歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

小鹿島裁判の不当なる判決

2005-10-25 |  宗教 Religion
韓国小鹿島更生園と台湾楽生院の入所者達の、ハンセン病補償法に基づく補償金の支払いを求める裁判の判決が、それぞれの入所者にたいして、全く対立するような形で、判決が出た。東京地裁は、二つのケースについて互いに矛盾した判決を下したのである。

小鹿島の場合楽生院の場合のどちらも、療養所の沿革と実態を述べる部分を除けば、原告側が提出した訴状の文面は、殆ど同一である。すなわち、請求の趣旨は同一、請求の原因も、「ハンセン病補償法の趣旨とその特徴」「本件取り消し原因」の部分は同一である。にもかかわらず、判決は正反対で、原告側は、小鹿島の場合は敗訴、楽生院の場合は勝訴であった。

読者は、各自、楽生院の判決要旨小鹿島の判決要旨を比較して読んで頂きたい。

楽生院のケースでは、判決文は明快であり、個人の人権を守るために、嘗ての日本の植民地に於けるらい療養所の人権侵害を補償するにあたり、人種や国籍の差別を立てずに平等の原則を貫いた判決として評価できる。

これに対して、小鹿島のケースでは、判決文の文体も徒に冗漫にして煩瑣、論旨不明瞭の典型的な官僚的悪文である。

小鹿島の判決文には、戦前に於ける「らい予防法」とそれに基づく人権侵害という視点が完全に欠落している。日本国家の人権侵害行為を、戦後のみに限定し、戦前のそれを無答責とする観点が前提されている点が、裁判官の歴史認識の欠如を物語る。彼等は、ハンセン病補償法が制定されるときに、旧植民地に於ける療養所のことは審議されていなかったと言う事実にあくまでも拘泥し、政府と国会の認識の浅さを逆用しつつ、三百代言的な論法をもって原告の訴えを斥けたのである。

責任は勿論、ハンセン病補償法を審議するときに、旧植民地の人々のケースを論じなかった国会、適切なる指示をだせなかった行政にもあるが、裁判官の見識を示した楽生院のケースとは異なり、小鹿島裁判の拙劣なる判決文を書いたものもまた、当然の事ながら、歴史と理性の審判を受けるであろう。
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「福音の再発見」について

2005-10-19 |  文学 Literature
松本馨さんが、妻の死と失明というどん底から立ち直るきっかけを与えた関根正雄の「預言と福音」にはどのようなことが書かれていたのだろうか。ここで、1952年10月の『預言と福音』第27号に、「福音の再発見」と題した関根正雄の文を読んでみたい。
絶対の無力と不信の只中で私はもう一度十字架を仰いだ。私はそこにかっての回心の日の如く迫り来る神の義を見る事は出来なかった。私がそこに見出したものは不義の蔽いに隠された神の義であり、弱さの蔽いに隠された神の力であった。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を通して「我は虫にして人に非ず」(詩篇二二ノ一、六)という言葉の中に死んでいった神の子の姿であった。限りなく低くされた私は不義と無力と「虫」の姿を通してのみ、神の義と力と更に生けるキリスト御自身を再び見出したのである。如何にして私はそのように隠された蔽いの下に一切を見出すことが出来たか。それこそは実にキリストの御霊の力であった。その事は又私にとって先の発見以上の大なる発見であった。私はそれによって十字架を通らざる聖霊の信仰に最後的に訣別することが出来たのである。
関根正雄は、第二回目の回心(十字架のイエスによって、これまでの自己の宗教性が否定され、自己の不義と無力と無信仰に怖れ戦くことを通して、自己に由来しない信仰をイエスを通して与えられるという経験)を述べるにさいして、自己の人格性の完全なる喪失を、詩編の作者と同じく「我は虫にして人に非ず」と言い表す。いうなれば、これまで自分が、自己の内にある信仰と信じてきたものが徹底的に崩壊したときに、そのような「無信仰」なる我のために、そのような無信仰の底の底に、十字架に付けられたイエス御自身が、私のために、低く降りたもうた、という事実が、如実に体験されたということ、それを「無信仰の信仰」と関根正雄は表現したのである。

