DVK International Webinar on "Fratelli Tutti" - Prof. Dr. Joy Philip Kakkanattu, CMI
Friday Webinar Series 2020 “Fratelli Tutti” Oct 30/Nov 06/Nov 13/ and ...
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DVK International Webinar on "Fratelli Tutti" - Prof. Dr. Joy Philip Kakkanattu, CMI
Friday Webinar Series 2020 “Fratelli Tutti” Oct 30/Nov 06/Nov 13/ and ...
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10月22日放映予定の「エール」第94回・「長崎の鐘作者との出会い」に登場する永田武医師のモデルは永井隆ですが、「長崎の鐘」は彼の自伝的随想(昭和23年出版)の書名です。永井は、戦後の困難な時期にようやく出版できた初版本の自序の中で
「この本の題名となった浦上天守堂の鐘は、あの(昭和20年の)クリスマスに煉瓦の崩れた中からつり出され、地面近くに仮吊りのまま鳴らされてきましたが、それからまる三年経った今、新しい鐘楼が建ち、このクリスマスから中空高く鳴り出すようになりました。この平和の鐘が一日も欠かさず世世の末、世界の終わりの日まで鳴り続きますよう祈り、かつ努めたいものです」
と書いています。小関裕而自身が、病床にあった永井隆医師との交友を語り、永井から送られたロザリオを示しながら、「長崎の鐘」を戦争の犠牲者への鎮魂歌(レクイエム)として作曲した、と語っている貴重なビデオ録画(12分27秒以後の部分)があります。(藤山一郎の歌唱がその後に続きます)
https://youtu.be/2vEzk3jstg0?t=12m27s
これまでに公開した私の講演記録の動画の数が増えましたのでを
Youtubeでリストにしました。
(1)Nothingness and Creativity-Towards an Integral Philosophy of Creative Transformation-
International Whitehead Conference (2017/9/2) recorded by Center for Process Studies
ポルトガルで開催された国際ホワイトヘッド学会での基調講演
(2)無の場所の創造性ーCreativity in the Place of Nothingness
上智大学文学部哲学科 最終講義(2017/3/19) 上智大学 Open Course Ware による収録
(3)Coincidentia Oppositorum と愛ー西田幾多郎講演集(岩波文庫)の刊行に寄せて
(2020/9/25 公開)
(4)「敬天愛人」の意味とその由来ー上智大学公開講座「日本の宗教と思想」から
(2020/10/3 公開)
(5)『聖ベネディクトの戒律』と道元禅師の『永平大清規』
「聖グレゴリオの家(宗教音楽研究所)」での講演(2019/10/16)から
(2020/10/1 公開)
「聖グレゴリオの家(宗教音楽研究所)」での講演(2020/2/27)から
(6)(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽 その1-1
(7)(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽 その1-2
(8)(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽 その1-3
今後もこのリストに講演の記録を追加する予定です。
以下の Youtube のリストをご覧ください。
音楽付細川ガラシアの時代の典礼音楽1-3
ーダビデ王の懺悔ー「聖書と典礼」の詩編から 黒死病の終熄を記念してウイーンに建立された像柱に描かれたレオポルド一世の肖像は、彼自身の懺...
