歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

日本の典礼聖歌の中の詩篇

2005-03-16 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
  典礼聖歌 386   「風がどこから」    菅野淳作詞  高田三郎作曲             

 

【バーチャル合唱】典礼聖歌"風がどこから" (高田三郎) by Japan Chamber Choir

典礼聖歌より一般讃歌 "風がどこから" 作詩:菅野淳 作曲:高田三郎 指揮:松原 千振 合唱:Japan Chamber Choir リ...

youtube#video

 

 

日本の典礼聖歌のなかで、あなたはどの曲が最も好きですか、と問われたなら、私は躊躇することなくこの曲をあげることにしている。なぜ好きなのか、と聞かれても、とどのつまりは、好きだから好きだ、ということに尽きるのかも知れないが、あえて理由を言えば、詩(詞というより詩といいたい)の内容に惹かれると共に、曲がその内容にじつにマッチしているからだ、とでも答えようか。

私は、どういうわけか、「ハレルヤ」とか「グロリア」のような派手な曲にこころから感銘を受けたことがない。たとえば、ヘンデルのメサイアの「ハレルヤ」で、国王が起立したから、聴衆もそうするのだなどという話を聞くと、もうそれだけで「何と低俗なことか」と思ってしまう。これは、音楽鑑賞としては偏見に満ちているのかも知れない。歌詞など気にしないで音楽だけ聴けば名曲であるとは思うのだから。どんな曲に感動するかと言えば、もっと控えめな曲、口ごもる様な、沈黙の声が響き渡る様なものが好きなのだ。カトリック聖歌では、たとえば、受難週間で歌われる「茨の冠」。これは、バッハのマタイ受難曲でも歌われる旧い曲であるが、こういう曲には無条件で惹かれるものがある。なによりも、言葉の響きと、その意味内容と、曲とが調和していなければならないのだ。


「風がどこから」は、ヨハネ福音書3-8を典拠としている。いまそれを引用すれば、
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
霊とかspiritとかいうと抽象的に感じるだろうが、風といえば、それは、自然の息吹であり、まざまざとしたレアリティをもっている。實はギリシャ語の原文では、「風」と「霊」はまさに同じ言葉(πνευμα プネウマ)である。しかし、それが同じ言葉ではない日本語や英語であっても、この一節は不思議に心を捉える。そして、菅野淳の詩は、このヨハネ伝の一節を私達が普段使っている言葉で敷衍し、高田三郎が、それを私達の歌にしてくれたのだ。
1.風がどこから吹いてくるのか
人は誰も知らない
愛を呼び覚まし心を潤し
いつの間にかわたしの中を吹き抜けてゆく
それは気高いキリストの想い
どこへ風は吹いてゆくのか誰も知らない

2.炎がどうして燃え上がるのか
人は誰も尋ねない
闇をなめ尽くし腐敗を貫き
深く高く全てのものを清め続ける
それはみなぎるキリストの力
なぜか炎は燃えているのに誰も尋ねない

3.時が今しも過ぎてゆくのに
人は誰も気づかない
道を先駆けて恵みを携え
遠く遥か一人一人を守り導く
それは密かなキリストの祈り
なおも時は過ぎてゆくのに誰も気づかない
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「鎮魂の森」という詩

2005-03-15 |  宗教 Religion
全生園の自治会では以前から、「人権の森構想」というものに基づいて、将来的には、今の療養所を「ハンセン病記念公園」として残す企画があり、そのための「対策委員会」もあります。東村山市の公文書の中にも「人権の森」の語が出てきます。そして、これまでの活動としては、「全生園の史跡を残そう」という呼びかけのもとに、昭和3年に建てられた山吹舎(男子独身寮)の復元などを行っています。したがって、「人権の森」という用語はかなり知られていて、東村山市の公文書の中にも出てきます。

これに対して、全生園の森を「鎮魂の森」と呼ぶことは決して一般的ではありません。その言葉を私が初めて聞いたのは、緑化委員長を永らく務められ、全生園の植樹と樹木の世話をされてきた長老より、「消えゆく並木」のインタビューでのなかでした。

この「鎮魂の森」の記事をよまれた方から、伊藤赤人さんの次の詩を教えて頂きました。その内容は、緑化委員長の古老の話と響き合い、全生園の樹木の持っているもう一つの決して忘れてはならない意味、人権の森を補足するもう一つの意味を教えてくれました。

「人権」が、同時代を生きる人々の権利と責任=応答可能性に関わるのに対して、「鎮魂」は、過去の世代(死者達)に対する責任を我々が自覚すべきことを教えます。そしてこの二つは相補的であって、鎮魂の意識のない人権、人権の意識のない鎮魂は、それぞれ一面的なのではないでしょうか。

そんなことを思いつつ、伊藤赤人さんの次の詩を読みました。

鎮魂の森

         伊藤赤人

私がいる病棟の窓から
「徒然」の御歌碑のある
森の一隅が見える
其処は いま晩年の
安らぎを得た入所者の
静かな散策の場となっている

新緑をつけた
楓 銀杏 欅 松などが
初夏の太陽を浴び 風に揺れ
幻想的な――
光りのさざめきをつくっている
そんな自然の織り成す
光のさまをじっと見ていると
その映(まばゆ)い光景の向こうに
――伝説のように
時の彼方に過ぎ去った
消えることのない記憶の中の
暗い一つの森が浮んでくる

かつて その森には厳しい掟があり
入った者は森から出ることを
許されなかった
そんな掟の中で――彼等は
望郷の思いに自らを燃やし
その炎を掻き立てながら
ひたすら命の日々を生きつづけた
それは自由を奪われた者が 呵責な病と
不条理に耐えながら
なお人間として
生きようとする――
修羅のような
闘いの日々であった
――そんな中で
多くの者たちは
火蛾のように燃えつき
倒れていた

――あれから
いくたびか雪が降り
木枯が吹き 月が照り
森の上を霧のように
歳月が流れていった

いま森には――
何事も無かったように
季節の太陽が――
燦々と降りそそいでいる

そして生き残った者たちは
失った永い時間を思いながらも
ようやく得た
小さな「自由」と倖せの中で
僅かに残された
時を惜むかのように
森に植えた緑の苗木を
自分たちの命の芽のように
育んでいる

