ガラシアの悲劇的な最期について、同時代の報告書として重要な一次資料は、Valetin Carvalho S.J. が編輯した1600年10月25日付の日本年報書翰(British Museum, Additional manuscripts 5 859,ff. 138v.-140v.)です。この記事を収録したGurreiroの冊子(1603)が上智大学のキリシタン文庫に保存されているので、それをアップしておきます。それによると...
「(細川忠興は)諸将と共に内府様〔家康〕に従って関東の戦に赴いたのであるが、彼は家老小笠原殿以下家臣の者の監督に任せて、奥方と家族の者を〔大阪に〕残していった。越中殿はは常にそうであるように、万事を名誉のために心がけていたから、家を離れるときには、いつも警備として残してある家老及び家臣に命じ、もし留守中に何か奥方の名誉に関する危険が勃発したらば、日本の習慣に従って、まず奥方を殺し全部の者が切腹して死を共にすべきであるとしてあった。このときにも同様のことを家来の者どもに命じたのであった。
さて、そのあいだに奉行〔石田三成〕は越中殿の邸に使いをやって、留守の者に対して、本日より戦争が始められたから、殿の奥方ガラシア夫人を殿の将来の恭順の人質として引き渡すべしと命じてきた。これに対して家老等は奥方は絶対に渡せないと返答した。そこで奉行が手早く邸を包囲して奥方を捕らえようとしていることを知ると、一同は奥方の名誉のために、殿の命令を実行しようと決心した。そして事態の急をいちはやくガラシア夫人に知らせ、殿から命じられていることをそのまま申し上げた。奥方はさっそく、何時もきちんと綺麗に飾られている礼拝所に行き蝋燭を点させ、跪いて死の準備の祈りを捧げた。
ようやく、奥方は礼拝所からたいそう元気にに出てきて、腰元どもを全部呼び集め、自分は殿の命令であるからここで死ぬが、皆の者はここを退去するようにと言い渡した。一同はそこを去るにしのびず、むしろ奥方と共に死出のお供をしたい希望を述べた。日本ではこういう場合、主人と死を共にするのが臣下の名誉であり、また習慣であったからである。
ガラシア夫人は真に召使いたちから慕われていたので、召使たちが死の供をしたいと望んだのであったが、奥方は無理に命じて邸の外に逃げさせた。その間に家老小笠原殿は家来共とにいっしょに全部の室に火薬をまき散らした。侍女達が邸を出てから、ガラシア夫人は跪いて幾度もイエズスとマリアの御名を繰り返しとなえながら、手づから(髪をかきあげ)頸をあらわにした。その時、一刀のもとに首は切り落とされた。家来達は遺骸に絹の着物を掛け、その上に更に多くの火薬をまきちらし、奥方と同じ室で死んだと思われる無礼のないように、本館のほうに去った。そこで全員切腹したが、それと時を同じくして火薬には火がつけられ(大爆音と供に)これらの人々と共にさしもの豪華な邸も灰燼に帰したのである。
ガラシア夫人の命令によって邸の外に逃された侍女たちの外は、誰一人として逃れようとしたものはいなかった。これらの女達は泣きながら、パアデレ・オルガンチノのもとにいって、この事件の一切を知らせた。その報知を得て、我々は非情に悲しみ、かくも人の鏡として、とくに改宗してからはまれにみる徳の高い高貴な夫人を失ったことを非常に悲しんだ」
(ヘルマン・ホイベルス神父『細川ガラシア夫人』資料篇の邦訳に従いました)
主人の忠興の命に従って自決することが、名誉を重んじる當時の武家の妻と家臣の「法」であったということを當時の宣教師達が、的確に理解していたことを、上に引用した宣教師の書翰がよく示しています。 また、侍女達が殉死を願い出たときに、ガラシアがそれを決して認めず、邸の外に逃げさせたという記事が重要で、彼女が侍女達の殉死を決して許さなかったことを示しています。結果として侍女達は、ガラシアの死の状況を後世に伝える証言者の役割を果たすことになりました
朝日新聞記事にもどりますと、そこには「家臣に自らを殺させたのであれば、実質的に自殺と何ら変わらないではないか。それだけでなく、家臣に殺害を犯させたことになりはしないか?」という青山学院大学の安廷苑先生の疑問が引用されていました。
當時の宣教師の書翰を見る限り、家臣にガラシアを殺害するように命じたのは細川忠興であり、ガラシア本人ではなかったわけですから、ガラシアの死は、決して「自殺」ではありません。関ヶ原の合戦の敗軍のキリシタン武将の小西行長は、切腹を拒否して斬首されましたが、これは武士の名誉よりもキリスト者としての筋を通したわけで、彼が「自殺」をしたなどという宣教師はいなかったでしょう。
