歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

茶道とキリスト教ー文化内開花と宇宙的典礼

2022-01-06 |  宗教 Religion
 キリスト教文化研究所が昨年主催した「茶道とキリスト教」の連続講演会とシンポジウムで同席した陶芸家の椿嚴三さんから「バリニャーノの紋章」の入った創作茶碗を頂戴しました。
 ルイス・フロイス、通辞ロドリゲス等、日本語に精通した宣教師たちを重用し、ヨーロッパ人に日本文化を、日本人にヨーロッパ文化を学ばせ、「普遍のキリスト教」を日本固有の文化に根付かせることに努力したバリニャーノの伝道精神は、後世の「文化内開花」の理念を先取りするものであったと言えるでしょう。
 日常生活の中に「禅」の精神を生かす茶湯の作法とキリスト教の典礼との相互的交流は、鎖国によって中断したとはいえ、日本のキリスト教徒が創造的に継承できる現代的課題のひとつです。
 キリシタン時代の茶器を骨董的に賞翫するのではなく、現代の陶芸作家として茶道の中に宇宙的な典礼の精神を織り込んでいる椿さんからの有難い贈り物でした。
 
          一碗の底にイエスの息吹く春
 
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岩下壮一の祈りの言葉

2021-12-12 |  宗教 Religion
岩下壮一の祈りの言葉
 
長き鎖国時代に「邪宗門」扱いされ、明治以後は近代化をめざす啓蒙主義の精神から、中世暗黒時代の愚昧な迷信と蔑視されてきたカトリシズムの伝統の名誉を回復しようとした最初の日本人キリスト者といえば、岩下壮一の名前を挙げるのがもっとも適切であろう。「日本のアカデミズムの中にカトリシズムに市民権を獲得させる」ための講演・文筆・出版の旺盛な活動はよく知られている。 
 
しかし、もし岩下壮一の活動がそのような知識人向けのアカデミックな理知的領域だけに限られていたならば、その影響力は決して大きなものとはならなかったと思う。彼は、神山復生病院の院長として、病苦の人々に奉仕する司祭であり、単なる理性の人ではなく、観想と祈りに結びついた実践を重んじる人でもあった。
 
1930年に、レゼ神父の跡を継いで神山復生病院院長に就任した岩下壮一が、黙想会のあとで井深八重をはじめとする看護婦たちとともに祈った言葉が、彼の自筆によって書き残されている。
 
「主イエズス・キリスト、主は病める者を特に愛し、これを慰めいやし給ひしにより、我れ其の御跡を慕ひ、こゝに病人の恢復、憂人(うれひびと)の慰藉(なぐさめ)なる聖母マリアの御助けによりて我が身を病者への奉仕に捧げ奉る。希くはこの決心を祝し末ながくこの病院に働く恵を与へ給へ   亜孟(アメン)」
 
岩下の帰天後も神山復生病院では、黙想会のあとで、この祈りを唱えることが習慣となっていたとのことである。
 
この祈りと共に、もう一つの「岩下壮一の祈り」をここに引用したい。 以前に東條耿一の手記を編集していた時に、私は、彼が如何に岩下壮一とコッサール神父から、どれほど大きな影響を受けていたかに気づいた。とくにヨブ記をどう読むか、岩下壮一は神山復生病院の死者のためにどのような祈りを捧げていたか、それを知る手掛かりが、「ある患者の死」(「聲」昭和六年四月号)というエッセイの最後に記されている「祈り」である。
 
 
ーーーーー岩下壮一の随想「ある患者の死」からーーーーー
 
•    二月中旬のある土曜日の夜のことであった。…けたたましくドアをノックする者がある。「××さんが臨終だそうです!」かん高い声が叫んだ。それはその朝、病室まで御聖体を運んで行って授けた患者の名前であった。その夕見舞いに行った時は、実に苦しそうだった。病気が喉へきて気管が狭くなった結果、呼吸が十分できなくなっていた。…表部屋から入ってストーブの燃え残りの火と聖燭のうすくゆらぐ聖堂を抜け、廊下を曲折して漸く病室に辿り着いた時には、女の患者達は皆××さんの床の周囲に集まってお祈りをしていた。…人間の言葉がこの苦しみに対して何の力も無いのを観ずるのは、慰める者にとってつらいことであった。私は天主様の力に縋る外はなかった。望みならば、臨終の御聖体を授けてあげようと云ってみた。しかしその時もはや水さえ禄に病人の喉を通りかねる状態になってしまったのであった。…
 
•     二ヶ月ほど前、全生病院でみた、咽喉切開の手術をした患者の面影が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。どんな重症患者でも平気で正視し得る自分が、あの咽喉の切開口に金属製の枠をはめこんだ有様を、それを覆い隠していたガーゼをのけて思いがけなくも見せつけられた時、物の怪にでも襲われたように、ゾッとしたのを想起せざるを得ない。それはあまりにも不自然な光景であった。併し、その金属製の穴から呼吸しなが、十年も生きながらえた患者があると医者から聞かされたとき、「喉をやられる」と去年の秋から云われていた××さんのために、復生病院にもそんな手術のできる設備と医者とがほしかった。
 
• 議論や理屈は別として「子を持って知る親の恩」である。患者から「おやじ」と云われれば、親心を持たずにはおられない。親となってみれば、子供らの苦痛を少しでも軽減してやりたいと願うのは当然である。しかしいかに天に叫び人に訴えても、宗教の与える超自然的手段を除いては、私には××さんを見殺しにするより外はない。癩菌は容赦なくあの聖い霊を宿す肉体を蚕食してゆく。「顔でもさすって慰める外に仕方ありません」と物馴れた看護婦は悟り顔に云った。そしてそれが最も現実に即した真理であった。
 
• 私はその晩、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも皆、ストーブのなかに叩き込んで焼いてしまいたかった。考えてみるが良い、原罪無くして癩病が説明できるか。また霊の救いばかりでなく、肉体の復活なくして、この現実が解決できるのか。
 
 生きた哲学は現実を理解しうるものでなければならぬと哲人は云う。しからば、すべてのイズムは、顕微鏡裡の一癩菌の前に悉く瓦解するのである。
 
• 私は始めて赤くきれいに染色された癩菌を鏡底に発見したときの歓喜と、これに対する不思議な親愛の情とを想い起こす。その無限小の裡に、一切の人間のプライドを打破して余りあるものが潜んでいるのだ。私はこの一黴菌の故に、心より跪いて「罪の赦し、肉身の復活、終わり無き生命を信じ奉る」と唱え得ることを天主に感謝する。
 
• かくて××さんは苦しみの杯を傾け尽くして、次の週の木曜日の夜遅く、とこしえの眠りについた。…翌日も、またその翌日も、病院の簡素な葬式が二つ続いた。仲間の患者が棺を作って納め、穴を掘って埋めてやるのだ。
 
• 今日は他人のこと、明日は自分の番である。…沼津の海を遙かに見下ろすこの箱根山の麓の墓地から××さんとともに眠る二百有余の患者の魂は、天地に向かって叫んでいる。
 
「我はわが救い主の活き給うを信ず、かくて末の日に当たりて我地より甦り、我肉体に於て我が救主なる神を仰ぎ奉らん。われ彼を仰ぎ奉らんとす。我自らにして他の者に非ず、我眼こそ彼を仰ぎまつらめ!」
 
 
 
 
 
