縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

「入れない、捨てない、拡げない」

2006-08-29 23:57:00 | おいしいもの食べ隊
っていう今日のタイトル、何の話かご存知だろうか。非核三原則? いいえ、あれは「持たず、作らず、持ち込ませず」。では、いったい何か? これは「外来生物被害予防三原則」というものである。

 先日の『動物奇想天外!』で石垣島でグリーンイグアナを捕獲する話を見た。ペットとして飼っていたイグアナが大きくなって飼いきれなくなり、それが捨てられ、野生化したものである。亜熱帯の沖縄とはいえ生息は困難と考えられていたが、どうも繁殖もしているらしい。一見、イグアナは人間に害のないように見えるが、イグアナそのものに加え、体内に棲むバクテリアなども含め、生態系、更には人間に対する影響など、計り知れないものがある。まったく、恐ろしい話である。
 最近、似たような話をよく聞く。農作物を荒らすアライグマ、獰猛なワニガメが不忍池で産卵、そして驚異的な繁殖力で拡がるアルゼンチンアリなど。アルゼンチンアリは何かに紛れて日本にやって来たのだろうが、それ以外の多くはいずれもペットとして飼われていた動物が手に負えなくなって捨てられたものである。

 こうした動物、更には植物等の被害を未然に防ごうと作られたのが「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」、いわゆる「外来生物法」である。特定外来生物による生態系、人の生命・身体、農林水産業への被害を防止し、生物の多様性の確保、人の生命・身体の保護、農林水産業の健全な発展に寄与することを通じて、国民生活の安定向上に資することを目的としている。

 さて、本件に関し、僕にとっての最も身近な問題、切実な問題はというと、モズクガニ、そう上海蟹である。(なんて不謹慎な、と怒られそうだが、食べ物のブログなのでお許し願いたい。)
 今年2月、上海蟹も外来生物に指定された。上海蟹の繁殖力は強く、かつ共食いをするため、わが国固有のモズクガニを駆逐する恐れが高いためだ。もっとも、せっかくの上海蟹を捨てる人はいないと思うのだが。中国から船などで意図せず運ばれてきたものが繁殖するのを防ぐのは必要だが、食用のために輸入されたものまで厳しく規制することはないのではないか。正規の手続きが面倒になると、価格が上がったり、ヤミで隠れて輸入する者が出て来ると思う。その方が却って危険だ。

 因みに、現在の法律では「特定外来生物飼養等許可」を取ると、生きたまま上海蟹の輸入や卸売りができる。食品衛生法第52条飲食店営業許可を持っている飲食店が、上海蟹を調理して出す分には、その許可も不要だ。ただ一般消費者の手に生きたまま渡すことはできないため、小売店が生きた上海蟹を販売することはできなくなった。ということは何が起きるか。
 問題その1、我々一般人は、スーパーは勿論、築地など市場に行っても生きた上海蟹を買うことができない、つまり高いお金を払って飲食店で食べるしかない。(注:上海蟹は生きたまま料理をしないとおいしくないので)
 問題その2、直接卸しから仕入れている飲食店でしか上海蟹を食べることができない。これまた値段の高い恐れ。
 一方で新たなビジネスチャンス(?)。卸業者や惣菜業者・大手スーパーなどが自ら、酔っ払い蟹など上海蟹を料理して売り出す?

