歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

黙示録の時代を生きる-

2011-04-04 |  宗教 Religion

福島原発の事故を報道する欧米の新聞やテレビの報道の中でしばしば Apocalypse (黙示録)と言う言葉が使われている。
たとえば Ghost Island: Apocalyptic scenes in tsunami worst-hit Japan areas と題する以下の映像を見てみよう。

http://www.youtube.com/watch?v=MyTTrj4wKMU  

http://www.youtube.com/watch?v=Or7iY7TUFM4:movie

ユダヤ・キリスト・イスラム教の影響を受けた「聖書の民」からすれば、このような情景は、世界の終末・審判の時を連想するものである。津波によって乗用車がビルの上に乗り上げたり、燃えさかる家が流されていく情景、そして津波が襲った後の廃墟の有様などは、まことに世の終わりという感じを人に与えるものなのだろう。
また、福島第一原発の一号機が水素爆発をおこした情景が放映されたときも、地震、津波、につづく破局として、「黙示録」という言葉が盛んに使われていた。3号機がおなじように水素爆発したときに、東電社員が一時的に待避したとき、一部の報道機関は「東電が原発を見捨てた」と書いたが、その水素爆発によって建屋が吹き飛んだ情景は、まさに世の終わりを連想させるものであったろう。

誤報であったとは言え、50人を残して作業員が引き揚げたという事実は、日本よりも外国の方でより深刻に受け止められたことはいうまでもなかろう。実際、第一原発の近くでまだ避難せずにいた住民たちはその凄まじい爆発音を聞いたときには、文字通り世の終わりが来たと実感したであろう。 この文明は完全に亡びるかも知れないーそのような終末論的な意識・黙示録的な自覚を促すものとして、今回の自然災害と原子力災害を受け止めるべきだと思う。

我々に必要な知は、科学的な技術知ではなく、世の終わりが恒に我々の現在に差迫っていることを知る終末論的な知である。 終末の予兆となる黙示録的事實から眼をそらすことなく、平常心をもって現在を生きることであるー明日世界の終わりが来るということを知ったなら、私は自分の家の庭に林檎の樹を植えるだろう。(マルチン・ルター)

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