縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

久々のウディ・アレン、『マッチ・ポイント』

2006-09-30 23:53:07 | 芸術をひとかけら
 今日、久々にウディ・アレンの映画を、『マッチ・ポイント』を見た。
 “久々”というのは、単に僕が彼の映画を見ていなかっただけで、彼自身はほぼ毎年のように新作を撮っている。アカデミーの作品・監督・脚本・主演女優の4賞を獲得した『アニー・ホール』は1977年の作品。それから30年近く、ハリウッドではなくニューヨークを拠点にしながらも、映画界の第一線で活躍している。もう70歳なのに、そのパワー、エネルギーには本当に恐れ入ってしまう。

 初めて彼の映画を見たのは、学生のとき、名画座(今はなき「三鷹オスカー」)のウディ・アレン3本立て -『アニー・ホール』、『インテリア』、『スターダスト・メモリー』- だった。そのときの印象を正直に言うと、なにこれ、つまらないな、そもそも訳がわからないし、といった惨たんたるものだった。当時、彼の作品は、ニューヨークの都会的なセンスにユダヤ的な要素も加わり、ジョークや微妙なニュアンスなど日本人に理解するのは難しいと言われていたが、まさに僕もその一人だったのである。
 それが85年の『カイロの紫のバラ』や翌86年の『ハンナとその姉妹』あたりから作風が変わったのではないかと思う。前者は しがない映画好きの主婦が経験するファンタジーである。主人公のミア・ファーロゥは決して綺麗とはいえないが、映画の中では恋をして輝いている。後者は 3姉妹が織り成すペーソスと笑いのドラマである。ともに彼の代表作といえ、かつ『アニー・ホール』と違い、日本人にもわかりやすい。
 僕はこの2本と、その次の『ラジオ・デイズ』を最後に彼の作品は見ていないので、かれこれ20年ぶりに彼の作品を見たことになる。

 さて、『マッチ・ポイント』の話。テニス・ボールがネットに当たって上へ跳ねたとき、それがどちらのコートに落ちるか、自分の側か 相手の側か、そしてそれが運命を左右する重大な場面だったら、というのが題名の意味である。
 映画の前半は 野心を持った元プロテニス・プレーヤーの主人公が社長令嬢との恋をきっかけに成功を手に入れる、いわば“逆玉”ストーリー。後半は一転してサスペンス。社長令嬢と結婚した主人公が愛人との関係に悩み・・・・、これ以上言うと差し障りがあるだろう。

 個人的な感想を言うと、やっぱりウディ・アレンの映画は『カイロの紫のバラ』や『ハンナとその姉妹』で止めておけば良かった、年齢的にもこの二つを超える作品はもう無理だろう、というもの。

 もっとも、映画の見方として、これをサスペンスとして見るのではなく、一種のファンタジー、寓話として見ると評価は少し変わるかもしれない。現実に、それも人生の“マッチ・ポイント”の状況で、あれほど偶然が重なって、物事が上手く運ぶことなどあるはずがない。にもかかわらず、それが起こった。ここで教訓、「人生、努力よりも運」。ん? なにか違う。納得いかない。そもそも、こんなの教訓とは言えないし、まるで宝くじの宣伝みたいだ。
 ウディさん、あの終りは良くない。実はあれは夢で目が覚めたら厳しい現実が待っていたとか、罪の意識に苛まれた主人公が失踪するとか自ら命を絶つとか。でも、そうすると ありきたりな結末になってしまうか。
 うーん、要は深く考えずにただ映画を楽しみなさい、ということなのだろうか。

ニューハンプシャーを行く(後編)

2006-09-29 23:57:00 | もう一度行きたい
 漸くバスが来た。乗ろうとしたところ、「予約は?」と運転手の一言。「えっ?1時間半も待ったのに乗せないつもりか。バスはガラガラじゃないか。」と心の中では怒ってしまったが、ここは丁重にと思い、「予約はしていない。ナシュアまで行きたいんだ。乗せてもらえないか」と尋ねた。若干の沈黙。そして「OK。じゃあナシュアでその分の金を払ってくれ。」と運転手。どうやら車内では現金を扱っていないようだった。やれやれ、これでホテルに一歩近づいた。

