと、相対性理論に関連する物理的なアイデアや数学的技法をつかった宇宙論学者が、アインシュタインが退けた概念そのものを再び導入するようになったのである。ここで言う宇宙時間の本性は如何なるものであるのか、とくに、それが相対性理論で否定されているニュートン的な絶対時間とどこが違うのか、このことについて明瞭な理解をもつことは、現代宇宙論の理解にとって必要であろう。 

 宇宙時間は、物質の重力効果を無視できる特殊相対性理論では登場しないが、一般相対性理論を宇宙の全体に適用する場合には、物質分布に適切な条件を施した場合に限り、登場することが知られている。 宇宙時間は、宇宙全体の出来事を直線的に秩序だてる普遍的な時間を表すという意味で、特別の役割をはたすものではあるが、それは、絶対時間の存在を否定する相対性理論の内部で定義されたものであって、ニュートン的な時間の絶対的な遠近法を与えるものではない。それゆえに、宇宙の開闢のときと今此処との間の時間的な隔たりを表す百数十億年という悠久の時の経過をあらわす数字は、宇宙が空間的に一様でかつ等方的に見えるような観測者の時間を基準にしているという点で、標準的な時間であると言えるが、ニュートン物理学においてそうであったように、あらゆる基準座標系に共通する絶対時間であることはできない。この宇宙時間において『同時的』な二つの出来事は、ニュートン的な意味で同時的であることはできず、互いに因果関係を全くもたないという意味で、基準系の取り方によっては遠い未来にも、遠い過去にも属するからである。 たとえば、 ビッグバン宇宙論からインフレーション宇宙論への展開のひとつの契機となった有名な『地平線』の問題は、相対性理論の枠組みの中でのみ意味をもつ事柄である。我々から見て、同時に見える二つの宇宙領域が、過去において因果的に関係をもつことが可能であるためには、その領域は空間的に限られた狭い領域(粒子的地平の内部)になければならない。例えば、宇宙黒体輻射のやってくる領域についていえば、電波望遠鏡で数度離れた二つの領域は、過去において因果関係をもち得なかった領域である。それゆえにその2領域が全く同じ輻射を与えるということが問題となった訳であるが、この問題自体が、相対性理論の時空概念を離れては意味を失うことに注意すべきであろう。

 宇宙を時間的な層によって直線的に系列化する宇宙時間で同時的な二つの領域は、因果的には独立であるということが、ニュートン物理学の絶対時間と根本的に異なるのである。

 我々は、次に、宇宙の歴史の長さを測る尺度について考察しよう。ビッグバン宇宙論で、宇宙の歴史が百数十億年であると言う意味は、物質の平均的な運動に従う基本観測者の位置する系(共動系)を基準にするということである。ニュートン物理学では、二つの出来事のあいだの時間的間隔は、基準座標系の選択に依存しない絶対的な値をとるが、一般相対性理論では、それらの二つの出来事を結ぶ世界線の選択によって、それらの世界線に沿って積分されたそれぞれの固有時間の総和は異なる値をとることはよく知られている(双子の逆説)。その理由は、宇宙の物質全体に対する関係が、二つの基準系の間で異なるからである。この双子の逆説を宇宙規模で考えるならば、宇宙開闢の時から現代に至るまでの時の経過を、原理上は、無限に短いものと見なすことのできる基準系があってもかまわぬということになろう。その意味で、この百数十億年という数字は、ニュートン物理学でもち得るような絶対的な時間の経過を表す量ではないのである。

 しかしながら、ここで注意すべきことは、ビッグバン宇宙論の時間は、絶対時間ではないにしても、(もし宇宙に特異点や事象の地平がなければ)我々が地球上で使用している時間を宇宙の全体へ外挿し普遍化することを可能にするという意味で、普遍的時間の資格をそなえているということである。相対論的宇宙論では、宇宙が空間的に一様でありかつ等方的であること(宇宙原理)を仮定したうえで、至るところでこの空間的な超曲面と直交する普遍時間として宇宙時間を定義したのである。

 さて、宇宙の物質とエネルギーの分布はどこから見ても同じであるという宇宙原理が正しいかどうかは、最終的には観察によって決定されるべきアポステリオリな問題である。従って、宇宙時間が存在するかどうかも、相対性理論の枠組みの中では決定されておらず、事実問題として決着をつけるべき問題である。相対性理論の要請をすべて満たしながらも宇宙時間の定義できない宇宙モデルを構成したゲーデルの言葉を借りるならば、物質の分布というような偶然的な事情に依拠するような時間は、絶対時間とは呼べないであろう。

 この宇宙時間の存在がアポステリオリな理由によって正当化されるならば、宇宙時間がそこにおいて成り立つような基準系は、他の基準系とくらべて特権的な意味をもつことが可能なのである。 従って、『あらゆる基準系が対等である』ことを要求する相対性原理の述べている『対等』の意味は、『事実上の対等』ではなくて、あくまでも『権利上の(法則上の)対等』であると理解すべきであろう。それは、『物理学のもっとも普遍的な法則が、どのような基準系でも平等な形で成り立つこと』を原理的に要請するが、事実問題として、宇宙の特殊な歴史について語るというような具体的目的のためには、ある特権的な基準系が、他の基準系に優先するということを妨げないのである。

 例えば、ビッグバン以後の歴史を語る場合には、宇宙背景輻射が完全に等方的であるような基準系が特別の意味をもち、われわれは、この基準系に対して、地球がどのような運動をしているかを計算することもできるのである。この事情は、天動説と地動説の対立というような問題の考察のレベルでも既に現れていた事柄である。太陽と惑星の相互作用を扱う天体物理学の問題を記述するというような具体的な問題では、我々は、太陽を静止していると見なす基準系(地動説)を選択し、地球を静止するとみなす基準系(天動説)を選びはしない。しかし、そのことをもって、地球基準系と太陽基準系の原理的な対等性を要求する相対性原理が成り立たないと主張することはできないであろう。宇宙背景輻射が等方的になるような基準系は、ビッグバン以後の宇宙の歴史をかたるという目的にとって、最適の基準系であるがゆえに、特権的な位置を占めているのである。

 したがって宇宙時間においては、宇宙の歴史が100数十億年であると語ることには普遍的な意味があることが認められるが、それは決して「絶対的な」意味を持つものではない。それどころか、相対論的に思考するならば、ある特別の意味においては、宇宙の開闢という遙か昔の出来事は、「今此処」の出来事に近接しているということも可能なのである。 そのことを言うために、相対性理論において二つの出来事が時空的に遠くにあるとか近くにあるということが何を意味するかということを明らかにしておく必要があろう。

 話を簡単にするために、我々は宇宙に於ける二つの出来事の間の四次元的な距離に関するアインシュタイン・ミンコフスキーの基本的な考え方から出発しよう。

 相対性理論では光円錐というものが基本的な役割を演じることは周知の通りである。光円錐とは四次元距離がゼロであるような時空点の集合であり、宇宙に於ける光の軌跡を表現している。この四次元距離がゼロであるということの経験的な意味は何であろうか。

 我々が夜空の星を見上げる場合のことを考えてみよう。我々が肉眼ないし望遠鏡で観測している天体は、我々にとってのその都度の現在の宇宙の姿なのではない。例えば、冥王星は5時間前の、ケンタウロス座のaは4年前の、アンドロメダ星雲は150万年前のというように、過去に向かう時間的な奥行きをもった対象の姿を、今此処で見ているのである。過去の光円錐とは時間の奥行を持った三次元の空間であるが、それは決して抽象的な数学的概念などではなく、現在的直接性という様式を以て知覚される我々の経験的事実と密接に結びついているのである。

 四次元世界の出来事間の隔たりをdsであらわすならば、相対性理論では、それは時間的な隔たりdtと空間的な隔たりdlを統合したものであって、dtもdlも単独では絶対的な不変量ではなく、ただdsのみが不変であることに注意したい。

 そして、四次元宇宙に於ける遠近法を語る場合、|ds|<e によって、出来事のe近傍について語ることができるであろう。そのときに、相対性理論では、古典物理学では生じない独特の事情を考慮しなければならない。

 まず、近傍に、time-like な近傍と、space-like な近傍の二種類があるという事である。ここでtime-like な近傍とは、ある特別な基準系では、時間的な成分のみで表示される近傍のことで、spce-like な近傍とは、或る特別な「基準系では、空間的な成分のみで表示される近傍のことである。それらのふた通りの近傍を図示すれば下記のようになるであろう。

  この図が意味するように、相対論には、時間的且つ空間的に閉じた領域ではなく、双曲的に開かれた近傍の概念があり、それは無限の過去と無限に未来にむかって開かれた領域になっているのである。そしてこの近傍の概念にしたがうならば、たとえば、100万年前に百万光年離れた星雲で起きた出来事の方が、昨日、私の部屋で起きた出来事よりもtime-likeな意味に於いて「近くに」あると言うことに客観的な意味を与えることが可能なのである。

 曾て、禅学者の鈴木大拙は、キリスト教徒の集会で講演したときに、『天地の創造のときに、神が光りあれと言われたら、光があったというが、一体それをだれが見ていたのか』と尋ねたと言われている。これは、臨済禅の伝統を踏まえた大拙がキリスト教徒に提示した宗教的公案とも言うべきものであるが、その趣旨は、おそらく、旧約聖書の天地創造の物語が、個々のキリスト者の今此処における宗教的実存とどのようにかかわっているのかという事であったと思われる。

 この公案を、キリスト教徒に対してではなく、相対性理論を基礎として宇宙の始まりについて論じている現代物理学に提示したら、どうであろうか。  現代の物理学者は、ビッグバン理論において、『宇宙の初めの最初の3分間』について、まるで直接に見てきたかのように語っているが、そのころの宇宙の光を一体だれが見ていたのか、と問うことは現代宇宙論の認識批判という見地から意味のあることであろう。

 聖書やプラトンのティマイオスの記述が神話であるのと同じく、物理学者の天地創造の物語りも、真実らしい装いを施された現代の神話であるというような批判に対して、どう答えるべきであろうか。我々はこの物理学の『公案』に対して、次のように答えることができるだろう。

『我々は、宇宙の開闢の時の光を、今此処で見ており、そしていつでも何処でも見続けるであろう』と。

 もちろん、『見る』といっても、それは宇宙背景輻射というマイクロ波の形においてであるから、文字どおり肉眼で見える訳ではなく、電波望遠鏡で遥か遠方の銀河の遠い過去の姿を見るというのと同じような類比的な意味においてであるが。

 宇宙の開闢時の状況(正確に言えば、物質と光の相互作用の均衡が破れて光が自由に運動可能になったビッグバン以後数百万年後の頃の状況) を示す観測データは、今此処に与えられている。一九六〇年代にこの宇宙背景輻射が発見されたことが、相対論的宇宙論を実証的な科学として認知するきっかけとなったのは理由のあることなのである。キリスト者にとって聖書の記述が決して神話ではなく、彼らの宗教的実存に照らして実証可能な霊的真理であるのと同様に、相対論的宇宙論の基本思想を受容した物理学者にとって、宇宙開闢の物語は、決して検証不可能な神話なのではなくて、原理的には今ここで起きている出来事と直結し、いまここで成り立つ物理法則を使って実証可能な事柄である、ということができよう。

あとがき

2006年10月に、米国カリフォルニア州クレアモント大学院大学で、Cosmology and Process Philosophy という国際シンポジウムにパネリストとして参加しました。パネリストの一人である、アレクセイ・ヴィレンキン氏に触発されて書いたのが、この「無の場所の創造性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論」という論文です。
 ヴィレンキン氏は、旧ソビエト連邦からの亡命物理学者で、当時タフツ大学の教授でしたが、Multiple Worlds in One という著書を出したばかりなので、クレアモントではホーキングと同じくらい有名でした。ヴィレンキン氏は、ビッグバーンの特異性を解消する論文を書いたことでも有名で、現代物理学者の中ではじめて「無からの宇宙創造」を、量子論的トンネル効果によって説明する論文を書きました。ホーキングと共著で「大宇宙と小宇宙」という本を出し、また最近では「人間原理」にかんする批判的考察で著名な南アフリカ共和国の物理学者エリス氏もパネリストの一人でした。 私は「無からの創造」というキリスト教的世界観の歴史性と,東洋的なコスモロジーの円環的空間性を統合する哲学を、科学哲学と宗教哲学のふたつの分野で構想していましたので、ヴィレンキン氏の理論に大いに触発されました。彼の「無からの宇宙創造論」は、私が以前書いた論文(『現代宇宙論と宗教』、岩波講座(宗教と科学)第4巻、岩波書店、1992)でも引用しましたが、その後の彼の理論の展開、とくにeternal inflation理論と、多重宇宙論の話を直接聞くことが出来き、いろいろな点で興味をそそられました。

 

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西田幾多郎と田辺元の数学論ー「場所的論理」からみた数学の基礎と「数理の歴史主義展開」

2020-12-15 | 哲学 Philosophy
「数理の歴史主義展開」(田辺元)と「場所的論理」による数学の基礎の省察(西田幾多郎)
 
 先日の西田哲学会で「『自覚における直観と反省』と初期田辺の数理哲学」というタイトルで学会報告をされた山本舜氏の発表の司会を務めました。田辺が京都大学に提出した博士論文は数理哲学に関するもので、審査を務めたのが西田幾多郎でした。したがってこの頃の田辺と西田は『自覚』の立場で数学の基礎を省察するという点で共同作業をしていたという趣旨の興味深い発表でした。
 発表の焦点は、初期田辺の立場に限定されていましたので、私は、初期田辺だけではなく、後期田辺の歴史主義の立場からなされた数学基礎論と晩年の西田幾多郎の「場所的論理」からみた数学基礎論をどう評価しますか、という質問をしましたが、それはこれからの研究課題だとのことでした。私自身は、1997年の日本哲学会で行った講演「田辺元の科学哲学と宗教哲学」のなかで、最晩年の田辺元の「数理の歴史主義展開」という遺稿のもつ意味を考察していたので、後期田辺と西田の数学論のもつ現代的な意味というテーマの方に関心があります。
 おりしも、佐々木力氏から最新刊「数学的真理の迷宮」(北海道大学出版会)を献本されたばかりの時でしたので、「数学とは何か」について哲学的に再考することを促されたような気がしました。
 
  歴史的現実に即した数学論の試みという点で、佐々木氏の数学論ーとりわけデカルトとパスカルに焦点を合わせた懐疑主義との関係ーは、田辺や西田の数学論と共通するものを感じました。
  西田と田辺の数学論が二人の哲学と切り離しがたく結びついていることは、たとえば「逆対応」という西田の宗教哲学のキーワードの初出が「哲学論文集第六」に収録された「数学の哲学的基礎づけ」であったことにもよく現れています。数理、自然、精神(心)、芸術と宗教と科学の三つの領域を貫く「実在の自己表現形式」としての「論理」ないし「言葉」の探究こそは、古くて常に新しい哲学の問題と言えるでしょう。
 参考までに私の1997年の日本哲学会講演の原稿を紹介します。
 
 
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ホワイトヘッドの平和論の現代的意義ー核兵器と原理主義の時代を超えて

2020-12-09 | 哲学 Philosophy

はじめに

「ホワイトヘッドの平和論」を語る前に、私は、嘗てケンブリッジ大学でホワイトヘッドに数学を学び、特別研究員(Fellow)の資格を得た後で、ホワイトヘッドと共に数理哲学の記念碑的な大著「数学原理(Principia Mathematica)」を著したバートランド・ラッセルの平和論、とくに、その基本的な思想を表明した「ラッセル・アインシュタイン宣言」の中で、決議文の前に置かれた次の文の引用から議論を始めたい。[1]

我々の前には、幸福、知識、知恵の絶えざる進歩の道があって、我々の選択を待っている。我々が諍いを忘れられないからといって、その代わりに、死を選択すべきなのであろうか? 我々は、人間として人間に向かって訴える― 諸君の人間性を想起し、他のことを忘れよ。もしそれが可能ならば、新しき楽園(a new Paradise)への道が開かれる。もし不可能ならば、諸君のまえには全面的な死の危険(the risk of universal death)がある。

 1955年7月9日に湯川秀樹博士をふくむ多数のノーベル賞受賞科学者とともに書かれたこの決議文は、戦後の東西冷戦の時代、アメリカとソ連の全面的核戦争が人類の絶滅を招きかねないという歴史上嘗て存在しなかった新たなる事態をふまえて書かれたものである。 この宣言を受けて1957 年、米ソをはじめ世界から科学者 22名がカナダの漁村パグウォッシュに集まり、核兵器の危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について真剣な討議を行おこなった。爾来、「対立を超えた対話と科学的根拠を政策決定者に提供する」という科学者の社会的責任に立脚した活動が継続され、最近では、2015年に、第61回目のパグウォッシュ会議が長崎で開催され、原子力発電所の存否と核兵器との関連を問わねばならぬ現代の歴史的状況を踏まえた上で「長崎宣言」が出されたことが記憶に新しい。

 さて、ラッセル・アインシュタイン宣言のなかの、「人間として人間に向かって、諸君の人間性を想起せよ」と訴える、上記の宣言文を、65年後の現在において振り返ってみたときに、再考しなければならない問題が多々あると思う。

 ひとつは、東西冷戦の終結が世界大戦と核戦争の危機の終焉を意味しなかったという歴史的現実である。現在では、超大国であるアメリカとロシアないし中国が核戦争をするという危険は以前よりも薄れたかも知れないが、それにかわって、北朝鮮やイスラム国のような全体主義的国家ないし疑似国家が核戦争ないし核によるテロ攻撃を始める危険性が現実味を帯びている。従って「長崎を最後の被爆地に」という長崎宣言の標語は決して色褪せてはいない。

 さらに、プルトニウムの軍事利用のために作られた原子炉の商業的転用であったという歴史的経緯から見ても、原子力発電を「核の平和利用(atom for peace)」と位置づけることは大きな問題を孕む。子々孫々に至るまで、未来の世代に危険な放射性廃棄物の處理を押しつけるという問題が解決されない以上、核兵器のみならず原子炉を廃絶することこそ、反核運動の目的となるべきだという認識は、日本では福島の原子力災害以前では少数派であったが、そのような考え方もまた近年では真剣に取り上げられるようになった。