「小さき声」の創刊号に掲載された「水先案内人」は、無信仰の「どん底」にあった自己を生き返らせたキリスト、自己自身よりも自己にとって根源的な「命の命」であるキリストを詠んだものであるし、「小さき声」の第二号に掲載されている、「みみずの歌」という詩は、そのような人格を喪失した自己の姿、「虫けら」としての「私」を詠んだものであろう。

 関根正雄は「十字架を通らざる聖霊信仰」に最終的に訣別した、と言った。それは異教的な霊に満たされた神秘主義と訣別したということであろう。それでは、「十字架を通った聖霊信仰」、つまり真にキリスト教的な聖霊信仰とはどのようなものであるのか。

松本馨の「みみずの歌」の最終連の六行を見てみよう。

   風がその空洞を吹き抜ける。
   その度にお前は一管の笛となって泣く
   だからお前は土を喰う

   ああ天井はやぶれ
   矢で心臓を射ぬかれた
   鳩が落ちてくる。

ここにでてくる、「空洞」という言葉に注意したい。

 カール・バルトは、「ロマ書」のなかで、キリスト者にとってイエスとは、我々の既知の平面を穿つ「弾孔ないし空洞」としてしか見えない、といっている。キリストの言葉がそこを通過し、そこを通って響き渡る空洞である。

 みみずの喰らう「土」は、目の見えぬ作者がそこにおいて生きている世俗の世界を表し、作者は、「空洞」として、自己を吹き抜けていく聖霊(聖書では風と同じ言葉)によって一個の「笛」となる。そのような笛の奏でる「みみずの歌」こそが、松本馨が「小さき声」のなかで詠う詩なのである。

 「みみずの歌」の最後の三行は、とくに、鮮烈な詩的印象を与える。「矢で心臓を射抜かれた」は、「鳩」を形容するものと読むか、鳩が落ちてくる以前の作者の状態を形容するものと読むか、微妙なところであるが、実際は二つの意味が重ね合わされているような感覚がある。作者にとっては、自己自身が矢(神の怒りの象徴)で致命傷を負ったと言う経験に、十字架のイエスと同じように致命傷を負って「落ちてくる鳩」というイメージが重ね合わされている。 その「落ちてくる鳩」のイメージこそ、みみずの身体を突きぬけ、土の暗闇の中で呻吟している作者の生のただなかで、受難のイエスと一つである聖霊の通過した徴ではないだろうか。
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関根正雄との出会い