 バスや鉄道の中では、ぼーっと窓から外を眺めていることが多い。このときもそうだった。バスは林の中を走っていく。初めての町だが妙に懐かしい感じがする。どうしてだろう。

 林の中に白い木の家が点在している。家はそんなに大きくなく、どちらかというと質素で、きれいに使われており、南北戦争当時の家だと言われても納得しそうな家が多い。そして、大抵の家の玄関脇には、くりぬかれた、オレンジ色のカボチャが無造作に置かれている。
 ハロウィンだ。10月31日のハロウィンの夜からまだ3日しか経っていない。お店ではなく普通の家に、それも あたりまえのように置かれているカボチャを見るのは初めてだった。とても新鮮な経験だが、それがあまりに自然なので何の違和感も感じない。
 わかった、不思議と懐かしさを感じた理由。ここは我々がイメージする古き良きアメリカ、いってみればアメリカの原風景のようなところだからだ。
 
 バスはナシュアに着いた。バス停からはタクシーでホテルへ。
 ナシュアは、日本のガイドブックにはまったく載っていないが、どうやら夏は避暑、秋は紅葉、冬はウインター・スポーツというリゾート地のようである。日本でいえば信州といったところか。大きなホテルが何軒かある。
 僕の宿泊兼試験会場はホリディ・インだった。明日は時差調整、そしてあさってから2日間試験、それも試験は1日7時間の長丁場である。まずは休もう。疲れた。

 試験会場でちょっとほっとしたこと。一つは色んな人間、例えばアフロや編み込みの髪をしたお兄ちゃん・お姉ちゃん、それに この人まっとうに学校行ってたのかなと思うような人までいて、なんだCPAって大した試験じゃないんだと思い、少し気が楽になった。
 もう一つ、たまたま日本人の女性と向かいの席になり、試験の合間に日本語で話せたのも良かった。試験ができたのできないのとか他愛のない話だが、それだけでも心が和んだ。
 逆に焦ってしまったこと。外人は英語の読み書きが速い。彼らはネイティブだから当然なのだが、ふっと斜め前の女性を見たら、僕よりずっと先のページの問題をやっていた。又、提出の際、ぎっしり書かれた答案用紙を見たら、こりゃだめだ、彼らには敵わないと思った(実際、一発合格はできなかった)。

 とにもかくにも試験が終り、僕はタクシーでマンチェスターの空港近くのホテルへと向かった。フロントでタクシーを頼むと、今、そこの人にタクシーを呼んだから一緒に行くようにとのこと。彼は空港に行く、つまり方向が同じだった。
 車の中で話して驚いたが、彼はレバノン人だった。僕は混乱した。中東のレバノンとアメリカのCPA試験が結び付かない(もっとも、これはお互い様かもしれないが)。
 彼は今回が2度目の試験。このあとはフロリダを観光してから帰国すると言っていた。翌日すぐ帰国する僕と違い優雅だ。といいつつ、彼は飛行機に遅れそうだと運転手を急かしていた。こうして僕のニューハンプシャー滞在が慌しく終わろうとしている。

ニューハンプシャーを行く(前編)

2006-09-28 23:48:38 | もう一度行きたい
 日増しに涼しくなってきた。もうすぐ10月。よく町でハロウィンの飾りを見掛けるようになった。例のカボチャのお化けである。このカボチャを見るとニューハンプシャーを思い出す。
 訪れたのは3年前の11月初め。涼しいを通り越し、もう寒い時期だった。緯度的には札幌とさほど変わらないが、ずっと寒い気がした。

