The record of Shidoti’s trial after Chosuke and Haru’s confession of Christian faith according to the official document, Nagasaki Jitsuroku Taisei 長崎実録大成 (The Great Collection of Nagasaki’s Accurate History) edited by Tanabe Mokei 田辺茂啓(1688-1768).
(Japanese Texts)
宝永五戌子年十一月九日、薩摩より異人送来る。則永井氏、按ずるに、邏媽録に載る注進状によれば、永井讃岐守は此頃在府中なれば、駒木肥後守の誤り也。別所氏立会にて被遂穿鑿処、彼者イタリア国ロウマの者、名ヨアンバツテレス、苗字シロウテ、宗旨キリステアンカツトウリコと云。身の長五尺八九寸、鼻筋高く色白く髪黒し。日本風俗の如く月代を剃り、当六月頃より、薩州領屋久島に来居たる由、書籍の如き物八冊持居る。日本詞を書写したる物と見えたり。日本詞と蛮語取換て云述る。其訳分明に通達し難し。先其身切支丹宗門の由、願かましき事もなく、唯宗門を勧め入る様の事而已を云出す。食物は薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て、飢を凌し由也。長崎来着の後は、和蘭陀人食物の如きを食す。段々御検議の趣、江府言上有之。
一、宝永六年九月二五日、御下知に依て、彼異人牢輿にて、検使両人下役四人、通詞今村源右衛門に外に二人、町使六人、都合二十六人相添う、江府へ差遣さる。於江府小日向に。前々より有之切支丹屋敷に差置かる。彼異人、毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置。按ずるに、外国通信事略に、月俸のことを載せず、こは新井君美が著書なれば、其実を得し事論なし。扨又、附添の人数は、其翌寅三月長崎に帰省す。
二、正徳四年三月、右の異人御咎のことありて詰牢に移さる。その趣、前年牢番の者両人に、切支丹宗門を勧め入れたるよし、御聞に達し、宗門御改、横田備中守警護者数十人引連られ、通事名村八左衛門通弁にて、御書付を以て、只今迄馳走を加え差置る処、御制禁の邪宗門を授けたる段、不届至極なりとて、此度牢詰に移さる。彼異人其年の冬月極寒の砌、凍死せしとなり。
(commentary)
〇資料一から、シドッチの姓をシロウテ、名をヨアンバツテレスと姓名を逆にしてはいるが、彼が「宗旨キリステアンカツトウリコ」、即ちカトリックのクリスチャンであることは正しく理解していることが分かる。「薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て」とあるは聖体のことであろう。
〇資料二から、シドッチは、おそらく新井白石の配慮で、「毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置」という破格の良い待遇をキリシタン屋敷で与えられていたことが分かる。転び伴天連では無いシドッチが、キリスト教を信奉したままで、このような厚遇を以て遇せられたことは、異例であったことがわかる。長助とはる夫妻は、キリスト教の生きた信仰を目の前にして、自分たちが嘗て踏み絵を踏んだことを恥じ、司祭にその罪を告白し、キリスト教に立ち返ったわけである。『西洋紀聞』では彼らが自ら進んで「自首」し、「此ほど彼国人(シドッチ)の、我法(これは夫妻が正しいと思っていた基督の法)のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ(信仰告白)。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」とある。つまり、基督の「法」を受けた以上、それを秘密にして、はっきりと言い顕わさないことは、国家の恩に背くことになるから、あえて信仰告白をして、国家の法によって罰せられることを選択したというのである。
〇資料三から、正徳4年3月に、シドッチを査問したのが、宗門御改 横田備中守であり、通訳が名村八左衛門であったことがわかる。シドッチの死因は、ここでは「凍死」とされている。
〇二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「受戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「受戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。
Arai Hakuseki’s manuscript of Record of Things Heard From the West (西洋紀聞) in his own handwriting.(National Archives of Japan, Cabinet Library Jap. 32551 3-1)-- The date of Sidoti’s death and Records about Chosuke & Haru --
