縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

9・11から10年

2011-09-11 21:50:58 | 最近思うこと
 あのアメリカの同時多発テロから10年経った。

 航空機が世界貿易センタービルに突入する、とても現実とは思われない、映画のようなシーンは、今でも脳裏に焼き付いている。

 金曜日の深夜、寝苦しくて目が覚め、たまたま付けたテレビで『9・11テロに立ち向かった日系人』という番組を見た。
 9・11のテロ発生後、アメリカでは在米イスラム教徒に対する差別や攻撃が後を絶たなかった。それを見た日系アメリカ人が、彼らを擁護すべく敢然と立ち上がったのだという。
 「これは第二次世界大戦中の我々と同じだ。アメリカ人であるにも拘わらず、日系人だからと差別され、強制収容所に送られた祖父母や父や母と同じだ。あの悲劇を繰り返してはならない。」との思いだったという。

 恥ずかしながら、僕はアメリカにおける日系人の強制収容の話は知っていたが、実態についてはよく知らなかった。捕虜収容所のようなもの、ドイツの強制収容所よりはずっとマシだったのだろう、といった程度である。
 それは、形式的には、捕虜収容所に近い。しかし、両者の大きな違いは、捕虜というのは戦闘によって敵側に捕らえられた者であり、自らの家や財産等が影響を受けるものではない。が、アメリカにおける日系人の強制収容は、自らが生活する家から、突然、着の身着のままで連れ去られたものである。財産や職業などを、没収、放棄せざるを得なかったという。
 戦後、日系人は、強制収容所の生活について自らの子供たちに多くを語らなかったという。子供たちにはアメリカを愛してほしい、アメリカ人として認められるようになって欲しいとの思いからだそうだ。つまり、それだけ収容所の生活や、その後の差別が辛いものだったのである。

 さらに、第二次世界大戦中、ずっと強制収容されていたのは、日系人だけだった。ドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人はすぐに釈放されたが、日系アメリカ人は戦後まで釈放されなかったのである。ドイツ系やイタリア系の絶対数が多い、多すぎるという実務的な問題があったのかもしれないが、元が日本人だから、黄色人種だから、という理由が強かったのではないだろうか。哀しい歴史だ。

 同じことが、まさに、今、アメリカで起きようとしている。イスラム教徒というだけで、いわれのない差別、迫害が起きようとしている。あの過ちを、あの悲劇を繰り返してはいけない。
 この思いが、日系人を突き動かしたのであった。

 同時多発テロから10年が過ぎ、この間、幸い、大きなテロは起きていない。もっとも、イラク戦争やアフガン戦争がテロとは違うとした場合の話だが。

 この10年間、我々は何を学び、そして何に目をつぶっているのだろうか。