縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

九州の旨いもの(その2):有田の寿司屋

2006-05-31 23:52:00 | おいしいもの食べ隊
 有田へは焼き物を見に2度行った。ちょっと高くて手が出ないが、柿右衛門、濁手(にごしで)と言われる乳白色に描かれた色鮮やかな草花が好きだ。
 有田で2度とも訪れた寿司屋がある。“紀文鮨”だ。有田は海に面していないものの、五島や玄界灘の魚が入り、魚は旨い。この店は地元では老舗だが、あまり敷居の高くないのが嬉しい。同じ佐賀県でも唐津の“つく田”はよく雑誌に取り上げられるせいか妙に敷居の高い気がした。

 初めて紀文鮨に行った時、珍しいというか、貴重な経験をした。

 焼き物屋を見るのに疲れ、どこかで食事をしようとガイドブックを見た。近くに寿司屋がある。よし、ここだ、と思って探したが見つからない。変だな、この辺りなのにと思いながら、あたりをきょろきょろしていたら、突然声を掛けられた。話を聞けば、その人は探していた紀文鮨の人だった。今、店は改装中で、少し離れたご主人の自宅で営業しているとのこと。行くなら車で送り迎えしてあげると言われた。
 「知らないおじさんについて行ってはいけない」との不安が一瞬脳裡をよぎったものの、空腹には勝てず、結局、車に乗せてもらった。
 着いたのはまさしく個人のお宅。玄関を上がり、居間に通された。寿司屋というよりは知り合いの家に遊びに来た感じだ。平日の昼ということもあり、他に客はいない。僕は一軒屋の寿司屋、それも貸切で、寿司を堪能した。

 そして2回目。この前来たときから2年半くらい経っている。当然店は改装され、以前声を掛けられた所で営業していた。
 刺身をつまみながら、東京から来たこと、来るのは2回目であること、前回はちょうど改装中でご主人の自宅で寿司を食べたこと、などを大将に話した。すると、自宅で営業していたのは割りと短い間だったのに、それも東京の方がご存知とは驚いた、と大将。当時のことを思い出して懐かしく思ったのか、サービスで自家製のからすみを出してくれた。うーん、美味。冷酒とからすみで至福の時を過ごした。

 さてさて、次回もこんな幸せに巡り会えるだろうか。改装からもう8年近くになる。人の記憶は薄れるのが早い。大将の記憶力が良いことを祈るしかない。

ジャワ島中部地震の教訓

2006-05-30 22:51:06 | 海外で今
 27日早朝、インドネシア・ジャワ島中部、ジョグジャカルタ沖で発生した地震の被害が拡大している。3日経った本日午後の時点で死者は5,428人に達した。世界各国が続々と援助に乗り出しているが、混乱の続く中、未だ被災者の元に十分な援助が届いていないようだ。更なる被害の拡大が懸念される。

 ところで、今回の地震のマグニチュードは6.3。地震の多いインドネシアではさほど大きな地震ではない。にもかかわらず死者の数が多い。例えば、神戸を直撃したあの阪神・淡路大震災のマグニチュードは7.1で死者6,434人、先の新潟県中越地震では各々6.8、51人である。
 これは、いくつかの理由が重なった結果であるが、元々の原因はインドネシアにおいて耐震基準が無視されていたことにある。多くの人はコンクリート・ブロックを積み重ねた家に住んでいた。この地震に弱い家を、震源が浅く横ずれの生じる直下型の地震が襲ったことから、家屋の倒壊が相次いだ。更に悪かったのが地震の時間。早朝6時前、まだ寝ている人が多く、逃げる間もなく倒壊する家屋の下敷きになったのであった。

 勿論、地震国インドネシアに耐震基準はある。が、現実にはあまり守られていない。直接の理由はコスト。コンクリート・ブロックを積み上げるだけでなく、中に鉄筋を入れれば強度は高まるが、建築コストが10~15%以上アップしてしまう。しかし、この根底にあるのは政府の失敗、即ち耐震基準の重要性を国民に徹底して来なかった政府のミスと考えられる(政府のミスといえば、耐震基準の管理を怠った結果、却ってその重要性をあまねく世間に知らしめた政府もどこかにあったが)。