 ニューハンプシャーと言って、すぐピンと来る方は極めて少ないと思う。イギリス? それともアメリカ? どちらも正解と言えなくはない。なぜなら、それはアメリカに来たイギリス人入植者が故郷ハンプシャーに因んで付けた名前だから。
 位置的にはアメリカの北東部、ほんの一部が海(大西洋)に面し、これまた一部がカナダと国境を接している。ニューイングランド地方の州で、アメリカ独立13州の一つでもある、大変歴史ある州だ。

 が、海外からの観光の目玉になるような名所はなく、日本での知名度は低い。実際に行ったことのある日本人も少ないだろう。日本との関係でいえば、日露戦争の講和条約が結ばれたポーツマスはニューハンプシャーの町である。又、『ダヴィンチ・コード』の作者ダン・ブラウン、『ガープの世界』のジョン・アーヴィングはこの州の出身だ。
 そして、大統領予備選を最初に行い、そのときだけ全米、更に世界の注目を浴びることでも知られる。とはいっても、これは4年に1度の話。ニューハンプシャーは、州の法律で全米で一番に大統領予備選を行うと決めており、おそらく2008年1月には世界のニュースで採り上げられることだろう。そのとき、あっ、これが あの と思い出して頂けると光栄だ(まあ、随分先だし、無理かなぁ)。
 ニューハンプシャーに多少縁があるため、ちょっと向きになって説明してしまった。申し訳ない。

 さて、何故僕はニューハンプシャーに行ったか。実は試験を受けに行ったのだった。ワシントンD.C.経由でマンチェスターに入り、そこからバスでナシュアに向かうことにした。タクシーで行っても良かったのだが、実は一人旅のときは公共交通機関があればそれを使う、というのが僕のモットーなのである。
 ところが、なんとバスがない。時刻表を見ると1時間半近くもバスがない。時差ぼけも手伝って、僕は呆然と立ち尽くした。さらに驚いたことに、その次のバスが今日の最後のバスのようだ。ということは、取り敢えずバスがあったことだけでも感謝すべきか。まだ昼間の2時なのに。うーん、車社会アメリカを甘く見てはいけない。田舎だと、バスや鉄道は長距離のみ使うもので、あとはほとんど車なのだろう。

 まだハロウィンの話に行きつかないが、先が長いので続きは次回に。

タイのクーデターに想う

2006-09-24 18:10:44 | 海外で今
 タイは何度かこのブログでも取り上げている。3月の反タクシンの大規模デモについても記事を書いた。その行きがかり上、今回のクーデターについても何か書かねばと思うのだが、基本的な見方は前回既に書いた通りである。

 要約すれば、タイでは1932年の立憲君主制移行後、20回近いクーデターが起こっており、特に92年のクーデターは流血事態に発展するなど政治的には極めて不安定であるが、その根本 = 王室 がしっかりしているので、心配には及ばない、というものである。
 実際、今回のクーデターは、早くにプミポン国王が容認したことから、無血で所期の目的を達している。そして、しまいには皆が戦車の記念写真を撮るなど、クーデターが観光目的と化している有様である。

 一方で、クーデターに対するアメリカの評判はすこぶる悪い。東南アジアにおける民主主義の優等生であったタイで、軍のクーデターが、選挙で、つまり民主的手続きにより選ばれた内閣を葬り去るなどまかり為らん、との考えである。
 が、ここで疑問が一つ。これは民主主義が最高の体制であることが前提になっている。しかし、民主主義そのもの、それ自体が、自ずと善を生み出すものと言えるのだろうか。

 学生時代、「社会的選択の理論」というのを勉強した。合理的な個人からなる社会を想定したとき、社会全体として合理的、民主的な選択を成し得ない、というものである。「アローの不可能性定理」として有名だが、この とんでもない結論は、その後、経済学のみならず、論理学、倫理学、政治学等の分野で大きな議論を呼んでいる。アローの前提の修正を試みるもの、新たな評価・判断方法を導入するもの等がいるが、未だ決定的な回答は出ていないように思う。
 