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賀川豊彦再発見

2021-08-01 |  宗教 Religion
賀川豊彦再発見ー滝澤克己協会での講演「無者の福音と宗教間対話ー延原時行先生を追悼して」の準備をしているときに、賀川豊彦の「目的論的宇宙論」と「キリスト教的な友愛の政治経済学」が、晩年の延原先生の思想に及ぼした影響、とくにホワイトヘッドの宇宙論と社会論と賀川の思想との親和性に驚いたのが私にとっての賀川豊彦再発見であった。
 賀川豊彦は、1936年に米国のロチェスター大学で Brotherhood Economicsと題する講演を行ったが、それは次のような言葉から始まっている。
「現代の貧乏は、無い故の貧乏ではない。 有り余る為の貧乏である。 過剰生産と、 過剰機械と、過剰労力と、過剰知識階級の悩み である。 無いからでは ない。 有り余って困っているのである。   しかも、 富は少数者に集中し、社会の大衆は失業と、生活不安と、従属性と不信用の世界に蹴落され、永遠に浮び上がり 得 ない 喚叫の声を放っている。 自由放任の市場は、 たちまち修羅の巷 と代わり、幾千万の失業者 は、食糧倉庫を前に見ながら 飢えて いる。」
 この講演の五年後に生まれたバニー・サンダース上院議員が現在の米国の極端な貧富格差の是正を訴えた言葉だといっても通用するような印象的な書き出しである。
 自由主義の資本主義経済の矛盾を指摘しつつも、ソビエトロシアの暴力革命によって生まれた抑圧的なシステムにかわる政治経済学をキリスト教的な「友愛」を基盤とする「協同組合のシステム」にもとめた賀川の講義は日本よりも欧米の聴衆を引きつけた。 この講義は同年末、 ニューヨーク の ハー パー社から 直ちに出版 され て、十数 ケ国 語に翻訳され、 注目された名著であったが、 なぜか、 日本では出版さ れ ず、 2008年 の 賀川豊彦献身100年記念事業の一環 として『友愛の政治経済学』としてようやく日本語版が読めるようになった。(英語版、日本語版ともにKindle で読める)
 キリスト教社会主義は、ロシア革命以後の日本ではマルクス主義者によって「空想的社会主義」として一蹴され、社会的な影響力を持ち得なかったが、ソ連邦の崩壊によって、はたしてどちらが現実的で、どちらが空想的であったかがあらためて問われねばならないであろう。
 私は、社会運動家としての賀川だけでなく、その多面的にして創造的な活動の凡てを統合する中心が何であったにも関心がある。 
 『神はわが牧者ー賀川豊彦の生涯とその事業』(田中芳三編著、<イエスの友会>大阪支部、クリスチャン・グラフ社、1960)のなかに、1925年「六甲山<イエスの友会>大阪支部、同京都支部連合修養会の記念写真とともに、「<イエスの友の会>の五綱領」が掲載されている。
 <イエスの友の会>という言葉に私は引きつけられた。
賀川の云う「イエスの友の会」の五綱領とは次のようなものである。
 一、イエスにありて敬虔なること
 一、貧しき者の友となりて労働を愛すること
 一、世界平和のために努力すること
 一、純潔なる生活を貴ぶこと
 一、社会奉仕を旨とすること
 この、<イエスの友会>の五つの基本方針は、プロテスタントやカトリックというごとき宗派の区別や文化と時代背景の相違を超えたキリスト教の基本精神を要約するものではないだろうか。
 賀川はプロテスタントであるが、カトリックの伝統を受け継いだイグナチウス・ロヨラの<イエズス会>の根本精神と実践的な諸活動にも通底するものと思う。
 田中芳三氏の貴重な編著は
「大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつく者の大部分は賀川豊彦に源を発していると云っても過言ではない」
という評論家大宅壮一の言葉をはじめとして、
「伝道」、「文書」、「教育」、「労働」、「平和」、「純潔」、「奉仕」などの各項目にわたって、賀川を直接に知っていた80名近い人々の証言が収録されている労作であった。
 賀川豊彦の生涯を妻ハルの視点からたどり直した『わが妻恋いしー賀川豊彦の妻ハルの生涯』を書いた加藤重氏、賀川の影響で開拓伝道をされ「賀川豊彦再発見ー宗教と部落問題」を書かれた鳥飼慶陽氏、「賀川豊彦傳」を書かれた三久忠志氏、等々、先人の書き残してくれた記録を読めば読むほど、賀川豊彦の「友愛の政治経済学」は、エリートの知識人や政治家が説く「友愛政治」のような生やさしいものではなく、文字通り「死線を越えた」命がけの仕事であったことが分かった。
 昔流に云えば、賀川は、「福者(主に祝福された人)」となり「聖人」にも列せられたであろう。しかし、私は、そういう外的な顕彰ではなくて、多彩な活動の中心にあって人々を引きつけてやまない「詩人」としての賀川豊彦に注目したい。賀川豊彦の書く「詩と真実」は、旧訳聖書の詩篇やヨブ記、福音書の「詩劇」使徒書簡の「証し」に由来する魂の詩であり、概念的な神学を超える普遍性を持っているからである。
 かつて与謝野晶子は、賀川の詩集「涙の二等分」を評して
「この詩集が、あらゆる家庭に、教場に、事務室に、工場に、ないし街頭においても読まれることを祈ります。太陽が何人をも暖めるように、香川さんの詩は愛と平和のなかに何人をも率直に還します」
と云ったが、私もまた良寛や宮沢賢治につづく人道主義者、宗教詩人としての賀川豊彦に限りなく惹かれる。
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「旅ゆく人の心ーペトロ岐部の十字架の道行」ーなぜ彼はエルサレムに巡礼したか、またなぜ日本に戻ったのかー

2021-07-01 |  宗教 Religion
私がペトロ岐部カスイのことを知ったのは、1982年に刊行された遠藤周作の『銃と十字架』を通じてであった。遠藤といえば、英雄的な殉教者ではなく、踏み絵を踏んだ「隠れキリシタン」の苦しみ、「神の沈黙」ゆえに転ばざるを得なかったヨーロッパ人司祭など、「弱き人」を主題として小説を書き続けた作家である。その遠藤が、ペテロ岐部を小説の主人公に選んだ動機はなんだったのだろうか。彼は、西洋の植民地主義を背景としてもつキリスト教の宣教活動の矛盾について次のように指摘している。
 
 「基督教国の侵略と植民地政策、そして宣教師の日本人蔑視の感情。有馬神学校の卒業生たちはイエスの教えを学びながら、その教えとはあまりに矛盾したこの西洋教会の現実と直面せねばならなかった。そして棄教した卒業生はこの矛盾を克服できなかったから基督教から離れたのである。」
 「ペドロ岐部の波瀾と冒険にみちた生涯にも、この西洋を学んだ最初の若い日本人の苦悩がすべて含まれている。有馬神学校で彼が触れた西洋の基督教はこの男の魂をひきつけたが、その西洋の欠陥が同時に彼を苦しめつづけた。彼は誰にもたよらず、ほとんど独りでこの矛盾を解こうとして半生を費した。その殉教は彼の結論でもあった。彼は西欧の基督教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ」
 
 「ペトロ岐部はイエスの教えと日本人とのために死んだ」という遠藤の言葉に私は強く動かされた。まことのキリスト教を求めてエルサレムまで巡礼し、そして迫害されていた日本の隠れキリシタンために日本に戻って殉教したペトロ岐部の実像を知りたいと思ったからである。
 
  その後、チースリック神父や五野井隆史などキリシタン史の専門家の研究や、詩人の松永伍一の評伝「ペトロ岐部」(中公新書1984)、加賀乙彦の歴史小説『殉教者』(講談社2016)も興味深く読んだ。特に加賀乙彦は、敗戦時の陸軍幼年学校の学徒を描いた「帰らざる夏」や、自伝的長編「永遠の都」の作者でもあり、loyalty (至誠の心)を貫いた日本人とキリスト教の関係を描き続けた作家であると同時に、死刑囚や、不治の伝染病にかかった人々の心を描く多くの文芸作品の著者であったから、遠藤周作とは違った意味で、彼の歴史書小説は読み応えがあった。
  ペトロ岐部は、なぜエルサレムにわたったか、そして彼は殉教する危険を冒してまで、なぜ日本に戻ってきたのか?
  これは、さまざまな歴史的評伝や小説を読みながら、常に私の念頭を離れぬ問いである。
  私は、ザルツブルグで開催されたヨーロッパ学藝アカデミーの研究会で、
「旅ゆく人(homo viator)の精神ーペテロ岐部カスイの十字架の道行」という内容の講演をしたことがある。
 日本で「福者」としてローマ教会から顕彰されたとはいえ、ペトロ岐部の生涯は、ただ日本だけのものではなく、キリスト教の精神を理解する上で、ヨーロッパの人々にも知ってもらいたいと思ったからである。
 
  ペトロ岐部の往路(求法の旅)帰路(伝法の旅)を見ると、地球に架けられた大きなロザリオに見えた。このロザリオに沿って、かれは地上を旅しつつ、十字架の道行きをしたということ、それが私のペトロ岐部理解の出発点だった。
 まことのキリスト教に触れるために、エルサレムに巡礼する。当時の聖地はイスラム教徒に支配されていたために、ザビエルも果たせなかったエルサレム巡礼を、彼は、誰からの援助も受けずに単身で敢行した。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市は、そのままロザリオの数珠に見えたのである。
  カスイとは「活水」つまり「Aqua Vita(活ける水)」であり、イエスの十字架上の死と深い関わりがある名前であったと推定されている。
  それにしても岐部はどうして日本に戻ったのであろうか?
ここでどうしても思い出されるのは、使徒ペテロが、ローマで迫害されていたクリスチャンの元を離れようとしたときに、キリストが示現したという伝承である。「Quo vadis, Domine? 主よ、どこに行かれるのですか」というペテロの問いに対して、キリストは「ペトロ、あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかろう」と言われた。この示現に接して、使徒ペテロはローマに戻って殉教したという伝承である。
  岐部の洗礼名はペテロであり、没落した武士であった両親のつけた洗礼名であった。くしくも、岐部は使徒ペテロと同じ道を辿り、迫害されていた信徒のために日本に戻り殉教したのであった。
 
  万里を遠しとせず、命がけで求道/伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであったといえる。
 はるか遠くスペインから海を渡って日本にキリスト教を伝えたザビエルには「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」という祈りがある。
 
「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありません。ただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです」
 
 上で引用したザビエルの「純一なる愛の働き」という詩では、もはや自分が天国へゆくことへの期待も、永劫の罰を受けることへの恐怖も、何か報いを受けることを希望するがゆえに神を愛するのではない、とはっきりと歌っている。そういうことを望むのは、「純一なる愛の働き」ではなく、ただひたすらに十字架につけられたイエスを愛することのみが歌われている。これこそが、殉教したキリスト者の愛の働きではないだろうか。
 
「諸王のなかの王」なるキリストに対する忠誠を誓いつつ、他者のために十字架の道を行くキリストに倣う心を表現したこの詩は、ザビエルの騎士道精神を表現したものとも言えようが、中世から近世へと移行する転換期にあった日本の戦国時代の武将たちに伝えられたときには、彼らの主君に対する忠誠心、サムライの「士道」の精神にも直接訴えかけるものでもあった。
 
