歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

活動的生活の源泉となる典礼と聖書的伝統ー聖グレゴリオの家だより2011から

2021-12-23 | Essays in English 英文記事
私の家から歩いて10分ほどの処に「聖グレゴリオの家ー宗教音楽研究所」があります。1979年、故ゲレオン・ゴルドマン神父によって創立された、この宗教音楽研究所の創立40周年記念行事は、コロナ禍による日程の遅れはありましたが、2019年から2021年にかけて行われました。昨日頂いた「聖グレゴリオの家だより2021」にその関連記事が掲載されています。
 
 冒頭にゲレオン神父様の写真と「人間が行う活動の力の源泉は、典礼から流れ出る」という言葉が掲載されていました。それを見た途端に、40年程前、聖堂の小部屋での早朝の聖務日課に参列した頃のこと、聖務日課のあとで頂いた朝食、その時のお話のことなどが、まるで昨日のことのように思い出されました。
 「聖グレゴリオの家だより」には、水垣渉先生の40周年記念講演会「キリスト教の歴史のなかで私たちは今どこにいるかー伝統と歴史の間でー」の抄録も掲載されていました。水垣先生によると、伝統とは「共通性・同一性・不変性」を特徴とし、歴史には「相違・変化」したがって「個別性・多様性」という特徴があり、「伝統と歴史との緊張関係を手掛かりにしてキリスト教をとらえなおし、そしてその緊張関係を解決する方向にこれからの『キリスト教の姿を求めていく」が課題であるとのことでした。そして、この課題にこたえるために、「聖書的伝統」を見直すことが必要であると講演を結んでおられます。
 ゲレオン神父のいわれている「活動的生活の源泉」となる「典礼」が、水垣先生の言われた「宗派の違いを超えた聖書的伝統」と結びつくとき、宗教において変わる事なき「伝統(永遠)」とその多様な現象形態の「歴史(生成流転)」が一つに統合されるでしょう。
 「詩篇に聴くー聖書と典礼の研究」という私の連続講義は、来年も引き続き「聖グレゴリオの家」で行う予定ですが、この講義の課題が何処にあるのか改めて確認することが出来ました。

A 10-minute walk from my house is the St Gregory's House - Institute of Religious Music, founded in 1979 by the late Father Geréon Goldmann, which will celebrate its 40th anniversary between 2019 and 2021, although the Corona disaster has delayed the dates. The event took place in 2019-2021. You can read an article about it in the St Gregory's House News Letter 2021, which we received yesterday.


 It opened with a picture of Father Gueleon and the words "The source of the power of human activity flows from the liturgy". As soon as I saw that, I was reminded, as if it were only yesterday, of the time some 40 years ago when I attended the early morning Divine Liturgy in the small room of the cathedral, the breakfast I had after Divine Liturgy and the stories he told me.
 The "St Gregory's House Letter" also included an extract from Dr Wataru Mizugaki's 40th anniversary lecture, "Where are we now in the history of Christianity - between tradition and history". According to Dr Mizugaki, tradition is characterised by 'commonality, identity and constancy', while history is characterised by 'difference and change' and therefore 'individuality and diversity'. The challenge is to "rethink Christianity in the light of the tension between tradition and history, and to seek a future 'vision of Christianity' in the direction that resolves this tension". In order to meet this challenge, he concluded his speech by saying that it is necessary to rethink the 'biblical tradition'.
 When the 'liturgy', which is the 'source of active life' as Father Gereon called it, is combined with the 'biblical tradition that transcends denominational differences' as Professor Mizugaki said, the unchanging 'tradition (eternity)' of religion and its various forms of 'history (generation and transmigration)' will be united.
 I will continue my series of lectures on 'Listening to the Psalms - Studies in the Bible and Liturgy' at St Gregory's House next year, and I was able to reaffirm where the subject of these lectures lies.

 

Listening to the Psalms - Studies in Scripture and Liturgy Lecture Series
This is a transcript of a lecture given on the day after Holy Ash Wednesday (18 February 2021) in the Department of Church Music at the Institute of Religious Music at St Gregory's House. 

