歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

福音歳時記 一月一日 イエスの奉献の日 

2025-01-01 | 福音歳時記

一月一日 イエスの奉献の日

   嬰児抱くシメオン賛歌あらたしき年始まりぬ主の奉献日

キリスト教歳時記では、降誕の日から八日後は「イエスの奉献」の日である。昔のローマ教会では、この日をクリスマスの期間の最後として「オクターブ」の典礼を行っていた。16世紀以降この日を西暦の新年のはじめの日とするようになったらしい。「初めて生まれた男子は皆、主のために聖別される」という律法に従い、山鳩ひとつがいか家鳩の雛二羽をもって、ヨゼフとマリアはイエスを奉献するために神殿に連れて行った。そこで彼等は、聖霊に導かれたシメオンという老人に出会い、賛美と祝福、そして預言のことばを受ける。ルカによる福音書2:29-35 の「シメオンの賛歌と預言」は、カトリック教会では5世紀頃から「終課」のなかで朗唱され、日本の「教会の祈り」でも「寝る前の祈り」のなかで唱えられている。また、「ロザリオの黙想」の信心行、「喜びの神秘の黙想」の第4番目の主題の一つでもある。

シメオンの賛歌
「主よ、今こそあなたは、お言葉の通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルのほまれです。
シメオンの預言
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。ーあなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

(『キリストの神殿奉献』シモン・ヴーエ ルーブル美術館蔵、1640-1641年頃の作では、聖母マリアとヨセフにシメオン老人が賛歌と預言の言葉を告げているところが描かれている)

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福音歳時記 日本で最初にエルサレムに巡礼した人

2024-12-31 | 福音歳時記
福音歳時記 日本で最初にエルサレムに巡礼した人
 
   十字架の道行く人は活ける水 パウロに倣う殉教の旅
 
 聖地でのクリスマスのメーン・イベントの一つは、聖カテリナ教会の夜の弥撒であろう。例年、世界中から大勢の巡礼者が参加する。今年はイスラエルとハマスとの戦乱のせいで観光客の数こそ激減したが、ヨルダン川西岸地区にあるベツレヘムの信徒のたちの平和への祈りが献げられた。
 聖地のカトリック教会は、古くからフランシスコ会が管理しているが、1619年頃、日本で最初にエルサレムを訪れ、ほぼ半年をかけて聖地巡礼をしたペテロ岐部カスイも、エルサレムのフランシスコ会の修道院長からの紹介状を携えて、次の目的地ローマへと巡礼の旅を続けている。    
 私がペトロ岐部カスイのことを知ったのは、遠藤周作の『銃と十字架』を通じてであった。彼は、西洋の植民地主義を背景としてもつキリスト教の宣教活動の矛盾について指摘した後で、「ペテロ岐部は西欧の基督教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ」と述べていた。私は、遠藤のこの言葉に強く動かされた。  
 ぺトロ岐部カスイは長きにわたって「隠れたる日本人司祭」であった。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」では、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。  
 ドイツ人司祭フルベルト・チースリックの長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになったことであるが、岐部は、難民としてマカオに脱出した後、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、次にローマに行って、司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、潜伏を余儀なくされたキリスト者達のために日本に帰国し、遂に江戸で殉教した。それは、物語り以上に奇跡的な歴史的事実であったといわなければならない。  
 まことのキリスト教に触れるために、エルサレムに巡礼する。当時の聖地はイスラム教徒に支配されていたために、ザビエルも果たせなかったエルサレム巡礼を、彼は、誰からの援助も受けずに単身で敢行した。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市が、私には、そのままロザリオの数珠に見えたのである。  
 カスイとは「活水」つまり「Aqua Vita(活ける水)」であり、イエスの十字架上の死と深い関わりがある名前である。    
 それにしても岐部はどうして、身の危険をも顧みず、禁教時代の日本に戻ったのであろうか?  
 ここでどうしても思い出されるのは、使徒ペテロが、ローマで迫害されていたクリスチャンの元を離れようとしたときに、キリストが示現したという伝承である。「Quo vadis, Domine? 主よ、どこに行かれるのですか」というペテロの問いに対して、キリストは「ペトロ、あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかろう」と言われた。この示現に接して、使徒ペテロはローマに戻って殉教したという物語である。  
 岐部の洗礼名はペテロであり、没落した武士であった両親のつけた洗礼名であった。くしくも、岐部は使徒ペテロと同じ道を辿り、迫害されていた信徒のために日本に戻り殉教したのであった。  
 ポルトガルやスペインのような大帝国の覇権主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めて単身で陸路を取りエルサレムに巡礼した岐部。  ペテロの殉教の地であるローマに行き、司祭に叙階され、リスボンから再び喜望峰経由の海路をたどって、苦難の旅を続け、日本の信徒のために帰国したペテロ岐部については、五野井隆史をはじめ多くのキリシタン史が考証を重ねている。  
 波頭万里、死を覚悟して帰国し、坊津から長崎、長崎から仙台へと禁制下の日本を旅し、仙台で捕縛されたのちに江戸で穴吊しの拷問をうけて殉教したーその彼の生き様こそ、文字通りの意味で「十字架の道行」を実践した人であったと思う。
 