 ポルトガルやスペインのような大帝国の覇権主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めて単身で陸路を取りエルサレムに巡礼した岐部。さらにペテロの殉教の地であるローマに行ったのちに、再び海路をたどって、苦難の旅を続けたのちに日本の信徒のために帰国したペテロ。最後は江戸のキリシタン屋敷で殉教した彼の生き様こそ、初代のキリスト者の心そのものであり、使徒と同じく「十字架の行道」を実践した人であったと思う。
  江戸の切支丹屋敷で逆さ吊りの拷問を受け無惨な死を迎える前に、彼は、将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守から糾問されている。徳川幕府の最高権力者とそれに追従していた当代の第一級の知識人たちは、みすぼらしい姿で自分たちの前に現れた「禁制」のキリシタン司祭のことをどう思っていたのであろうか。
 
 ペトロ岐部カスイは長きにわたって「隠れたる日本人司祭」であった。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」では、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。
 
 彼が難民としてマカオに脱出した後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、潜伏を余儀なくされたキリスト者達を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、ドイツ人司祭フルベルト・チースリックの長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになったことであった。 
 
 先日、レンゾ神父様のZoom講演「ペトロ岐部神父叙階400年」をYoutubeで拝聴し感無量の思いがあった。チースリック神父はじめとする先人の多大な努力によって、再発見されたペトロ岐部カスイは、今も「活ける水」であり400年前の人とはとても思えなかったからである。
 
 
 
 
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列王記上の預言者エリシャの故事と高山右近

2021-06-25 |  宗教 Religion
 細川家譜によると前田利家に従って小田原征討作戦に従軍した高山右近は蒲生氏郷と細川忠興に陣中で牛肉を振る舞ったとある。 このエピソードは日本人が牛肉を食するようになった歴史を語るときによく引用されるが、その時の高山右近の心の中まで立ちいって考察したものは見当たらない。 
 従来誰も指摘してこなかった事柄であるが、乱世の戦国時代の福音伝道者ともいうべき高山右近の心中を理解するために重要であると思うので、ここでひとつの旧約聖書の故事を指摘しておきたい。それはカトリックのミサで読まれる旧約列王記の記事である。
 列王記が当時のキリシタンに知られていたことは、たとえばキリシタンを迫害した(フランシスコ大友の)奥方が、列王記にならって「イザベル」とよばれていることからも推察できよう。
 列王記第一八章では、イスラエルの神ヤーウエを礼拝するか、それともアハブとその妻イザベルが信じるバールを礼拝するかという信仰の決断が問題とされており、第一九章では預言者エリヤが自分の後継者としてエリシャを指名した後で、エリシャが古い習慣を改めて、農耕牛を屠って友人と会食する故事が引用されている。  
 
旧約聖書列王記上19-21(現在のカトリックの弥撒典礼ではC年、年間第一三主日の旧約聖書朗読箇所)に次の記述がある。
 
「エリシャはエリアを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼はエリアに従い、彼に仕えた(新共同訳)」
 
 フランシスコ会聖書研究所の注解によれは、農耕用の家畜であった牛を調理して食することは、古い生活に終止符を打つことを意味する、とのことである。またヨハネ・パウロ2世編纂の英語版の主日典礼書では、「牛の装具」と邦訳された上記箇所のラテン語aratrumを鋤(plough) と英訳して、He used the plough for cooking the oxen (牛を調理するために鋤を用いた)としている。 
 もし高山右近が旧約聖書列王記の故事を念頭に置いて牛を調理したとすれば、それは文字通り「鋤焼き」をして蒲生氏郷と細川忠興に振る舞ったと理解してよいだろう。 
 
 秀吉のキリシタン迫害の一つの理由は、農耕用の牛を南蛮坊主が食するのは野蛮であるということであったが、高山右近の「鋤焼き」は、旧約列王記の故事に習って、古き習慣を改めさせるという意味があったであろう。
 
ミサ典礼で上記の列王記の故事と並行して読まれるのは、パウロのガラテヤの信徒への手紙であるが、そこには
 
「自由を得させるためにキリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷の軛に二度つながれてはなりません。」
 
とあり、古き習慣にとらわれた奴隷の身からキリストに従って自由の身となることが勧められている。高山右近の「鋤焼き饗応」のエピソードも従来理解されてきたような非キリスト教的な文脈とは違った意味で理解できるのではないだろうか。
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エキュメニカルなカトリック (国境と宗派を越えた普遍の教会)

2020-12-17 |  宗教 Religion
エキュメニカルなカトリックというと、私は
 
「Strangers No Longer, Together on the Journey of Hope
ともに希望の旅の途上にある我等は もはや異邦人ではない」
 
という言葉を思い出します。これは、アメリカのカリフォルニア州クレアモント大学(昔、鈴木大拙が「禅と日本文化」の講義をした大学)の近くにあった「聖母被昇天教会」のミサに与ったときに目にしたスローガンでした。
 そこは實に多国籍、多民族の人々からなる教会でした。22年前に私がはじめてこの教会に来たときの司祭はアイルランド人でしたが、二度目に来た時の司祭は、アフリカ出身の方でした。信徒でもっとも多いのは米国在住のヒスパニック系の移民、つぎに中南米から米国に職を求めてきた人々、そして旧南ヴェトナムからの難民です。日本人には逢いませんでしたが、中国系、韓国系の人々もたくさん参列していました。こういう様々な人種の人々が「一つのミサ」に与る。それが、本来の「普遍の」教会の姿ではないかという印象を持ちました。  
 ミサの式次第は日本と全く同じです。もちろんすべてが英語になっている点は違いましたが。私が参列した時のミサは教会暦年間第30番目の主日で、旧約聖書はエレミヤ記第31章、詩編126、使徒書はヘブル書5章、福音書はマルコ伝10章。聖書こそ典礼の基礎であるという点では、じつはローマン・カトリックもプロテスタントも変わりはありません。
 
 エレミアの朗読を聞きながら、私は内村鑑三のことを思い出さないわけにはゆきませんでした。預言者の情熱、その祖国に対する愛、それはまさしく内村が共鳴したものでしたから。紀元前のユダヤ民族のシオンにたいする思い、捕囚より解放された喜びが、エレミヤや詩編の様々な章から、長い歴史の隔たりを越えて聞こえてきます。そして、古代のイスラエルの民の「愛国心」は、キリストによって浄化され、普遍化され、全人類の精神的な遺産となっています。
 
 ユダヤ教からキリスト教への展開は、ユダヤ民族の伝統と愛国心のもつ自己中心性、民族的エゴイズムを一度は徹底的に否定したあとで、再び、新しい精神の中でその民族の伝統を受容するというダイナミックな転回でもあったと私は理解しています。  内村鑑三は真の愛国者でした。日清戦争を正しき戦争として擁護したあとで,日本政府の欺瞞的な政策に同調したことへの徹底した自己批判。日本中が「愛国心」の狂騒のなかで日露戦争を支持したまさにその時に、非戦論を国家の取るべき方策として提言したことこそ、キリスト者としての内村の真の愛国心のしからしめるところでした。自国が道を誤ったときに批判できるものこそが真の愛国者といえるのです。
 
 いわゆるWASPが多数派であるアメリカで、カトリックはマイノリティです。しかし、私は、真のカトリックは、国家の中に於いてマイノリティであるときこそ、云うならば「地の塩」としての役割を果たすことが出来ると思っています。
   「Strangers No Longer, Together on the Journey of Hope   
   ともに希望の旅の途上にある我等は  もはや異邦人ではない」
 
という標語は、キリスト者の立場から、政府の排外的な移民政策に反対するエキュメニカルなカトリックの姿勢がよく出ていましたが、それにしても    
 
「ともに希望の旅の途上にある(我等)」
 
というのは実に良い言葉であると思いました。
 
 キリストの存在する場所は、特定の民族や国家に限定されない。様々な民族や人種や国家が、その違いを超えて一つになるところに、すなわち多なるものがその個性を失わずに一つとなるところに、世界宗教としてのキリスト教の成立する場所があると思っています。
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松本馨のキリスト教伝道誌『小さき声』に聴く

2020-12-10 |  宗教 Religion
 
 
 松本馨のキリスト教伝道誌『小さき声』に聴く

 多磨全生園の自治会長として、らい予防法の改正・廃止の運動に早くからかかわってきた松本馨さんについては、荒井英子さんの書かれた「ハンセン病とキリスト教」 (岩波書店 1996) を通じて知ったが、「信仰と人権の二元性」を越えるキリスト者の実践のあり方を知る上で、彼の無教会主義キリスト教の信仰がいかなるものであったのか知りたいと思った。

 松本さんは関根正雄に教えられた無教会主義キリスト教の道を歩むようになり、1962年から無教会の個人伝道誌「小さき聲」を発刊する。 この伝道誌を読んでいくと、最初はご自身の救済、自己の回心経験をつづることが主になっているが、次第にその内容が変化していく。その変化は、「私の救い」だけでは なく、「私たちの救い」、つまり療養所で自分と共にかつて生きてきた人たちのために、そし て現在、療養所の中と外で、「私とともに」生きている人たち、そしてそういうひとたちが 将来直面するであろう様々な問題のために書くというように、松本さんの関心が、個人的な 信仰を出発点としつつも、療養所の内から外へ、そして日本だけでなく世界全体へと広がっ ていく、そういう社会性の広がりと同時に深まりを読むものに感じさせる。
  個人の魂の救 済を原点に据えながらも、そこにとどまらずに、個人のもつ掛け替えのない生きる権利を大 切にして社会運動をすると言う、教会の壁の中に閉じ籠もらない普遍的なキリスト教信仰 のあり方を示しているように思う。

  松本さんが1962年(昭和37年)から1986年(昭和61年)にかけて毎月一回刊行された個人誌「小さき聲」 の原本のコピーを纏めて製本したものが全生園の図書館にある。私は「小さき聲」の最初の100頁ほどを読んだが、その内容に強く惹かれた。  

