『おくりびと』をご覧になっただろうか。アカデミー賞で話題になった、死者を棺に納める一連の作業を行う納棺師を描いた映画である。その中に、本木雅弘扮する主人公が納棺師の仕事を始めたと知ったとき、妻が「穢らわしい」と言って、家を出て行ってしまう、というくだりがあった。
僕には「死者=穢らわしいもの」という意識があまりなく、正直、そこまでやる必要はないのでは、という気がしないでもなかった。まあ、自分が積極的にやりたい仕事かどうかは別にして、その仕事をやっている人に特別悪いイメージはない。大変な仕事だと思うし、遺族の方の心のケアにも役に立つ仕事であろう。
しかし、江戸時代には死者の葬儀や死んだ牛馬の処理などを行う人は“えた”として忌み嫌われていたのであった。それが今日の同和問題に繋がっていることはご存じのことと思う。
さて、野中広務・辛淑玉(しん すご)による『差別と日本人』(角川書店)は、部落や在日の問題に関する両者の対談をまとめた本である。対談の所々に辛氏の解説が加えられている。
本屋で時間をつぶしていたとき、平積みされていたこの本が目に留まった。「野中さんがなんでこんな本を書いているのかな。」と不思議に思ったのである。が、彼はこの問題を語れる、いや、語るべき人間なのであった。僕は知らなかったが、というか野中氏を自民党の旧態然とした政治家と思い関心がなかったせいかもしれないが、彼は被差別部落の出身なのである。
被差別部落のない北海道で生まれ育った僕に同和問題の実感はない。えた・ひにんや全国水平社の話など、僕にとっては歴史の教科書の中の話だった。就職した会社で同和問題のビデオを見せられたが(自分が被差別部落出身だと相手方に知れると結婚できなくなってしまうという話)、どこか違う世界の話のように思えた。又、いわゆるエセ同和の話も聞いたが、そうした場面に自らが遭遇することはなかった。
が、それは単に僕が知らないだけであり、同和問題は現に今の日本に存在する、根の深い問題なのである。
野中氏は被差別部落の問題に限らず、在日、ハンセン病患者など弱者の側に立って活動されてきたという。本人の話だから多少割り引いて聞いた方が良いかもしれないが、やはり僕には想像もできないご苦労をされてきたであろう氏の言葉は重い。
一方、氏は、エセ同和は勿論、ことさら同和問題を持ち出してメリットを享受しようとする動きに反対する。それは単に差別を再生産するだけにすぎないと言うのである。
辛氏が差別の生じるプロセスを説明するのに次のような例を使っている。部落以外の人が急に産気付いてしまい、たまたま通り掛かった部落で出産してしまったとき、その子は部落民になるかどうか。答えは、部落民になることもあれば、部落民でないこともある、という。そこに合理的な理由はない。決めるのは差別する側の人間であり、差別したいと思えば何か適当な理由を作り出すに違いないのだから。
これは本当に恐ろしい話である。ある日突然自分が差別される、それも訳のわからない理由で差別される日がやって来るかもしれないのである。そんなことを考えたことがあるだろうか。
早く差別のない社会になれば良いと思う。しかし差別が、合理的な理由もなく、多くの人間に都合の良い形で続いてきたのだとすれば、それはそう簡単なことではないだろう。この本が多くの人に読まれ、何かのきっかけになると良い。
僕には「死者=穢らわしいもの」という意識があまりなく、正直、そこまでやる必要はないのでは、という気がしないでもなかった。まあ、自分が積極的にやりたい仕事かどうかは別にして、その仕事をやっている人に特別悪いイメージはない。大変な仕事だと思うし、遺族の方の心のケアにも役に立つ仕事であろう。
しかし、江戸時代には死者の葬儀や死んだ牛馬の処理などを行う人は“えた”として忌み嫌われていたのであった。それが今日の同和問題に繋がっていることはご存じのことと思う。
さて、野中広務・辛淑玉(しん すご)による『差別と日本人』(角川書店)は、部落や在日の問題に関する両者の対談をまとめた本である。対談の所々に辛氏の解説が加えられている。
本屋で時間をつぶしていたとき、平積みされていたこの本が目に留まった。「野中さんがなんでこんな本を書いているのかな。」と不思議に思ったのである。が、彼はこの問題を語れる、いや、語るべき人間なのであった。僕は知らなかったが、というか野中氏を自民党の旧態然とした政治家と思い関心がなかったせいかもしれないが、彼は被差別部落の出身なのである。
被差別部落のない北海道で生まれ育った僕に同和問題の実感はない。えた・ひにんや全国水平社の話など、僕にとっては歴史の教科書の中の話だった。就職した会社で同和問題のビデオを見せられたが(自分が被差別部落出身だと相手方に知れると結婚できなくなってしまうという話)、どこか違う世界の話のように思えた。又、いわゆるエセ同和の話も聞いたが、そうした場面に自らが遭遇することはなかった。
が、それは単に僕が知らないだけであり、同和問題は現に今の日本に存在する、根の深い問題なのである。
野中氏は被差別部落の問題に限らず、在日、ハンセン病患者など弱者の側に立って活動されてきたという。本人の話だから多少割り引いて聞いた方が良いかもしれないが、やはり僕には想像もできないご苦労をされてきたであろう氏の言葉は重い。
一方、氏は、エセ同和は勿論、ことさら同和問題を持ち出してメリットを享受しようとする動きに反対する。それは単に差別を再生産するだけにすぎないと言うのである。
辛氏が差別の生じるプロセスを説明するのに次のような例を使っている。部落以外の人が急に産気付いてしまい、たまたま通り掛かった部落で出産してしまったとき、その子は部落民になるかどうか。答えは、部落民になることもあれば、部落民でないこともある、という。そこに合理的な理由はない。決めるのは差別する側の人間であり、差別したいと思えば何か適当な理由を作り出すに違いないのだから。
これは本当に恐ろしい話である。ある日突然自分が差別される、それも訳のわからない理由で差別される日がやって来るかもしれないのである。そんなことを考えたことがあるだろうか。
早く差別のない社会になれば良いと思う。しかし差別が、合理的な理由もなく、多くの人間に都合の良い形で続いてきたのだとすれば、それはそう簡単なことではないだろう。この本が多くの人に読まれ、何かのきっかけになると良い。