〇茶道とキリスト教との出会い
千宗易(利休)と同時代人である日比屋了慶は堺の著名な茶人であり、家族とともに1564年ガスパル・ヴィレラ神父によって洗礼を受けた。彼は洗礼名ディオゴで宣教師の書翰に登場する。それ以後、神父達の宿泊所となった日比屋家に堺のキリシタン達が集まり、そこでミサが行われた。1565年(永禄8年)ルイス・フロイスと共に京都に行く途中で病に倒れたイエズス会修道士アルメイダは、療養のため日比屋家に世話になり、漢方医パウロ養方軒の手厚い看護のおかげで全快し、送別の茶会が催された。朝9時に了慶が、アルメイダを茶室に案内し、彼とその二人の同伴者とともに食事をしたのちに茶の湯に移った。そのときの様子をアルメイダは次のように書翰に書いている。
さて私はディオゴの居間の側面から導かれました。そこにはちょうど一人だけが具合よく入れるくらいの大きさの小さい戸口があります。そこから私たちは真直ぐな狭い廊下を通り、杉材の階段を昇りましたが、その階段は、まるでそこに人が足を踏み入れるのは初めてのことかと思われるほどの印象を与え、あまりにも完璧な造作で、私はそれを筆で言い尽し得ません。ついで私たちは中庭に出、廊下を通り、私たちが食事をする部屋に入りました。部屋の片側には彼らの習わしによって一種の戸棚があり、そのすぐ傍には周囲が一ヴァラの黒い粘土でできた炉がありました。その上には感じのよい形の鉄釜が、非常に優雅な三脚にかかっていました。灼熱した炭火が置かれている灰は、挽いて美しく筋った卵の殻でできているように思われました..すべては清潔できちんと整っており、言語に絶するものがあります。そしてそれは不思議とするに足りないことで、この時人々はそれ以外のことに注意を注ぐ余地は決してないからであります。私たちがきわめて清潔な敷物である優美な畳の上に座りますと、食事が運ばれ始めました。その席での給仕、秩序、清潔、什器は絶賛に価します。そして私は日本で行なわれる以上に清潔で秩序整然とした宴席を開くことはあり得ないと信じて疑いません。
食事が終ってから、私たち一同は脆いて我らの主なるデウスに感謝いたしました。こうすることは、日本のキリシタンたちの良い習慣だからです。ついでディオゴは手ずから私たちに茶を供しました。それは既述のように、草の粉末で、一つの陶器の中で熱湯に入れたものです。
アルメイダは了慶の茶の湯が単なる送別の宴ではなく、彼の信仰生活と密接に結びついた敬虔な祈りの儀式でもあったことに感銘を受けた。
彼の報告に見られるような茶の湯とキリスト教との精神的な関わりはのちに日本文化の精神的な伝統に適合するような布教規則を定めたイエズス会巡察師ヴァリニャーノに影響を与えた。ヴァリニャーノの『日本イエズス会士礼法指針』には次のような項目がある。
すべての住院(カザ)には清潔でしかもよく整備された茶湯の座敷を設け、また住院にいつも住んでいて、しかし茶湯についてはなにがしかの心得のある同宿(在俗信徒の奉仕者)または他のだれかを置かなくてはならない。訪問者の身分に応じて接待を行うために、二、三種類の茶を備えなければならない。そこで茶湯の世話をする人は、そこで読み書きや茶を碾くこと、茶湯に関係あることをするようにしなければならない。
どの住院においても、よそから来る人のために、少なくとも階下に周囲に縁側のある二室一組の座敷をもたねかればならず、そのうちの一室は茶の湯のための室にあてられることになろう。これらの座敷に続いて、さらに二つの座敷がなければならず、その座敷に客人をもてなす世話をする司祭や修道士が住むことになるのである。そうすることによって、彼らが何の不便も感ぜずに、ただ扉を開くだけか、それとも前方にある座敷を随意に通るかして、自室から客人の前に姿を現すことができるようにするためである。また、これらの座敷の縁側の前には立派にこしらえられ、かつ整備された庭がなければならない。そして縁側は部屋に入ったり出たりする際に行われる日本の礼儀作法を守ることができるようにするため、日本風に司祭や住院の他の召使が一方から座敷に入り、客人が他方から入るのに便利なように、また客人がどちら側、住院のものがどちら側に座を占めなければならないかが分かるように作られることである。こういった場所には上述の領主達専用の清潔な厠と、盃に関連するあらゆる茶道具の入っている一つの戸棚(洞庫)を備えた小部屋(水屋)をもったもう一つの特別の茶湯の座敷がなければならない。そこにはまた、台所では作ることができないし、また作るべきではない吸い物とか点心とかこれに類したものを、この場所で作るのに使用される食膳用棚をもった炉が設けられていなければならない。大きな住院(カザ)や学院(コレジヨ)にあっては、他の司祭(パードレ)たちや修道士(イルマン)達のために役立てられる場所は、司祭達の望むように、また皆の精神集中に都合が良いように、もっと奥まった所に設けることができる。