It was in the winter of Shotoku 4 that an elderly slave couple, Chōsuke(male) and Haru(female), who had once served an apostate Christian prisoner (his name may be Kurokawa Jyuan, or Francisco Johan in his native Language) , surrendered themselves to the office, saying, “We were previously taught the (Christian) Law by our master during his life-time, but we didn’t consider it right to betray the Great Prohibition of the country. But after long years elapsed, we encountered the person who had come here for the Law after traveling ten thousand of miles from abroad in spite of the dangerous risk, and then was captivated at last. Seeing this person, we feel ashamed of being frugal of (mundane) short life. Fearing of going through hell for a long time, we have received the Law from him, and are Christians now. If we don’t confess these things, it would look like a treachery to the benevolence of the country. As we have confessed our faith, you should punish us according to the Law of the country.” The husband and wife were separated and confined for the time being. On March next year, the Roman (Sidoti) was investigated through the help of a translator who accompanied the Dutch Envoy, and was sent into prison on the grave charge of secretly giving Christian Law to the couple concerned. And it came to pass that he (Sidoti) cried loudly the names of the couple from the bottom of his heart encouraging them incessantly to confirm their faith and not to change their fortitude until death. …….On October 7 of this year, the husband slave became sick and died at the age of 55 according to the report. Since the middle of October the Roman had also suffered from sickness and died at midnight on the 21th of the same month. His age may be 47. (Translated by Yutaka Tanaka)
Note about the exact date of Sidoti’s death
Japanese historians agree that Sidoti died in 1714. The reason why some commentators in the past wrongly thought that he died in 1715 is partly due to Arai Hakuseki’s error in his hand writing. He writes “It was in the winter of Shotoku 4 that an elderly slave couple…..” (at the beginning of the above citation), and , “On March next year, the Roman (Sidotti) was investigated through the help of a translator who accompanied the Dutch….”According to Hakuseki’s diary, he met the Dutch Envoy to Edo (Tokyo) at Asakusa on March 3 in Shotoku 4 (1714). So “On March next year” is Shotoku 4 (1714) and not Shotoku 5 (1715)
