歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

草木や石ころのうちに宿るイエス-キリスト教的共生の原点をもとめて

2009-12-24 |  宗教 Religion

トマス福音書のイエス語録77 より

イエス言ひ給ふ。我在りて万物の上なる光なり。我在りて万物なり。万物は我より出で、我に達せり。木を割りてみよ。我自らそこに在り。石を上げよ。そこに汝等我を見出すなり。
(Michael Grondin のコプト語-英語逐語テキストから日本語に訳した)

Jeshua says: I-Am the Light above them all, I-Am the All. All came forth from me, and all attained to me (again). Cleave wood, I myself am there; lift up the stone and there you shall find me.

トマス福音書の中で最も良く知られた一節である。「木を割りてみよ・・」は、オクシュリンコス・パピルスにギリシャ語断片として見出されていたテキストであり、これについて、ホワイトヘッドは1926年に公刊した『宗教とその形成』の中で次のように言っている。

数年前あるエジプト人の墓で一枚のパピルスが発見されたが、この文献は、たまたま「キリストの語録」と呼ばれる初期キリスト教徒の編集書であった。その正確な信頼性とその正確な権威とがわれわれにとって問題なのではない。私がそれを引用するのは、キリスト生誕後の最初の数世紀間にエジプトにいた多くのキリスト教徒の心理状態を示すものとしてである。その当時、エジプトはキリスト教思想の神学的指導者たちを提供していた。我々は、この『キリストの語録』のなかに「木を割って見よ、そうすれば私はそこにいる」という言葉を見出すのである。これは内在性の強力な主張の一例に過ぎないが、セム族的概念からのはなはだしい離脱を示している。内在性は周知の現代的教説である。注意しなければならない点は、この教えが新約聖書の様々な部分に内包されていることであり、またキリスト教の最初の神学時代において顕在的であったということである。

この引用文は、極端な超越性と極端な内在性のドグマの双方を否定するホワイトヘッド自身の神学思想を投影したものでもあったが、彼が、引用したオクシュリンコス・パピルスの文は、20年後、やはりエジプトのナグハマディで発見されたコプト語訳のトマス福音書の一節であったことが判明した。

トマス福音書について、その聖書学に於ける意義を洞察した最初の学者の一人であり、校訂者でもあったユトレヒト大学の古代キリスト教史家G・クイスペルは、上述の「木を割りて見よ・・」を含むイエス語録の言葉のいくつかをトマス福音書の中に認めたときに、直観的に、「この福音書には共観福音書に編集されているイエスの言葉伝承そのものが収録されている、すなわち現行の福音書よりも旧い段階の福音書ではないか」と思ったということである。(荒井献 トマスによる福音書 16頁)

私自身は、ここでホワイトヘッドと同じように、トマス福音書にあって共観福音書にない言葉(アグラファ)が、歴史的イエスにさかのぼる伝承であるかどうかという聖書学者の専門的論争には立ち入らない。(個人的には、トマス福音書はイエス語録なる文藝様式のキリスト教文書が実在したことを示す重要な発見であり、そのいくつかのテキストはグノーシス文書などという偏見を捨てて読まれねばならず、イエスその人にさかのぼる伝承であると思っているけれども) 

そういうことよりも、イエスのこの言葉を伝えた最初期のキリスト教徒がもっていたイエス・キリスト理解から深く学び、それを適切に解釈することによって自らも生き、その精神を現代において継承することに関心があるのである。

イエスは大工の息子であり、「木を割って・・」「石をあげて・・」ということばは、樹木や岩石を加工し、家を造る手仕事労働は、子供時代より親しかったであろう。そして、「木を割る・・」ことは、当然の事ながら、樹木の生命を犠牲にして、それを人間のために役立てることを意味している。我々が建築をするということは、樹木の生命を奪うことを意味するのであり、いうなれば樹木の死のお陰で我々は生活しているのである。

まことに汝等に告ぐ。一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらむ。死なば多くの実を結ぶべし。(ヨハネ12.24

というヨハネ伝のイエスは、御自身の受難を一粒の麦に喩えている。「野の花」「空の鳥」のなかに父なる神のこころを感じ取る感性は、建築士が見捨てた石ころや、割れた樹木の中にさえ、いやそのような小さきものの中にこそ御自身を見出していたのではないか。端的に言って、イエスは、樹の痛みを知る人ではなかったろうか?