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アインシュタインは物理学に革命をもたらした人であったが、平和運動家でもあり、シオニストでもあった。『アインシュタイン平和書簡』は彼の思想と行動を知る上で貴重な資料である。彼は、第一次世界大戦では偏狭な愛国主義にもとずく戦争に反対し、人類主義の立場から徴兵忌避運動を支援した。しかし、ナチスドイツのユダヤ人迫害に直面し、第二次世界大戦では、反ナチスの戦争を支持した。彼は自分のことを「信念を持った平和主義者(überzeugter Pazifist)ではあるが、絶対的な平和主義者ではない」と篠原正瑛宛の書簡で言っている。彼はガンジーをもっとも尊敬していたが、その非暴力不服従運動は、ナチス・ドイツに対しては貫けないと考えたのであった。 ここにはユダヤ民族とその精神的伝統を存続させなければならないというシオニストの立場と彼の平和主義とのあいだの二律背反があった。そのためにアインシュタインは「絶対的」な平和主義、反戦主義者達から非難も受けたのである。アインシュタインは、迫害を受け亡命した多くのユダヤ人にとって希望の星であった。彼が後にイスラエルの大統領となるように要請された理由もそこにあった。しかし彼は、伝統的な意味でのユダヤ教徒ではなかった。ユダヤ人が選民であるとは考えないコスモポリタンであり、スピノーザに傾倒していた。最近、競売にかけられた彼の自筆の書簡は、擬人的な神を信じるよりは、宇宙の法則の根源としての神を信じる彼の宗教観がよく現れている。宇宙の必然性の洞察による自由を尊重するアインシュタインは、個人の良心の自由を何よりも重んじ、閉鎖的な全体主義の体制を最も嫌う人でもあった。ドイツ文化の精神的遺産を尊重していたが、ナチスが政権を握ってからの全体主義の体制が強要する「ドイツ国民の義務」を人間の普遍的な義務としては認めなかった。
「理に合わない残虐行為の申し立てに対してはドイツを擁護するのが君の義務である」というプロシャ学士院からの警告に対し、アインシュタインは、それは「私の生涯を賭けた正義と自由のあらゆる原則を拒否すること」であり、「道徳の崩壊と現存のあらゆる文化価値の破壊に手を貸すこと」になると反論している。
プロシャ学士院から除名される前に脱会し米国に亡命したアインシュタインは、プリンストンでは核物理学のような莫大な実験資金を要する研究にはタッチせず、物理学会の主流からは全く離れた立場から、量子力学の不完全性を主張し、統一場理論のような純粋な理論的・思弁的な探求のみに専念した。第二次大戦後、米国の核物理学者は国家機密、軍事機密にかかわるようになり、国家に対する影響力が増大すると共に思想の自由を奪われた。水爆開発に反対したオッペンハイマーは裁判にかけられ公職追放処分に遭った。かつてナチスドイツの国家主義に反対したアインシュタインは、非米活動委員会の思想統制にも抗議している。最晩年のアインシュタインは、レポーター紙上で
「再び若人となり、生計を立てる最良の方法を決定しなければならないなら、科学者や学者、それから教師になろうとはしない。ブリキ職人か行商人かになることを寧ろ選ぶ。現在の状況下でなほ可能な僅かな独立を保証するのが、私の希望である」
と述べた。原水爆開発を含めて当時の「科学者」のあり方に対する抜本的な批判をこめたアインシュタインのこの発言のあとに、ラッセル・アインシュタイン宣言における核兵器撤廃の訴えが続くことの意味を考えるべきだろう。
ー東西の霊性交流のためにー
「聖グレゴリオの家(宗教音楽研究所)」講演(2019/10/16)
田中 裕
はじめに
道元には、主著『正法眼蔵』とおなじく重要な一連の実践的著作として『永平大清規』がある。「清規」とは「修道者が守るべき規則」のことで、「清」とは「清衆(しんしゅ)」つまり修行道場で共同生活をする修道僧を意味する。『永平大清規』と呼ばれる一連の著作は、宋から帰国した道元の道場となった深草興聖寺で出家者や在家者のために制定した規則に始まり、後に帝都を離れて山林に修行場を求めた道元が、越前吉峰寺、大仏寺(永平寺)にて著述した最晩年のものまで含む。
『聖ベネディクトの戒律』が単に修道会の規則にとどまらず、今日のカトリック教会では、世俗の中で福音伝道する献身者(オブラーテ)にも読まれているのと同じく、道元の『清規』もまた、出家者だけでなく、在家にあって「菩薩行」をおこなう人の生活の指針として読まれてきた。