やがてその苗木が大木となり
生き残った者たちも
みな森の地に還り
新しい緑の森に生まれ変わったとき
この森に生き
ハンセン病と闘い
時代の波に翻弄されながら
歴史の襞の中に消えていった
人間たちのいたことも
いつか伝説となり
森の由来を知らない
二十一世紀の市民たちの
楽しい憩いの森となっていることだろう

病棟の窓から見える
梅雨入り前の六月の森は明るく
真向いの躑躅が真紅の花を
いっぱいにつけて一際美しい
森の近くに巣があるらしく
鳩笛のような声をひびかせて
郭公が啼いている

窓を開けると
グラウンドで野球をしている
若者たちの白い影が
木の間隠れに躍び交っているのが見える

緑の木々に溢れた光りが
今は亡き療友たちの
鎮魂の曲を奏でるかのように
さざめきながら
若草の上に降りそそいでいる

(1986年『多磨』8月号より)

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第一回 ハンセン病問題に関するシンポジウムの内容

2005-03-14 |  宗教 Religion
「第1回ハンセン病問題に関するシンポジウム」というタイトルの集会が、今日(3月14日)に永田町の都道府県会館で開催された。たまたま厚生労働省健康局に資料館前の樹木伐採の件で問い合わせたときに、同じ担当者が、この会合の準備をも進めていることを知ったので、急遽参加することにした次第である。この担当者の方には、会議の始める前に直接お会いすることが出来た。

この会合は、厚生労働省と(社福)ふれあい福祉協会の主催、法務省が共催、文部科学省が後援という形態を取っていた。その趣旨は、「ハンセン病に対する差別・偏見を解消し、ハンセン病患者・元患者の名誉回復を図るため、国民に対してハンセン病問題に対する正しい知識の啓発普及に努める。加えて、都道府県等における同様のシンポジウムの開催を関係者に要請する」ということであった。

このシンポジウムは、検証会議が一応の課題を終えて、報告書を厚生労働省に提出したその後を受けて、企画されたものである。
プログラムの内容を紹介して、簡単にコメントしよう。

基調講演Ⅰ 長尾 榮治氏(国立療養所大島青松園長)「最先端のハンセン病医学」
基調講演Ⅱ 牧野 正直氏(国立療養所邑久光明園長)「これまでの国の政策を含む歴史について」
基調講演Ⅲ 曽我野 一美氏(全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)「患者・元患者の視点から」

 長尾榮治氏の講演は、園長としてではなく医師としての立場からであったが、その内容は素人が聞いてもよく分かるものであった。ハンセン病の病原菌のDNA配列は現代では完全に解明されたが、この菌(学名として今でも癩菌という言葉は残っている)の基本的な特徴を、現代医学の立場から説明された。その内容は、国賠法訴訟での医師の証言などを聴いているものには周知のことではあるが、長尾氏は、現在開発途上国でWHOが実際に投与している治療薬の見本を会場の我々に直接回覧しつつ話された。そのポイントは、癩菌が人体の外では生きられぬごく弱い病原菌である」こと、「感染しても滅多に発病しない」こと、「たとえ発病したとしても自然治癒するケースも多い」こと、病状が進んだとしても、現代医学ならば、「適切な多剤併用療法によって、病状に応じて、一ヶ月、半年、一年 くらいの内服薬投与で、後遺症を残さずに完治する」こと等である。

牧野 正直氏は、基調講演のテーマが大きすぎるので、その責に耐えないと言うことを断られた後で、「戦前戦後を通じて日本のハンセン病対策の主流であった強制終生隔離政策がなぜ選択されたか」という問題について幾つかのコメントをされた。氏は嘗てはそれを故光田健輔氏の医療思想に求めたていたが、それでは不十分であったという反省から、明治日本の富国強兵政策、とくに「強兵」と関連した「壮健な国民を育成すべし」という保健思想の存在をあげられた。療養所で、健常者のことを「壮健さん」と呼んでいたことにその名残がある。 次に氏は、日本の医療政策が間違った道を歩み始めた「ターニングポイント」を1909年の旧法の施行時点にまで遡り、その間違った一歩がなぜ踏み出されたか、何がそれを影響したかを論じた。氏は、まず第一回の癩国際会議の影響を論じ、当時の独逸の医療思想が、日本の絶対隔離政策に影響したことを指摘した。これに反して、第二回のノルウェーのベルゲンでの国際会議における患者の人権への配慮、第三回のストラスブルグでの隔離を制限すべしという思想は、日本には影響しなかったのである。日本の医療政策は、医学以外の要因、とくに日露戦争、第一次と第二次の世界大戦のような戦争時の異常なる世論と深く結びついていたのである。

曽我野 一美氏は、基調講演のなかで、終戦直後の予防法改正のための患者組織の全国的な運動に始まり、国賠法訴訟に到るまでの、紆余曲折と長き苦渋に満ちた御自身の経験を語られた。氏自身は、後遺症に苦しまれたとはいえ、プロミン投与ではなく、自然治癒されたケースであることも話された。しかし、治癒しても退所できないという事情は、現在でも解決されていないのであるから、まして終戦直後の状況に於いては、なおさらのことであったろう。曽我野氏は、結局、病友のために自治活動、ならびに入所者協議会の仕事をされたのである。氏はまた、インドなど諸外国のハンセン病がまだ多発している国の療養所の視察について話され、開発途上国の療養施設の厳しい状況についても触れられた。

休憩を挟んで、パネルディスカッションに移ったが、パネリスト8人にたいして時間が90分というのはいかにも短すぎる様に思った。参加者は、

司会が
金平照子 ハンセン病問題に関する検証会議座長
パネリスト
関山昌人  厚生労働省健康局疾病対策課長
山野幸成  法務省人権擁護局人権啓発課長
鈴木康裕  栃木県保健福祉部長 (当日は県議出席のため、代理として小林氏が出席)
平沢保治  多磨全生園自治会長
野原晃   全日本中学校長会理事・埼玉県中学校長会会長
小野友道  国立大学法人熊本大学理事・副学長
小原健史  全国旅館生活衛生同業組合連合会会長
江刺正嘉  毎日新聞社会部編集委員