 これらの問題群については、既に多くの論者が様々な議論を展開しているので、私は、ここではそのような議論に深入りするつもりはない。そのかわりに、そのような政治的ないし技術的な問題の背後にある「人間の問題」をあらためて取り上げたいのである。つまり、「諸君の人間性を想起せよ」と「人間として人間に向かって呼びかける」場合に、そこで前提されている、「人間」ないし「人間性」とは何を意味するかという問題である。その場合、「人間」を「人間を越えるもの(超越者)および人間以前のもの(自然)」との関わりから切り離して、「人間」にむかって、その「人間性」に訴えるのではなく、むしろ超越者(神あるいは仏)と自然とのダイナミックな聯関において、個々の人間が生きてきている具体的な歴史的生の文脈において捉えることが肝要であろう。

 今日では穏健なイスラム諸国は、西ヨーロッパ主導の人権概念を基本的に受け入れるようになったとはいえ、イスラム教の原理主義者からすれば、神から独立に、理性の限界内で「人間が固有の権利を持つ」ことを人間が演繹することを決して受け容れないであろう。西洋の人権思想の歴史においても、たとえば、仏蘭西革命を経験したドイツ理想主義の哲学者フィヒテは、啓示宗教を理性の名において批判し、個人の基本的な人権を、超越者の権威に依存せずに、カント的な実践理性の内的な根本原理から演繹したが、そのように普遍的道徳を宗教の上に置く理性の立場は当時、無神論として告発されたという歴史的事実がある。つまり、外的な権威への服従を説く制度化された宗教と実践的理性のあいだには、避けがたい緊張関係があり、既成の宗教の批判を抜きにして、単に「人間性」に訴えるだけでは不十分だということである。「人間性」とは、歴史的な状況に根ざした個々の活きた人間存在のうちに実現されねばならず、「人類」という如き抽象的存在にとどまるかぎり、その議論は地に着いたものにはならないのである。    

ホワイトヘッドの宗教論の現代的意義

 数理哲学、科学哲学に関しては共同研究者であったラッセルとホワイトヘッドは、宗教については、一見すると正反対の立場であったように見える。ラッセルはキリスト教の批判者として著名であり、理性を越える如何なる外的権威も認めない「自由人の崇敬(Free Man’s Worship)」を説いた哲学者である。これに対して、ホワイトヘッドの米国に於ける継承者は基本的にリベラルなキリスト教の神学者達が多く、彼らはホワイトヘッドの後期形而上学に立脚した「プロセス神学」という米国独自の神学運動を起こしたことで知られている。

 ホワイトヘッドは、みずからを二〇世紀に於けるプラトン主義の復興者であると位置づけており、「科学的唯物論」と機械論的な世界像の批判者でもあり、同時に、藝術と宗教と科学の調和をめざす新たなるコスモロジーの創設をめざしていた。年代的にはホワイトヘッドはラッセルよりも前の世代に属し、イギリスの講壇哲学がドイツ理想主義の形而上学的思弁の影響下にあった時代に属しており、彼自身、英国の精神文化を受け継ぎつつもそれを普遍化したニューマン枢機卿の影響を若い頃に受けていた。このように、後期のホワイトヘッド哲学を見る限り、ラッセルとはいかにも対照的であるが、ラッセルと同じくホワイトヘッドの哲学には、宗教のドグマと宗教的狂信の批判が含まれていることを指摘したい。

 しかしながら、ホワイトヘッドにはラッセルにまだ残存している科学的理性への楽天的な信頼はない。それゆえに、ホワイトヘッドは、ラッセル流の「自由人の崇敬」の立場からの宗教批判を踏まえた上で、ラッセルがいまだに囚われていた科学的な合理性への信頼をも批判する立場を内包するが故に、むしろラッセルの後に読まれるべき哲学者なのである。

 「人間にとって最も大切なものは宗教である」とは、カトリック教会の昔の「公教要理」の冒頭の言葉であった。ここで云う「宗教」を普通名詞であると解するならば、それは人間の究極的な関心の所在を表現している。この命題の後で、「真実の宗教はキリスト教である」とか「真実の宗教はイスラム教である」という主張が続くならば、それはそれぞれの宗教の神学上のドグマ(独断)となるであろう。しかし、歴史的に与えられた宗教が文明に与えた役割を反省する場合、独断的にみずからの属する宗教を「真実の宗教」と主張する前に、他宗教のみならず自宗教も含めて、「宗教」の哲学的批判が先行しなければなるまい。ホワイトヘッドは、とくに普遍的な倫理・道徳との関係を論じる次のような言葉から、彼の『宗教とその形成』における宗教批判を始めている。

宗教は決して必然的に善ではない、それは非常な悪であり得る。悪の事実は世界の仕組みとからみあうと、それは事物の本性の中になお堕落をうむ力が残っていることを示している。諸君が契約を結んだ神は、諸君の宗教的経験において、破壊の神であるかもしれない。すなわち、すなわち、通り過ぎた後に、より大きな実在の喪失を残す神であるかもしれない。宗教を考える場合、我々はそれが必然的に善であるという観念にとりつかれてはならない。これは危険な幻想である。注意すべき点は宗教の超越的重要性であり、この重要性の事実は歴史に訴えることによって十分に明らかである。[2]

90年前に書かれたこの文章に、ホワイトヘッド研究者は、存在するものの彼方にある「善のイデア」の立場から同時代の反道徳的な宗教を批判したプラトンの現代的反響を見いだすであろうが、「諸君が契約を結んだ神は、諸君の宗教的経験において、破壊の神であるかもしれない」という一節は、宗教的狂信とテロリズムとの結びつきを指摘したものとして、現代的なリアリティをも感じさせる。それは、ヨーロッパで教育を受けながら世俗化した近代世界に空虚さを覚えてイスラム原理主義に帰依し、テロリズムに走った若い世代のイスラム教徒や、オウム真理教に荷担した日本の若き科学者達の特殊な事例を我々に想起させるが、それだけでなく、いかなる宗教にも潜在的に内在する原理主義のもつ破壊性を自覚すべきことを指摘したものである。ただし、ここで注意すべきことは、このような宗教批判は、宗教の持つ「超越的重要性」を決して否定するものではないということである。宗教を無視するもの、単にそれを否定するものは、自らが、科学技術の成果の物神崇拝や、異民族排斥によって国家の結束を図るナショナリズムという疑似宗教に絡め取られる危険を免れないであろう。

それでは、破壊と戦争をもたらす宗教ではなく、創造と平和をもたらす宗教としてホワイトヘッドはどのようなものを考えていたのか。『宗教とその形成』ではそれを次のように語っている。

宗教とは、孤独性(solitariness)である。諸君が孤独でなければ、諸君は決して宗教的ではない。集団的熱狂、信仰復興運動、宗教団体、教会、儀式、聖書、行動の成典は宗教の外飾物であり、その移行的な形式である。それらのものは有益であるか、あるいは有害である。それらは権威を以て定められることもあろうし、あるいは単なる一時的な便法であるかもしれない。しかし宗教の目的はこれら一切を超えている。…  
 信仰と合理化が十分に確立されて後、初めて孤独性が宗教的重要性の中心を為すものとして認められるのである。文明化された人間の想像力に絶えず浮かんでくる偉大な宗教的諸概念は孤独性の情景である。岩に縛られたプロメテウス、砂漠で黙想するマホメット、仏陀の瞑想、十字架上の孤独の人がそれである。神によってさえ、見捨てられたと感じたことこそ宗教的精神の深さに属する。[3]

 一読すると上記のような宗教観は、孤独性(単独者)を強調する点で、キルケゴールのような実存主義的なキリスト教を連想させるであろう。しかしながら、孤独性と人間の連帯性ないし社会性という相対立するものの間の動的な聯関を考える点で、ホワイトヘッドは単なる実存主義者ではない。人間の孤独性を深い意味での理性と結びつけ、最も個的なるものと最も普遍的なものとの逆対応的な動的統合を考えるところに彼の哲学の主題があるのである。ホワイトヘッドを実存主義の文脈で捉えた批評家のひとりにコリン・ウィルソンがいる。彼が1957年に出版した「宗教とアウトサイダー」の最終章でホワイトヘッドに言及し、次のように指摘しているのは、卓見であろう。

いくら英国人が形而上学に無関心であるとは言え、驚くべきことにホワイトヘッドが彼独自の実存主義を創造したと言う事実に気づいた人は一人も居ない。しかも彼の実存主義は、ヨーロッパ大陸の如何なる思想家のそれよりも充実したものなのである。『科学と近代世界』は二〇世紀の『非学問的後書き』にほかならず、おまけにそれは読むに値するという利点を有している。[4]

『科学と近代世界』は『宗教とその形成』とほぼ同時期に執筆された姉妹編とも云うべき著作であり、前者が科学批判を後者が宗教批判を扱っている。コリン・ウィルソンは前者をキルケゴールの「非学問的後書き(unscientific postscript)」にそれをなぞらえているが、ホワイトヘッドの場合、それはあくまでも否定ではなく批判であって、我々が「科学」や「宗教」として考えているところのものを、具体的な生活世界の現場に立ち戻ることによって、そこから批判的に考察し、科学を科学のドグマから、宗教を宗教のドグマから解き放つことを目的として書かれた二つの書物なのである。

 我々は、科学の発達が人類の幸福を保証するという楽天的な進歩史観のリアリティが失われた時代を生きている。知識と技術は加速度的に進歩したが、知恵(wisdom)においてもそうであるというわけにはいかない。「宗教が必然的に善である」と考えてはならないのと同じように、我々は、「科学の進歩が必然的に善である」と考えてはならないであろう。すくなくとも科学の進歩によって、地上に「新しき楽園(a new Paradise)」が構築されるなどと云う楽天的な考え方そのものを批判しなければならない時代を我々は今生きているのである。 人類の存続そのものの危機は、核戦争だけによってもたらされるものではなく、現在では地球の環境危機という新たなる問題が登場している。この問題は、「自然と人間との共生」の問題、すなわち「エコロジー文明」の創出という新しい研究課題を哲学に与えるものとなったが、この問題にいち早く対応したのが、米国でホワイトヘッドの影響を受けたプロセス神学者達であった。

           文明の転換期における平和の重要性

 すでに四半世紀前になるが、1987年にアメリカのバークリーで開催された、仏教とキリスト教の対話を主題とする国際会議のテーマは、「地球の癒し(Global healing)」であった。 この国際会議を主導した米国のプロセス神学者のジョン・カブは、クレアモント大学あるホワイトヘッド研究のメッカともいうべきProcess Centerの創設者でもあるが、彼はホワイトヘッドのコスモロジーが地球の環境危機を考察する上で極めて重要であるという認識を早くから持っていた。彼はこの国際会議の基調演説で次のように述べた。

宗教的な観点から死について語る場合、従来は、ほとんど個人的な次元にとどまっていて、私という個人の死、あるいは、死後の世界はどのようなものであるかという観点から、この問題が扱われた。今日では、我々は、地球全体に死が広がりつつあるという状況に直面している。このことは、もはや、様々な宗教的伝統に属する人間にとって、避けられない問題となっている。[5] 

 地球全体に「死」が拡がりつつあるということは、あくまでも人間的な比喩、もしくは、神話的象徴によって語られていることであって、科学的事実の客観的な記述ではない言う意見があるかもしれない。普通に我々が理解している自然科学には「病」とか、「死」という語は登場しない。もし、自然科学の最も基底的な言語に、生死(生成と消滅)、価値、目的というような範疇が存在しないならば、自然科学的な事実を根拠として、「病める」地球の「癒し」について語ることはできないであろう。健康であったり、病気であったりするのは、あくまでも人間についていえるのであって、他の生物種や無生物について言うのは無理であるとも思われよう。 しかしながら、「健康」や「病」を人間にのみあてはまる特殊な述語と考え、自然そのものを人間の外部に対象化された単なる物質の運動に還元するような自然観そのものが、現在の生態学的危機と密接に結びついているとしたらどうであろうか。 宗教が人間の個人的な内面的生の問題のみに関わり、科学が自然を外部から操作可能な物質の機械論的システムに還元するとき、自然と人間の関わりを問う「環境問題」を、「科学的にかつ宗教的に」語るという道はほとんど閉ざされていたと言ってよい。ホワイトヘッドの自然哲学のコスモロジーはまさにそのような近代に固有の機械論的自然観と、科学から切り離された実存的宗教観の断絶を克服するために亭主すされたものであった。すなわち、人間の生死を、ひろく生きとし生けるもの生命のつながりにおいて捉え、自然を外部から操作し、意識を持つ人間の自己中心的な価値に奉仕させる道具的存在と見做す考え方そのものを批判することが『科学と近代世界』の根本的テーマの一つであった。

 単なる科学的な理性は、手段知としていかに優れていても、無知の自覚において成りたつ本来の哲学的智の基準からすれば、人間と自然との間の分離不可能な依存関係について、また自己と他者との社会的依存関係に対しても、甚だしき無智と共存しうるのである。

 ホワイトヘッドの哲学は、自然を支配する道具として理性を見る立場が批判されるだけでなく、「存在するために他者を必要としない」実体の哲学的概念が迷妄として斥けられている。これは、これまでの西欧のプラトン主義やアリストテレス主義にはなかった哲学の新しい考え方であり、仏教の縁起説に通じる徹底した実体否定論を説いている。このような実体否定論に基づいて、ホワイトヘッドは、自然の外部から神の如き立場で干渉する人間の科学的理性の「暴力」を斥けるだけでなく、一神教の中にあってこれまで無批判的に受容されてきた神概念、すなわち世界に全く依存しないが、世界のほうは全面的に依存する絶対的な実体としての神の概念、万有を外部から専制君主のように支配する神の概念を、一神教に特有の偶像崇拝として批判し、またその偶像崇拝に基づく暴力の是認を、平和を脅かす宗教的イデオロギーとして斥けるのである。

 ホワイトヘッドは、『過程と実在』の「神と世界」の関係を論ずる章で次のように伝統的な「万軍の主」の神概念を批判している。

「不動の動者」としての神の観念は、すくなくとも西欧思想に関するかぎりアリストテレスに由来する。「勝義にリアルな実体」としての神の観念は、キリスト教神学好みの説である。此等二つの神の観念が結合して、根源的で、勝義にリアルな超越的な創造主-その命令一下、世界が成立し、それが課した意志に世界が服従する超越的な創造主の説になるのであるが、これは、キリスト教とイスラム教の歴史に悲劇を注入してきた誤謬である。西欧世界がキリスト教を受け容れたときにローマ皇帝が勝利を収めたのであるし、西欧の神学の受け取ったテキストは、ローマ皇帝の法律家達によって編集された。ユスティニアヌス法典とユスティニアヌス神学とは、人間精神の一つの運動を表現している二巻である。ガリラヤの謙譲についての簡潔なヴィジョンは、諸時代を貫いて、不確かに明滅した。キリスト教の公式化においては、救世主に対して誤解を抱いたということを、唯ユダヤ人だけのものとみなす些末な形をとった。しかし、神をエジプト、ペルシャ、そしてローマの皇帝のイメージにかたどって作るという、より深刻な偶像が保持された。教会は、もっぱら皇帝に属しているいろいろな属性を付与したのである。[6]

 ここでユダヤ人が救世主に対して誤った観念を抱いたというのは、失われた王国をダビデの子孫として復興する王としてのメシアというユダヤ人中心の考え方であり、民族の壁を越えて異邦人をも救済するという普遍的な救済の教えではなかったことを指している。しかし、ホワイトヘッドは、誤解したのはユダヤ人のみならず、初期のキリスト教の神学者達もまた、神を皇帝のイメージにかたどるという、より深刻な偶像崇拝に陥っていたというのである。

 嘗ての西欧文明がキリスト教を非キリスト教国に宣教する場合でも、歴史はその布教活動が帝国主義的な政治的支配と分かちがたく結びついていたことを示している。この点がホワイトヘッドのいう一神教のなかでまだ克服されていない深刻な偶像崇拝のポイントであろう。ホワイトヘッドがキリスト教において重視するのは、「統治する皇帝でも、呵責のない道徳家でも、不動の動者でもなく」、「世界の内で、ゆるやかに、そして静謐の内に働く」「ガリラヤの謙遜(humility)」、すなわち福音書に記されているキリストのケノーシス(自己譲与の愛のはたらき)である

 先に名前を挙げたプロセス神学者のジョン・カブは、ホワイトヘッドの哲学が、キリスト教だけでなく仏教にも深い関わりを持っていることを理解し、米国宗教学会で仏教とキリスト教との宗教間対話を積極的に推進した人でもあった。ホワイトヘッドは、大乗仏教については知識を持たず、当時英訳された倶舎論に示されていたような小乗仏教的を論じただけにとどまったが、彼自身が『過程と実在』で展開した宗教哲学が、小乗仏教の二世界説的形而上学を克服した大乗仏教の根本思想と通底するものであることは、日本のホワイトヘッド研究者もまた詳細に指摘している。[7] 

 ホワイトヘッドが積極的な意味での平和を語っているのは、『観念の冒険』の文明論においてである。ここで云う平和(Peace) は「平安」とも訳しうるが、単に個人の心の内面的な世界だけにとどまるものではない。平和は、宗教論の文脈では外的なものに優先する個の内面に関わるが、内的なものは常に外化され他者によって受容され、継承されるという意味で、内なる世界と外なる世界は互いに動的に転換するという働きがあるからである。言い換えるならば個人の魂に平安のないところに、政治的・外的な意味での平和も到来することはないのであり、地の平和のないところに、魂の平安もあり得ないのである。

 まず、ホワイトヘッドは、文明を「まこと(Truth)」「美しさ(Beauty)」「冒険(Adventure)「藝術(Art)」の四つの徳性がいかに実現されているかによって特徴付ける。美を重視するのは、ホワイトヘッドに特徴的であって、広義の美的判断がそれ自身において価値あるものを我々に伝える点で、また最も具体的な生に直接に関わるという意味で、倫理学の形式的な当為判断よりも実質的な重要性を持つというホワイトヘッドの考え方が現れている。しかし、此等の特質をひとつひとつ彼自身の哲学の立場から論じた後で、ホワイトヘッドは次のように「平和」の重要性を説くのである。

我々が探し求めているのは、他の四つの徳性を総括し、それらの徳性に実際しばしばつきまとってきたやむことのない自我主義を文明の観念から排除するような、<調和の調和>の観念である。「非人格性」は死語でありすぎるし、「優しさ」は、狭すぎる。私は破壊的な騒々しさを鎮静し、文明を完成させる<調和の調和>に対して、<平和>という用を選ぶ。こうして社会が文明化されていると呼ぶことができるのは、そのメンバーが五つの徳性―<まこと><美しさ><冒険><藝術><平和>に関与する場合である。