 松本さんは1918年4月25日、埼玉県に生まれ、1935年、17歳の時にハンセン病と診断されて、全生病院に収容され、2005年5月23日に、87才でなくなられるまで、70年の間、療養所で過ごされた。プロミンが開発される前の戦前の療養所、戦中のもっとも苦しい暗黒の時代、戦後まもなく起きた最初の予防法改正運動、1960年代後半の自治会再建の呼びかけ、療養所の歴史を療養者の目から纏めた「倶会一処」の刊行、ハンセン病図書館の創設、など療養所の過去の歴史をつぶさに体験しつつ、そのただなかで活動された方である。 戦後まもなく、奥様が若くしてなくなられたあと、御自身も1950年に失明されるという大きな試練に出会われたが、関根正雄の無教会主義キリスト教との出会いによって立ち直られ、1962年から一信徒としての伝道の書「小さき声」を24年にわたって刊行された。

  松本さんの伝道活動は、全生園のなかでの自治会活動と不可分の関係にある。世俗の直中において福音を証するという無教会主義の思想の実践者として、1968年に自治会の再建を呼びかけ、1974年から87年までの13年間、自治会長として、また全国の療養所の支部長会議と連帯しつつ、らい予防法の改正ないし廃止の必要性を訴えられた。そういう活動も、多磨誌への寄稿も、「小さき声」の刊行も、すべて、盲目と肢体麻痺というハンディキャップを乗り越えて、多くの方々の協力を得て為されたものである。

 晩年の松本さんは、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上でもういちど出版したいという願いをもっておられたようで、2003年5月から前田靖晴さんのご協力を得て読み上げの作業を続けられた。 2004年7月にこの作業が一応終了したので、前田さんは修正ずみの原本を拡大コピーし、数部を製本された。現在ハンセン病図書館にあるものはそのうちの一部であるとのことであった。 松本馨さんの公刊された著作(単著)は、

(1)「この病は死に至らず」(1971)  キリスト教夜間講座出版部 
(2)「十字架のもとに」(1987)   キリスト教図書出版社 
(3)「生まれたのは何のために―ハンセン病者の手記」 (1993) 教文館 
(4)「零点状況―ハンセン病患者闘いの物語」     (2003) 文芸社 
の4点である。 (1)(2)(3)はハンセン病資料館で閲覧可能。また(4)は新刊として入手可能だが、あとはなかなか書店から入手するのも、一般の図書館で閲覧するのも難しい。

  これらの著作の内、創作である(4)以外は、すべて「小さき聲」に掲載されたものを中心として編集・出版された。たとえば(1)の第一部は、松本さんの「回心記」であって、「小さき聲」の一号から二四にわたって連載された。松本さんはこの「小さき聲」を毎月刊行しつつ、自治会の激務をこなされ、同時に、「多磨」誌におおくの評論を寄せているが、そういう自治会活動にかかわる評論も(1)の第三部に収録されている。

  「小さき声」という伝道の書の「小さき」が何を意味するかについて考えてみた。列王記上19章のホレブに於ける預言者エリヤが「主」とであった経験を叙述する箇所につぎのような文がある。

 「見よ、主が過ぎゆかれ、主の前に強い大風が山を裂き、を砕いた。しかし、風の中には主はいまさなかった。風の後に地震があったが、地震の中には主はいまさなかった。地震の後に火があったが、火の中に主はいまさなかった。火の後でかすかな沈黙の声があった」

  この「かすかな沈黙の声」のなかに、預言者エリヤは、主の言葉を聞いた。この声こそ、松本さんの「小さき声」そのものではないだろうか。大風、地震、火のような天変地異、大げさな現象の中には主はいない。むしろ、その後の、「かすかな沈黙の声」のなかでエリヤは主とであう、という内容である。  そういう「かすかな沈黙の声」、そのなかに主の声を聞いたエリヤに倣って、松本さんの「小さき声」のメッセージに虚心に耳を傾けたい。
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多元的一性ー「創造的経験と統合体の哲学」のために

2020-12-05 |  宗教 Religion

第42回日本ホワイトヘッド・プロセス学会Symposium提題は

「有機体を支える知の枠組みをあたえる方法―多元的一性の視点から」でした。
「多元的一性」という術語に対してシンポジウム企画者の田村高幸氏は次のような説明を与えています。

〇多元的一性 ***多元であるものが相互に関係し合い相互に育みあうことを可能ならしめるシステム(一ということにする)のもつ性質
〇多元的一 ***多元である各々の成長によって、多元である各々によって支えられているものであり、多元である各々、そこから生まれる諸関係等を包み、多元である各々を相互に関係することや関係を見通し合うことを可能ならしめ、相互に助け合うことをも可能なならしめるもの
 
 さて、田村氏のこの説明を聞いて、これは、なんらかの組織体を維持しつつ創造的に発展させる為の「管理の哲学」として非常に有効であると思いました。   田村氏のいう「多元的一性」の思想を、私の言葉で言い換えるならば、「統合的一性」ないし「多元的な統合性」となりますが、それは「創造的な経験論」の思想を、「管理の哲学」という実践的な社会哲学に応用したものであるということができるでしょう。『管理の哲学』とはホワイトヘッド学会前会長の村田晴夫氏の著書の題名でもありました。
 
 ホワイトヘッドのいう「有機体の哲学」は、「創造活動と一と多」の織りなす三一的な力動的コスモロジーですが、それは、ヘーゲルの言う「思弁的哲学」の理念、すなわち「論理学、自然哲学、精神哲学」を円環的に相関させる「統合学」の試論と考えることができます。
 
  ホワイトヘッド学会が継承すべき遺産の一つは、このような「管理の哲学」ないし「人間の学としての経営学」ともいうべき社会哲学であったことを想起しつつ、これを踏まえて現在という歴史的瞬間(カイロス)においてそれを活用し、将来へむけて「統合体の哲学」を創造的に進展させることが我々の学会の歴史的・世界的使命でしょう。
 
 ホワイトヘッド学会が継承すべきもうひとつの遺産は、京都学派の宗教哲学とホワイトヘッドに由来する哲学的神学(プロセス神学)との統合です。  これには我々の学会達のすぐれた先駆的仕事、クレアモントやルーバンでプロセス神学を学ばれた多くの先達による先行研究があります。
 我々の学会員達の宗教哲学は、決して米国のプロセス神学とおなじものではないことに注意すべきでしょう。
  たとえば、延原時行氏は、渡米する前に開拓伝道をしつつ滝沢克己に師事されたラジカルなプロテスタントであり、「西田哲学とホワイトヘッドの間」で思索しつつ「仏教的なキリスト教の真理」を探求されました。
   我々の学会の顧問である武田龍精氏は、浄土真宗の宗学とプロセス神学をともにまなばれ、科学時代の宗教のあり方、核戦争と環境破壊という「危機の時代」における宗教哲学の思索を続行されています。
    このほか、山本誠作氏、花岡永子氏、尾崎誠氏など、ここでくわしくその貴重な仕事を紹介する余裕はありませんが、多くのわれわれの先達もまた、京都学派の宗教哲学思想とホワイトヘッドを手引きとしつつ、「歴史的世界の課題」を引き受ける試みをされた先駆者でした。
  私自身は、ホワイトヘッド学会のほかに、「東西宗教交流学会(The Japan Society for Buddhist Christian studies)」にも関係していますが、宗教間対話の原則として、「多元的一」という概念の重要性を認識しています。
 宗教間対話では、exclusivism, inclusivism, pluralism という三つの立場の内、最後のpluralism のみが真の対話を可能ならしめるという考え方が次第に一般的となっていますが、このような宗教多元主義に対しては、それは相対主義ないし折衷主義にすぎないから世界宗教のもつ普遍性ないし絶対性の要求と相容れないという批判がありました。キリスト教やイスラム教のような一神教の世界観では、宗教多元主義を否定する見方が主流であるとも言えるでしょう。
     これに対して、私は、絶対者は(原理主義者のように)肯定的に主張されるときはかならず偶像崇拝になると考えますが、そのような偶像から解放されるためには、むしろ「相対に徹底」することによって、単なる多元主義を越える方法が必要です。
 
  ホワイトヘッドの『有機体の哲学』やプロセス神学者のジョン・カブの『対話を越えて』に示唆されて、個々の宗教の文化形成的な活力を尊重し、他の諸宗教から学ぶことによって自己の属する宗教の独自の価値を再発見し、自己を創造的に刷新する道があることに気づき、「統合的多元論inclusive pluralism」 あるいは「多元的統合論plural inclusivism」 という考え方を、私は次第にとるようになっています。
 
  自己と異なる宗教ないし文化に属する他者を、自己から隔離して「棲み分ける」のではなく、自他の境界を突破して、他者と対話することの意義を解明し、そしてその「対話によって/対話をこえて」、自己自身を創造的に変革することが大切です。

 「多元的一」の「一」とは、静的な「モナド」ではなく、多と一の間の生成と存在の転換のリズムを伴った「一」です。それは、「特異性をもった一(singularity)」、すなわち「どのひとつも他とは異なる代替不可能な一」ですが、孤立した「モナド的な窓なき一」ではなく、すべての他者をうちに含むことによって「主體的一」として生成し、みずからを「新たなる客体的一」として、「すべての他者に自己自身を与えます。私は『統合体の哲学』で表現された「多元的な一」の力動性をこのように要約してみましたが、如何でしょうか。
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ザビエル帰天記念日に寄せて