ガラシアと宣教師達は、彼女が受洗する前から、すでに何度も何度も「自死が許されるかどうか」について、書翰のやりとりをしていました。たとえば、逆運にたった秀次と親交があった夫忠興の生命が危うくなったとき、ガラシアはオルガンチノ神父に「夫の命令を受けた場合に自害することが許されるか」と尋ねています。神父の答えは「どんな事情があっても自殺は決して許されず、いつでも大罪になる」と答え、ガラシアは、それにたいして「パードレの裁断によって行動する」と答えています。このオルガンチーノが、のちに意見を変えて自殺を許容するに至ったとは考えにくい。むしろ、彼は、ガラシアの死を自殺とは決して見ていなかったというべきでしょう。 武家のしきたりによって日本社会では切腹が名誉ある死であると云うことは宣教師達は良く理解していましたが、洗礼を受けたクリスチャンが自殺することは許されないという原則は曲げなかったように思います。
しかしながら、ここにはさらに考えるべき問題が残っています。 嘗て、遠藤周作は、「日本の聖女」という短編の中で、自殺せずにあくまでも生き伸びる道を選ぶのがキリスト教の教えなのだから、ガラシアは「日本の聖女」ではあっても、キリスト者と果たして云えるのだろうかという意見を述べたことが思い出されます。「聖女」と祭り上げられるよりも、生き延びてほしかったという気持ちは私にもありますが、彼女の置かれていた状況は、そんな生やさしいものではなかった。ガラシアがなくなるまえにアヴェマリアとキリストの御名を称えていたという記事に着目して、引き続き、「なぜガラシアは、細川邸から逃げださずに、避けがたい死を受容したのか?」という問題を考えていきたいと思っています。
「細川ガラシア」は、江戸時代末期までは、「細川忠興の夫人」と呼ばれ、洗礼名をもつキリスト教徒であると云うことは全くと言って良いほど知られていませんでした。
たとえば、寛文8年(1668)に儒者の黒沢宏忠が出版した「本朝列女傳」の「細川忠興孺人(孺人=身分高き人の夫人)」では、武士の妻の鏡として、貞女にして列女(忠義の心をもつ気丈な女性)」として称賛されています。それによると、彼女は石田三成の使者に向かって、「源君之命東関に在り。我其の夫人なり。如何に秀頼に従はんや。盛衰を以て節を改めず。存亡を以て心を易えざるが武士の家法なり。偶々武士の家に生まれ、豈家法を辱めんや」と述べて、武家の作法に則って自決したと書かれています。
「戦いに勝利するか敗北するか、その盛衰によって節を曲げずに、生きるか死ぬかの存亡の時にも心を変えないのが武家の法」
というあたり、ここでは、忠興夫人は、「当代の節女にして、婦人でありながら義のなんたるかを知っていた」サムライの妻の理想とも云うべき人物として称賛され、彼女を称える頌(細川内室 當時節女 婦而有儀・・・)が添えられてます。
島原の乱の30年後、キリシタン...を「邪宗門」と信じ厳罰に処していた時代の儒者であった著者が、もし「忠興夫人」がクリスチャンであったということを、知っていたら、さだめし吃驚仰天したでしょう。
日本で儒教的な観点から「武家の妻の鏡」として称賛されていたのとほぼ同じ頃、ヨーロッパでもガラシアの名前は、イエズス会の宣教師達の書簡によって知られており、彼女を主人公とした物語が語り継がれ、バロック・オペラとして1698年、オーストリアのウイーンで、ハプスブルグ家の皇帝レオポルド一世とその家族の前で上演されました。
そこでは、彼女は、キリスト教的な美徳(信仰・希望・愛)の鏡であり、逆境にあっても不変の信仰を貫いた「丹後の国の勇敢なる王妃」として称賛されています。
ヨハン・ベルハルト・シュタウト作曲のこのオペラの楽譜が、ウィーン国立図書館に所蔵されていることがわかったのはごく最近のことで、上智大学の故トーマス・インモース教授の助言を受けたウィーン在住の日本人女性が発見、その源譜を託された沖縄音大の教授の豊田喜代美氏が校訂し、上智大学創立100周年記念事業のひとつとして2013年に紀尾井ホールで蘇演されました。
幸い、鈴木伸国神父を通じて上智大の総務課からこのときの音声資料を拝借したので、私もそれを聴くことができました。いかにも十七世紀らしいバロックオペラで、ビバルディの宗教音楽を聴いているような感じでした。蘇演では声楽家でもある豊田先生はじめとする出演者が日本の衣装を着け、動きも日本風の振り付けと演出が為されていましたが、歌詞はラテン語でした。
このオペラの脚本は、1627年にフランス人イエズス会士のフランソワ・ソリエがまとめた「日本教会史」がもととなっており、そのオランダ語版が1667年にオランダ人イエズス会士コルネリウス・アザルによってアントワープで刊行、さらにそのドイツ語版が1678年にウィーンで、「丹後の女王の入信とキリスト教的美徳」というタイトルで出版されています。「丹後の王妃ガラシア」の物語は1838年にフランスでも公刊されていますから、十九世紀初め頃までは、ガラシア(Gratia)の名前は、フランス、オランダ、神聖ローマ帝国で語り継がれていたようです。
なぜ日本の儒教の学者によって「不変の忠誠心をもってサムライの家の掟を辱めなかった、貞女の鏡」と称賛され、ヨーロッパのカトリックの信仰の世界では「信仰・希望・愛のキリスト教的美徳tと不変の信仰を貫いた聖女」として物語られてきたのでしょうか。