詩編に聴く-聖書と典礼の研究講演録

聖グレゴリオの家宗教音楽研究所での教会音楽科で聖灰水曜日の翌日(2021年2月18日)におこなわれた講義の記録です。コロナ禍の緊急事態宣言の...

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神山復生病院での岩下神父の面影

2021-12-14 |  文学 Literature
故渡辺清二郎氏の遺稿集「いのち愛(かな)しく」(昭和五〇年一二月八日)のなかに岩下壮一神父の面影を彷彿させる回想記が収録されているので、その一部を引用します。
 
 「前院長ドルトワール・ド・レゼー神父様が重体の折、お部屋が健康者地区にあるため患者は思うように神父様をお見舞いすることも出来ず、大変つらいおもいをさせたことをご承知になり、ご自分の場合は、そんなことのないように「僕が病気の時は、みなさんが自由に見舞いに来られるように、お祈りもしていただきたいしね」などと申された。私はこのお言葉を聞き、胸底に熱いものがこみあげてくるのをどうすることもできなかった。そして神父様はそのお言葉の如く、そこでご臨終を迎えられたのである。(岩下神父は、昭和一五年、ご自分の洗礼名の由来する聖フランシスコ・ザビエルの祝日12月3日に帰天された)・・・・・
 楽しい思い出の一つに年中行事の春の山行きがある。この日、果物、飲料などたくさんのお弁当を準備して軽症なもの達が婦女子をまじえて長尾峠、芦の湖方面へ遠足するのである。神父様は一策を案じられ、子ども達を病院専用のT型フォード(旧式で有名であった)に乗せて、御殿場街道を東に向かって先発させ、そして正午過ぎ、峰伝いに汗に喘ぎながら登っていった大人達の一行と長尾峠近くで合流するように計らわれたのである。見晴らしのきく芝原に一同うちくつろぎ、食べる弁当の味は又格別であった。下界はるか沼津市街をはじめ静裏湾から蒲原方面へゆるく海岸線が流れ、大瀬崎辺りは淡く霞んで実にのどかな眺望である。いつしか私たち数名のものは神父様を囲んで、草原に寝ころがって天を仰いでいた。すると神父様が大きな声で「赤城の子守歌」を歌い出された。われわれもそれに和した。雲が湧いては頭の上を流れていく。しばし我が身を忘れ、俗塵を離れて雄大な大自然の懐に憩ったのである。・・・
 秋の行事の運動会には、少年組に出場して子ども達と勝負を競うのであるが、その一つに小豆の入った袋を頭に乗せて競争する番組があった。これは頭の安定がないと、なかなか走れない。しかし、神父様は足がお悪いから子ども達のように安定がつけ難い。それで負けず嫌いの新婦様が子ども達に負けまいとして歯を食いしばり、ゴールに駆けててくる。そのご様子が私の眼前に彷彿と浮かんでくるのである。なお神山名物の野球試合の時、神父様のジャンケンの相手は三郎少年に決まっていたが、ある試合中、神父様が失策されたので頭から神父様を怒鳴りつけてしまった。あ、しまったと思ったが後の祭り、神父様は頭を地にこすりつけて謝っておられる。全く汗顔の至りであった。・・・・
 懐かしい神父様の思い出は尽きないのであるが、思いあまって言葉足らずになってしまい、充分に筆に表し得ない無力さを残念に思う。擱筆するにあたって、優れた司祭、学者、経世家であられた神父様が、最高学府の教授の栄職も抛って、働き盛りの年代を田舎において癩者の友として過ごされた生涯は、平和や人権が叫ばれるにもかかわらず、人命が軽視され、道義の退廃眼を覆わしめるものがある、暗く腐敗した現代社会に対して、軽少を乱打しているように思われてならない。」(「岩下神父様のこと」、初出は昭和三〇年「黄瀬」六月号)
 