 以上、秋を間近に控えた、食いしん坊のたわごとである。

中国の"ヨーロッパ"

2006-08-27 23:43:04 | もう一度行きたい
 中国でヨーロッパを感じるところ、それは香港であったり、上海のバンドであったり、青島ビールの青島などであろう。だが、こうした都市とヨーロッパの接点は以外に新しい。19世紀前半のアヘン戦争以降のことである。日本でいえば、江戸時代に開港された函館、横浜、神戸のようなものである。が、もっと歴史の古い町がある。それはマカオだ。ポルトガルがマカオに居住権を獲得したのは1557年、アジア貿易、そしてキリスト教布教の拠点としてだった。

 そのせいか、マカオにはヨーロッパの、ポルトガルの名残りが色濃く残っている。教会や砦などの建物、石畳、それに食文化。中国人は概して西洋料理をあまり食べないが、マカオの人はポルトガル料理や、それをベースにしたマカオ料理を当たり前のように食べている。日本の大衆食堂のようなマカオ料理のレストランで、半袖短パン(と言うと聞こえは良いが、実際は下着のような恰好)のおやじが、赤ワインをガブガブ飲みながら肉料理を食べていたのには本当に驚いた。
 マカオ料理とポルトガルワインの話は改めて“おいしいもの食べ隊”で書くことにするが、ともに素晴らしかったことだけは伝えておきたい。

 日本からマカオへの直行便はない。よって、マカオには香港からフェリーで行くか、珠海から車で行くのが普通だ。フェリーは香港島からも九龍からも出ているし、また香港空港からも出ている。空港からはトランジットの要領で直接マカオに行くことができ、大変便利である。
 ただ、注意すべきは出航時間。出航時間の30分前(だったと思う)に乗船カウンターに行かないといけない。カウンターの所からすぐフェリーに乗れるのかと思い、ぎりぎりにカウンターに行ったところ、もう遅いと言われた。フェリーにはそこからバスで乗り場に向かうとのこと。結局、2時間待つ羽目になってしまった。確かにボードには30分前に来いと小さく書いてあった・・・・。

 さて、マカオといえば、世界遺産に指定された異国情緒たっぷりの街並み、マカオ料理、それにカジノが有名(最近は北朝鮮のマネーロンダリングの拠点としても注目されているが)。荘厳なセント・ポール大聖堂やセナド広場は勿論のこと、ただぶらぶら歩くだけでも十分楽しめる。歩くだけという意味ではカジノも素通りだった。僕達二人は両方とも小心者で、負けて身ぐるみ剥がれたらどうしようなどと、あらぬ心配をしてしまい、カジノを楽しむ心の余裕、度胸というものがない。

 石原都知事は東京にカジノをと言っているが、このところ とんと音沙汰がない。本家本元のラスベガスをも凌ぐ勢いで成長するマカオを前に諦めたのか、それとも単にオリンピックに関心が集中しているのか。都はカジノは文化、総合的なエンターテイメントだと言うが、良い面ばかりではない。清濁併せ呑む覚悟があるのだろうか。

コアラの陰謀? ~ FSCと植林

2006-08-26 23:59:00 | 環境を考える
「うちの会社、FSCの認証機関もやっているんです。」、と知人。
「?」、と怪訝そうな顔の僕。
「(なーんだ、おまえ知らないのか、と思いつつも顔には出さず)FSCってドイツに本部のある世界的な組織で、紙製品などが違法伐採した木材などを原料に使っていないことを示すお墨付き、マークなんです。」、と説明する彼。

 環境問題についてブログを書いているのに、恥ずかしながら、FSCについては知らなかった。帰って、早速インターネットで検索してみた。
 「FSC (Forest Stewardship Council、森林管理協議会)は、世界中全ての森林を対象とし、環境保全の点から見て適切で、社会的な利益にかない、経済的にも継続可能な森林管理を推進することを目的とし、一定の評価基準により適切な管理がなされている森林を認証する。また、このような森林から産出された木材・木材製品に独自のロゴマークを付け、認証を受けた森林から来ていることを保証する。」とあった。
 現在の認証の状況は、全世界で72カ国、839カ所、認証面積76,538,363ha、内日本は25カ所、認証面積277,436haだそうである。森林の認証とともに、COC認証という紙製品に対する認証、FSCのロゴマークもある。これは、その製品の原材料である木材やチップが、森林から生産・加工・流通過程を経て最終消費者の手元に届くすべての段階で、確かにFSC認証材料を使っていると証明するものである。日本では336件、今話題の紙パルプ・メーカーや、印刷、住宅関連の企業が取得している。