道元を高祖とする曹洞宗の峰岸正典老師は、ドイツのオッティリエン修道院とのあいだでの東西霊性交流を1979年から現在まで続けて実践されているが、同修道院でベネディクト会士と共同生活した経験を踏まえて、ベネディクト会の修道院と道元の清規にしたがう禅の修道生活に通底するものを次のように要約している。
また、イエズス会の門脇佳吉神父は、道元の清規に従って生きる「行道」のことばの実践にこそ、自然環境破壊を克服するエコロジーの実践を導く「形而上学」があることを強調してつぎのように云っている。[2]
道元は、第一に、自然と人間を結ぶ原初的な関係を道(仏の御いのち)のはたらきによって根拠づけ、自然の全体と人間の渾身の感覚的結びつきを中心に含みながらも、知恵によって形而上学的エコロジーともいうべき道理を確立したのである。このようなエコロジーは知恵に基づくから、西洋世界にも通用するだけでなく、西洋のエコロジー神学の抽象性を克服し、自然と人間との感覚的結びつきを大切にすると共に、知恵(sapientia)による「道なるキリスト」のはたらきでそれを根拠づけることによって、形而上学的エコロジーの確立に道を開くのである。
永平大清規とは、道元(1200-1253)の定めた次の六つの清規をさす。
『典座(てんぞ)教訓(きょうくん)』、嘉禎3年(1237):僧院で台所仕事を司る典座の心得と作法。
『辨道法(べんどうほう)』、 寬元3年(1245):僧堂における坐禅中心の修道生活の規範
『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』、寬元4年(1246):僧堂で粥(朝食)と飯(昼食)を喫するときの作法
『衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)』、宝治3年(1249):修行僧が看経(読書)や行茶(喫茶の行礼)を行う「衆寮」での規則と誡め
『對大己法(たいだいこほう)』、寬元2年(1244):「大己」(目上の人)への礼法。謙遜の誡め。
『知事(ちじ)清規(しんぎ)』、寬元4年(1246):僧院で様々な業務を担当する指導者(知事)の責務と選任の仕方
ここでは、とくに、道元が宋に留学僧として聞法の旅に出たときに出会った阿育王寺の老典座との対話が収録されている『典座教訓』に注目したい。そこには、在家と出家の区別を越えた道元の修道論の原点が明確に示されているからである。
嘉定十六年癸未(みずのとひつじ)(1223)の五月中、慶元府に停泊する船内で、道元が日本船の船長と話をしていたおり、一人の老僧がやってきた。年は六十歳程度である。まっしぐらに船に来て、日本人に尋ねて椎茸を買い求めた。道元は彼を招待して茶をふるまい、その所在を尋ねたところ、阿育王山の寺の典座和尚ということであった。以下、道元と老典座との問答を『典座教訓』に記された通りに再現してみよう。
老典座: 私の出身は西蜀(四川省)です。郷里を離れて四十年になりまして、今年で六十一歳です。これまであちこちの修行道場をあらかた経験してきました。先年、孤雲道権禅師が住持している阿育王寺を訪ね、正式に修行することになりましたのに、無為に過ごしてしまいました。ところが去年の夏の修行期間の後、阿育王寺の典座に任ぜられました。明日は端午の日なので、一つご馳走しようと思ったものの適当なものが何もありません。麺汁を作ろうと思うのですが、椎茸がなかった。そこで特別にやってきて椎茸を買い求め、各地より集まった雲衲[3]に供養するつもりです。
道元:いつ頃阿育王寺を出てきたのですか? 老典座:昼食の後です。
道元:阿育王寺はここからどれくらいの距離ですか? 老典座:三十四五里[4]です。
道元:いつ寺へ帰るのですか? 老典座:今しがた椎茸を買いましたので、すぐに帰ります。
道元:今日は期せずしてお会いし、のみならず船内でお話しすることができました。これは素晴らしいご縁ではございませんか。私道元が典座禅師にご馳走いたしましょう。
老典座:いけません。私がもし管理しなかったら、明日の食事が駄目になってしまうでしょう。
道元:阿育王寺には、典座寮の仲間で、朝昼の食事を理解・会得している人がいるでしょうに。典座和尚が一入不在であっても、何の不備がありましょうか。
老典座:私は老年にてこの職に就いたのです。つまり、おいぼれの弁道です。どうして他人にその職務を譲れましょうか。それに来るときに、一泊の許可を得て来ませんでした。
道元:典座和尚はご高齢であられる、どうして坐禅弁道したり、語録を読んだりしないのですか。典座職務に煩わされ、ひたすら肉体労働をして、どんないいことがあるというのですか?