 もっともインドネシアの耐震基準を守った建物が安全かというと必ずしもそうではない。日本と比べ基準が緩く、総じて耐震性は弱い。事実、今回の地震でも空港や病院といった公共施設の損壊が伝えられている。
 地震に加え、台風の強風も前提としたわが国の建物は世界でも稀な強さを持っている。日本の優れた技術力を持ってしながら、日本に100階を越す超高層ビルがないのは、この厳しい前提のせいである。その点、海外のビルは結構いい加減だ。インドネシアの公共施設に損害が生じたのはおそらく鉄筋しか使っていなかったからであろう。日本では当たり前のH型鋼などの鉄骨は、海外、特にアジアではあまり使われていない。高層ビルもRC造、つまり鉄筋で建てているケースが多い。

 話が脱線して恐縮だが、あの9.11の貿易センタービル崩壊を見た某鉄鋼メーカーの人が、あれは造りがちゃちだ、ウチの鉄骨を使ってしっかり造っていれば飛行機が飛び込んだぐらいで倒れない、と言っていた。もし日本の建築基準が世界標準であったなら、世界の歴史は変わっていた??
 ところで、今回の地震で竹を編んだ昔ながらの家はほとんど無傷だったそうだ。伝統というか、その地に合った建築の強さを感じた。

ANJOインターナショナルの破綻

2006-05-29 23:08:10 | お金の話
 話題としてはちょっと古いが(すみません、つい先日『帝国データバンク倒産情報』で知ったもので・・・・)、5月16日付けで、米国公認会計士資格取得スクールで有名な㈱ANJOインターナショナルが負債10億5千万円を抱え、その事後処理を弁護士に一任すると発表した。M&Aならびに事業譲渡を検討中とあるが、会社の資産が受講生であることを思うと、自己破産の可能性が高いといえよう。

 私はANJOとは何のゆかりもないのだが、創業者の安生浩太郎社長のサクセス・ストーリーから同社には関心を持っていた。氏は1965年生まれ。慶応大学卒業後、野村證券に入社し、95年2月、自らの米国公認会計士(USCPA)取得経験を基に㈱ANJOインターナショナルを設立した。その後、USCPA以外にも講座を拡げ、大阪、名古屋など国内主要都市にスクールを順次開設し、ピーク時には20億円を越す売上を計上した。
 が、その後、2003年5月の国の教育訓練給付制度の変更(給付率が80%から40%に下がり、更に上限額が30万円から20万円に引き下げられた)や2004年4月のUSCPAの試験制度変更の影響により受講生が減少し、加えてe-learning、人材派遣、会計アウトソーシングなどの新規事業も振るわず、2005年12月期は売上10億円まで落ち込み、4億7千万円の最終赤字になったという。

 足下、景気が回復し雇用環境が改善してきたことも同社にはマイナスに働いたことだろう。就職氷河期と言われた2、3年前までは、学生にしろ、より良い転職先を求める社会人にしろ、資格取得に本当に熱心だった。資格の一つでもないと就職できないといった空気が蔓延していた。しかし今では、こうした雰囲気は薄れ、資格取得よりも趣味的な部分に時間やお金を掛けるよう変わってきたと思う。

 ところで、USCPAの試験制度変更はマイナス要因なのだろうか。一般には、受験回数の増加(年2回が4回に)、受験科目の選択が可能に(全4科目受験が、4科目から任意で受験可に)等から、USCPAは受験しやすくなったと考えられている。現にTACは、2004年度こそ初年度ということもあって苦戦していたが、昨年は新コースを投入し大きく受講者を増やしている。
 因みに、新・旧両制度でUSCPAの受験経験のある私としては、勉強の負担は新制度の方がずっと楽だが(働きながら4科目の勉強はつらい)、英語が苦手だと新制度で合格するのは厳しくなったと思う。新旧とも英語による記述が3割あるが、旧ではキー・ワードが入っていればそれで点数になったのに、新では英語によるコミュニケーション能力、つまり英語の良し悪しが点数に大きく響くようになったからだ。