2020-12-03 |  宗教 Religion

 

スペイン出身の司祭で日本に帰化された結城了悟師の「ザビエル」史伝には、時代を隔てて受け継がれた宣教師の精神と日本の文化を大切に思う気持ちに溢れています。この本の表紙のザビエル像は、結城了悟師が館長をつとめておられた日本26聖人記念館にあるものですが、いかにも東洋の使徒にふさわしいイメージだと思いました。

 

 

 都を目指したザビエルの目的のひとつは比叡山に行くことでした。このときの彼は貧しい托鉢僧の身なりで(アッシジのフランシスと同じく)裸足で雪道を歩くという苦行を自らに課していました。そのときの乞食同然のザビエルの姿は、布教許可を獲得するという彼の目的には全くかなわないものでしたが、それでも堺の商人たちとの出会いと彼らの助力が後の日本布教に大いに手助けとなりました。時の権力者に贈呈する高価で珍しい進物や、西欧の王侯の使節と見まがうばかりの豪奢な装いをする南蛮の宣教師のイメージとは程遠い、このときのザビエルの乞食姿のほうに、私は惹かれます。

 

 ザビエルに出逢ったポルトガルの商人でのちにイエズス会に入会し、西洋医学を初めて日本に伝えるとともに、日本の漢方医と協力して、貧民救済のための病院施設を造営したアルメイダは、訪日前のザビエルの印象を次のように記している。

 

『ある日、突然インドの俗僧のような黒衣をまとい、腰帯も長衣もつけていないみすぼらしい人がこの島(モルッカ諸島)にあらわれました。彼の行動を見てみますと、現地人たちをさかんにイエズス会に改宗させようとして働いているのです。どうして南方のこんな野蛮で未開な僻地の島々にまで来て、何のためにあんなに命がけで改宗の仕事に従事しているのか。彼の行動は、不思議であり、私には謎のような人物に見えました。そのとき彼はしばしば、アモール(愛)ということばを話していました。この日本では「アモール」という言葉はありません。この「アモール(愛)」に相当する言葉は、「Taixet(大切)」であると、あとになってから知りました。この黒衣をまとった人物こそフランシスコ・ザビエルでした・・・・・

 そしてこのザビエル師の行動の中から、ひとつのたしかな心の安らぎになるような生き方を教えられました。それは「Taixetyni moyuru(大切に燃ゆる」というものでした。私はこのザビエル師の処世の信条である「大切に燃ゆる」という生き方に強く心を動かされました。そのころ私は帆船の船主という身分で万に届くほどの莫大なクルサド貨幣を獲得していましたが、なぜか心の中は空しく、強い罪悪感のようなものがうごめいていました。私はこのことについてザビエル師に告解しました』

 

『一五五四年夏、ドアルテ・ダ・ガーマらの船主たちと共同経営で、四隻の商船に財貨ー唐生糸、絹織物、琥珀織を満載し、日本に向かったところ、まもなくひどい暴風雨に遇いました。そのとき生まれて初めて自然の脅威と神の恐ろしさに戦慄しました。勇壮だった私の帆船の大きな白布はずたずたに破れ、マストは捻れるように折れ曲がり、竜骨だけがむきだしに残りました。マストの下方には船員や雇用兵たちが溺死しないようにしかりと躰をマストにくくりつけていましたが、最後の祈りのまま、無慚な姿で息絶えていました。その悲惨な光景を見た瞬間、それまで私が執拗に憧れ求めたもの、それがどんなに儚い幻のようなものであったかということが一瞬のうちに私の全身を貫きました。そのときザビエル師がつねづね申されていたマタイの言葉が大きく耳底で聞こえました。(一五五五年九月一五日付フロイスの書簡)

 

  ここでいうマタイの言葉とは、「人、もし、全世界を得るとも、その魂を失わば何の益があろうか」(16:26)でしょう。 

 アルメイダは、貿易商人として成功する前、一五四六年に母国で外科医の資格を取得していたので、回心後に豊後に、社会から見捨てられた人々のための病院を作ることを発願します。

 

『私が豊後に来て Nossa Senhora da Piedade (慈悲の聖母の住院)のため病院を創りたいと思ったのも、ひとつにはそれまでのおろかだった私のデウスに対するせめてもの贖罪のようなものでした。

 私が南の香料の島でザビエル師からこの目で学んだ「大切に燃ゆる(Taixetni moyuru)」これが病院創設の発願の動機になったように思います。・・・・

 私は「病める人間」の治療には「肉体の薬」と「魂の薬」の二通りの薬を併用しなければならないということを知りました。しかし、現在の私の力では、少しばかりの肉体の薬を与えることしかできません。必ず死ぬ運命にある人間の治療には「魂を癒やす薬」こそ最高の薬だと思っています。』

(ガゴ、トルレス、ビレ等、アルメイダの書簡)

 

使徒行伝と福音書を書き残したルカも、パウロによって「愛する医師ルカ」(コロサイ4-14)と呼ばれているように医者でした。時代は変わって、パウロやルカの時代ではなく日本の戦国時代でしたが、アルメイダもまた、当時のイエズス会の宣教師を財政的に援助するために全財産を抛って当時の日本社会で差別されていた人々を収容する病院を豊後(いまの大分県)に創設したのです。

 

ここで「大切(愛)に燃ゆる」キリスト者ザビエルの心を最もよく表現している祈りを紹介させてください。それは、『純一なる愛の働き』actus puri amoris というザビエルの祈りです。
 
「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありません。ただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです」
 
 ザビエルは、自分が神を愛するのは、天国へゆくことへの期待からでもないし、永劫の罰を受けることへの恐怖からでもない、とはっきりと言っています。何か報いを受けることを希望するがゆえに神を愛するのではないのです。そういうことを望むのは、「純一なる愛の働き」ではなく、ただひたすらに私への愛のために十字架につけられたイエスへの愛のみが歌われています。私はこの祈りこそ、イエスのために殉教した日本人の心に直接に訴えたものだと思いました。
 
ザビエルの祈りの原文も紹介します。
 
   Actus Puri Amoris
 
O Deus amo te!
Nec amo te ut salves me,
Aut quia non amantes te
Aeterno punis igne;
Tu, mi Iesu, totum me
Amplexus es in cruce.
Tulisti clavos, lanceam,
Innumeros dolores,
Sudores et angores
Ac mortem, et haec pro me,
Ac mortem, et haec pro me,
Ac pro me peccatore!
Cur igitur non amem te,
O Iesu amantissime,
Non ut in caelo salves me,
Aut ne in aeternum damnes,
Nec praemii ullius spe,
Sed sicut tu amasti me;
Sic amo et amabo te,
Solum quia Rex meus es,
Et splum quia Deus es!
Amen.

 

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「遺愛」の歌ー島秋人の短歌をローマで聴く

2020-10-22 |  宗教 Religion
ローマの聖マリア聖堂でフランシス教皇が主催された「平和のための祈り」に招かれた曹洞宗の峯岸正典老師のスピーチを聞きました。老師は上智大学哲学科の卒業生でもあり、第二バチカン公会議以降可能となった宗教間対話に積極的に関わってこられた方です。老師はドイツの聖オッチリエン修道院で修道生活も体験されました。日本の仏教的修道の伝統とキリスト教の修道院の霊性の伝統の間の東西霊性交流といって良いでしょう。
 
 峯岸老師のスピーチは、ビデオ放送(英訳付)の120分30秒あたりから始まります。
 
老師は、島秋人の短歌
   この手もて人を殺(あや)めし死囚われ同じ両手に今は花活く
   愛に飢ゑし死刑囚われの賜りし菓子地に置きて蟻を待ちたり
を引用しつつ話されました。
 
 死刑囚として7年間獄中にあった島秋人は、歌集「遺愛集」を我々に残して亡くなりました。ローマの会議のテーマは「我々は一人で生きているのではない」ということでしたが、歌を通じて獄中の島と繋がった多くの人々の心に遺した「遺愛」の短歌を読むとまさしくそのことを実感します。
 
 
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長崎の鐘ー永井隆医師と小関裕而

2020-10-21 |  宗教 Religion

10月22日放映予定の「エール」第94回・「長崎の鐘作者との出会い」に登場する永田武医師のモデルは永井隆ですが、「長崎の鐘」は彼の自伝的随想(昭和23年出版)の書名です。永井は、戦後の困難な時期にようやく出版できた初版本の自序の中で

「この本の題名となった浦上天守堂の鐘は、あの(昭和20年の)クリスマスに煉瓦の崩れた中からつり出され、地面近くに仮吊りのまま鳴らされてきましたが、それからまる三年経った今、新しい鐘楼が建ち、このクリスマスから中空高く鳴り出すようになりました。この平和の鐘が一日も欠かさず世世の末、世界の終わりの日まで鳴り続きますよう祈り、かつ努めたいものです」

と書いています。小関裕而自身が、病床にあった永井隆医師との交友を語り、永井から送られたロザリオを示しながら、「長崎の鐘」を戦争の犠牲者への鎮魂歌(レクイエム)として作曲した、と語っている貴重なビデオ録画(12分27秒以後の部分)があります。(藤山一郎の歌唱がその後に続きます)

 

https://youtu.be/2vEzk3jstg0?t=12m27s

 

今週の明星 古関裕而ヒット曲集 (古関裕而、伊藤久男、藤山一郎、岡本敦郎、二葉あき子)

#古関裕而 #伊藤久男 #藤山一郎 #古関メロディー

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博愛と社会的友情の勧めーフランシス教皇の回覧書簡「すべての同胞に(Fratelli Tutti)」の序文から