 ここで云われている文明は、近代科学の成立以後に意味されているような機械文明ではない。それは精神的な文明であり、構成員が関与する徳性である。<冒険adventure>は、未来の方から到来して過去を刷新する力を表わしており、進取の気性をもつ自由人としての個人の気概を表現するものである。しかし、真理を探究する科学も、美を探求する藝術も、冒険を重んじる起業家の気概も、それだけでは文明を構成しはしない。それらの徳性、古い哲学の用語を使うならば、知的卓越性や倫理的卓越性を統合する宗教的卓越性の根本を表現するものが、ホワイトヘッドにあっては「調和の調和( Harmony of Harmonies)」としての「平和」なのである。ここでいう「平和」は消極的な概念ではなく、「魂の生命と躍動の花冠である積極的な感情(positive feeling)」である。それは「未来に対する希望」ではなく、「現在の細々したものへの興味」でもない。言葉で表現することは難しいが、「人格性の超越を伴う、相対的な価値の逆転」であり、「目的の制御を越えた賜物として到来するもの」である。この<平和>は抑止の除去であって、抑止の導入ではない

 転換期に於ける文明を特徴付ける徳性としてのこのような「平和」の概念は、諸宗教で伝統的に語られてきた「平和の概念」でもある。即ち、創造の御業を完成し休息された神に倣う「安息日の平和(シャローム)」、キリスト教のミサで唱えられる「主の平和」、そして、生死の苦しみに満ちた世界から逃避して来世に希望を託す消極的な涅槃ではなく、衆生の苦の世界をみずから積極的に引き受けて、生死の世界との往還のダイナミズムにおいて捉えられた大乗仏教的な涅槃(無住處涅槃)など、様々な宗教的叡智の伝統につながる「平和」である。このような宗教的伝統のなかで育まれた叡智の伝統を尊重しつつ、なお既成の宗教や疑似宗教的イデオロギーのなかに認められるさまざまな偶像崇拝的要素を除去し、そのような集団的エゴイスムを乗り越える「平和」を、文明論の転換という文脈で論じたものがホワイトヘッドの平和論である。



[1] ラッセル・アインシュタイン宣言の英語原文は、日本パグウォッシュ会議のHP

http://www.pugwashjapan.jp/ 参照 ただし、日本語訳は私自身のものである。

[2] Alfred North Whitehead, Religion in the Making, 1926, Newyork: Fordham UP, 1996, p.7 ホワイトヘッド著作集7巻『宗教とその形成』(齋藤繁雄訳)松籟社7頁

[3] 前掲書 p.9 邦訳8頁

[4]Colin Wilson, Religion and the Rebel, Littlehampton Book Service, 1957

『宗教とアウトサイダー』、中村保男訳、河出文庫、1992,下巻271頁、 

[5] この国際会議については、拙著『ホワイトヘッド』講談社、1998、183頁以下を参照

[6] A.N.Whitehead, Process and Reality, 1929, Corrected Edition. New York:Free Press, 1978,p.342 ホワイトヘッド著作集第11巻『過程と実在』下、山本誠作訳、松籟社、610頁 

[7] 武田龍精、「大乗仏教とホワイトヘッド哲学―特に中観と瑜伽行唯識に関して」、「プロセス思想」創刊号、1985,5-18頁は、ホワイトヘッド哲学でいう創造性を大乗仏教の動的な「空」の理解に結びつけている。

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ホワイトヘッドの教育論の現代的意義―古典教育と科学の統合

2020-12-08 | 哲学 Philosophy

ホワイトヘッドの教育論の現代的意義―古典教育と科学の統合

田中 裕

1 ホワイトヘッド自身が受けた古典教育の「公共性」 

 1861年に生まれたホワイトヘッドは「自伝的覚書」[1] のなかで、南部イングランド・ドーセットシャー州のシャーボン校で自分が受けた古典語学習と一体化した教養教育について語っている。10歳でラテン語を12歳でギリシャ語を学び始めたホワイトヘッドは、19歳6ヶ月に至るまで、休日以外毎日、ギリシャ・ラテンの古典的著作について数頁ずつ解釈しつつ文法を学んだおかげで、登校前には何頁ものラテン語文法規則をすべてラテン語で暗唱、引用文で例証することができるようになったという。後にケンブリッジで数学を専攻したホワイトヘッドは、数学の学習を間に挟みつつ、ヘロドトス、クセノポン、ツキディデスなどの歴史書を含む古典の学習によって、ペリクレス時代のアテネの民主制を大英帝国の民主主義と重ね合わせつつ、「近代生活を古代文明と無意識のうちに比較させる古典の授業」が如何に楽しいものであったかを回想している。さらに、このような古典教育は人文教育だけではなく宗教教育も包含していた。ベネディクト修道会の教育機関として西暦741年に創立されたという伝承を持つシャーボン校は、古典語による教養教育のなかに、キリスト教的な宗教教育を統合していた。毎週日曜午後と月曜日朝の聖書の授業では、英訳聖書(欽定訳聖書)ではなく、新約聖書はギリシャ語原文、旧約聖書はアレクサンドリアのユダヤ人達がキリスト教成立以前にヘブライ語からギリシャ語に翻訳し、新約聖書のギリシャ語にも多大の影響を与えた「七〇人訳聖書(Septuaginta)」が読まれた。「学校で誰かが聖書を英語で読んでいるなどと聞いたこともなかった」と言うホワイトヘッドは、「ギリシャ語で宗教を学ぶものにおのずから備わる中庸の美徳(Golden Mean)」を重視し、「プラトンの薫陶を受けていたアレクサンドリアのユダヤ人たちが、五月のドーセットシャー州の修道院の建物(シャーボン校の校舎でもあった)と私の心の中で溶け合っている」と当時を回想している。

 ギリシャ語聖書による宗教教育と古典重視の人文教育を少年時代に受けたということは、東方教会の霊性に由来するキリスト教的プラトン主義の伝統とホワイトヘッドの晩年の宗教哲学との関係を考える上で重要である。ホワイトヘッドの祖父はイギリスの国教会の牧師であったが、この教会は、ローマ・カトリック教会と同じく「カトリック(普遍の教会)」を名乗る「聖公会」であり、キリスト教教会の持つ古き「伝統」と「公共性」を大切にしていた。聖公会の聖職者達は、「教会と国家によって神に奉仕する」ことをモットーとしていたが、彼等は、ラテン語を公共語とする西方教会の伝統だけではなく、ギリシャ語を公共語とする東方教会(ギリシャ正教)の霊性的伝統もまた重視したのである。

 ホワイトヘッドの晩年の宗教哲学は、『過程と実在』の最終章「神と世界」で展開されているが、そこで彼が使用しているキーワードは「神化(テオーシス)」である[2] この語は対象化しえぬ神の活動(エネルゲイア)と、恩寵に基づく人間の自由な「協働(シュネルギア)を重視する東方教会の霊性的伝統に由来するものである。有限なる世界と無限なる神との活きた相互関係にもとづく「万有の神化」を主題とするホワイトヘッドの形而上学は、東方教会の「受肉の形而上学」を独自な形で20世紀において刷新し展開したものだということができるだろう。

 ところで英国の中高等教育をになう代表的な学校は「公共学校(public school)」と呼ばれるが、これは日本でいうならば「公立学校」ではなく「私立学校」である。国家や行政の支配から独立した「私立」学校が、なぜ英国では「公共学校」と呼ばれるかは、学校教育の公共性にかんするひとつの大切な視点を与えているように思う。それは単に私的利益を求めない公共機関ではあることを示すという税法上の理由だけではなく、「普遍のキリスト教」の宗教的な教育理念が根底にあると考えるべきではなかろうか。

 キリスト教の信仰告白の起源に他ならない初代キリスト教徒の「使徒のしるし」は、一人称単数形で「私は信じる credo」という形で宣言する。「普遍の教会」に所属するものは、「一個人の立場」で「公に」信仰を宣言するのであって、「我々は信じる」という複数形で特殊な宗派団体への帰属関係を宣言するのではない。言い換えれば、最も普遍的な公共性は、一人称単数の「私」の告白を原点としており、その立場からすれば、個人を越えるように見える組織や政府のもつ公共性よりも更に普遍的な公共性の理念の表明という性格をもっている。このような「個の人格」を重視する立場は、個人の人権の尊重や信仰の自由を支える「公共性」を重視する立場であり、公共性の名を借りて私的利益を追求する特殊な集団的イデオロギーを批判することを可能ならしめる「個に具体化した普遍」の立場であろう。このように何処までも自由なる個の単独者性に立脚しつつ、他者との連帯を求め、常に異質なもの対立するものの統合を自己と公共世界に於て求める立場こそ、ホワイトヘッドの宗教哲学と文明論および教育論の根底にあるものであるが、その淵源のひとつは、彼が受けた「公共学校」での教養教育にあったと言って良いであろう。 

ケンブリッジ大学の「使徒団」とプラトン的対話による自己啓発 

 1880年にホワイトヘッドは19歳でケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学するが、そこでは「純粋数学と応用数学以外の教室に足を踏み入れたことはない」と述べている。彼は、ケンブリッジ大学では専門教育の科目のみを受講したわけであるが、実は講義は教育の一面に過ぎず、午後6時か7時頃夕食と共に始まり、十時頃まで続く友人達とので、知的会話が、その専門教育を補うものとしてあった。この知的会話を行った友人達は専門科目の一致によって作られたのではなく、古典語による教養教育を受けてきた仲間達と共に政治、宗教、哲学、文学の全ての領域が論じたという。ここでの知的刺激を受けて、ホワイトヘッドは1885年に数学専攻の特別研究員(フェロウ)になるまえにカントの純粋理性批判の一部を殆ど暗唱するまでになっていた。それは、「プラトンの対話の日常版」という様相を呈していた当時のケンブリッジ式の教養教育の特徴であった。そして、1820年代後半に詩人テニスンが友人達と共に始めた「学会(ザ・ソサイアティ)」―外部からは「使徒団(アポスルズ)」と呼ばれていた―の例会は、学生のみならず、卒業生―とくにケンブリッジに週末を過ごしに来た判事、科学者、国会議員―も含めて、毎土曜日午後10時から翌朝まで、プラトンの方法を踏襲する自由な哲学的討論の場があった。後にホワイトヘッドの勧めで1892年に「使徒団」に加えられたバートランド・ラッセルによれば、

「この集会で議論するに当たっては、何のタブーも設けないこと、何の制限もおかないこと、どんなことを言ってもショッキングなこととは考えないこと、いかなる推測も理論も絶対に自由であって何等の妨げもないこと」[3]

が根本方針であった。「使徒団」という通称は、創始者達が12人であったということに由来するが、そこでは特定のイデオロギーを宣伝することが目指されていたのではない。「使徒のしるし」はいかなるドグマも究極のものと見做さない「知的誠実」ということであり、「画一性の福音」も「力の福音」も斥けられた。[4] すなわち、自己の思想と根本的に対立する異論にも謙虚に耳を傾け、自己が公理として暗黙の下に前提していたことを認めないものを積極的に対話の相手とすることによって理性的な討議を続行するという意味での「プラトン的な弁証法・対話術(ディアレクティケー)」の実践が重んじられたのである。清教徒的な息苦しい家庭の雰囲気の下で育てられたラッセルは、後に彼の自伝の中で、この「使徒団」の一員となったことが彼の精神を如何に自由にしてくれたかを感激を以て語っている。

  プラトン哲学の神髄は、イデア説や二世界説のような所謂プラトン主義のドグマにあるのではなく、我々自身が「公理」と考えてきたものを、異質な思想を持つ他者の前で常に批判的な吟味に晒し、そのような「公理」のもつ独断的性格を乗り越えて、自己と他者の対立するドグマをさらに越えていく「普遍性」をめざす探求にほかならないからである。プラトン対話編の自由な精神の働きを直観するものにとっては、アリストテレスのイデア説批判であれ、ニーチェの反ソクラテス主義であれ、プラトン主義に対する有名な反論ないし異論は、すでにプラトン自身によって、「対話編」の中で先取りされていること、そのような徹底した自己吟味の精神こそがプラトンの弁証法(対話術)の精神であることに気づくであろう。このことは、「西洋哲学の伝統をプラトンの対話編の脚注」として要約したホワイトヘッドのプラトン理解の根本的特徴であったが、そのルーツをたどっていくならば、ケンブリッジ大学の「使徒団」での自由討論の習慣がそれを涵養したといえるだろう。

 ホワイトヘッド自身の受けた古典的教養教育は、現代の我々から見れば嘗ての大英帝国の民主制が「大衆支配」の衆愚政治に陥らないように、その制度を実質的に支えてきた知的エリートのものであって、宗教の世俗化、学問の専門化、大学の大衆化がすすみ、科学技術の進歩による国力の増大を至上命令とする近代国家には適合しないのではないかという見方もあるであろう。

 1869年に『教養と無秩序』を書いたマシュー・アーノルドは、オックスフォード大学の詩学教授を務めた詩人でもあったが、彼のいう「教養」の背景にあるものは、ホワイトヘッドが受けた古典教育と通底するものがあったと言って良かろう。アーノルドは、ヘブライズムの道徳的宗教性とギリシャ哲学の知的誠実性を統合する「完全性の追求」をもって「教養」の定義し、「この世を我々が見いだしたものよりも、よりよく、より幸福にしてゆこうとする崇高な理想」のもとに「理性と神の意志を世におこなわしめる」こと、すなわち旧約聖書の道徳的エネルギーをプラトン的理想主義に結合することを力説したからである。[5]

 しかしながら、1888年になくなったアーノルドの「教養主義」の理念とおなじようなものを繰り返すことだけがホワイトヘッドの教育論の特質ではない。文学と芸術の価値を力説する点では、ホワイトヘッドもアーノルドと同じであるが、ホワイトヘッドは同時にケンブリッジ大学とロンドン大学では応用数学と理論物理学を研究する科学者でもあった。「科学と近代世界」の関係を主題としたことは、アーノルドとは異なるホワイトヘッドの文明論と教育論の特質である。それは、あくまでも伝統的な教養教育の意義を保持しつつも、科学技術の発達が文明の行方を左右するようになった近代において生じる複雑な課題に対応するものでもあった。そのような教育論はとくにケンブリッジ大学を退職して彼が務めたロンドン大学時代の教育論の特質でもあった。 

3 ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論―教育の目的と自己啓発の三段階 

 1880年からホワイトヘッドは、最初は特待生として、次は特別研究員兼主任講師としてケンブリッジ大学に在籍し、弟子のバートランド・ラッセルとともに数理哲学の歴史に於ける記念碑的な大著「數學原理」第一巻を1910年に出版したが、その直後、彼はケンブリッジ大学を退職してロンドン大学に移った。1911年から1914年夏にかけてユニバーシティ・カレッジで、1914年から1924年夏までインペリアル理工カレッジの教授を務めたが、この時期に彼はロンドン大学理学部長、ロンドンの教育行政を司る学術評議会議長、市会議員、ゴールドスミス・カレッジ評議会長、大ロンドン自治区ポリテクニーク評議員など大学及び理工学校を含むロンドンの教育行政に深く関わるようになった。近代社会が直面する教育上の様々な問題について、ホワイトヘッドは次のように回想している。

 14年にわたりロンドンの抱えている諸問題を経験したことは、近代産業社会における高等教育の問題にかんする私の考え方を変えた。大学の機能については狭い見解をとることが当時の風潮であったーまだ消えてはいないが。オクスフォード=ケンブリッジ型」とドイツ型とがあり、他のあらゆるタイプは無知から来る蔑視の対象となった。知的啓蒙をもとめる職工大衆、適切な知識を求めるあらゆる社会層の青年達、彼等のもたらす各種の問題―これらはみな、文明社会に於ける新たな要因であった。しかし、学問の世界は過去に浸りきっていた。ロンドン大学は、近代生活のこのあらたな問題に対処するための相異なる各種の施設の連合体である。(中略)実業家、弁護士、医師、科学者、文学者、学部長達―このあらたな教育問題に専任ないし兼任の男女のグループが、焦眉の急だった改革を達成しつつあった。こうした企画は彼等のものだけではなかった。アメリカでも、異なる状況の下で同様なグループが同様な諸問題を解決していた。教育のこのあらたな適応は文明を救済する要因の一つであると言っても言い過ぎではない。[6]

 ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論は、さまざまな機会に彼が行った講演が主体であるが、ここでは、まず、1916年にホワイトヘッドがイギリス数学者協会会長に就任したときの記念講演「教育の目的」を取り上げよう。この講演で、ホワイトヘッドは教養(culture)を、「思惟の能動性(Activity of thought)であり、美と人情に対する受容性(receptiveness to beauty and humane feeling)」と定義する。様々なテーマについて広く浅い断片的知識をもつ単なる「物知り」は、彼が定義する「教養」とは無縁である。自己啓発(self-development)の能力としての教養は、専門知識を哲学のように深め、芸術のように高めるものであるとのべる。

 ホワイトヘッドのロンドン大学時代の教育論でもう一つ特筆すべきものは、1922年、ロンドン師範学校協会でおこなった「教育のリズム」と題した講演であろう。[7]音楽論はアウグスチヌスやプラトンにまで遡るヨーロッパの伝統的な教養教育の要諦であったが、ホワイトヘッドはその伝統を換骨奪胎して、近代の産業化時代の教養教育に適応させようとして居る点が注目される。

 ホワイトヘッドはまずヘーゲルの正反合の三組みにもとづく知的成長の三段階に言及した後で、「教育理論にヘーゲルの考えを応用した場合、かかる名称は内容を伝えるのに適切なものとは思えぬ」と批判した上で、彼自身の知的成長の三段階説を提唱している。それは、「ロマンスの段階」「精密化の段階」「普遍化の段階」である。

 第一段階の「ロマンスの段階」とは、「生の事実から出発して、いまだとらえられていない個々の関係がいかなるものかについての認識へと移行する過程で生じる」ロマンチックな感動である。第二段階の「精密化の段階」とは、言語や文法を習得し、認識相互の関係を正確に秩序立てることによって知識の範囲を広げ、諸事実の分析方法を教え込むことによって分析に適した多くの新事実を与える段階である。そしてホワイトヘッドが強調するのは、現場の教育でもっとも避けなければならないのは、第一段階抜きで第二段階から始めることである。その理由は、たとえ漠然としたものであっても、幅広い全体的な理解がなされていなかったならば、事象を分析したところで、抽象的で他との関連もない空虚な事実を無意味に叙述しただけで終わってしまうからである。そして最後の「普遍化の段階」とは、秩序立てられた概念や適切な処理がなされた専門的知識をもってするロマンチシズムへの復帰であり、前の二つの段階を統合するものである。ホワイトヘッドは、このようなリズム重視の教育論を、「自由と規律とのリズミックな要求」という論文の中でも更に詳しく展開しているが、主知主義的なヘーゲルの三段階の理性的なものの弁証法と違う点は、美的感性の涵養と情操教育が理性の発達に先行すべきだと言う論点である。それは大学に於てなされる教育活動のなかで、惰性的で応用力のない細分化された知識が無目的に学生に注入されていく結果、学生の創造性が低下し、思考が麻痺していく有様への警鐘でもあった。 