2005-10-18 |  文学 Literature
松本馨文庫に「預言と福音」300号によせてをアップした。そのなかに次のようなくだりがある。
「私が「預言と福音」の購読者になったのは、一九五〇年の十月か十一月ではなかったかと記憶しているが、予め雑誌の内容を知って購読したわけではない。当時先生の名前さえ知らなかった私は、友人のNが先生の読者である事を知って、彼に依頼し取り寄せたのである。この年の春、私は一夜にして失明し、失意のどん底にあった。自分を打つ怒りの神が、同時に恵みの神である事が分らないで、地獄の苦しみを経験していた。暗い病棟の一隅で、この神が分らず幾度か呼吸難に陥り失神しかけた。そんな中で、藁にも縋る思いで闇雲に二、三の雑誌を取って見た。その中に「預言と福音」が入っていたのであるがこの様な状況の中で、雑誌を読んでも分る筈がなく、霧の中を彷徨う思いであった。然し、神は私を見捨て給わなかった。ロマ書三章二一節以下を通し、御自身を啓示されたのである。そして、約二年後の一九五二年に、始めて先生が全生園に見えられ、十字架を私に指し示して下さった。私にとって第二の回心とも言うべき出来事であった。」
関根正雄が初めて全生園を訪れたのは、1952年6月20日。無教会千代田集会から、約10名位の信徒が同行したとのこと。(森田外雄氏作成の略年譜による)。これが第一回の聖書講義であった。第二回の聖書講義(9月10日)のテーマは「詩編40」。それ以後、1954年12月まで、毎月第二日曜の夜、全生園で集会が開かれ、詩編の講義が続けられた。1955年は年4回、1956年からは年に1,2回の訪問となるが、1970年頃まで続けられた。関根正雄が最後に松本馨を訪問したのは1995年11月29日とのことである。 1955年7月、『預言と福音』第58号に、松本馨から関根正雄宛の書簡、「ヨブのごとく-ある癩盲の兄弟から-」が掲載されている。
「私が厳しい試練に立たされたのは、Nが先生と別れて独立する、と言い出し、先生か、自分か、どちらかを選ぶ様に二者択一を迫った時であった。私は独立するだけの勉強もしていないし、先生から十字架の信仰を学ぶ為にNと別れた。Nと別れる事は、私にとって自分に死ぬ事であった。私の為に聖書と雑誌を読んでくれる者はN以外に居なかったからである。この問題の起る前に、教会にとどまる事が良心を偽る事であり、神を試みる事であると知らされ教会を出た。教会を出る事は聖書暗誦の奉仕者である二人の兄姉に別れる事であり、聖書と訣別する事でもあった。この時も私は自己に死んだ。そして最後に残ったNとも別れる事になったのである。その後、Nは、私が購読している雑誌だけは読んで上げる、と申し出、何ケ月か続いたがある日、「預言と福音」を持って面会所の個室に行った時、今後「預言と福音」は読まない、と自分の用意して来た雑誌を読んだが、私の耳には何も聞えなかった。あまりにもその衝撃が大きかったからである。神は何故私だけをかく懲らしめ給うのか、私には分らなかった。そして、暗黒の中で幾日も祈り続けた。然し、神は試みに耐え得ないほどの苦しみに合わせ給わない。私から総べてを奪った神は、私の為に、ある準備をしていて下さった。それは先生と、千代田集会の教友達が、私の為に目となるテープレコーダー購入の為の寄附を募っていて下さったのである。」
この文は前にも一部引用したが、松本さんが秋津教会を離籍したこと、聖書を暗誦してくれる人を失い、『預言と福音』を盲目の自分に替わって読んでくれたN氏とも訣別したと云うところ、ある危機的状況に松本さんが居たことが判る。そして「暗黒の中で幾日も祈り続けた」。しかし、「私から総べてを奪った神は、私の為に、ある準備をしていて下さった」。絶望の極みから、一転した信頼への転調ー松本さんのこの回想そのものが、旧約聖書詩編の中で我々がであう回心経験の叙述そのものではないだろうか。

 松本馨さんのためにテープレコーダーの購入資金カンパが無教会千代田集会で1961年になされた。これによって、以後、テープによって、関根正雄の講義を聴講。1963年8月には『預言と福音』第149号の表紙裏に2頁に「小さき声」掲載された。1967年11月26日、鴎友学園での『預言と福音』200号記念感謝会に松本馨さんも出席された。これが失明後の初めての外出であったという記事を読んで、あらためて松本さんの置かれていた状況に気づく。

私が今井館で関根正雄の旧約聖書講義を聴いたのは1980年代であったから、松本馨さんが関根正雄から決定的な影響を受けたときよりもしばらくあとになる。関根正雄氏から「信頼的絶望」とか、「無信仰の信仰」という言葉を聴いたとき、私の場合は、必ずしも氏の考え方に同調出来たわけではない。

しかし、「小さき声」に収録された松本馨さんの文章は、関根正雄の言葉に独特のレアリティを与えていることに気づいた。言葉の意味は、それを初めて述べたひとよりも、その言葉に動かされ影響された人によって、深まりを増していくと云うことがあると思う。「信頼的絶望」という言葉は、松本馨さんの回心経験という文脈に置かれたとき、私にとってかつて無かったような實在感を獲得したのである。

N氏が関根正雄と袂を分かち、社会復帰していったあとでは、松本さんは、暗誦した聖書の言葉と、関根正雄の「預言と福音」の言葉によって生かされるようになる。そして、園外へは「小さき声」を刊行しつつ、園内では自治会活動という100%世俗的な活動に従事する。これもまた、100%世俗の中に生きることが、100%信仰の中に生きる事になると言う関根正雄の思想の実践であった。
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松本馨さんの「小さき声」復刻のこと