2020-10-07 |  宗教 Religion
博愛と社会的友情の勧めーフランシス教皇の回覧書簡「すべての同胞に(Fratelli Tutti)」の序文から
 
自由・平等・友愛の三者はフランス革命以後の近代社会の根本思想です。この三位一体の根本原理を近代以後に生きる「普遍の教会」はどのように理解すべきかーフランシス教皇の最新の回覧書簡「すべての同胞に」はそれを考える手引きを与えていると思いました。
         ー序文冒頭の部分の試訳ー
「すべての同胞(Fratelli Tutti)」という言葉によって、アッシジの聖フランシスは兄弟姉妹に呼びかけて、福音書の味わい深い言葉で人生の一つの道を提示しました。フランシスの言葉のなかから、私は博愛の勧めを選びたいと思います。それは、地理と距離の障碍を越えて、「自分と共に居るときに劣らず自分から遠く隔たっているときにも」友を愛する全ての者は祝福されているとはっきりと述べています。聖フランシスは、単純かつ直接的に、友愛の本質を表現しています。物理的な近さを顧みず、その人がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、一人一人の人格を認め、よく理解し、愛することが、友愛に開かれていると言うことなのです。
 博愛、純一さと喜びを語るこの聖人に鼓舞されて、私は回覧書簡 「ラウダート・シ(御身が頌えられますように)」を書きましたが、今度は、博愛と社会的な友情をすすめる新しい回覧書簡を書くこととしました。フランシスは自分が、太陽や海や風の兄弟であると感じていましたが、それでも同族である人間に自分がさらに近いことを知っていました。どこに出かけようと、彼は平和の種子を蒔き、貧しき者、見捨てられた者、弱き者、疎外された者、つまり自分の兄弟姉妹達の中でもっとも小さき者達とともに寄り添って歩きました。
            ーーーーー
  コメント
◎教皇のencyclical letter は「回勅」と訳すのが慣例ですが、私は「回覧書簡」と訳しました。使徒の書簡と同じく、特定の地域(ローマやコリント)の教会の信徒だけに宛てられた書簡ではなく、あらゆる教会に、キリスト者や非キリスト者の差別なく、あらゆる人に回覧されるべき書簡という意味を明確にしたかったからです。
◎Fratelli Tutti は アッシジのフランシスの使ったイタリア語ですが、「兄弟達」とせずに「同胞」と訳しました。同じ段落で「兄弟姉妹」と言い換えられていることから分かるように、男性と女性の差別をしないことが、このよびかけの言葉に含まれています。
◎「友愛」の本質は何か、ということをこの「回覧書簡」は考えるように促しています。自分が帰属する国家や団体のメンバーのみを愛し、その外部にいる「他者」を無視したり、憎悪したり、排除したり、するところにまことの友愛は存在しない。そのような境界や「壁」を越えて他者を愛するところに「友愛」の本質があると、この「回覧書簡」は明言しています。
 
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「敬天愛人」の意味とその由来ー上智大学公開講座「日本の宗教と思想」より

2020-10-03 |  宗教 Religion

「敬天愛人」の意味とその由来 
上智大学公開講座 「日本の宗教と思想」より

『南洲翁遺訓』の西郷の文明論、中村敬宇の『敬天愛人論』を手引きとして、中江藤樹にまで遡る日本の儒教とキリスト教倫理の邂逅、その統合の問題を考察しました。

「敬天愛人」の意味とその由来

上智大学公開講座「日本の宗教と思想」より

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『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規則』

2020-10-01 |  宗教 Religion

『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規(しんぎ)』

 ー東西の霊性交流のためにー

「聖グレゴリオの家(宗教音楽研究所)」講演(2019/10/16)                                      

                                                  田中 裕

はじめに

 

道元には、主著『正法眼蔵』とおなじく重要な一連の実践的著作として『永平大清規』がある。「清規」とは「修道者が守るべき規則」のことで、「清」とは「清衆(しんしゅ)」つまり修行道場で共同生活をする修道僧を意味する。『永平大清規』と呼ばれる一連の著作は、宋から帰国した道元の道場となった深草興聖寺で出家者や在家者のために制定した規則に始まり、後に帝都を離れて山林に修行場を求めた道元が、越前吉峰寺、大仏寺(永平寺)にて著述した最晩年のものまで含む。

 『聖ベネディクトの戒律』が単に修道会の規則にとどまらず、今日のカトリック教会では、世俗の中で福音伝道する献身者(オブラーテ)にも読まれているのと同じく、道元の『清規』もまた、出家者だけでなく、在家にあって「菩薩行」をおこなう人の生活の指針として読まれてきた。

 道元を高祖とする曹洞宗の峰岸正典老師は、ドイツのオッティリエン修道院とのあいだでの東西霊性交流を1979年から現在まで続けて実践されているが、同修道院でベネディクト会士と共同生活した経験を踏まえて、ベネディクト会の修道院と道元の清規にしたがう禅の修道生活に通底するものを次のように要約している。

  • 早朝起床、坐禅・朝課・朝食。午前は作務・坐禅・勤行・昼食。午後は作務・坐禅・晩課・夕食。夜坐そして入眠という修行道場の一日と早朝起床・全体での祈り・個人の祈りミサ・朝食。労働・昼の祈り・昼食小憩後労働・夕方の祈り・夕食・夜の祈り・入眠といった修道院のサイクルはよく似ている。
  • 「時(じ)の勤行、四時(しじ)の坐禅」という定めを持つ修行道場と「聖務日課」に規定される修道院ではきわめて似た時間意識とリズムにおいて一日が過ごされている。加えて生涯をかけての修行・修道を志すという共通性もある。
  • また、「我を張らない(無我)」ということは禅の修行の眼目であるが、修道士も自己を極端に主張してはならない。聖ベネディクト会則では「謙遜の実践」が「修道の全課程に欠かせない」ことが示されている。
  • 集団での坐禅や祈りという宗教的行を務め、作務・労働をするという形態の中に、信仰対象や宗教共同体への自己帰入が希求されている。こうした希求は、諸々の宗教的行為において身体を通じて表現され、自らを小さなものとして、大いなるものに対して畏れと敬意を表す。
  • 聖ベネディクト会則(第七章)でも修道士は神への謙遜という「こころ」を日常生活の中で「かたち」に表すことを要請されている。禅でも身体的行為には「仏作仏行」としてより積極的な意味がある
  • 修行道場と修道院において最終的に求められているものが、教義の学術的理解というよりも、むしろ宗教的実践、求道(辨道(べんどう))であり、生涯を通じて行じられる「生き方としての宗教」が大切にされている。換言すれば、修行僧と修道士は宗教的な生き方を宗教共同体の中で深めようとする者同士として本交流において邂逅したのであり、だからこそ、異なった信心や信仰体系を持つ宗教者同士といえども、両者の間に深い共感が生まれたと言えよう。[1]

また、イエズス会の門脇佳吉神父は、道元の清規に従って生きる「行道」のことばの実践にこそ、自然環境破壊を克服するエコロジーの実践を導く「形而上学」があることを強調してつぎのように云っている。[2]

道元は、第一に、自然と人間を結ぶ原初的な関係を道(仏の御いのち)のはたらきによって根拠づけ、自然の全体と人間の渾身の感覚的結びつきを中心に含みながらも、知恵によって形而上学的エコロジーともいうべき道理を確立したのである。このようなエコロジーは知恵に基づくから、西洋世界にも通用するだけでなく、西洋のエコロジー神学の抽象性を克服し、自然と人間との感覚的結びつきを大切にすると共に、知恵(sapientia)による「道なるキリスト」のはたらきでそれを根拠づけることによって、形而上学的エコロジーの確立に道を開くのである。

 

永平大清規にみられる道元の修道論

 

永平大清規とは、道元(1200-1253)の定めた次の六つの清規をさす。

『典座(てんぞ)教訓(きょうくん)』、嘉禎3年(1237):僧院で台所仕事を司る典座の心得と作法。

『辨道法(べんどうほう)』、 寬元3年(1245):僧堂における坐禅中心の修道生活の規範

『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』、寬元4年(1246):僧堂で粥(朝食)と飯(昼食)を喫するときの作法

『衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)』、宝治3年(1249):修行僧が看経(読書)や行茶(喫茶の行礼)を行う「衆寮」での規則と誡め

『對大己法(たいだいこほう)』、寬元2年(1244):「大己」(目上の人)への礼法。謙遜の誡め。

『知事(ちじ)清規(しんぎ)』、寬元4年(1246):僧院で様々な業務を担当する指導者(知事)の責務と選任の仕方

 

ここでは、とくに、道元が宋に留学僧として聞法の旅に出たときに出会った阿育王寺の老典座との対話が収録されている『典座教訓』に注目したい。そこには、在家と出家の区別を越えた道元の修道論の原点が明確に示されているからである。

嘉定十六年癸未(みずのとひつじ)(1223)の五月中、慶元府に停泊する船内で、道元が日本船の船長と話をしていたおり、一人の老僧がやってきた。年は六十歳程度である。まっしぐらに船に来て、日本人に尋ねて椎茸を買い求めた。道元は彼を招待して茶をふるまい、その所在を尋ねたところ、阿育王山の寺の典座和尚ということであった。以下、道元と老典座との問答を『典座教訓』に記された通りに再現してみよう。