今回のパネリストの人選は、政府機関の代表者を加えることによって、ハンセン病問題の啓発活動に本腰を入れてもらうところにあったのだろう。とくに、予算をなんとか獲得できた法務省、回復者の里帰り事業をおこなう地方公共団体、学校教育にハンセン病問題の啓発活動をおこなうべき教育関係者、そして、宿泊拒否問題に関連して、旅館業者の団体、最後にマスコミ関係者という人選である。

政府機関を代表して出られたパネリストは、みな若手であった。過去の歴史を学ばれて適切なる行政をおこなって貰いたいものである。宿泊拒否事件での法務省の対応など、人権に対する配慮を政府機関が率先して行うべきであるから。また、高齢化した入園者の里帰り事業も大切である。この点、栃木県保健福祉部長の代理としてこられた小林氏の説明は、話が、具体性に富み、印象に残った。

パネリストの発言では、スライドを使って、基本的な問題点を説明された小野友道氏の話が、記憶に残った。氏は日本皮膚科学会が、太田正雄氏や小笠原登氏の様な貴重な例外を除いて、ハンセン病の問題を、らい学会に委せきりであったことを反省された。日本のらい医療政策が、療養所中心であったことーここに過去の日本の医学界の大きな問題があったのである。現在の問題点としては、患者数の減少と共に、ハンセン病の分かる医師が少なくなり、医学教育でも重視されていないが、国際化によって、外国人の患者を診療する機会はまだあるわけだから、このような事態は反省されるべきであろう。

平沢保治氏は、基調講演の話のなかで、諸外国の療養所が日本よりも厳しい状況であるといわれた曽我野氏の発言を補足して、日本の療養所のほうが確かに金銭的には恵まれているが、貧しくとも療養者が子供をもうけることが出来、亡くなるときに家族がみとることが可能なインドの療養所と比較して、どちらが「人の心」を大切にした福祉であったろうか、と述べられた。これは、福祉というものが金をかければよいというものではないという事実を喚起した点で適切であった。また、平沢氏自身が、啓蒙活動をする場合は、郷里ではまだ本名を名乗れない状況であることという重い現実を指摘された。

このシンポジウムの会場には、「わたしたちに出来ること」という厚生労働省のパンフレットや、「全生園の史跡建造物を残そう」という「人権の森」構想のパンフレットも用意されていた。

「史跡建造物を残そう」というだけではなく、「全生園の森の樹木を大切にしよう」というパンフレットも用意して貰いたいと考えている私は、やや複雑な思いを抱いて会場を後にした次第である。
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鎮魂ということの意味

2005-03-12 |  宗教 Religion
前回のブログで「鎮魂の森を守ろう」と書いたが、そこでいう「鎮魂」の意味を更に考えよう。そのために、島比呂志氏が、1989年に書かれた「納骨堂のゆくえ」という文を手引きとしたい。(ハンセン病と真宗-隔離から解放へ Shinshu Booklet)
私は春秋の彼岸とお盆には、納骨堂詣りに出かけるのが習慣のようになっているのだが、最近ふと、患者のすべてが死に絶えたとき誰がお詣りするのだろうか、また納骨堂は、そのままそこに、いつまでも存在していられるのだろうかなどと、不安な思いに駆られることがある。それは私自身が70才を越えて、やがて死を迎えなければならないということと同時に、療養所自体も確実に終焉を迎えようとしているからだろう。・・・・私が納骨堂に不安を感じたのは、そこに療養所の歴史が集約されており、最も端的に終焉を物語る存在だからである。・・・・それは悲惨を極めた「隔離撲滅の記念碑」に他ならない。言葉を換えて言えば、生前何の抵抗もできなかった患者が、生命を代償として打ち建てた「抵抗の碑」とも呼べるだろう。いずれにしても、その存在は尊く重いものだが、それが将来もそこに在り続けられるかどうか、私達には何の保証もないのである。・・・・生存患者がいなくなり、施設が新しい目的に使用されるようになったときに、はたして納骨堂が安泰であるかどうか、誰にも分からないというのが実情である。そこで国に対して、納骨堂とその周辺を公園化して、永久保存の確約をさせることが急務ではないかと思うのだが、老人の取り越し苦労であろうか。
この文は15年前に書かれたものだが、島氏はそこで、療養所の納骨堂が「滅亡の種族のシンボル」であり「隔離撲滅の記念碑」に他ならないと言う過酷な歴史的事実を率直に見つめつつ、それを「生前何の抵抗もできなかった患者が、生命を代償として打ち建てた抵抗の碑」として捉えている。そして、この納骨堂が将来どうなるかという点について、国家は何の保証も与えていない事実を指摘し、そこを、差別と人権剥奪の歴史を思い起こすための「国立歴史公園」として残すことを提案している。

この文は、島氏が予防法廃止の政治運動に挺身する前のものであるが、彼は、その人権回復運動の精神を、小説「海の沙」の主人公の口を借りて、次の様な「全霊協宣言」なるものによって表現している。それは、療養所の自治会を横断する組織である「全患協」が、予防法撤廃よりも、予防法のもとでの療養所の待遇改善運動を重視していたことへの批判として書かれたものであるが、生者の団体である「全患協」を補完するものとして、納骨堂に眠る死者達の霊が語る「全霊協」の宣言文である。
全国国立癩療養所納骨堂ニ在籍スル諸氏ノ賛同ヲ得テ、ココニ全霊協発足を宣言スル。全霊協の目的ハ、生前、癩患者ナルガ故ニ奪ワレテイ人格ノ回復デアリ、ソレハ現存スル患者諸氏の人格回復ニヨッテ達セラレル。
この宣言で、島氏は、はっきりと納骨堂で眠る嘗ての仲間達の人格回復を訴えている。そして、全患協が「人間ノ尊厳」よりも金品や処遇の安定を求める運動のみに専念していることを批判し、今生きているものの「人格の回復」は、納骨堂で眠る過去の世代の「人格の回復」と不可分であることを宣言している。

島氏のこの宣言は、「鎮魂」ということの意味を改めて我々に反省させる。それは、死者達をいわば神棚に祭り上げ、単にその「霊を慰める」ということではない。それは、その人々の人格の回復、権利の回復を行うことなのである。なぜならば、生者の人格の回復は、死者の人格の回復と不可分であり、我々の内にあって生きている死者達への責任なのであるから。