二つの異なる世界(カトリックの精神世界と武士道の世界)を共に生きたガラシアの思想と生き様は、これまで多くの人々の関心の的となってきましたが、そのなかでも私が、もっとも信頼しているのが、厳密な文献批判の作業からガラシアの実像に迫ったヘルマン・ホイベルス神父のガラシア研究と、日本人の心とキリスト教の精神を共に良く理解し統合された同神父の戯曲「細川ガラシア」です。
今月末から来月初めにかけて、ザルツブルグで開催されるヨーロッパ科学芸術アカデミーの年次大会に、昨年に引き続き参加しますが、適当な機会があれば、オーストリアの人たちにも、細川ガラシアについての私からのメッセージを伝えることができたらと思っています。
追記 (2019/5/3)
ウイーンで1698年に上演された「勇敢な婦人(Mulier Fortis)」 再考 細川ガラシャを主人公として1698年にウイーンで上演された楽劇「勇敢な婦人」のラテン語の脚本(ヨハン・バプティスト・アドルフ脚色)と楽譜(ヨハン・ベルハルト・シュタウト作曲)を、上智大学の創立100周年記念事業の一つとしてこの楽劇を復活上演されたとき、ガラシャのパートを歌われた豊田喜代美先生より送って頂いたので、それにもとづきつつ、いくつか、気のついたところを、以前書いた記事に補足します。
〇この楽劇のタイトルは正式には
Mulier Fortis /Cuius pretium de ultimis finibus/Sive/GRATIA Regni Tango Regina /Exantlatis pro CHRISTO aerumnis clara 勇敢な婦人ーその真実の価値は、遠い(海の)果てより到来した(珠のような婦人)ガラシャ、丹後の王妃として著名な彼女は、キリストの為の受難に耐えて光り輝く
このタイトルの出典として、まず、旧約聖書「箴言」31:10 (「妻の理想」について書かれた箴言)があげられるでしょう。 箴言31:11『Mulierem fortem quis inveniet? procul et de ultimis finibus pretium ejus.勇敢な婦人を誰が発見するであろうか? その真価は、遙か遠く離れた海岸より来たりしもののごとし。』
楽劇のタイトルは旧約聖書箴言の上記Vulgata訳に由来すると思われますが、「遙か遠く離れた海岸より来たりしもの」が何であるかについては、日本聖書教会の文語訳では「その値は真珠よりも貴し」のように「真珠」であり、フランシスコ会聖書研究所の原文校訂訳では、「真珠」ではなく「珊瑚」となっていました。私は「真珠」のほうが、細川ガラシャの日本名である「珠」に符合していると考えたので、(珠のような)と訳しておきました。
福音書の「東方の三博士」来訪の故事に擬えて理解された極東の日本からの「三人の王の(名代の)訪問」(天正少年使節)、その後の日本でのキリスト教の宣教師と信徒達の迫害と殉教の事実は、當時のウイーンでもイエズス会の宣教師の書翰を通じて知られていました。では、この楽劇の脚本は、史実をどこまで踏まえていたかを検討してみましょう。
この劇の台本の梗概(argumentum)は次のようなものです。
『丹後の王妃ガラシアが、国王のヤクンドノ(「越中殿」のラテン語訛で細川忠興のこと)が戦争のため不在中にキリスト教に改宗し、子供達にも新しい信仰を教えた。凱旋して帰郷した国王は、王妃が禁制のキリシタンになったことに怒り、妻をはげしく折檻し、(抜刀して斬首の)死の恐怖を与えて改宗を迫ったが、王妃は毅然としてそれに耐えた。しかし王妃の霊魂(アニマ)は苦境に動じなかったとはいえ、その身体は拷問に耐えきれず、遂に1590年8月に王妃の「不変の霊魂」は天に召された』
ここで1590年8月にガラシアが亡くなったというのは史実ではありません。関ヶ原の合戦直前に石田三成の人質になるのを拒んだガラシアが1600年に自決したというのが年代記的な事実です。この脚本では、秀吉による禁教令後の26聖人殉教の時代の話、関ヶ原の合戦の頃の話、その後の元和の大殉教の頃の話(たとえば、「阿弥陀」の名を口にすれば棄教したと見て拷問をやめるというような話)が、時代的にきちんと区別されずに混淆された状態で脚色されています。したがって、この脚本は、(イエズス会士コリネリウス・ハザードの教会史(1678)の「丹後の王妃の改宗とそのキリスト教的美徳」の記述をもとにしているとはいえ)、史実を反映したものではなく、あくまでも劇的な想像力の所産として見なければならないでしょう。
しかし、「殉教を主題とする創作」としてみる限り、十七世紀の西欧のカトリック諸国の人たちのキリスト教的世界観がよく分かるという点で、Mulier Fortis という作品はなかなか興味深いものです。この作品は、現在我々が理解するような「オペラ」ではなく、コロス(歌舞団)を幕間に挟む演劇なのです。つまり、ギリシャ悲劇の様式を踏襲しつつ、それをキリスト教的な受難劇として制作した作品と理解するのが適切でしょう。
