歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「旅ゆく人の心ーペトロ岐部の十字架の道行」ーなぜ彼はエルサレムに巡礼したか、またなぜ日本に戻ったのかー

2021-07-01 |  宗教 Religion
私がペトロ岐部カスイのことを知ったのは、1982年に刊行された遠藤周作の『銃と十字架』を通じてであった。遠藤といえば、英雄的な殉教者ではなく、踏み絵を踏んだ「隠れキリシタン」の苦しみ、「神の沈黙」ゆえに転ばざるを得なかったヨーロッパ人司祭など、「弱き人」を主題として小説を書き続けた作家である。その遠藤が、ペテロ岐部を小説の主人公に選んだ動機はなんだったのだろうか。彼は、西洋の植民地主義を背景としてもつキリスト教の宣教活動の矛盾について次のように指摘している。
 
 「基督教国の侵略と植民地政策、そして宣教師の日本人蔑視の感情。有馬神学校の卒業生たちはイエスの教えを学びながら、その教えとはあまりに矛盾したこの西洋教会の現実と直面せねばならなかった。そして棄教した卒業生はこの矛盾を克服できなかったから基督教から離れたのである。」
 「ペドロ岐部の波瀾と冒険にみちた生涯にも、この西洋を学んだ最初の若い日本人の苦悩がすべて含まれている。有馬神学校で彼が触れた西洋の基督教はこの男の魂をひきつけたが、その西洋の欠陥が同時に彼を苦しめつづけた。彼は誰にもたよらず、ほとんど独りでこの矛盾を解こうとして半生を費した。その殉教は彼の結論でもあった。彼は西欧の基督教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ」
 
 「ペトロ岐部はイエスの教えと日本人とのために死んだ」という遠藤の言葉に私は強く動かされた。まことのキリスト教を求めてエルサレムまで巡礼し、そして迫害されていた日本の隠れキリシタンために日本に戻って殉教したペトロ岐部の実像を知りたいと思ったからである。
 
  その後、チースリック神父や五野井隆史などキリシタン史の専門家の研究や、詩人の松永伍一の評伝「ペトロ岐部」(中公新書1984)、加賀乙彦の歴史小説『殉教者』(講談社2016)も興味深く読んだ。特に加賀乙彦は、敗戦時の陸軍幼年学校の学徒を描いた「帰らざる夏」や、自伝的長編「永遠の都」の作者でもあり、loyalty (至誠の心)を貫いた日本人とキリスト教の関係を描き続けた作家であると同時に、死刑囚や、不治の伝染病にかかった人々の心を描く多くの文芸作品の著者であったから、遠藤周作とは違った意味で、彼の歴史書小説は読み応えがあった。
  ペトロ岐部は、なぜエルサレムにわたったか、そして彼は殉教する危険を冒してまで、なぜ日本に戻ってきたのか?
  これは、さまざまな歴史的評伝や小説を読みながら、常に私の念頭を離れぬ問いである。
  私は、ザルツブルグで開催されたヨーロッパ学藝アカデミーの研究会で、
「旅ゆく人(homo viator)の精神ーペテロ岐部カスイの十字架の道行」という内容の講演をしたことがある。
 日本で「福者」としてローマ教会から顕彰されたとはいえ、ペトロ岐部の生涯は、ただ日本だけのものではなく、キリスト教の精神を理解する上で、ヨーロッパの人々にも知ってもらいたいと思ったからである。
 
  ペトロ岐部の往路(求法の旅)帰路(伝法の旅)を見ると、地球に架けられた大きなロザリオに見えた。このロザリオに沿って、かれは地上を旅しつつ、十字架の道行きをしたということ、それが私のペトロ岐部理解の出発点だった。
 まことのキリスト教に触れるために、エルサレムに巡礼する。当時の聖地はイスラム教徒に支配されていたために、ザビエルも果たせなかったエルサレム巡礼を、彼は、誰からの援助も受けずに単身で敢行した。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市は、そのままロザリオの数珠に見えたのである。
  カスイとは「活水」つまり「Aqua Vita(活ける水)」であり、イエスの十字架上の死と深い関わりがある名前であったと推定されている。
  それにしても岐部はどうして日本に戻ったのであろうか?
ここでどうしても思い出されるのは、使徒ペテロが、ローマで迫害されていたクリスチャンの元を離れようとしたときに、キリストが示現したという伝承である。「Quo vadis, Domine? 主よ、どこに行かれるのですか」というペテロの問いに対して、キリストは「ペトロ、あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかろう」と言われた。この示現に接して、使徒ペテロはローマに戻って殉教したという伝承である。
  岐部の洗礼名はペテロであり、没落した武士であった両親のつけた洗礼名であった。くしくも、岐部は使徒ペテロと同じ道を辿り、迫害されていた信徒のために日本に戻り殉教したのであった。
 
  万里を遠しとせず、命がけで求道/伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであったといえる。
 はるか遠くスペインから海を渡って日本にキリスト教を伝えたザビエルには「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」という祈りがある。
 
「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありません。ただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです」
 
 上で引用したザビエルの「純一なる愛の働き」という詩では、もはや自分が天国へゆくことへの期待も、永劫の罰を受けることへの恐怖も、何か報いを受けることを希望するがゆえに神を愛するのではない、とはっきりと歌っている。そういうことを望むのは、「純一なる愛の働き」ではなく、ただひたすらに十字架につけられたイエスを愛することのみが歌われている。これこそが、殉教したキリスト者の愛の働きではないだろうか。
 
「諸王のなかの王」なるキリストに対する忠誠を誓いつつ、他者のために十字架の道を行くキリストに倣う心を表現したこの詩は、ザビエルの騎士道精神を表現したものとも言えようが、中世から近世へと移行する転換期にあった日本の戦国時代の武将たちに伝えられたときには、彼らの主君に対する忠誠心、サムライの「士道」の精神にも直接訴えかけるものでもあった。
 
 ポルトガルやスペインのような大帝国の覇権主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めて単身で陸路を取りエルサレムに巡礼した岐部。さらにペテロの殉教の地であるローマに行ったのちに、再び海路をたどって、苦難の旅を続けたのちに日本の信徒のために帰国したペテロ。最後は江戸のキリシタン屋敷で殉教した彼の生き様こそ、初代のキリスト者の心そのものであり、使徒と同じく「十字架の行道」を実践した人であったと思う。
  江戸の切支丹屋敷で逆さ吊りの拷問を受け無惨な死を迎える前に、彼は、将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守から糾問されている。徳川幕府の最高権力者とそれに追従していた当代の第一級の知識人たちは、みすぼらしい姿で自分たちの前に現れた「禁制」のキリシタン司祭のことをどう思っていたのであろうか。
 
 ペトロ岐部カスイは長きにわたって「隠れたる日本人司祭」であった。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」では、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。
 
 彼が難民としてマカオに脱出した後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、潜伏を余儀なくされたキリスト者達を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、ドイツ人司祭フルベルト・チースリックの長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになったことであった。 
 
 先日、レンゾ神父様のZoom講演「ペトロ岐部神父叙階400年」をYoutubeで拝聴し感無量の思いがあった。チースリック神父はじめとする先人の多大な努力によって、再発見されたペトロ岐部カスイは、今も「活ける水」であり400年前の人とはとても思えなかったからである。
 
 
 
 
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