このように私が言えば、君はイエスをアッシジのフランシスと混同していると批判されるかも知れない。しかし、敢えて言おう、むしろアッシジのフランシスこそ、イエスの精神をイタリアにおいて忠実に受け継いだ人であったのではないか。

仏教においても「草木国土悉皆成仏」という思想は、樹木を伐採して寺院を建築することを生業とする仏教者が、樹木に感謝する意をこめて言い始めたものであって、素朴なアニミズムなどではなかったという話を聞いたことがある。私は、福音書の中に描かれたイエスのなかに、そのような、他者の犠牲を代償として生きなければならぬ人間の生のただ中に受肉したキリストのこころ、「悲しみの人にして悩みを知る」キリストの、すべての被造物におよぶ無限の愛と救済の意志を感じるのである。

イエスによる救済は、只人間にのみむけられているのではない。それは「いと小さき物」を含むすべての被造物に対して向けられているのである。パウロもまた、ロマ書の中で次のように言う。

それ造られたるものは切に慕ひて神の子たちの現れんことを待つ。造られたるものの虚無に服せしは、己が願によるにあらず。服せしめ給ひしものによるなり。されどなほ造られたるものにも滅亡の僕たるさまより解かれて、神の子たちの光栄の自由に入る望みはのこれり。
我等は知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを。(ロマ書8.19-22)

キリスト教が人間のみを特別視して、他の被造物を顧みないと言うものがいるが、すくなくも初代教会の使徒の言葉は、そういうものではない。「すべての被造物が今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむ」ことを知る彼らにとって、キリストのケノーシスとその救済の行為は、ひとり人間のみにとどまらず、草木や石のごとき被造物にまで及ぶものであった。

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「 いのちのパン」-「主の祈り」の第四の願いについて

2009-12-21 |  宗教 Religion
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
(マタイ伝 6.11)

聖書協会口語訳:わたしたちの日ごとの食物をきょうもおあたえください。
新共同訳:わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

ここで「日ごとの」糧ないし「必要な」糧と訳されたギリシャ語 ἐπιούσιον(エピウーシオン)は、新約聖書の中では、マタイ伝とルカ伝の主の祈りの該当箇所にしかでない稀な言葉であり、コイネーのギリシャ語でも他に用例を見ることのないことが古くから知られていた。(最初に指摘したのはオリゲネスのようである)。他の様々な邦訳と近代語訳を参照したが、おおむねは

  毎日必要なパンを今日もください

という意味にとっているようである。「毎日必要なパン、生きるのに必要なパンを今日も下さい」、というのは実にわかりやすい解釈であるが、マタイ福音書の文脈に於ける主の祈りの解釈として、それで果たしてすむであろうか。何か大切なことが見落とされてはいないだろうか。

マタイは主の祈りの直前に「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」というイエスのことばを置いている。つまり、異邦人のようにくどくどと言葉数を多くして祈るな、「隠れたところにおいでになる父に祈れ」という文のあとに主の祈りが出てくるのである。

さらに、主の祈り6-11 のでる「山上の垂訓」の後の箇所 6-24 では

「何を食べ、何を飲もうかと、自分のいのちのことで思い煩い、何を着ようかと自分のからだのことでおもいわずらうな」 

という言葉が出てくる。「何をたべるか、と思い煩うな」という言葉は、神が自分を必ず養って下さることへの信頼である。「空の鳥、野の花の装い」を例に出してイエスは語っている。その無条件の信頼の言葉と比較すると、

「毎日食べるパンを今日も下さいね」

と「念を押す」ようなことは、マタイ伝の山上の垂訓のメッセージの主調音と調和していないのではないか? 