老典座:(大笑いして)
外国の好青年よ、あなたはまだ弁道というものを解っていないし、まだ文字というものを知らないのです。(外国好人、未了得弁道、未知得文字在)
道元:(老典座のその言葉を聞いて、ハッと自分を恥じ畏れおののき)
文字とはどういうものでしょうか、弁道とはどういうものでしょうか?(如何是文字、如何是弁道)
老典座:あなたが質問したところを見過ごさずにいれば、そういう人(文字を知り弁道を体得した人にならないということがどうしてありましょう。(若不蹉過問処、豈非其人也)
道元:(その意味が解らず)・・・・・
老典座:もし解らなかったならば、後日いつか阿育王寺に来てください。一つ、文字の道理について語り合いましょう。(そう話した後、すぐに起ち上がって)日が暮れてしまった。急いで帰ろう。(と言って帰ってしまった)
その年の七月、道元は天童山景徳寺で修行をしていた。時にあの典座がやって来て、道元に会って
「夏の修行が終わったので典座職を退いて、郷里に帰ることにしました。たまたま同門の者が、あなたがここにいる、と言っているのを聞きました。どうして来て会わないでいられましょう」と言った。
道元は小躍りして喜び感激し、彼を接待して会話をした折、先日の船内における文字・弁道の因縁について聞いてみた。
老典座:文字を学ぼうとする人は、文字の意味を知ろうとするし、弁道に努める人は、弁道の意味を会得しようとします。
道元:文字とはどういうものですか? 老典座:一、二、三、四、五
道元:弁道とはどういうものですか? 老典座:「世界は何一つ秘蔵しません(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)[5]
道元は、23歳の時に宋で出会った老典座から学んだことについて、『典座教訓』のなかで次のように云っている。「私が多少なりとも文字を知り弁道を会得できたのは、この典座の大恩のおかげである。これまでの経緯を亡き師匠、明全禅師に話したところ、明全禅師はただただ大変に喜ばれた」
道元没後約五百年、永平録の「ことば」を読み、感涙にむせて書物を濡らしてしまったという体験[6]を漢詩「讀永平録」に詠んだのは良寛であったが、彼の漢詩や短歌には道元からまなんだ「ことば」がさりげなく読み込まれている事が多い。とくに良寛の弟子になることを志願した貞心尼とのあいだに交わされた次の相聞歌は有名である。(のちに貞心尼自身が編纂した歌集「蓮の露」に収録されている)
貞心尼:(師常に手鞠をもて遊び給ふると聞きて奉るとて)
これぞこれ ほとけのみちに あそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ
良寛:(御かへし)
つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを 十とおさめて またはじまるを[7]
貞心尼:(はじめてあひ見奉りて)
きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬゆめかとぞおもふ
良寛:(御かへし)
ゆめのよに かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに[8]
道元は在家出家を問わず「菩薩戒」を重要視した。小乗仏教のこまごまとした戒律ではなく、戒律の精神を生きること、とくに菩薩として生きる大乗仏教徒は、大乗にふさわしい戒律を生きるべきであるという伝教大師最澄の教えにしたがい、入宋にさいして小乗仏教に由来する「具足戒」を道元は受けなかった。男性出家者の場合は250戒、女性出家者の場合は348戒もある小乗仏教由来の戒律は、「・・・すべからず」という微に入り細をうがつ禁止条項をふくむ小乗仏教由来の戒律であり、道元の生きていた時代には単なる建前だけの慣行にすぎず、厳密にそれをまもるものは少なかった。
さらに「人は本来仏である」とか「一切の衆生は悉く仏の本性をもっている」という大乗仏教の根本的な教えは、戒律の事実上の無視を正当化する危険があった。道元は、労働を仏道修行に必要な修行として取り入れた百丈慧海、それにもとづく「禅苑清規」を参考にしつつ、日本の修行僧に適した清規を制定したのである。戒・定・慧を三学とする仏教の修道は、坐禅(只管打坐)を根本とし、禅定によって生まれる(あらゆる二元性と対立を越える無差別の)智の働きと、(一切の衆生を救済しようとする)菩薩行をすすめる「菩薩戒」にもとづくものとなった。