 では、厳密な意味での民主主義は幻想だとする学問、理論の世界に対し、現実の世界はどうだろう。民主主義国家といわれる国の状況はどうか。例えば、アフガニスタンそしてイラクへと侵攻したアメリカ、人種問題・移民問題に苦しむヨーロッパの国々、そして日本。まあ、社会主義や独裁主義よりはマシだと思うが、いずれの国も多くの問題・矛盾を抱えていることは事実である。
 こうした現実を見ても、民主主義は比較的望ましい制度とは言えるものの、絶対的に正しい、それ自体が皆に良い状態をもたらす制度だとは考え難い。
  
 アメリカにはない王室、それも国民の敬愛を集める王室が存在し、かつ仏教の教えが浸透している国、タイ。そもそも、そんなタイにアメリカと同じ制度を求めることが絶対的に必要なのだろうか。

 タイでタクシン首相の評価は二分されている。初めて地方の農民層や都市部の貧困層に目を向けた政治家として積極的に評価する者もあれば、一族の優遇や不正蓄財、麻薬取締りやマスコミ統制などでの強権発動などを強く非難する者もいる。完璧な政治家とは言えないまでも、クーデターという超法規的手段に訴える必要があったのか僕にはわからない。
 いずれにしろ、タイが国王の下、新たな政権によって、より良い方向に進むことを願いたい。タイでは都市と農村の格差は凄まじく、未だ人身売買などの問題に解決の糸口が見えない。タクシンの貧困層に向けた各種政策が後戻りすることのないよう願う。

『小兵衛』、只者ではない旨さ

2006-09-18 23:14:18 | おいしいもの食べ隊
 高円寺に『小兵衛』という居酒屋がある。夫婦二人でやっているこじんまりした店だ。北口から歩いてすぐだが、商店街から離れているので、場所はちょっとわかりにくい。池波正太郎ファンの方ならピンと来るだろうが、そう、店名は『剣客商売』の秋山小兵衛から採ったそうだ。僕は池波正太郎の本は読んだことはないが(因みにテレビの『鬼平犯科帳』すら見たことないが)、実は妻が池波ファンで、「もしやこの名前は」と聞いたことから判明した。夫婦そろって池波ファン、それも、娘さんの名前に彼の本の登場人物の名前を付けるという、筋金入りのファンである。

 以前1、2ヶ月に一度高円寺に行くと書いたが、この店も高円寺を歩いていて偶然見つけた店である。店構えを見た妻がここに入ろうと言ったのだった。後から聞いたが、『小兵衛』という名前にも惹かれたらしい。
 入って、まず付けだしに感動。フカヒレの入った豆腐が絶品。食感が良い。それに刺身や焼き物、揚げ物も旨い。居酒屋だがビーフシチューまであり、これもまた旨い。早い話、はずれの少ない店だ。ご主人曰く、自分は酒呑みだから、自分が食べたい、食べておいしいと思う酒の肴を作っているとのこと。うーん、やっぱり旨いはずだ。呑ん兵衛には堪えられない。

 また、ここはご飯も旨い。季節のもので炊き込みご飯を出している。少し前ならアサリ、そしてこれからだと松茸。しこたま呑んだ後、〆に炊き立てのご飯がたまらない。ご飯は注文を受けてから炊くので、前もって頼んでおいた方が良い。
 冬場は予約でフグのコースもやっている。高円寺という場所柄もあってか、お徳度が極めて高い。

 ところで、高円寺、ここは特に何があるというわけではない。名所名跡の類がない。お隣、阿佐ヶ谷のジャズストリートに対し、高円寺といえば阿波踊り。熱狂して盛り上がるが、ジャズに比べあまりオシャレとは言えない。町自体、泥臭く、下町の風情を残す、どこか懐かしい町だ。そして何より物価が安い。人情と物価は反比例するのだろうか、ここに住む人の暖かさが伝わってくる町である。
 『小兵衛』のご主人の腕は、秋山小兵衛の剣の腕に名前負けすることのない素晴らしいものであり、加えて、ここ高円寺のお客さんの情(じょう)に支えられ、その味は一層深みを増しているのではないだろうか。是非、一度、『小兵衛』の味と勝負されては如何か。