2005-10-16 |  文学 Literature
「小さき声」は、第一期(1962-1986)が276号、第二期(1987-1991)が35号ですから、全部で311号あります。それらを製本したものが、現在の所、二種類知られています。一つは前田先生が、一部ワープロで復刻したものと、原本をコピーしたものとを合わせて製本したもので、ハンセン病図書館に一式納められています。もうひとつは、無教会のキリスト教の今井資料館に、パンフレットそのものを合本製本したものです。

どちらを底本とするか。ハンセン病図書館のワープロで転写されたものと、今井館のものとではレイアウトが異なります。今井館にあった創刊号の原本を画像で表示してみました。また、創刊号を、出来る限り今井館の原本通りに復刻したものを作成してみました。
小さき声Mo.1 (原本の復刻)をご覧下さい。
原本通り復刻するのは少々手数が掛かります。また、原本には、聖書引用などで正確でない箇所や誤植もありますので、そういうところは、前田靖幸先生の編集本を参考にしながら訂正しなければなりません。しかし、復刻本は、レイアウトが原本に近い方が望ましいので、時間は掛かっても、今井館に収蔵されているものを底本にしたいと思っています。

「小さき声」の完全復刻は、出来る限り人の手だけをかけ、お金を掛けぬ事、つまり外部からの金銭的寄付に安易に依存しない、ということにしたいと思っています。

もし、松本さんが、國から賠償金を受け取ったとしたならば、「小さき声」も「零点状況」も簡単に自費出版できたでしょう。そういう安易な道は松本さんはとられなかったのです。松本さんの個人伝道がそうであったように、たとえ少数であっても、人と人との心の繋がりの中で、「小さき声」を共に読みながら、そこから各自が学びつつ、復刻準備会の共同作業として、完全復刻を目指すーこんな事を理想として考えています。

全生園祭りが終わりましたら、志を同じくする方と相談して、定期的に(月に2回くらい)ハンセン病図書館に集合し、「図書館友の会」の作業日とバッティングしないように時間帯に配慮しつつ「小さき声」の復刻のための準備会を開催したいと思っています。

また、復刻準備会には、これまで松本馨さんと深い関わりをもってこられた方々、無教会の信徒の皆様、テープ起しや、ガリ版きり、発送の仕事などでお手伝いされた先達の方々と連絡を取って、お話を聞くことも考えています。
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全生園での講演会の感想

2005-10-11 |  文学 Literature
10月1日全生園コミュニティーセンターで、「松本馨追悼講演会」が開催された。主催は、ハンセン病図書館友の会。これは、全生園のハンセン病図書館をこれまで利用してきた有志が、主任として資料集めと整理に孤軍奮闘されてきた山下道輔氏を支援するためにできたボランティア組織である。

講演の前に、自治会長の平沢氏が挨拶された。氏は健康を害して入院し、退院後まだ間がないので参加して頂けるか危ぶまれたが、「松本馨さんの追悼講演会で、大谷先生が話されるというのであれば、医者が駄目であると言っても参加する」と言って、御自身の予防法廃止運動の歴史を共有された同志でもあった松本馨さんについて力強く語られたのが印象に残った。

最初の講演者の大谷藤郎氏は、松本馨さんを運動の「同志」としてだけではなく、自分の人生の「師」の一人であると表現した。そして、どうして松本さんを師と呼ぶか、その理由を話したいと言われた。

大谷氏は、厚生省の国立療養所課長や医務局長の時代における松本馨さんの出会を
回想するだけでなく、松本さんが自治会長の時代に出されていた「小さき声」という伝道誌を送られて、その内容に感動したことを話された。そして、このパンフレットを手掛かりにして、松本さんのキリスト教信仰の核心にあえて立ち入り、キリスト者の自由という視点から、力強い言葉で、松本さんの思想を要約されたのである。

松本さんのハンセン病の患者運動は、個人のいのちの重みと人権を重視する運動であり、同時に客観的な科学的精神に基づくものであった。その根本的な立場は、大谷さんがもう一人の師と仰ぐ小笠原登と同じであったと話され、当時の大谷氏以上に、日本国憲法の個人の人権重視の精神を理解しているという印象を受けたという。当時の官僚グループの間では孤立していた大谷氏にとっても、それは大いなる驚きであったという。