私は前の投稿で「鎮魂の森を守ろう」と書いたが、そのときの鎮魂も、このような意味で理解しなければなるまい。それと同時に、全生園は今でこそ緑豊かな森に囲まれているが、これは決して自然林だけではないという事も記憶する必要がある。「倶会一処」によれば、全生園の森は戦争中に燃料としてあるいは防空壕建設のために伐採され、戦後しばらくの間は「丸裸同然」であったという。今の緑豊かな森の木々の多くは、ここを植林して「鎮魂の森」あるいは「人権の森」として後世に残そうという療養者達の努力の所産なのである。その森の木々には、それの世話をした過去の世代の思いが込められていることも忘れてはなるまい。
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鎮魂の森を守ろう

2005-03-11 |  宗教 Religion
全生園の樹木を守るべきことを訴えて、嘆願書を提出した国土交通省関東地方整備局は増築工事の責任者ですが、実際の工事が始まるのは秋以降のようです。現在は、周辺住民に対する公聴会などをひらき増築に関する了解を取り付けている段階とのこと。担当者のかたからは、

「関東地方整備局では厚生労働省からの委任を受け今年の秋頃からハンセン病資料館
の増築工事に着手します。その際には樹木の扱いにつきまして十分に配慮したいと
考えております。」

との回答がありましたが、問題の欅の木の伐採のことは、良く分からないので、資料館の敷地整備等のことを担当している厚生労働省健康局疾病対策課に問い合わせてくれ、という回答がありましたので、そちらのほうの担当者にも連絡を取り、さらに調査を続けています。

Mさんにも電話連絡をしましたところ、資料館の欅や所沢街道の樫の並木を伐採するなど、信じられない決定だと仰っていました。ただ、問題は、自治会がそれを昨年末に既に了承してしまった、ということですね。一度、伐採にOKした自治会決定を覆すのはきわめて困難です。自治会執行部の面子をつぶさないように活動すると言うことが難しい。

自治会は今生活している療養者の人権を守ることで精一杯であって、とても樹木の保全のこと、将来の人権の森のありかたのことまで手が回らないということなのかもしれません。

“園内に並木として移植するには3年かかる、都としては切るのが安上がりであろうが、五千人の霊の眠る鎮魂の森として、ただ光化学スモッグ対策とかいうのではなく残していきたい・・”

ビデオインタビュー「消えゆく並木」のなかでもっとも心を撃たれたのは、「鎮魂の森」という言葉でした。全生園の森は「人権の森」であるだけではなく「鎮魂の森」であり、納骨堂に眠る5000人近い方々が、故郷の森として植樹されたもの、そのかたたちの魂の安息を祈る場であると言うことに気づかされました。

「人権の森」の「人権」は、今生活している人を中心とすべき事は勿論ですが、嘗て療養所で、故郷を偲びつつ植樹され、現在納骨堂でともに眠っている5000人に近い方々の権利も含むのではないでしょうか。そのかたがたの思いを後世に伝えることが課題です。人権の森は「鎮魂の森」でもあるという言葉に、目を覚まさせられた思いです。

この問題をさらに深く考えるための視点として大事なのは、明治三十九年の政府の神社合祀令による鎮守の森の樹木伐採という事件です。たとえば、熊野古道にゆかりの六つの王子社(野中、近露、小広、中川、比曽原、湯川王子)をはじめ、十三社が廃止され、新たに「近野神社」を設けてご神体を移したとのこと。廃止した神社の巨木はことごとく伐採されました。

この神社合祀令にもとづく森林破壊に抗議したのが博物学者でエコロジストの先駆者ともいえる南方熊楠でした。地域の歴史の象徴であり、貴重な動植物の宝庫となる神社林を伐採すること反対した彼の考え方をもういちど思い起こしたい。ハンセン病療養所も、入所者の数の減少と共に、その整理統合ということが問題となってきます。その場合、療養所の納骨堂に眠るかたがたの権利を守るという視点、「鎮魂の森」を守るという視点が必要です。
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尹東柱の詩を読む

2005-03-10 | 日誌 Diary
                          序詩
  死ぬ日まで空を仰ぎ
  一点の恥辱なきことを、
  葉あいにそよぐ風にも
  わたしは心痛んだ。
  星をうたう心で
  生きとし生けるものをいとおしまねば
  そしてわたしに与えられた道を
  歩みゆかねば。

  今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)


   死ぬ日まで空を仰ぎ
   一点の恥辱なきことを、

二行目の読点「、」は、ハングルのテキストにはっきりと表記されているから、重要な意味があると思う。
    
    一点の恥辱なきことを(誓う・願う・祈る)

というように動詞が省略された祈願文、宣誓文のようであるが、それだけではなく、作者には、そのような理想を宣言するだけでは尽くされない思いがあって、それが、読点「、」に込められている。

    死ぬ日まで空を仰ぎ
    一点の恥辱なきことを、
    葉あいにそよぐ風にも
    私は心痛んだ。

のように、「私は心痛んだ」まで続く思いがある。つまり

    死ぬ日まで空を仰ぎ
    一点の恥辱なきことを(誓う私ではあるが、そうではあっても)
    葉あいにそよぐ風にも
    私は心痛んだ。

「空」は「天」とも訳されているが、超越的なるものの象徴である。韓国語のHaneulは「神」の意にも用いるというし、中国では、キリスト教は「天主教」と訳されていた。「天にたいして恥じるところがない生涯」とか「天が知る、地が知る、我が知る、秘密に悪を行うことは出来ない」というような言葉は、東洋の古くからの格言である。これに対して、「風」は、相対的な関係性のなかに生きる現実の困難さを象徴しているようだ。

この詩を、作者はいつ書いたのだろうか。

茨のり子さんの解説によると、日本に留学する前の作らしい。しかし、この詩は、彼のその後の運命を予言しているような響きを感じる。彼自身の中に自分の将来歩むべき道への予感の様なものがあったのではないか。

私は韓国語のことは良く分からないが、伊吹郷さんが「生きとし生けるもの」と訳した行は、直訳すれば「死に行くものすべてを」という意味だという。ここは両義的なのだ。生きることと、死すべき定めにあることは同じ事なのだから。そして、それだけではなく、もうひとつ「死ぬことのできるもの」あるいは、「いつでも、死を選らぶことのできるもの」という意味もあると思う。そうであるがゆえに、死の定めにある人間には、「生きとし生けるものすべて」を、掛け替えのない「いのち」として「いとおしまねば」という思いが生まれてくるのではないか。