 わが国は世界最大の木材輸入国である。木材自給率は2割弱に過ぎない。また、紙や段ボール等の原材料を見ると、6割は古紙(これは世界的にも極めて高い水準であり、リサイクルの優等生である)、3割は輸入(木材チップや製品パルプの輸入)、1割が国産であるが、元々の古紙の由来というか原料まで考えれば、8割強が輸入、裏を返せば自給率は同じく2割弱である。わが国は木材輸入大国としての責任において、FSCの活動に真摯に取り組むことが世界から求められている。

 こうした中、紙パ・メーカーは単にチップを輸入するだけでなく、海外で自ら植林することにも力を入れている。既に海外9カ国で39万haの植林を行ったという。FSCの認証を受けた植林も多い。いずれ伐採しチップとするための植林ではあるが、CO2 吸収に一定の効果はあるだろうし、なにより自然林を伐採するよりは良い。
 ただ、一つ気になる点が。それは植林する木がほとんどユーカリである点だ。ユーカリはオーストラリア原生で、極めて早生、7、8年で成木となる。これが好んで植林に使われる理由だが、ちょっと待って。オーストラリア以外の国、南米や中国に持って行っても問題はないのだろうか。早く育つということは養分の吸収力が強いということだろうし、他の動植物、生態系に対し影響はないのだろうか。コアラは喜ぶかもしれないが(これぞコアラの生き残り戦略?)、ちょっと心配である。
(因みに、気候風土が合わないのか、日本ではユーカリはあまり育ちません。)

“苫小牧”の受難

2006-08-21 23:57:58 | お金の話
 今日、甲子園で2日がかりの決勝戦を制したのは早稲田実業だった。4連投となった早実・斎藤投手の気迫の投球には本当に頭が下がる。また、敗れたとはいえ、田中投手を中心に多くのドラマを見せてくれた駒大苫小牧にも大きな拍手を送りたい。
 そう、今日のタイトル、「“苫小牧”の受難」というのは、駒大苫小牧が残念だったという意味も若干はあるが、メインは違う。王子製紙の話である。

 苫小牧には王子の主力工場がある。今はどうか知らないが、昔、JR苫小牧駅一帯は、ほとんど王子の土地だった。病院やショッピングセンター、それにホテルまで、頭に“王子”の付くものばかり。まさに企業城下町の典型である。歴史や知名度を考えても、苫小牧は新日鉄の八幡(北九州)と並ぶ企業城下町といえる。苫小牧工場の設立は1910年、王子の原点といえる工場である。加えて、一方の八幡は高炉が止まって久しいのに対し、苫小牧は新聞用紙を主に今も王子を代表する工場となっている。

 さて、今月1日に王子と北越製紙の話を書いたが、現状は王子の分が極めて悪い。日本製紙の参戦もあって、ほとんど勝負あったという感じである。この意味で「“苫小牧”の受難」とした。
 個人的には、今回の騒動、王子の方が理に適った、筋の通った行動をしていると思う。わが国で初めての大企業による敵対的買収と騒がれているが、その行動自体は非難されるものではない。まあ、非難されるとすれば、本当の狙いは単なる拡大志向ではないか、売上高No.1を確実なものにしたいだけではないか、といった点か(勿論、王子は即座に否定するだろうが)。

 が、日本製紙の北越株購入や大王製紙の公取への上申書提出など、業界他社の動きを見ると、あながちこの拡大志向が嘘と言えない気がしてくる。北越が自分の傘下に入るのなら良いが、他社の、それも王子の傘下に入るのは断じて許さない、といった大人気ない行動にしか見えない。
 もう少し冷静に、王子による北越統合のインパクトを考えてはどうだろうか。設備を新設した北越が大増産に走るのは火を見るより明らかであり、市況悪化を招く可能性が高い。原材料コストが上がっても、その価格転嫁は難しいだろう。北越が王子のコントロール下で市況に配慮しつつ生産を行うのと比べ、どちらが良いと言うのだろう。

