縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

柳川で『うなぎのせいろ蒸し』を食す

2013-02-24 22:36:59 | おいしいもの食べ隊
 鰻といえば、名古屋の『ひつまぶし』、浜松の『お櫃鰻茶漬け』、宮崎で食べた鰻の刺身等を紹介してきたが、今日は柳川の『うなぎのせいろ蒸し』について書きたい。

 柳川は福岡から車で1時間。北原白秋の生誕の地であり、立花藩10万9000石の城下町である。町のいたるところに網目状のお堀が走り、どんこ舟でのんびりお堀を巡る「川下り」の有名な町である。また、古くから鰻が有名で、そこから生まれたのがこの『せいろ蒸し』である。

 『うなぎのせいろ蒸し』は、一言でいうと、関東と関西の好いとこ取りをした料理といえよう。つまり、関東の柔らかな芳醇さと甘み、それに関西の弾力とコクの両方を併せ持っているのである。その理由は作り方にある。
 ご存じのように、関東では鰻を背開きにし、素焼きした後で蒸し、その後タレを付けて焼く。一方、関西は鰻を腹開きにし、そのままタレを付けて焼く。そう、鰻を蒸さないのである。そのため関東の鰻は柔らかくふっくらしているが、関西の鰻は若干固い。関東よりも鰻の脂が残っており、より川魚感というか、野性味のある味がする。ちょっと古いが、「ワイルドだぜぇ」的な鰻である。

 『せいろ蒸し』は、まず鰻を素焼きにし、すぐタレを付けて焼く。ここまでは関西風。が、その後で蒸す。それも手が込んでいて、まずタレをまぶしたご飯だけを蒸し、ご飯にタレの味をなじませる。そして、そのご飯に焼いた鰻をのせ、再度蒸すのである。鰻とご飯とタレが三位一体となって、得も言われぬハーモニーが生みだされる。最後に錦糸卵が彩りに添えられる。
 鰻は、タレを付けて焼かれた後で蒸されるため、関東ほど柔らかくないし、関西ほど固くない。程よい弾力である。また蒸す前に焼くことで鰻のうまみの落ちも少ない。更に有難いことに、『せいろ蒸し』は全体を蒸しているため最後まで熱々のまま食べられる。ご飯にも味がしみており、それだけでも十分旨い。
 
 僕らは柳川で『本吉屋』というお店に入った。天和元年(1681年)に『うなぎのせいろ蒸し』を考案したお店だという。なんと今年で創業332年。当時は天然であった鰻が今は養殖になっているが、おそらくそれ以外は作り方もタレもほとんど変わっていないであろう。悠久の歴史に思いを馳せつつ、僕らはせいろ蒸しを堪能した。

 ところで、僕らは柳川に1泊し、夜『本吉屋』に行った。土日は予約を取らないとのことであったが、7時でもすぐに入れた。が、土日のお昼は行列必至の店らしい。なにせ福岡から車で1時間、立派な日帰り圏内である。観光客は多いが、泊まり客は少ないようだ。
 しかし、僕は柳川に泊まることをお勧めしたい。ゆっくりと『せいろ蒸し』を堪能できるし、白焼きや唐揚げを肴に思う存分お酒が飲める。特に冬がいい。川下りの舟にはこたつがのせられ、お酒を飲みながらのお堀巡りはなかなか風情がある。そして、なにより冬は星がきれいだ。
 『本吉屋』から宿への帰り、夜空の星が本当にきれいだった。東京にいると夜空に星のあることすら忘れてしまうが、ここはまったく違う。伝統の『せいろ蒸し』の味をずっと残して行って欲しいが、この美しい星空も後世に残してあげられればと思う。