4 ハーバード大学時代のホワイトヘッドの哲学における「宇宙の直観と感情」 

 ホワイトヘッドは1924年63歳の時にハーバード大学から哲学科教授として招聘され、以後1936年名誉教授になるまでアメリカで活動したが、この時期は、『科学と近代世界』、『宗教とその形成』、『過程と実在』『観念の冒険』といった彼の哲学上の主著が書かれた時代である。ケンブリッジ大学の時代が論理学と数学の哲学、ロンドン大学の時代が自然哲学であるのに対して、ハーバード大学の時代は形而上学と文明論をテーマとしていると言って良いであろう。この時代は、『科学と近代世界』の最終章をのぞけば主題的に教育を語った論文は少ないとはいえ、我々の宇宙と社会にかんする普遍的な理論を展開したかれの後期哲学は、教育の問題にもロンドン時代におとらず多大の示唆を与えるものである。

 西洋の哲学史をプラトンの対話編の脚注にすぎないと喝破したホワイトヘッドは、同時に自己の提示する「有機体の哲学」が20世紀のプラトニズムの復興であるという自覚を持っていた。ドイツ理想主義が仏蘭西革命以後の時代の近代ヨーロッパに於けるプラトン主義の復興という側面をもっていたことと類比的に言えば、ホワイトヘッドの場合は、第一次世界大戦というヨーロッパの文明の危機と試練の経験を踏まえた上で、文明の未来のために、あらためてプラトンの哲学の精神を復興させようとしたものであるといってよかろう。

 ホワイトヘッドの後期哲学がイギリスの経験論だけではなくシェリングやヘーゲルに代表されるドイツ理想主義との関わりが深いということは従来たびたび指摘されてきた[8]が、ホワイトヘッドに先立つこと約100年前、ドイツ理想主義の全盛期、ベルリン大学の創設時に、国家や教育行政から独立した大学の学問の自由を力説し、ヘーゲルと対立しつつヘーゲルは異なる意味での「弁証法」―プラトン的な開かれた対話の精神―と、「解釈学」の始祖でもあったシュライエルマッハーの思想と対比することが、ホワイトヘッドの後期哲学と、それが教育の問題に対して有する意味をよりよく理解ならしめるであろう。[9]

 ホワイトヘッドの後期形而上学とその宗教論を理解する鍵のひとつは、「宇宙(universe)」と「世界」との間の厳格な区別である。キリスト教の神学者は「世界」と「神」の区別と関係を強調し、有神論と汎神論の選択肢を立てた上で「有神論」の優位を主張するものであるが、ホワイトヘッドは『宗教とその形成』でキリスト教のみならず仏教にも世界宗教としての普遍性を認めていた関係上、『観念の冒険』の文明論および宗教論では、「現実世界」と区別されつつも、「現実世界」と不可分の関係にある「宇宙」のほうを「神」にかわるキーワードとして使っているのである。[10]

 「宇宙」という語のこのようなホワイトヘッド的用法は、シュライエルマッハーの『宗教論』にその先駆的な形をもっていることに注意したい。「宗教を軽蔑する教養人への講話」として書かれたシュライエルマッハーの『宗教論は』、啓蒙主義とロマン主義の洗礼を受けた教養人との対話のために、キリスト教的教義学の用語を使わず、また倫理道徳や政治からは独立の領域に宗教を確保するために、有限な個が無限なる宇宙を直観し感受するところに宗教の本質を見たが、このような「宇宙の直観と感情」こそは、ホワイトヘッドの形而上学の原点でもあった。ホワイトヘッドにとって、哲学とは一言で要約するならば「無限なる宇宙を有限なる言葉で表現しようとする試み」であり、そのような有限なる人間の理性的な営みにふさわしい作業は「対話において開かれた諸々のシステム(Open Systems in Dialogue」の統合にほかならないのである。[11]

 「直観」という語は、シュライエルマッハーの場合は、おそらくシェリングの知的直観と同一視されることを恐れたためであろうか、『宗教論』の第二版以後では使用を差し控えるようになったし、「感情」もまた、哲学的な範疇としてではなく、「絶対依存の感情」として説かれるようなったこと、そのために彼の宗教論は、反理性主義という批判を浴びるようになったことは良く知られており、この点はホワイトヘッドとは違うところであろう。ホワイトヘッドの場合は、このような反理性主義の立場をとるものではなく、むしろ反理性主義の立場を否定せずに、それとの対話によって刷新された新たなる理性主義という性格を持つものである。したがって、彼の形而上学では、「宇宙の直観と感情」は、根本的な哲学的範疇となっている。たとえば宇宙の「直観envisagement」は『科学と近代世界』においては、現実の与件を越えて新しきものを創造していく創造性(基底的な活動力)を可能ならしめる「見る」働きとして、無限なるプラトン的形相の領域の三重の「直観」として表現されている。[12]

ホワイトヘッドの場合は、宇宙に於ける「感情feeling」もまた、諸々の活動的な個と、それぞれの個の内に多様なパースペクティブのもとに対象化された現実世界とを可能ならしめる「無限なる宇宙」の活きた関係性をあらわす根源語である。それは、ヘーゲルがシュライエルマッハーを揶揄したときに意味したような単に主観的かつ心情的な概念などではなく、主客の対立以前にあって主観と客観の双方を成立せしめる活動であり、自己と世界を結ぶ宇宙を貫く根源的にして具體的な関係性である。[13] 

5 日本の教養教育の今後とホワイトヘッド―岡潔の思想との対比を通して 

 私はこの論文の第3節で、ロンドン時代のホワイトヘッドが理工系の大学で数学の専門教育を行う教員を対象とした講演会で、「美と人情に対する受容性」の涵養を重視したことに言及した。科学教育の基礎にある数学と美的感性と情意との間に存する密接な関係を指摘している点で、数学を情緒とは無縁の論理にのみ立脚する学問と見做す一般的通念とは全く異なったユニークな見解とも思われよう。しかし、これは決してホワイトヘッドだけの特殊な数学論ないし教養論なのではない。

 日本の代表的な数学者の一人であり、多変数解析関数論の独創的な世界的業績によって文化勲章を受章した岡潔の数学論と教養論はホワイトヘッドの思想に深く通底するものがある。岡潔にとって、数学教育は情操教育と切り離すことが出来ず、情緒の涵養こそが、「ないものからあるものを作る」数学者の創造活動の根本であった。岡潔は、数学者リーマンの全集とともに道元禅師の「正法眼蔵」を座右の書として常に参照しており、また浄土教の明治時代の刷新者の一人であった山崎弁栄上人の念仏三昧の実践者でもあった。彼は、大乗仏教の唯識教学にも造詣が深く、学問的知識が人間に謙虚さを忘却させ自我への執着によって無意識のうちに抑圧と差別の構造を産み出すこと、そしてそのような「妄知」としての「分別知」を乗り越えることのできる「眞智」としての「無差別智」を重視していた。彼は、さらに座右の書として芭蕉の七部集と蕉風俳論をあげており、自分でも連句の実作を行っていたが、このような文学的教養が、小林秀雄との対話「人間の建設」や、蕉風俳諧についての山本健吉との文学的対談を可能ならしめたものであった。[14]

 岡潔は晩年、様々な場所で日本の教育システムにかんする提言をしているが、そのひとつは、日本人の心を伝統的に形成してきた古典の教育によって情緒を涵養することが大切にすることがあげられている。ホワイトヘッドが人格形成をおこなった英国のパブリックスクールの教養教育の基礎はギリシャ語とラテン語であったが、それに対応するものは日本の場合は、漢文と古文による古典教育であろう。グローバリゼーションという掛け声のもとで、近代語の一つに過ぎない英語の学習に没頭する以前に、日本人の精神文化を形成した伝統を伝えるということが教育の一つの大切な務めである。ホワイトヘッドは英語ではなくギリシャ語で聖書を読んだが、それは漢文で仏典を読んできた我々日本人の父祖達の伝統と対応するであろう。仏教は日本だけではなく東アジアの精神文化の規定を為すものであり、イデオロギーを越えた普遍宗教としての大乗仏教の伝統に基づく教養教育は、科学的な専門知や形式的な倫理学だけでは与えることの出来ない宇宙論と社会論の深き教養の基盤を与えるであろう。

 ホワイトヘッドの哲学は、ヨーロッパの人権や自由にかんする理念の根底にある宇宙論と社会論が何であったかを教えるものであった。「自由・平等・博愛」といった民主政治の根本理念を、単に外来思想の受売りないし押しつけと考えるのでは、排外的な国粋主義に顛落するであろう。それらを真に日本の伝統的な精神文化に受肉するためには、その背後にある「普遍のキリスト教」の精神的伝統から学ぶことが必要である。「自由(自在ないし無礙)」も「平等」も元来は大乗仏教に由来する宇宙的な広がりを持った概念であったことをおもえば、私は、キリスト教と仏教という二つの世界宗教を視野においたホワイトヘッドの哲学こそは、岡潔の力説したような「日本人の心」にさらなる宇宙的普遍性を与えると考えるものである。 



[1] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” in Science and Philosophy, A Philosophical Paperback, New York , 1948, pp.9-21

[2] Alfred North Whitehead, Process and Reality, Corrected Edition, Ed.by David Griffin and Donald Scherburne, The Free Press, 1978, pp.342-351

[3] Bertrand Russell, Autobiography 1872-1914, George Allen and Unwin LTD, 1967, pp.68-69

[4] 人間の魂による思想の冒険を欠いたGospel of Uniformity も、他者の自由を尊重する説得ではなく暴力に訴えるGospel of Force も共にホワイトヘッドは文明の衰退をもたらすものと考えていた。A.N.Whitehead, Science and the Modern World, The macmilllan Company 1925, The Free Press, 1953, Chap.XIII pp.193-208参照

[5] マシュー・アーノルド、多田英二訳、「教養と無秩序」、岩波文庫、2015, 58頁参照

[6] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” (前掲書) pp.18-19

[7] Alfred North Whitehead, The Aims of Education, The Free Ppress, 1925, pp.15-28

[8] Whitehead und deutsche Idealismus, herausgegeben von R.Lucas, Jr. Antoon Braeckman, Peter Lang, Berlin・Frankfurt am Mein・New York・Paris, 1990

[9] シュライエルマッハーの思想史的意義については、山脇直司、「シュライエルマッハーの哲学思想学問体系」、廣松渉監修 講座「ドイツ観念論」弘文堂、第四巻「自然と自由の深淵」(1910)所収 (218-258頁)参照。また、シュライエルマッハーの解釈学や弁証法とホワイトヘッド哲学との関係については、Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・NewYork, 2004 参照

[10] ホワイトヘッド自身の形而上学の用語を使って表現するならば、「現実世界(actual world)」とは一個の活動的生起(an actual occasion)において対象化された「既成の」現実的諸存在(actual entities)の「全体」をさすのであって、当該のその活動的生起に相対的に定まる有限なる結合体(nexus)である。このような閉じた有限な存在である「現実世界」に対して、「宇宙」とは、現在生成しつつある一個の活動的生起と現実世界との活きた相互関係がそこにおいて成りたつ「無限への開け」を示す言葉である。そしてこの「無限への開け」は第一義的には直観され感じられるものなのであって、我々の意識や悟性によって対象化されるものではないということがポイントである。

[11] 2003年にクレアモントで開催された「システムと生命―シュライエルマッハーとホワイトヘッド」という学術会議において、プロセス神学者のジョン・カブはシュライエルマッハーの『宗教論』を、多元主義の時代における宗教間対話(それは宗教を否定するものとの対話をも含む)」の可能性を示した先駆者として位置づけている。Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・Newyork, 2004 pp.315-333参照。

[12] 三重の直観とは(1)永遠的客体の直観(2)もろもろの永遠的客体の総合という点から見た価値のもろもろの可能性の直観(3)未来を待ってはじめて成就される境位全体に加わらなければならない現実的事実の直観である。(SMW 105)ホワイトヘッドの言う直観(envisagement)は、フッサールの本質直観や範疇的直観と同じように、我々の経験が単なる感性的直観の所与を越えていくことを可能ならしめるものである。

[13]感情(feeling)とは、既存の他者と他者の世界をすべて肯定的に抱握(prehend)することによって新たなる主体としての自己を形成するはたらきである。実体的な自己が先ず存在して、それが他者を「感じる」というのではなく、諸々の「感情」が、感じる主体を目指すのである。ホワイトヘッドの宇宙的感情は、彼がカントの三批判書のなかで第三批判をもっとも重視し、「純粋理性批判」ではなく、「純粋感情批判(the critique of pure feeling)」こそが、第一批判(科学批判)と第二批判(道徳批判)の根底になければならぬと言ったことに対応している。

 

[14] 情緒の涵養を重視する岡潔の数学論・教育論・宗教論については、高瀬正仁、『岡潔とその時代』―評伝岡潔 ⅠおよびⅡ(医学評論社)2013が詳しい。

追記

本論稿は「教養教育と統合知」(山脇直司編、東京大学出版会、2018)に寄稿したものであるが、若干の改訂と補足をおこなった。

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社会科学のための実在論ー第42回ホワイトヘッド学会パネル提題への応答

2020-11-29 | 哲学 Philosophy

 ホワイトヘッド学会パネル提題
Realism For Social Sciences への応答

創造的無と統合的経験の立場から

2020-11-28

田中 裕

 生成の「過程」から実現する「実在」を捉える方法、もしくは論理は如何なるものかーこれはホワイトヘッドの主著 Process and Reality の核心にある方法論的課題でもあった。彼のいう「思弁哲学」の概念の構図は、「絶対的観念論を転換して(経験という大地に根ざした)実在論的な基盤のうえに据えること」(PR xiii)をめざしていたので、具体的な経験から遊離した抽象的な論理を超える方法が要求されたからである。

 

 それは、プラトンの対話篇の精神に立ち返って、弁証法的な理性を再興することでもあり、彼の生きた20世紀の諸科学のおかれた状況のただなかで、「思弁哲学の理念」を掲げることでもあった。

 

 プラトンの対話篇の精神にもとづく「学問」とは―我々の主観的な先入主を超えている「実在」について、「それは何か」と、どこまでも「問い」続けることによって、共に探求する「他者」との対話を通じて、「事がら自体」から「学ぶ」ことであるということができよう。浦井氏の提示された「探求の論理」を、私は、このように理解し、それを今回のパネル討論の出発点にしたい。

 時間の制約があるので、ここでは浦井氏のとりあげた、「ヘーゲル的弁証法との関わりについて」コメントしたい。これについて浦井氏は次のように論じている。

 

ヘーゲルは大論理学において、その徹底したカント批判の中においては「どこまでも問う」こと、その「無限」の 問いの重要性を徹底しながらも、それが「無限」として主語的に語られねばならない宿命がある限り、ありとあらゆる名詞は、固定化され、主語となり、そして「具体性が取り違え」られる危険性と表裏一体に関わっている。そうした不要な(具体性の取り違えが顕著な)主語的名詞を、述語化、関係性化、プロセス化していくということの 必要性が、そこに常にあるのではないか。

 

 ホワイトヘッドの「思弁」(speculative)という言葉を、ヘーゲルの『エンチクロペディー』講義で展開された「論理的なるもの」第三段階の「思弁的」段階と対比する必要がある。ヘーゲルは次のように彼の哲学の方法論を素描している。(たとえば、『小論理学』第79節参照)

  • 抽象的あるいは悟性的な側面: 実定的科学の方法 -経験的実証の肯定
  • 弁証的あるいは否定的・理性的な側面: 実定的科学の批判-弁証論的否定
  • 思弁的あるいは肯定的・理性的な側面: (a)(b)両者をふまえた思弁哲学の統合論

 

私は、ホワイトヘッドは20世紀の科学の状況をふまえて、ヘーゲルのいう「思弁哲学」の理念を復興させた哲学者であると理解しているが、次の諸点を、さしあたって指摘しておきたい。

 

  • ヘーゲル哲学の方法を広義の「弁証法論理」とよび、客観的な弁証法的論理法則があるという考え方は、上記の「論理的なもの」の第二段階を不当に全体化したものであり、弁証法と言いながらも、論理法則をそのまま実在の法則とみなすという如き物象化的錯視である。

  • ホワイトヘッドの方法は、純粋な「有」を論理学の始原とする絶対的観念論の自己展開ではない。自然哲学の運動論と時間論、場所論から形而上学へと移行したアリストテレスと、同じく、統合的にして創造的な経験論の「構想力」による「記述的一般化」が彼の思弁哲学の方法である。

  • 「反対対立するものの統合 (coincidentia oppositorum)」は、矛盾律を否定する「無教養なもの(アリストテレス)」の主張ではない。矛盾律があるからこそ「統合」が要請されるのである。反対対立するものに遭遇することこそ、我々の経験の深さと充実度(intensity)を高める創造的な機会であり、それらを排除し抑圧することこそ、実定的な科学の衰退をもたらすものである。

 

次に、西田哲学の哲学的方法が、社会科学に対して持つ意味について浦井氏は次のように書かれている。

 

そのような問題を表面化するために、例えば西田は、ヘーゲル的「概念」ではなく、「場所」的な論理という言葉を用い、また「私」と「自覚」といったことを(主体性に基づく「働きかけ」の契機として)そこに取り入れ、いうなればヘーゲル的な客観性とも、また解釈学的な主観性に偏った嫌いからも距離を置いた、主客合一、多即一、 一即多、ということを包摂した視座を、導入したと考える。RFSSにおいても、「運動」という言葉、「真知」という言葉、「論理」、「方法」、鍵概念となる主語的名詞に向けては、そのような姿勢が貫かれてしかるべきである。

 

「ヘーゲル的な客観性とも、また解釈学的な主観性に偏った嫌いからも距離を置いた、主客合一、多即一、 一即多、ということを包摂した視座」の重要性は私も認めるが、そこでいう「即」の一語の中に内包された「ダイナミックな転換の論理」に着目したい。

 それは抽象的な「同一性」ではなく、矛盾的「自己同一」という動詞として理解すべきであろう。また、「真理」ではなく「真如」という言葉を使うときには、「理性」によってかえって隠蔽された実在を如実に経験するという意味が込められていると思う。