ギリシャ悲劇ではコロス(歌舞団)の役割が大切ですが、それを摂取したキリスト教的受難劇では、コロスは、上演されるドラマの「想定された観客」の心を表現する役割を演じます。つまり、人格化された「不変Constantia」「忿怒Furor」「残忍Crudelitas」「不穏Inquies」「改悛 poenitudo」の演ずる幕間のアレゴリーは、いずれもドラマを見ている観客の心の世界の葛藤を表現するものであり、このコロスによって遠く離れた国のキリスト者の殉教劇が、時代的地域的な制約を越える普遍性を獲得することがめざされています。
人格化された人間の情念を表すコロスだけでなく、そもそもこの劇の登場人物は「ガラシア」(恩寵を人格化した人物でもある)、夫の「ヤクンドノ(越中殿)」を除いて、原則として固有名詞では呼ばれず、王、王妃、王子1、王子2、娘1、娘2、キリスト者(高山右近がモデルか)、僧侶、などのように普通名詞で表現されています。こうすることによって、観客でもあったハプスブルグ家の王も王妃も王女達も、そこで上演されているドラマが、遠い異国の物語ではなく、自分たち自身の事柄でもあるというように、感情移入することができたでしょう。要するに、この脚本は、遠く東の果の国に伝道された殉教者の物語を、西のカトリック諸国のクリスチャンにも理解できるような形で上演することをめざして書かれていると云うこと、「普遍にして不変の信仰」を「はるか東方の国の王妃の殉教」という特殊な事件を素材にして劇化したということです。したがって、この楽劇の観客は、みな「丹後の王妃ガラシア」が、「殉教の死」を迎えたことを理解したと思います。
mulier fortis の中で、私の印象に残った場面と台詞をいくつか挙げておきますしょう。
まず、第一幕第二場、祭壇の前で祈るガラシャと息子達の場面に注目したいとおもいます。突如大いなる地震がおきて、祭壇に安置されていた十字架が落下します。周章狼狽する息子達の前で、その落下した十字架を祭壇にもどしつつガラシャは次のように云います。
「それがどのような予兆であれ、キリスト者に相応しい高貴な心で耐えることができますように (quidquid rei portendat, illud mente generosa feram, ut christianam condecet)」
福音書の伝えるイエスの十字架上の死の場面をふまえて、「キリストに倣う」ガラシアが殉教の死を受け入れることが、ここで暗示されてます。これはドラマトロギ―として優れています。
次に第一幕第五場、凱旋帰還する王による嵐のようなキリスト教迫害は避けられないことが分かったとき、逃亡を勧める家臣に対してガラシアの語る次の言葉は、この楽劇の根本主題に関わる重要なものと思います。
「王妃:その(迫害の)嵐の原因は何ですか?」「家臣:新しい信仰です」 「王妃:ああ何と祝福された罪でしょう! 神の故に私が罪あるものとされるなら、苦境から逃れて私が自分の幸せだけを求めることは間違っています。ガラシア(恩寵)は、勇敢に、この場所に、しっかりと立たなければいけません。たとえ、地獄の門が開き、忿怒の群が私を襲おうとも、私の心は、神が見捨てたまわぬがゆえに、平安に満たされています。(O culpa felix! Pro deo si sim rea, Non bene saluti consulam auxilio fugae. Hic esto fortis, Gratia, hic standum tibi! Tota solutes orcus, Eumenidum manu, In me recumbat; corde non tollet deum.) 」
正確な史実を知らなかったMulier fortis の作者ですが、上の台詞は、おそらくガラシアと同時代を生きた宣教師達の書翰の内容が反映されており、「ガラシアがなぜ逃亡せずに死を受け入れたか?」その理由を、よく捉えているように思いました。私は、聖グレゴリオの家で行った講演でも、この問題を取り上げましたが、期せずして、劇中のガラシアのこの台詞は、私の講演の趣旨と一致していますので、その点でも 私はこの楽劇に敬意を表したいと思っています。
昨日、調布のチマッティ資料館で、館長のコンプリ神父から2016年10月15日に調布市で上演された楽曲「細川ガラシア」のDVDを頂いた。フルオーケストラのオペラはこれまで何度も上演されてきたが、この録音版は、チマッティ神父のオリジナルな構想にもとづき、ピアノとフルートだけの伴奏、簡素な舞台で、最小限の所作と抑制された感情表現が日本人にとっては自然な印象を与える。
アリアの歌詞は原作者(ホイベルス神父)の戯曲から選び抜かれたもので、典雅な日本語で唄われ、希臘悲劇のコロスの役割を果たす合唱は、グレゴリオ聖歌のアレルヤ、アベマリアをラテン語で歌うが、その旋律には随所で日本のなじみの歌謡を交えている。ホイベルス神父の原作の戯曲は歌舞伎座で故中村歌右衛門主演で上演されたこともあるが、チマッティ神父の楽曲は、「序破急」の能楽のごとき三幕の構成になっている。
第一幕 「蓮の花」(序)
第二幕 「桜の花」(破)
第三幕 「天の花」(急)...