 お腹も心も、感動で満たされた柳川の夜だった。

クリムト『接吻』

2013-02-15 23:56:09 | 芸術をひとかけら
 昨年、ウィーンでクリムトの『接吻』を見た。クリムトの代表作であるこの絵は、ベルヴェデーレ上宮にある。ここは世界最大のクリムトのコレクションを誇る美術館である。
 クリムトというと女性ばかり描いているイメージがあるが、『接吻』は男女がキスをする姿が描かれている。男はクリムト自身、女性は彼の生涯の恋人であったエミーリエ・フレーゲがモデルと言われる。
 ふんだんに金箔が使用されたきらびやかな雰囲気の中、まさに口づけを交わそうとしている男と女。女性は恍惚の表情を浮かべ、男性に包まれ、そして二人は一つになっている。が、二人が立っているのは崖の上。愛のもろさやはかなさを現しているのだろう。

 もう随分昔になるが、この絵を、といってもポスターであるが、女性に贈ったことがある。別に色恋の話ではない。当時の僕の上司が、いつも頑張ってくれている子会社の女性に、誕生日プレゼントに絵を贈ろうと言いだしたのである。上司は、彼が1万円出すから残りを僕が出し、気の利いた絵を買うようにと言った。
 僕は困ってしまった。まず金額。二人合わせて精々2万円では、なかなか気の利いた絵は買えない。版画か、複製、あるいはポスターがいいところだろう。次に彼女の趣味がわからない。彼女は40代後半で子供が二人。何年か前に離婚したと聞いている。一方、当時の僕はまだ30前の独身。正直、おばさん(失礼!)の趣味はわからない。

 が、突然、僕は閃いた。
 「そうだ、クリムトにしよう。『接吻』がいい。ポスターなら値段も大丈夫だ。」

 なぜクリムトか?それは、彼女がよく大きな金のネックレスをしていたからであった。彼女が古代エジプト風のジャラジャラ系のネックレスをしているのを何度も見たことがある。黄金、幾何学模様、よし、きっと彼女はクリムトが好きに違いない。というわけで、僕は三越にポスターを買いに走った。
 案の定、彼女はクリムトが好きだった。特に『接吻』は大のお気に入りだと言う。僕はほっとした。

 ところで、昨年はクリムトの生誕150周年でベルヴェデーレではクリムトの特別展が開催されていた。そこでクリムトの説明を見て僕は驚いてしまった。なんと彼には14人もの子供がいたという。因みに彼は生涯独身。つまり、皆、私生児なのである。母親が何人かは書いていなかったが、クリムトがシングルマザーを何人も作ったことは間違いない。
 これを知って、「あのとき、あの絵を選んだのはまずかったかな。」と思った。そもそも、離婚した女性に男女のキス・シーンはどうかと思うし、ましてや女性の敵といえる、ふしだらな男の描いた絵である。彼女がこの事実を知らないと良いが。

 しかし、絵も私生活も、この現実離れしたところがクリムトの魅力の一つなのだろう。真面目で小心者の芸術家などつまらないと思う。

たかが外国語、されど外国語

2013-02-07 23:37:08 | 最近思うこと
 以前、米国駐在から戻って来た人から聞いたジョーク。
  「2ヶ国語を話せる人をなんて言う?」「バイリンガル!」
  「3ヶ国語だと?」「トリリンガル?」
  「OK。じゃあ、1ヶ国語しか話せないのは?」「モノリンガル??」
  「いいや、それはアメリカンさ。」

 これを聞いたのは80年代の半ば。当時、アメリカは世界の中心であった。世界中の人がこぞって英語を勉強するから、アメリカ人が外国語を勉強する必要はない。アメリカ人は英語だけ話せば十分なのである。これは一種驕りのようでもあるが、反面事実でもあった。
 しかし、40年近く経った今、アメリカにもはやこのジョークは通用しない。

 先日、アメリカに行った。フロリダで6日間過ごした。アメリカで一番ヒスパニックが多く住むと言われるだけあって、街を歩いているとスペイン語がよく聞こえてくる。ホテルでタクシーをお願いしたところ、ずっと英語を話していたフロントの女性が、電話でいきなり“Hola!”とスペイン語を話し始めた。で、終わった途端、今度は僕に、タクシーはすぐ来ますと英語で応えてくれた。見事である。あたかも英語とスペイン語が公用語のような感じであった。
 が、これはフロリダに限ったことではない。フロリダからボストン経由で帰国したが、空港の係員は強烈なスペイン語なまりの英語を話していた。巻き舌というか、どこか「べらんめえ調」の英語である。

