今日、久々にウディ・アレンの映画を、『マッチ・ポイント』を見た。
“久々”というのは、単に僕が彼の映画を見ていなかっただけで、彼自身はほぼ毎年のように新作を撮っている。アカデミーの作品・監督・脚本・主演女優の4賞を獲得した『アニー・ホール』は1977年の作品。それから30年近く、ハリウッドではなくニューヨークを拠点にしながらも、映画界の第一線で活躍している。もう70歳なのに、そのパワー、エネルギーには本当に恐れ入ってしまう。
初めて彼の映画を見たのは、学生のとき、名画座(今はなき「三鷹オスカー」)のウディ・アレン3本立て -『アニー・ホール』、『インテリア』、『スターダスト・メモリー』- だった。そのときの印象を正直に言うと、なにこれ、つまらないな、そもそも訳がわからないし、といった惨たんたるものだった。当時、彼の作品は、ニューヨークの都会的なセンスにユダヤ的な要素も加わり、ジョークや微妙なニュアンスなど日本人に理解するのは難しいと言われていたが、まさに僕もその一人だったのである。
それが85年の『カイロの紫のバラ』や翌86年の『ハンナとその姉妹』あたりから作風が変わったのではないかと思う。前者は しがない映画好きの主婦が経験するファンタジーである。主人公のミア・ファーロゥは決して綺麗とはいえないが、映画の中では恋をして輝いている。後者は 3姉妹が織り成すペーソスと笑いのドラマである。ともに彼の代表作といえ、かつ『アニー・ホール』と違い、日本人にもわかりやすい。
僕はこの2本と、その次の『ラジオ・デイズ』を最後に彼の作品は見ていないので、かれこれ20年ぶりに彼の作品を見たことになる。
さて、『マッチ・ポイント』の話。テニス・ボールがネットに当たって上へ跳ねたとき、それがどちらのコートに落ちるか、自分の側か 相手の側か、そしてそれが運命を左右する重大な場面だったら、というのが題名の意味である。
映画の前半は 野心を持った元プロテニス・プレーヤーの主人公が社長令嬢との恋をきっかけに成功を手に入れる、いわば“逆玉”ストーリー。後半は一転してサスペンス。社長令嬢と結婚した主人公が愛人との関係に悩み・・・・、これ以上言うと差し障りがあるだろう。
個人的な感想を言うと、やっぱりウディ・アレンの映画は『カイロの紫のバラ』や『ハンナとその姉妹』で止めておけば良かった、年齢的にもこの二つを超える作品はもう無理だろう、というもの。
もっとも、映画の見方として、これをサスペンスとして見るのではなく、一種のファンタジー、寓話として見ると評価は少し変わるかもしれない。現実に、それも人生の“マッチ・ポイント”の状況で、あれほど偶然が重なって、物事が上手く運ぶことなどあるはずがない。にもかかわらず、それが起こった。ここで教訓、「人生、努力よりも運」。ん? なにか違う。納得いかない。そもそも、こんなの教訓とは言えないし、まるで宝くじの宣伝みたいだ。
ウディさん、あの終りは良くない。実はあれは夢で目が覚めたら厳しい現実が待っていたとか、罪の意識に苛まれた主人公が失踪するとか自ら命を絶つとか。でも、そうすると ありきたりな結末になってしまうか。
うーん、要は深く考えずにただ映画を楽しみなさい、ということなのだろうか。
“久々”というのは、単に僕が彼の映画を見ていなかっただけで、彼自身はほぼ毎年のように新作を撮っている。アカデミーの作品・監督・脚本・主演女優の4賞を獲得した『アニー・ホール』は1977年の作品。それから30年近く、ハリウッドではなくニューヨークを拠点にしながらも、映画界の第一線で活躍している。もう70歳なのに、そのパワー、エネルギーには本当に恐れ入ってしまう。
初めて彼の映画を見たのは、学生のとき、名画座(今はなき「三鷹オスカー」)のウディ・アレン3本立て -『アニー・ホール』、『インテリア』、『スターダスト・メモリー』- だった。そのときの印象を正直に言うと、なにこれ、つまらないな、そもそも訳がわからないし、といった惨たんたるものだった。当時、彼の作品は、ニューヨークの都会的なセンスにユダヤ的な要素も加わり、ジョークや微妙なニュアンスなど日本人に理解するのは難しいと言われていたが、まさに僕もその一人だったのである。
それが85年の『カイロの紫のバラ』や翌86年の『ハンナとその姉妹』あたりから作風が変わったのではないかと思う。前者は しがない映画好きの主婦が経験するファンタジーである。主人公のミア・ファーロゥは決して綺麗とはいえないが、映画の中では恋をして輝いている。後者は 3姉妹が織り成すペーソスと笑いのドラマである。ともに彼の代表作といえ、かつ『アニー・ホール』と違い、日本人にもわかりやすい。
僕はこの2本と、その次の『ラジオ・デイズ』を最後に彼の作品は見ていないので、かれこれ20年ぶりに彼の作品を見たことになる。
さて、『マッチ・ポイント』の話。テニス・ボールがネットに当たって上へ跳ねたとき、それがどちらのコートに落ちるか、自分の側か 相手の側か、そしてそれが運命を左右する重大な場面だったら、というのが題名の意味である。
映画の前半は 野心を持った元プロテニス・プレーヤーの主人公が社長令嬢との恋をきっかけに成功を手に入れる、いわば“逆玉”ストーリー。後半は一転してサスペンス。社長令嬢と結婚した主人公が愛人との関係に悩み・・・・、これ以上言うと差し障りがあるだろう。
個人的な感想を言うと、やっぱりウディ・アレンの映画は『カイロの紫のバラ』や『ハンナとその姉妹』で止めておけば良かった、年齢的にもこの二つを超える作品はもう無理だろう、というもの。
もっとも、映画の見方として、これをサスペンスとして見るのではなく、一種のファンタジー、寓話として見ると評価は少し変わるかもしれない。現実に、それも人生の“マッチ・ポイント”の状況で、あれほど偶然が重なって、物事が上手く運ぶことなどあるはずがない。にもかかわらず、それが起こった。ここで教訓、「人生、努力よりも運」。ん? なにか違う。納得いかない。そもそも、こんなの教訓とは言えないし、まるで宝くじの宣伝みたいだ。
ウディさん、あの終りは良くない。実はあれは夢で目が覚めたら厳しい現実が待っていたとか、罪の意識に苛まれた主人公が失踪するとか自ら命を絶つとか。でも、そうすると ありきたりな結末になってしまうか。
うーん、要は深く考えずにただ映画を楽しみなさい、ということなのだろうか。