〇 狩野派の絵師の書いた「南蛮屏風」(六曲一双、南蛮美術館所蔵)には、當時の教会堂(畳が敷かれているが屋根の上の十字架が南蛮寺であることを示している)での茶の湯の有様が描かれている。日本人の同宿が抹茶の茶碗を両手で持ち、黒の長衣を着たイエズス会宣教師とそのそばにいる青い制服を着た日本人修道士のもとに運ぼうとしている図である。二人の手にしている本は欧文の教理書ないし信心書と思われる。(この南蛮寺は、おそらく長崎のイエズス会のものであろう)
右上方の南蛮寺では、聖像を飾る祭壇に向かって司祭が聖餅を捧げている司祭の姿を描いている。壁には水墨画が描かれ、床は畳敷きである。白いストライプの入った礼服を纏った司祭が、聖なる麺麭を高々と掲げて立ったまま祈っている。室内中央には祭壇があり、燭台や聖杯が正しい位置に置かれている。司祭の隣には修道士が座し、ロザリオをもった武士をはじめ信徒達が座っている。左上には聖堂の二階内部が描かれ、宣教師が信心書を手にして説教している姿が描かれ、その左の手すり越しに茶碗を運ぶ同宿が描かれている。右下方には、イエズス会修道士のなかに、右手で杖をつき左手にロザリオを持った日本の老人が描かれている。山田無庵氏は、この老人を千利休と解釈し、利休吉利支丹説の論拠としているが、H.チースリック神父は、この老人を盲目の琵琶法師であった日本人修道士ロレンソと同定している。
〇 千利休と高山右近
堺の茶の湯は村田珠光と武野紹鴎の伝統を受けて、それまで貴族と僧侶の間でのみ行われていた茶の湯を市民化の道をひらいたが、そのなかでももっとも後世に影響を及ぼしたのが千利休(千宗易)であった。千利休(宗易)(1520-1591)は堺の商人田中家の出身で、若いときから茶の湯に親しみ、書院式を北向道陳に佗茶を武野紹鴎に学んだ。彼は古来の伝統にこだわる都の貴族とは違って、新興都市堺の商人にふさわしい進取の気性、新しい意匠を積極的に茶の湯に導入する積極性をもっていた。彼は多面的な活動をした(ルネッサンス的)人物であり、商人として戦国武将の武器の調達、外交交渉の仲介、信長と秀吉という天下人の茶頭をつとめた。このような外面的な活動に従事しつつも、彼は参禅修行によって、臨済禅のもつ脱俗的ないし反俗的な精神を「佗茶」という藝道に統合した。すでに武野紹鴎によって「佗茶」の心は、藤原定家の
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
の歌によって示されていたが、利休は、更に藤原家隆の
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
を加えた上で次のように述べたと伝えられている。
「侘の本位は、清浄無垢の仏世界を表して、この路地・草庵に至りては、塵芥を払却し、主客ともに直心の交なれば、規矩寸尺、式法等、あながちに云ふべからず、火ををこし、湯をわかし、茶を喫するまでのこと也。他事あるべからず」(「南方録」「滅後」覚書)
利休の佗茶の「主客直心の交わり」を強調する宗教的な共同体は、身分の差別を越えた平等な世界での心の交流(「貴人口」を排し、「躙口」という狭き門を通って茶室に入る)がめざされ、彼の理想とする茶室は、権力者の成金趣味に迎合した豪勢なものではなく、「市中の山居」であり、在俗の世間の只中にあって、塵埃に染まらない清浄な修行場が、「一期一会」の茶道の理想とされた。
利休以後に始まる濃茶の回しのみ(すい茶)は、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、茶巾と聖布(プリフィカトリウム)の扱いも酷似している。これは、裏千家家元の千宗室の云われたように、キリスト教が日本の茶道にあたえた影響と見て良いであろう。
利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深い門人(ガラシアの夫の細川忠興など)や、吉利支丹文化の影響をうけた茶人(古田織部など)が大勢いた。