 移民が自国語と英語を話すだけで生粋のアメリカ人は英語しか話せない、やはりアメリカ人は外国語が苦手だ、と言う人がいるかもしれない。
 しかし、アメリカは元々移民の国である。そして、今やヒスパニックの人口は5,000万人を突破し、全人口の16%を占めるまでになっている。それだけ英語以外の言葉を話す人が増えているわけだし、恋人や友人がヒスパニックという人も多いはずだ。社会全体としてスペイン語、つまり外国語に触れる機会が増えているのである。実際、あの華麗なるブッシュ一族のジェブ・ブッシュ氏(ブッシュ元大統領の息子で、ブッシュ前大統領の弟)の妻はメキシコ系で、彼はスペイン語に堪能とのことである。
 アメリカでは確実にバイリンガル人口が増えているに違いない。

 さて、翻って日本はどうだろうか。
 実は新年早々中国大使館に行く機会があった。パスポートの更新、結婚・離婚等の手続き、各種証明等の事務を行う領事部は、中国人でごった返していた。聞こえてくるのは中国語ばかり。とても日本とは思えない。
 我が国に暮らす外国人は207万人。大まかに60人に1人が外国人という計算になる。国別では中国人が67万人でトップ。尖閣問題以降中国からの観光客は減ったが、一時は銀座を歩けば中国人に当たるといった観すらあった。
 しかし、周りを見ると、中国語に堪能な日本人は極めて少ない。なぜなら日本に来る中国人はたいてい日本語を話すからである。必要は発明の母ではないが、日本にいると中国語を話す必要がないから、日本人は中国語を話さないのである。
 いや、これは何も中国語に限った話ではない。中学、高校、さらには大学と、6年なり10年なり勉強する英語にしても同じだ。日本にいる限り、英語を使わざるを得ない場面に遭遇することは少ない。これでは外国語は上達しない。残念ながら、冒頭のジョーク、1ヶ国語しか話せないのは「日本人!」が正解かもしれない。

非常口座席における責任あるいは義務

2013-02-03 00:06:00 | 最近思うこと
 年末年始に今話題のボーイング787に乗った。JALで成田-ボストンを往復し、1月5日、日本に帰って来たのである。そして、まさにその2日後、ボストンのローガン国際空港でJAL機の発火事故が起きた。自分たちの乗っていたときに出火する可能性や、まかり間違えばANA機のように飛行中に出火する可能性もあったわけだし、まったく空恐ろしい話である。

 ところで、今回のボストン便は、行きも帰りも非常口座席に座っていた。非常口座席は、前が空いていて足が伸ばせるし、気兼ねなくトイレに行ったり、立ち上がって運動したりできるから、好きでよく座っている。
 日本の航空会社で非常口座席に座った場合、出発前に「こちらの確認をお願いします。」と言われ、緊急脱出時の援助を依頼する旨の書面を渡される。あとは特段何もない。お互い、事故が起きることなど想定していないのか、お手軽である。
 しかし、今回ANA機が高松空港に緊急着陸した際、初めてスライドシューターで脱出する光景を見た。やはり非常口座席に座るには万一に備えた心構えが必要なのであろう。もっとも、たまたま機内に居合わせたカメラマンの撮った映像を見ると、皆落ち着いていて普段の降機時と変わらない様子ではあったが。