(写真は、私が、ザルツブルグで開催されたヨーロッパ学藝アカデミーの研究会で、「旅ゆく人(homo viator)の精神ーペテロ岐部カスイの十字架の道行」という内容の講演をした時のもの。彼のことを日本だけでなく、ヨーロッパの人たちにも知って貰いたいと思ったからである。)

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福音歳時記 日本最初の降誕祭ミサ

2024-12-30 | 福音歳時記
福音歳時記 日本最初の降誕祭ミサ

  隠れたる弥撒の秘曲はいまもなほ大和心の底に流るる
 
日本最初の降誕祭ミサの記録は1552年、大内氏の領国、周防山口の降誕祭のミサである。

「鶏鳴のミサの時、パードレ・コスモ・デ・トルレス、ミサを歌ひ、パードレ・バルテザル・ガゴは福音書および書簡を読みたり。彼は助祭の白衣とストラを着し、我等は応唱せり。キリシタン等甚だ熱心にミサに与りて大いに喜びしは、我等の主に感謝すべきことなり。」(イルマン・ペドロ・デ・アルカソヴァの書簡)

 これはグレゴリオ聖歌が日本で歌われた最初の記録でもあった。当時の日本人がその内容をどのように理解したかについては、よく分からないが、

「イルマン・ペドロ・デ・アルカソヴァの出発後、山口に於いてはたえず日本語にて書きたる本によりミサおよび説教を行えり。説教の時、修院にはキリシタン充満せり。」

というシルヴァ(最初の日本文典を著した修道士)の言葉が伝えられている。ここでいう「日本語にて書きたる本」は残存しないが、山口は琵琶法師ロレンソなど語学と音楽の両方に長じた日本人修道士を輩出した地でもあるので、ポルトガル語やラテン語のミサ用語の翻訳の試みが既になされたものと推察される。
1605年に長崎で印刷された『サクラメンタ提要』には、キリシタン期洋楽の唯一現存する楽譜資料(グレゴリオ聖歌のネウマ譜)が収録されている。皆川達夫『洋楽渡来考再論』は、これについて、詳細な考証を行ったのちに、日本で出版されたものは、「主にスペイン系、多少のイタリア系の類書を参照しつつも日本へにおける布教を意識して独自の見地にたって編輯作成された固有の典礼書である」と述べている。
 尚、皆川氏は、同書で、箏曲<六段>の原曲はグレゴリオ聖歌<クレド>だったという仮説を提唱していることも興味深い。もしそうならば、我々にとっても馴染み深い箏曲の名曲のなかにキリシタンの聖歌が「隠れて」いたことになろう。
(写真はサクラメンタ提要に収録されているグレゴリオ聖歌のネウマ譜)
 
 
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福音歳時記 12月29日

2024-12-29 | 福音歳時記
福音歳時記 12月29日 聖家族の主日
  
眠れども心目覚めし幼な子を閑かに護る聖家族かな
 
キリシタン時代の東西文化交流のなかで特筆すべきものは、日本のセミナリオの画舎で制作された聖画の質の高さである。若桑みどりは『聖母像の到来』のなかで、キリシタン時代の日本のセミナリオにあった画学舎が、インド以東にイエズス会が布教した地域の中でもっともレベルが高かった理由を二つあげている。(1)安土桃山時代は豪華絢爛たる障壁画の全盛期であり、花鳥の装飾美、都市景観、人物往来の写実性も兼ね備えた美的水準の高いものであったこと。(2)ヴァリニャーノが、西洋の彫刻的、立体的素描法を画学生に押しつけずに、宗教的な図像の象徴的意味を教えるにとどめ、手法、様式、技法材料は日本人画学生の自由に任せたこと。その結果「西洋の図像+日本の手法」という東西文化の融合した芸術が生まれたのである。
  そのようなキリスト教と日本文化の邂逅によって生まれた美術品の実例として、「花鳥蒔絵螺鈿聖龕」が今に伝えられている。これは、「漆に螺鈿」という日本の精妙な工芸手法を用いて、眠るイエスをヨセフとマリアが見守る「聖家族」とヨハネが静かにしているように指で合図をしている図像を表現したものである。
 ヨハネの手にする十字架の幡には「ECCE AGNUS DEI(神の子羊を見よ)」と書かれ、画面の下には、EGO DORMIO ET COR MEUM VIGILAT (我は眠れど心は目覚めて)と書かれている。
 