 もっとも話が役員や従業員(特に管理部門などのホワイトカラー)になると、そうはいかない。例えば、王子の役員構成を見ると、取締役10人の内訳は王子7人に本州3人。神崎出身者はゼロだ。また代表権を持つのは3人いるが、これはすべて旧王子の人間。北越の役員が反対するのも無理はない。
 今日、王子が新潟の地元紙に北越の従業員向けに統合への理解を求める意見広告を出したそうだ。おそらく工場の従業員にしてみれば経営がどうなろうと一生懸命働くことに変わりはないだろう。本来説得すべきは北越の役員だが、役員の地位を約束できないのでは何を言っても効き目はない。業界のために自らは甘んじて身を引こうと思う人間などいない。
 八方塞。細い、細い、それこそ蜘蛛の糸のような可能性しか残っておらず、まだまだ苫小牧の受難は続く。

バンコク見聞録(その3)

2006-08-16 23:57:00 | おいしいもの食べ隊
 初の3日連続物、今日はその最終回。

 初めてバンコクに行ったとき、夕食は現地の駐在員がいろいろ案内してくれた。タイの宮廷料理(タイ料理=辛い、とのイメージがあるが、これは辛くない)に始まり、中華、シーフード、タイスキ等々、タイの食事を堪能した。意外だったのがフカヒレ。タイはフカヒレが安い。このフカヒレ、元はと言えば気仙沼から持って来ているらしい。日本で食べると馬鹿みたいに高いのに、なぜ日本から輸入しているタイの方が安いのだろう。人件費や賃料の違いはあるにしても、ちょっと納得が行かなかった。それはさておき、バンコクに行ったら思う存分フカヒレを味わって欲しい。日本ではできない贅沢だ。

 タイ料理はただ辛いだけではない。酸っぱさ、甘み、それにパクチーの香りに、更にはナンプラーも加わり、複雑というか、大変奥深い味である。海もあるため海老や蟹もおいしい。有名なトムヤムクンやヤムウンセンのほか、蟹のカレー炒めも旨い。ただ、青い海老にはちょっと閉口した。やはり視覚も味の重要な要素である。
 デザートにはタピオカも良いが、お気に入りはマンゴーともち米。甘いソースにもち米の食感が、マンゴーのおいしさを一層際立たせる。

 一応、グルメ・サイトっぽく、お勧めの店を紹介したい。
 一押しはウォンリー。ルンピニー公園の北側にある大衆食堂である。なにせ安くて旨い。おまけに朝からやっているのが嬉しい。夜のルンピニー公園は結構物騒らしいが、朝ならさほど問題はない。散歩がてら是非訪れて欲しい店だ。トムヤムなどタイの代表的な料理からシーフードまでいろいろ揃っている。ぼられることもないし、タイを満喫できること請け合いだ。
 もう1軒、ソンブーン。日本でも有名なシーフードの店だ。大きな店だがいつも混んでいる。並ぶことを覚悟して行った方が良い。ここのお気に入りは蒸し海老。醤油ベースのさっぱり味と濃厚な海老の組み合わせが堪らない。ただ、スラウォン通り、特にソンブーンの辺りは夜は淋しい所なので、行き帰りには気を付けて欲しい。
 あと、タイスキのコカもお勧め。日本で食べるより具材が豊富だし、意外に鴨などその他の料理もおいしい。

 もうタイには4、5年行っていないので、ほかにもおいしい店が増えていることだろう。お勧めの店があれば是非ご紹介ください。なんとか時間とお金をやり繰りして行って見たいと思う。
 微笑の国・タイ、タイに行き(生き?)タイ。リタイヤ後、バンコクで暮らすのも良いかなと思っている。
 