 TACやUSエデュケーション・ネットワークのHPを見ると、ANJOの受講生の受け皿となるサービスが提供されていた。ANJOが破綻しても、受講生が勉強を続けられるのがせめてもの救いだ。高い授業料になってしまったが、会計士への第一歩として、企業の破綻の痛みを身をもって知るのは良い経験かもしれない。

『環境展』で想う

2006-05-28 23:57:00 | 環境を考える
 先週『2006New環境展』に行ってきた。23日から26日まで東京ビッグサイトで行われた、おそらく環境関連ではわが国最大のイベントである。環境問題への関心の高まりからか、出展社数は552社と過去最大規模となり、来場者数も昨年の15万3千人を大きく上回ったのではないだろうか。
 テーマは“人と地球の未来を守る環境革命への挑戦”。ん、環境革命?ジャーナリスティックというか、曖昧な言葉だなと思ったら、『環境展』の主催者は株式会社日報アイ・ビーという出版社であった。包装と廃棄物の雑誌をメインとする会社だ。そのため、このイベントも以前は『廃棄物処理展』と言っていたようだ。この名前だと来場者は関係者に限られるが、『環境展』と名前を変えたことにより、広く一般の人も来るようになったことだろう。改めてネーミングの重要性を感じる。

 さて、展示は10のゾーンに分けられていた。1.NEW環境(地球温暖化対策等)、2.サーマル、3.環境測定分析・計量・IT・ソリューション、4.水環境・土壌、5.環境安全、6.収集・搬送、7.有機性廃棄物処理関連、8.バイオマスプロダクツ&環境対応の包装材・容器・新素材・再生品、9.廃棄物処理・リサイクル、10.屋外展示、である。イベントの沿革のためか、展示は廃棄物処理関連の6、7、9で全体の半分を占めているが、環境関連の技術を鳥瞰するには良い機会である。

 イベントを見た感想。同じようなことをやっている会社が多いんだな、というのが率直なところである。例えば廃棄物処理でいうと、廃棄物を粉砕する、乾燥や微生物などを用いて廃棄物の量を減らす、といった機械を作っている会社がごまんとある。展示を見る限りではどれも大差ないように思えるが、それは私が技術に疎いせいで、きっと各々特徴というか、何かウリがあるのだろう。時折、意を決して(?)質問し話を聞くと、どれも素晴らしい技術、機械のように思える。

 が、しかし、環境ビジネスの難しさというか、そもそも画期的な技術、オールマイティな技術などないのかもしれない。もしあればこれだけ多くの会社が乱立することはないはずだ。処理物の量や内容・成分などの条件に応じて適した技術や機械があるのだろう。A工場には効果があってもB工場では役に立たない、あるいは同じA工場でも処理物に変動があるため特定の機械だけでは対応できない、など。だからこそ多くの会社で棲み分けが可能になっているのだと思う。

 ところで、残念ながら廃棄物処理など環境対策は企業が積極的にお金を掛ける分野ではない。品質や生産性の向上といった収益に直接貢献するものにはお金を掛けても、環境対策は純粋なコストであり、必要最小限に抑えたいというのが企業の本音。いきおい環境関連のビジネスは価格競争に陥りやすい。技術に差がなければ尚のことである。とすると薄利多売の会社が残るのか、体力の強い会社が残るのか、のどちらかである。いずれにしろ、あまり儲かるビジネスとは言えない。
 企業が環境対策に進んで資金を投じる、消費者は環境にやさしい商品であれば高く買う、といった状況にならない限り、今回の552社の内、何社が5年後、10年後に生き残っているだろうか。良い悪いは別として、これが環境ビジネスの現実ではないかと思いながら、会場を後にした。