「私に与えられた道を歩みゆかねば」というとき、その道がどんなものであるのか、神ならぬ我々には分からない。しかし、作者が、その道を、自己の死への予感と共に、すべての生あるものをいつくしみながら、また自己の弱さを見つめながら、「義の道を歩み行かねばならない」といっていることに間違いはないと思う。

(ハングルテキストの写真はてじょんHPからの転写です)
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過去と将来の世代に対する配慮と責任

2005-03-09 |  宗教 Religion
全生園=人権の森の樹木を守ろう

ガラクタ箱さんの制作されたビデオインタビュー 消えゆく並木を拝聴し、過去と未来の世代に対する配慮と責任ということを考えた。

過去の世代に対する責任はーここでの文脈に即して言えば-樫、欅、楓、桜、柿など全生園の様々な樹木を植えた人々に対する配慮から始まる。これらの樹木を植え、それらを育てた人々が、どのような思いを込めて世話をされたか、それを思い出すと言うこと。

ビデオの中でもお話しがあったが、1979年に刊行された「倶会一処」によると、全生園の「緑化」活動の目的は、東村山の地域住民のために、豊かな緑の森=人権の森を残すためであったとのこと。これは、過去の療養者の方々が-これを書かれた方々の多くはもう帰天されたが-将来の世代のことを配慮して植林されたものなのである。

樹木を植えるということは、療養所の方々が、地域の住民のために、それも現在の世代だけではなく、将来の世代のためにも為された貴重な仕事の一つであった。

都市化が進み緑が少なくなっていく東村山市のなかにあって、嘗ての武蔵野の面影を伝える全生園を保存すべきことは、いわゆる「環境倫理」の要請であるが、その根本には、過去・現在・未来の世代の繋がりを大切にする考えがある。療養所の方々は、この環境倫理の考え方を先取りして、すでに三〇年も前から実践されていたのである。

現在、全生園には「隠れた史跡」と呼ばれる案内板を多くの箇所で見ることが出来る。それは、「我が国におけるハンセン病対策の過ちを振り返って欲しい」という願いから建てられたものであるが、これもまた、我々が将来の世代に残し、語り伝えていくべき史跡である。それは過酷な事実を物語るものであるが、その過去の事実を直視すべきことを、この案内板は教えている。これらの史跡と共に、人権の森として、過去の療養者から我々に残された全生園の樹木を守り、将来の世代への彼等のメッセージを伝えることは、私達の責務ではないだろうか。
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全生園=人権の森の樹木をまもろう 2

2005-03-08 |  宗教 Religion
全生園では、資料館の増設に伴う欅の木の伐採の他に、もうひとつ所沢街道に沿う樫の並木を伐採する計画が進められています。こちらは、道路の側の歩道と自転車道を拡張することが理由になっています。歩道を拡張することは、お年寄りや車椅子を使うかたがたの爲になることで、それ自身は歓迎すべき事ですが、樫の並木を伐採せずに問題を解決する方法を講ずるべきであったのでは無いでしょうか。関係者からの情報によると、樫の並木の内側に仮歩道をつくり、樫木を移植するオプションも検討されていたようです。そのためには、全生園の敷地の一部を東京都に譲渡しなければならず、また樹木の移植ということ自体繁雑な作業であるので、もっとも簡便な道として、樫の並木を伐採することが決定されたとのこと。

しかしながら、敷地の一部を東京都の管理下に置き、樫の並木を残しつつ、その内側を歩道に解放するというプランは、もういちど検討する価値があると考えます。そうすることによって、全生園を「人権の森」として残そうとされた1970年代からの療養者たちの願いにもっともよく答えることが出来るのではないでしょうか。ここで、全生園で緑化委員として長きにわたって、植樹や樹木の世話をされてきた方のご発言をビデオインタビューとして記録したものがありますので、是非ともお聞き下さい。

ビデオインタビュー 消えゆく並木
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全生園=人権の森の樹木をまもろう

2005-03-07 |  宗教 Religion
(ハンセン病資料館の増築工事にともなう樹木伐採に抗議する次の様なメールを、工事担当者である、国土交通省関東地方整備局営繕部宛てに送りました。)

国土交通省関東地方整備局営繕部 御中

多磨全生園 ハンセン病資料館の増築の担当責任者の方にメールを致します。
先週末に、ハンセン病資料館前のバス停の側の欅の木が伐採されているのを目撃致しました。
これは、昭和15年に植樹された欅ですから樹齢65年、全生園の歴史をみつめてきた樹木です。ご承知かと思いますが、全生園の樹木は、療養所の緑化委員のかたがたによって植樹されたものです。1979年に刊行された多磨全生園患者自治会篇の「倶会一処」によりますと、これらの樹木は、

「地域住民から、有形、無形の援助を受けてきたその感謝のしるしに、開発によって緑の少なくなった東村山市に森を残しておく。1971年より、11万坪の敷地に植樹を始めた。私たちが地上をさるとき、センターと森が残るであろう。」

とあります。現在、療養者は平均年齢が約80歳といわれていますが、私どもは、多磨全生園を「人権の森」として残すことを考えられた入園者の方のご意志を尊重すべきである考えております。

資料館の増築ということも大切な事業とは思いますが、増築にさいして、全生園の歴史と深い関わりのある樹木を、工事の便宜のために簡単に伐採しないことを切に求めます。

樹木の移植等のことなどについては相応のご配慮はされたと思いますが、停留場のそばの欅の木を伐採する必然性があったのでしょうか。

樹木もまた、それを植えた人々と「共に生きてきた」歴史があります。伐採することは簡単ですが、一本の木を育てるには半世紀を要します。今後、増築工事をされる際に樹木の「いのち」を大切に配慮されて行われることを切に希望致します。