バンコク見聞録(その2)

2006-08-15 22:44:43 | もう一度行きたい
 生まれ変わったら何になりたいか。バンコクでは「犬になりたい」という話をよく聞いた。バンコクの犬は幸せだ。一日のほとんどを寝て過ごしている。暑いせいだろうか、日本で思い浮かべる、ワンワン吼えながら元気に駆け回る犬の姿とは程遠い。本当によく寝ている。バンコクで歩いていたり、しゃきっと立っている犬に出会うのは珍しい。寝て食べて寝て(えっ、家の誰かみたいだって?)、本当に羨ましい限りである。暑い中、無駄にエネルギーを使うのが嫌なのか、ほとんど吼えもしない。番犬には不向きだが、暑いのに横でキャンキャン吼えられたら、それはそれでうっとおしいだろう。これぞ生活の知恵というべきか。とにかく、バンコクの犬が怠惰というか、のんびり人生(犬生?)を生きていることは確かだ。バンコクのドッグイヤーは多少長いかもしれない。

 話は戻り、バンコクで経験した初めてのこと。チャオプラヤ川の支流だろうか、大きな川を渡し舟で渡った。我々は大型のベンツに乗っており、車ごと船に乗った。それは筏に毛の生えたような船で、いつ沈んでもおかしくない。得がたい経験なのだが、何分恐怖が先にたち、楽しむどころか生きた心地がしなかった。
 そんな渡し舟も入れ、バンコクから2時間くらいだろうか、日本の大手商社が出資する鋼材の加工工場に着いた。東京からの車で2時間とはえらく違い、そこは何もない、ジャングルとは言わないが、林の中の工場だった。
 そこの日本人の社長は、こんなところまでわざわざ来てくれる日本人はほとんどいないと言って、とても喜んでくれた。僕だって、こんな所だと知っていたら来なかったかもしれない。知らぬは仏とはよく言ったものだ。しかし、入り口に日本語で「歓迎株式会社○○○○様」と書いてあり、我々の来訪が少しでも彼の喜びに、励みになったのだと思い嬉しかった。僕は何のとりえもない、ごく普通の日本人なので、いるだけで人に喜びを与えられることなど滅多にない、これが最初で最後かもしれない。同時に、総合商社の底知れぬパワーを感じた。

 もう一つ。タイ式マッサージの話。スクンビット、高架鉄道ナナ駅の近くに行きつけの(といっても3回しか行ったことがない)マッサージ店がある。バンコクに詳しい人に紹介してもらったのだが、ホテルや外国人向けの店よりも安く、腕は確かだ。スクンビット通りからSoi 5 を入ったスーパーの隣の建物の地下にある。足で踏みつけられたり、関節がボキボキなったり、ハードな感じがするが、慣れると以外に気持ちがいい。マッサージを受けながら寝てしまうというのも、あながち嘘ではない。足裏マッサージの方がよっぽど痛い。勿論、日本語はおろか英語も通じない。

 体がリラックスした後は、ゆっくりと食事を。というわけで、明日はバンコクの食事について書く。


バンコク見聞録(その1)

2006-08-14 23:58:00 | もう一度行きたい
 バンコクには5回行った。おかげで町というか道路には結構詳しいが、実はあまり観光をしたことがない。有名スポットに結構疎い。最初の3回は仕事で、後の2回は観光だったものの他の都市も周ったため駆け足の旅だったからだ。が、バンコクでは初めての経験も多く、強く記憶に残っているし、好きな町の一つである。

 初めての経験その1。超高級ホテルの宿泊。最初の2回はリージェント(今のフォーシーズンズ)に泊まった。当時(90年代初め)日本円で1泊2万5千円とか3万円したのではないだろうか。単に勤めていた会社の支店に一番近い(100mくらい?)というのが理由だが、それまでビジネスホテルにしか泊まったことのない僕にとってまったく別世界だった。どう見ても寮の自分の部屋の3倍以上はある広さで、大きなバスタブにシャワー、毎日フルーツとチョコが添えられる、天国のような1週間だった。