この作品は、ガラシアの辞世
「散りぬべき時知りてこそ世の中は花も花なれ人も人なれ」
に焦点を合わせ、キリスト教の洗礼をうけたガラシア(恩寵)の受難を主題とする楽劇。世阿弥の「花の美学」に即しながらも、それをキリスト教的に摂取しつつ、独自の作品世界を切り開こうとしている点に惹かれた。
それは濁世から解脱できず輪廻転生する怨霊の物語る夢幻能とも、運命の必然を受容する英雄的死を主題とする希臘悲劇のカタルシスとも一線を画する楽曲である。
1940年に初演された「日本語の最初のオペラ」であるが、私は、それと同時に、この作品は日本文化の土壌に根ざした最初の「キリスト教的受難劇」と呼びたい。
中江藤樹の儒教思想にキリスト教の影響があった可能性を最初に指摘したのは、日本に於けるキリシタン研究の開拓者の一人でもあった宗教学者の姉崎正治である。姉崎は、1626年のイエズス会年報(ミラノ版)にもとづく、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」の次の記載に注目した。
「四国には、一人の異教徒がいて、彼は支那の哲学とイエズス・キリストの教えとは同じだと信じ、ずいぶん前から、支那の賢人の道を守ってきたのであった。彼は、キリスト教の伝道師に会って、おのが誤りを知り、聖なる洗礼を受け、爾来優れた切支丹として暮らした。」
当時藤樹は、近江の父母の元を離れて、学問研鑽のために四国の伊予で仕官していた祖父と共に暮らしており、祖父の後を継いで郷里の近江に帰ったのが1634年であったから、姉崎はここの記事を手がかりとして、英文の著作'History of Japanese Religion' (1930)のなかで、中江藤樹が切支丹の医者と交友があったという物語伝承に基づいて、「支那の哲学とイエズス・キリストの教えとは同じだと信じ、切支丹のある伝道師から洗礼を受けた儒者とは中江藤樹であったかもしれない」と指摘したのである。
イエズス会年報の記事だけでは、キリスト者になった当該の儒者を藤樹と同定するのは単なる仮説の域を出ないが、秀吉による宣教師追放令と二十六聖人の殉教後ではあっても、四国伊予の大洲に、キリスト教の洗礼を受けた儒者がいたと云うことは、明確な歴史的事実として認められよう。
中江藤樹について、海老名弾正は「キリストの福音を聞かずして已にキリスト教会の長老なり」(「中江藤樹の宗教思想」、六号雑誌217、1899)と云い、姉崎正治の仮説の信憑性を史実に即して検証するという課題を、戦後間もない頃、賀川豊彦から与えられた清水安三は、その研究成果を「中江藤樹はキリシタンであったー中江藤樹の神学」という著書(桜美林学園出版部1959)に纏めている。海老名弾正は同志社大学の第8代総長、清水安三は桜美林大学の創立者・初代学長であるから、二人ともキリスト教を建学の精神とする大學の教養教育に関係しており、中江藤樹の思想の中に,日本の宗教的文化的伝統の中にあって、もっともキリスト教に密接している教育思想を見いだしたという点が共通している。
中江藤樹とその時代のキリシタン思想との関係については、私自身は適当な機会に私見を公開するつもりであるが、この問題について語る前に、中江藤樹の宗教思想がいかなるものであったのか、それを藤樹全集のテキストに即して確認しておきたい。以下は私が公開講座「日本の宗教と思想ーキリスト教と日本人の心」で配布した資料である。
中江藤樹の宗教思想の特徴ー「隠れたる所にいます まことの神」
資料-1 「大上天尊大乙神経序」(藤樹三十三歳ころの作)
趣旨:全知・全能・全善の完備なる徳を備えた唯一の神を礼拝すべき事―その神は本来、名を持たないが、昔の聖人は、それを「皇上帝」とか「大乙尊神」という名號で呼び、万物に生命を与え育み養ってくださるそのかたのご恩に報い、感謝を捧げるために、地上の天子以下すべての衆生にこの神を祀ることを教えられた。
(原文):大乙尊神は、書の所謂皇上帝なり。夫(か)の皇上帝は、大乙の神靈、天地萬物の君親にして、六合微塵・千古瞬息照臨せざる所なし。蓋し天地各々一徳を秉(と)つて、而して上帝の備れるに及ばず。日月各々時を以て明らかにして、上帝の恒なるに及ばず。日月晦なれども明虧けず。天地終れども壽竟らず。之を推して其の起を見ず。之を引いて其の極を知らず。之を息むれども其の機を滅せず。之を發して其の迹を留めず。一物として知らざるなく、一事として能くせざるなし。其の體太虚に充ちて聲なく臭なく、其の妙用太虚に流行して至神至靈、無載に到り無破に入る。其の尊貴獨にして對なく、其の徳妙にして測られず。其の本名號なし。聖人強ひて之に字して大上天尊大乙神と號して、人をして其の生養の本を知つて敬して以て之に事へしむ。夫れおもんみるに、豺獺は形偏氣を受くと雖ども、一點の靈明なほ昧(くら)からずして、獣を祭り魚を祭る。しかるを況んや人は萬物の靈貴なるをや。是を以て先聖報本の禮を修め、以て天下後世を教ふ。