 西田のいう純粋経験、自覚における直観と反省、場所的論理、弁証法的世界の論理は、「宗教哲学の論理」としてきわめて独創的なものであり、私もそこから多くを学んだが、社会科学の論理としてそれを、納得のいく形でそれを展開することは、今後の共同研究の課題であろう。

次に、社会科学のための実在論に寄せて-経済学方法論についての実在論的覚書(葛城政明氏提題)への応答に移ろう。

 葛城氏の提題は経済学と実在 2. 経済学方法論 3. ヒュームの形而上学的因果性批判と経済学方法論には、現代の経済学者たちの実在に関する興味深いコメントが掲載されているが、時間の制約もあるので、ここでは、4.  バスカー、ローソンの批判5.  実在論から社会と経済の存在論について応答したい。

 

 バスカー初期の科学哲学は、ヒュームとカント、そしてそれに由来する実証主義、論理実証主義、反証主義の流れを、カントの「超越論的議論 (transcendental argument) 」に着想を得たレトリックによって批判し、近代科学の成功の内実を前提とすれば、ヒューム、カントが、そして、論理実証主義者が葬り去ろうとした古代以来の伝統的形而上学、存在論の再構築、再構成が可能であることを論じたものと私は見ている。

 

 ここで言及されているロイ・バスカーの「批判的実在論」ないし「超越論的実在論」の構想には、後期のホワイトヘッド哲学の主題のダイナミックな推移、すなわち科学哲学から形而上学および宗教哲学へという「統合体の哲学(the philosophy of organism)」の発展と並行関係があることに注目しつつ、ホワイトヘッドの議論と対比してみたい。

 

 葛城氏はヒュームの因果性に関する議論を要約した後で、バスカーの実在論を次のように要約している。

バスカーは、この印象-観念のある領域を、「経験領域 (empirical domain) 」と呼び、その中にあるものを「経験(experience)」と呼んだ。そしてさらに、心の外で生じている「事象 (event) 」と、それによって生じている「経験(experience)」のどちらもが、実現 (actualise)しているのであるから、これらをまとめて「実現領域 (actual domain)」と呼んだ。問題は、われわれの世界に存在するものはそれだけかということである。この世界に実現した経験と事象しか存在しないという立場をバスカーは、経験的実在論と呼び、それらは実現していることしか実在の資格を与えないので「アクチュアリズム (actualism)」と呼んで批判した。

 

バスカーによるreal とactual の区別を、彼がA Realist Theory of Scienceで提示した次の図表を手引きとして考察しよう。

Table 1.1

 

Domain of Real Domain of Actual  Domain of Empirical

Mechanisms         レ

Events           レ       レ         

Experiences        レ        レ         レ

 

 バスカーがメカニズム(機械論)で何を意味しているかは、この図表だけではよくわからないが、おそらく決定論的な数学的法則の実在性を意味するのであろう。

 ニュートン以来、物理学は類種的な「実体の実在性」ではなく、微分方程式のような数式で表現される「一般法則の実在性」を前提して、実験室で観測測定される可変的な様々な現象を統一的に説明してきた。近代経済学が「精密科学」としてのニュートン物理学を理想的なモデルとしたとしても、様々な意味で「複雑」な経済現象の決定論的な予測は困難であり、せいぜい確率的なモデルによる蓋然的な結論以上のものは望みえないということは、門外漢の私でも理解できる事柄である。 

それにしてもバスカーの「機械論(メカニズム)」という言葉の用語法が、量子現象の根本的な非決定性や、古典力学の積分不可能性の証明、プリゴジンの複雑系に関する議論などが知られている現代科学の状況を踏まえると、いささか奇異なものに見えるのは私だけだろうか。

  ホワイトヘッドの統合体の哲学では、バスカーとは異なる仕方で、Real,actual,empiricalの区別をしていることに注意したい。

 まずホワイトヘッドの「統合体の哲学」でも、reality(実在性) は、actual(現実的) なものに関連付けられた potential (潜在的)なものにも認められているので、reality の領域は、actuality の領域よりも広大である。しかし、このようなreal potentiality の領域は、決して決定論的な法則のもつrealityではない。量子論的事象の持つ「存在確率」のもつ実在性について、かつて物理学者のD ・ボームは、量子力学は実は「力学」ではなく、「量子非力学(quantum non-mechanics)」と呼ぶべきだと主張したが、ホワイトヘッドの「統合体の哲学」でいうところの「現実的生起を可能ならしめる実在的なるもの」は、決して決定論的な力学モデルが適用されるようなものではなく、様々なレベルで整序された潜在的な諸可能性の持つ実在性である。

 さらに empirical(経験的) という言葉は、「経験する主体を離れては、いかなるものも存在しない」という「根源的な経験論(radical empiricism)」、ないし「汎経験主義(pan-experientialism)」の意味で使用されている。つまり、ありとあらゆる対象(objects)は、今ここで、自己創造的な主体によって経験(肯定的あるいは否定的に把握prehend)されているのであって、そのような主体的経験を欠いた現実性は、「空虚な現実性(vacuous actuality)」であるというのが「統合体の哲学」の立場である。私にとっては、こちらの方が、経験を超える現実とか、現実を超えるメカニズムの実在性を主張する(科学哲学時代の)バスカーの議論よりも現実的な議論であると言わざるを得ない。

 

付録:「統合体の哲学」からみた確率論の覚書
-歴史的に形成された社会と確率判断を下す主体との相互関係にもとづく確率論のために

 

参考資料-1 ホワイトヘッドとケインズとの関係について

 

ケインズの「哲学」を主題化した日本の文献として、伊藤邦武著『ケインズの哲学』(岩波書店 1999)があるが、ケインズとケンブリッジの哲学者との関係に関しては、ムーア、ラッセル、ウイトゲンシュタイン及びラムジーとの交流に焦点が当てられており、ホワイトヘッドについては言及が少ない。

ただし、ケインズが1907年にキングズ・カレッジのフェローに申請するために提出した論文(1921年に出版された『確率論』の原型と言われている)に対して審査官をつとめたホワイトヘッドの以下のコメントは引用されている。

 

「これはきわめて大規模な研究であり、非常に多様な著作を徹底的に読解することで生まれた成果である。ここでは多様な視点が比較され批判されている。その読解において、筆者の精神は一貫して活動的である。…確率をめぐるいくつかの対立する見方の提示や、その提示に並行して展開されている批判的な議論は、卓越したものである思われる。しかし、この新鮮な知識が、主題の哲学に適用されている部分については、私はそれが混乱していて、かなり凡庸なものであると考える。私の判断はおそらく、彼の反対意見にみかかわらず、私自身がヴェンらによって代表される[頻度説の]学派を支持していることから偏っているのだろう。この学派の中心的な主張にたいする彼の批判はおざなりであり、・・・・彼はそれをもっとも説得力のない、独断的な仕方で退けている。また、ラッセルの『数学の原理』に対する彼の関係もきわめて不十分である。一見したところ筆者はその理論を全面的に受け入れている。しかし同時に、彼はこの本の論理的な基盤全体をつぶしてしまう(ように私には思われる)「推論」の理論を主張している。私は思うには、彼はその推論をラッセルの「含意」にきちんと関係づけるか(それは可能なはずである)、それとも、この本の論理的主張にはっきりとした批判的態度をとるかの、どちらかであるべきであった。[1]

 

資料-2:『過程と実在』(Process and Reality以下PRと略記)の「命題論」でホワイトヘッドの確率に対する考え方が示されている。ホワイトヘッドの「命題論」は、アリストテレスの「命題論」とおなじく、時間的様相を配慮した解釈学的命題論であって、時間を捨象した真偽二値の単なる論理計算ではない。つまり、時間の中で生をいとなみ、ある特定の環境社会の中で生きている判断主体の下す蓋然的判断の根拠が問題となっている。

 

以下はPR204からの引用である。

形而上学的な問いを立てよう。帰納的推論ないし一般的な真理判断が、 意味をもって 「正しい」 とか 「正しくない」 とか言われ得るような何かが、諸事物の本性のなかに在るのか?

すべての蓋然的判断が関わっていなければならない究極的な 「根拠」 は、判断する主体において客体化されたものとしての現実世界そのもの以外にはあり得ない、 ということは明らかである。 判断する主体は、 つねにそれ自身の所与に対して判断を下している。 したがってもし統計理論が効力をもつべきだとすれば、 判断する主体とその所与との間の関係は、 その理論が陥りやすい諸困難を避けるようになっていなければならない。

現実的存在は、 どれもその本性上、 本質的に社会的である、 しかもこれは二つの仕方においてである。 第一に、 それ自身の性格の輪廓は、 その環境がその感受の過程のために提供する所与によって決定される。 第二に、 これらの所与は、 その存在に外来的なものではない。それらは、 その存在に内在する宇宙の表示を構成している。 したがって主体が判断を下す所与は、 それ自身、 判断する主体の性格を条件づけている構成要素なのである。 そこで、 経験する主体の性格に関する一般的前提は、 その主体にとっての表示を提供する社会的環境に関する一般的前提を伴っている。 換言すれば、 或る種の主体は、 その具現の予備の相としての或る種の所与を必要とする、 ということである。 しかしそのような所与は、客体化によってもたらされる抽象の下での、 社会的環境以外の何ものでもない。 またこの抽象の性格それ自身が、 その環境に左右される。 仮定されている判断主体に必要とされる種類の所与は、 或る社会的性格の環境を前提している。

 

前の節では、 確率に対する秘かな訴えがなされていたのである。 この節の目的は、 このように呼び出された確率が、 いかに統計的理論によって解明され得るか、 を説明することである。 最初に、 この確率への訴えがどこで帰納の概念の中へ入ってくるのか、 を正確に書きとめなければならない。 帰納的推論は、 つねに一つの仮説を含んでいる。 すなわち考察された主題である環境が、 現在の社会に類似する現実的生起の社会を含んでいるという仮説である。 しかし類似の社会は、 それらそれぞれの生起にとっての類似の所与を必要とする。 そして類似の所与は、 類似の環境によって与えられる客体化によってだけ供給される。 しかし自然の諸法則は環境を統御している社会の性格から導き出される。 したがって当の環境を統御している自然の諸法則は、 隣接した環境を統御している自然の諸法則と或る類似をもっているのである。

 

さて、 「類似」 の概念と 「統御」 の概念とは、 両方とも不確実さの余地を残している。 われわれは、 「どれだけ類似しているか?」、また 「どれだけ統御しているか?」 と問い得るのである。 もし精確な類似や完全な統御があるとすれば、 そこには、 一般的諸条件に関する確実さと特殊な細部に関する完全な無知との混合があることになるだろう。 しかしこうした記述は、 われわれの直接の現在についての、 或いは過去についての知識にも、 未来についての帰納的知識にも、 当てはまらない。 われわれの意識的経験は、 確実さ、 無知、 蓋然性のとらえどころのない混合物を含んでいる。

さて、 宇宙時期(cosmic epoch)の理論は、 現実的存在の諸社会の統御によって、 確率の統計的説明にとっての基盤を提供していることは明らかである。 どの一つの時期にも、 或る秩序づけられた相互に連結した特定の一組の支配的な諸社会が存在する。

またいずれかの社会に属するものとしては分類され得ない混沌とした諸生起の混合状態がある。 しかしいずれかの宇宙時期の巨大な広がりを考慮するならば、われわれは、実際に無限を扱っていることになるのであり、したがって或る標本抽出の方法が必要とされるが、 それはその事例の本質に根ざしているのであって、 勝手に採用される方法ではない。

この標本抽出の自然な方法は、 どれか一つの現実的生起の始原的相を形成する所与によって提供される。 各々の現実的生起は、他の現実的生起を自分の環境において客体化している。 この環境は、 宇宙時期の関連ある部分に制限され得る。 それは、 現実的な諸生起間の個々の相違に関してふさわしい重要性が問題になっている限り、 延長的連続体の有限の領域である。 また、 個々の相違の重要性に関して、 この領域内のそれぞれ関連ある生起の広がりには、 より低い限界があると仮定してもよいであろう。 これら二つのことを仮定すると、 任意の一つの生起にとって関連ある所与を形成する関連ある客体化は、 環境における現実的生起の有限な標本描出に関係している、 ということになる。 したがって外界についての、またその法則が基づく条件についての、われわれの認識は、徹頭徹尾、確率の統計的理論が要求する数的性格のものである。 そのような理論は、厳密な統計的計算がなされることを必要としていない。 この理論が意味しているのは、 せいぜい、 われわれの蓋然性の判断が究極的には数的な意味での 「より多いか、 それともより少ないか」 という漠然とした見積りから導き出され得る、 ということである。 われわれは、 事物がどのように生起するかという仕方の統計的基礎について、 不精確な直観をもっているのである。

 

[1] ホワイトヘッドは、12年前の1895年にラッセルのフェロー資格論文の審査官をつとめたが、審査の席では非常に厳しい批判をする教師であったようだ。幾何学の基礎にかんする哲学的問題をほとんど解決したと自負していた当時のラッセルの資格申請論文に対して、ホワイトヘッドの評価は非常に厳しく、ラッセルは不合格を覚悟したが、あとで合格通知をうけたので、驚いてその理由を聞くと、ホワイトヘッドは「これがラッセルの研究論文をまじめに批評する最後の機会となるだろうと考えた」と答えたとのこと。(ラッセル『自叙伝Ⅰ』より)。

PRの命題論の注解においてホワイトヘッドはケインズの『確率論』を次のように評価している。

 確率の哲学理論についての群を抜いた最高の議論は、 J ・メイナード ・ ケインズ氏の 『確率論』 に見出される。 この著作は、この主題に関する標準的労作として永く残るにちがいない。 本章での私の結論は、 ケインズ氏が彼の著書の第二十一章の末尾に向けて立てた結論と、 根本的に異なっているとは思われない。
しかしケインズ氏はそこでは私が示唆したように、 彼が第八章で厳しく (そしてその特殊な形態に関する限り、 正しく) 批判した 「頻度理論」 の形態に酷似した確率の見方に逆戻りしているように思われる。

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復活のキリストと共に生きるー田辺元のいわゆる「死の哲学」の背後にあるもの

2020-11-05 | 哲学 Philosophy
 晩年の田辺元の宗教哲学の背後にある彼独自の哲学的信仰の消息を如実につたえてくれるものは彼が逝去した妻を詠んだ短歌であろう。(田辺元・野上弥生子往復書簡集より)
 
  あけくれに妻を思ひて暮らす日も はやふたとせにならんとはする
  三回忌などて営まん日々が 忌日ならぬなき我にあらずや
  汝れと共に我も死にたり今もなほ 日毎に死にてよみがへり生く
  汝れもわが心によみがへり共に生く 二人の命なほも続くか
  わがためにいのちささげて死に行ける 妻はよみがへりわが内に生く
  クリストに倣ひて死にしわが妻は 福音を証す復活の光
  汝れ死にて二たとせのけふ我を活かす 福音のまことおほけなきかも
 
    一九五三年九月                  田辺元
 
 この歌をきっかけとして亡妻の友人であった野上弥生子との交流も始まったわけであるが、田辺元とキリスト教との関わりをみるうえで見落とせないのは、「クリストに倣ひて死にしわが妻は 福音を証す復活の光」とか「汝れ死にて二たとせのけふ我を活かす 福音のまことおほけなきかも」のような歌であろう。
 キリスト者であった妻によって「福音を証す復活の光」を自覚したという田辺は、どこまでも批判的理性の徹底をめざす一人の哲学者として既成のキリスト教教団に入会したわけではないが、一九五六年二月十二日の野上弥生子宛書簡には次のように
「復活のキリストと共に生きる」ことを妻から教えられた田辺自身の信仰が語られている。
 
 「ここで敷衍致さねばなりませぬのは、<復活>という概念でございます。キリスト教徒でもない小生が、復活を口に致すのは
全く空語ににとどまりはしないかという御疑は必定と存じます。今日はキリスト教の内部においてさえ、神話排除の主張が起こっております。況んや、科学を尊重致す小生が、復活の如き神話的伝説を信じるなどとは、言語道断とも申せましょう。小生自身も今日までこの点を突破できなかったのでございます。しかし、妻の死はこれを可能にしました。
 もはや復活は、客観的自然現象としてではなく、愛によって結ばれた人格の主体性に於いて現れる霊的体験すなわち実存的内容として証されます。
 キリストの復活も、マグダラのマリアが復活せる主の肉体に手を触れるつもりでそれを禁止せられ、ただ二人の天使を見たばかりでその言いつけを聞いたに過ぎなかったと伝えられる如く、全くマリアにとっての霊的体験に外なりませぬ。
 この主体的実存内容としては、それは疑いを容れない事実であります。
 小生にとっても、死せる妻は復活して常に小生の内に生きて居ります。同様に、キリストを始め、多くの聖者人師は、小生の実存内容として復活し主体的に小生の存在原理となって居るのでございます。
 その意味で、いわゆる「聖徒の交わり」に、小生も参し得るわけです。これは神話でもなく,譬喩でもなくして、厳然たる霊の秘密です。
 これを神秘的と申すならば、「時」そのものが、「歴史」そのものが神秘的でなければなりませぬ。
 かかる主体的統一においてある復活のキリストと共に生きることが、すなわちキリスト模倣ですから、それはコッピイでもなく理想観念でもありませぬ。
 エックハルトやトマス・ア・ケンピスや、キェルケゴールにおけるキリスト模倣は、そういうものだと存じます。
 妻の死を通して、小生もこれに眼を開かれました。」 
 
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ナショナリズムと科学者の良心ーアインシュタインの「平和書簡」から