Note about the exact translation of "受戒"
Previous (second-hand)literatures say that Chosuke and Haru were baptized by Sidoti.
"受戒" is originally a Buddhist term which literally means "to receive Law or Commandment”, that is “to become monk” or “to become a devoted believer (in the case of lay persons)”.
According to Kobinata Diary, they were former Christians forced to apostatize before they met Sidoti. (小日向志:又此夫婦、同宿受庵より教誡をも受けしものなれば、転びけれども永く山屋敷に禁固せられたり) So it was more probable that they returned to Christian Faith by confessing their crimes of apostasy before Siodoti than that they were baptized by him.
Original Japanese Texts of Arai Hakuseki’s manuscript of Record of Things Heard From the West (西洋紀聞) in his own handwriting
正徳四年甲午の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりしといふ夫婦のもの〈此教師は、黒川寿庵といひしなり。番名はフラソシスコ=チュウアンといひしか。奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ〉、自首して、「むかし二人が主にて候もの世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず。年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」と申す。まつ二人をば、其所をかへてわかち置かる。明年三月、ヲゝランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の初申せし所にたがひて、ひそかにかの夫婦のものに戒さづけし罪を糺されて、獄中に繋がる。ここに至て、其真情敗れ露はれて、大音をあげてののしりよばはり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を変ずまじぎ由をすすむる事、日夜に絶ず。……此年の冬十月七日に、彼奴なるものは、病し死す。五十五歳と聞えき。其月の半よりローマン人も身病ひすることありて、同じき二十一日の夜半に死しぬ。其年は四十七歳にやなりぬべき。
ジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」(1658)を読むー「棄教」後のキリスト信仰と聖母の祈りについて
遠藤周作の「沈黙」の主人公ロドリーゴ神父のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父の墓碑が2016年1月26日に調布市の有形文化財に指定された。当時のカトリック新聞に 「キアラ神父は(棄教)後にキリスト教の教えを説く本(現在行方不明)を書かされました」という記事があった。しかし、キアラ神父が「棄教」後に書いた本のすべてが行方不明なのでは無く、「岡本三右衛門筆記」という文書の抜粋が新井白石の「西洋紀聞」にあり、更に詳しい内容をもつ「宗門大要」が、姉崎正治の「切支丹宗門の迫害と潜伏」(大正14年刊行)にある。
キアラ神父の「宗門大要」は、17世紀ころの迫害のさなかを生きたキリスト者の信仰の内容を当時の日本語で忠実に伝えてくれる第一級の資料である。
たとえば当時の切支丹は「十戒」をどのように理解していたか。「宗門大要」は次のようにそれを伝えてくれる。
〇十箇条のマンタメント(Mandamento)はデウスよりの御掟の事
第一、 御尊体のデウスを万事に越えて御大切に存じ、尊み奉ること
第二、 デウスの尊き御名にかけて、空しき誓すべからず候こと
第三、 御祝日をつとめ守るべきこと
第四、 父母に孝行にすべし
第五、 人を殺すべからず
第六、 他犯すべからず
第七、 偸盗すべからず
第八、 人を讒言すべからず
第九、 他の妻を恋すべからず
第十、 他の物を猥に望むべからず
右十箇条はすべて二箇条に極まる也
