野村監督は古田捕手の気づき・感じるからこそ信頼
野村克也が監督時代に、古田は捕手兼4番打者として活躍し、両者は、亡くなった妻の野村沙知代氏(ご冥福をお祈りします。)とはもちろん「相棒」だが、ここは野球の「相棒」として見られている。打撃の側に回った控えの席は、後ろに野村監督がおり、そのすぐ前に古田がおり、野村が「ぶつぶつ」つぶやけば、古田は対照的に「へんな投げ方をした」「バットを短く持っている」「引っ張りにきている」と聞こえる声でつぶやく。この「気づき」は人の向上・成長にとって欠かせないものである。野村監督いわく、他の人が気が付かないものに、よく気が付くのは一種の「能力」であり、どんな商売の人間にとっても強力な武器になるという。前の席の古田をぶつぶつ言って叱り、批判するのは、この能力を基本的に信用していたからであろう。
今、介護の関しての仕事の手伝いをさせてもらっているが、彼ら・彼女らの一生懸命な仕事に対する姿勢には頭が下がる。この業務に対する能力の向上には、この気づきが欠かせないと思う。利用者がどう感じるか、どのようにしてほしいのかは、気づきがなければうまくできないと考える。もちろん、食事介護にしても、着替えの介助にしても、マニュアル化されたものがあり、そのとおりしなければ、うまくできないのは事実である。しかし、このとき気づきがなければ、マニュアルがマニュアルとして生かされない。
野村監督は、この「気づき」「感じる」能力を選手にいかに高めてもらうかは、「情」(温情と非情の相対する2つ)と「ほめる」ことしかないという。彼は褒めることに対しては、基本的に下手であり、ぶっきらぼうに「よう打ったな」としか言えないという。しかし、それでもよいとしている。
『「人は自分自身の評価よりちょっと上で誉めると納得するもの」であるから、「そういわればそうかも」と納得できる範囲内で誉めてやればいいというのである』(西尾幹二氏の「人生の価値」・新潮社)として、逆にやりすぎは嘘っぽく聞こえるものであろう。彼はもっと褒めたい自分をこれも自分で仕方ないかとしているようだ。
参考:「弱者が勝者になるために」(野村克也著) ㈱扶桑社
野村克也が監督時代に、古田は捕手兼4番打者として活躍し、両者は、亡くなった妻の野村沙知代氏(ご冥福をお祈りします。)とはもちろん「相棒」だが、ここは野球の「相棒」として見られている。打撃の側に回った控えの席は、後ろに野村監督がおり、そのすぐ前に古田がおり、野村が「ぶつぶつ」つぶやけば、古田は対照的に「へんな投げ方をした」「バットを短く持っている」「引っ張りにきている」と聞こえる声でつぶやく。この「気づき」は人の向上・成長にとって欠かせないものである。野村監督いわく、他の人が気が付かないものに、よく気が付くのは一種の「能力」であり、どんな商売の人間にとっても強力な武器になるという。前の席の古田をぶつぶつ言って叱り、批判するのは、この能力を基本的に信用していたからであろう。
今、介護の関しての仕事の手伝いをさせてもらっているが、彼ら・彼女らの一生懸命な仕事に対する姿勢には頭が下がる。この業務に対する能力の向上には、この気づきが欠かせないと思う。利用者がどう感じるか、どのようにしてほしいのかは、気づきがなければうまくできないと考える。もちろん、食事介護にしても、着替えの介助にしても、マニュアル化されたものがあり、そのとおりしなければ、うまくできないのは事実である。しかし、このとき気づきがなければ、マニュアルがマニュアルとして生かされない。
野村監督は、この「気づき」「感じる」能力を選手にいかに高めてもらうかは、「情」(温情と非情の相対する2つ)と「ほめる」ことしかないという。彼は褒めることに対しては、基本的に下手であり、ぶっきらぼうに「よう打ったな」としか言えないという。しかし、それでもよいとしている。
『「人は自分自身の評価よりちょっと上で誉めると納得するもの」であるから、「そういわればそうかも」と納得できる範囲内で誉めてやればいいというのである』(西尾幹二氏の「人生の価値」・新潮社)として、逆にやりすぎは嘘っぽく聞こえるものであろう。彼はもっと褒めたい自分をこれも自分で仕方ないかとしているようだ。
参考:「弱者が勝者になるために」(野村克也著) ㈱扶桑社