2020-10-10 | 哲学 Philosophy
 
アインシュタインは物理学に革命をもたらした人であったが、平和運動家でもあり、シオニストでもあった。『アインシュタイン平和書簡』は彼の思想と行動を知る上で貴重な資料である。彼は、第一次世界大戦では偏狭な愛国主義にもとずく戦争に反対し、人類主義の立場から徴兵忌避運動を支援した。しかし、ナチスドイツのユダヤ人迫害に直面し、第二次世界大戦では、反ナチスの戦争を支持した。彼は自分のことを「信念を持った平和主義者(überzeugter Pazifist)ではあるが、絶対的な平和主義者ではない」と篠原正瑛宛の書簡で言っている。彼はガンジーをもっとも尊敬していたが、その非暴力不服従運動は、ナチス・ドイツに対しては貫けないと考えたのであった。 ここにはユダヤ民族とその精神的伝統を存続させなければならないというシオニストの立場と彼の平和主義とのあいだの二律背反があった。そのためにアインシュタインは「絶対的」な平和主義、反戦主義者達から非難も受けたのである。アインシュタインは、迫害を受け亡命した多くのユダヤ人にとって希望の星であった。彼が後にイスラエルの大統領となるように要請された理由もそこにあった。しかし彼は、伝統的な意味でのユダヤ教徒ではなかった。ユダヤ人が選民であるとは考えないコスモポリタンであり、スピノーザに傾倒していた。最近、競売にかけられた彼の自筆の書簡は、擬人的な神を信じるよりは、宇宙の法則の根源としての神を信じる彼の宗教観がよく現れている。宇宙の必然性の洞察による自由を尊重するアインシュタインは、個人の良心の自由を何よりも重んじ、閉鎖的な全体主義の体制を最も嫌う人でもあった。ドイツ文化の精神的遺産を尊重していたが、ナチスが政権を握ってからの全体主義の体制が強要する「ドイツ国民の義務」を人間の普遍的な義務としては認めなかった。
「理に合わない残虐行為の申し立てに対してはドイツを擁護するのが君の義務である」というプロシャ学士院からの警告に対し、アインシュタインは、それは「私の生涯を賭けた正義と自由のあらゆる原則を拒否すること」であり、「道徳の崩壊と現存のあらゆる文化価値の破壊に手を貸すこと」になると反論している。
プロシャ学士院から除名される前に脱会し米国に亡命したアインシュタインは、プリンストンでは核物理学のような莫大な実験資金を要する研究にはタッチせず、物理学会の主流からは全く離れた立場から、量子力学の不完全性を主張し、統一場理論のような純粋な理論的・思弁的な探求のみに専念した。第二次大戦後、米国の核物理学者は国家機密、軍事機密にかかわるようになり、国家に対する影響力が増大すると共に思想の自由を奪われた。水爆開発に反対したオッペンハイマーは裁判にかけられ公職追放処分に遭った。かつてナチスドイツの国家主義に反対したアインシュタインは、非米活動委員会の思想統制にも抗議している。最晩年のアインシュタインは、レポーター紙上で
「再び若人となり、生計を立てる最良の方法を決定しなければならないなら、科学者や学者、それから教師になろうとはしない。ブリキ職人か行商人かになることを寧ろ選ぶ。現在の状況下でなほ可能な僅かな独立を保証するのが、私の希望である」
と述べた。原水爆開発を含めて当時の「科学者」のあり方に対する抜本的な批判をこめたアインシュタインのこの発言のあとに、ラッセル・アインシュタイン宣言における核兵器撤廃の訴えが続くことの意味を考えるべきだろう。
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Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集の刊行に寄せて

2020-09-29 | 哲学 Philosophy

Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集の刊行に寄せて

西田幾多郎が真宗大谷大学の開学記念日でおこなった講演について解説します。

Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集(岩波文庫)の刊行に寄せて

西田幾多郎が真宗大谷大学の開学記念日に行った講演「Coincidentia oppositorumと愛」について解説します。

youtube#video

 

 

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絶対無の神学的省察ー西田幾多郎論

2020-04-18 | 哲学 Philosophy
 
絶対無の神学的省察ー西田幾多郎論
田中裕
 
第一章 『善の研究』再考
 
1-1『善の研究』(1911)の根本的立場は、「意識現象(直接経験の事実)が唯一の実在である」という純粋経験論である。この立場は、ジェームズの根源的経験論、ベルクソンの純粋持続の直観主義、フッサールの純粋意識の現象学など欧米の同時代の思想家達と共通する根源的に経験論的な思惟の課題を担っていた。それは意識に超越的な存在をすべて「排除」ないし「括弧にいれ」、疑うにも疑うことの出来ぬ直接的経験の事実から出発し、意識に超越的な存在のもつ意味を、あくまでも意識に内在的な場に於て解明していくという課題である。そのような哲学的な立場に限界があるかどうか、その限界はどこにあるかということは、実際に根源的経験論、あるいは純粋経験論の立場を徹底した哲学的思惟を遂行した後でなければ自覚されないであろう。とくに、諸々の超越者中の超越者とも言うべき有神論の「神」を意識内在的な立場に還元し、神経験と呼ばれてきたものの真の意味をそこにおいてあくまでも意識内在的に解明できるのかという問題が生じる。
 
1-2 フッサールは、彼の純粋現象学の構想を立てたとき、神学的な問題を彼の課題から排除していたようにみえる。純粋意識を絶対的存在(Absolutes Sein)とする彼の現象学では、キリスト教のような超越神論の神は、他の諸々の超越者と同じく現象学的還元を施されなければならぬ対象的存在のひとつであるから、「神という超越的存在は遮断される」(IdeenⅠ―58)のは當然であった。フッサールは、純粋意識の現象学の課題から神を排除すべき理由について次のように述べている。
 
「神的」存在は単に世界を超越するだけではなく、絶対的意識をもあきらかに超越すべきものである。それは、意識の絶対性とは全く異なった意味で「絶対的」であるであろうし、また他方において世界の意味における超越とも全く異なった意味で超越的なものであるだろう。我々の研究領域が純粋意識の領域である限りは、そのような絶対者=超越者はあくまでも遮断されているべきである。(傍点筆者)
 
1-3 ベルグソンは『道徳と宗教の二源泉』で社会学的見地から、ジェームズは『宗教的経験の種々相』で心理学的な見地から、それぞれ神について積極的に語ったが、それは厳密な意味で哲学的な立場から、すなわち純粋経験ないし純粋持続に内在的な立場から神を語ったわけではない。これに対してフッサールは、上の引用にあるように、純粋現象学という「厳密な学知」の立場からは、神を語ることを排除(ausschalten)しなければならないと言ったが、それは、「現象学の研究領域が純粋意識の領域にのみ限定されるかぎり」という条件のもとにであった。(現象学がこの限定を突破する可能性については後で議論しよう)。
 
1-4  西田の『善の研究』は、宗教すなわち「神と人との関係」を考察することを「哲学の終結」とする意図をもって書かれた著作である。このように宗教をもって哲学の終結とする考え方は、後期に至るまでの西田哲学の根本的特徴であったが、『善の研究』の場合は、純粋経験論を基盤としつつ、神を哲学の究極の主題とする点において、フッサールの言う純粋な意識の現象学において排除された神の考察をまさに純粋経験論の究極の主題とするものであった。
 
1-5 「意識現象を唯一の実在とする」『善の研究』の宗教論には、これまでの多くの解釈者が指摘してきたように、哲学的汎神論の一つに分類されてもやむをえぬようなテキストが数多く存在する。たとえば、「神を宇宙の外に超越せる造物者とはみずして、直ちにこの実在の根柢と考え」「宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestationとみる」ことから、西田は「宇宙と神との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である」と述べる。西田自身も、自分の立場が汎神論的であることを充分に自覚しており、汎神論に対して向けられる二つの批判を取り上げ、純粋経験論の立場からそれに答えようとしている。そのふたつの批判とは、一つは「神の人格性」の問題であり、もう一つは「悪の存在」をいかに解釈するかという問題である。
 
1-6 スピノザの哲学的かつ決定論的な汎神論とは異なり、「実在の根柢は人格的である」ということを認める点で、西田は自分の立場が人格主義的汎神論ともいうべきものであることを明言している。このような実在の根柢としての神は「無限の愛なるがゆえに、すべての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認める」(全集Ⅰ-194)立場でもあった。この汎神論は、各個人の人格の独立性と自由を承認する意味で、スピノザの如き必然論ではなく、人間の独立と自由を認める相互人格的契機を内に含んでいる。また善なる神を根柢とする実在は即ち善であるという性善説的立場から「絶対悪」の存在が否定され、悪は「体系の矛盾衝突から起きる」ものであり、矛盾衝突を契機として発展する実在の一契機として位置づけている。そこにはヘーゲルの汎神論的な「合一哲学(Vereinigungsphilosophie)」と同じく、主客未分の一なる實在が、二元的な分裂を経て再統合されるところに実在の動的展開を見る弁証法的論理がある。もっとも西田の場合は、論理学を無前提なる学の始源としたヘーゲルとは異なり、純粋経験を根源的であるとする点に違いがあとしても、その主客未分の即自的な純粋経験が、主客二元の意識の對自的な分裂を経て、再び即且つ對自的な合一を回復するという意味での「合一哲学」の論理を内在させていると言って良かろう。このようにドイツ理想主義に通底する哲学的思惟は、『善の研究』の純粋経験論のうちに内在する論理であり、「意識経験を能動的と考える点で、純粋経験論はフィヒテ以後の超越哲学とも調和する」(全集Ⅰ-4)と西田に言わしめたものでもあった。
 
1-7 しかしながら、『善の研究』執筆時の西田の人格主義的汎神論の哲学的基礎は、あくまでも「意識現象を唯一の実在とする」純粋経験論である。それは、ヘーゲルのような高度に思弁的な論理の辯證法的体系によって根據づけられてはいない。ベルグソンのごとく随所に宗教の根源に関わる直観的な洞察を秘めているとはいえ、純理論的な哲学的議論だけに制限してみるならば、純粋経験論とは、要するに「神と世界の関係は意識統一とその内容との関係である」という公理(根本命題)から出発する哲学的な汎神論という性格を併せ持つものでもあった。しかし、まさにその哲学的汎神論のアプリオリな前提をなす公理自体は、一切の独断を排すべき純粋経験論のなかにあって、なおも独断的な一つの仮定として残存していたと言わざるをえないのではないか。
 
1-8問題は、『善の研究』執筆時の西田の人格的汎神論の根本命題、自発自展する純粋経験論の基本前提そのものが、あらゆる先入主を遮断して疑うベからざる確固とした「心霊上の事実」を如実に表現するものであったかどうかという点である。すなわち、このような公理を前提として考えられた神が、はたしてキリスト教の伝統の中で、キリスト者が経験した神、旧新約聖書において啓示された神の経験を如実に表現できていたかということである。フッサールとは違って有神論の神的「存在」を純粋な現象学という哲学知の中から排除するのではなく、あくまでも哲学の終結としての神を、我々の直接経験に基づいて語ることを志向する西田にとっては、神を論ずること自体が根本的な哲学の課題であった。キリスト教的経験を、他人事ではなく自己自身の在り方に深く関わるものとして取り上げた西田にとって、キリスト教の核心に触れる宗教哲学を構築するためには、『純粋経験』の意識内在の立場の限界を突破することが必要であった。しかし、その突破は、あくまでも純粋経験とは異なる立場を独断的に前提することによってではなく、純粋経験論をその根柢へと徹底することによって、そのなかになおも含まれていた汎神論的な独断を突破し、意識に内在的な経験の立場では語り得ないものを根柢から自覚することによって、意識の立場の限界を超出することこそが求められなければなかった。
 
1-9 『善の研究』以後、『無の自覺的限定』にいたるまでの西田哲学とキリスト教との関わりを考える場合、単なるプラトン主義ではなく「キリスト教的」プラトン主義の系譜に属する思想家達が意味を持ってくるのは、まさに意識経験に内在的な人格的汎神論の立場をさらに超えてゆく論理を彼らが示している点にあった。
 
1-10 すなわち、プロチヌスやプロクロスに代表される根源的一者からの発出と還帰によって万象を説明する理性主義の極北ともいうべき哲学的な汎神論と、ユダヤ教に由来する聖書的伝統のなかで「神の言葉」として語られてきた超越神に由来する宗教的経験との緊張対立の中で、プラトン主義の立場そのものを、さらに内在的に超越していったキリスト教的プラトン主義の伝統が、西田にとって重要な意味を持つようになった理由がそこにあると言わなければならない。
 
1-10 『善の研究』の宗教論の第四章「神と世界」の冒頭箇所に、哲学的な汎神論では決して語り得ぬものへ言及したテキストがある。それは西田がキリスト教的プラトン主義の神論に言及する箇所でもあるという点で、単なる自然主義的な汎神論を超え出る契機を内包している点において興味深いものである。西田はまず、
 
A:「純粋経験の事実が唯一の實在であって神はその統一であるとすれば、神の性質及世界との関係もすべて我々の純粋経験の統一即ち意識統一の性質および其内容との関係より知ることができる。」
 
と述べる。これを便宜上「神の性質及世界との関係の可知性のテーゼ」(テーゼA)と呼んでおこう。
 それは、「超越的神があって外から世界を支配するといふ如き考は啻に我々の理性と衝突するばかりでなく、かかる宗教は宗教の最深なる者とはいはれない様に思ふ。我々が神意として知るべき者自然の理法あるのみである、この外に天啓といふべきものはない」という超自然否定の理神論ともとられかねない自然主義のテーゼでもある。
 しかしながら、テーゼAのなかに含意されている自然的態度を根柢から轉換するテーゼが、まさにこの直後に語られていることに着目したい。それは、
 
B:「我々の意識統一は見ることも出来ず、聞くことも出来ぬ、全く意識の対象となることは出来ぬ。一切は之に由りて成立するが故に能く一切を超絶している。」という文である。これを「我々の意識統一(神)の不可知性のテーゼ」(テーゼB)としよう。
 
西田の汎神論の神の可知性(テーゼA)を支えているものは、實は「神の不可知性」(テーゼB)なのである。
 
テーゼBは、意識現象に内在的な純粋経験論の内部にあって、それを可能ならしめている根源的な作用(意識統一)であるが、それ自身は純粋経験の内部では語れない特異点として、内在的超越への道を指し示していることに注意したい。そして、西田がこのあとで列挙しているキリスト教的プラトン主義の系譜に属する思想家として、西田はまずディオニシュースの「消極的神学」が神を論ずるに否定をもってしたことを挙げ、次に、「ニコラウス・クザーヌスの如きは、神は有無をも超越し、神は有にしてまた無なりと言っている」とのべ、否定神学と對立の一致を説くキリスト教プラトン主義の神学的伝統に言及している。
 
1-11 もっとも、クザーヌスの引用が、「隠れたる神」に依拠しているのだとすれば、そこでのクザーヌスは確かに「神は有無を超越している」と述べてはいるが、「神は有にして無である」というごとき矛盾対立の合致を決して「一つのテーゼ」として立ててはいないことはここで指摘しておかなければならぬであろう。 クザーヌスが「隠れたる神」で神を賛美礼拝しつつ示した否定神学は、「神は有(aliquid =something)でなく、また無(nihil=nothing)でもなく、有にして無であるのでもなく、有でもなく無でもないのでもない」というテトラレンマ(四句分別)であって、およそ分別的理性が取り得る凡ての言説をすべて網羅した後で、そのような分別そのものの解体・脱構築することを特徴としている。それは正反合という統合によって、正命題と反対命題の部分的な真理性を保存しつつ高次の命題においてそれを共に否定する如き過程的辯證法とは異質な論理である。それは、まさに「智ある無知」(docta igorantia)を示す否定神学であって、そこにおいては有無の二元對立の彼方の「隠れたる神」は、無知を通じて知られるのである。
 
1-12 西田の『善の研究』の宗教論は、宗教的経験の事実そのものにねざす逆説的な言葉が随所に語られており、それはある意味でその後の西田哲学の論理を直観的に先取りする印象を与えるものが多いが、とくにキリスト教的プラトン主義者としてのクザーヌスの言う「智ある無知」を彷彿とさせるものは、最終章の付論として追加された「智と愛」の末尾の言葉であろう。
「神は分析や推論によりて知り得べき者ではない。實在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は神の直覺に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずという者は、最も能く神を知り居る者である。」
『善の研究』の翻訳者の一人であるVigliermo は『智と愛』という付章を「驚嘆すべき文学作品であり、東西を問わず最も偉大なる宗教詩に比肩する一種の散文詩」として賛嘆を惜しまなかったが、この結びの言葉ひとつとってみても、「善の研究」の哲学的汎神論の「論理」には同意できない読者であっても、その心を撃つ洞察が秘められているように思われる。 
 哲学的論理としてみる限り、後年の西田自身が認めたように『善の研究』は不十分なものであった。まず「神を意識経験の統一である」という前提ひとつをとってみても、そこでいう「統一」とは、心理学的な意味での経験的統覚であるのか、それともカント哲学で言う意味での「超越論的統覚」なのか、あるいはそのような意識の立場で語られる「統覚」を突き抜けたより根源的なる場所に於ける統一作用を意味するのか、その点は明確ではない。主客合一という立場自体も後年の西田自身によって放棄されるようになるし、人間の根源罪悪と自由意志の問題も、『善の研究』においてはまだ突き詰められて考えられていたとは言えない。
 しかしながら、『善の研究』宗教論本論の最後に引用されたオスカーワイルドの獄中記 De Profundis の言葉を引用した結びの言葉は、既成の如何なる宗教によっても倫理道徳によっても救済を見いだすことが出来なかった世紀末の詩人、社会から倫理的に糾弾され疎外されたワイルドの「深き淵」より語る聲への西田の共感を示すものであった。
「希臘人は人は己が過去を變ずることのできないものと考へた、神も過去を變ずる能はずといふ語もあった。併し基督は最も普通の罪人も之を能くし得ることを示した。例の放蕩息子が跪いて泣いたとき、かれはその過去の罪悪及び苦悩をば生涯に於いて最も美しく神聖なる時となしたのであるといって居る。ワイルドは罪の人であった、故に能く罪の本質を知ったのである。」
この言葉もまた、決定された過去が懺悔回心の瞬間に於いて、非因果的、非過程的に瞬時に変貌するという、時間論の根本的な問題を提起しているように思われる。しかしそういう哲学的問題は、『善の研究』では「實在はすなわち善であり」、「實在体系の矛盾衝突」より起こる悪は「實在発展の一要件である」という性善説的な立場によって片付けられており、その点に於いて「悪」の問題、魂の底からの懺悔が同時に賛美であるという宗教的経験のパラドックスが、さらに立ち入って論ぜられてはいないのである。
 
第二章 『自覚における直観と反省』―キリスト教的プラトン主義との内的対話の深化―神現論(テオファニア)と創造論―
 
2-1 宗教的経験の原事実に関する西田の鋭利なる直観が、それにふさわしい哲学的な反省と統合された自覚、ないしは内的生命のロゴスを求めていったプロセスとして、『自覚における直観と反省』以後の哲学的思惟を位置づけることができるであろう。その始まりを告げる『自覚における直観と反省』という書は、場所的ロゴスの誕生以前の西田の「悪戦苦闘のドキュメント」であり、そのかぎりではまだ中後期の西田独自の哲学を構築するには至らぬ過渡的な段階のものであった。
 