一には、御一体のデウスを万事に越えて御大切に存じ奉ること。
二には、わが身の如くに、他人を思ふべき事是れなり
「宗門大要」では、現代では「愛」と訳す言葉を「御大切」と訳している。これは、現代の私たちにも心にしみる訳語ではないだろうか。たとえば、「汝の敵を愛せよ」というよりも「汝の敵を大切にせよ」と言うほうが、生きた翻訳のような気がするがどうであろうか。
また、「主の祈り」(おらしょ=Oratio)も、当時の生きた言葉で翻訳されている。
〇 天にまします我らが御親、御名をたつとまれたまへ、
御代きたりたまへ。天に於て思召ままなる如く、地に於てもあらせたまへ。我らが日々の御やしなひを、今日我らにあたへたまへ。我ら人にゆるし申すごとく、我らが科(とが)をゆるしたまへ。我らをテンタサンにはなし給ふことなかれ、我らを今日悪よりのがしたまへ。アメン。
この「主の祈り」の翻訳は、「われらの父」ではなく「われらの御親」と訳すところなど、先行する「どちりな・きりしたん」の「ぱーてる・なうすてる(pater noster)」と基本的にかわらないが、「隣人」を表すポルトガル語の「ぽろしも」を「ひと」と訳すように、外来語の音写をやめて、当時の日本人に耳で聞いてわかる言葉に、できる限り近づけようとしている工夫がみられる。
「どちりな・きりしたん(キリストの教え)」によれば、「我らの御親」の「我ら」は貴賤を問わぬすべての人をさす言葉であり、(異教徒も含めて)万人はみな同じ親を持つ兄弟姉妹であるというキリスト教の普遍的なメッセージを伝えている。それは「父」と訳すよりも「御親」と訳すことによってよりよく伝わる。「日々の御やしない」は、(聖体拝領の時に唱える場合)、朽ちる身体ではなく朽ちない心(アニマ)を養う霊的な糧であり、(毎日の食事の時に唱える場合)、われらの身体をやしなう物質的な糧でもある。心と身体の両方の糧を表す語として「御やしなひ」を当時の切支丹は理解していたと思う。
「宗門大要」では、「サンタマリア」の祈りは次のように訳されている。
〇ガラサ(Gratia)みちみちたまふマリアに御礼をなし奉る。御主は御身と共にまします女人のなかに於て、わきて御果報いみじきなり。また御胎内の御身にてましますゼズスはたつとくまします。デウスの御母、サンタマリア、今も我らがさいごにも、我等悪人の為に頼みたまえ。アメン。
「宗門大要」には「雪のサンタマリア」についての伝承も記録されている。 潜伏切支丹の大切な遺産となった「雪の聖母」の絵姿とともに「宗門大要」のアヴェ・マリアの祈りが一つなって聞こえてきたような気がした。
遠藤周作の引用した宗門改の役人の手記に基づく映画版「沈黙」の最後の場面は、仏教の葬儀儀礼に従って棺桶に入れられ薪でで焼かれるロドリーゴ神父の胸に十字架が光り輝くシーンである。これはスコセッシ監督のこの映画にこめたもっとも重要なメッセージであろう。
浄土真宗の門徒として埋葬されたキアラ神父の墓碑は、1943年におなじイタリア人のタシナリ神父によって発見され、サレジオ修道会に大切に保管された。
そのとき、この墓碑銘の「入専浄眞信士霊位」は、仏教の戒名から、キリスト教の「浄い真の信仰」を示す墓標に変容したのではないだろうか。墓標の上の司祭帽のような墓石と、キリシタン文字のように刻まれた梵字が印象的である。
キアラ神父がその生まれ故郷で「殉教者」として絵に描かれていることも、決して全くの誤解によるものではなく、通常の意味での殉教とは違った意味に於て、真実を語っているものと思う。
補足
雪のサンタ・マリアーキリシタンの時代のマリア像―とジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」
「雪のサンタマリア」とは、キリシタン時代の絵画の小断片を掛軸に表装したもので、現在は長崎の日本26聖人記念館にある。その記念館の館長をながらく勤められたレンゾ・デ・ルカ神父が、2018年6月、上智のキリスト教文化研究所で、「信仰伝承の証しとしての<旅>を考える」というテーマで講演されたが、そのときに使われたスライドの一枚が、この聖母像であった。
「雪のサンタマリア」の名称の由来は、諸説あるが、おそらく、日本布教の前にイエズス会の宣教師達が祈りをささげたサンタ・マリア・マジョーレ教会の伝承に由来する。昔、マリア聖堂奉献を考えていたローマのある貴族に、聖母ご自身が夢に示現され、建設すべき場所を(真夏であるにもかかわらず)雪で示されたという伝承である。
明治維新以後の浦上キリシタンに対する迫害、浦上天主堂の被爆へとつづく受難の歴史を思いつつ、あらためて信徒の苦しみと迫害をともにされた聖母ご自身の<旅>の歴史を感じた次第である。
ところで、Sidotti と新井白石との対話を記した「西洋紀聞」とその関連資料を調べているときに、姉崎正治の『キリシタン宗門の迫害と潜伏』(同文館 大正14年)に収録されている「宗門大要(北条安房守宗門改記録下巻)」のなかの「雪のサンタマリア」の記載に遭遇した。
「宗門大要」は、岡本三右衛門ことジュゼッペ・キアラが、井上筑後守に替わって宗門改役について北条安房守の尋問に応じて明暦4年、1658年に宗門の大要を陳述したのを筆録したものである。内容は、宮崎道生校注『西洋紀聞』に収録されている「岡本三右衛門筆記」とほぼ同じであるが、それにはない文書も記載されており、そのひとつが「雪のサンタマリアと申すこと」という一九番目の文書である。