老典座: 私の出身は西蜀(四川省)です。郷里を離れて四十年になりまして、今年で六十一歳です。これまであちこちの修行道場をあらかた経験してきました。先年、孤雲道権禅師が住持している阿育王寺を訪ね、正式に修行することになりましたのに、無為に過ごしてしまいました。ところが去年の夏の修行期間の後、阿育王寺の典座に任ぜられました。明日は端午の日なので、一つご馳走しようと思ったものの適当なものが何もありません。麺汁を作ろうと思うのですが、椎茸がなかった。そこで特別にやってきて椎茸を買い求め、各地より集まった雲衲[3]に供養するつもりです。

道元:いつ頃阿育王寺を出てきたのですか? 老典座:昼食の後です。

道元:阿育王寺はここからどれくらいの距離ですか? 老典座:三十四五里[4]です。

道元:いつ寺へ帰るのですか? 老典座:今しがた椎茸を買いましたので、すぐに帰ります。

道元:今日は期せずしてお会いし、のみならず船内でお話しすることができました。これは素晴らしいご縁ではございませんか。私道元が典座禅師にご馳走いたしましょう。

老典座:いけません。私がもし管理しなかったら、明日の食事が駄目になってしまうでしょう。

道元:阿育王寺には、典座寮の仲間で、朝昼の食事を理解・会得している人がいるでしょうに。典座和尚が一入不在であっても、何の不備がありましょうか。

老典座:私は老年にてこの職に就いたのです。つまり、おいぼれの弁道です。どうして他人にその職務を譲れましょうか。それに来るときに、一泊の許可を得て来ませんでした。

道元:典座和尚はご高齢であられる、どうして坐禅弁道したり、語録を読んだりしないのですか。典座職務に煩わされ、ひたすら肉体労働をして、どんないいことがあるというのですか?

老典座:(大笑いして)
外国の好青年よ、あなたはまだ弁道というものを解っていないし、まだ文字というものを知らないのです。外国好人、未了得弁道、未知得文字在)

道元:(老典座のその言葉を聞いて、ハッと自分を恥じ畏れおののき)

文字とはどういうものでしょうか、弁道とはどういうものでしょうか?(如何是文字、如何是弁道)

老典座:あなたが質問したところを見過ごさずにいれば、そういう人(文字を知り弁道を体得した人にならないということがどうしてありましょう。(若不蹉過問処、豈非其人也)

道元:(その意味が解らず)・・・・・

老典座:もし解らなかったならば、後日いつか阿育王寺に来てください。一つ、文字の道理について語り合いましょう。(そう話した後、すぐに起ち上がって)日が暮れてしまった。急いで帰ろう。(と言って帰ってしまった)

その年の七月、道元は天童山景徳寺で修行をしていた。時にあの典座がやって来て、道元に会って

「夏の修行が終わったので典座職を退いて、郷里に帰ることにしました。たまたま同門の者が、あなたがここにいる、と言っているのを聞きました。どうして来て会わないでいられましょう」と言った。

道元は小躍りして喜び感激し、彼を接待して会話をした折、先日の船内における文字・弁道の因縁について聞いてみた。

老典座:文字を学ぼうとする人は、文字の意味を知ろうとするし、弁道に努める人は、弁道の意味を会得しようとします。

道元:文字とはどういうものですか? 老典座:一、二、三、四、五

道元:弁道とはどういうものですか? 老典座:「世界は何一つ秘蔵しません(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)[5]

 

道元は、23歳の時に宋で出会った老典座から学んだことについて、『典座教訓』のなかで次のように云っている。「私が多少なりとも文字を知り弁道を会得できたのは、この典座の大恩のおかげである。これまでの経緯を亡き師匠、明全禅師に話したところ、明全禅師はただただ大変に喜ばれた」

 

参考資料ー「蓮の露」の良寛と貞心尼との相聞歌

 

道元没後約五百年、永平録の「ことば」を読み、感涙にむせて書物を濡らしてしまったという体験[6]を漢詩「讀永平録」に詠んだのは良寛であったが、彼の漢詩や短歌には道元からまなんだ「ことば」がさりげなく読み込まれている事が多い。とくに良寛の弟子になることを志願した貞心尼とのあいだに交わされた次の相聞歌は有名である。(のちに貞心尼自身が編纂した歌集「蓮の露」に収録されている)

 

貞心尼:(師常に手鞠をもて遊び給ふると聞きて奉るとて)

これぞこれ ほとけのみちに あそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ

良寛:(御かへし)

 つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを 十とおさめて またはじまるを[7]

貞心尼:(はじめてあひ見奉りて)

きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬゆめかとぞおもふ

良寛:(御かへし)

 ゆめのよに かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに[8]

 

菩薩の修道について

 

道元は在家出家を問わず「菩薩戒」を重要視した。小乗仏教のこまごまとした戒律ではなく、戒律の精神を生きること、とくに菩薩として生きる大乗仏教徒は、大乗にふさわしい戒律を生きるべきであるという伝教大師最澄の教えにしたがい、入宋にさいして小乗仏教に由来する「具足戒」を道元は受けなかった。男性出家者の場合は250戒、女性出家者の場合は348戒もある小乗仏教由来の戒律は、「・・・すべからず」という微に入り細をうがつ禁止条項をふくむ小乗仏教由来の戒律であり、道元の生きていた時代には単なる建前だけの慣行にすぎず、厳密にそれをまもるものは少なかった。

さらに「人は本来仏である」とか「一切の衆生は悉く仏の本性をもっている」という大乗仏教の根本的な教えは、戒律の事実上の無視を正当化する危険があった。道元は、労働を仏道修行に必要な修行として取り入れた百丈慧海、それにもとづく「禅苑清規」を参考にしつつ、日本の修行僧に適した清規を制定したのである。戒・定・慧を三学とする仏教の修道は、坐禅(只管打坐)を根本とし、禅定によって生まれる(あらゆる二元性と対立を越える無差別の)智の働きと、(一切の衆生を救済しようとする)菩薩行をすすめる「菩薩戒」にもとづくものとなった。

道元の修道論の根本的な特徴は、「修行は仏になるために行うのであって、一度悟りを開いて仏になればもはや修行は必要ない」と考えるのではなく、「本来人は仏であるからこそ修行するのである」というところにある。修行を証(悟り)の手段と見る二元的な見方を越えた「修証一等」ないし「本証妙修」が道元の修道論の根本であるが、従来見落とされてきたことは、修行は自分一人が成仏するためにするのではなく、一切の衆生が救われることを願って為されるのであるという「菩薩」の誓願があると云うことである。このような「大悲」の「誓願」が道元の坐禅の背景にあること、道元が「禅宗」という呼び名を拒否して、普遍的な救済をめざす大乗仏教の根本精神に立ち返るべき事を説いたことは、とかく禅宗の一つの宗派である「曹洞宗」の開祖として道元を位置づける仏教史家の陥穽ではないだろうか。

 

在家の修道者の行道の手引き─菩提薩埵四攝法について

 

在家の信徒のために道元は様々な修道の手引きを残している。普通、在家の仏教信徒に要求されるものは、(1)不殺生(2)不偸盗(3)不邪淫(4)不妄語(5)不飲酒 の所謂五戒であるが、これらは消極的な戒律である。ところが道元は、菩薩道の実践を積極的なにするために、「・・・するな」という戒律ではなく「・・・・しよう」という積極的な「法」を説いた。それが「菩提薩埵四攝法」である。「摂法」とは「他者を真理に導く四つの法」というだけでなく、「四つをばらばらに実践するのではなく一つの統合的な法として実践しよう」という提言である。

その四摂法とは、(一)布施(ふせ)、(二)愛語(あいご)、(三)利行(ウぎよう)(四)同事(どうじ)である。

布施とは、不貧(ふとん)(むさぼらないこと)である。むさぼらないとは、「人の気に入ろうとしないこと」、また「人の感謝をむさぼらないこと」である。道元は、「自分が捨てるつもりであった財物を、見知らぬ人に施すように、気前よく布施をする」ことを勧める。現在では、布施とは専ら在家者が出家者に与えることだけを指す意味となったが、道元の云う「布施」には在家と出家の差別はない。与えるものが軽少であるかどうかが問題なのではなく、それが相手の役に立つかどうかが問題なのである。道元は与える者と与えられる者を差別する二元性を突破して次のように云う。

「〔布施は〕自分を本当の自分とし、他者を本当の他者とするのである。布施の現わす力は、遠く天界や人間界にも及び、悟りを得た賢聖たちにも通じる。」

「舟を浮かべ、橋を渡すのも、布施の行いである。さらに深く学ぶならば、生きることも死ぬことも布施である。暮しの道を立てることも、生産に携わることも、布施でないものはない。」

「アショーカ大王がわずか半箇のマンゴーで数百の僧たちを供養して、供養の力の広大さを示したことを、布施をする人たちは、よくよく学ぶべきである。」

「衆生のこころを動かすことはむずかしい、そのため一財でも与えて、道が成就するまで導いて行くのである。それは必ず布施によって始めるべきである。そのため布施は、求道者が完成すべき六つの行為(布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧)の一番はじめにあるのである。」

仏教の伝統では「愛」ということばは「執着」を示すものとして否定的な含意があった。しかし道元は「愛」に肯定的な意味をこめて「愛語」を「布施」とともに菩薩の法と考えた。

 道元の云う「愛語」とは、さしあたっては、「人に会った時に 慈愛の心を起して、やさしいことばをかけること」である。決して暴言や悪言を用いず、「お大切に」とか「御機嫌いかがですか」といって相手の安否を問うことを意味するが、それだけに留まらず、「愛」の「ことば」に深い宗教的な含意があることを述べている。