道元の修道論の根本的な特徴は、「修行は仏になるために行うのであって、一度悟りを開いて仏になればもはや修行は必要ない」と考えるのではなく、「本来人は仏であるからこそ修行するのである」というところにある。修行を証(悟り)の手段と見る二元的な見方を越えた「修証一等」ないし「本証妙修」が道元の修道論の根本であるが、従来見落とされてきたことは、修行は自分一人が成仏するためにするのではなく、一切の衆生が救われることを願って為されるのであるという「菩薩」の誓願があると云うことである。このような「大悲」の「誓願」が道元の坐禅の背景にあること、道元が「禅宗」という呼び名を拒否して、普遍的な救済をめざす大乗仏教の根本精神に立ち返るべき事を説いたことは、とかく禅宗の一つの宗派である「曹洞宗」の開祖として道元を位置づける仏教史家の陥穽ではないだろうか。
在家の信徒のために道元は様々な修道の手引きを残している。普通、在家の仏教信徒に要求されるものは、(1)不殺生(2)不偸盗(3)不邪淫(4)不妄語(5)不飲酒 の所謂五戒であるが、これらは消極的な戒律である。ところが道元は、菩薩道の実践を積極的なにするために、「・・・するな」という戒律ではなく「・・・・しよう」という積極的な「法」を説いた。それが「菩提薩埵四攝法」である。「摂法」とは「他者を真理に導く四つの法」というだけでなく、「四つをばらばらに実践するのではなく一つの統合的な法として実践しよう」という提言である。
その四摂法とは、(一)布施(ふせ)、(二)愛語(あいご)、(三)利行(ウぎよう)(四)同事(どうじ)である。
布施とは、不貧(ふとん)(むさぼらないこと)である。むさぼらないとは、「人の気に入ろうとしないこと」、また「人の感謝をむさぼらないこと」である。道元は、「自分が捨てるつもりであった財物を、見知らぬ人に施すように、気前よく布施をする」ことを勧める。現在では、布施とは専ら在家者が出家者に与えることだけを指す意味となったが、道元の云う「布施」には在家と出家の差別はない。与えるものが軽少であるかどうかが問題なのではなく、それが相手の役に立つかどうかが問題なのである。道元は与える者と与えられる者を差別する二元性を突破して次のように云う。
「〔布施は〕自分を本当の自分とし、他者を本当の他者とするのである。布施の現わす力は、遠く天界や人間界にも及び、悟りを得た賢聖たちにも通じる。」
「舟を浮かべ、橋を渡すのも、布施の行いである。さらに深く学ぶならば、生きることも死ぬことも布施である。暮しの道を立てることも、生産に携わることも、布施でないものはない。」
「アショーカ大王がわずか半箇のマンゴーで数百の僧たちを供養して、供養の力の広大さを示したことを、布施をする人たちは、よくよく学ぶべきである。」
「衆生のこころを動かすことはむずかしい、そのため一財でも与えて、道が成就するまで導いて行くのである。それは必ず布施によって始めるべきである。そのため布施は、求道者が完成すべき六つの行為(布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧)の一番はじめにあるのである。」
仏教の伝統では「愛」ということばは「執着」を示すものとして否定的な含意があった。しかし道元は「愛」に肯定的な意味をこめて「愛語」を「布施」とともに菩薩の法と考えた。
道元の云う「愛語」とは、さしあたっては、「人に会った時に 慈愛の心を起して、やさしいことばをかけること」である。決して暴言や悪言を用いず、「お大切に」とか「御機嫌いかがですか」といって相手の安否を問うことを意味するが、それだけに留まらず、「愛」の「ことば」に深い宗教的な含意があることを述べている。
「仇敵どうしを和らげ、徳のある人たちを仲よくさせるには、愛語がその基本である。向かいあって愛語を開く人は顔を歓ばせ、心を歓ばせる。蔭で愛語を聞く人は、肝に銘じて忘れない。愛語は愛心より起り、愛心は慈非心をもととしているのである。愛語が天をも回らす力を持っていることを知りなさい。愛語は、相手の長所をほめる以上のことなのである。」
西洋近代の功利主義は、自利と利他の計量比較によって「利」の最大をめざす社会倫理を構築しようとしたが、道元の云う「利行」は、自分の利益と他人の利益の差別、身分の高低による差別を越えた宗教的徳として語られている
