縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

いちばん短い夜に

2006-06-30 23:58:00 | 芸術をひとかけら
 先週の水曜日、6月21日は夏至だった。1年で一番昼の長い日、裏を返せば1年で一番夜の短い日である。この夏至の頃のことを英語で“midsummer”という。見たところ夏の真っ只中、8月の暑い盛り、という感じだが、これがまったく違う。
 勘違いするのも無理はないと思うが、やはり僕の前にもそう思った人がいた。おかげで誤った題名にされた戯曲がある。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』だ。原題は“A Midsummer Night’s Dream”。訳せば、夏至の頃の一夜の夢、といったところだろうか。直にこの間違いは気付かれたようだが、既に『真夏の夜の夢』という題名が定着しているため変える訳に行かず、今では“真”を取って『夏の夜の夢』とされるケースが多い。
(注:“Midsummer day”は6月24日、聖ヨハネ祭の日を指すため、聖ヨハネ祭の夜の夢、が正しいのかもしれないが、詳しい所は僕にはわからない。)

 さて、初めて『真夏の夜の夢』を読んだとき、舞台はとても真夏とは思えない感じがしたが、日本の夏、太陽がじりじりと照り付ける蒸し暑い夏と違って、ヨーロッパは真夏でも快適なんだくらいに思い、さほど気にしなかった。そして、時期が真夏ではなく夏至の頃だと知ったときも、あまり気にはならなかった。
 しかし、この“夏至”というのには実は意味があった。不思議なことの起こる時期、どうだろう日本で言えば“お盆”に近い感じだろうか。ヨーロッパでは夏至の日、夜の時間が一番短い日には何か不思議な力が働き、魔力、魔法が効きやすいと考えられていたようだ。また、夏至の頃に恋人たちが花や薬草を摘みに森に行くといった風習もあったらしい。
 シェイクスピアはこれらを下敷きにして“A Midsummer Night’s Dream”を書いたのであろう。因みにムソルグスキーの『禿山の一夜』も同様に聖ヨハネ祭の前夜に霊たちが騒ぐという話がモチーフになっている。

 と、題名の話で盛り上がってしまったが、肝心の内容はどうだろう。簡単に言うと、妖精が取り持つ恋の話である。その間に行き違いがあったり、妖精のいたずらがあったり、劇中劇があったりと、良く言えば盛り沢山、悪く言うとドタバタした内容である。読んでおもしろいかと言うと・・・・。
 もっともメンデルスゾーンは『真夏の夜の夢』を読んで感銘を受け、『真夏の夜の夢序曲』を作曲したそうである。本当に、僕のような凡人には天才の感受性、好みがよくわからない。

 『真夏の夜の夢』は本で読むよりも劇を観る方が良いと思う。妖精のいたずらや勘違いによるおもしろさは、頭でイメージするよりも実際に目で見て楽しむのがいい。それにバックにメンデルスゾーンの音楽、結婚行進曲とかが流れていた方が絶対にいい。他のシェイクスピアの作品も大なり小なり当てはまると思うが、『真夏の夜の夢』は読むよりも舞台で観る作品といえる。
 別に読むのが面倒だから言っているのではない。シェイクスピアを読んでつまらないと思った貴方、一度舞台を観に行ってはどうだろうか。おそらくセリフも現代風にアレンジされていて、わかりやすいし、おもしろいと思う。それに、若く美しい俳優も見られる(かもしれない)。
 いずれにしろ、百聞、もとい百読は一見に如かず、である。

吸う権利と吸わせない権利

2006-06-29 23:52:00 | 海外で今
 来月からたばこが値上げされる。1箱につき20、30円の値上げで、1箱300円程度になる。これが高いか安いかは別として、おかげで今月のたばこの売上げが凄まじいらしい。昨年6月のたばこの出荷量が244億本であったのに対し、今月は400億本を上回る勢いとのことだ。
 愛煙家の方にしてみれば今回の値上げはとんでもない話なのだろうが、いっそのこと一気に1箱500、600円と倍に値上げをして漸く欧米並みの価格になるということをご存知だろうか。つまり、わが国のたばこの価格はまだまだ安いのである。
 こうしたたばこの価格政策にしろ、販売や公共の場所での禁煙といった種々の規制にしろ、日本は世界の流れから取り残されているのが実情だ。

 ではたばこを巡る現在の世界の流れとは何か。一つは消費抑制策の強化。まずは課税により価格を高くすること。全体の需要減を狙うのは勿論のこと、高価格は若年層の喫煙習慣化を防ぐ有効な手段と考えられている。更には広告の禁止や厳しい警告文言の表示義務付けである。先進国の中で“ディライト”とかいってテレビで堂々とCMを流している国は他にないし、欧米諸国の警告文言はより直接的である。日本の「喫煙は肺がんの原因の一つになる」といった甘い表現ではなく、例えばEUでは「喫煙は死に至る」、「喫煙者は早死にする」といった表現まで使われている。
 もう一つは喫煙そのものの規制である。公共の場所や交通機関、オフィスでの禁煙はもはや一般的になり、アイルランド、ノルウェーなどではレストランやバーまでも禁煙になっている。間接喫煙のリスクは極めて高く、分煙だけでは非喫煙者を保護できないとの判断からである。こうして見ると、新幹線の全車禁煙化に反対するどこかの会社はまさに時代遅れと言わざるを得ない。

 今月27日、米国保健福祉省は間接喫煙の健康被害に関するレポートを発表した。もともと喫煙者本人が吸い込む煙、主流煙よりも、たばこの先から立ち昇る煙、副流煙の方が有害物質は多いと言われていた。今回のレポートにはそれを裏付けるデータがあり、又、間接喫煙はたとえ僅かであっても細胞を損ない、がん化のプロセスを促進するとまで言っている。こうなるともう喫煙そのものを禁止するしかない。喫煙禁止令を出す州が増えるのではと新聞記事にあった。