 その2。フレンチトーストを食す。これもホテルでの話。朝食には毎日フレンチトーストを食べた。別に好きだったわけではない。食べたのは初めてだったと思う。では、なぜフレンチトーストか?ほかに食べるものがなかったのである。勿論レストランには沢山の料理がある。だが、どれも高くて手が出なかった。ホテル代は会社持ちだが、食事代は自前。朝から何千円も出して食べる気はしない。かといって食べないわけには行かない。とっても甘いフレンチトーストだが、少しほろ苦い味もした。うーん、いつかは朝から優雅に食事できる身分になりたい。

 3つ目は交通関係。これは色々ある。まず、交渉で料金を決めるタクシー。タクシーにはメーターがない(注:今はあります)。そのため乗る前に行き先を告げ、料金を交渉しないといけない。事前に大体の相場を聞いておき、それで運転手と交渉する。というか、向こうがふっかけてくるので値切る。もともと日本人にしてみるとタクシー代は安く、言い値でも全然構わないのだが、日本人だと思ってなめられてはいけない、後に来る日本人のためにもならないと思い、必ず値切った。
 次は渋滞。道路の割りに車が多いのが一番の理由だが、バンコクの場合、さらに人災的側面もあった。信号がなく、警官が交通整理をしていたのである(注:今は信号もちゃんとあります)。片方は流れが良いのに、逆側はずっと待たされる、ということもしばしばだった。やっと交差点をクリアしたと思えば、また新たな警官が・・・・。やれやれ。

 その4は篤い信仰心を垣間見たこと。日本で生まれ育った僕は、生活の中で、敬虔な仏教徒どころか、敬虔な信者という存在を見たことがなかった。敬虔という意味では、オウムのように狂信的な新興宗教や、江戸時代のキリシタンのように歴史としてしか知らないが、タイの身近な、生活に根付いた仏教、僧侶というのが本当に新鮮だった。この篤い信仰が微笑みの国の由来であろう。
 が、しかし、熱心な仏教徒の国ゆえ注意すべきことがあるという。それは、皆、輪廻を信じていること。つまり、皆、人を殺しても生き還る、またこの世に生まれ変わってくるのだから大した事ない、と考えているらしい(?)。真偽の程は定かではないが、くれぐれも暗い夜道は気を付けた方が良い。ゴキブリとか船虫とかに生まれ変わるのは嫌、もとい、そもそも死ぬのは嫌だから。
(To be continued.)

『夏服を着た女たち』の謎

2006-08-13 23:46:15 | 芸術をひとかけら
 今年は梅雨が長かったせいか、まだ夏本番といった感じがしない。ジリジリと照りつける太陽、そのまぶしい陽射し、暑さに拍車をかける うるさいまでのセミの声、いずれもまだあまりない気がする。しかし、暦の上では8月中旬、立秋を過ぎ既に秋だ。
 こんな中、先日、お昼で外に出た際、ふと思い出したのが『夏服を着た女たち』だった。東京でも最高気温が33度近かった暑い日のことだ。

 『夏服を着た女たち』はアメリカのアーウィン・ショーの短編小説で、1939年の作品である。彼はアメリカ文学界で最もステータスの高い雑誌『ニューヨーカー』の成長を支えた作家の一人である。が、日本で読まれるようになったのは(いや、正確には読まれていたと言うべきだろうか、今ではほとんど読まれていない)、1980年代に入ってからである。翻訳家・小説家である常盤新平が彼の小説を大変気に入り、紹介していた。
 発表後40年近くも経った昔のアメリカの短編がなぜ日本で読まれるようになったのか。おそらく日本が当時のアメリカに漸く追い着いたからではないだろうか。生活レベルというより、考え方、ライフスタイルがアメリカ的になったということである。そこで初めて、アメリカの都会小説、男女の洒落た会話、心の機微やペーソスを描いた彼の短編が読まれる土壌ができたのだろう。村上春樹がフィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーを紹介したのもこの頃だ。