  復生記念館学芸員の森下裕子が語られた「神山復生病院の歩み」というオンライン講演(国立ハンセン病資料館企画 2021/11/27)で、上の渡辺清二郎氏の回想と重なる岩下壮一神父の「映像」をYoutubeで視聴できました。とくに、秋の行事の運動会で子ども達と一緒に走っている岩下壮一神父の姿など、開始から22分くらいのところに収録されています。「働き盛りの年代を田舎において癩者の友として過ごされた」岩下神父のありし日の姿を彷彿とさせる貴重な記録です。
 

「神山復生病院の歩み」/森下裕子(復生記念館学芸員)ミュージアムトーク2021(オンライン開催)第8回

1889年の創立以来、130年以上にわたる神山復生病院の歩みと、その歴史を伝える復生記念館の活動について、豊富な写真資料、映像を交えてお話頂...

youtube#video

 

 森下さんのご講演(全体で1時間25分あまり)は、テストウィード神父にはじまり、現代に至るまでの神山復生病院の歴史をわかりやすく説明していて、復生病院に一貫して流れている基本精神が伝わってきます。

 私自身が神山復生病院を訪問したのは15年ほど前で、おりしも大多数の患者が高齢化した多磨全生園で療養所の「将来構想」が論議されていたころでした。高齢化した回復者のリハビリ治療を、一般の病院の患者さんとともに行うかたちで地域社会に施設を開放した「神山復生病院」は、単に日本で最も古い私立のハンセン病病院と言うだけでなく、「隔離から共生に」むかう療養所の将来像をも示していると感じた次第です。
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岩下壮一の祈りの言葉

2021-12-12 |  宗教 Religion
岩下壮一の祈りの言葉
 
長き鎖国時代に「邪宗門」扱いされ、明治以後は近代化をめざす啓蒙主義の精神から、中世暗黒時代の愚昧な迷信と蔑視されてきたカトリシズムの伝統の名誉を回復しようとした最初の日本人キリスト者といえば、岩下壮一の名前を挙げるのがもっとも適切であろう。「日本のアカデミズムの中にカトリシズムに市民権を獲得させる」ための講演・文筆・出版の旺盛な活動はよく知られている。 
 
しかし、もし岩下壮一の活動がそのような知識人向けのアカデミックな理知的領域だけに限られていたならば、その影響力は決して大きなものとはならなかったと思う。彼は、神山復生病院の院長として、病苦の人々に奉仕する司祭であり、単なる理性の人ではなく、観想と祈りに結びついた実践を重んじる人でもあった。
 
1930年に、レゼ神父の跡を継いで神山復生病院院長に就任した岩下壮一が、黙想会のあとで井深八重をはじめとする看護婦たちとともに祈った言葉が、彼の自筆によって書き残されている。
 
「主イエズス・キリスト、主は病める者を特に愛し、これを慰めいやし給ひしにより、我れ其の御跡を慕ひ、こゝに病人の恢復、憂人(うれひびと)の慰藉(なぐさめ)なる聖母マリアの御助けによりて我が身を病者への奉仕に捧げ奉る。希くはこの決心を祝し末ながくこの病院に働く恵を与へ給へ   亜孟(アメン)」
 
岩下の帰天後も神山復生病院では、黙想会のあとで、この祈りを唱えることが習慣となっていたとのことである。
 
この祈りと共に、もう一つの「岩下壮一の祈り」をここに引用したい。 以前に東條耿一の手記を編集していた時に、私は、彼が如何に岩下壮一とコッサール神父から、どれほど大きな影響を受けていたかに気づいた。とくにヨブ記をどう読むか、岩下壮一は神山復生病院の死者のためにどのような祈りを捧げていたか、それを知る手掛かりが、「ある患者の死」(「聲」昭和六年四月号)というエッセイの最後に記されている「祈り」である。
 