全生園=人権の森 の樹木のためにー

(署名)  田中 裕       
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共生と創造 2

2005-03-06 | 日誌 Diary
「共生と創造」の展示から、枯蓮の写真と、それによせて詠まれた短歌を紹介します。下の写真をご覧下さい。







一茎の蓮の中に込められた履歴の重さを感じました。この蓮の表情の中に人格的なるものを直観します。蓮は生物学的には人ではありませんから、それを人格的存在と呼ぶのはおかしいと思われるかも知れませんが、一個の人格である我が汝と呼びかけうるものは、すべて人格的なるものであると思います。この蓮は、そういうものとして沈黙の中に祈りつつ、無言の言葉を語ります。

      蓮の實の蓮物語耳澄ます
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共生と創造

2005-03-05 | 日誌 Diary
御殿場で開催されたイベント「共生と創造」展を見てきました。このイベント、「国立駿河療養所・入所者自治会」主催ですが、「ハンセン病をもっと知って下さい」という啓蒙活動の一環ですが、作品展の中で、「共生と創造」をテーマにした次の展示がとくに印象的でした。


右側の写真の枯れ蓮が活けてある花器の奥のパネルに書かれた詩を拡大したものが左側の写真です。

「共に生きる」ということ、これは人と人だけでなく、人と生きとし生けるものすべてにも及びます。一茎の枯蓮にも、悠久の時の流れの中で生かされてきた履歴があります。それは、私達に沈黙の声で語っています。その声に耳を澄ませ、応答するときに、人は過去と未来のすべての存在と「共に生きている」というメッセージを受け取る-この展示からそんなことを感じました。
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「閑雅な食欲」という二つの詩

2005-03-03 |  文学 Literature
東條耿一は昭和15年に「閑雅な食欲」という詩を「山桜」に発表しているが、このタイトルそのものは、大正12年刊行「青猫」に収録されている萩原朔太郎の詩から借りたものである。表題が同じと言うことは、耿一が朔太郎の影響を受けたことを窺わせるが、その内容は非常に異なっている。そこで、この二つの詩を比較することによって、晩年の東條耿一の詩の世界の特質を考えてみたい。
閑雅な食慾

萩原朔太郎


松林の中を歩いて
あかるい氣分の珈琲店(かふえ)をみた。
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。
をとめは戀戀の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほふくを取って
おむれつ ふらいの類を喰べた。
空には白い雲が浮んで
たいそう閑雅な食慾である

===================

閑雅な食欲

東條耿一


食卓の上に朝日が流れてゐる
どこかで木魚の音がする
読経の聲も微かに聞える
わたくしは食卓の前に
平らな胡座をくんで
暫くはホータイの白い
八ツ手の葉のやうな自分の手をながめる
いつの間にこんなに曲つてしまつたらう
何か不思議な物でも見る心地である
わたくしはその指に
器用に肉又(フォーク)をつかませる
扨て、と云つた恰好で
食卓の上に眼をそそぐ
今朝の汁の実は茗荷かな
それとも千六本かな
わたくしはまづ野菜のスープをすする
それから色の良いおしん香をつまむ
熱い湯気のほくほく立ちのぼる
麦のご飯を頬ばりこむ
粒数にして今のひと口は
どのくらゐあつたらうかと考える
わたくしは療養を全たうした
  友のことを考へる
療養を全たうしようとしてゐる
  自分の行末について考へる
生きることは何がなし
  嬉しいことだと考へる
死ぬことは生きることだと考へる
食事が済んだら故郷の母へ
  手紙を書かうと考へる
考へながらもわたくしの肉又は
まんべんなく食物の上を歩きまわる
「有り難う」とわたくしは心の中で呟く
誰にともなくおろがみたい気持ちで・・・・・

九月某日
(昭和十五年「山桜」二月号)
=======================

光岡良二は、「昭和10年代の全生園作家達」というエッセイのなかで、全生詩話会で盛んに詩を発表していた頃の東條は「背徳的で、朔太郎やボードレールに傾倒していた」が「病勢が次第に進み、盲目になるに及んで、静謐なカトリック信仰に入っていった」と書いている。 「詩人から信仰者へ」という要約はやや図式的に過ぎるし、光岡自身が晩年の東條を直接には知らなかったということに留意する必要があるが、初期の習作時代に東條耿一が様々な詩人達の影響を受けたことは明らかであるし、とくに東條環や環眞沙緒子の名前で投稿した詩編には、「朔太郎やボードレール」の影響は確かに認められる。

しかし、後期の詩群、とくにここで紹介した東條の詩には、「環」時代の詩とははっきりと異なった傾向が顕著になっている。初期の詩の特質は、自己が療養所で詩を書いていると言うことを否定するようなところがある。むしろ、療養所の現実を離脱し、様々な「仮面をつけて」詠うこと-詩的言語の世界のみに没入し、そこに虚構されたもうひとつの現実を生きること-が希求されている。これに対して、北條民雄がなくなった後に書かれた詩群においては、療養生活をしている自己の現実そのものを凝視し、そこに素材を求めることが多くなっている。

そのことは、昭和15年に書かれた東條の詩「閑雅な食欲」にもよく現れている。嘗て彼が影響を受けていた萩原朔太郎の詩から、晩年の東條耿一の詩がどれほど隔たっているかを見てみよう。

朔太郎の詩「閑雅な食欲」の場合は、あくまでも、現実には存在しない「追憶の夢の中の珈琲店」での食事が、言葉によって造形されている。これに対して、東條耿一の詩の場合は、療養所での朝の食事の有様が、そのまま詠まれている。戦争直前の物資の欠乏している頃の療養所の食事がどれほど貧しいものであったか、我々は当時の記録から知っている。古米と麦飯、一汁一菜の貧しい食事、刑務所の場合と大差のないものだったであろう。それを朔太郎がかつて追憶の中で詠った詩のイメージを借りて東條は「閑雅な食欲」をもって「おろがみたい気持ち」で感謝とともに頂いている。

戦争中の食糧難の時代、飢えの体験、それらを直接経験でなく、あとから回想するのであれば、我々は過ぎ去ったこととして、懐かしむことも出来るだろう。追想の場合は、現在の直接性から距離を置くことができるから。東條の詩「閑雅な食欲」の特徴的なことは、そのような苦しい現実を、我々が過去を回想するときの様な平静さで、作者が受容していることではないか。ユーモアとは、「・・・にもかかわらず笑うこと」であるとは、ホスピスや緩和医療の臨床の中で思索されたデーケン氏の言葉であるが、そのような「逆境に於けるユーモア」をこの詩から感じる。