雪のサンタマリアと申すことは、ロウマにてある侍(さむらい)、子を持ち申さず候(に)付きて、金銀取らせ申すべきものも之なき(に)付て、サンタマリアの寺を建て申すべき由、女房と相談申し候處に、其夜の夢にサンタマリア夢にまみえ給いて仰せられ候(に)付きて、夫婦ながら右の所へ参り見候へば、六月土用の中にて御座候へども、雪降り候て御座候。其處に即ち寺を建て申し候。夫れに就き雪のサンタマリアと申し候。
これは「雪のサンタマリア」に言及した文書の中で最も古いものであり、サンタ・マリア・マジョーレ教会の伝承とほぼ一致することが注目される。この記事が、「宗門大要」に載っている理由については、姉崎博士自身は「この話を何のために出したのか聯絡不明、或は奇蹟の一證としてか」と述べるに止まっているが、一つの自然な解釈として、シドッチが「親指の聖母」像を持参して来日したのと同じく、ジュゼッペ・キアラも、ミサを立てるときに用いる聖像の一つとして、「雪のサンタマリア」の絵を持参したのではないかという仮説が考えられる。
キアラが宗教画を持参したという直接的な証拠は未だ見いだせないが、「ジュゼッペ・キアラが日本に密入国したときに持参した「書物」については、「岡田三右衛門筆録」に次のような記載がある。
一 ヒイデス、ノダイモク 壹冊 是ハ初テ切支丹ニイタシ、又ハサイゴノ時トナヘ候書物
一 ミイサ、ヲコナイノキヤウ 貳冊 是ハデウス、尊キタムケヲ捧ケ候時ノ経
一 身持ノ書物 壹冊
一 エキノ書 壹冊
一 ヲカボラリヤウ 但三右エ門自筆 壹冊 是ハ日本口ナラヒノ書
一 日本言葉集書 三冊壹結
一 勤三冊ノ書物控 貮冊
一 同下書共 壹結
一 同不審書控 貳冊
一 天地の図ニ有之国郡ノ名付 壹結
一 南蛮ユサンの書付 壹結
一 キリシト天下ル未来記 同
一 諸事アツメ書 同
以上
ここで「ミイサ、ヲコナイノキヤウ 貳冊 是ハデウス、尊キタムケヲ捧ケ候時ノ経」とある点に注意したい。宗門改めの役人にとってミサ聖祭の道具がどんなものであるかは理解できなかったと思うが、キアラがミサをおこなうための「経典」とともに、シドッチと同じくそのための祭具を持参した可能性はあると思われる。
現在、二六聖人記念館に保管されている「雪のサンタ・マリア」がキアラが持参したものであるという直接的な証拠は無いので、即断は禁物であるが、「雪のサンタ・マリア」は、その後様々に(日本のキリシタン説話として)変容された形で、隠れキリシタンの間に伝承されたことはよく知られている。その意味で、サンタ・マジョーレ教会の古い伝承にもっとも近いものが、キアラの言葉を収録した「宗門大要」に掲載されていることが注目されるのである。
「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」という用語は、江戸時代から明治初めにかけての日本のキリスト教史に固有の特殊な用語という理解が一般的ですが、キリシタンとはポルトガル語でキリスト者を意味するのですから、決して特殊な言葉ではありません。
そこで、原始キリスト教から始まるキリスト教史全体を考慮した上で、さらに「現代日本に生きている私達の直面している問題」との関わりを大切にするという観点をわすれずに、この講演ではもっと普遍的な「隠れたるキリスト者」の系譜の中にいわゆる「潜伏キリシタン」ないし「隠れキリシタン」を位置づける試みをしたいと思います。
まず「隠れたるキリスト者」の系譜として、三つの意味を区別しつつ歴史的な順序にしたがいつつ、それらを関係づけてみましょう。
〇隠れたるキリスト者-A (Hidden Christian -A)
-迫害の中で隠れた所におられる神に祈る-
(マタイ福音書の初代キリスト者の祈り)
マタイの生きていた時代のキリスト者は、ステパノのように公然と信仰告白をすれば殉教するかもしれない迫害を「正統派」のユダヤ教徒から受けていた。街道や街角に立って自分の善行を人に見せびらかすユダヤ教の「正統派」の祈りではなく、「言葉数が多ければ神に聞き入れられると思う異邦人の祈り」でもなく、「まことのキリスト者の祈り」は、どのようなものであるのかについて、マタイ福音書の伝えるイエスは「主の祈り」を教える前に、次のように云います。
「あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる」(6-6)
〇隠れたるキリスト者-B (Hidden Christian-B)
-非キリスト教のなかに隠れているキリスト者ー
(使徒行伝、アテネでのパウロのアレオパゴス説教)
「アテネの人々よ、私はあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、私は、あなた方の拝む様々なものを、つらつら眺めながら歩いていると「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました…….神はすべての人に命と霊と万物を与えてくださった方です。一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。『私たちは神のうちに生き、動き、存在する』のです。」