アホとバカの境目 ~ 言葉の不思議

2006-09-17 23:58:00 | 最近思うこと
 昨日テレビで沖縄の方が、「沖縄には古い日本の言葉が沢山残っている。例えば、2月をにごち(にぐゎち?)、3月をさんごち(さんぐゎち?)とか、枕草子の言葉と同じだ。」と言っているのを聞いた。古くから独自の文化を作り上げてきた沖縄。多少大げさかもしれないが、沖縄の言葉が、外界と隔てられたガラパゴスやマダガスカルで独自の進化を遂げた動植物のように、古いまま残っていたり、派生して変化していても不思議はない。沖縄は、日本に加え中国の影響もあったのだろうが、明治までは独立した国だったのである。

 沖縄は少し特殊なケースかもしれないが、京都の言葉が同心円を描くように地方へ広がったとする「方言周囲論」という考え方がある。とすると、地方に行けば行くほど古い言葉が使われている、九州や東北・北海道の言葉は古く、京都の言葉が最先端ということになる。全国ネットのテレビが当たり前の今の世の中には当てはまらないかもしれないが、昔の日本、テレビもラジオも、それに飛行機や鉄道がなかった時代には十分あり得る話だろう。
 僕は北海道の出身だが、北海道では“とうもろこし”のことを“とうきび”と言う。確か、九州の一部でも“とうきび”と言うらしい。ともに古い言葉が残っているのだろうか。

 この言葉の話、関心を持ったのは「探偵!ナイトスクープ」というテレビ番組がきっかけだった。この番組、ご存知の方も多いと思うが、大阪・朝日放送の人気番組で、視聴者からの疑問・質問に(大抵ばかばかしい質問だが)まじめに調べて回答するという番組である。
 あるとき、「アホとバカの境界はどこか」という質問があった。調べたところ、ちょうど関が原あたりが境目のようだ。そこから西がアホで東がバカ。さすが天下分け目の関が原、アホとバカもここで分かれるんだ。と、ここで一件落着かと思いきや、九州もバカと言います、の一言。ということは境目は西にもある?ここから本格的な調査が始まることになった。この経緯は『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫)という本になっているので、興味のある方はお読み頂きたい。
 
 北海道は明治以降に東北から渡った人間が多いので、元々は東北の言葉に近かったのだと思う。それが、他の地域からの入植者も増え、又、北海道で生まれ育った人間が増えるとともに、次第に標準語に近づいて行ったのだろう。北海道の言葉は、“捨てる”を“なげる”、“疲れた”を“こわい”というなどの違いはあるが、東北、九州などの言葉よりはずっと標準語に近い。その他の違いといえば、全体に言葉が、良く言えば素朴、悪く言えば汚い、話すスピードが遅いといった点がある。
 が、もしかすると、東北・九州や北海道の人は昔の京の都に行けば、違和感なく話ができるのかもしれない。「方言周囲論」が正しければあり得る話だ。今の京都の人より、我ら田舎者の方が昔の貴族に近い?話すのが遅いのも優美さの名残りか?

映画の中のクラシック音楽

2006-09-15 23:53:00 | 芸術をひとかけら
 前回書いたショパンのノクターン9-2。この曲は映画『愛情物語』のテーマ曲「 To Love Again 」としても知られる。『愛情物語』はピアニスト、エディ・デューチンの人生を描いた映画である。主人公をタイロン・パワーが演じていた。映画をご覧になったことのない方でも、この「To Love Again」はご存知のはずだ。甘く、切ないショパンの調べ、ロマンチックなスタンダード・ナンバーである。
 又、誰が訳したか知らないが、ノクターンを夜想曲としたのは本当に天才的だと思う。静かな夜に物思いしながら聴く曲、といった意味だろうか。「To Love Again」を聴き、甘いポートワインでも飲みながら、一人、夜を楽しみたい。