 
ーーーーー岩下壮一の随想「ある患者の死」からーーーーー
 
•    二月中旬のある土曜日の夜のことであった。…けたたましくドアをノックする者がある。「××さんが臨終だそうです!」かん高い声が叫んだ。それはその朝、病室まで御聖体を運んで行って授けた患者の名前であった。その夕見舞いに行った時は、実に苦しそうだった。病気が喉へきて気管が狭くなった結果、呼吸が十分できなくなっていた。…表部屋から入ってストーブの燃え残りの火と聖燭のうすくゆらぐ聖堂を抜け、廊下を曲折して漸く病室に辿り着いた時には、女の患者達は皆××さんの床の周囲に集まってお祈りをしていた。…人間の言葉がこの苦しみに対して何の力も無いのを観ずるのは、慰める者にとってつらいことであった。私は天主様の力に縋る外はなかった。望みならば、臨終の御聖体を授けてあげようと云ってみた。しかしその時もはや水さえ禄に病人の喉を通りかねる状態になってしまったのであった。…
 
•     二ヶ月ほど前、全生病院でみた、咽喉切開の手術をした患者の面影が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。どんな重症患者でも平気で正視し得る自分が、あの咽喉の切開口に金属製の枠をはめこんだ有様を、それを覆い隠していたガーゼをのけて思いがけなくも見せつけられた時、物の怪にでも襲われたように、ゾッとしたのを想起せざるを得ない。それはあまりにも不自然な光景であった。併し、その金属製の穴から呼吸しなが、十年も生きながらえた患者があると医者から聞かされたとき、「喉をやられる」と去年の秋から云われていた××さんのために、復生病院にもそんな手術のできる設備と医者とがほしかった。
 
• 議論や理屈は別として「子を持って知る親の恩」である。患者から「おやじ」と云われれば、親心を持たずにはおられない。親となってみれば、子供らの苦痛を少しでも軽減してやりたいと願うのは当然である。しかしいかに天に叫び人に訴えても、宗教の与える超自然的手段を除いては、私には××さんを見殺しにするより外はない。癩菌は容赦なくあの聖い霊を宿す肉体を蚕食してゆく。「顔でもさすって慰める外に仕方ありません」と物馴れた看護婦は悟り顔に云った。そしてそれが最も現実に即した真理であった。
 
• 私はその晩、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも皆、ストーブのなかに叩き込んで焼いてしまいたかった。考えてみるが良い、原罪無くして癩病が説明できるか。また霊の救いばかりでなく、肉体の復活なくして、この現実が解決できるのか。
 
 生きた哲学は現実を理解しうるものでなければならぬと哲人は云う。しからば、すべてのイズムは、顕微鏡裡の一癩菌の前に悉く瓦解するのである。
 
• 私は始めて赤くきれいに染色された癩菌を鏡底に発見したときの歓喜と、これに対する不思議な親愛の情とを想い起こす。その無限小の裡に、一切の人間のプライドを打破して余りあるものが潜んでいるのだ。私はこの一黴菌の故に、心より跪いて「罪の赦し、肉身の復活、終わり無き生命を信じ奉る」と唱え得ることを天主に感謝する。
 
• かくて××さんは苦しみの杯を傾け尽くして、次の週の木曜日の夜遅く、とこしえの眠りについた。…翌日も、またその翌日も、病院の簡素な葬式が二つ続いた。仲間の患者が棺を作って納め、穴を掘って埋めてやるのだ。
 
• 今日は他人のこと、明日は自分の番である。…沼津の海を遙かに見下ろすこの箱根山の麓の墓地から××さんとともに眠る二百有余の患者の魂は、天地に向かって叫んでいる。
 
「我はわが救い主の活き給うを信ず、かくて末の日に当たりて我地より甦り、我肉体に於て我が救主なる神を仰ぎ奉らん。われ彼を仰ぎ奉らんとす。我自らにして他の者に非ず、我眼こそ彼を仰ぎまつらめ!」
 
 
 
 
 
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「ニイチェの嘆き」の意味ー「北條民雄集」覚え書き

2021-12-07 |  文学 Literature

昭和12年1月、すでに腸結核を併発して病床にあった北條民雄は、「井の中の蛙の感想」と題する文を『山櫻」に寄稿している。この文は、前年の昭和11年8月の「長島騒擾事件」に言及して、ストライキをした患者達を「井の中の蛙」と批判した日本MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)理事の塚田喜太郎の文章に対する反論である。