(現代語訳-田中):大乙尊神は、『書経』で云う皇上帝である。その皇上帝は偉大なる唯一の神靈、天地万物の主君であり親であって、六号微塵(天地四方の大宇宙と微細なる小宇宙)、千古瞬息(永劫の時間と瞬間)において照臨しない場所がない。天地はそれぞれ一つの徳をとってはいるが、その完備なる徳には及ばない。太陽も月もそれぞれ輝くときがあるが、その永遠なる輝きに及ばない。太陽と月は暗くなるときがあるが、その明るさに欠けるときがなく、天地には終わりがあるが、その寿命は無限である。時間を遡ってもその生起はなく、時間を進めてもその終局を知らない。活動をやめてもその作用は滅びず、活動を始めても、その痕跡を留めない。(至上神は)一つとして知らない物はなく、一つとして出来ない事はない。(至上神の)本体は虚空に充ち、無声無臭、その徳は太虚に遍在し、至神至靈、それよりも大なるものを載せず(無載)、それよりも小なるものによって破られない(無破)。その尊く高貴なること、独り並ぶものなき絶対者である。その徳は測ることができない。その本体には名前がない。聖人は強いてそれに字(あざな)をつけて「太上天尊大乙神」と呼び、人々に命をあたえ養ってくださる根源を知らせ、この神を敬い、この神に仕えさせるのである。考えてみると、(獲物をならべて祀る)豺(やまいぬ)や獺(かわうそ)は、(正通の気を受ける人とちがって)偏塞の気を受ける劣った生物ではあるが、それでも一点の靈明が暗くないので、獣を祭り魚を祭るのである。まして人間は万物の靈貴(霊長)ではないだろうか。このゆえに、昔の聖人は、報恩感謝の礼法を修め、天下後世の人々に教えたのである。
資料-2中江藤樹の神道(唯一神の道)における神の礼拝の意味
〇感覚によっては捉えられない「至上至靈」の超越神やさまざまな鬼神を、目に見える「靈像」として礼拝することができるか、それは迂遠で人を欺くものではないかという問に対して、藤樹は、聖賢ならぬ凡俗の身であっても、明徳の心の眼によって靈像を視るならば、「仮真一致」すなわち「有形の仮像によって無形の真の本体を視ることができる」と主張する。
或人問ふ。「詩に曰く上天の載は聲も無く臭も無し。中庸に曰く、鬼神の徳たるや其れ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず。體物遺すべからず。かくのごとくならば、即ち上帝鬼神は形色無かるべし。而るにその形を図画する者、迂にして誣ならずやと。」
曰く「上帝鬼神は形色の言うべきもの無し。無形色をもって神妙にして不測なり。万変に通じ万化に主たること明々霊々たり。是をもって聖賢は畏敬して違わず。....一旦豁然として開悟すれば則ち明徳をもって無形の神を視ること、猶ほ瞽者の昭明にして有形の尊者を見るがごとし。有形の仮像に依て無形の真體を見得れば則ち仮真一致しその別を見ざるなり。(『靈符疑解』)
資料3ー藤樹の摂理論:誠敬の心によって、先天的あるいは後天的な宿命を人は此の世で変化させ消滅することができるし、かりに此の世できなくとも来世で必ず幸福を受ける。
禍福壽夭皆一定の命有って、人を以て変ふべからず。然れども正あり変あり而して又始生の初に受けたる者有り、生后の行に由って受くるものあり。…天定の禍災と雖も、亦変消すべし。もし変消すること無ければ、必ず身后の幸あり」(『靈符疑解』)
資料4ー藤樹の「陰隲(いんしつ)」論―隠れたる神の仁愛の働き
心を無聲無臭の仁に居(をき)て毛頭の盲心雑念なく、真実無妄に人を利し物をあはれむことを行ふを陰隲となづく。たとひ人を救ひ物を助くる行ありとも、心を仁にたてず、妄心雑念あらば誠の陰隲にあらず。故に心を仁にをくを陰隲の大本とす。遇に随ひ感に応じ分の宜をはかって民を仁し物を愛するのことを行ふを陰隲の末とす。本末一貫真実無妄なるが陰隲の正真なり。この陰隲は百福の基本にして、禍を転じ福となすの妙術なり。(全集2巻ー藤樹書簡集より)
中江藤樹の儒教的な観点から再解釈され道徳化された神道は、八百万の神々を統合する唯一神、全知、全能、全善の至上至靈の神を、その隠された仁愛の働きに感謝しつつ礼拝するものであった。それは非人格的な宿命論から人を自由にする教えであり、天の仁愛のなかに自己の心につねに置くことによって、人と物(生きとし生けるもの)を愛することを教えるものであった。
儒教とキリスト教ー2- 「文明」とは何か:「南洲翁遺訓」より
明治維新と共に「文明開化」の時代が始まるが、官軍に敗れた荘内藩士たちが、敗者に名誉を与えた西郷隆盛の遺徳を偲んで記録した文書「南州翁遺訓」には「まことの文明とは何か?」という根本的な問いが含まれている。