 僕は愛煙家の方のささやかな喜びを取り上げるつもりはない。好きでたばこを吸って多少肺がんなどのリスクが高まろうとそれは本人の自由だし、(以前どこかで書いたが)無理に禁煙させてストレスを高めてはかえってその方が健康に悪いだろう。ただ他人に迷惑を掛けるのだけは止めて欲しい。愛煙家の方には屋外で、青空の下、健康的に(?)たばこを吸って欲しいと思う。
 近くでたばこを吸っている人に対し、直接止めてくれと言うのは角が立ってちょっと言い難い。かといって、禁煙、“No Smoking”といったステッカーを貼って歩くのは仰々しいし、そもそも美しくない。こんなとき、身振りや手振りなどでたばこを止めるよう注意する決め事があればと良いと思う。近くの人がこれをするのを見たら黙ってたばこを消すというルールだ。例えば、人差し指を交差させ×を作るとか、右手でたばこをひねって火を消す仕草をするとか。JTには、僕のようにたばこを吸わない人間への“ディライト”も考えてもらえると有難い。

B氏に捧ぐ

2006-06-28 08:06:29 | おいしいもの食べ隊
 2週間休んでおいて、それでのっけから個人的な話で恐縮だが、この間に知り合いが亡くなった。

 彼は近くの行きつけの鮨屋からこの1月に独立したばかりで、正にこれからという矢先での逝去だった。年齢は確か僕よりも一つ上、まだまだ死ぬには早すぎる。買い出しに行った先で突然倒れ、そのまま病院に運ばれたものの手遅れだったという。
 朝の仕入れから、仕込み、そして店の切り盛りまですべて一人でこなし、また当初は店を毎日開けていたと聞く。おそらくそうした無理がたたったのであろう。独立し一国一城の主となっての責任、重圧なのか、彼がもう少し体の変調、異常に気を付けていればと本当に残念でならない。

 その鮨屋に行くようになって5年近くになる。鮨は大将と彼とで握っていた。僕達夫婦はカウンターに座ることが多く、彼らとよく話をしていた。光物では今日は何がおいしいとか、白身は何が良いとか、ねたの話は勿論、祭りの話(何分下町の鮨屋なので)やゴルフの話、それに他の常連さんの話などである。ただ、話をするのは大将の方が圧倒的に多い。彼は出前や奥での仕事もあって席を外すことが多かったし、一緒にいてもやはりメインは大将で彼は一歩引いた感じがあった。
 しかし、新しいものを勧めてくれるのはいつも彼だった。鯛のかぶと焼きを食べ、その骨で出汁を取って吸い物にする。ほたてを醤油バターで焼き、小さく握ったシャリをその汁に付けて食べる(フレンチなどでパンを料理のソースに付けて食べるのと同じ感覚)。酢飯と醤油バターの相性が抜群だ。そして“大人のかんぴょう巻”。かんぴょう巻にわさびとゴマを入れるだけなのだが、存外これが旨い。このときから僕らの〆はいつも“大人のかんぴょう巻”になった。

 たまたま彼のアパートがわが家の斜向かいだったり、また年齢が近いこともあって、彼は僕らに親近感を持ってくれていたと思う。一度彼に今度アメリカに試験を受けに行くのだと話したことがあった。それっきりその話はしなかったが、1年くらい経ったある日、彼があの試験はどうなりましたと聞いてきた。なんとか受かったと話すとそれは喜んでくれた。こちらにしてみると、もう古い話でその感激を忘れつつあったのだが、僕には彼の不器用なやさしさが身に染みて嬉しかった。

 彼は今回の独立の案内を直接わが家のポストに入れてくれた。彼の店は門前仲町。家からさほど遠くないが、職場と方向が違い、なかなか行くことが出来なかった。開店早々に一度お邪魔したきりで、結局、それが彼との最後になってしまった。ちょっと照れながらも、嬉しそうに鮨を握っていた彼の姿が目に浮かぶ。お祝いの振舞酒を頂いたが、そのお返しが出来ないうちに彼は逝ってしまった。
 心の準備など出来ようもない突然の死。僕には彼に掛ける言葉が見つからない。それ以上に、今でも信じられない気持ちの方が強い。が、あの日以来、いつもアパートの前にあった彼のバイクが無くなった。いつもの風景から、当たり前のようにあったもの、本来あるべきものが欠け落ちてしまった。この空白を埋めるものがない。彼のご冥福を祈る。

京都議定書の行く末

2006-06-13 23:53:00 | 環境を考える
 先月世銀が発表した“Little Green Data Book 2006”によると、2002年のCO2排出量は240億立方トンとこの10年で15%も増加している。CO2の多くは欧米や日本など先進国により排出されているが、足下、発展途上国、特に中国とインドの排出量が急増している。過去10年で中国は33%増加、インドに至っては57%増加している。このため中国はCO2排出量でアメリカに次いで世界第2位、インドも日本を抜いて第4位となっている。

 CO2のほとんどは化石燃料の燃焼によって排出されており、中でも発電の占める割合が高い。電源別にCO2の排出量を見ると、大雑把に、石炭を10とすれば石油7、LNG 5~6、水力・原子力その他0.5以下、である。したがって発電量に占める石炭火力の割合が高い国は自ずとCO2排出量が多くなってしまう。石炭火力の比率は中国で79%、インドでは68%と共に高水準である。発展途上国は総じて50%に近い水準だ。