「長島事件」については、ハンセン病問題に関する検証作業の一環として現在ではその状況が歴史的に解明されているが、当時国家的なキャンペーンとして行われていた「無癩県運動」のために、国立療養所愛生園が定員を大幅に超過し、患者の医療・生活条件が極度に悪化したために起きた患者の作業ボイコット事件であった。

塚田は「長島の患者諸君に告ぐ」と題して次のように書いている。(昭和十一年 「山桜」10月号) 

井の中の蛙大海を知らず、とか。実際、井の中の蛙の諸君には、世間の苦労や不幸は分からないのであります。(中略)蛙は蛙らしく井のなかで泳いでいればよいのであります。また、大海も蛙どもに騒がれては、迷惑千万であります。身の程をしらぬといふことほど、お互いに困ったことはないのであります。(中略)患者諸君が、今回のごとき言行をなすならば、それより以前に、国家にも納税し、癩病院の費用は全部患者において負担し、しかる後、一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け、社会の同情のもとに、わずかに生を保ちながら、人並みの言い分を主張する等は、笑止千万であり、不都合そのものである。

塚田のこの見解に対する北條のコメントが、翌年の山桜の一月号に「井の中の正月の感想」と題して掲載されている。

諸君は井戸の中の蛙だと、癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論、このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら、かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか
 全療養所の兄弟諸君、御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。しかし、私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も、今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ、井のなかに住むが故に、深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう、況や-

北條のこの文章は、慈善事業に携わる者が、同情をよそおいながら相手を差別する偽善を指摘したものであるが、それはまた、「救癩」の美名を掲げつつも、恩恵を受けている「病者」が、自己の権利を主体的に主張したときに不快感を感じて侮蔑的な言辞を吐く「健常者」にたいしても、公正であろうとする「病者」の「苦悩」を吐露したものでもあった。

 北條民雄が引用した「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか」という「ニイチェの嘆き」とは、「ツァトゥストラ」の第一部「創造する者の道」にある言葉である。

岩波文庫の「北條民雄集」にはいくつか注釈をつける必要があったので、私は、昭和10年から12年にかけて、一般に、日本でニイチェがどのように読まれていたか、またとくにハンセン病療養所の中でどのようにニイチェの本が読まれていたかを調べてみた。そのなかで浮かび上がってきたのが、生田長江によるニーチェ全集翻訳のもつインパクトであった。1935年4月には、ニイチェの「ツァトゥストラ」の改訂文語訳が日本評論社から出版されているが、1936年1月に逝去した長江が、ハンセン病による失明と肢体の麻痺による身体的な苦痛の中で、畢生の作ともいうべき『釈尊伝』の執筆を続けていたことは、全生病院の療養者の間でもよく知られていた。

「山櫻」1936年(昭和11年)8月號の巻頭言には、

「こんな時代(癩遺伝思想に支配されている時代)には、よしや癩者に傑れた文学者があつたにしても、それらの思想に阻まれて、その病名を隠匿してゐなければならなかったとしても無理ではあるまい。現に最近逝去した我国屈指の作家某氏が癩者であった事実を世人は余り知らないであらふ。併し、現代はそれらの旧い因習を打破して伝染説の確認されている時代である。そして我々は癩である事実を隠匿することなく生々しい闘病生活の中に癩者としての光明と救ひを見出すべく文学せねばならない、それがこの時代の我々の文学であり、時代の正しい思想の啓示でもあるのだ」

