昨日、30年来の夢が、半分ではあるが、漸く叶った。
学生時代、映画『愛と哀しみのボレロ』を観て、ジョルジュ・ドンの踊る『ボレロ』に強い衝撃を受けた。バレエにまったく興味のなかった僕だが、彼の踊る姿に心を揺さぶられた。以来、いつか彼の踊る『ボレロ』を生で観たいと思っていたが、悲しいかな1992年に彼が亡くなり、それは叶わぬ夢となってしまった。
ところが、昨年の夏だっただろうか、たまたま付けたテレビに上野水香というバレエダンサーが出ていた。僕のボレロ熱はとうに冷めていたので僕は彼女のことを知らなかった。ただ何の気なしに話を聞いていたところ、なんと彼女はモーリス・ベジャールに『ボレロ』を踊ることを許された数少ないダンサーの一人だという。
よし、彼女の踊る『ボレロ』を観に行こう。僕はそう心に決めた。それから半年以上経ってしまったが、昨日彼女の踊る『ボレロ』を観ることができた。
さて、まずは簡単に『ボレロ』の紹介をしよう。
『ボレロ』はフランスの作曲家ラヴェルが1928年に作曲したバレエ音楽である。初演も同じ年であるが、ジョルジュ・ドンらの踊りは1960年にモダンバレエ界の鬼才ベジャールが振り付けた、新しい、初演とはまったく違う踊りである。
『ボレロ』は純粋に音楽としても有名である。映画やドラマにCM、それにフィギアスケートでもよく使われており、誰もが聴いたことのある曲だと思う。その構成はいたって単純。最初から最後まで小太鼓等で同じリズムが繰り返され、一方メロディも同じパターンが繰り返されるのみ。
こう書くと全然詰らない曲のように思えるが、そこが“管弦楽の魔術師”といわれるラヴェルの凄さ、曲に躍動感や高揚感を与え、スケールの大きな、華やかな曲に仕上げている(因みに有名な組曲『展覧会の絵』は、元はムソグルスキーの書いたピアノ曲であり、それをラヴェルが管弦楽に編曲したものである)。曲は静かに始まるが、楽器を換え、あるいは楽器の組み合わせを換えながら次第に盛り上がり、最高潮に達したところで大団円を迎える。
僕には、上野水香の『ボレロ』は神に捧げる踊りのように見えた。卑弥呼か、天照大神といった感じだろうか。ステージ中央の赤い丸い台に上野 =“メロディ”がひとり立ち、男性ダンサーたち =“リズム”がその台の周りを取り囲むという設定も、そう思った理由かもしれない。台の上で一心不乱に踊り続ける彼女を見ていると、踊ることで神とコミュニケートし、一種のトランス状態にあるかに見えた。いったい彼女は何を考えながら踊っているのだろう。
もう随分昔のことなのでジョルジュ・ドンの踊りはよく覚えていない。鍛え抜かれた肉体による力強く、それでいてしなやかな『ボレロ』だったように思う。ジュルジュ・ドンと上野、どちらの『ボレロ』が優れているか僕には解らない。というか、ジョルジュ・ドンはあくまで彼の『ボレロ』を踊り、上野は上野の『ボレロ』を踊っているのであり、そもそも比較してはいけない気がする。実際、ジョルジュ・ドンの踊りには本当に感動したが、それはダンスの素晴らしさであり、神に捧げる云々といった印象はまったくなかった。
残念ながらジョルジュ・ドンの『ボレロ』を観る機会には恵まれなかったが、上野水香の『ボレロ』はまだこれからも観るチャンスがあるだろう。より深みを増して行く彼女の『ボレロ』を楽しみに観て行きたい。これを新しい夢にしよう。
学生時代、映画『愛と哀しみのボレロ』を観て、ジョルジュ・ドンの踊る『ボレロ』に強い衝撃を受けた。バレエにまったく興味のなかった僕だが、彼の踊る姿に心を揺さぶられた。以来、いつか彼の踊る『ボレロ』を生で観たいと思っていたが、悲しいかな1992年に彼が亡くなり、それは叶わぬ夢となってしまった。
ところが、昨年の夏だっただろうか、たまたま付けたテレビに上野水香というバレエダンサーが出ていた。僕のボレロ熱はとうに冷めていたので僕は彼女のことを知らなかった。ただ何の気なしに話を聞いていたところ、なんと彼女はモーリス・ベジャールに『ボレロ』を踊ることを許された数少ないダンサーの一人だという。
よし、彼女の踊る『ボレロ』を観に行こう。僕はそう心に決めた。それから半年以上経ってしまったが、昨日彼女の踊る『ボレロ』を観ることができた。
さて、まずは簡単に『ボレロ』の紹介をしよう。
『ボレロ』はフランスの作曲家ラヴェルが1928年に作曲したバレエ音楽である。初演も同じ年であるが、ジョルジュ・ドンらの踊りは1960年にモダンバレエ界の鬼才ベジャールが振り付けた、新しい、初演とはまったく違う踊りである。
『ボレロ』は純粋に音楽としても有名である。映画やドラマにCM、それにフィギアスケートでもよく使われており、誰もが聴いたことのある曲だと思う。その構成はいたって単純。最初から最後まで小太鼓等で同じリズムが繰り返され、一方メロディも同じパターンが繰り返されるのみ。
こう書くと全然詰らない曲のように思えるが、そこが“管弦楽の魔術師”といわれるラヴェルの凄さ、曲に躍動感や高揚感を与え、スケールの大きな、華やかな曲に仕上げている(因みに有名な組曲『展覧会の絵』は、元はムソグルスキーの書いたピアノ曲であり、それをラヴェルが管弦楽に編曲したものである)。曲は静かに始まるが、楽器を換え、あるいは楽器の組み合わせを換えながら次第に盛り上がり、最高潮に達したところで大団円を迎える。
僕には、上野水香の『ボレロ』は神に捧げる踊りのように見えた。卑弥呼か、天照大神といった感じだろうか。ステージ中央の赤い丸い台に上野 =“メロディ”がひとり立ち、男性ダンサーたち =“リズム”がその台の周りを取り囲むという設定も、そう思った理由かもしれない。台の上で一心不乱に踊り続ける彼女を見ていると、踊ることで神とコミュニケートし、一種のトランス状態にあるかに見えた。いったい彼女は何を考えながら踊っているのだろう。
もう随分昔のことなのでジョルジュ・ドンの踊りはよく覚えていない。鍛え抜かれた肉体による力強く、それでいてしなやかな『ボレロ』だったように思う。ジュルジュ・ドンと上野、どちらの『ボレロ』が優れているか僕には解らない。というか、ジョルジュ・ドンはあくまで彼の『ボレロ』を踊り、上野は上野の『ボレロ』を踊っているのであり、そもそも比較してはいけない気がする。実際、ジョルジュ・ドンの踊りには本当に感動したが、それはダンスの素晴らしさであり、神に捧げる云々といった印象はまったくなかった。
残念ながらジョルジュ・ドンの『ボレロ』を観る機会には恵まれなかったが、上野水香の『ボレロ』はまだこれからも観るチャンスがあるだろう。より深みを増して行く彼女の『ボレロ』を楽しみに観て行きたい。これを新しい夢にしよう。