中村敬宇はすでに「西洋文明の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳に通じたものでなければならない」と論じていたが、佐藤一斎の『言志四録』を座右の書としていた西郷の文明論には、「文明開化」の名のもとに無批判的に西欧文明を模倣する明治新政府への批判と共に、西洋文明を支えてきたキリスト教倫理から学ぶべき積極的な「善」への評価がある。
西郷によれば、文明とは普遍的な「道」が民によって実践されることを意味するのであって、物質的繁栄を意味するのではない。西欧諸国の文明も、その基準によって判断すべきであって、慈愛をもととして解明に導かず未開の国を暴力によって植民地化した西欧諸国は「野蛮」である。たとえば、遺訓第1条で、南州は、物質的な文明、すなわち経済的な繁栄のごとき「外観の浮華」は「文明」の名に値しないというという儒教の伝統にしたがいつつ、次の如く平易な言葉で西洋的「文明」の偽善を指摘している。
「文明とは道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」
西欧列強が、非西欧諸国にたいして「未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利する」というのは歴史的事実であり、それこそ文明の対極にある「野蛮」に外ならないという西郷の指摘である。しかし、彼は、かかる西欧列強の植民地主義を非難するだけで終わっているのではない。西洋の「刑法」の人道的な性格について西郷は次のように述べる。
「西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑑誠となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥いるを恤ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。」
西郷は、ここで、西洋の刑法は、我が国の儒教の教えを我が国以上に実践している物であり、真に文明の名に値する、と述べるのを忘れていない。
犯罪人に対する過酷な取り調べと刑の執行の残虐さは、儒教の精神に反する物であるにもかかわらず、四書五経の訓詁注釈にかまけてきた儒者たちは、過酷な刑法を人道的なものとする努力を怠ってきた。これこそ、まことの文明として西欧から学ぶべきであるという指摘である。
そして、西郷は、論語「子罕」編の「絶四(恣意・無理押・固執・我意の四つの執着を絶つ)」の言葉を引用し「敬天愛人」が天地自然の道に従って、我意を離れた講学の道なることを説いた後で、次のように述べている。
「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。」
「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」に要約される西郷の思想と実践について、内村鑑三は、『代表的日本人』のなかで、預言者の精神とキリストの教えに合致する「偉大な西郷の遺訓」がどこから由来するのか、知りたいと思うものがいるだろう、とコメントしている。
「敬天愛人」という言葉を最初に使った日本人は中村敬宇(正直)(1832-1891)である。慶応二年(1866)幕府の命により英国に留学した当時の彼は昌平黌の主席教授(御儒者)であった。日本を代表する儒者であった敬宇が、なぜわざわざ外国に留学したのか、その志は「留学奉願候存寄書付」(志願して留学する中村の意見書)につまびらかに書かれている。
その第一段で「儒者の名義を正す」として、「天地人に通ず、これを儒といふ」とし、学問は支那一国に限らぬ普遍的なものであると再定義した。
第二段で、アヘン戦争後の中国の先例に触れ、西洋との交渉は通訳任せであってはならず、和漢の学に通じた者が留学すべきであると説いた。第三段で、中村の考えていた西洋の学問について次のように述べる。
「西洋開化の国にては凡その学問を二項に相分け申し候様に承り申し候。性霊の学、即ち形而上の学、物質の学、即ち形而下の学、とこの二つに相分け申し候ふ。文法の学、論理の学、人倫の学、政治の学、律法の学、詩詞学律絵画彫像の藝などは性霊の学の項下に属し申し候。万物窮理の学、工匠機械の学、精錬点火の学、本草薬性の学、稼穡樹芸の学は物質の学の項下に属し申し候。」
これまで蘭学者達が西洋から学んできたものは、専ら科学技術(物質の学・形而下の学)であって、実用的な利益を上げるための手段智にかぎられてきた。学問の根幹をなす倫理道徳の道(性霊の学・形而上学)、人倫の学、政治学、法学を学ぶためには、少年生徒による留学生では不十分であり、西洋の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳の基礎に通じたものでなければならない、と論じている。