とあるが、ここで「最近逝去した我国屈指の作家某氏」とは生田長江のことである。彼のニイチェ翻訳は、明治時代の文語訳聖書を彷彿とさせる宗教的熱情に満ちた格調の高いものであったが、単に文体が優れていたのみならず、その根本思想の解釈においても、世人が宗教と呼ぶものを否定すると解したニイチェのニヒリズムのうちに、より深い意味での宗教性を見出し、それを仏教の菩薩道の精神において肯定するものであった。言うなれば、「ニイチェから仏陀へ」という高山樗牛や姉崎正治が歩んだ日本のニイチェ解釈の道を、生田長江もまた歩みつつ「釈尊伝」を書くことを生涯の課題としたのであった。自らハンセン病者として盲目と手足の麻痺に苦しみながら創作活動を続けていた彼の著作は、伊福部隆輝をはじめとして、彼と親交のあった同時代の多くの作家達に大きな影響を与え、「没落」の運命を自ら引き受けて生きる勇気を与えたのである。

ところで、生田長江は自ららの生活の信條(一の信條)を次のように自筆で書き残している。「一の信條」の「一」には、生田よりも遙か前におなじくハンセン病の病苦に苦しみつつもプラトンとアリストテレスの哲学を継承したプロチノスの「一なるもの」を想起させるが、それを生田は次のように要約している。

私は信じてゐるー第一に科学的なるもの眞と、第二に道徳的なるもの善と、第三に芸術的なるもの美と、
この三者がつねに宗教的なる者聖に統合せられて三位一体をなすことを。
(生田長江全集第9巻口絵より転載)

真善美という三つの価値が、「聖という宗教的な場」においてひとつに統合されること、その一なるものを生きるということが生田長江の信條であった。

 

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ポール・アヌイ神父と光岡良二との出合いー「北條民雄集」覚え書き

2021-12-05 |  文学 Literature

  ポール・アヌイ神父(ANOUILH, Paul, 1909-1983)は、1951年に長谷川真一ととともに東京少年合唱隊を結成し、とくにグレゴリオ聖歌の歌唱指導したことで、音楽教育の歴史に名前を残していますが、コッサール神父の後を継いで全生園の愛德会の司祭を務めた方でもありました。 
 
    全生園愛德会発行の「いずみ」31 復活祭号(1959)「アヌイ神父叙品二十五周年記念特集」、光岡良二の随筆「アヌイ神父様」が掲載されていたので、それを紹介します。

---------------------------アヌイ神父様  アウグスチノ 光岡良二--------------

            ○ 
アヌイ神父様は、私が会った二人目の神父様であった。 
それまで私が頭で描き、きめこんでいたキリスト教というもの、信仰というものは、何か陰うつなもの、苦しいもの、きびしいもの、歯を食いしばって堪えてゆかねばならないような何かであった。ところが神父様が、そのまわりに漂わせていられるものは、かぎりなく明るい、そして軽やかなものであった。それは、春の日光のように、私の固く凝りかたまった「自我(エゴー)」を融かし去った。私はアヌイ神父様によって、はじめてキリスト教が「喜び」の宗教であることの、本当の実感を教えられた。

            ○ 
 アヌイ神父様の御説教は、ほとんど何時も「愛」にはじまり、「愛」に終わる。
神父様は、私たちの中でも、一ばんひどく病気に傷めつけられている重症の人を、真先に、一番深く可愛がられる。そして単純な、心の貧しい人を可がられる。これらの人はきっと天国でも一番高いところに坐るのだと云われる。軽症な者や、若さに溢れている者や、インテリ臭い者や、はみんな後まわしである。
 神父様の、このような態度の中に、私は何と云えず深い「味」をいつも噛みしめる。

            ○ 
 神父様にお会いした頃、私は怖ろしい魂の状態にあった。或る暗い情念にとりつかれ、絶望的な場所に突き進んでいることが、はっきり分かっていながら、引き返せない状態にいた。自分の罪を知っていて、罪を自分に認めることを拒絶していた。
 こんな私に、アヌイ神父様は、何一つ説教されなかった。私の弱さを認め、愛で包みこみ、慰めと希望だけを与えられた。私が回心の決意を申し上げたとき、神父様が「アリガトウゴザイマス」と、言われた言葉を、私は忘れることが出来ない。

