日本テレビの『行列のできる法律相談所』という番組で、今“カンボジア学校建設プロジェクト”が進められている。趣旨に賛同した芸能人100人に絵を描いてもらいオークションを実施、その売上げで学校に行きたくても行けない、スレイナちゃんという少女の住む村に学校を建設しよう、というものである。
本当であれば、スレイナちゃんの村に学校ができればそれで終わり、というのではなく、他のカンボジアの村にも、そして同じように学校を作る資金のない他の国々にも、こうした運動が広まると良い。が、取り敢えずは、スレイナちゃんの村に学校ができるだけでも良しとすべきであろうか。
ところで、カンボジアというと何を思い出すだろうか。まず、アンコールワット。で、次は? 長い内戦と未だに続く地雷の被害。そしてポル・ポトとクメール・ルージュによる虐殺。映画『キリング・フィールド』を見た人も多いと思う。
7年前、アンコールワットに行った。91年にカンボジア和平が実現し、20年に及ぶ内戦に漸く終止符が打たれた。治安の安定とともに、アンコールワットやアンコールトムへの観光客が増えていた。そんな頃である。
シェムリアップという町に泊まったが、当時は超高級ホテルが1軒(ラッフルズ系のホテル・ダンコール)と、そこそこのホテル(日本人観光客が泊まれる)が十数軒といった感じだったと思う。今では高級ホテルが随分増えているようだ。
アンコールワットの話は別の機会に書くとし、今日はカンボジアで印象に残っていることを二つ書くことにする。
一つは子供達の目が輝いていたこと。国は貧しいけれども子供達は本当に生き生きとしていた。ポル・ポト後に生まれ、当時の苦しみ、悲惨さを知らないからかもしれないが、その屈託のない笑顔は明日への希望に満ち溢れている気がした。
一方、最近の日本の子供達はどこか覇気がない感じがして仕方がない。豊かな社会に育ち、また地球温暖化や年金の破綻など将来に不安を感じ、単純に、明日は今日よりも良い日、親の世代よりも自分達は良い暮らしが出来る、と思えないためなのだろうか。
二つめは地雷。シェムリアップはアンコールワットへの観光の拠点であるが、そのシェムリアップでさえ、道路から外れるな、危ないから道路の端は歩くな、と教えられた。どこに地雷があるかわからないのである。和平後10年経っても、地雷の処理は終わっていなかった。日本でのん気に暮らしている僕にとって、こんな街中で地雷の存在自体が驚きであったし、又、哀しくもあった。
地雷は主にポル・ポト派が埋めたものとされる。カンボジアは19世紀にフランスの植民地となり、その後アメリカやソ連・中国、更には隣国ベトナムの思惑が絡み、時代の流れに翻弄されてきた。1970年に親米のロン・ノル政権が誕生したが、アメリカのベトナム撤退により後ろ盾を失い、内戦が激化。その間の75年~79年、ポル・ポトのクメール・ルージュが政権を握り、百数十万人に及ぶ虐殺が行われたのである。おおよそ国民の5人に1人が殺されたとも言われ、その比率はナチのホロコーストをも上回る。
いったいポル・ポトとは何者か。単なる臆病な共産主義者だったのかもしれないし、共産主義の理想に燃えながらも、それを実現する術を知らなかった、ただの愚か者かもしれない。いずれにしろ、彼自身は極悪非道の殺人狂ではなかったようである。むしろ我々とさほど変わらない、ごく普通の人間だったのではないかと思う。
問題は彼の恐れや狂気に従い、その狂気を拡大した人々の多かったことであり、そんな人間の弱さや、そうした事態を引き起こした組織あるいは社会に内在する欠陥こそ、我々は恐れるべきである。それを肝に銘じなくてはならない。
本当であれば、スレイナちゃんの村に学校ができればそれで終わり、というのではなく、他のカンボジアの村にも、そして同じように学校を作る資金のない他の国々にも、こうした運動が広まると良い。が、取り敢えずは、スレイナちゃんの村に学校ができるだけでも良しとすべきであろうか。
ところで、カンボジアというと何を思い出すだろうか。まず、アンコールワット。で、次は? 長い内戦と未だに続く地雷の被害。そしてポル・ポトとクメール・ルージュによる虐殺。映画『キリング・フィールド』を見た人も多いと思う。
7年前、アンコールワットに行った。91年にカンボジア和平が実現し、20年に及ぶ内戦に漸く終止符が打たれた。治安の安定とともに、アンコールワットやアンコールトムへの観光客が増えていた。そんな頃である。
シェムリアップという町に泊まったが、当時は超高級ホテルが1軒(ラッフルズ系のホテル・ダンコール)と、そこそこのホテル(日本人観光客が泊まれる)が十数軒といった感じだったと思う。今では高級ホテルが随分増えているようだ。
アンコールワットの話は別の機会に書くとし、今日はカンボジアで印象に残っていることを二つ書くことにする。
一つは子供達の目が輝いていたこと。国は貧しいけれども子供達は本当に生き生きとしていた。ポル・ポト後に生まれ、当時の苦しみ、悲惨さを知らないからかもしれないが、その屈託のない笑顔は明日への希望に満ち溢れている気がした。
一方、最近の日本の子供達はどこか覇気がない感じがして仕方がない。豊かな社会に育ち、また地球温暖化や年金の破綻など将来に不安を感じ、単純に、明日は今日よりも良い日、親の世代よりも自分達は良い暮らしが出来る、と思えないためなのだろうか。
二つめは地雷。シェムリアップはアンコールワットへの観光の拠点であるが、そのシェムリアップでさえ、道路から外れるな、危ないから道路の端は歩くな、と教えられた。どこに地雷があるかわからないのである。和平後10年経っても、地雷の処理は終わっていなかった。日本でのん気に暮らしている僕にとって、こんな街中で地雷の存在自体が驚きであったし、又、哀しくもあった。
地雷は主にポル・ポト派が埋めたものとされる。カンボジアは19世紀にフランスの植民地となり、その後アメリカやソ連・中国、更には隣国ベトナムの思惑が絡み、時代の流れに翻弄されてきた。1970年に親米のロン・ノル政権が誕生したが、アメリカのベトナム撤退により後ろ盾を失い、内戦が激化。その間の75年~79年、ポル・ポトのクメール・ルージュが政権を握り、百数十万人に及ぶ虐殺が行われたのである。おおよそ国民の5人に1人が殺されたとも言われ、その比率はナチのホロコーストをも上回る。
いったいポル・ポトとは何者か。単なる臆病な共産主義者だったのかもしれないし、共産主義の理想に燃えながらも、それを実現する術を知らなかった、ただの愚か者かもしれない。いずれにしろ、彼自身は極悪非道の殺人狂ではなかったようである。むしろ我々とさほど変わらない、ごく普通の人間だったのではないかと思う。
問題は彼の恐れや狂気に従い、その狂気を拡大した人々の多かったことであり、そんな人間の弱さや、そうした事態を引き起こした組織あるいは社会に内在する欠陥こそ、我々は恐れるべきである。それを肝に銘じなくてはならない。