縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

NOVA、会社更生法申請

2007-10-28 16:52:26 | お金の話
 一昨日、NOVAが会社更生法の適用を申請した。負債総額は439億円。「事業を一括して引き継ぐ支援企業を一ヵ月以内に選定する」との弁護士の話だが、火中の栗を拾う企業がいるかどうか、状況は相当厳しそうだ。

 NOVAが斯かる事態に至った直接の原因は、受講料前払い制度に係る中途解約トラブルと、それを受けて経済産業省がこの6月に出した業務改善命令である。その後受講生の減少に歯止めが掛からず、同社の資金繰りは急速に悪化した。家賃の滞納、講師や職員の給与遅配等が常態化し、そして遂に更生法申請となったのである。
 この中途解約を巡るトラブルが今回のきっかけであるが、NOVAの根本的な問題は、無理な規模拡大に走ったことではないか。

 NOVAはここ数年で出店を急拡大し、ピーク時(昨年3月末)には994もの拠点を持っていた。これを可能にした、即ち出店増の中で受講生を確保できたのは、“駅前留学”というキャッチコピーや、NOVAうさぎ、異文化コミュニュケーション等の、広告宣伝に拠るところが大きいと思う。が、広告自体は大変優れたものであったが、その費用は年間100億円以上にも上る。売上高700億円程度の会社に100億円の負担は重い。
 又、出店すれば、賃借に係る差入保証金のほか、内外装、什器・備品等のコストが掛かる。これも馬鹿にできない。
 仮にハードが整ったとしても、今度はソフト、つまり実際にレッスンを提供できるかどうか、講師がいるかどうかが問題になる。NOVAは少人数のクラスを前提としており、相当数の講師を確保しないとレッスンの提供は難しい。が、現実には講師が不足し、何教室か掛け持ちの人も多いと聞く。チケットを買ったものの予約が取れないとの苦情はこうした理由からである。

 実は、3年前、一ヶ月ほどNOVAに通ったことがある。一週間ほど時間が空き、良い機会だから英会話を習おうと思ったのである。短期のコース、それもいきなり来週勉強したい、というのでは、なかなか適当な学校が見つからない。はじめにベルリッツを訪れたところ適当なコースがあった。が、如何せん、費用が高い。ちょっと手が出なかった。
 で、次に行ったのがNOVA。今話題の長期前払い(僕は一番短い期間、確か3ヶ月くらいだったと思う)で十数万円分チケットを購入した。チケットを購入する際、日中はすいているのでいくらでも予約が取れると聞き、それこそ僕は一週間、朝から晩まで英語漬けの日々を送る積もりだった。しかし、現実には一日、2、3レッスンが精々だった。本来一週間で使いきるはずのチケットはあまり、その後、何回かは通ったものの、結局、一部のチケットは無駄にしてしまった。中途解約してもお金は戻ってこないシステムになっており、僕は諦めるしかなかった。

 この短い“NOVA体験”の印象であるが、もの凄いシステムを作り上げたな、というのが正直なところ。NOVAのシステムというのは、「取り敢えず、英語の話せるお兄ちゃん・お姉ちゃんを連れてくれば、それが立派な(?)先生となって授業ができる」というものである。レッスンはテキストを使って行われる。基本は、先生が読み生徒が読む、先生が質問し生徒が答える、というもの。この“単純繰り返しメソッド(?)”を確立したのがNOVAの偉いところ。時々文法その他、テキストに書いてないことを教えてくれる先生もいるが、多くはテキスト通りに読むだけ。あとは雑談。つまり、先生には“英語の読み書きができる”ということ以上は何も求められていないのである。資格などは関係ない。
 確か、メルボルンの街角で声掛けられて暇だったから日本に来ちゃった、と言っていた20歳くらいの女性がいた。そんな彼女でもNOVAの教室に入った途端、立派な(?)先生になってしまうのである。又、噂では、生徒の女性をナンパすることしか考えていない男の先生もいると聞いた。早い話、素人の集まりなのである。勿論、中にはしっかりとした教育や経験のある先生もいらっしゃる(はず、会ったことないけど)。

 「安物買いの銭失い」という言葉が思い出される。
 多額の支払いをされた方もいると思うので、本件、良い教訓になった、では済まされないかもしれない。が、“円天”のような話が繰り返されるのを見るにつけ、うまい話には裏があると、まずは疑ってかかる姿勢が重要なのだと思う。

隣の国で考えたこと

2007-10-20 22:28:26 | 海外で今
 この夏、韓国と台湾に旅行に行った。両方とも3連休を使った2泊3日の短い旅である。仕事が死ぬほど忙しいと言ってたのに何故と言われそうだが、ともにマイレージを使ったもので1年前から予約していた。せっかくのチケットを無駄にするわけにはいかない。往きの飛行機で初めてガイドブックを開き、ホテルの場所と行き方を確認し、そして見るところや食べるところを探す、そんな旅だった。
 韓国に行くのは3回目。ただ、前の2回は知り合いに案内されての旅だったので、自ら歩くのはこれが初めてである。もう一方の台湾は初めて。中国には何回も行ったし、香港やマカオにも行ったことはあるが、台湾はこれが最初だった。

 韓国と台湾、どちらが好きかと聞かれれば、迷うことなく、僕は台湾を選ぶ。韓流ブームにはまっているおばさんには理解できないかもしれないが、僕はこの二つの国では台湾が好きだ。民族性、国の歴史、対日感情など、様々な理由があると思うが、僕は台湾の方が落ち着く、居心地が良かった。
 台湾の選挙や議会等で、大勢がつかみあいの喧嘩をしているシーンをよくニュースで見る。そのせいか、台湾の人は血の気が多い、興奮しやすい人が多いのかな、と思っていたが、実際行って見たらまったく違う。皆、とても大らかな感じがした。同じ中国人といっても中国本土の人とは違うし、香港の人とも違う。あくせくした感じというか、中国人に多い“われ先に”的な感じがしない。