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福音歳時記 12月28日

2024-12-28 | 福音歳時記

12月28日は幼子殉教者の日

 「ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちの故に泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもううないのだから。」ー捕囚の民の受難を嘆くエレミヤの言葉(エレミヤ書31:15)を、マタイによる福音書2:18は、ヘロデ王の幼児虐殺の場面で引用している。

これは決して2000年前の物語りではなく、21世紀の現在、イスラエルの占領したガザ地区でも起こっていることではないだろうか。 シオニストの建国したイスラエルは、パレスチナ難民の幼児を虐殺しても、自国の安寧にとってやむを得ないと考えている。シオニズムをまことのユダヤ教の精神に反する民族主義ーイスラエル国家を排他的に偶像化する罪ーとして批判するユダヤ人自身の声に耳を傾けたい。(『イスラエルとパレスチナーユダヤ教は植民地支配を拒絶する』ーヤコブ・ラプキン著・鵜飼哲訳 岩波ブックレット2024年10月4日刊行)

 泣き叫ぶ幼な児の聲母の聲 瓦礫十字に砕け散るなり

(画像はブリューゲルの「無辜の幼児虐殺」)
カトリック教会も東方教会も、虐殺された幼児たちを「救いの初穂」として二世紀以来、無辜の子供たちの殉教を記念している。




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福音歳時記 12月27日

2024-12-27 | 福音歳時記
福音歳時記 12月27日は福音書記・聖ヨハネの日。
 
   ゴルゴタにとどまりし使徒ただひとり 聖母のこころ共に分かちぬ

 カトリック教会のミサ典礼では入祭唱で「最後の晩餐の席で 主の傍らにいたヨハネは 天の国の神秘を示され、いのちの ことばを全地に伝えた」と歌う。 福音書記者ヨハネは、最後の晩餐で主の傍らにいただけでなく、十字架のそばでイエスの死を看取った唯一の使徒であった。

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは母とそのそばにいる愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、ご覧なさい、あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい、あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(『ヨハネによる福音書』19:25-26)とあるが、他の使徒たちは、その場に登場していない。

 教皇ベネディクト十六世は、2006年エフェソの巡礼所の「聖母マリアの家(メイレム・アナ・エヴィ)」で、聖母マリアのミサをささげた。ヨハネによる福音書19章25-27節が朗読された後で教皇は講話のなかで次のように述べている。
 
「わたしたちは聖ヨハネによる福音書のことばを聞きました。それはわたしたちに、あがないの時を観想するように招いています。そのとき、マリアは、犠牲をささげる御子と一つになって、ご自分が母であることを、すべての人、特にイエスの弟子たちにまで広げました。この出来事をあかしする名誉を与えられたのは、第四福音書の著者であるヨハネでした。ヨハネは、イエスの母と他の婦人たちとともにゴルゴタにとどまった、ただ一人の使徒です。ナザレでの「おことば通り、この身に成りますように」(フィアット)で始まった、マリアが母であることは、十字架のもとで完成しました。」
 
出典:https://www.cbcj.catholic.jp/2006/11/29/313
      
(ファン・デル・ウェイデンが1435年頃描いたと思われる祭壇画「十字架降下図」ープラド美術館所蔵ーでは、聖ヨハネ(赤色の衣装)は悲しむ聖母(青色の衣装)に手をさしのべている。聖母の他には、(左から右へ)異父妹のクロパの妻マリア、マリア・サロメ(緑色の衣装)、マグダラのマリア(右端)の4人の女性、そしてアリマタヤのヨセフ、ニコデモおよびその従者が描かれている。)
 
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福音歳時記 12月26日

2024-12-26 | 福音歳時記
福音歳時記 12月26日 聖ステファノの日。
 
12月26日は聖ステファノの日。使徒行伝によれば、ステファノは12使徒を補佐する7人の執事の一人であった。
十字架の死と復活のイエスをキリストと信じた初代キリスト者は、神殿の祭儀・奉献を重要視するユダヤ教保守派によって迫害された。
自らの信仰を臆せずに語ったステファノは石撃ちの刑に処せられ最初の殉教者となった。
使徒行伝7:55-60は、ステファノが「亡くなった」とは書かず、「眠りに就いた」と述べ、彼の復活を暗示している。
 
      壮麗な神殿いつか崩れなむ ステファノ祈りて敵を怨まず 
      殉教の若人伏せる傍らに 佇むサウロ何思ふらむ
 
(写真はケルン大聖堂のステンドグラス「聖ステファノの殉教」)
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