 更に悪いことに、中国はエネルギー効率も悪い。エネルギー消費1単位(原油換算)当たりのGDP(即ち、原油1kgを使って生み出されるGDPの金額)を見ると、中国は4.5である。これに対し日本は6.5、又、産業構造の違いからかインドは5.3と比較的高い。つまり、中国はGDPを増やすには多量のエネルギーが必要なのである。又、中国はGDP 1単位あたりのCO2排出量も0.6と高い(日本は0.4、インドは0.5)。
 中国は13億という巨大な人口とエネルギー効率の悪さが相俟って、一方、インドは11億近い大きな人口を要因として、経済成長とともにCO2排出量が急増しているのである。

 ところで、先進国の中で中国に似た国がある。アメリカだ。石炭火力の割合51.4%、エネルギー消費1単位(原油換算)当たりのGDPは4.5、GDP 1単位あたりのCO2排出量0.6 と、いずれも発展途上国と同じ水準である。加えてアメリカのたちが悪いのは、一人当たりのCO2排出量が20.2立方トンと極めて多いことだ。発展途上国は2前後であり、そのほぼ10倍。日本(9.4)と比べても倍以上の水準である。
 まさにアメリカはエネルギーを、それこそ“油”水のように使い、浪費しているのである。最近の原油高で少しは節約するようになったかもしれないが、長年身に着いた習慣は一朝一夕には変わらないであろう。

 しかし、このアメリカも、中国も、それにインドも参加していない京都議定書、どこまで実効性があるのだろう。なんともそら恐ろしい。

湯河原・独歩の湯 ~ 足湯とマッサージ

2006-06-12 23:57:00 | もう一度行きたい
 この週末、湯河原に行った。東京から近いし、湯河原には何度か行っているのだが、今回は新しい発見があった。万葉公園にある足湯、独歩の湯である。

 足湯というと椅子に座って足だけ温泉に浸かるイメージであるが、ここはまったく違う。屋外の広いスペースに9つの足湯がある。サンダル履きで敷地内の足湯を歩いて回るようになっている。水深ならぬ湯深(?)は20cmくらい。そして底には石。そう、ここは様々なタイプの石で足の裏を刺激する、温泉+マッサージの足湯なのである。

 特に刺激が強かったのは、白い玉砂利を敷いた腎耳(じんび)の泉と、大きめの石を埋め込んだ脾骨(ひこつ)の泉。腎耳の泉は文字通り腎臓と耳に効果があるとのこと。この痛さは半端じゃない。砂利の層が厚いため、足で砂利を踏んだとき、下で砂利がざっ、ざっ、ざと動き、安定しない。砂利がずれる度に痛みがじーんと響く。
 もう一つの脾骨の泉は内分泌と代謝異常、さらに骨と関節と足に効果があるそうだ。大きな石だとあまり痛くないかと思ったら考えが甘かった。全体重がかかるとさほど尖っていなくてもやはり痛い。
 もっともこの二つは痛いものの、なんとなく体に良い感じがしたが、皮口(ひこう)の泉はただ痛いだけだった。真ん中に小さく尖った石があり、痛くて足を載せ続けることは出来なかった。これではマッサージ効果以前の問題である。

 さて、温泉足湯で足裏をマッサージした後、レストハウスの2階で足と肩のマッサージをしてもらった。普通は足だけらしいが、たまたま雨の日の昼時で空いていたせいか、肩のマッサージもしてくれた。湯河原はり灸マッサージ師会のプロの方がマッサージしてくれ、各々15分1,000円と格安料金である。旅館でマッサージを頼むとこの倍近い料金ではないだろうか。ここは湯河原町の施設だし、マッサージの方もお昼のパート感覚なのか良心価格である。
 マッサージの間中、おばあちゃんの話、温泉は権利金や維持費が高いとか、昼飯はどこがおいしいとか、あの店は素人だから料理が遅いとか、チャングムはおもしろいとか、貴重な情報(?)をずっと聞かされ、あっという間の30分だった。足湯とマッサージで本当にリフレッシュした。

 そして1日の仕事を終えた今、あれ、肩が凝ってる。昨日はとってもすっきりしてたのに。PCやって体が固まっていたのかな。効き目は長続きしないようだ。

 そこで本日の教訓:ローマは1日にしてならず。肩凝りは1日にしてなおらず。


企業文化、社風、あるいは共通の価値観

2006-06-11 23:56:00 | 最近思うこと
 以前、三つの銀行が一緒になって出来たM銀行にいた。
 外から見ると、会社が違うとはいえ同じ銀行業務をやっているのだから、仕事のやり方、進め方さらに考え方に大きな違いはないと思うことだろう。が、これが大きく違う。どの銀行が優れ、どの銀行が劣るというのではなく、ただ純粋に違う、異なっているのである。当然ながら全部が全部違うわけではないが、判断や行動の基準、根底にあるものが違っていたと思う。
 例えば、日本も中国も韓国も同じアジアだから大きな違いはないだろうと欧米の人は思っているかもしれないが、実際はそうではない。それぞれが独自の文化、歴史、思想などを持っている。それと同じである。

 さて、違いの卑近な例を挙げると、まず言葉、用語。このため統一用語集なるものが作られ、基本的には2対1の多数決、そして3行とも違うときは世間一般の常識を勘案し、新銀行で使う用語が選ばれた。
 あとおもしろかったのが、各行独自の言い回しや言葉があることだ。○○の“悉皆”セールスが重要、といった文を見ても意味がわからない。そもそも読めない。(注:“しっかい”と読み、すべて、ことごとく、といった意味)。
 又、問題点を“いっこついっこつ”潰さないといけない、といった言い方をよく聞いた。最初は意味が解らなかったが、漢字では“一骨一骨”と書き、火葬場で骨を拾うがごとく、ひとつひとつ丹念に、といった意味だと悟った。