1969年に自治会の総務部長になられてから、松本さんは、療養所の医師や管理者を支配していた「光田イズム」の徹底した批判を展開された。大谷氏は、当時の管理者の松本さん批判の文章も紹介されたが、それは今日では考えられぬほど自治会に対して無礼なものである。次に大谷氏は、光田氏の影響の元にある医師達は「不治らい教」の信者であったという松本さんの文章を引用されて、かつての日本のらい医療政策の非科学性を指摘された。

松本さんによれば戦後まもなくのらい予防法粉砕運動は正しい運動であった。しかし、その後の全患協の運動は、光田イズムの体制を温存し、それを認めた上での待遇改善運動であり、それは抜本的な改革とはほど遠いというものとなった。

今日から見れば、科学的に見ても、ヒューマニズムの観点から見ても正しい理念に基づく思想と運動を、それが全く認められない歴史的時点において、松本さんが時代に先駆けて展開できた理由はなぜであろうか。それは、「小さき声」に書かれた松本さんのキリスト教信仰を抜きにしては語れない。

松本さんは、「生まれたのは何のためか」という疑問を解決するために、自殺をせずにらい療養所に17歳の時に入所した。彼は、キリスト者であった原田嘉悦の教えを受け、図書係を勤めながら勉強し、秋津教会に入信する。そして、おなじくキリスト教の施設から転園してきた女性と結婚するが、僅か4年で、妻の死に直面し、また御自身も失明されるという大きな試練にであわれた。そしてその試練のどん底で、関根正雄の無教会信仰に導かれ、第二の回心を経験する。

関根正雄から松本さんが学ばれたことの一つは、「信仰的決断」ということであった。その決断に従い、彼は、「小さき声」の文書伝道を初め、また自治会の再建運動という世俗の仕事にも参加されたのである。

この無教会信仰と自治会活動を結ぶものは何であろうか。それこそが松本馨さんの信仰のあり方の特質である。それは

「十字架にある恵みを戴いて、終わりの日を望みつつ共同の闘いを進めたい」

という松本さん自身の言葉で要約できるだろう。しかし、なぜ松本さんは、神の世界という絶対から、自治会という泥臭い相対の政治活動に入っていったのだろうか。現代世界においてキリストの十字架を背負うとはいかなることを意味するか。松本さんによれば、それは「信仰無き世界」-この世俗の世界-の直中にあって、世俗の人となりきることを意味する。それこそが、神の世界より俗世に下り、人となって、この世にとどまりつつ世の人のために働いたイエスに倣うことなのである。

つまり、松本さんの自治会活動は、世俗の底の底まで降られたイエスに倣いつつ、「世俗に於ける福音」の実践を行うことに他ならない。隔離収容所の徹底的否定、光田健輔の思想のラジカルな批判という彼の活動がそこから出てくる。自治会活動に携わることには大いなる苦痛が伴ったが、松本さんは最後まで、信仰者として自治会活動に携わったことを誤っていたとは思わなかったとのこと。

イエスは12人の弟子以外には弟子を作らなかった。しかもそのうちの一人はイエスを裏切ったのである。それ以外の弟子も皆、一度は信仰につまずいた。しかし、キリストの復活信仰によって彼等は一転して、新しい生を生きたのである。彼等のエクレシアは、十字架のイエスの指し示す信仰は、終わりの日の到来を望みつつ、俗世の直中にあって、俗世を越えて生きることである。その生活はキリスト者の自由である。その自由は、自己に死にキリストに生きることであり、イエスの死と生をこの生に持ち込むことである。その時、松本馨さんのように四肢の感覚を失い盲目になっても自由なのである。隔離も病気も松本さんを奴隷にすることは出来なかった。

松本さんは患者運動の中で反対者、敵対者にであっても自由であったと、大谷さんは、当時を回想しつつ言った。たとえ松本さんが誰かを罵倒することがあっても、それは私心無き精神の吐露であったが、残念ながら、それは人に誤解されることもあったかも知れない。

ハンセン病の病苦、妻の死、失明などの苦しみの中から、「キリストの十字架の信仰」によって立ち直られた松本さんについて、更によく知ること、その生涯とその言葉、その運動の歴史を振り返りつつ、松本さんを我が生涯の師として、そこから学びたいということが大谷さんの講演の趣旨であったと私は理解した。
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全生園での講演会の感想 2