 で、『夏服を着た女たち』。読めば他愛のない話である。すれ違う若い女性につい目が行ってしまう夫に呆れて怒る妻。夫は、肌が綺麗、小ざっぱりしてスマート、着飾ってチャンスを待っている女優の卵、等々、見るのが好きな女たちの長所、見る理由を挙げる。そして、最後に“夏服を着た女たち”の一言。これには何の説明もない。ただその言葉だけ、夏服を着た女たちが好きだと。
 僕は夏のニューヨークには行ったことがない。というか、もとよりニューヨークに行ったことがない。そのせいか“夏服を着た女たち”を見つめずにいられない彼の気持ちの本当のところはわからない。あくまで僕の推測だが、それは“色”ではないかと思う。明るく、淡い、パステルカラーの服。陽の光に映え、まぶしいまでに輝いている。落ち着いた色の多い秋や冬の服ではだめだ。綺麗な人は何を着ても綺麗だろうが、そうでない人がそれなりに見えるには“夏服”には敵わない。

 先日、地下の少し暗いところから表に出た瞬間、まぶしい陽の光とともに目に飛び込んできたのが、夏服を着た女性だった。あっ、これだ、と思った。淡いグリーンの服。夏が来たのだと実感した。

テロと一神教

2006-08-12 23:24:41 | 最近思うこと
 21年前の今日8月12日は日航機の御巣鷹山墜落事故が起きた日である。ニュースで追悼慰霊式に参列する犠牲者の遺族の姿が映し出されていた。僕は面識はなかったが、以前勤めていた会社の社員がこの事故で還らぬ人となった。確か、事故は日曜の夜で、彼は家族のいる東京から単身赴任先の大阪に戻るため日航機に乗っていたのだと記憶している。なぜ違う便に乗らなかったのか、なぜ新幹線にしなかったのか、もう少し引き止めれば良かった等々、ご家族の方の悔しさ、憤りは、おそらく今も変わらないであろう。

 折りしも2日前、イギリスの航空機爆破未遂のニュースが世界を駆け巡った。各国からイギリスやアメリカに向かう便や、はたまた日本の国内線まで、未だ混乱が続いているようだ。
 御巣鷹山の日航機は事故だったが、9.11のテロのように、また民間の航空機が、何の罪のない多くの人達が、テロの標的になったのである。まったく恐ろしい話だ。テロほど卑劣な行為はないと思う。テロリストには彼らなりの論理があるのだろうが、僕には理解できない。テロから新しい秩序が生まれるとも思えない。憎しみしか生まないだろう。
 もっとも、自らの宗教拡大のためには異教徒を殺すことなど厭わないというのが、歴史的にみた多くの宗教の姿であり、そう考えると今回の件もさほどおかしな話とは言えない。が、僕はそんな宗教なら要らない。

 ところで、皆さんは大韓航空機がソ連にミサイルで撃墜された事件を覚えているだろうか。1983年9月1日、ニューヨークからソウルに向かう大韓航空007便がサハリン沖でソ連の戦闘機により撃墜されたのである。一時大韓航空機スパイ説まで囁かれたが、今では単に機器の故障かミスで大韓航空機がソ連の領空を侵犯したと考えられている。問題はおそらく民間機と認識しながらも、いきなりミサイルを発射し撃墜したソ連側にある。領空侵犯を犯した飛行機を見過ごしたとあってはお咎めが恐いとパイロットは思ったのだろう。非難されるべきは個人よりも国家だ。