 というわけで、今日は思いつくまま、映画に使われたクラシックの名曲を見て行きたい。

 はじめに頭に浮かんだのは『2001年宇宙の旅』。映画の冒頭、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』の導入部が それは劇的に使われている。そもそも 『ツァラトストラ~』は導入部、最初の2分くらいが超弩級の迫力、強烈なインパクトのある曲である。残りの30分以上は極めて退屈な曲で(失礼)、初めの2分があればこそ、100年以上経った今も聴かれている曲である。ここだけ聴くと まったくクラシックとは思えない。現代音楽としても立派に通用する曲だ。
 この劇的かつ壮大な曲を、更に劇的に使った監督のスタンリー・キューブリックの才能には恐れ入ってしまう。また、あれだけ難解な映画を作ったキューブリックには正に脱帽である。僕は映画館で1度しか見たことがないが、正直言って、何が何だか よくわからなかった。

 劇的といえば、コッポラの『地獄の黙示録』のワーグナーも凄い。ワーグナーの『ワルキューレの騎行』をバックに、ベトナムの村を爆撃する戦闘ヘリ。ワーグナーは反ユダヤ的思想を持っており、死後、彼の曲はナチスのプロパガンダに利用された。そんなナチスの狂気と、ベトナム戦争の狂気とが相俟って、高揚あるいは興奮する、一種異様な雰囲気を醸し出していた。

 キューブリックでもう一つ、『時計じかけのオレンジ』の第9。身勝手で残忍な若者アレックスはべートーベンを、特に交響曲第9番をこよなく愛していた。勝手気ままに暴力を振るい、挙句の果てに殺人まで犯したアレックス。映画では第9がストーリーの節目節目で効果的に使われている。
 個人的にはキューブリックの映画の中では『博士の異常な愛情』が好きだ。核戦争を題材にしたブラック・ユーモアがおもしろい。というか、彼の作品の中ではわかりやすい映画だ。

 確か、『愛と哀しみのボレロ』の中でベートーべンの交響曲第7番が使われていたように思う。ジョルジュ・ドンの踊るボレロが印象的な映画だが、彼が7番に合わせて踊るシーンがあった。バレエというとただ美しいだけかと思っていたが、それは力強く、激しい踊りだった。僕の中でバレエの概念が一気に変わった。一度、彼の踊りを生で見てみたかった。

ショパンといえば・・・・

2006-09-14 00:45:32 | 芸術をひとかけら
 最近ブログを書いていてよくショパンのことを思い出した。僕的にはごく自然な連想なのだが、世間一般的には結構強引な連想、こじつけかもしれない。そんなわけで今日は若干脈絡のない話になってしまうかもしれないが、ご容赦願いたい。

 ショパンといえば『いつもポケットにショパン』。
 これは くらもちふさこ の漫画である。ピアニストを目指す少女・麻子が、幼なじみで憧れの人である きしんちゃんと共にピアニストとして、そして人間として成長して行く姿を描いた作品だ。音楽学校やコンクールなど自分には縁のない音楽の世界を垣間見ることができて面白かったし、ピアノを、ショパンを聞くきっかけにもなった。ノクターン9-2にバラードの1番。やはり漫画で名前の出ていたアルトゥール・ルービンシュタインのLPを買ってショパンを聞いた(そう、この漫画はLPからCDに変わるちょっと前の頃の作品なのである)。
 この『いつもポケットにショパン』と、その前に別マに連載されていた『おしゃべり階段』とは、1980年頃、くらもちふさこ絶頂期の作品である。ここでちょっと“トリビア”な話題。くらもちふさこのお父さんの話。お父さんは倉持長次さんといって山陽国策パルプ(日本製紙の母体となった会社の一つ)の元社長である。当時、自分は社長だが娘の収入には敵わないと嘆いている、との噂を聞いたことがある。王子-北越の件を書いていたとき、ふと思い出した。

 ショパンといえばポーランド。
 ポーランドにはあのアウシュビッツがある。ポーランドは第二次大戦でナチスドイツの最大の被害を受けた国だ。因みにショパンはユダヤ人ではないが、ルービンシュタインはユダヤ系ポーランド人である。もっとも彼は戦前にアメリカに移住しており、直接はナチの迫害に会っていないと思う。