私は朔太郎のオリジナルな詩よりも、東條の書いた「閑雅な食欲」のほうに惹かれる。詩の技法とかイメージの配合などの点では、たしかに東條は随所で達治や朔太郎から学んでいるが、東條の詩には技法以上のものがある。藝術作品には「意匠」も大切ではあるが、それ以上に、一人の人間が詩を書くときの根本的な視座のほうを問題にしたい。

たとえば朔太郎の「閑雅な食欲」は、現在そのものを詠んでいるのではなく、「夢の様な追憶」の中で、ある意味で理想化され美化された過去の情景が詠みこまれている。これにたいして、東條の場合は、過去でも未来でもない、「現在」の現実そのものを強く感じる。ただ、その現在の現実とは、たんなる移ろいゆく現在ではない-すぐ過去になり、未知なる未来の不安に戦いている相対的な「現在」ではなくなっている。敢えて言うならば、自分の療養生活の一こまーこまの移ろいゆく姿を、東條は、揺れ動くこと無い「現在」-絶対的な「現在」-から、見ている。

     生きることが何がなし
    嬉しいことだと考へる
    死ぬことは生きることだと考へる

このさりげなく挿入された言葉に、私は惹かれる。とくに「死ぬことは生きることだと考へる」の一行に。
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渡辺清二郎遺稿集より

2005-03-02 |  宗教 Religion
検証会議の最終報告書の前書きと後書きを読み、その内容を目次で確認した後で、なぜか、故渡辺清二郎氏の遺稿集「いのち愛(かな)しく」を読み直したいと思った。渡辺清二郎氏(大正4年-昭和49年)は、東條耿一の義弟であり、昭和9年に神山復生病院で受洗、昭和11年に多磨全生園に転入園された。目が不自由であった晩年の東條耿一の手記が執筆掲載されるにあたっては清二郎氏の多大な助力があったと思われる。

渡辺清二郎氏は、昭和23年9月から昭和49年6月に58才で逝去されるまで、全生園のカトリック愛徳会の会長であった。そしてそれと同時に、昭和40年までの間、自治会委員、患者代表、初代の全国患者協議議長などを勤め、戦中戦後の困難な時代の中で、当時の療養所の劣悪な居住環境の改善、看護切り替え交渉などにあたられた。

キリスト者の立場からいかにして人権の抑圧に対して戦うか-それは大きな課題だ。信仰と人権の問題は、理論上は区別されるが、実践の上では、一人の人間の中で統一されねばならない。ここには、先人の苦闘のあとから学ぶべき事が多々あると思う。

その点で、この遺稿集の中に収録されているF神父の書かれた「さかしらごとの終わりに」という文は、故清二郎氏の面影を彷彿とさせ、30年後にそれを読む私自身を叱咤している様にも感じられるのだ。F神父は、渡辺さんを「師」と呼んで、次の様に書いている。
忘れもしない6月10日。渡辺さんが世を去って行く前夜は嵐だった。私はゴーゴーと降りしぶく恩多街道を全身ぬれねずみになり、久米川をさして歩いていた。傘は強風に煽られてこわされ、大粒の雨に叩かれて私はなかば放心したようになって重い足をひきずっていた。そのときだった。耳をつんざく様な雷鳴の中で、突き上げる様にして師の言葉が蘇ってきた。それは、偉大な信仰者の死の予告だったのかもしれない。
「飼い殺しにされたままで、生きのびてよいものか」
言葉が魂に宿るものの真の音声だとしたら、乾坤一擲、一筋に生きた人の独白に心耳を澄まさずにおられようか。温和な渡辺さんの表情が、このときだけは一瞬険しくなり、鋭い眼光で私を睨みつけたのを覚えている。(中略)研ぎ澄まされこの気配こそ、義の爲には世と一線を画し、妥協すること知らなかった人間・渡辺清二郎の鋭い眼光ではないか、と。それのみか、私は見ずにはすまされない。炬のようにみはる師の瞳の奥に、この病を得、人に気取られてはならぬ旅路の果てに、柊の垣内で人知れず死んでいった僚友幾千の怨霊にも似た凄惨な生きざまを。
私は30年前に書かれたこの文章を再読した。検証会議がいま問題にしていることは、30年前に、まさに渡辺氏が格闘していた事に他ならないのだ。そして、その時点ですら、あまりにも我々の対応が遅すぎたという事実を直視し、「さかしらごとの終わりに」というF神父の言葉こそを肝に銘じなければなるまい。

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ハンセン病問題にかんする検証会議

2005-03-02 |  宗教 Religion
昨日、東京永田町の星陵会館で開催された「ハンセン病問題に関する検証会議」を傍聴しました。私は午後二時から仕事が入っていたので、残念ながら途中で退席しましたが、幸い、最終報告書の全文を収録したCDは受領できたので、その内容を紹介します。

2004年の4月に配布されたこの検証会議の(中間)報告書は342頁でしたが、今回の最終報告書はPDFファイルで902頁あり、そのほかに別冊として、「ハンセン病問題に関する被害実態調査報告」が507頁、「胎児等標本調査報告」が40頁あり、なかなか読み応えがあります。(当日は、100頁の要約版も配布されました)

この報告書についても、時間が出来たときに、ブログでそれぞれの論点についてコメントしたいと思っています。

ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書

目次


第一 熊本地裁判決と真相究明…3頁

第1 争点についての判示
第2 熊本地裁判決の意義
第3 同判決と真相究明

第二 1907年の「癩予防ニ関スル件」…9頁
―強制隔離政策の開始と責任―

第1 近世の「癩」病観とその形成過程
第2 近代のハンセン病観
第3 強制隔離政策の開始と療養所の実態

第三 1931年の「癩予防法」…73頁
―強制隔離の強化拡大の理由と責任―

第1 「癩予防法」の成立
第2 15年戦争期の衛生政策とハンセン病対策
第3 「国民優生法」と「癩予防法」改正案
第4 「体質遺伝」をめぐる議論

第四 1953年の「らい予防法」…83頁
―強制隔離の強化拡大の理由と責任―

第1 GHQの対日ハンセン病政策
第2 強制隔離強化拡大の理由と責任
第3 藤本事件の真相
第4 藤楓協会および皇室の役割

第五 らい予防法の改廃が遅れた理由…155頁

第1 問題の所在
第2 立法府の対応
第3 行政府の対応
第4 日本らい学会及び厚生行政の対応
第5 政策および医療の客体としての患者・入所者
第6 全患協および自治会側の事情
第7 1976年の全国療養所所長連盟「らい予防法」改正案が採用されなかった理由
第8 提言