 こんな言葉の違いだけならまだ可愛いが、システムに対する考え方も違っていた。人に出来ることはコンピュータにも出来る、だからコンピュータにやらせれば良いとスマートに考える銀行もあれば、コンピュータに出来ることは人にも出来る、だから人がやれば良いと浪花節的に考える銀行もあった。いきおいシステムに対する考え方、投資額などにも差があった。
 もっとも同じようなことは三菱東京UFJでもあるようだ。三菱グループを安定した顧客基盤に持つ旧三菱のシステム、特にATMなど個人向けサービスのシステムは旧UFJのシステムに比べ大変遅れている。いや、正確に言えば、日本の銀行の中で旧UFJのサービスが群を抜いて優れているのである。別に旧三菱がその他の銀行に比べて劣っているのではない。財閥グループの後ろ盾がなく、ピープルズ・バンクを標榜し個人向けサービスを充実してきた三和の考え方がUFJに引き継がれているのである。

 文化に優劣はない。企業の文化や価値観にも基本的に優劣はなく、比較できるものではない。例えば、寝る間を惜しんで働いて儲けるんだという価値観と、世のため人のために仕事をしようという価値観を考えたとき、一概にどちらが良いとは言えない。後者が立派に聞こえるかもしれないが、それで会社が潰れたのでは元も子もない。どこかの総理大臣が「人生いろいろ、会社もいろいろ」と言ったことがあるが、ある意味、その通りだと思う。
 要は、会社の強味や弱みなどを認識した上で、皆が納得し、共感できる価値観を作って行くことが重要なのではないだろうか。

W杯は誰のもの?

2006-06-10 23:53:00 | お金の話
 サッカー、FIFA・ドイツW杯が始まる。優勝候補筆頭のブラジルと同じグループになった我がジーコ・ジャパン、他の2国も手強く、決勝トーナメントに進出できるか、その活躍に期待したい。

 さて、今日のテーマは、ワールド・カップはワールド・カップでもその経済効果について。公式マスコット、ゴレオ6世を販売するニキ社が倒産するなど、開幕直前に冴えないニュースがあったが、果たしてその効果は如何ほどであろう。

 まずは我が日本。電通の推計によると、ワールド・カップの直接的な消費押し上げ効果は2,241億円、波及効果全体では4,759億円規模とのことである。
 消費への効果が一番大きいのは、薄型テレビ、DVD録画機器、パソコン等購入費やCS/BS等加入料などデジタル家電関連で、約931億円の支出が見込まれる。これは良しとして、更に内訳を見ると、グッズ等購入費427億円、観戦・応援等ツアー代251億円とあり(この二つも納得)、あとは飲食費414億円というのが大きい。
 ん、ちょっと待って、別にW杯があってもなくても飲み食いするでしょ。確かに観戦イベントとかがあるものの、逆にサッカーを見るため外で飲まずに自宅に帰る人も多く、差し引きマイナスでは? 夜の飲み屋街が閑散としていてもW杯期間中の飲食費はアップするのだろうか。うーん、放映権やCM放映料を高くするため、電通が意図的に数字を高くしている気がしてならない。

 この疑問はヨーロッパの国を見て一層深まる。開催国ドイツは政府が30億ユーロの経済効果と言っている。日本円にすると4,300億円強。これは日本の波及効果全体の数字より小さい。世界各国から観戦客が来るにも拘わらずこの金額である。
 一方、サッカー発祥の国、イギリス。イギリスのW杯の経済効果は12.5億ポンド、2,600億円強である。これも日本の金額より小さい。
 データの取り方や経済規模の違いもあるので一概には言えないが、もしこの数字が正しければ、W杯は日本経済のためにあるといっても過言ではない?

 が、それは違う。一番恩恵を被っているのは日本ではなく、何を隠そうFIFAそのものである。テレビの放映権料だけでなんと千数百億円の収入。これに加え、15社のオフィシャル・スポンサーから千億円近く入る。1社あたり31百万ポンド、約65億円だ。日本企業では東芝と富士フィルムがスポンサーになっているが、この金額を払って元が取れるのか、他人事ながら心配してしまう。おまけに放映権料やスポンサー料は次回、南アフリカ大会に向け、更に上がるらしい。下手をすると有料放送でしかW杯が見られなくなるかもしれない。

 しかし、これだけのお金を集め、FIFAはいったい何に使っているのだろう。
 世界の子供たちが安心してサッカーのできる環境を作るため、グランドを整備する、ボールやシューズを寄付する、更には地雷廃絶に協力するなど、是非とも有意義にお金を使って欲しい。

ディズニーはお好き?

2006-06-09 23:54:00 | 芸術をひとかけら
 今日は101回目か、ん、101、『101匹わんちゃん』だ、と思った。
が、書けない。なんとなく知ってはいるが、あまり詳しくは知らない。ディズニーの話はこうしたパターンが多い。ピノキオ、ダンボ、バンビ等々、小さい頃に見たり聞いたりしたものの、それっきりご無沙汰だからだ。

 しかし、ここ十数年でディズニー映画の傾向は少し変わったと思う。アニメは子供の物といったイメージが薄れたのだろうか、観客として大人も意識したアニメが作られるようになっている。
 我が家では一時そんなディズニー・アニメがブームとなり、『アラジン』、『ライオン・キング』、『ノートルダムの鐘』、『ムーラン』など、たて続けに見たことがある。このブームの中での最高傑作は、何といっても『美女と野獣』である。