 ショパンといえばジョルジュ・サンド。
 彼女は女流作家、男装の麗人としても知られるショパンの恋人である。ちょうど『いつもポケットにショパン』を読んでいた頃ではないだろうか、彼女の『愛の妖精』という小説を読んだ。内容はもう覚えていないが、存外 面白い本だったと記憶している。
 繊細でありながら、ときに激しく、又、どこか哀しいような、切ないようなショパンの調べ。当時からヨーロッパ列強の支配に苦しめられていたポーランド人としての想い、それにサンドとの恋と破局も、彼の音楽に大きな影響を、インスピレーションを与えたことだろう。

アンネが信じたもの

2006-09-10 23:56:00 | 最近思うこと
 先月、ドイツのノーベル賞作家 ギュンター・グラスが、かつてナチス親衛隊に所属していたことを公表して話題になった。(因みに、ナチス親衛隊というのはヒトラーに忠誠を誓った集団であり、士気の高さや装備などの点においてエリートとされた軍隊である。一般の軍、国防軍とは区別されていた。)平和運動にも積極的に関与し、ドイツの良心とも言われるギュンター・グラスが、ナチスに、それもアウシュビッツなどホロコーストを進めた、あの親衛隊に属していたというので議論を呼んでいた。
 僕は彼のことはよく知らない。唯一、彼の小説を映画にした『ブリキの太鼓』を見たことがある程度だ。自ら成長を止めた少年とヒトラーを選んだドイツとを重ね合わせたというのが映画のモチーフだったと記憶している。ドイツらしく(?)思慮深い、まあ早い話、全体に暗く、あまり面白い映画ではなかった。

 しかし、彼はなぜもっと早くにこの事実を公表しなかったのだろう。人間誰しも過ちを犯すものだし、まして彼が親衛隊に加わったのは十代の頃である。当時の社会を考えれば、あまり責められることではないだろう。大切なのは過ちに気付くことであり、そして、気付いた後、如何に行動するかではないか。

 『アンネの日記』を読まれた方は多いと思う。僕は読んだことはないが、2度、今は博物館になっている“アンネ・フランクの家”を訪れたことがある。

 アンネ・フランクはドイツ系ユダヤ人であり、第二次大戦中、迫害を逃れオランダはアムステルダムへと移住した。が、そこにもナチスのユダヤ人狩りの手が及ぶようになり、1942年7月からアンネ一家はここ“アンネ・フランクの家”での篭城生活を余儀なくされた。事務所の3,4階、外界から隔絶された狭いスペースである。本箱の裏が出入り口になっており、忍者屋敷の趣きがあるが、現実はそんな生易しいものではない。それは生と死とを分けるためのカモフラージュである。見つかれば命がない。事実、ここにはアンネの家族など8人が潜んでいたが、ナチスに捕らえられて皆収容所送りとなり、戦後助かったのはアンネの父親オットーだけだった。アンネはガス室送りにこそならなかったが、収容所の劣悪な環境の中、チフスで死んだという。これが現実である。

 “アンネ・フランクの家”は1999年に増改築された。従来の建物を新しい建物・装備で覆う形となり、展示はビジュアルでおしゃれになったが、若干篭城生活の臨場感が薄れてしまった気がする。僕が初めて訪れた時はまだ当時の建物だけで、きわめて素朴であったし、8人が狭い中ひしめきあって暮らしていた、その生活感がひしひしと伝わってきた。個人的には昔の方が好きだ。

 さて、その中で強く印象に残った展示がある。『アンネの日記』の一節である。多少記憶があやふやだが、確かこんな内容だったと思う。“In spite of everything, I believe people are really good in heart.” 意訳すれば、「こんなに厳しい、残酷な運命を強いられているけど、私は人間って心の中はみな良い人だと思うの。」といったところだろう。
 これを見て本当に涙が出てきた。何も悪いことをしたわけではないのに、狭い隠れ家から外に出られない、死と隣り合わせの生活を余儀なくされる。不条理極まりない。それなのに、なぜこんなことが言えるのだろうと胸が熱くなった。