2005-10-10 |  文学 Literature
二番目の講演者の野上氏は、晩年の松本さんの信仰のあり方を古くからの友人である御自身の信仰の立場から要約して話された。それは決して松本さんを偶像化することなくありしままに受け取ろうという姿勢が見られた。ただし、野上さんの講演のなかに、「松本さんの崩壊体験」とか「信仰の崩壊」という趣旨の言葉があったが、これは関根正雄の無教会信仰をよく知らない人にはミスリーディングであるかもしれない。

私は、この「崩壊」という言葉の意味を考えてみたい。松本馨さんは、関根正雄との出会いを次のように回想している。

「1952年に、始めて(関根正雄)先生が全生園に見えられ、十字架を私に指し示して下さった。私にとって第二の回心ともいうべき出来事であった。私の長年求めていた師が、先生であることを知り、その時以来、先生の十字架信仰に集中した。(中略)私が、厳しい試練に立たされたのは、Nが先生と別れて独立すると言いだし、先生か、自分か、どちらかを選ぶように二者択一を迫ったときであった。私は独立するだけの勉強もしていないし、先生から十字架の信仰を学ぶためにNと別れた。Nと別れることは、私にとって自分に死ぬことであった。私のために聖書と雑誌を読んでくれるものはN以外には居なかったからである。この問題の起こる前に、教会にとどまる事が良心を偽ることであり、神を試みる事であると知らされ、教会を出た。教会を出ることは聖書暗誦の奉仕者である二人の兄姉に別れることであり、聖書と訣別する事でもあった。このときも私は自己に死んだ。そして最後に残ったNとも別れたのである。」 (預言と福音 三百号に寄せて)

松本さんは、関根正雄の無教会信仰に従い、教会を離脱し、嘗て信仰を同じくしていた仲間から離れ、古き「自己」に死んだ。そして、盲目の自分のために聖書を読んでくれたN氏とも訣別し、単独者の道を選んだ。傍から見れば、信仰の崩壊とも言えよう。しかし、松本さんにとっては、その道を歩むことは必然であった。

通常の回心が、教会的キリスト教ー宗教的なイデオロギーとしてのキリスト教ーへの回心であるとすれば、松本さんは、完全な孤独の中でそのようなイデオロギー信仰の崩壊を経験したのである。しかし、関根正雄の言葉に導かれながら、松本さんは第二の回心を経験する。それは、どのようなものであるのか、言葉で表すことは難しい。松本さんは、それを関根正雄の言葉を用いて「無信仰の信仰」と表現した。それを敢えて言うならば、十字架のイエスを仰ぎ見ることによって、すべての人からも、そして神からも見捨てられる絶対的孤独の中で、イエスの信仰と松本さんの信仰が一つとなるような仕方で、第二の回心を経験したのである。この回心は決定的だった。その後の松本さんの活動は眼を瞠るばかりである。

晩年の松本さんについては、いろいろな人がいろいろなことをいっているという印象を受ける。しかし、まず松本さんが80歳を過ぎてから書かれた小説「零点状況」とそれに寄せた「1パーセントの神」というパンフレットを読むことによって、かれの最晩年の心境を伺うことができよう。小説執筆中に、恩師の関根正雄の死にであい、その死に対する応答として書かれたものが「1パーセントの神」である。そこに精神の乱れなどは全くみられないし、第二の回心で得た信仰は少しも変わりなきものとしてある。最晩年にかれが再び孤独に徹する道を選んだとしても、それは彼が、余人を交えずに、関根先生と「彼の内なる主」との語らいに入っていたと見なすべきであって、そういう単独者の道は覚悟の上であったと思う。
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ハンセン病図書館を存続させよう

2005-10-09 | 日誌 Diary
全生園のハンセン病図書館は、松本馨さんが自治会長を務めていたときに、設置された。その後、二十年近く経って、新しく高松宮ハンセン病資料館が設置されると、その中にも図書室が設けられたので、それと間違える人もいるが、ハンセン病図書館は園の宗教地区の一角にあるコンクリートの建物で、資料館が増築工事のために閉鎖されている今も開館中である。(11月3日まで、松本馨写真展を館内の展示室にて開催中)