 『美女と野獣』の原作はフランスの18世紀の童話である。フランスの詩人、小説家そして映画監督として有名なジャン・コクトーが映画化したことから有名になった。
 ディズニーの『美女と野獣』は、原作にディズニー風の味付け、つまり夢と希望や愛が感じられるようなストーリーに変え、素晴らしい映画に仕上げている。なんとアニメでありながら、あの『羊たちの沈黙』とアカデミー最優秀作品賞を争ったというのだから驚きだ。

 何よりも歌が素晴らしい。タイトルの「Beauty and the Beast(美女と野獣)」は勿論、オープニングで主人公の性格や物語の背景などを説明する「Belle(朝の風景)」。前者は甘く、かつ切なく、一方、後者は軽快な歌で、これからどんな話が始まるのかとの期待感を持たせる歌だ。
 そして映画の一番の名曲は楽しく、とっても愉快な「Be Our Guest(ひとりぼっちの晩餐会)」である。野獣が王子様だったというのは皆さんご存知かと思うが、王子の召使達も魔法で姿を変えられていた。ろうそくだったり、ティーポットだったり、時計だったり、と。そんな召使達が久々のお客様、主人公のBelleを屋敷に迎え、嬉々として食事やもてなしの準備をしながら歌うのが、この「Be Our Guest」である。実写では無理だろうが、アニメの利点を最大限に活かし、ティーポットやろうそくが歌い踊る、大変ユーモラスな曲である。
 ディズニーの名曲といえば、『ピノキオ』の「When You Wish Upon a Star(星に願いを)」や『メリー・ポピンズ』の「Chim Chim Cher-ee(チム・チム・チェリー)」が思い浮かぶが、この「Be Our Guest」はこうした曲にまったく引けを取らない。曲の楽しさ、思い出すと思わず微笑んでしまう、という点ではこの曲が一番である。

 ミュージカルとして『美女と野獣』を見るもよし、愛の力、愛の起こす奇跡の物語として見るもよし。いずれにしろ、ちょっと元気をもらいたいとき、ロマンチックな心を取り戻したいときにお勧めの映画だ。

アジアの中の日本

2006-06-08 23:57:00 | 海外で今
 今日でちょうど100回目。我ながらよく続いたものだと感心する。原則、曜日によってテーマを分けて書いている(先月の終わりにちょっと乱れたが)。その中で書くのが難しいのが、火曜日の“環境を考える”と今日、木曜日の“海外で今”である。7つのテーマを決めた時は、新聞やネットを見てればテーマなんか簡単に見つかると安易に考えていた。が、しかし、環境と海外の時事問題は結構難しい。新聞などの受け売りなら簡単だろうが、自分なりに噛み砕いて、そして自分の意見も入れて、と思うと、途端に難しくなる。多分に自分の知識や経験の不足に由るところが大きいのだが、今更言っても後の祭りだ。
 というわけで今日のテーマ、“海外”、“今”、ともに当てはまらないかもしれないが、100回記念ということでご容赦願いたい。

 皆さんは日本がアジアの一員であると意識したことがあるだろうか。日本はアジアにある国だが、唯一の先進国、世界第2位の経済大国であり、他の国とはちょっと違うと思っていたり、単にアジアを直接投資や貿易の相手国としか見ていない人が多いのではないだろうか。かくいう僕も以前はそう思っていたが、ある出来事をきっかけに考えを改めた。

 僕はマレーシア人の学生と一緒にカレーを食べていた。その店のカレーはただでさえ辛いのに、彼は辛さが4倍か5倍の超激辛を顔色一つ変えずに食べている。信じられない。最初はそんな他愛のない話をしていたが、突然彼が言った。
 「以前、田中角栄が東南アジア諸国を周ったとき、何が起こったかを覚えているか?」
僕は答えに窮してしまった。それは10年くらい前、僕が小学生の時の話だ。彼は続けた。
 「タイでは反日デモが起こり、インドネシアでは大規模な反日暴動が起きた。」
そう言われると、日本のオーバー・プレゼンスに対し日本車が焼き討ちされる事件があったという話は聞いたことがある。彼は追い討ちを掛けるように、又、若干吐き捨てるかのように言う。
 「我々はあのとき何が起きたかを覚えている。だが、多くの日本人はそれを覚えていない。どうしてなんだ、我々も日本人も皆アジア人(Asian)じゃないか」
 彼の「日本人も Asian 」という一言がとても新鮮だった。日本人が意識するにしろしないにしろ、日本は同じアジアの一員だと、他のアジアの人達は考えているのだと、このとき初めて知った。

 さて、場面は変わり、時は現在。先般、福田康夫氏がアジア諸国との関係修復のため、新しい総合的な外交政策、いわば新・福田ドクトリンが必要との話をしたそうだ。
 福田ドクトリンというのは、今から30年近く前、東南アジア諸国を歴訪した福田赳夫首相(康夫氏の父)が、田中首相訪問時の反日暴動等を踏まえて発表した、わが国の東南アジア外交の3原則である。①軍事大国にならない、②心と心の触れ合う相互の信頼関係、③対等な協力者としての立場、の3つである。

 この3原則は各国から大変高い評価を受けたが、情けないことに、この30年間、わが国には福田ドクトリンに変わる、新しい東南アジア外交の原則は誕生しなかった。この原則不在が今の中国、韓国との軋轢に繋がっている一因かもしれない。
 次期総裁選の行方は未だ混沌としているが、次の首相にはアジアの中の日本、同じアジアの一員としての日本という視点を常に念頭に置くようお願いしたい。