 韓国と台湾は、戦前、ともに日本の植民地だった。日本は、電気・水道・交通などのインフラ整備や教育の普及など、両国の近代化に尽力した。日本による近代化がなければ、両国の経済発展の進捗は今より遅れていたとも言われている。多くの台湾人は素直にその日本の貢献を有難いと考えているが、韓国人はその事実を知らない、あるいは無視している人が多いようだ。これは戦後の教育など両国政府の方針・政治的理由に拠るところが大きいのであろうが、両国の歴史の違いもあると思う。

 過去、韓国は独立国家であったのに対し、台湾は中国やオランダ、スペイン等の植民地であった。韓国は中国の影響が極めて大きかったとはいえ、一応は独立した国である。よって他国に支配されるというのは大きな屈辱であったに違いない。まして、その相手が日本ときた。歴史的に、韓国は日本を見下していた。学問にしろ文化にしろ、韓国が日本に伝えた、教えてきた、というのが韓国側の意識である。いわば日本は韓国の弟子。そんな日本が師である韓国を支配するなど彼らにとっては言語道断である。
 一方、台湾にしてみると、日本の統治は、単に統治者、支配者が変わった程度の意味しかなかったのだと思う。実際、戦後、本省人(日本の統治前から台湾に住む人)の間では、外省人(戦後、国民党政府が支配した後、台湾に渡ってきた人)より日本人の方が良かった、と昔を懐かしむ声が多かったそうだ。日本の近代化により、当時の台湾は中国本土より豊かで教育水準も高かった。権力を笠に搾取を図る国民党政府より、日本の方がまだましに見えたのである。
 勿論、こうした歴史の違いに加え、日本の統治のやり方も韓国、台湾で多少違っていたかもしれない。わが国の統治は、韓国は陸軍、台湾は海軍がメインであったが、一般に海軍の方が進歩的というかリベラルと考えられるからだ。

 しかし、ここで韓国をけしからんと日本人は言えるのだろうか。「そもそも韓国は~」と言う前に、どれだけ韓国のことを知っていると言うのだろうか。
 今日のタイトル『隣の国で考えたこと』というのは、外交官として韓国に赴任されていた岡崎久彦氏の著書から頂いたものである。30年前の本であるが、今も色褪せていない(たぶん)、名著である。この本を読み、人のことを非難する前に自らの無知を知るべきだと思う。かくいう私も、これを機に読み返すことにしたい。

忘れるということ、『二十四時間の情事』

2007-10-08 23:29:55 | 芸術をひとかけら
 嵐のような3ヶ月だった。夏休みを取ることもなく、暑いさなか、ずっと働いていた。平日は帰りが深夜になることが多く、土日もしばしば出勤した。そんなこんなで、物理的にも精神的にも、ブログを書く余裕がなく、空白の3ヶ月が生じてしまった次第である。申し訳ない。が、お蔭様で、仕事が少し落ち着いたので、またブログをぼちぼち書いて行くことにしたい。

 忙しかったものの、この3ヶ月、個人的には大変得がたい経験をした。今はまだ差し障りがあって話せないが、いずれこの経験を小説に書いて見たいと思う(まあ、いつになることやら・・・・)。「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、本当に、いろんなことがあった。良いこともあれば悪いこともあったし、そして、ひどく悪いことも数多くあった。
 人間、不思議なもので、一種極限に近い状態に長くいると、些細なことに喜びを感じたり、逆に本来恐れるべきこと、怒りを感じるべきことに無頓着になったりする。“ゆでガエル”のような状態、あるいは、人間の防御反応なのかもしれない。

 『二十四時間の情事』という映画がある。題名を聞いて興奮(?)した貴方、残念ながら、これはその種の映画ではない。アラン・レネ監督、1959年の日仏合作の映画で原題は“Hiroshima, Mon Amour”、直訳は『ヒロシマ、我が愛』といった感じだろう。よくもまあ、こんな邦題を付けたものだと思う。
 それはさておき、この映画は学生時代に見た映画の中で強く印象に残っている作品の一つである。といっても、それこそ二十四年前の夏に一度見たきりの映画なので詳しい内容までは覚えていない。簡単に言うと、広島にロケにやって来たフランスの女優と日本人男性との行きずりの恋の話である。その点、“二十四時間の情事”という表現はあながち間違っていない。が、この映画はただの情事の話ではない。

 映画では彼女の過去と現在がオーバーラップする。彼女は第二次大戦中にドイツ兵と熱烈な恋をしたため、戦争が終わり、皆から裏切り者と非難、迫害された。田舎の小さな村である。彼女は丸坊主にされ、地下室に閉じ込められた。更にはそのドイツ兵が戦死したこともあって、彼女は錯乱し、気が狂うところだった。そんな辛く、暗い過去を持つ彼女、彼女は「人は忘れないと生きて行けないわ」という。

 「人は忘れないと生きて行けない」、この言葉が僕の心に妙に引っ掛かった。

 人は思いのほか強いものかもしれない。これは耐えられない、あれは耐えられない、などと思いながらも、結局は生きている。“忘れる”ということは消極的な行為ではなく、ある意味、積極的あるいは建設的な行為かもしれない。
 ちょうど舞台が広島だったこともあり、原爆という過去がなかったかのように復興した広島の姿が、そんな思いを一層強くさせた。

 と、当時の僕はそう感じた。過去を振り返らず、先のことだけ考えて前に進もう、と思ったのである。まあ、単に忘れたいことの多かった、暗い生活をしていただけかもしれないが。