「利行というのは、身分の高い人に対しても低い人に対しても、相手の利益になることをすることである。例えば相手の遠い未来や近い未来に気をくばって、その人の利益になることをするのである。昔、ある人は籠のなかの亀を助け、ある人は病気の雀を介抱した。彼らはなんの報酬も期待せず、ただ利行をするという気持にかられて、それをしたのである。」
「怨みを持ったものに対しても親しいものに対しても、同じように利益を与えなさい、それが自分をも他人をも利することなのである。もしそのことがわかれば、草木風水に対しても、休むことのない利行がなされるであろう。真理の道を知らない人々を救うために、ひたすら努めなさい。」
日本人の社会倫理では、自分だけが特別であろうとしないこと、が重んぜられる。このような、出る釘は打たれる、ことを用心するような消極的な処世訓とは違って、道元の云う「同事」は、次のように他者に対する積極的な関わりを求める菩薩行である。
「同事ということがわかれば、自分も他人も一体となるのである。白楽天の詠んだ「琴・詩・酒」は、人を友とし、天を友とし、神を友としている。人は琴・詩・酒を友としている。琴・詩・酒は、琴・詩・酒を友としている。人は人を友とし、天は天を友としている。このような道理を学ぶことが、同事ということを学ぶことである。」
「同じ事をするということは、作法にかなった事、おごそかな事をすることであり、すぐれた態度を持つことである。それには、他入を自分の方へ回心させて、自分と同じことをさせることもあろうし、自分が他人と同じ事をすることもあろう。自他の関係は、時に応じて自由自在なのである。」
「管子がいっている。「海が大きいのは、水を拒まないからである。山が高いのは、土を拒まないからである。すぐれた君主が多勢の人を治めているのは、入をいとわないからである」。海が水を拒まないことが同事なのである。更には、水が海を拒まないことを知るべきである。」
「人が集まって国となり、勝れた君主を待ち望んでいる。しかし勝れた君主が勝れているのは、人をいとわないからだということを知る人は稀である、そのため人は、勝れた君主にいとわれないことばかり望んで、自分たちが勝れた君主をいとわないことには気がつかない。しかし、同事ということは、君主の方からも、凡人の方からも、両方からなされることである。
「従って、求道者たちは、それ(四摂法)を行うことを願うのである、どうかあなたがたも、柔和な顔をして、すべてのことに向かいなさい。これら四つの行いが、それぞれ四つの行いをふくんでいるから、それは十六の行いである。」
建長五年(1253)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。
「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」
僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、宗教的な廻心〔轉法輪〕の場所であり、「完全な平和(般涅槃)」に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。[9]
その翌朝、彼は居ずまいを正して次の遺偈を弟子達に残した。(建撕記)
五四年照第一天(五四年第一天を照らす)
打箇𨁝跳 触破大千(この𨁝跳を打して大千(三千大世界)を触破す)咦(にい)
渾身無覓 活落黄泉 (渾身に覓むる無し 活きながら黄泉に陥つ)
道元禅師の遺偈の「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)という結びの言葉は、何を意味するのであろうか。この遺偈を単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察したい。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。
如浄禅師の遺偈:六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳 活陷黄泉 咦 従来生死不相干
(六六年の生涯、罪犯は天に満ちている。この肉体を打って、活きたまま黄泉の国に陥る。従来の生死は相干しない)