いわゆる「和魂洋才」とか「東洋道徳西洋芸術」(佐久間象山)のごとき立場を越えて、西洋の物質文明の根底にある、人倫と政治の学問に関心を持った敬宇は、ミルの「自由論」(帰国後、敬宇はそれを「自由之理」として邦訳する)を読み、西洋民主主義の根本思想を学ぶ。
帰国後(明治元年)に書いた西国立志編の『緒論』では、
「君主の権は、その私有にあらざるなり」
と述べ、
「君主の令するところのものは、国人の行んと欲するところなり。君主の禁ずるところのものは、国人の行ふを欲せざるところなり」
と、君主を馬車の乗客、国民を馬車の乗客に譬えている。
どちらに進むべきかは乗客の意向で決まるのであり、御者である君主は客の意向に従い車を走らせれば良いと云うのであ。
敬宇は、英国下院(House of Commons)を「百姓の議会」上院(House of Lords)を「諸侯の議会」、国会議員を「民任官」と翻訳し、理想的な国会議員を、
「必ず学明らかに行ひ修まれるの人なり。天を敬し人を愛するの心ある者なり。多く世故を更へ艱難に長ずるの人なり」
と規定した。
〇「敬天愛人」とは、このように明治元年、中村敬宇によって、人民によって国会議員に選ばれた者の心得という文脈で、日本で初めて使われたのである。
静岡の学問所で敬宇の講義を聴いた者の中に、薩摩藩士の最上五郎が居た。彼は敬宇の思想を西郷南州に伝え、西郷はそこにみられた思想に共鳴し、「敬天愛人」の書を多く遺すことになったのである。
静岡時代に敬宇の書いた『敬天愛人説』では、はじめに儒教の伝統の中で「敬天」と「愛人」に関する諸説を引用したうえで、それをキリスト教の倫理にも通じる普遍的な道徳であることを論じている。
①「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり。人は吾と同じく天の生ずる所なるは、乃ち吾兄弟なり。天それ敬せざるべけんや、人それ愛せざるべけんや。」
②「何ぞ天を敬すると謂ふ。曰はく、天は形無くして知る有り。質無くして在らざる所無し。その大外無くその小内無し。人の言動、その昭鍳を遁れざること論なし。乃ち一念の善悪、方寸に動く者、またその視察に漏れず。王法の賞罰、時に及ばざる所有り、天道の禍福、遅速異なると雖も、而モ決シテ愆る所無し。」
③「蓋し天は理の活者、故に質無くして心有り。即ち生を好むの仁なり。人これを得て以て心と為せば、即ち人を愛するの仁なり。故に仁を行へば、則ち吾心安じて天心喜ぶ。不仁を行ヘば、則ち吾心安ぜずして天心怒る。」
④「それ天は肉眼を以て見る可からず、道理の眼を以てこれを観れば、則ち得て見るべし。天得て見るべくば、則ち敬せざらんと欲するも、何ぞ得べけんや。」
⑤「古より善人君子、誠敬を以て己を行ひ、仁愛を以て人に接す。境地の遇ふ所に随ひ、職分の当然を尽す。良心の是非に原き、天心の黙許に合ふを求む。」
⑥「故に富貴を極めて驕らず、勲績を立てて矜らず。窮苦を受けて憂へず、功名に躓きて沮らず。禍害を被リ阨災を受くると雖も、快楽の心、為に少しも損せず。これ豈に常に天の眼前に在るを見るに由るに非ずや。天道の信賞必罰を信ずるに由るに非ずや。」
⑦「若しそれ天を知らざる者、人と争ふを知るのみ、世と競ふを知るのみ。知識広ければ、則ち一世を睥睨し、功名成れば、則ち眼中人無し。願欲違へば、則ち咄咄空に書す。禍患及べば、則ち天を怨み人を尤む。自私自利の念、心胸に填塞して、人を愛し他を利するの心毫髪も存せず。これ豈に天を知らざるの故に非ざるか。」
⑧「是に由りて之を観るに、天を敬する者、徳行の根基なり。国天を敬するの民多ければ、則ちその国必ず盛んに、国天を敬するの民少なければ、則ちその国必ず衰ふ。」
「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり」以下の文では「天」は人格的な性格が顕著であり、儒教の「天」よりもキリスト教のHeaven(=God)に近い用法である。敬宇は、帰国途上で読んだSamuel Smiles のSelf-Help(自助論)をのちに「西国立志編」として邦訳したが、そこでの「天はみずから助くるものを助く」の自主独立の精神の根底にあるものは儒教的な語で書かれたキリスト教倫理ともいえるものであった。
この「敬天愛人論」を呈された大久保一翁 は中村敬宇にあてた書簡のなかで、この言葉が、当時の蘭学者に知られていた聖書の漢訳に由来する者であることを指摘している。
しかし、一翁 は、当時禁教であったキリスト教の聖書に由来すると云っても、そこに書かれていることは儒教の教えと変わりなきものだから、これを刊行しても一向に差し支えないとして、次のように云っている。
「旧新約書中の語にても御稿の趣にては聊か嫌疑も有之間敷候、何の書出候とも其辺は唐土二帝孔夫子も同様と存候、……既に敬天愛人と四字並候西洋物漢訳書中より鈔し置き事に候。且御文の趣にては何の嫌疑も有間敷存候。」