歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「武士道」とキリスト教 1

2007-02-01 |  宗教 Religion

 序

明治維新に際して封建領主を失った旧藩士の中から、プロテスタントのキリスト教に改宗した多くの先達があったが、そのなかでも、札幌農学校で共に学んだ新渡戸稲造と内村鑑三は、日本人の民族的な伝統にしっかりと根ざしたキリスト教を表現するために、「武士道」を基盤とすべき事を強調した。そこで言われている武士道は、キリスト教到来以前より神によって準備された「古き契約」であるといわれ、その土台のうえに「接ぎ木」されたキリスト教のほうが、西洋近代の世俗化したキリスト教よりも優れており、それこそが日本人が選び取るべきキリスト教であると言う点では二人は共通している。しかしながら、日本人の心の深層にあった武士道的な忠誠心を考える場合、どうしても明治以後に国家宗教として帝国日本の精神的支柱としての役割を担った天皇制との関係を考えないわけにはいかない。 武士道の倫理が、天皇という現人神への信仰に吸収されていく過程のなかで、日本のキリスト者、とくに日本独自のキリスト教を唱道した信徒は如何なる対応を迫られたか、これはいうなれば戦前のキリスト者の「踏み絵」とも言うべき困難な問題であった。日本民族に固有の精神的伝統を自覚し、その大地に福音という「新しい契約」を樹立すること-これは現代の日本のキリスト者も直面している問題である。キリスト者という個的実存と、民族の伝統という特殊、世界宗教という普遍とのあいだの関係が問われているだけでなく、武士道によって表現された封建時代の倫理を、絶対君主でもあった現人神への信仰に収斂させた「天皇制」との関係を分析せずに、武士道とキリスト教について語ることはできないであろう。これは難しい問題であるが、避けて通ることは出来ない。今は、この問題を十分に論じるだけの余裕がないので、さしあたり、問題点の指摘だけになるが、まずは、新渡戸稲造の『武士道』のつぎの文から始めよう。

哲学的かつ敬虔なる心には各人種は神の書きたまいし記号であって、あるいは黒くあるいは白く、彼らの皮膚の色のごとく明らかに跡を辿りうる。もしこの比喩にして佳ならんか、黄色人種は金色の象形文字をもって記されたる貴重の一頁をなすものである! 一国民の過去の経歴を無視して、宣教師らはキリスト教は新宗教だと要求する。 しかるに私の考えでは、それは「古き古き物語」であって、もし理解しうべき言葉をもって提供せられるならば、すなわち一国民がその道徳的発達上熟知する語彙をもって表現せられるならば、人種もしくは民族のいかんを問わず、その心にたやすく宿りうるものである。アメリカ的もしくはイギリス的形式のキリスト教-キリストの恩寵と純粋よりもむしろより多くのアングロ・サクソン的恣意を含むキリスト教―は武士道の幹に接木するには貧弱なる芽である。[i]

「アングロ・サクソン的形式に於けるキリスト教」とは誤解を招きやすい表現だが、近代の資本主義社会を生み出しつつも、そこにおいて世俗化したキリスト教という含意があるだろう。そういう近代西欧に結びついたキリスト教ではなくて、近代以前に遡る「古き古き物語」であるキリスト教こそ、日本の古き物語でもある武士道精神の幹に接ぎ木するにふさわしいものではないか―そういう問いかけがある。

 ここには検討を要する様々な問題が伏在している。新渡戸自身の倫理的なバックボーンは武士道に根ざす教育の伝統であったとはいえ、江戸時代の武士道精神は明治以後の世代にとっては過去の「古い物語」である。そういう物語は、常に、それを物語る人の生きていた時代のほうを映しだすこと、言い換えれば、新渡戸の語る武士道の伝統というのは、明治時代において理想化された上で過去に投影されたモラルなのであって、戦国時代や江戸時代に生きていた武士が現実に従っていたものとは区別しなければならないだろう。

 明治以後、武士道的な忠誠心を捧げるべき対象は、統帥権をもつ「天皇」へと収斂していく。維新以前の天皇は軍事とは無関係であり、武士が忠義を捧げるべき相手はそれぞれの地方の藩主なのであって、決して「日本」という「帝国」の統治者なのではなかった。明治以後の天皇制や華族制度は、ヨーロッパの帝政を模倣して生まれたので、基本的には近代のナショナリズムの所産なのであって、決して古くからの日本の伝統そのものではなかったのである。国粋主義者達の言う「日本古来の伝統」と云うものの多くは、実は明治以後に創作された「物語としての歴史」である。乃木大将の自決が武士道の作法にのっとって行われたことが、武士道と天皇制との、明治以後に強化された独特の結びつきを象徴している。捕虜となることを恥と見なす武士道倫理が、太平洋戦争では徴兵された兵士にまで強要されたことを想起するならば、武士道という物語に、ロマンチックな中世道徳にたいする憧憬ないし郷愁のみで接することは、不可能である。天皇制にたいするキリスト者の態度と言うことには見過ごせない問題がある。 たとえば新渡戸は天皇について次のように述べている。

「我々にとりて天皇は法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備し給うのである」

 こういう天皇観は、新渡戸が当時の多くの日本人と共有していたものであるが、武士道的な忠誠心(Loyalty)が、この天皇という「肉身をもちたもう天の代表者」に向けられることに対して、新渡戸はとくに問題を感じていないように見える。すくなくとも、当時の天皇崇拝に対して内村鑑三が抱いたような危惧の念をもっていなかったことが伺える。当時発布されたばかりの教育勅語の礼拝を拒んだとして、その家族もろとも天皇崇拝者の迫害を受け、ついには、この「不敬」事件を契機として教職を失った内村は、以後は在野の言論人として、また無教会主義という「ただ聖書のみ」に立脚する預言者的な生の軌跡を我々に残している。この内村と札幌農学校以来の友人であった新渡戸の生き方は、旧約聖書の言葉を用いるならば、ラジカルな「預言者」のものではなく、いうなれば政治的支配者と協力しつつ、その固定された枠組みの中で「より良きもの」を目指して「王」に助言する「祭司」的なるものであった。新渡戸は天皇制を日本の古き良き伝統を体現するものとして積極的に受容し、その枠組みの中で「帝国臣民の義務」を忠実に、そして新渡戸のうちにあっては「キリスト教的に」遂行する道を選択したように思われる。

 しかし、軍事的な統帥権を持つ天皇という大日本帝国の君主を「神聖にして侵すべからず」とする日本の復古主義のイデオロギーをキリスト者としていささかも否定せずに受容したことの意味は、新渡戸自身が置かれていた時代的な制約や、彼と皇室との個人的な関わり方を考慮しつつ、あらためて問われねばならないだろう。

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