孤雲懐奘の遺偈:八十三年如夢幻 一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去 虚空踏翻没地泉
(八三年の私の生涯は夢幻のようだ。一生の罪犯は弥天を覆っている。そして今私は足下に糸なくして去り、虚空を踏まえ翻って地下の泉に没する)
如浄─道元─懐奘 と受け継がれた一連の遺偈に通底するものを、徹底した菩薩行として、衆生の罪を一身に引受けて黄泉に下る菩薩の懺悔道と捉えることができる。菩薩の道は、一切の衆生を救済しようという大悲の誓願に基づいている。如浄から嗣法し、懐奘に伝えた道元の仏道は「見性成仏」を云う「禅宗」の禅ではなく、大悲の誓願に基づく菩薩行としての坐禅であったことは、如浄が道元に語った次の言葉が示している。
いわゆる仏祖の坐禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)
如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。この菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する言葉である。それこそが、自己と無関係なものは何一つない縁起の法を生きる菩薩の心であろう。
面山瑞方が編集した『傘松道詠』に収録されている道元の道詠
愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん
草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん
もまた、菩薩行を説くものであるから、如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元、その道元との対話を記録した懐奘の遺偈もまた「黄泉に下る菩薩」の「行道」の言葉として読むことができよう。
[1] 「宗教研究」84巻4輯「宗教的共感の源泉ー東西霊性交流の場合」pp.205-6(2011)
[2] 「正法眼蔵三参究ー道の奥義の形而上学」岩波書店271頁(2008)
[3]雲衲とは衲(のう)(継ぎはぎだらけの僧衣)を纏った雲水(禅僧)のこと
[4] 當時の中国の1里はだいたい540メートルくらい。老典座は19キロ位の道のりを徒歩でやってきた。
[5] 「弁道(辯道、辨道)」とは「修道がなんであるかをわきまえる」ことと「修道に精進する」ことの二つの意味がある。「文字」とは、先覚者によって書きしるされた真理のことばである。
「世界は何一つ秘蔵しない(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)」とは、森羅万象すべてが何一つとして「道」を説く対象にならぬものはないことを云う。「典座教訓」のなかで、特殊な少数の人にしか体験できない非日常的な場所に奇蹟や神秘を求めることをせず、台所仕事のような日常茶飯の世界の只中に顕現する真理の「ことば」を聴き、その「ことば」に活かされ生きる事を求めている。
[6] 春夜蒼茫二三更….慕古感今労心曲 一夜燈前涙不留 湿尽永平古仏録…..(読永平録)
[7] 「手鞠遊び」に興じる良寛に入門を願い出た貞心尼の歌への返歌。
「突きて見よ、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのと)を十とおさめてまた始まるを」は、道元の典座教訓の中の「文字(ことば)」についての問答を踏まえている。始(一)と終(十)がある手鞠遊びは10回ついただけでは終わらない。常に初心に返って修行を繰返す遊びの中に、「清規」の「ことば」に活かされ生きる修道の心を詠込んだ歌である。
[8] 道元の『正法眼蔵』に「夢中説夢」という巻があるが、そこでは、我々が堅固な実在だと思っている世界が、じつは夢の如き虚仮の世界であり、真の仏法の世界は、虚仮の世界の住人から見ると逆に「夢」のごとく見えるという言葉がある。顛倒世界においては、真実を説くものは役に立たない夢想家と見なされるが、道元は、むしろ「夢の中で夢を説く」ことの意義を理解しなければ、仏道はわからないと明言している。良寛の貞心尼への返歌も、「夢の中で夢を語る」ことの大切さをさりげなく示した歌と言って良いであろう。
[9]病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。