藤野豊氏の「いのちの近代史」、荒井英子氏の「ハンセン病とキリスト教」、瓜谷修治氏の「柊の檻」など、このハンセン病図書館の資料を利用して書かれた研究書は多い。らい予防法阻止にむかう動きの中で書かれた研究書は、療養所の中の入所者自身の手によって書かれ、蒐集され、編集され、そして保存された膨大な文献を抜きにしてはあり得なかっただろう。ハンセン病図書館を保存することは、その意味で、予防法廃止へといたる人権のための闘いにとって記念碑的な施設を残すという意味を持っている。

これに対して、ハンセン病資料館のほうは、現在の段階では、この闘争を経験された世代の方が「語り部」として参加されている御陰で、来館者に人権のための闘いの足跡を伝えることが出来るが、次の世代になって、この施設が厚生労働省とか、あるいはその外郭団体の管理下に置かれた場合、はたして、入所者の歴史をありしままに後世に伝えることが出来るかどうか、不安がある。

「高松宮記念」ハンセン病資料館の展示を見れば判るように、それは、かつての藤楓協会の影響が残っており、皇室関係の展示が最初に来る。そして、強制隔離の推進者光田健輔と、強制隔離に反対して闘った小笠原登の展示が同じ部屋にある。つまり、戦前・戦後の「救癩政策」への批判的な視点によって貫徹されているとは言い難い所がある。私は、資料館の図書室に、現在のハンセン病図書館が吸収合併されることには反対である。

資料館の増設には厖大な国費が投ぜられる。そのことは一見すると良いことのようであるが、反面、管理が、国家の指導体制に置かれるということを見る必要がある。国に全てを委せるのは危険であるーなぜなら国家が過つとき、それを正すことは容易ではないから。これこそ、らい予防法の廃止と、国賠法訴訟の歴史が我々に与える教訓ではないだろうか。
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松本馨さんの手記について

2005-10-08 |  文学 Literature
多磨全生園の自治会長として、らい予防法の改正・廃止の運動に早くからかかわってきた松本馨さんについては、荒井英子さんの書かれた「ハンセン病とキリスト教」(岩波書店 1996)を通じて知ったが、「信仰と人権の二元性」を越えるキリスト者の実践のあり方を知る上で、彼の無教会主義キリスト教の信仰がいかなるものであったのか知りたいと思った。
 松本さんが1962年(昭和37年)から1986年(昭和61年)にかけて毎月一回刊行された個人誌「小さき聲」を纏めて製本したものが全生園の図書館にある。私は「小さき聲」の最初の100頁ほどを読んだが、その内容に強く惹かれた。

 松本さんは1918年4月25日、埼玉県に生まれ、1935年、17歳の時にハンセン病と診断されて、全生病院に収容され、2005年5月23日に、87才でなくなられるまで、70年の間、療養所で過ごされた。プロミンが開発される前の戦前の療養所、戦中のもっとも苦しい暗黒の時代、戦後まもなく起きた最初の予防法改正運動、1960年代後半の自治会再建の呼びかけ、療養所の歴史を療養者の目から纏めた「倶会一処」の刊行、ハンセン病図書館の創設、など療養所の過去の歴史をつぶさに体験しつつ、そのただなかで活動された方である。

戦後まもなく、奥様が若くしてなくなられたあと、御自身も1950年に失明されるという大きな試練に出会われたが、関根正雄の無教会主義キリスト教との出会いによって立ち直られ、1962年から一信徒としての伝道の書「小さき声」を24年にわたって刊行された。

松本さんの伝道活動は、全生園のなかでの自治会活動と不可分の関係にある。世俗の直中において福音を証すること、という無教会主義の思想の実践者として、1968年に自治会の再建を呼びかけ、1974年から87年までの13年間、自治会長として、また全国の療養所の支部長会議と連帯しつつ、らい予防法の改正ないし廃止の必要性を訴えられた。そういう活動も、多磨誌への寄稿も、「小さき声」の刊行も、すべて、盲目と肢体麻痺というハンディキャップを乗り越えて、多くの方々の協力を得て為されたものである。