日仏混血の旨さ ~ 森下・山利喜

2006-06-07 23:58:00 | おいしいもの食べ隊
 国際復興開発銀行に出向していた知り合いがいる。彼は南米の担当だった。そんな彼の持論、人間は混血すればするほど美しくなる。ベネズエラやコロンビアの女性は、それはそれは美しかったそうだ。事実、ミス・ユニバースの優勝者は南米の代表が多いと彼は言う。
 コロンブスによるアメリカ大陸発見後、南米では原住民、スペイン人はじめヨーロッパから来た白人、それに奴隷としてアフリカから連れて来られた黒人が暮らすようになり、長い年月を掛けて混血が進んでいる。僕は南米に行ったことがないし、彼の審美眼がどれほどのものかも知らないので、混血の美しさについては何とも言えない。
 が、料理の混血は旨い。山利喜の煮込みを食べると自信を持ってそう断言できる。

 森下の山利喜といえば下町の超人気居酒屋。夕方の5時開店だが、開店前から人が並んでいるそうだ。いったい、誰がこんな早い時間、明るいうちから飲んでるんだ!(羨ましい・・・・)。よって、下手な時間に行くと10人待ち、20人待ちは当たり前、といった混みようである。しかし、赤ワインで「煮込み玉子入り」を食べることを思えば、待つのも苦ではない。

 山利喜は大正15年創業の歴とした居酒屋である。店の佇まい、調度品などは、どこから見ても居酒屋、それも大衆酒場だ。が、料理は違う。日本とフランス、居酒屋とビストロの混血というべき料理である。
 我々が行くと必ず食べるのは、「煮込み玉子入り」と「ガーリックトースト」。これに、もう一つのここの名物である「やきとん」や「鶏レバーのテリーヌ」、刺身、野菜(和風もあれば洋風もある)などを食べる。飲み物はビールに始まり赤ワインで終わる。このメニューに赤ワイン。繰り返すが、ここは正真正銘居酒屋である。

 この秘密は現在のご主人、3代目がフランス料理の修業をしていたことにある。フレンチのオーナー・シェフを目指していた3代目は、2代目の体調がすぐれず若くして山利喜を継ぐことになった。そのため3代目は、かつての夢を追い求めているのか、単にフランス料理が好きなだけかわからないが、居酒屋には似合わない、ハイカラな料理を出すことにしたのである。
 ここの煮込みは、牛シロ、八丁みそ、ザラメ、各種ハーブ、それにポートワインで作っている。ワインを加える、それもただの赤ワインでなくポートワインを使うところがただ者ではない。香りが高く、大変味わい深い。

 居酒屋の進化した姿がここにある。その辺で見掛ける“洋風居酒屋”といった半端なものとは違う。通常休みは日曜・祝日だが、今月は12日と19日の月曜日も休みだ。休みに注意し、5時前から並ぶか、かなり待つ覚悟をするか、是非一度訪れて欲しい店の一つだ。

水俣病50年

2006-06-06 23:56:00 | 環境を考える
 先週、『平成18年版 環境白書』が出された。テーマは「人口減少と環境」、「環境問題の原点 水俣病の50年」の二つである。後者が選ばれたのは、今年で行政が水俣病を公式に確認してから50年になるからである。水俣病の発生、被害拡大の経緯、企業(チッソ)・県・国の対応、そして現在の状況などが記述されているようだ。
 
 ところで、皆さんは水俣病やチッソについて、どのくらい知識をお持ちだろうか。
 水俣病は公害病の代表として学校で習ったと思う。チッソ水俣工場からメチル水銀が正しく処理されないまま海へと流れ出てしまい魚や貝に蓄積され、それを食べた住民が水銀中毒に侵された、というのが水俣病である。
 公式に確認されたのは50年前の1956年5月。ところがチッソ、行政ともに工場排水と水俣病との因果関係を長く認めなかったことから被害が拡大したと言われる。チッソが水俣病の責任を認めたのが1973年の裁判であり、なんと発見の17年後である(勿論、この間、対策は採っていたようだが)。一方で国は水俣病の責任を認めていない。このため『環境白書』がどのような記述になっているのか興味がある。

 次にチッソの話。チッソは1906年創業の歴史のある化学会社である。当初は肥料がメインであり、その後は合成繊維、石油化学、ファインケミカルの分野にも進出している。紙おむつなど衛生材料等に使われる熱接着性複合繊維・ES繊維の開発や、世界でもトップ・クラスの液晶生産など、技術に定評のある中堅化学会社である。
 普通の会社は株主のために存在するが、チッソは違う。チッソは水俣病患者のために存在している。いや、存在させられている、と言うべきだろうか。
 チッソは2006年3月末で1,244億円の債務超過。到底普通の企業では存続し得ない。当然、株主への配当などない。国、熊本県、そして銀行がチッソを支えているのである。患者への補償を支払うためにチッソを存続させてきたのである。

 今のチッソのほとんどの社員は水俣病の発生に直接関わってはいない。50年前の水俣病発見時にはまだ生まれていなかった社員も多いだろう。にもかかわらずチッソの補償は未だに続いており、おそらくこれからも続く。社員は生まれながらにというか、入社とともに水俣病の責任を負っているのである。
 想像して欲しい。日本人は戦争の責任を果たしていない、戦争はあなた方の責任だ、と言われたら、あなたはどう思うだろう。チッソの社員は水俣病のことを知っていて入社したのだから仕方がないと言えば、そうかもしれない。しかし、自らの力の及ばないところで起きたことを非難されても如何ともし難いことに変わりはないと思う。

 この問題を一層複雑にしているのは、当初、地元で水俣病患者への差別が起きたことである。漁師など特定の人間に発生する奇病と見られたり、大企業、更には高度経済成長への反逆と見られたり、と。今の日本では考えられないが、それが当時の日本の現実だったのである。
 が、同じようなことが、今、中国で起きている。環境やそこに暮らす人間よりも、国家としての成長を優先しているかに見える中国。この水俣病の問題から学んで欲しい。公害に苦しむ人と比ぶべくもないが、公害を出した側の人間もやはり苦しんでいるのである。