 明日は9月11日。未だテロや対立・抗争に終りが見えない。残念ながら“people are really good”かどうか自信の持てない世の中だが、だからこそ、僕もそう信じたい。

阿刀田 高 『コーランを知っていますか』

2006-09-04 22:48:52 | 最近思うこと
 先日、阿刀田 高(あとうだ たかし)の『コーランを知っていますか』を読んだ。3年前に出た本が文庫になっており、たまたま本屋で見つけたのだった。
 阿刀田 高は好きな作家の一人だ。特に初期の作品が好きだ。『ナポレオン狂』、『夢判断』など、短編において彼の魅力は際立つ。彼自身の区分で言う「ミステリー、奇妙な味、ブラックユーモアに属する」作品である。ブラックユーモアではロアルド・ダール(因みに彼はあの『チャーリーとチョコレート工場』など児童文学も書いている)やサキに勝るとも劣らない、短編の名手である。
 氏は博学でもある。大学卒業後、国会図書館に勤め、その間、ありとあらゆるジャンルの本を読み漁ったそうである。そうした知識、経験を活かしてか、彼は古典を読み解く本もいくつか出している。『ギリシア神話を知っていますか』、『アラビアンナイトを楽しむために』など、いずれも秀逸である。原典を読む時間(気力?)のない大人には打ってつけの本だ。

 で、『コーランを知っていますか』の話。実は最近は氏の本をあまり読んでいない。年齢なのか、執筆してきた年数なのか、氏の本に昔ほど切れ、輝きを感じなくなったからだ。正直に言って、『コーラン~』もあまりおもしろい本とは言えない。もっとも、これは多分にギリシア神話やアラビアンナイトと比べ、コーランそのものがおもしろくないためだと思う。コーランを面白おかしく書くのではなく、まじめに真正面から取り組んだ結果ともいえる。コーランの入門本としては大変有益な本である。イスラムのことを知りたいと思い本を何冊か読んだことがあるが、コーランそのものの本は初めてだった。

 なかでも一番おもしろかった、参考になったのは、不完全な宗教、つまりユダヤ教やキリスト教の完成型、最終型としてのイスラム教という考えだ。これはアラーの神を唯一、絶対の存在とすることからの当然の帰結である。即ち、人類の誕生から現在、そして未来永劫に至るまで、神はアラーしか存在しない。人々がそれを正しく理解していないが故にユダヤ教やキリスト教が生じ、あるいは偶像を崇拝する輩が出て来た、というのである。ユダヤ教やキリスト教は唯一の神(= アラー)を信じるという点で同根であるが、仏教、更には日本の神道などは問題外、偶像崇拝とさして変わらないことになる。

 また、イスラム教の成立過程も書いてあり、それもおもしろかった。マホメットが神の啓示を受けメッカで布教を始める。部族の迫害からメディナへと逃れ、次第に宗教としての形を整えていく。コーランはマホメットがまとめたものではない。彼の死後に弟子たちが、マホメットが神から受けた啓示をまとめたものである。そのため一貫したストーリー、物語性はなく、加えてコーランの記述は年代順に並んでいない。ところどころ旧約聖書や新約聖書をベースにした話もある(イスラム教にしてみると同根なので特に問題ないのである!)。

 さらに、コーランには部族間の争いから、果ては遺産の相続方法まで書かれている。まったく神様も大忙しである。これは、マホメットが孤児に近い境遇だったことや、部族間の争いや略奪等で人が亡くなり相続問題がよく発生していたことに拠るようだ。又、ユダヤ教やキリスト教を同根としたのは、それらの宗教が浸透していたことが理由の一つらしい。マホメットの政治家としての一面が感じられる。同時に、宗教といえども、社会的文脈に依存する、影響を受けるのだと思った。