「死者の復活のことを聞くと、(ギリシャ人の)あるものたちは嘲笑い、あるものたちは「そのことは、いずれまた聞こう」といった。しかし、パウロに従って信仰に入ったものも、幾人かいた。そのなかには、アレオパゴス(アテネの貴族院)の一員だったディオニシオスや、ダマリスという婦人、その他の人がいた。」(使徒行伝17:22-34)
フランシスコ・ザビエル、バリニャーノ、マテオリッチなど日本と中国ーヘレニズム時代の希臘よりも古い伝統をもつ仏教と儒教の文化をもつ国ーに伝道活動をしたイエズス会士達の「順応主義」の宣教のお手本は、異邦人への使徒パウロのアレオパゴス説教でした。
〇隠れたるキリスト者-C (Hidden Christian-C)
-時の権力者の言論統制によってその信仰と生死が隠蔽されてしまった個々のキリスト者(隠されたキリスト者)ー
細川ガラシアがキリスト者であったことは、江戸時代には隠されており、ホイベルズ神父ほか多くの人の努力によってそのキリスト者としての生と死が解明されたことは前に述べました。
ペトロ岐部にしても、たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」のような開拓者的著述でさえも、不正確な固有名詞と共に数行言及されているのみで、彼がいかなる人物であったかは書かれていません。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、残念ながらペトロ岐部の名前は見当たりません。
彼が難民として日本から逃れた後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、日本全国の隠されたキリスト者を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、チースリック神父の長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになりました。
そのほかにも、天草崩れ、浦上崩れのように江戸時代の夥しい数の殉教者の一人一人の名前は歴史から抹殺されました。
良心の自由などと云う観念のひとかけらももたぬ権力者達のプロパガンダによって、処刑の残虐非道なやりくちにもかかわらず、キリシタンの「殲滅」が徳川幕府の国策であるとして正当化されました。(万人は神の前に平等であり、良心の自由は例え国王といえどもおかすことはできないというキリスト教倫理の根本が、まさに幕府の保守的体制を覆す危険思想でもあったことを忘れるべきで無いでしょう)
しかし、キリシタンは殲滅されたわけでは決して無く、生き延びていた。大浦天主堂で「私たちはあなたとおなじ心です」と潜伏キリシタンの勇気ある一女性が、フランス人司祭に語った言葉は、「主は皆さんと共に(Dominus vobiscum)」という司祭の言葉に応ずる「あなたの心と共に(Et cum spiritu tuo)」でもあった。「潜伏キリシタン」として信仰を守り通した人の信仰告白は「信徒発見」であると同時に「司祭発見」の邂逅でもありました。
また、父祖以来の信仰を護り続け、ローマ教会に入らなかった「隠れキリシタン」の信仰も、日本の大切な文化遺産であることはいうまでもありません。生月島のオラショで歌われる「ぐるりよざ」が、十六世紀のスペイン・ポルトガルで歌われていたマリア讃歌であるということを発見された皆川達夫氏の次の言葉に私は全く同意します。
「オラショのなかには、日本人の生活と信仰、外来文化の摂取と日本化、伝統と現代、音楽のはかなさと強さ、祈りと歌、集団と個人、弾圧と自由、抵抗と順応、掟と罪、人間の強さと弱さ―要するに一人の音楽史研究者としてこの現代日本に生きている私のあらゆる問題がある。隠れキリシタンは今や私にとって、私の生き方そのものを問いただす存在となって、私に対峙している。」
(皆川達夫著「オラショ紀行-対談と随想」(日本キリスト教団出版局 1981)
3/7 追加
ザビエルの祈り 原文
Actus Puri Amoris
O Deus amo te!
Nec amo te ut salves me,
Aut quia non amantes te
Aeterno punis igne;
Tu, mi Iesu, totum me
Amplexus es in cruce.
Tulisti clavos, lanceam,
Innumeros dolores,
Sudores et angores
Ac mortem, et haec pro me,
Ac mortem, et haec pro me,
Ac pro me peccatore!
Cur igitur non amem te,
O Iesu amantissime,
Non ut in caelo salves me,
Aut ne in aeternum damnes,
Nec praemii ullius spe,
Sed sicut tu amasti me;
Sic amo et amabo te,
Solum quia Rex meus es,
Et splum quia Deus es!
Amen.