ビールの街、ミュンヘン

2006-06-05 23:24:29 | もう一度行きたい
 今日はドイツW杯にちなみドイツの話である。札幌育ちの僕としては、ドイツといえばやっぱりミュンヘン。両者の共通点、第一にビールの本場であること、第二に1972年にオリンピックが開催されたこと(札幌:冬、ミュンヘン:夏)、である。オリンピックをきっかけに両市は姉妹都市になっている。
 もっとも最近ではGKカーンの所属するサッカー・チーム、バイエルン・ミュンヘンの方がビールやオリンピックより有名かもしれないが。

 ミュンヘンの思い出といえば、まずはビール。おそらく世界で最も有名なビア・ホール、ホーフ・ブロイハウスである。その規模というか、何百もの客が飲んで騒いでいる様に圧倒される。ジョッキは日本の大ジョッキより一回り大きい気がするが、皆、何杯も何杯も飲んでいる。また、そのジョッキを運ぶウェートレスが凄い。両手で大きなジョッキを10個以上持って運んでいる。勿論、体は運ぶビールの量に負けない立派な体格である。

 店内は長いテーブルの両側に椅子が並んでおり、他の客との相席になる。騒がしく、皆、友達といったムードだから、自然とお隣さんと仲良くなる。僕の隣は地元のおやじさんのグループと、シュットガルトから来た若いインテリ風の人だった。 ビールを飲み、ソーセージをつまみ、またビールを飲む。残念なことに地元のおやじさん達は英語ができない。辞書を片手に拙いドイツ語で話すが、なかなか話が続かない。嗅ぎタバコを勧められたが、ドイツ語で説明されても嗅ぎ方がよくわからない。次第に、賑やかな店内の中、ここだけ異次元というか、静かな空間になってしまった。
 一方、もう片方のインテリ青年、彼は英語を話す。彼も店に一人で来ていた。それに、どうも地元の労働者の雰囲気に慣れなかったのかもしれない。彼は僕に大変親切にしてくれた。ビールを一杯ご馳走してくれたし、つまみを頼んだりといろいろ世話を焼いてくれた。
 
 店の喧騒の中で、論理的で、規律を重んじるドイツ人の違った一面を見た気がした。群集心理なのか、仕事から開放された喜びなのか、ドイツ人らしくない盛り上がりだった。反面、これは恐ろしくもある。ヒトラーは民衆を扇動するのに、ここホーフ・ブロイハウスを使った。日常のしがらみを忘れ、人々の気持ちが高揚する場を上手く利用したのである。もう2度とビールを楽しむ目的以外で使われないよう祈りたい。

 さて、もう一つの思い出は美術館。ミュンヘンにはアルト・ピナコテークとノイエ・ピナコテークの二つの美術館がある。前者は古典が主で、後者は印象派以降の新しいものが主である。あまり有名でないので、さほど期待せずに入ったのだが、予想外に良い美術館だった。個人的にはモネ、ゴッホ、ゴーギャンなどがあるノイエの方が気に入った。さすがは歴史あるバイエルンの都、ミュンヘンである。現在でもBMWの本社があるし、裕福な町なのだろう。

 ミュンヘンで有名なイベントといえば、9月中旬から10月初めのオクトーバー・フェスト、世界最大のビールのイベントだ。この時期のミュンヘンはビールにはちょっと寒い気がするが、本場のイベントには何か魔法があるのかもしれない。その真偽を確かめるためにも、オクトーバー・フェストに合わせ、もう一度ミュンヘンを訪れて見たい。

ワンセグのある生活

2006-06-04 23:56:00 | 最近思うこと
 4月にワンセグ対応の携帯を買った。今まで使っていた携帯を不慮の事故(?)で失ってしまい、これは新しく出たワンセグを買えとの神のお告げだと思ったのである。
 と、妻に言ったら、あなたがまぬけなだけなのに何言ってるのよ、と叱られてしまった。要は、どこでもテレビが見られるというのに惹かれ、ワンセグが欲しかっただけである。そう、いくつになっても男は単純な生き物なのである。

 で、2ヶ月使った感想。これはもはや携帯ではない。電話やメールは勿論、カメラ、音楽、ゲームやインターネットにナビ、その上テレビまで楽しめるのである。携帯はここまで進化したのかと感動してしまった。
 僕は携帯を95年から使っている。当時の携帯は大きく、ごつかった。ポケットに入れるなどとんでもない、持ち運びにはカバンが必需品だった。ただその後の技術革新は凄まじく、小型軽量化が一気に進んだ。この小型軽量化が限界に近づいた頃から、メールやiモードなど多機能化が始まったように思う。もっとも僕は電話を掛けるだけで、他の機能はまったく使っていなかったのだが。

 さて、そんな僕はこの2ヶ月でワンセグを使いこなしているだろうか。僕的には結構使っているつもりだが、客観的にはほんの一部の機能しか使っていないと言わざるを得ない。実際のところ電話とメールが精々で(僕にとってメールは新たな経験だったのだが)、その他はほとんど使っていない。テレビは人を待っているときなど暇潰しに便利だが、それ以外のシチュエーションでわざわざ見るものではない。
 しまいには取説がどこかに行ってしまい、他の機能を研究する術すら失うという体たらく。やれやれ。これなら極端に機能を絞った小型軽量で(そう、ワンセグはテレビのせいか結構重い)、それで料金の安い携帯の方が良かったかな。ん、それって、もしやシニア向け携帯?