ヨハネ伝になると、マタイ伝よりもさらに徹底して、物質的な意味でのパンのみにこだわる人々を批判する言葉がイエスの口から語られる。

「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが私を尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンをたべて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命にいたる朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子が、あなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子それをゆだねられたのである。」
(ヨハネ6-27)

ヨハネは、次に、約束の地に向かう民に天上からのマナが与えられたと言う群衆の言葉を載せる。

「わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」(ヨハネ6-31)

そしてこの旧約の故事を受けたイエスの言葉は

「天からのパンをあなたがたに与えたのはモーゼではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えたのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである。」(ヨハネ6-32-33)

そして、この後で「いのちのパン」という大切な言葉がイエスによって語られる。

彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい。」
イエスは彼らに言われた。「わたしがいのちのパンである。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。」
(ヨハネ 6-35)

ヨハネのこの言葉は、天上より下されたマナが約束の地にむかうユダヤの民を生かしたように、感謝の祭儀(聖餐式)におけるパンが、キリストに従うものを生かす「キリストの身体」であることを述べたものである。言葉が受肉し、そして受肉した言葉が、「いのちのパン」となってひとを真に生けるものとすること、けっして飢えることも渇くこともないこと」を示している。ヨハネは、地上の食べ物のためではなく、「永遠のいのちに到る朽ちない食べ物のために働く」ことをすすめるのである。

 キリスト者は旧約の「過越の祭り」を刷新した。「エジプトの肉鍋」を懐かしむユダヤの民に、隷属から解放された民に相応しい「天上のマナ」が与えられたように、新しい契約を記念する「感謝の祭儀」(聖餐式)の「いのちのパン」も「天上から下ってこの世にいのちを与え」、キリスト者に自由をもたらすのである

さて、この「感謝の祭儀」において中心的な役割を果たす「いのちのパン」は、イエスその人に由来する「主の祈り」に登場するパンと無関係であるのだろうか。

ここに、教父時代からの伝承に基づく「主の祈り」の別の翻訳があることを認識しておくことは重要である。そして、カトリック教会の典礼では、「感謝の祭儀」の時にかならず、主の祈りを共同で唱えることとなっている。つまり、感謝の祭儀のなかでは、マタイ伝の山上の垂訓にさかのぼる伝承と、ヨハネ伝の「いのちのパン」にさかのぼる二つの伝承が統合されているのである。

現代のカトリック典礼で使われている主の祈り
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
のラテン語訳は
Panem nostrum cotidianum da nobis hodie
(私たちの日ごとのパンを今日お与え下さい)

であるが、伝統的なラテン語訳(ヒエロニムス訳)は、
Panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie
(私たちの命のパンを今日お与え下さい)である。

ここでsupersubstantialisというラテン語は、ある意味でギリシャ語の直訳である(エピ=スペル、ウーシア=スブスタンチア)。ウシアを生存=生きる という意味にとれば、「生きるのになくてはならない」という意味となるので、ここは、日本語で言うならば、「いのちのパン」と訳すのが妥当であろう。

ここで、さらに興味深いのは、「いのちのパン」とは、感謝の祭儀の聖体を象徴する言葉でもあるということである。実際に、この supersubstantialis という言葉の スブスタンチアには、実体という意味もあるから、スペルスブスタンチアリスは超実体的ないし超自然的という含意も存在するのである。

カトリック教会では、聖体拝領のときにパンが聖別されたときに実体変化してキリストの身体となるという教義が後に生まれたが、この教義の成立は福音書の成立よりも後の事柄である。しかし、そのような解釈の源流に、聖体を天上よりのパンとして、また「いのちのパン」として拝領する伝承があったことは事実であろう。

ヴルガタ訳の、主の祈りのパンは、旧約聖書の「天より下ったマナ」のように、「超自然的な」「いのちを与えるパン」である。終末論的意識を持って、毎日を暮らしていた原始キリスト教者にとって、今日明日のパンに不自由することもあったであろう。そのような信徒を勇気づける祈りであったとすれば、ここのパンは、あきらかに永遠のいのちを与えるパンと見なすことが出来るのではないか。

「日用の糧」や「日ごとの糧」では、ヨハネ伝で言う「いのちのパン」のもつ重みが十分に表現されないし、マタイ伝に於ける祈りの精神とも調和しないし、原始キリスト教に於ける終末論的な「御国の到来」を希望する「今日」の祈りの精神にも合致しないだろう。
(聖書協会訳の「今日も」の「も」は原文にはない。エピウーシオンを「毎日食べるパン」と訳したために、訳者が「も」を補っているのである)

私は、以上の考察から、主の祈りの第四の願いは、

「私たちのいのちのパンを今日お与え下さい」

と唱えるのが最も適切である、と思う。
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