「仇敵どうしを和らげ、徳のある人たちを仲よくさせるには、愛語がその基本である。向かいあって愛語を開く人は顔を歓ばせ、心を歓ばせる。蔭で愛語を聞く人は、肝に銘じて忘れない。愛語は愛心より起り、愛心は慈非心をもととしているのである。愛語が天をも回らす力を持っていることを知りなさい。愛語は、相手の長所をほめる以上のことなのである。」

西洋近代の功利主義は、自利と利他の計量比較によって「利」の最大をめざす社会倫理を構築しようとしたが、道元の云う「利行」は、自分の利益と他人の利益の差別、身分の高低による差別を越えた宗教的徳として語られている

 「利行というのは、身分の高い人に対しても低い人に対しても、相手の利益になることをすることである。例えば相手の遠い未来や近い未来に気をくばって、その人の利益になることをするのである。昔、ある人は籠のなかの亀を助け、ある人は病気の雀を介抱した。彼らはなんの報酬も期待せず、ただ利行をするという気持にかられて、それをしたのである。」

「怨みを持ったものに対しても親しいものに対しても、同じように利益を与えなさい、それが自分をも他人をも利することなのである。もしそのことがわかれば、草木風水に対しても、休むことのない利行がなされるであろう。真理の道を知らない人々を救うために、ひたすら努めなさい。」

日本人の社会倫理では、自分だけが特別であろうとしないこと、が重んぜられる。このような、出る釘は打たれる、ことを用心するような消極的な処世訓とは違って、道元の云う「同事」は、次のように他者に対する積極的な関わりを求める菩薩行である。

 「同事ということがわかれば、自分も他人も一体となるのである。白楽天の詠んだ「琴・詩・酒」は、人を友とし、天を友とし、神を友としている。人は琴・詩・酒を友としている。琴・詩・酒は、琴・詩・酒を友としている。人は人を友とし、天は天を友としている。このような道理を学ぶことが、同事ということを学ぶことである。」

「同じ事をするということは、作法にかなった事、おごそかな事をすることであり、すぐれた態度を持つことである。それには、他入を自分の方へ回心させて、自分と同じことをさせることもあろうし、自分が他人と同じ事をすることもあろう。自他の関係は、時に応じて自由自在なのである。」

「管子がいっている。「海が大きいのは、水を拒まないからである。山が高いのは、土を拒まないからである。すぐれた君主が多勢の人を治めているのは、入をいとわないからである」。海が水を拒まないことが同事なのである。更には、水が海を拒まないことを知るべきである。」

「人が集まって国となり、勝れた君主を待ち望んでいる。しかし勝れた君主が勝れているのは、人をいとわないからだということを知る人は稀である、そのため人は、勝れた君主にいとわれないことばかり望んで、自分たちが勝れた君主をいとわないことには気がつかない。しかし、同事ということは、君主の方からも、凡人の方からも、両方からなされることである。

「従って、求道者たちは、それ(四摂法)を行うことを願うのである、どうかあなたがたも、柔和な顔をして、すべてのことに向かいなさい。これら四つの行いが、それぞれ四つの行いをふくんでいるから、それは十六の行いである。」

 

黄泉にまで下る菩薩の道ー道元の最後の在家説法と遺偈

 

建長五年(1253)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。

「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」

僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、宗教的な廻心〔轉法輪〕の場所であり、「完全な平和(般涅槃)」に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。[9]

その翌朝、彼は居ずまいを正して次の遺偈を弟子達に残した。(建撕記)

五四年照第一天(五四年第一天を照らす)

打箇𨁝跳 触破大千(この𨁝跳を打して大千(三千大世界)を触破す)咦(にい)

渾身無覓 活落黄泉 (渾身に覓むる無し 活きながら黄泉に陥つ)

道元禅師の遺偈の「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)という結びの言葉は、何を意味するのであろうか。この遺偈を単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察したい。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。

如浄禅師の遺偈:六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 咦 従来生死不相干

(六六年の生涯、罪犯は天に満ちている。この肉体を打って、活きたまま黄泉の国に陥る。従来の生死は相干しない)

孤雲懐奘の遺偈:八十三年如夢幻 一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去 虚空踏翻没地泉

(八三年の私の生涯は夢幻のようだ。一生の罪犯は弥天を覆っている。そして今私は足下に糸なくして去り、虚空を踏まえ翻って地下の泉に没する)

如浄─道元─懐奘 と受け継がれた一連の遺偈に通底するものを、徹底した菩薩行として、衆生の罪を一身に引受けて黄泉に下る菩薩の懺悔道と捉えることができる。菩薩の道は、一切の衆生を救済しようという大悲の誓願に基づいている。如浄から嗣法し、懐奘に伝えた道元の仏道は「見性成仏」を云う「禅宗」の禅ではなく、大悲の誓願に基づく菩薩行としての坐禅であったことは、如浄が道元に語った次の言葉が示している。

いわゆる仏祖の坐禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)

如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。この菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する言葉である。それこそが、自己と無関係なものは何一つない縁起の法を生きる菩薩の心であろう。

 面山瑞方が編集した『傘松道詠』に収録されている道元の道詠  

愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん

  草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん

もまた、菩薩行を説くものであるから、如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元、その道元との対話を記録した懐奘の遺偈もまた「黄泉に下る菩薩」の「行道」の言葉として読むことができよう。

 

[1] 「宗教研究」84巻4輯「宗教的共感の源泉ー東西霊性交流の場合」pp.205-6(2011)

[2] 「正法眼蔵三参究ー道の奥義の形而上学」岩波書店271頁(2008)

[3]雲衲とは衲(のう)(継ぎはぎだらけの僧衣)を纏った雲水(禅僧)のこと

[4] 當時の中国の1里はだいたい540メートルくらい。老典座は19キロ位の道のりを徒歩でやってきた。

[5] 「弁道(辯道、辨道)」とは「修道がなんであるかをわきまえる」ことと「修道に精進する」ことの二つの意味がある。「文字」とは、先覚者によって書きしるされた真理のことばである。

「世界は何一つ秘蔵しない(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)」とは、森羅万象すべてが何一つとして「道」を説く対象にならぬものはないことを云う。「典座教訓」のなかで、特殊な少数の人にしか体験できない非日常的な場所に奇蹟や神秘を求めることをせず、台所仕事のような日常茶飯の世界の只中に顕現する真理の「ことば」を聴き、その「ことば」に活かされ生きる事を求めている。

[6] 春夜蒼茫二三更….慕古感今労心曲 一夜燈前涙不留 湿尽永平古仏録…..(読永平録)

[7] 「手鞠遊び」に興じる良寛に入門を願い出た貞心尼の歌への返歌。

「突きて見よ、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのと)を十とおさめてまた始まるを」は、道元の典座教訓の中の「文字(ことば)」についての問答を踏まえている。始(一)と終(十)がある手鞠遊びは10回ついただけでは終わらない。常に初心に返って修行を繰返す遊びの中に、「清規」の「ことば」に活かされ生きる修道の心を詠込んだ歌である。

[8] 道元の『正法眼蔵』に「夢中説夢」という巻があるが、そこでは、我々が堅固な実在だと思っている世界が、じつは夢の如き虚仮の世界であり、真の仏法の世界は、虚仮の世界の住人から見ると逆に「夢」のごとく見えるという言葉がある。顛倒世界においては、真実を説くものは役に立たない夢想家と見なされるが、道元は、むしろ「夢の中で夢を説く」ことの意義を理解しなければ、仏道はわからないと明言している。良寛の貞心尼への返歌も、「夢の中で夢を語る」ことの大切さをさりげなく示した歌と言って良いであろう。

[9]病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。

 

 

『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規』

東西の霊性交流のためにー「聖グレゴリオの家」での講演(2019/10/16)から

youtube#video

 

 

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「香港の学生達の現在」

2020-06-30 |  宗教 Religion
東西宗教交流学会会員の寺沢邦彦さんから次のようなメールを頂きましたので転載します。
 
「香港の方はコロナも落ち着き感染者発見ゼロが2週間つずいています。でも全員マスクをしますし、4名以上の集まりは今まで禁止でした。いまは8名です。私は31名の香港の学生に教えました。アジア宗教と社会というクラスです。もちろんONLINEになりました。香港の学生の思考力と批判力はさすがです。感度が鋭く理解力もあります。英語もなかなか立派な論文を書きます。ほんとにこれだけ優秀でまた行動力のある彼らが2047年一国2制度がなくなり中国の完全支配に入りまた国家安全法でその可能性を発揮できないのが本当に胸が痛いです。彼らも苦しんでいます。彼らは本当にアジアの貴重な人材です。しばらく卒業後葛藤の地を一時離れて日本やアメリカの地などで働ければいいのですが。その運動をしたいと思います。日本の若者にもかれらの真剣さと勇気はいい刺激になるとおもいます。私が大学で講演したパンフを添付します。宗教対話による国を超えた連帯が狭い国家主義を超えて大切だといいました。2メートルの距離をおいて大勢参加してくれました。他の大学もONLINEで参加していただきました。おかげさまで良い反応でした。香港の学生たちや学者たちと個人的にも多く交流できたのは良かったです。」
 
http://chikyuza.net/archives/104229
 
寺沢邦彦さんが、香港の学生達とオンライン授業を通じて対話した内容が「地球座」というWebnews mediaに掲載されています。
今年の夏に開催を予定していた東西宗教交流学会で報告して頂く予定でしたが、コロナ禍のために学会の開催が一年延期されましたので、とりあえずこのBLOGに転載いたします。
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