 別に大韓航空の営業妨害をするつもりはないが、87年には北朝鮮により大韓航空機がベンガル湾上空で爆破される事件があった。あの金賢姫の起こした事件である。北朝鮮、それも当時金日成から後継者に指名されていた金正日が、ソウル・オリンピック妨害のため指示したと言われる。自国民を飢え死にさせたり強制労働で死に追いやったりしても意に介さない男だから、他国民を殺したところで心の痛みなど感じないのだろう。

 宗教なら一神教より多神教の方がいい。全体主義や専制国家は要らない。狂信的な宗教と変わらないから。移民問題にも通じるが、まずは他者の違いを認め、互いに尊重することから始めなくてはいけない。排他的な態度では前に進まない。
 先日、イギリス国教会が教会系の小学校の行事でジョン・レノンの“イマジン”を歌うのを禁止したという記事を見た。宗教を否定する歌詞があるというのがその理由だ。キリスト教も一神教だし、結構厳しそうだ。うーん、これだとイスラムのことを理解するなど“夢の夢”か。

王子対北越、敵対的買収の行方

2006-08-01 23:58:11 | お金の話
 銀行で初めて融資の仕事に就いたとき、上司からまず二つの指示を受けた。一つは取引先との過去からの取引の記録を読むことであり、もう一つは取引先の社史を読むことだった。取引先の”人品骨柄”を知るには社史が一番だというのが彼の持論だった。最初は、社史なんかそこの社員ですら読まないだろう、そんな昔の話を読んでも、などと思っていたが、これが意外に為になった。社風というか、会社の考え方を知る大きな手助けになったのである。

 さて、歴史を紐解くと、今回の王子製紙の行動は極めてわかりやすい。

 王子製紙の母体は1873年に渋沢栄一が設立した「抄紙会社」である。その後社名を王子製紙に変え、日本の紙パ業界を支配する大会社へと成長した。戦後、1949年、王子製紙は過度経済力集中排除法により、王子製紙、十條製紙、本州製紙の3社に分割された。この法律で分割された会社の多くは後にまた一緒になっている。例えば、三菱重工、三菱マテリアル、新日鉄などがそうである。東日本はサッポロ、西日本はアサヒと分割された大日本麦酒のように、合併していない会社の方が珍しいくらいである。
 で、王子製紙はどうかというと、3社合併を望みつつも、独禁法の壁、十條製紙の抵抗などから夢を果たせなかった。そして1993年の十條製紙と山陽国策パルプとの合併(日本製紙の誕生)により、3社合併の夢は潰えてしまった。しかし、王子製紙は戦前の国内シェア80%という業界の盟主としての立場、圧倒的な規模に対する郷愁を忘れることができず、そこで出した回答が神埼製紙との合併だった。そして更に1996年には本州製紙を合併し、業界トップの座を不動のものにしたのである。
 2001年の日本製紙と大昭和製紙との事業統合への対応が今回の北越製紙への経営統合申し入れだとは思わないが、王子の規模拡大に対する貪欲さが感じられる。

 勿論、王子の言うように、会社を跨いだスクラップ&ビルドという理屈もわからなくはない。紙の需要が伸び悩む一方でインドネシアなどからの輸入が増えている。又、大王製紙や日本製紙が設備増設を行った。自らも設備を増強したいが、斯かる需給状況の中で増設を行えば市況を乱すことになり得策とは言えない。そして気が付けば、設備の増設を行う北越製紙がいる。結論は火を見るより明らかだった。ただ王子にとっての唯一の誤算は、北越が王子の軍門に下るのを嫌い三菱商事に助けを求めた点だった。
 紙パ部門を強化したい、中越パルプとの合併を白紙に戻した三菱製紙の新たな生き残り策を模索したい、との思いがある三菱商事にとって、北越からの話はまさに”渡りに船”だった。もっとも三菱商事は北越から王子の申し入れについては聞いていなかったようであり、商事にとっても王子の動きは誤算だったかもしれない。

 三菱商事の増資払込期日は8月7日であり、今後の王子製紙の動きが注目される。わが国で初めてとも言える敵対的買収の成否や如何に。