心機一転

2006-05-27 21:12:29 | 最近思うこと
 また長いお休みをしてしまい申し訳ない。体調を崩したとか、旅行に行っていたとか、はたまた警察に捕まっていたとかではない。ただ純粋に休んでしまっただけである。サボりである。すみません。今日から、心機一転、新たな気持ちでブログを書いて行きたい。
 テンプレート、ブログのデザインを変えてみた。“縁側で・・”といえば、やっぱり猫だろうということで、猫にした。気に入って頂けるとありがたい。

 さて、再開にあたり、休んでしまった理由についてお話したい(早い話、弁解である)。

 正直言って、毎日ブログを書く、それも結構な量を書くのはしんどい。日中は仕事だし、夜は飲んで帰ってくるときもあれば、疲れて気乗りしないときもある。にもかかわらず3ヶ月近く、毎日書いてこられたのはなぜか。
 まず、書くこと自体がおもしろかったこと。書くに当たってテーマのことを調べると結構新たな発見があるし、テーマを求めて新聞、ネットなどで情報収集すると社会の動きに敏感になる。知的好奇心が充足されるのである。又、自分の書いたものを多くの人が読んでくれていることも嬉しかった。
 が、一番の理由は心理学でいうところの“昇華”だと自分では考えている。

 “昇華”を調べると「実現不可能な目標・葛藤や満たすことができない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること」とある。つまり、望みが叶わない、思うように物事が進まないなどの不満から、他に目標、目的を求めるということである。こうした気持ちがばねになって、毎日ブログを書いてこられたのだと思う。

 では、なぜブログを書くのを止めてしまったのか。

 状況は変化する。今月に入ってからの変化は大きく、そのため書くことへの関心、熱意が薄れてしまった。もっとも、良い方向に状況が変わっているからこそ、昇華、悪く言えば目標のすり替えの必要性がなくなったのである。以前、高村光太郎の『道程』について書いた。ただ待っているだけでは何も変わらない、誰かが何かをしてくれるわけではない、自らの人生は自らの手で切り開くしかないと改めて実感した1ヶ月であった。

 年を取るとだんだん、だんだん自らの可能性が狭まった気がしてしまう。が、しかし、その幅を決めるのは自分だ。可能性の幅を拡げるのも狭めるのも自分次第だ。そう肝に銘じて、寄る年波にメゲず、これからも頑張って行きたい。
 ブログも、毎日とはいかないかもしれないが、読んでちょっぴり幸せになったり、ほんの少し元気になったり、ちょっと得した気分になれるような話を書き綴っていければと思う。

カミュ『ペスト』

2006-05-19 23:59:00 | 芸術をひとかけら
 『ペスト』は『異邦人』に次ぐカミュ2作目の小説である(もっとも彼の小説は4作と少ないのだが)。簡単に言えば、アルジェリアのオランという町でペストが流行し、それに立ち向かった人々の記録である。というと味気なく聞こえるが、まずそのリアリティに圧倒される。伝染病で不治の病のペスト(黒死病)が突然発生したかと思うと、あっという間に町中に拡がり、ついに町は閉鎖される。誰も町から出ることはできず、皆、運命共同体である。この中での人間模様が大変興味深い。

 主人公はリウーという医師であり、彼の超人的な活躍によって皆がまとまり最終的に町はペストから開放されるのだが、僕が一番興味を持ったのはパヌルー神父であった。
 神父はペストの流行を当初は神の懲罰だとし、人々に悔悛を説いていた。ところが、救護活動に携わる中で無垢な少年がペストで死ぬのを見て、その誤りを悟る。そして、罪のない子供の死という謎に直面し、すべてを信じるか、もしくはすべてを否定するかの選択を迫られる。つまり、神を信じ、理解しえないこともすべて受け容れるのか、あるいは、理解できないこと、考えられないことを前にし、すべてを、神をも否定するのか、の二者択一である。リウーは後者であるが、神父であるパヌルーは前者であった。