晩年の松本さんは、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上でもういちど出版したいという願いをもっておられ、2003年5月から前田靖晴さんのご協力を得て読み上げの作業を続けられた。 2004年7月にこの校正と推敲の作業が一応終了したので、前田さんは修正ずみの原本を拡大コピーし、数部を製本された。現在ハンセン病図書館にあるものはそのうちの一部であるとのことであった。 松本馨さんの公刊された著作(単著)は、

(1)「この病は死に至らず」(1971) キリスト教夜間講座出版部
(2)「十字架のもとに」(1987)   キリスト教図書出版社
(3)「生まれたのは何のために―ハンセン病者の手記」 (1993) 教文館
(4)「零点状況―ハンセン病患者闘いの物語」     (2003) 文芸社
の4点である。

(1)(2)(3)はハンセン病資料館で閲覧可能。また(4)は新刊として入手可能だが、あとはなかなか書店から入手するのも、一般の図書館で閲覧するのも難しい。

これらの著作の内、創作である(4)以外は、すべて「小さき聲」に掲載されたものを中心として編集・出版された。たとえば(1)の第一部は、松本さんの「回心記」であって、「小さき聲」の一号から二四号にわたって連載された。松本さんはこの「小さき聲」を毎月刊行しつつ、自治会の激務をこなされ、同時に、「多磨」誌におおくの評論を寄せているが、そういう自治会活動にかかわる評論も(1)の第三部に収録されている。

現在のところ、「小さき声」を創刊号から第12号までを電子テキストとして復刻した。1962年9月から1963年8月までである。全体のほんの一部に過ぎないが、松本さんの声に、虚心に耳を傾けたいという気持ちから始めたものである。

ところで、「小さき声」という伝道の書の「小さき」が何を意味するかについて考えてみた。列王記上19章のホレブに於ける預言者エリヤが「主」とであった経験を叙述する箇所につぎのような文がある。
「見よ、主が過ぎゆかれ、主の前に強い大風が山を裂き、を砕いた。しかし、風の中には主はいまさなかった。風の後に地震があったが、地震の中には主はいまさなかった。地震の後に火があったが、火の中に主はいまさなかった。火の後でかすかな沈黙の声があった」
この「かすかな沈黙の声」のなかに、預言者エリヤは、主の声を聴く。この声こそ、松本さんの「小さき声」そのものではないだろうか。大風、地震、火のような天変地異、大げさな現象の中には主はいない。むしろ、その後の、「かすかな沈黙の声」のなかでエリヤは主とであう、という内容である。

そういう「かすかな沈黙の声」、そのなかに主の声を聞いたエリヤに倣って、私は松本さんの過去からの「小さき声」のメッセージに耳を傾けたい。
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小笠原登と圓周寺

2005-10-04 | 日誌 Diary
9月30日朝、名古屋での懇話会の帰りに、小笠原登にゆかりの寺である円周寺に立ち寄りました。名古屋より30分ほど電車に乗って甚目寺で下車。これは観音様で有名なお寺の門前町が、そのまま駅名になっています。電車を降りて、車の往来のない古びた参道を暫く歩きましたが、途中に花屋さんがあったので、秋の草花を一式買いました。こういうことは、まったく予定していませんでしたが、小笠原登のお墓に献花したいという気持ちが突然に起きたのには自分でも驚いた。

甚目寺は真言宗の大きなお寺ですが、円周寺は浄土真宗で、目立たぬ場所にありました。幸い、ご住職(小笠原登さんの甥)の奥様がいらしたので、小笠原登の墓を教えて貰いました。実は、墓と云っても、小笠原家の墓碑があるわけではなく、多くの無縁の人と同じ場所に埋葬されることを望んだ故人の遺志で、お寺の墓地の一角のお地蔵様の側が、いうならば合同の墓所。そこに、小笠原医師のことを思いながら、献花しました。

私は、大谷藤郎先生が語られたエピソードを思い出しました。それは、ある患者が、「先生、なんで私だけがこんな業病を背負わなければならんのでしょうか」と訊ねたのに対して、小笠原さんは、「今は、あなたは患者で、私は医者だけれども、死ねば皆同じ所に行くのです」と云われたとか。浄土真宗で云う「倶会一処」と言う言葉の意味がすこしだけ分かったような気がしました。

       飄々として病なし草の花
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