聖地でのクリスマスのメーン・イベントの一つは、聖カテリナ教会の夜の弥撒であろう。例年、世界中から大勢の巡礼者が参加する。今年はイスラエルとハマスとの戦乱のせいで観光客の数こそ激減したが、ヨルダン川西岸地区にあるベツレヘムの信徒のたちの平和への祈りが献げられた。
聖地のカトリック教会は、古くからフランシスコ会が管理しているが、1619年頃、日本で最初にエルサレムを訪れ、ほぼ半年をかけて聖地巡礼をしたペテロ岐部カスイも、エルサレムのフランシスコ会の修道院長からの紹介状を携えて、次の目的地ローマへと巡礼の旅を続けている。
私がペトロ岐部カスイのことを知ったのは、遠藤周作の『銃と十字架』を通じてであった。彼は、西洋の植民地主義を背景としてもつキリスト教の宣教活動の矛盾について指摘した後で、「ペテロ岐部は西欧の基督教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ」と述べていた。私は、遠藤のこの言葉に強く動かされた。
ぺトロ岐部カスイは長きにわたって「隠れたる日本人司祭」であった。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」では、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。
ドイツ人司祭フルベルト・チースリックの長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになったことであるが、岐部は、難民としてマカオに脱出した後、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、次にローマに行って、司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、潜伏を余儀なくされたキリスト者達のために日本に帰国し、遂に江戸で殉教した。それは、物語り以上に奇跡的な歴史的事実であったといわなければならない。
まことのキリスト教に触れるために、エルサレムに巡礼する。当時の聖地はイスラム教徒に支配されていたために、ザビエルも果たせなかったエルサレム巡礼を、彼は、誰からの援助も受けずに単身で敢行した。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市が、私には、そのままロザリオの数珠に見えたのである。
カスイとは「活水」つまり「Aqua Vita(活ける水)」であり、イエスの十字架上の死と深い関わりがある名前である。
それにしても岐部はどうして、身の危険をも顧みず、禁教時代の日本に戻ったのであろうか?
ここでどうしても思い出されるのは、使徒ペテロが、ローマで迫害されていたクリスチャンの元を離れようとしたときに、キリストが示現したという伝承である。「Quo vadis, Domine? 主よ、どこに行かれるのですか」というペテロの問いに対して、キリストは「ペトロ、あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかろう」と言われた。この示現に接して、使徒ペテロはローマに戻って殉教したという物語である。
岐部の洗礼名はペテロであり、没落した武士であった両親のつけた洗礼名であった。くしくも、岐部は使徒ペテロと同じ道を辿り、迫害されていた信徒のために日本に戻り殉教したのであった。
ポルトガルやスペインのような大帝国の覇権主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めて単身で陸路を取りエルサレムに巡礼した岐部。 ペテロの殉教の地であるローマに行き、司祭に叙階され、リスボンから再び喜望峰経由の海路をたどって、苦難の旅を続け、日本の信徒のために帰国したペテロ岐部については、五野井隆史をはじめ多くのキリシタン史が考証を重ねている。
波頭万里、死を覚悟して帰国し、坊津から長崎、長崎から仙台へと禁制下の日本を旅し、仙台で捕縛されたのちに江戸で穴吊しの拷問をうけて殉教したーその彼の生き様こそ、文字通りの意味で「十字架の道行」を実践した人であったと思う。
(写真は、私が、ザルツブルグで開催されたヨーロッパ学藝アカデミーの研究会で、「旅ゆく人(homo viator)の精神ーペテロ岐部カスイの十字架の道行」という内容の講演をした時のもの。彼のことを日本だけでなく、ヨーロッパの人たちにも知って貰いたいと思ったからである。)