韓国小鹿島更生園と台湾楽生院の入所者達の、ハンセン病補償法に基づく補償金の支払いを求める裁判の判決が、それぞれの入所者にたいして、全く対立するような形で、判決が出た。東京地裁は、二つのケースについて互いに矛盾した判決を下したのである。
小鹿島の場合と楽生院の場合のどちらも、療養所の沿革と実態を述べる部分を除けば、原告側が提出した訴状の文面は、殆ど同一である。すなわち、請求の趣旨は同一、請求の原因も、「ハンセン病補償法の趣旨とその特徴」「本件取り消し原因」の部分は同一である。にもかかわらず、判決は正反対で、原告側は、小鹿島の場合は敗訴、楽生院の場合は勝訴であった。
読者は、各自、楽生院の判決要旨と小鹿島の判決要旨を比較して読んで頂きたい。
楽生院のケースでは、判決文は明快であり、個人の人権を守るために、嘗ての日本の植民地に於けるらい療養所の人権侵害を補償するにあたり、人種や国籍の差別を立てずに平等の原則を貫いた判決として評価できる。
これに対して、小鹿島のケースでは、判決文の文体も徒に冗漫にして煩瑣、論旨不明瞭の典型的な官僚的悪文である。
小鹿島の判決文には、戦前に於ける「らい予防法」とそれに基づく人権侵害という視点が完全に欠落している。日本国家の人権侵害行為を、戦後のみに限定し、戦前のそれを無答責とする観点が前提されている点が、裁判官の歴史認識の欠如を物語る。彼等は、ハンセン病補償法が制定されるときに、旧植民地に於ける療養所のことは審議されていなかったと言う事実にあくまでも拘泥し、政府と国会の認識の浅さを逆用しつつ、三百代言的な論法をもって原告の訴えを斥けたのである。
責任は勿論、ハンセン病補償法を審議するときに、旧植民地の人々のケースを論じなかった国会、適切なる指示をだせなかった行政にもあるが、裁判官の見識を示した楽生院のケースとは異なり、小鹿島裁判の拙劣なる判決文を書いたものもまた、当然の事ながら、歴史と理性の審判を受けるであろう。
小鹿島の場合と楽生院の場合のどちらも、療養所の沿革と実態を述べる部分を除けば、原告側が提出した訴状の文面は、殆ど同一である。すなわち、請求の趣旨は同一、請求の原因も、「ハンセン病補償法の趣旨とその特徴」「本件取り消し原因」の部分は同一である。にもかかわらず、判決は正反対で、原告側は、小鹿島の場合は敗訴、楽生院の場合は勝訴であった。
読者は、各自、楽生院の判決要旨と小鹿島の判決要旨を比較して読んで頂きたい。
楽生院のケースでは、判決文は明快であり、個人の人権を守るために、嘗ての日本の植民地に於けるらい療養所の人権侵害を補償するにあたり、人種や国籍の差別を立てずに平等の原則を貫いた判決として評価できる。
これに対して、小鹿島のケースでは、判決文の文体も徒に冗漫にして煩瑣、論旨不明瞭の典型的な官僚的悪文である。
小鹿島の判決文には、戦前に於ける「らい予防法」とそれに基づく人権侵害という視点が完全に欠落している。日本国家の人権侵害行為を、戦後のみに限定し、戦前のそれを無答責とする観点が前提されている点が、裁判官の歴史認識の欠如を物語る。彼等は、ハンセン病補償法が制定されるときに、旧植民地に於ける療養所のことは審議されていなかったと言う事実にあくまでも拘泥し、政府と国会の認識の浅さを逆用しつつ、三百代言的な論法をもって原告の訴えを斥けたのである。
責任は勿論、ハンセン病補償法を審議するときに、旧植民地の人々のケースを論じなかった国会、適切なる指示をだせなかった行政にもあるが、裁判官の見識を示した楽生院のケースとは異なり、小鹿島裁判の拙劣なる判決文を書いたものもまた、当然の事ながら、歴史と理性の審判を受けるであろう。