歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

篝の舞楽

2018-08-12 | 美学 Aesthetics
 
 東西宗教交流学会に出張するついでに、8月4日夜は、大阪で前泊し、四天王寺講堂前庭で「篝の舞楽」を観賞した。飛鳥時代に中国から三韓経由で伝えられた舞楽であるが、現在は大陸では消滅し、ただ日本にのみ遺され保存されている貴重な文化遺産である。その構成は
「振鉾」(えんぶー鉾を振って天神地祇を鎮魂し事の成就を祈る。舞楽の序曲)、「篝の火入れ」、「桃李花」(初唐、曲水の宴で上演されたと云われる曲)、「林歌」(高麗楽による舞)、「還城楽」(林邑僧仏哲が伝えた林邑八楽の一つ)、「長慶子」(源博雅の作曲した慶祝の意を込めた終曲)という約一時間半の興行であった。
 グレゴリオ聖歌が西洋音楽のルーツにあるとすれば、聖徳太子の時代に伝えられた舞楽は、日本の伝統音楽、能や歌舞伎の演舞の源流を為すものだろう。
 「篝の舞楽」は一年に一回しか上演されないが、これを聴こうと思い立ったのは、シルクロードから中国、三韓を経由して日本に伝えられた音楽と舞の源流に触れることによって、典礼音楽に関する東洋の心を知りたいと思ったからである。
 ヤスパースの云う「枢軸時代」の中国には、ギリ...シャの音楽論や、アウグスチヌスの音楽論に劣らぬ、東洋独自の音楽論がすでに存在していた。例えば「論語」には次のような注目すべき音楽論がある。
 「子語魯大師樂,曰:「樂其可知也:始作,翕如也;從之,純如也,繳如也,繹如也,以成。」
 子魯の大師に樂を語りて曰く「樂は其れ知るべきなり:始めて作(お)こすに,翕如(きゅうじょ)たり;これを従(はな)ちて,純如(じゅんじょ)たり,繳如(きょうじょ)たり,繹如(やくじょ)たり,以って成る。」

 同時に複数の楽器が異なる音を演奏しながら、混沌に陥らずに見事なハーモニーが得られるということは、音楽のすばらしさである。その音楽のオーケストレーションの妙味を簡潔な言葉で表現したものが上で引用した論語「八佾第三」の文。

吉川幸次郎の論語注釈によると

翕如(きゅうじょ)=もりあがるような金属の打楽器の鳴奏
純如(じゅんじょ)=諸楽器の自由な参加(從之)によってかもしだされる純粋な調和
繳如(きょうじょ)=諸楽器がそれぞれに受け持つパートの明晰さ
繹如(やくじょ)=連続と展開
以成(いじょう)=音楽の完成
とのこと。

ここでは「如」という言葉がキーワード。孔子が人の眞實のあり方を指して言った「仁」とは、人と人との調和ある人格的関係をさすが、この関係を基盤とする社会的関係に調和と秩序をもたらしつつ、社会に於ける人格の完成を、時間的な生成の場において、「如實」に表現したものが音楽なのである。

すなわち、音楽は「一」なる始源から発し、「多」なるものへと展開発展した後に、再び一なる調和へと帰一していく宇宙と社会の調和の表現なのである。

 江文也の「孔廟大成楽章」の英訳者は、「迎神」の第一楽章、「送神」の第六楽章でいうところの「神」をthe Spirits と訳しているが、ここでいう「神」をどう捉えるべきであろうか。様々な見解があろうが、「怪力乱神」を語らぬ孔子を祭るときに「神」なる言葉を使うことの意味をさらに考察したいと思った。
 孔子は「神」について語ることを慎んではいたが、詩と音楽を媒介として、あたかも「神」がいますがごとく、「典礼」に与ることは重視していた。すなわち、孔子の倫理はあくまでも人間の立場を離れないが、超越へと開かれた人間存在をそこに読みとることが出来る。そして閉ざされた人間の自己中心性を越えるように促すものこそが音楽であり、それ故に音楽は人間の教養の完成に不可欠なものなのであった。

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