高山右近の父の高山飛騨守は、畿内のキリスト教伝道に大きな役割を果たした盲目の琵琶法師ロレンソ了斎の影響でキリスト教に帰依した[1]。當時少年であった次男の彦五郎(右近)も飛騨守の一族の者とともに受洗した。右近は父親から家督を譲られた後、1573年から85年まで高槻城主を務め、1585年に明石に転封された。1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送って棄教を迫った。宣教師の書翰によると使者に対して右近は次のように答えたという。
「予はいかなる方法によっても、関白殿下に無礼のふるまいをしたことはない。予が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは予の手柄である。予は全世界に代えてもキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。ゆえに予は領地、並びに明石の所領6万石を即刻殿下に返上する」(「キリシタン史の新発見」プレネスチーノ書簡から)
右近の強い意志を知った秀吉は時間を置かず第二の使者を出す。陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれたのである。利休の伝えた内容は「領地はなくしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。右近はこの譲歩案も次のように謝絶したので、利休もそれに感ずるところがあって再び意見することはなかったという。(金沢市近世資料館にある『混見摘写』による)
「彼宗門 師君の命より重きことを我知らず。しかれども、侍の所存は一度それに志して不変易をもって丈夫とす 師君の命といふとも 今軽々に敷改の事 武士の非本意といふ。利休もこれを感じて再び意見に及ばずの由」。
四年後に利休も又秀吉の勘気を蒙りながらも(大徳寺山門事件)、秀吉に迎合せず、一切の妥協を排したために、切腹を命ぜられ、その首は、磔にされた利休像とともに都の戻橋で晒された。
利休の次のような遺偈が伝えられている。
人生七十 力□希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剱 祖仏共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル我得具足の一太刀(ひっさぐる わがえしぐそくのひとつたち)
今此時そ天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)
「祖仏共殺」とは臨済録の「殺仏殺祖」に由来するが、対象化された仏や祖師を否定する偶像否定の精神の表明と言って良いであろう。
右近のほうは、追放後、博多湾に浮かぶ能古島、小豆島など、右近を慕う大名達によって匿われたのち、金沢の加賀前田家の客将として、能登で二万石を与えられた。しかしながら、1614年の徳川幕府の吉利支丹禁令のさいに国外追放となり、翌1615年2月3日にマニラで死去した。国外追放されたとき、右近は十字架と共に、最後に利休と分かれたときに渡された羽箒(茶道具)を所持していた。また、右近が細川忠興宛にあてた書状が、細川家の永青文庫に残っている。
近々、出航いたすことになりました。ところで、このたび一軸の掛物をさしあげます。どなたにさしあげようかと思案しましたが、やはりあなた様にこそふさわしいもの、私のほんの志ばかりでございます。
帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名をぞ留むる。
彼(正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。
是(私)は、今南海に赴き、命を天に任せた名を流すのみです。
いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその、いまこそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御こころ尽くしのお礼は、筆舌につくす事は出来ません。恐れながら申し上げます。
九月十日 南坊等伯(高山右近の茶人としての号)
三好長慶によって布教が許可されていたイエズス会の宣教師を領内から追放することを画策した松永久秀は、吉利支丹が邪宗であることを示すために、法華宗の信徒でもあった結城山城守忠正、公家の清原大外、高山飛騨守などに奈良に呼んでイエズス会士を吟味することを企画した。このとき吟味に応じたのが、ロレンソ了斎であった。吟味役の飛騨守は、吟味討論の場でのロレンソの説法に感銘を受け、逆にキリスト者となったと伝えられている。