第六 ハンセン病に対する偏見・差別が作出・助長されてきた実態の解明…171頁

第1 戦前の無癩県運動
第2 戦後の無癩県運動

第七 ハンセン病政策と優生政策の結合…191頁

第1 ハンセン病患者に対する断種の適用
第2 結婚を媒介とした療養所運営
第3 断種の根拠
第4 ハンセン病患者に対する断種の実践
第5 断種の合法化に向けた動き
第6 ハンセン病患者を対象とした断種合法化の失敗
第7 優生保護法によるハンセン病患者を対象とした断種の合法化
第8 断種の真相
第八ハンセン病強制隔離政策による被害の全体像の解明
別冊『被害実態調査報告』参照

第九 全国の国立療養所に残された胎児標本に関する検証
別冊『胎児標本等調査報告』参照

第十 ハンセン病医学・医療の歴史と実態…211頁

第1 ハンセン病医学とハンセン病対策
第2 近代ハンセン病医学の誕生
第3 近代ハンセン病医学・医療の発展
第4 日本の近代ハンセン病医学の誕生と歴史的変遷
第5 ハンセン病療養所の医療水準
第6 療養所以外のハンセン病患者の処遇
第7 ハンセン病療養所における精神医学的問題
第8 ハンセン病および精神疾患患者についての比較法制処遇史

第十一 ハンセン病強制隔離政策に果たした医学・医療界の役割と責任の解明…285頁

第1 強制隔離政策の推進
第2 断種政策の推進
第3 ハンセン病の治癒性
第4 二重の差別と迫害
第5 啓発活動に果たした専門家の責任
第6 再発防止の提言

第十二 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任(1) …303頁

第1 法曹界―法律家・団体の対応・責任
第2 福祉界

第十三 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任(2) …381頁

第1 教育界
第2 宗教界

第十四 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任(3) …457頁

第1 患者運動
第2 マスメデイアの対応・責任

第十五 国際会議の流れから乖離した日本のハンセン病政策…609頁

第1 国際会議の流れと日本のハンセン病政策について
第2 米国におけるハンセン病政策の変遷について

第十六 沖縄・奄美地域におけるハンセン病問題…657頁

第1 沖縄・奄美地域のハンセン病隔離政策の検証の意義
第2 隔離政策の始まり
第3 ハンセン病患者の沖縄戦
第4 アメリカ統治下の奄美の強制隔離政策
第5 アメリカ統治下の沖縄の強制隔離政策

第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策…705頁

第1 韓国
第2 台湾
第3 日本占領地域
第4 太平洋地域
第5 「関東州「満州」

第十八 アイスターホテル宿泊拒否事件…735頁

第1 事実経過
第2 各種文書など
第3 宿泊拒否事件関係新聞の記事見出一覧
第4 社会の動きなど
第5 考察
第6 検証会議からの意見照会に対する回答
第7 再発防止

第十九 再発防止のための提言…765頁

第1 患者・被験者の諸権利の法制化
第2 政策決定過程における科学性・透明性を確保するためのシステムの構築
第3 人権擁護システムの整備
第4 公衆衛生等における予算編成上の留意点
第5 被害の救済・回復
第6 正しい医学的知識の普及
第7 人権教育の徹底
第8 資料の保存・開示等
第9 「ロードマップ委員会(仮称)の設置」

第二十 療養所における検証会議実施報告等…789頁

第1 療養所における検証実施報告
第2 元三重県「専任職員」に対する聞き取り
第3 鳥取事件に関する聞き取り

関連資料

資料1 近現代日本ハンセン病関係年表及びハンセン病文書等…853頁


第1 近現代日本ハンセン病関係年表
第2 国、自治体、園の所蔵資料

資料2 検証会議設置及び活動等関係…877頁

第1 検証会議設置等関係文書
第2 検証会議及び同検討会委員名簿
第3 検証会議活動記録一覧
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菅野淳さんのことなど

2005-03-01 | 日誌 Diary

     白梅の御堂や風は何処から

   photo by ガラクタ箱さん 

昨年の9月4日に全生園の愛徳会聖堂で東條耿一詩集の朗読会を開催してからもう半年近く経過した。その後、晩年の東條の晩年の手記を戦前の雑誌「聲」で発見したこと、また昭和9年代の詩誌に投稿した東條の詩群が幾つか見出されたので、村井澄枝さんとともに彼の作品集をあらためて編纂中。遺漏のない様に校正の作業を充分にしたあとで、今年の9月までには何とか編集を終えたいと思っています。

日曜日の愛徳会のミサのあとで、おもいもかけず東條耿一の妹の渡辺立子さんとご縁のあった菅野淳さんの消息を伺いました。渡辺立子さんのエッセイにはF神父とあるので気が付きませんでしたが、菅野さんは典礼聖歌の作詞者の一人です。菅野淳とはペンネームですし、しかも典礼聖歌の楽譜には作詞者KJと書かれているだけなので、私はその名前を全く存じ上げませんでした。

現在全生園の資料館に展示されている北條民雄日記(昭和12年度)は、菅野さんから寄贈されたものです。これは、もともと自筆本が検閲によって没収されることを危惧した東條耿一が保管していたものでした。東條の数少ない遺品でしたが、それが渡辺立子さんを通じて菅野さんのもとに送られていたという事情があります。東條耿一詩集朗読会の時にもお話し頂いた新井さんが、その自筆本に基づいて復刻本を出されたのが昨年のことでした。

菅野さんの書かれた文章は、東條耿一の義弟の渡辺清二郎さんの遺稿集でも読ませて頂きましたが、戦後間もない頃の全生園のこと、信仰と人権の狭間で苦しまれた司祭のこころの偲ばれるものでした。そのご菅野さん御自身は還俗されましたが、菅野さんの作詞された「風はどこから」(作曲高田三郎(MIDI)や「ごらんよ空の鳥」は、いまも教会でよく歌われています。

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