             ○ 
 神父様は、やさしい人であり、又こわい人である。神父様がこわく感じられるときは、じぶんが何処かゆがみ、迷い出している時である。
 私は、いつでも神父様の瞳がまっすぐに見られるようにつとめている。
  私は、「司祭のための祈り」が好きだ。
「願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに委ねられし霊魂は、地上にてはかれらの喜び、慰めとなり、天上にては永遠に輝けるかれらの冠とならんことを。」
  何とすばらしことだろう。私の魂が、神父様の永遠に輝ける冠の一つになるなんて! そしてまだ、何と重いことだろう。
 怠りの時々、私はこの祈りの句を思い出して、心おののくのである。

--------------------------------------------------------------------------------------------

光岡良二(1911-1995)は、1933年(昭和8年)に癩の診断を受け東京帝大文学部哲学科に在籍のまま全生病院に入院しました。1934年に入院した北條民雄(1914-1937)より三歳年長の療友で、病院に収容された児童の為の学校「全生学園」(1932年開校)の教員を務め、児童文藝誌「呼子鳥」(1932年創刊)の編集を担当しました。

岩波文庫の「北條民雄集」には、北條民雄が「秩父晃一」の筆名で書いた二篇の童話を収録しましたが、それはこの「呼子鳥」の第三号と第四号に掲載されたものです。

北條の遺作「望郷歌」(文藝春秋、1937年12月)に登場する全生学園の教師「鶏三」のモデルは光岡良二といってよいでしょう。入院直後に光岡は明治学院のハナフォード師によって受洗し、院内の聖書研究のグループに参加していましたが、北條民雄が中心となった文芸サークルのメンバーにもなっていましたた。当時はこの二つのグループは全く没交渉で、「互いに風馬牛であった」と光岡自身が後に回想しています。

光岡良二は、療友の女性と結婚しましたが、もともと症状の軽かった彼は治癒に近い状態が数年続いたので、退院届けを試みに出したところ、それが受理され、重症で手足の不自由であった妻を病院に遺したまま、単身で退院しましたた。戦況が悪化し病院の経営が困難となった当時は、症状のでない患者はどんどん退院させるのが方針であったようです。友人のつてで軍事物資を調達する工場などの職を転々とした後、敗戦を迎えました。戦後は、進駐軍関係の翻訳サービスのような業務に就いた後で、ハンセン病が再発した為に、1948年に再入院を余儀なくされました。さいわい、新薬プロミンによる化学治療が受けられたので、病状が好転、その後は、園内の中学や青年のための英語教育活動、短歌の創作など文芸活動も再開しました。それと同時に、1952年全国十一箇所の国立癩療養所患者自治会の全国組織の初代事務局長となり、戦後の療養所の民主化の運動にも参加しています。

 北條民雄の評伝「いのちの火影」につけた自伝的回想のなかで、光岡良二は、癩園に復帰した頃の自分の心の深い傷に言及しています。それは、療養所を退所した後で、ある女性と同棲し、結局はその女性とも別れて、再入院せざるをえなかった自分のエゴイズムに苦しんだからでした。「妻とはもとのようになるためには五年の歳月が必要であった。はたして、ほんとうにもとのようになれたのかどうかは分からない。とにかく、ともに静かな初老にはいりつつある」と、のちに光岡は回想しています。
 光岡はすでにプロテスタントの洗礼を受けてはいましたが、「告解の秘蹟」のあるカトリック教会に帰正し、東條耿一の義弟の渡辺清二郎・立子夫妻のいた愛德会の会員となり、会誌「いずみ」に随筆や短歌を数多く寄稿しています。

 

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コッサール神父についてー「北條民雄集」編集覚え書き

2021-12-04 |  文学 Literature
岩波文庫から来春出版予定の「北條民雄集」の編集・解説の準備作業をしているうちに北條民雄と東條耿一が全生病院に入院していた当時、ふたりと交友のあったパリ宣教会司祭コッサール神父(Cossar, Yves 1905-1946)について調べました。幸い、1956年の愛德会発行の「いずみ」第24号コッサール師十周年追悼記念号に神父の写真と患者達一人一人に書かれた自筆のカードが掲載されていたので、ここに転載します。
 
