歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「主の祈り」について

2006-04-30 |  宗教 Religion
主の祈りのなかで、最近改訂されたカトリック教会と聖公会の訳では、従来の訳とすこしニュアンスの違う箇所がある。それは、
「われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」
と従来訳されてきたところを、
「私達の罪をお許し下さい。私達も人をゆるします。」
と改めたところである。

この祈りを、
「私達に対して罪を犯したものを赦しましたから、(どうかそれに免じて)私達の罪を赦して下さい」
あるいは
「私達の罪を赦してください。(そうすれば)私達も他人をゆるしますから。」
という意味にとるのは正しいのだろうか。正しくないと私は思う。

それでは祈りは神と人間との間の「取引」になってしまうのではないか。そしてそのような取引こそ、マタイが、偽善者の祈りとして最も嫌ったものではないだろうか。

そもそも
「私達は・・・しましたから、私達に・・・して下さい」とか、
「私達に・・・してください。そうすれば私達も・・・・しますから」
いう言葉が真実の祈りの言葉とは、私にはどうしても思われない。「赦し」は神と人との取引ではないのである。

私は、この箇所については、伝統的な訳

「われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」

のほうが適切であると思う。天のみこころと地に於ける現實との照応を示す「ごとく」とか「のように」という言葉がどうしても必要である。

「我等のゆるし」と「神によるゆるし」は、事柄においては、神によるゆるしが絶対的に先行するが、時間という相対的な世界に於いては、前後を付けずに同時的なるものとして訳すべきであると思う。

マタイ伝の「主の祈り」では、天(永遠)における神意と地上に於ける人間的現実との、揺るがすことの出来ない区別、しかしその区別にも拘わらず、永遠が時間的な存在の根拠であることが言われている。

  「みこころの天になるごとく、地にも成させたまえ」

プロテスタントの文語訳聖書の翻訳者は、日本語に対するセンスの非常に鋭い人だと思う。日本語では「なる」と「行う(なす)」は違う。「行う(なす)」は我々の能動的な意志の所産であるが、「なる」はそのような人間的意志だけでは支配できないものがあることを伺わせる。しかし、同時に、人間の倫理に関わる事柄では、「なる」は「なす」から切り離すことも出来ない。「なす」主体である個々の人の主体的行為を離れて、天意が自然現象のように、おのずから実現するわけではないからである。

「成させたまへ」という訳文には、天意にたいして開かれた受動性と、そのうえに成り立つ人間的な主体行為との関係が、適切に表現されている。古來、「人事を尽くして天命を待つ」とか「天は自ら助くるものを助くる」とかいうことが言われてきた所以だと思う。

英語の欽定訳では、マタイ6-10は

  Thy will be done in earth as it is in heaven.

これを読むと、天上においては永遠の現在であり、すでに何一つ欠けることのない神意が、地上の世界において、過去・現在・未来という時間の連なりの中で、将来において実現すべき課題として与えられているように私は感じる。天と地との対比、その間の照応。(永遠)は(時間)とは区別されるけれども、時間的世界と不可分であって、そこに生きている人間の主体性の根拠となっている。

「主の祈り」の冒頭の言葉と、「罪のゆるし」にかんする箇所は、深い繋がりがあると思う。他者を赦すと言うことなど、我々は、決して自己のうちから言えることではない。それにも拘わらず、「われらが他者を赦す如く」というのは、それが天意だからである。つまり、他者を赦すということが、天意と一体不可分であるから、神の赦しと、我々人間相互の赦しが照応する。主の祈りに言われる「ゆるし」は、神のゆるしのように、人もゆるしあうように、という祈りの言葉なのだと思う。
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