2-2 しかしながら、西田とキリスト教的プラトン主義との内的対話の進展という見地からすると、近代のドイツ理想主義の哲学の思想史的背景として地下水脈のごとく活きていたキリスト教的プラトン主義の伝統を、西田が『善の研究』のときよりも遙かに深いレベルで自己自身の哲学的思惟のうちに深く摂取しつつ、さらにそれを乗り越える論理を模索していた文書としてこのドキュメントを読み返すことができる。
 
2-3 とくにこの時期の西田にとって重要な意味を持つ思想家は、ディオニシュース・アレオパギテースとヨハンネス・エリューゲナである。前者は後者によって西方キリスト教会に知られるようになったわけであるから、ディオニシュースはアウグスチヌスと並んで、中世のキリスト教的プラトン主義の形成に多大の影響を与えた思想家と言っても良いであろう。とくに、エリューゲナについての西田の評価は極めて高く、彼からの引用は、アウグスチヌスについて多く、前期中期にとどまらず後期西田哲学においても繰り返し反復されている。
 
2-3 西田は『善の研究』では、前述したように「宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestationとみる」ことから「宇宙と神との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である」という汎神論の立場をとっていたが、「創造」というユダヤ・キリスト教的概念と「発出」というプロチヌスに由来するギリシャ的概念を「神現(テオファニア)」というキリスト教的プラトン主義の概念に統合したエリューゲナの影響のもとに、西田は「創造」ないし「創造作用」を自己の哲学の根源語の一つとして積極的に語るようになるのである。
 
2-4 『自覚における直観と反省』において、エリューゲナの『自然について』を参照しつつ西田は、「多くの紆余曲折の後」「知識以前の或者」に到達したと述べ、「カント学徒と共に知識の限界を認めざるを得ない」ことを認めた後で、ベルクソンの創造的進化の基礎に或る純粋持続の考え方をも批判しつつ、ディオニシュースとエリューゲナを引用して次のように言う。
 
ベルクソンの純粋持続の如きも、之を持続といふ時、既に相対の世界に堕して居る、繰り返すことができないといふのは、既に繰り返し得る可能性を含んでいる。真に創造的なる實在はディオニシュースやエリューゲナの考えのように一切であると共に、一切でないものでなければならぬ。ベルクソンも緊張の裏面に弛緩があると言って居るが、真の持続はエリューゲナの云った如く、動静の合一、即ち止まれる運動、動ける静止でなければならぬ(Ipse est motus et status, motus stabilis et status mobilis)。之を絶対の意志と云ふも、既にその當を失して居る、所謂説似一物即不中である。(全集Ⅱ-278)
 
『自覚における直観と反省』はフィヒテ的な自覚の立場を基礎とするものであったが、西田はこの立場にも限界を見いだし、エリュ―ゲナを引用しつつ「説きて一物に似たれども即ちあたらず」という南嶽懐譲禅師の禅語で結んでいる。いまだこの限界を突破する哲学のロゴスを発見するには至らず「刀折れ矢竭きて降を神秘の軍門に請うたという譏り」を甘受しつつも、神秘主義をさらに脱底する道を西田は模索していた。そして、新たなる哲学的な論理で、それを積極的に語る道を西田が歩み始めるためには、キリスト教的プラトニズムの霊性との内的対話こそが重要な契機となっていたと言えよう。
 
2-5 西田は、エリューゲナの『定命論(予定論)』を重要視し、認識の根柢に意志があるという立場から、「神に於いては何らの必然も何らの定命もない、定命 Praedestinatioは神の意志の決定に過ぎぬ」という彼の言葉に深い意味があることを認め、意志は「創造的無から来たって創造的無に還り去る」と云う考えに共感しつつ「斯く無より有を生ずる創造作用の點、絶対に直接にして何らの思議を入れない所、そこに絶対自由の意志がある、我々は此処において無限の實在に接することができる、即ち神の意志に接続することができるのである」と述べる。(全集Ⅱ-281)
2-6 エリューゲナを介して西田は「無からの創造」というキリスト教の根源的な考え方に賛同するようになるが、そこで云う「創造」とは工作者が、外部から事物を、素材なしに制作するというが如き擬工態的モデルにもとづくものではなく、我々の自由なる意志作用の根源に於いて働く「最も直接的なる創造作用」である。
 
2.7 エリューゲナの『自然について』における神現論は、後期哲学の哲学論文集でも繰り返し引用されるが、それもすべてエーグレッスス(egressus)すなわち「神から出る」ことと、レグレッスス(regressus)すなわち「神に還ること」という「神から神への往還運動」において創造を捉える文脈である。西田がこのように後期の著作に至るまで繰り返しエリューゲナのテキストを引用した理由の一つは、『自然について』における「無」にかんする独自の辯證法にあると言えよう。
 
2-7 『自然について(ペリ・フュセオン)』第二部で、エリューゲナは、神は「無」であると断言すると同時に「神は一切である」ことを肯定しつつ、次の如く云う。
 
弟子:聖なる神学が無という言葉で(nomine quod est nihilum =無の名号で)表現しているものがなんであるか、先生に説明して頂きたいのです。
教師:その言葉で表現されているのは、人間の知性であれ、どのような知性にも知られない、神の善性の言い表しがたく、捉えがたく、近づき難い明るさだと私は思うのだが。というのも、それは超存在的(superessentialis)で超自然本性的(supernaturalis) であるから。それは、それ自体に於いて考えられる場合には存在していないし、存在しなかったし、存在しないであろう。というのもそれは、すべてのものを超越しているので、いかなるものにおいても考えられないからである。しかし、存在するものどもへのある言い表しがたい下降を通じて(per condescensionem) 、それが精神の目で見られる場合、ただそれだけが万物に於いて存在しているのが見出され、事実存在しているし、存在したし、存在するであろう。それゆえに、その卓越性の故に、それが捉えられないと理解されるかぎりに於いては、それは無と呼ばれるとしても當然のことであるが、しかし、それがその神現に現れ始める場合にはいわば、それは無からあるものに発出すると言われ、本来全ての存在を越えて居ると考えられているものが、すべての存在に於いてもまた独特な仕方で認識されるのである。
ここで言う「無」は決して欠如としての無ではなく、単なる否定的な無でもない。それは、「すべての存在するものを超越している卓越性」と「超存在的で超自然的な本性に従って」「無」と呼ばれているのである。さらに、この「無」から「存在するもの」への神現の運動を、エリューゲナは「下降」と呼んでいるが、それは感性によっても理性によっても見ることの出来ぬ「無」が見ることのできる「有」へと現れることを意味しているのである。まさに「見えるもの」は「見えないものの形」なのである。そして、西洋の有-神論的な哲学や神学の伝統では例外的であろうが、エリューゲナは神を「絶対的な無」という名でも言い表している
 神の知恵は、自分が形成するために自分より上位の形相に向かうことがないので、無形といわれるのが正しいことである。実際それはすべての形相の無限の範型であり、それがさまざまな目に見えるものや目に見えないものの形相に下降するとき、それはあたかも自分の形成を振り返るように自分自身を振り返るのである。それゆえ万物を越えて居ると考えられる神の善性は、非存在、絶対的な無と言われるが、しかしそれは全宇宙の存在であり、実体であり、類であり、種であり、量であり、質であり、すべての被造物において、すべての被造物について、どんな種類の知性によっても考えられるすべてのものであるのだから、万物に於て存在するし、存在すると言われるのである。
 
2-8 実体、類、種、量などアリストテレスなどアリストテレスが範疇としてあげたものは、帰するところは有のカテゴリーである。それらの概念枠を突破している究極の超越論的(transcendental)一般者を、エリューゲナは「絶対的無」という名号で示したのであるが、それは、「下降」即「上昇」という「神現」の運動に於て 、人間が感覚や知性でとらえることのできる「万物に於て存在するし、存在すると云われる」のである。
 
2-9 この考え方に西田が深く共感したのは、それが、彼が若き時より親炙していた東アジアの霊性的伝統、とくに「形あるものは、形なきものの形」であり、「色(形あるもの)と、それを形あるものたらしめている「空」が、そのまま「逆対応的に同一」であるという大乗仏教の根本思想、すなわち色即是空、空即是色というごとき交差配列語法(chiasmus)によって表現されるダイナミズムに通底するものであったからであろう。
 
2.8 西田は、場所論的轉換を経た後の彼の中期の代表作である『一般者の自覺的体系』と『無の自覺的限定』のなかで「絶対無」を根源語とする哲学的な思索を展開するようになるが、それは下降の道即上昇の道というキリスト教的プラトン主義の考え方に沿ったものであった。 とくに、『無の自覺的限定』は、「絶対無」を神の名号とするエリューゲナのキリスト教的プラトン主義を手引きとしつつ、さらにアウグスチヌス、エックハルトのような他のキリスト教的プラトン主義の系譜に属する思想家、キルケゴールや西田と同時代のドイツの辯證法的神学者、およびマルチン・ブーバーのようなユダヤ教思想とも深く関わる議論を展開している。
 
第三章 『一般者の自覺的体系』と『無の自覺的限定』におけるキリスト教
 
3.1 フランス現象学の現代的な傾向として、フッサールとハイデッガーの現象学の方法を徹底させることによって、それを更に一歩超え出て、キリスト教神学の根本的な問題を、現象学によって論じる一群の現象学者がいる。所謂「現象学の神学的転回」とよばれるものである。そのなかでも、とくにJ.L.マリオンは、フッサールの現象学的還元の「還元」を徹底させ、ハイデッガーの「存在」(Sein)への問いを更に根元化するものとして「贈与」の現象学を提唱している。それは、「存在は贈与として与えられる」という表現に含意される「贈与のはたらき」に注目した現象学である。  彼の初期の主著のタイトルである「存在なき神(Dieu sans L’être)」とはまさしく、「存在をさえ超越した神」であって、ハイデッガーではまだ主題化されていた「存在」を更に「還元」し、贈与作用によって「存在」そのものが「与えられる」ことを現象学的に解明しようとしたものである。彼には「聖像と偶像」の違いを述べる興味深い論述もあり、活ける神に導く聖像によって無限なる神を礼拝する代わりに、死せる偶像を神の代わりに礼拝する偶像崇拝を批判している。この聖像と偶像との根本的な区別と共に、人間の理性によって捏造された神概念を立てる有・神論(Onto-theologie)の「神」を、まさしく思索に於ける偶像崇拝と断定し、そのような「形而上学」の神概念を脱存在化する興味深い議論を提供している。
 
3.2 ここでは、紙幅の都合上、現在も旺盛に現象学と神学との境界領域で思索しているマリオンについてこれ以上論じることは出来ないが、彼に半世紀以上もさきがけて、フッサールが『イデーン』を公刊し現象学の構想と理念を確立した時点で、現象学を根源的な宗教哲学へと転回させた西田の中期哲学の先駆性を指摘しておきたい。
 
3.3  西田によって宗教哲学へと転換された現象学は、さしあたっては「本来的自己の現象学」ないしは「己事究明の現象学」と言って良いであろう。現象学の方法の基本は、意識現象の志向的内在、ノエシスとノエマの区別、本質直観ならびに範疇的直観に基づく非感性的直観と、根源的な意識の意味付与作用にある。西田はこのような現象学の考え方とその方法を、彼の宗教哲学において場所論として転換したわけであるが、その基本は、意識の根柢に意志と内的生命を見る西田自身の根本的な考え方にある。
 
3.4 意識の現象学を、知情意の全てを統合する身体性に立脚した人格的存在と、そのような活きた個人の本来的自己がどこに立脚しているのかを、哲学的場所論によって究明すること、すなわち現象学で言う「超越論的自我」に身体性と事実性にもとづく具體性を恢復させ、いわば生活世界の「大地」にしっかりと立たせることが西田の方法の根本にあった。「意識一般」という普遍的立場は、西田にとっては生命を持たぬ抽象的な自我に過ぎないのであって、形相的なるものだけでなく質料的なるものをも含んだ「不合理性」を孕む原事実、そのような事実性に徹した個人が、そこにおいて生死している場所を究明する現象学が要求されたのである。
 
3.5 『一般者の自覺的体系』では、意識論が行為論(意志論)によって基礎づけられ、行為論が「内的生命論」によって基礎づけられるが、この内的生命が宗教的生命として位置づけられる。西田の第一義的関心は、概念によって探求される形而上学的「存在」をめぐる抽象論ではなく、また意識を絶対的存在としてそこにすべてを還元するフッサールの現象学の知性的立場に留まらずに、「存在」と「行為」以前の「内的生命」に宗教的生命を見る立場であった。
 
3.6 ここでいう内的生命とは、決して主観的なる思想感情に活きるということではない。西田は、真に内に生きるということは、「外を内となす」ことであると注意した後で、西次の如く内的生命を彼の哲学の中で位置づけている。
 
内的生命といふのは上に言った如く客観を離れて空虚なる主観に生きることではない。真の内的生命とは自己自身の底に深い非合理的なるものを見ることである。客観の底に横たわる深い非合理的なるものを自己自身の内容となすことである。….
非合理なるものの底に神の霊光を見るのである。斯く行為の底に行為を超えたノエシス的限定というものが、私の所謂内的生命と考へるものである。(全集Ⅴ-414)
 
3.7 存在論よりも行為論を、そして行為論よりも生命論のほうをより根源的とみるのが西田の立場であるが、ここで「外を内となす」内的生命は、「自己に外的なるものを自己自身の運命として自己自身の深い内容と考へる」ものでもあった。このような立場からは「感覚的なるものも内的生命の質料として宗教的ならざるものはない」のである。
 
3.8 西田の宗教哲学はこのように「感覚的なるものにも内的生命の質料として宗教的なものを見いだす」ところにあり、単に「形相的なるもの」すなわち「理性的なるもの」だけに宗教的なるものを見るのではない。そしてこのような内的生命の底は非合理性を孕んで無限に暗いが、しかしそれは単なる暗黒ではなく「ディオニシュースの云ふ輝く暗黒」である。
 
3.6 このように外にある非合理なる事実を内へと転換する内的生命は、非合理的なるものの底に「神の霊光」を見るのであるが、ここでは、単なる理性の限界では語り得ない根源悪の問題、また感覚的世界に於て引き受けねばならぬ非合理な運命、その運命を引き受ける内的生命、その内的生命自体の暗い根柢、その根柢から「輝く闇」にとして顕現する「神現」というモチーフに注目したい。「宿業」ないし「宿命」というほかない非合理を自ら肯定的に引き受けて、それを「運命」として肯定することによって逆説的に宿命から自由となる根據は、西田の哲学的場所論では、「絶対無のノエシス的限定としての絶対愛」および「絶対無のノエマ的限定としての永遠の今」として位置づけられる。(『無の自覺的限定』序、全集Ⅵ-10)
 
3.7 「我々の行為を限定するものは単なる理性ではなく、イデアの底にはイデア的に自己自身を限定すると共に、イデア的限定をも否定するものがある」というのが西田哲学の生命論であり、それはやがて、西田がギリシャ哲学の主知主義の限界を超えて旧約聖書の世界と内的対話をする『場所的論理と宗教的世界観』の議論を先取りするものでもあった。非合理的なる歴史的事実を含みつつも、その「外なる非合理を内へ」と転換し、内的生命の底に神の霊光すなわち神現を見た新旧約聖書の記録された宗教的経験に哲学の側から肉薄すること、それが最晩年の西田哲学の主題の一つになるのである。
 
第4章 場所的辯證法の徹底
 
4.1エリューゲナは、西方教会に東方教会の霊性を導入した人であり、その意味でギリシャ正教とローマン・カトリックの霊性的伝統の大胆なる統合者であるが、ルター以後のプロテスタント、およびキルケゴールにはじまりバルトによって先鋭な形で表現された自然神学(哲学的な神学)否定のキリスト教とは、人間本性の堕落(原罪)以後の神認識の可能性については次の点で全く異なる観点をとっている。
 聖アウグスチヌスはこうのべている。「私たちがそれによって父自身を理解する精神と、私たちがそれを通して父を理解する真理の間には如何なる被造物も介在していない。」  最も聖なる教父の言葉において私たちは、人間本性は原罪の後もその栄位を全くうしなったわけではなく、依然としてそれを保持していると理解すべきことを教えられる。…だから私たちの精神と神との間にはいかなる被造物も介在していないとすれば、私たちは無力さにあっても、神をまったく捨て去ったのではないし、神に見捨てられてしまったのでもないのである。魂や身體の宿痾の病のために、それによって私たちが神を理解するところの、またそこにおいて創造者の像が優れた形で造られたところの、精神の眼を失ってはいないのである。(P-Ⅱ-5-531)
エウリゲナはディオニシュース文書の翻訳以前に、当時問題とされていた神学的な二重予定説に反対する著作を書いている。その議論は高度に思弁的であり、かつ真の哲学は真の宗教であるという立場で書かれていたために、同時代の神学者には全く理解されなかった。しかし、基本的には、人間の自由意志の「存在」は神の贈与として、決して無に帰するものではなく、ただその能力のみが毀損されているという立場である。そして悪というものは第一義的には存在しないのであるから、予知は虚無には関わらず(虚無を知ることはナンセンスである)、永劫処罰も予定されてはいない。神の選びと予定は救済の決定であって、罪を犯すものはそのこと自体が罰なのであって、神はさらに永劫の罰などは予定しない。悪人・罪人の未来における救済は未決定のまま据え置かれるのである。万物が神に由来し神へ還るというコスモロジーをとる限り、救済されぬ例外的存在があると云うことは論理的に首尾一貫せず、そのかぎりで、悪行と永劫処罰への予定というものはありえないという立場(普遍的・宇宙論的救済)を説くことが、首尾一貫した帰結と云うべきであろう。
 
4.2人間本性は、如何に堕落したとしても、その中に神を自覚する精神の目は毀損されずに存在するというエリューゲナの如き考えに対して、周知のようにバルトはブルンナーとの論争において、堕落後の人間が恩寵なしで神を認識する能力があることを否定し、自然神学を汎神論として全面的に切り捨てた。 バルトの自然神学批判は、徹底した超越的内在の立場であり、人間から神に至る道を否定し、神から人間に来る道のみを一方的に認めるものであった。バルトの「超越的内在」の神学の議論は、その徹底性に於て、自由主義神学のみならず、彼に追随した辯證法的神学者をぬきんでていたラジカルなものであるということは西田は充分に認めていたに違いない。しかし、西田が言う「内在的超越」の立場は、バルトの如きキリスト論的集中にもとづく「超越的内在」の立場をも含んで成立するものとして構想されていたのではないか。
 
