縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
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『ボレロ』 ~ ジョルジュ・ドンと上野水香

2017-02-26 20:33:06 | 芸術をひとかけら
 昨日、30年来の夢が、半分ではあるが、漸く叶った。

 学生時代、映画『愛と哀しみのボレロ』を観て、ジョルジュ・ドンの踊る『ボレロ』に強い衝撃を受けた。バレエにまったく興味のなかった僕だが、彼の踊る姿に心を揺さぶられた。以来、いつか彼の踊る『ボレロ』を生で観たいと思っていたが、悲しいかな1992年に彼が亡くなり、それは叶わぬ夢となってしまった。

 ところが、昨年の夏だっただろうか、たまたま付けたテレビに上野水香というバレエダンサーが出ていた。僕のボレロ熱はとうに冷めていたので僕は彼女のことを知らなかった。ただ何の気なしに話を聞いていたところ、なんと彼女はモーリス・ベジャールに『ボレロ』を踊ることを許された数少ないダンサーの一人だという。
 よし、彼女の踊る『ボレロ』を観に行こう。僕はそう心に決めた。それから半年以上経ってしまったが、昨日彼女の踊る『ボレロ』を観ることができた。

 さて、まずは簡単に『ボレロ』の紹介をしよう。
 『ボレロ』はフランスの作曲家ラヴェルが1928年に作曲したバレエ音楽である。初演も同じ年であるが、ジョルジュ・ドンらの踊りは1960年にモダンバレエ界の鬼才ベジャールが振り付けた、新しい、初演とはまったく違う踊りである。
 『ボレロ』は純粋に音楽としても有名である。映画やドラマにCM、それにフィギアスケートでもよく使われており、誰もが聴いたことのある曲だと思う。その構成はいたって単純。最初から最後まで小太鼓等で同じリズムが繰り返され、一方メロディも同じパターンが繰り返されるのみ。
 こう書くと全然詰らない曲のように思えるが、そこが“管弦楽の魔術師”といわれるラヴェルの凄さ、曲に躍動感や高揚感を与え、スケールの大きな、華やかな曲に仕上げている(因みに有名な組曲『展覧会の絵』は、元はムソグルスキーの書いたピアノ曲であり、それをラヴェルが管弦楽に編曲したものである)。曲は静かに始まるが、楽器を換え、あるいは楽器の組み合わせを換えながら次第に盛り上がり、最高潮に達したところで大団円を迎える。

 僕には、上野水香の『ボレロ』は神に捧げる踊りのように見えた。卑弥呼か、天照大神といった感じだろうか。ステージ中央の赤い丸い台に上野 =“メロディ”がひとり立ち、男性ダンサーたち =“リズム”がその台の周りを取り囲むという設定も、そう思った理由かもしれない。台の上で一心不乱に踊り続ける彼女を見ていると、踊ることで神とコミュニケートし、一種のトランス状態にあるかに見えた。いったい彼女は何を考えながら踊っているのだろう。

 もう随分昔のことなのでジョルジュ・ドンの踊りはよく覚えていない。鍛え抜かれた肉体による力強く、それでいてしなやかな『ボレロ』だったように思う。ジュルジュ・ドンと上野、どちらの『ボレロ』が優れているか僕には解らない。というか、ジョルジュ・ドンはあくまで彼の『ボレロ』を踊り、上野は上野の『ボレロ』を踊っているのであり、そもそも比較してはいけない気がする。実際、ジョルジュ・ドンの踊りには本当に感動したが、それはダンスの素晴らしさであり、神に捧げる云々といった印象はまったくなかった。

 残念ながらジョルジュ・ドンの『ボレロ』を観る機会には恵まれなかったが、上野水香の『ボレロ』はまだこれからも観るチャンスがあるだろう。より深みを増して行く彼女の『ボレロ』を楽しみに観て行きたい。これを新しい夢にしよう。


トランプは“ビッグ・ブラザー”というよりも・・・

2017-02-01 00:02:55 | 海外で今
 今、アメリカで小説『1984』がベストセラーになっている。村上春樹の『1Q84』ではない。20世紀半ば、ジョージ・オーウェルによって書かれた小説である。日本でも1984年にちょっとしたブームになり、僕もそのときに読んだ。
 『1984』は全体主義国家の恐怖を描いた小説であり、常に“ビッグ・ブラザー”に監視され、人々の行動はおろか思考をも管理された、恐ろしい社会の話だった。

 なぜ、そんな昔の小説が今また売れているのだろうか。
 
 それは、先日のトランプ大統領就任式の観衆の人数を巡る大統領側とマスコミの論争(というか言い合い?)がきっかけである。

 トランプ大統領は就任式の観衆を25万人としたマスコミ報道を嘘だと非難し、さらにスパイサー大統領報道官にいたっては就任式に集まった人数は「史上最大」とまで言い放った。実際にオバマ大統領の就任式の写真と比較すると、25万人が正しいかどうかはともかく、「史上最大」というのはとても信じ難い。
 これは分が悪いと思ったのか、大統領特別顧問・コンウェイ氏は、報道官が言ったのは “alternative facts” (代替的な事実)に過ぎないと擁護した。が、かえってこれが火に油を注ぐ結果になってしまった。
 どうもコンウェイ氏本人は「そうした見方もある」といった軽い意味で言ったらしいが、トランプ嫌いのマスコミがそれに噛みついた。代替的な事実、即ち真実に代わることのできる事実を政府が作り上げるのか、それではまるでオーウェルの『1984』と同じではないか、というのである。

 小説『1984』において、政府は人々を支配するため、ニュースピ-ク(新語法)により人々の語彙、延いては思想を管理・統制し、また歴史を改竄して今がもっとも恵まれていると信じ込ませていた。
 その上で政府は全体主義を正当化する“doublethink”(二重思考)の考え方を国民に植え付けたのである。それは人々に「自由は隷従である」など相矛盾したことを信じ込ませる、いわばマインド・コントロールであった。人々は、ついには二重思考により「2足す2は5である、もしくは3にも、同時に4と5にもなりうる」とまで考えるようになる。つまり、政府が言えばそれが“真実”になるのである。
 マスコミは、“alternative facts” をオーウェルの二重思考だと非難し、それがSNSで瞬く間に広まり、今回のベストセラーに繋がったのであった。

 正直、マスコミも言い過ぎというか、考えが飛躍し過ぎている気がしないでもない。それに『1984』の世界とトランプは似て非なるものである。
 『1984』の支配体制は極めて緻密に計算されているのに対し、トランプの政策はただの思い付きのようなものが多い。具体策がないのである。例えば、メキシコ国境の壁は資金調達がそれこそ壁になっているし、今回の米国への入国制限にしても翌日になってグリーンカード(永住権)保有者を適用外にするなど準備不足は否めない。また、一方的な入国制限が内外で騒動を引き起こすなど考えていなかったかに見える。いずれにしろ緻密さとは程遠い。
 トランプには子供っぽい言動が多いし、『1984』のビッグ・ブラザーというより、その辺のガキ大将に近い気がしてならない。が、しかし、権力を持ったジャイアンほど たちの悪いものはないだろう。我々は、米国のマスコミに、そして米国の議会に、トランプがおかしな方向に行かないようブレーキを期待するしかない。