 コッサール神父の自筆カードより(写真版)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
天主 とは永生を望む 靈魂
 救主イエズス・キリストの 御示
神ー聖父・聖子・聖靈ー三位一体
十字架の苦に依りて聖寵を與へ給ふこと
 
教會の教へるがまゝに信じ奉る
洗禮に依りて 神の子となり 愛を以つて
身を捧げ奉らむ
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 神よ  御身を讃美し奉る
 神よ  御恵を感謝し奉る
 御主よ 我等を憐み給へ
 我神よ 我靈魂を愈々照し強め給へ
 萬物の創造主よ 凡ての人を照し導
 き給はんことを
 キリストの御母聖マリアよ
      我等の為に祈り給へ!
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カンドウ神父の指示に従って、コッサール師は結核療養所とともに多磨全生病院に来院したことが当時の「山桜」の記録にありますが、単なる慰問者が決して行かない重病棟に赴いて、重症患者に聖体と赦しの秘蹟を授けました。戦後に発行された愛德會発行の「いずみ」を読むと、往事を知る信徒たちの記憶の中に鮮明に残っていたことがわかります。
 
コッサール神父は第二次世界大戦中は敵国フランス人であったために常に警察の監視を受け非常に困難な生活を余儀なくされましたが、昭和19年に万葉集の古歌を引用して次のような説教をしています。
 
ーーーーコッサール師の説教〔昭和19年)ーーーーーーー
「君がゆく道の長手を繰りたたね 焼き亡ぼさむ天の火もがも」
 
これは万葉集にある歌で、中臣の宅守が罪の為流刑に処せられて越前におくられたときに狭野茅上娘子が歌ったもので、
「御身がはるばると流されて行く道の長い行手を繰り寄せ畳んで、ひとまとめにして焼き亡ぼして仕舞う天の火もあれかし」
との意である。これを読みつつ、私は皆さんのことを思う。時に触れ折に触れ、貴方かたは行く手を忍びあるいは暗さを感じつつ同じ気持ちとなられたのではなかろうかと。
 この気持ちは決して無理からぬ事で、聖主イエズスも、御受難の道を想像し給い、「我が父よ、爾は全能なれば能うべくんば、この道を我より遠ざけ給え。されど我が意のままならず、爾の望み給うままになし給え」と仰せられた。
 聖会は、聖主イエズスの御為に苦しみの十字架の道をたたんで焼かず、却ってその道をひろげて、各留に足を止めさせて深くこれを黙想させる。
 それはこの道が私たちの為に非常にありがたい道で、この道の苦しみによって人々がもう一度相互に一致して、神と一となることができるからである。
 私たちもこの意味において各々の苦しみを捧げて、人類統一の積極的な協力者となろうではないか。そして宅守がその追放地に向かってこのような失望の歌のもととなったのに対して、私たち信仰あるものは父たる神に向かって進みつつ、その苦しみ、淋しさ、惨めさのうちにも、常に感謝と喜びの歌を聞かせようではないか。
  十字架の道においてキリストに会い給える聖母マリアよ
  我等の病床生活の良き友たり給え
 
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「いずみ」24号に掲載された松風誠人の追悼記事によると、
「私にして若し純粋状態における純粋美の感覚を自らに与える藝術をあげねばならぬぬとすれば、私は躊躇することなく、それは日本の藝術であるというであろう」
というデュ・ボスの言葉を引用しつつ、日本の藝術を愛したコッサール師は、「高く悟りて俗に帰るべし」という芭蕉の言葉を生活方針とされ、謡曲「隅田川」、万葉集短歌の一部仏訳などを試みられ、また日仏会館で芭蕉について講演もされたとのことである。(モニュメンタ・ニッポニカ昭和26年参照)
 
日本人の心の源流である万葉集の古歌をひきつつも、その心の大地に福音を伝道するコッサール師の言葉は、厳しく暗い状況の中で、病苦にあえぐ人々に説かれた「キリストの道行」の黙想の祈りでもありました。
 
 
 
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