4.3 私は、そのような意味での萬有在神論の徹底こそが、西田の宗教哲学の特徴であると考える。それは、単に万物が神に於いてあるという考え方、世界を神の場所と考えるのではなく神を世界の場所と考える思想だけを指すのではない。そういう意味での萬有在神論といえども、が神と世界の区別を明確にした上で両者を関係づける点に於て優れた思想であり、無神論か、さもなくば無世界論になる傾向性をもつ汎神論を更に一歩進めた神学的立場であることは確かであるし、伝統的なユダヤ・キリスト教の有神論とも調和する思想として西田以外の多くの神学者・哲学者にも見られる思想であろう。しかし、後期西田哲学の萬有在神論は、「矛盾的自己同一の論理」をもつことで、バルトの如き徹底した超越的内在の立場を超える方向性を示している点に於て独自のものであり、エリューゲナの如き萬有在神論をさらに徹底させた思想でもある。
 
4.4 たとえば、バルトは『教会教義学』の救済論のもっとも重要な箇所、十字架上での贖罪死を選んだ「神の子の従順(Der Gehorsam des Sohnes Gottes)」を語るときに、イエス・キリストを「我々に代わって審かれたもうた者としての審判者(Der Richter als der an unserer Stelle Gerichtete)」と言表する。審判者が同時に審かれた者であるということは対象論理によって理解できる言説とは言えない。これは自己が自己自身を審くなどという道徳レベルの話ではない。十字架の死に至るまで従順であった神の子を審き、贖罪の子羊として犠牲に供させた父なる神が、子なる神と同一の神であるというのが正統信仰の基本である。このような同一性こそ、まさに矛盾的自己同一そのものではないか。
 
4-5 「我々に代わって」とは文字通りに訳せば「我々の場所に於いて」である。それは、十字架に附けられたイエスが、われわれ各人が今此処で生きている「場所」に於いて、隠れたる神として「神現」することではないか。
 
4-6 対象論理的にいえば、2000年という時の隔たりをもち、空間的にも遠く隔てられたゴルゴダの丘で、十字架の刑に処せられたイエスは、多くの異邦の民にとっては目立たぬローカルな年代記的な事件に過ぎぬであろう。しかし、イエスをキリストと信じて信仰告白をする者にとっては、その事件は、一人一人が今此処で死の深き淵より活かされて生きる実存の「場所」において生起する出来事となるのである。 そのとき、この出来事は、各人の場所に於ける「原始歴史」として、まさに新しき時の始まりとなる。そのとき、贖罪死の出来事は、まさに自己自身の事柄となるのである。
 
4.7 我々はキリスト者の信仰告白の中で、時に「キリストは私一人のために十字架で死んでくださった」という如き言葉を耳にする。これも対象論理的に考えれば理解不能な発言であり、人によっては傲慢な発言と思うであろうが、実際は全くその正反対である。
 なぜかといえば、語り手は、「私の場所」に於いてキリストの贖罪死を受け入れたのであり、自己自身を地獄の業火に焼かれること必定の反逆者に他ならなかったことを心の底から自覚したのである。そうであればこそ、「義人」のためではなく、極悪非道の罪を現に犯した私、キリストを誹謗しキリストに反逆した私のためにこそ、キリストは死んでくださったという意味がそこになければならないであろう。
 
4.8 「キリストと共に十字架上で死に、キリストと共に復活する」という贖罪死の古き教義における「共に」を「キリストに於いて」という場所論的な言語で言い換えるならば、キリストは「私の場所において(私の代わりに)死に」「私はキリストの場所に於いて復活する」ということが可能であろう。終末の時の完成、創造の御業が平和の内に完成する永遠は、今此処で始まっているのである。
 
4.6 実際にバルト自身、「救済論」のなかで「イエスキリストに於ける人間の存在(Das Sein des Menschen in Jesus Christus)」を語る。キリストが「人間の存在の場所」であることは、新約聖書の多数のテキストが証しすることである。
 
4.7 1456年の公現の主日にニコラウス・クザーヌスは「イスラエルの王として生まれた方は今何処にいますか?」 (Ubi est qui natus est rex Iudaeorum?)というラテン語の説教をしている。( Josef Koch, Cusanus-Texte: Ⅰ. Predigten 2/5, In die Epiphaniae, Brixinae,1456, pp.84-117)
クザーヌスは、東方教会の伝統、とくに偽ディオニシウス文書に代表される否定神学、キリスト教的プラトニズムと、マイスターエックハルトの独逸神秘主義の伝統を継承した思想家である。彼は真にカトリック的なもの、すなわち、「真に普遍的なもの」を探求し、教会の一致と、イスラム教との平和共存を説いた先駆的な思想家でもあった。彼の「智ある無知」や「隠れた神」などの主著は既に邦訳されているが、ここで言及したラテン語説教の様なものは残念ながら翻訳されていない。しかし、私の考えでは、この説教は、彼の根本思想を、我々自身の自己の実存の問題に架け橋する上で重要なものである。

4.8「イスラエルの王」とはキリスト(救世主にして王、あるいは神の子)のことである。したがって、「イスラエルの王として生まれた方は今何処にいますか?」 (Ubi est qui natus est rex Iudaeorum?)という問は、「キリストはいま何処にいますか?」 という問と同じである。
ルカ傳が伝えるキリスト生誕の物語ならば、答えは「ベツレヘムにおられます。空の星があなたを導いて下さるでしょう」という答えですむであろう。

4.9  しかし、1456年のクザーヌスにとって、「キリストは今どこにいますか?」という問いは、過去の歴史的な事実に関する問だけではすまぬものを持っている。そして、2005年のこの物語を聞く私にとっても、「キリストは今何処にいますか?」という問は、単に、「ベツレヘムに」とかあるいは「ナザレに」とかいう空間的場所を指し示すだけではすまないものがある。  「キリストは今何処にいますか?」 この問に対して、あなたならばどう答えるのか-それは単純な問ではあるが、公現の主日に発せられた基本的な問である。それは、キリストは何処にいるか、と問うと同時に、キリスト者であるあなたは今何処にいるのか、と問いかけている様にも思われる。

4.10 神学者ならば、このような問に答える仕方を何通りも知っているであろう。たとえば、「死せるものと活けるものとを裁くために今、キリストは父の右に座しておられる」などと。神学者でない人は、たとえば公共要理などの専門家によって書かれた権威ある書物を繙くかも知れない。しかし、クザーヌスは、自己を学者(ソフィスト)ではないと断言したソクラテスの弟子でもある。「無学者」として、一人の信仰者として、彼は聴衆に語る。その場合、神学が与える様な他人ごとの知識ではなく、彼自身が自らの実存の深みに於いて端的に了解し、そこにおいて生き、行為すべき答えこそが、説教者には求められるのである。

4.11 興味深いことに、用心深い神学者ならばキリストというべきところで、クザーヌスは、もっと端的に、あの大工の一人息子、イエスの名をもって語る。即ち、  「イエスはいま何処にいますか?」Ubi est Iesus?  (Where is Jesus?) という三語によっても語る。「キリスト」は元来、普通名詞である。これに対して、イエスは固有名詞であり、肉体を持って生きた歴史上の人物一個人(person)―の名前である

4.12 イエスという一個人の名前は、キリストという名前と不可分であり、キリスト者とはイエスがキリストである、と証言するもののことである。すると、この問に対して、如何なる答えが可能であるのか。ある意味で、出来合の答えというものはない。各人が、自らのキリスト者としての実存をかけて、それぞれ生涯をかけて答えるべき根源的な問であるとも言えよう。

4.13 クザーヌス自身はどう答えたのか。彼は、ある端的な答えを与えている。それは、  Ubi est Christus. (Where is Christ). と。
すなわち、 「何処(ubi)」すなわち「場所(locus)」こそがキリストである、と。すなわち、
私はキリストにおいてあり、キリストこそが私の「場所」に他ならない、
と言うのがクザーヌスの答えであった。

4.14 イスラエルの王としてのキリスト、ユダヤ民族の救世主(メシア)としてのキリスト、あるいは全能永遠の神の一人子としてのキリスト、というような神学者の言葉に寄ってではなく、もっと端的に、「キリストは私の場所である」というのである。その意味するところをさらによく考えてみよう。

4.15 まず、「キリストに於いて」という言い方はパウロ書簡で多用される表現であることに注意したい。「私はキリストに於いて真実を語る」というように。そこでは、キリストは自己とは別の実体ではなく、そこに於いて私が生き、語り、証する場所として捉えられている。キリストとは、私の主体性がそこにおいて成り立つ「場所」なのである。

4.16  この「キリストという場所」は、メシア(王あるいは救世主)という伝統的な意味とどのような関係にあるのか。ヨハネ福音書は一つの手がかりを与える。それはイエス自身が、「あなたはキリストなのか?」と問われたときに、「我在りego eimi = I AM」と答えている箇所に注意したい。それは、決して、「私こそユダヤの王である」等という意味に解されてはならぬであろう。もっと端的な「我在り」こそがイエス自身の証言であった。

4.17 このように、キリストをキリスト者の場所として捉える見方は、キリスト教だけに固有のものであろうか。私にはそうは思われない。旧約聖書に於いては、信仰が向けられるものは、決して固有名をもたない。それは対象化を許さぬものであるから、世界の中にあるひとつの対象ではないのである。だから、神を有限なる実体としてではなく、無限なる場所として捉える見方は、旧約聖書の伝統の中にも厳然として存在する。ヘブライ語のマーコムという言葉が、「場所」に該当するが、ミドラシュの伝承に寄れば、神は世界の中には存在しないが、世界は神の中に(神に於いて)存在すると明言される。

4.18  世界の中にある有限なる対象は、如何なるものも神ではない。更に言うならば、存在するものの総体である世界そのものが有限なる存在である。そういう世界を構成する一要素、あるいは世界の全体を神と等値する思想(汎神論)は聖書的ではない。しかし、このような神の超越性だけを述べるのはまだ一面的である。この考えでは、神は絶対的に超越的であって、人間と神、世界と神の関係は疎遠なままに留まるであろう。これに対して、「神は世界の場所である」という命題に於いては、神はそこにおいてある世界、世界の構成要素たる個々の人間と不可分でありながら、有限なる世界には還元されぬ無限者なのである。

4.19 このような旧約の伝統における超越者、いうならば名付けることの出来ない無限なる「吾が主」が、一個の人格と如何なる関係にあるのかという根本問題を、一個人の「私」の場所としてのキリストを機軸にして考えることーこれが「私はキリストに於いて語る」というキリスト者のメッセージの核心にあるものではないだろうか。この世界の場所、個人の人格がそこに於いて成りたつ場所という思想は、キリスト教的人格がそこに於いて成立する場所であるが、同時に、有限なる世界を無限に超越することを可能ならしめる場所でもある。そして、その場所は、キリストという人格、個々のキリスト者という人格と不可分であり、また「キリストによってキリストと共にキリストの内にある」教会の典礼に与る諸々の人格の共同体の成立する場所でもあると言えよう。

 

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西田幾多郎とゲーテ: 「汎神論者よりも大なるもの」の自覚

2020-04-16 | 哲学 Philosophy
「ゲーテが<エペソ人のディアナは大なるかな>といえる詩の中にいった様に、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディアナの銀龕(ぎんがん)を作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、ある意味においてかえって真の神に接して居たともいえる。」(西田幾多郎『善の研究』、岩波文庫新版253頁)
 西田は四高のドイツ語と倫理学の教師をしていたころ、ゲーテの詩劇「ファウスト」を輪読し、「自然のなかに神を、神の中に自然を見る」ゲーテの詩の世界に傾倒していた。
「吾人は基教の所謂有神論者にあらずして無神論者なり、無神論者にあらずして汎神論者なり、汎神論者にあらずして汎神論者よりも大なるもの也」とは、若き日の鈴木大拙が書いた『新宗教論』の根本思想のひとつであるが、
西田の『善の研究』の宗教論の一つの課題は、この「汎神論者よりも大なるもの」の立場を究明する事にあったと言って良い。
その場合、ゲーテの詩劇と叙情詩が、藝術の創作(ポイエーシス)に於て西田の課題を表現するものとして、関心を惹いたのであろう。1905年2月1日の西田の日記には、「鈴木大拙からオープン・コート社の雑誌が送られてきた」という記述がある。この雑誌に編者のポール・ケーラスによる論説「ゲーテの多神教とキリスト教」が掲載されており、ケーラス自身によるゲーテの当該の詩の英訳(Great is Diana of the Ephesians) とドイツ語のゲーテ著作集にあるH.Knackfuss のイラストが掲載されている(その挿絵をここに転載ー日本の仏師にも通ずる印象深い畫である)。
 ゲーテの詩に触発された西田は「一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれもいずれも直に全体の精神を現さざるものはなく、また画家や音楽家おいてに一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余曲折の楽音ともなるのである。斯くの如き状態に於ては神は即ち世界、世界は即ち神である」と書く。
 不注意な読者にはスピノザ的な汎神論と響くであろうが、私の理解するところでは、そこには既に「汎神論者よりも大いなるもの」の立場がいかなるものであるかが予感されている。「芸術家の創造作用は、それが行であると共に知である。筆の先、鑿の先に眼があると云うべきであろう。我々はこの立場に於て、知識によって達することの出来ない世界を歩みつつあるのである」という藝術論(『藝術と道徳』(全集3-468))が、純粋経験を根本実在とし、そこから真善美の統一を求めた西田の創造作用論から帰結するのである。
 この時期の創造作用論は、「無の場所の自覚」を創造作用とした中期西田の「絶対無の自覺的限定の神学」、そして最晩年の「場所的論理と宗教的世界観」へと展開していく。それは、「汎神論者よりも大いなるもの」の宗教的自覚の展開であった。
 西田は「神は即ち世界」「世界は即ち神」と書いた。この「即」は、決して否定を含まぬ即自的な一体性を表現しているのではない。「即」は「即非」によって成りたつ。「神は即ち世界であり、世界は即ち神である」の倒置反復語法(キアスムス)に深い意味がある。
 絶対否定の峻厳さを忘れぬ「即」の意味こそが、「西田幾多郎と鈴木大拙と共に考えるもの」の課題であり、それは大乗仏教の枠組みを超えた普遍性、キリスト教にも通ずる普遍性を持たねばなるまい。鈴木大拙の「即非」、西田の「矛盾的自己同一」の場所的論理の試みは、「汎神論」と「超越神論」「一神教」と「多神教」の抽象的な対立、「我々の頭の中で捏造された宗教の教義上の対立」を越えた活きた宗教的世界のロゴスとなりうるのである。
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「Coincidentia oppositorum (対立の一致)と愛」ー西田幾多郎の大谷大学開校記念講演(1919)とバッハの宗教音楽に寄せて

2020-03-19 | 哲学 Philosophy
岩波書店から依頼された西田幾多郎講演集の編集・解説の仕事を現在しています。バッハの「ロ短調ミサ曲」を聴きながら、この編集作業をしつつ感じたことを、忘れないうちここに書き留めておきましょう。
 
 ヨーロッパを何度か旅した日本人のキリスト者の一人として、30年戦争をはじめとする宗教対立の遺跡を巡り、また「キリスト」教国のなかのユダヤ人迫害、二つの世界戦争の犠牲者の史跡などを目の辺りにして、このようなイデオロギー対立を越えるキリスト教とは何かと言う課題を避けることはできませんでした。
 
諸宗教・諸宗派の差別と対立を越える対話の実践が必要ですが、私もまた限られた経験の範囲ではありますが、これまで35年の間、東西宗教交流学会をひとつの活動の場としてきました。禅とキリスト教の間の霊性交流と並行して宗教哲学の研鑽の場でもあったこの学会では、西田幾多郎にはじまる京都学派の哲学者、そしてクザーヌスに代表されるキリスト教的プラトン主義の哲学者達に最も惹かれます。
 
 バッハの「ロ短調ミサ」を聴いていると、カトリックの普遍的宗教性と、ドイツ語・ドイツ文化の個性が統合されていることを強く感じます。その統合は、どのようにして為されているのしょうか。それはまさに一人一人の「個」の協奏によって遂行されているように感じます。バッハの宗教音楽には、単旋律で歌うグレゴリオ聖歌の伝統も生きていますが、同時に、複数の他者と共鳴するポリフォニーが、不協和から協和へと向かうダイナミズムを感じさせます。ときに二人の歌唱が交互に主となり客となる二重唱、斉唱ではなく対位法的に複数の旋律が時間差を伴って反復されるフーガは、それぞれのパートが異なりを見せながらも協和します。そして何よりもルターに始まるキリスト教の原初の精神に立ち返って個々のキリスト者の心の奥底に呼びかける内面性と超越者との関係が見事に音楽で表現されています。超越者に対して「私ー汝」の関係で呼びかける「個人的(人格的)」な内面性のなかに、万人に通底する普遍的な真理が反響する。そういうことを私に如実に経験させてくれるのが、バッハの「ロ短調ミサ曲」や「マタイ受難曲」です。 
 
 西田幾多郎とクザーヌスの関係については、私もいろいろなところに書きましたが、大谷大学開校記念日講演の面白いところは、仏教者を聴衆としてクザーヌスを論じている点でしょう。
 西田はつぎのように「反対の一致」をもって宗教の本質を現すものとしています。
 
「宗教上の神仏とはその本質は愛であると云ってよいと思ふ。知識の竟まるところ人格となりてこの人格はCoincidenti oppositorumであるが Coincidentia oppositorumが結合するものが神又は仏であって、愛がそのessenceである。それで是はあくまで知識の対象となることはできぬが情意の要求によってこれを味ひこれに結びつくことができる。故に神を知識的に限定する事は中世の否定神学の云ふがごとく不可能である。而しCoincidentia oppositorum は一切の人間活動の基礎となり、愛の形によってその極致が示されるのである。即ち極めて論理的な概念が現実生活に極めて密接な事実となる。仏教でも、華厳などから、浄土真宗に移るところにこんな意味がありはしないかと思ふ。(西田幾多郎全集13:86)」
 
晩年の西田の宗教哲学を予感させる講演ですが、「反対の一致は愛の形によってその極致が示される」という文章を読むと、私には、バッハのカンタータの究極の主題を表現する言葉としてこれ以上に相応しいものを知りません。例えば、カンタータ106番の死と生、カンタータ140番の終末論的悲しみと婚宴の喜び、概念的には対立し一つにならぬものの「一致」すること、西田がのちに「矛盾的自己同一」と呼んだものを、概念ではなく、万人に開かれた音楽の心によって感じさせてくれる普遍性が、バッハの宗教音楽にあります。
 
 小澤征爾指揮の「ロ短調ミサ曲」が、彼の「マタイ受難曲」と並んでYoutubeにありましたので、リンクを張っておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=JHcf3xeU4xQ&t=826s 
 
 
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