 この名前が良くないんだよね。機能がシンプルで使いやすいとか、字が大きくて見やすいとか、ただそれだけをアピールすれば良いのに、この後に続いて“シニア向け”とするから、若いけど機械の苦手な人や、パソコンがあるから携帯は電話だけでいいと思っている人、そしてまだまだ自分は若いと思っているシニアの人までが買うのを躊躇してしまうのだと思う。シニア向けに限定せず、シンプルな機能と洒落た(ポップだったり、クールだったり)デザインとを組み合わせた携帯を販売すればヒット間違いないと思うのだが、どうだろう。

村上ファンドにインサイダー疑惑

2006-06-03 23:51:00 | お金の話
 村上ファンドの村上代表がニッポン放送株取引を巡りインサイダー取引疑惑を受けている。東京地検はライブドアの宮内被告や熊谷被告から相当確度の高い情報を入手したのであろう。立件の難しいインサイダー取引であるにも拘わらず、かつその辺の対策には抜かりのない村上氏が相手であるにも拘わらず、地検は立件に自信を持っているようだ。

 もし村上氏がライブドアによるニッポン放送株大量取得を事前に知った上で同社株を購入したのであれば、法で整斉と裁いて欲しい。
 しかし、もしこれが、わが国の会社組織のあり方を変えよう、既成概念を打ち破ろうとする村上氏を潰してしまえといった“出る杭を打つ”的な措置であれば、即刻止めて欲しいと思う。

 村上氏については、物を言う株主としての積極的な評価と、仕手筋と何ら変わらないじゃないかというマイナス評価とが交錯している。僕は、彼のやり方は姑息な気がしないではないが、彼の日本を変えようという行動は評価できると考えている。初めに彼のファンドに資金を提供したのが、規制改革に熱心な宮内会長のオリックスであったことからも、彼の考え、目的はしっかりしたものだと推察される。
 少し穿った見方かもしれないが、本件は、構造改革を旗印とした小泉首相の退任に併せ、宮内会長など変革を進める人達を一気に叩こうという守旧派の動きの一つでありはしないか。

 だが阪神電鉄を巡る一連の動きを見ると、村上ファンドに変化の兆しが見られるのも事実だ。以前は株主価値の最大化が目的であり経営権を取る事はしないと言っていたのに、阪神では経営権の取得を狙っている。短期的な利益獲得が狙いであった村上ファンドが自らの改革による長期的な利益極大化を目指すようになったのだろうか。
 これには阪神経営陣が無策で、あれよあれよという間に村上ファンドによる株式取得が進んでしまったという想定外の理由が大きいのかもしれない。あるいは、成功を重ねてきた村上ファンドに対して投資家からの要求が更にエスカレートし、氏が大きな賭けに出た結果なのかもしれない。

 こうしたファンドの変化と今回のインサイダー疑惑に何か関係はあるのだろうか。今後の捜査の推移を見守りたい。

芸術の見方 ~ anything goes

2006-06-02 23:56:00 | 芸術をひとかけら
 巷で『ダ・ヴィンチ・コード』がブームになっている。残念ながら僕は本を読んだことも映画を見たこともない。ダ・ヴィンチの作品そのものはいくつか見ている。『モナリザ』も『最後の晩餐』も見た。正直言って『モナリザ』は何故あれだけ騒がれる絵なのか、よくわからなかった。『モナリザ』の前はちょっとした人だかりだったが、思ったより小さいし、劣化のためか全体に暗い印象を受けた。
 一方『最後の晩餐』は、テーマは勿論、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会という絵のある場所、それに人数や時間を制限した絵の見せ方などから、とても厳かな感じがし、こちらも構えて見た、拝見させて頂いたことを覚えている。最近修復されたため色は鮮やかだった。

 ダ・ヴィンチが自らの作品に何かのメッセージを盛り込んでいたという話は『ダ・ヴィンチ・コード』以前からよく話題になっている。ルネッサンスの天才、美術だけでなく建築や数学など科学にも長けたダ・ヴィンチが後世に何かを訴えているのでは、というロマンも多分にあるのだろう。多くの人が言っているということは、まったく根拠のない話ではないのかもしれない。

 ところで、ダ・ヴィンチに限らず、絵画や音楽、更には文学作品なども含め、我々は芸術作品に関し、作者の意図をすべて理解する必要があるのだろうか。
 そんなことはどだい無理な話だし、そもそも必要ないと僕は思う。言ってみれば、あらゆる芸術作品は世に出された後、一人歩きするのであり、その時点で作者の手から離れ、それを見る人、聞く人、あるいは読む人の解釈にまかされるのだと思う。極論すれば、作者の意図とまったく逆の解釈をしようとも許される。などと言うと学校の先生に怒られそうだが、芸術とはそういうものでないだろうか。
 勿論、すべてを無視し自分勝手に解釈すれば良いと言うのではない。作者や時代背景、その芸術におけるルール・決め事などを理解することは大事だと思う。しかし、時代や文化など当時の社会的文脈や、作者の思想、信条などを超えたところに、芸術は存在するのではないだろうか。芸術の解釈、作者の思いをどのように受け止めるかは鑑賞者に委ねられているのである。

 『ダ・ヴィンチ・コード』は大変優れたミステリーであろう。ここで提起されたダ・ヴィンチのメッセージはキリスト教を冒涜すると物議を醸しているが、その真偽は別として、解釈、評価は本を読んだ人、映画を見た人が考えれば良い。
 これがイスラム教に係わる問題であればただでは済まないだろうが、カトリックを始めとするキリスト教は比較的冷静に対応しているようだ。これが寛容の精神なのだろうか。