 実は、ボストンからマイアミに飛ぶ飛行機でも非常口座席に座った。アメリカン航空の小さい飛行機である。出発前にフライト・アテンダントが席にやって来て、「非常口座席だけれど大丈夫か?」と聞いてきた。あまり深く考えず「大丈夫。よく非常口座席には座っているよ。」と応えた。彼女は「OK。後でドアの開け方を説明するわ。」と言って去って行った。
 ドアの開け方? もしかすると、とんでもないことを引き受けたのかも知れない。確かに飛行機はほぼ満席であったが、通路を挟んだ逆側の非常口座席は2席とも空いていた。一抹の不安が・・・・。
 暫くして戻って来た彼女は、まず左上にあるカバーを開けてストッパーを外し、下のハンドルを下げれば非常口ドアが開くと教えてくれた。僕は「わかった。」と応えたものの、実のところ、このドアを開けることがないよう祈るしかなかった。

 日本に帰って来て、JALのホームページで非常口座席の注意事項について調べてみた。初めに機内で見せられる6項目の注意事項が書いてあり、その下に「よくあるご質問」とある。初めに「緊急脱出の際、乗務員は、どのような指示を行うのですか?」との質問。
 回答の冒頭、「(1) 客室乗務員が非常口を完全に解放するまでの間、他のお客様を制止すること」とある。えっ、制止? ちょっと待って。日本人相手なら制止できるかもしれないが、アメリカ人相手に制止は無理だ。そもそも命の掛かった極限状態において英語でコミュニケーション取れるか自信がないし、それ以上にアメフト選手のような巨大なアメリカ人が突進してきたら僕などひとたまりもない。それこそ脱出はおろか、突き飛ばされて命絶えてしまうかもしれない。

 漸く僕にもマイアミ行きの飛行機で非常口座席の空いていた理由がわかった。「知らぬが仏」とはこのことか。



常盤新平氏に捧ぐ

2013-02-02 00:08:54 | 芸術をひとかけら
 1月22日(奇しくも僕の誕生日であるが)、翻訳家で、直木賞作家でもある常盤新平氏が肺炎で亡くなられた。81歳だった。

 “The New Yorker” は、彼がこよなく愛した雑誌である。以前、“『夏服を着た女たち』の謎(2006.8.13)”で書いたが、この雑誌や、そこに掲載されていた男女の機微や人生の悲哀を描く都会小説を日本に広めた、浸透させたのは、氏の力が大変大きい。“The New Yorker”といえば常盤新平であり、同誌を代表する作家・アーウィン・ショーといえば常盤新平なのである。

 1986年、氏は『遠いアメリカ』で直木賞を受賞された。僕は、あの『夏服を着た女たち』を訳した常盤新平の本だったので、早速買うことにした。アメリカに憧れ、ペイパーバックを読みあさりながら、不安と希望を感じつつ翻訳の勉強をする若者の話である。氏自らの青春時代を描いた作品であろう。こんな自分に何ができるのだろうと悩みながらも、自分もいつかは・・・と夢を忘れない主人公に共感したことを覚えている。そう、当時は僕も若かったのである。カバーは相当色褪せてしまったが、今でもその本を持っている。

 『遠いアメリカ』が書かれたのは30年近く前、そこで描かれていた時代は1960年前後、つまり50年以上前、さらに『夏服を着た女たち』に至っては、1940年前後から50年代に書かれた短編が収められた本である。古典とまではいかないが、古いことに違いはない。
 氏の訃報に接し、改めてこの2冊をざっと読み返してみた。が、どうしてどうして、どちらも古さなど微塵も感じさせない。特に『夏服を着た女たち』は舞台がアメリカということもあって、21世紀の日本で読んでも何の違和感もない。

 もっとも、これは単に人間のやること、考えることが、いつの時代になっても変わらないせいかもしれない。男と女は恋をする。そして駆け引きもする。人生に成功する人間もいれば、失敗する人間もいる。世渡りの上手い人間もいれば、不器用な人間もいる。遠く万葉の昔から、あるいは卑弥呼の時代から、人は本質的なところではさほど変わっていないと思う。だからこそ古典は読み継がれるのであろう。
 そして『遠いアメリカ』も、誰もが経験した、不安と夢が錯綜する青春時代を描いた作品として、人々の記憶に残って行くのだと思う。常盤新平氏のご冥福をお祈りする。