 宗教色の薄い日本では、多くの人が「神も仏もない」と言ってすべてを否定する方を選ぶであろう。パヌルー神父の考え方は僕にとって新鮮というか、それこそ“理解できないもの”といえる。だからこそ、その背景にあるキリスト教のことを知りたいと思うようになり、その後キリスト教に関心を持つきっかけになった。
 因みに、キリスト教というか、神がテーマになった小説としては、遠藤周作の『沈黙』やグレアム・グリーンの『情事の終り』がお勧めである。

 さて、もう一つ『ペスト』で注目すべきは、この本が書かれた時代背景である。『ペスト』は第二次大戦後すぐ、1947年に発表された。ペストは単に病や死だけでなく、人間の弱さや悪、更には全体主義や戦争などを象徴するものと考えられる。アンゴラのコレラが人災的要因の強かったことが思い起こされる。
 1947年といえばまだ戦争の記憶が生々しかった。ナチスに占領されたフランスは尚更である。時が過ぎて状況は変わり、つまり、多くの伝染病が無くなり、かつ戦後60年を過ぎた今の日本では『ペスト』に共感することは難しくなっているだろう。しかし、世の中から悪が消え去ることはないし、自らの運命、そして自らの運命への係わり方を考える上で、是非とも読み継がれて欲しい作品だと思う。

アンゴラでコレラ拡がる

2006-05-18 22:55:05 | 海外で今
 最近、映画『ホテル・ルアンダ』で話題になった、あのアンゴラで、今、コレラ感染が拡がっている。既に1,298人が亡くなり、何万人もの感染者が出ているようだ。コレラは首都ルアンダから始まり、国内18州のうち11州にまで拡大した。
 汚染された水、衛生状態の悪さ、そして人口が密集するスラムなどの問題が相俟って、コレラの爆発的流行に繋がった。未だコレラの勢いは衰えず、アンゴラ全土で毎日新たに600人がコレラに感染し、火曜日1日だけで31人がコレラで亡くなったという。

 ここまでコレラが拡大したのはアンゴラの悲しい歴史に因る。アンゴラは1975年にポルトガルから独立した後、2002年まで27年に及ぶ内戦が続いた。そのため道路、橋、電力など社会的インフラの整備が遅れ、特に生活用水の不足、安全で衛生的な水の確保が大きな問題であった。
 とりわけ首都ルアンダにおいては200万人に及ぶ避難民の流入により人口は400万人近くに膨れ上がり、その多くがスラムを形成するなど、衛生状態も悪化していた。しかしながら内戦で疲弊したアンゴラ政府の対応には自ずと限界があり、日本政府も給水施設・システム整備のために支援を行っているが、まだまだ安全な水の確保には程遠い。

 アンゴラは内戦のため開発が遅れているが、石油やダイヤモンドなど、天然資源の豊かな国である。確か中国がアンゴラに急接近しているのも、アンゴラの石油が理由だ。こうした天然資源で得たお金が上下水道の整備に使われていればと残念に思う。いや、上下水道とまで行かなくても、せめて給水車の水を殺菌・消毒するとか、せめてそのくらいは完全に行っていればと思う。資金的問題なのか、単に衛生に関する知識の問題なのか、アンゴラでは給水車の水の浄化もあまり徹底されていなかったらしい。

 一方、翻ってわが国の状況はどうか。衛生状態や国民の栄養状態の改善によりコレラが撲滅されて久しい。水についても、水道の蛇口をひねればきれいな水が出てくるし、スーパーやコンビに行けばミネラルウォーターが所狭しと並んでいる。正直言って、生活用水の確保が重要と聞いてもあまりピンと来ない。
 先日、ある飲料メーカーの工場を訪れた。そこには賞味期限切れで戻された大量の飲料があった。おそらくそれは処分されるのであろう。
 どこかおかしい。平和で豊かな国に生まれたことを感謝すべきであろうが、それ以上に、何もできない自分にもどかしさを感じる。

九州の旨いもの(その1):大分でふぐ肝を食す

2006-05-17 22:49:10 | おいしいもの食べ隊
 大分県はわが国で唯一ふぐ肝を食べることの認められた県である、○か×か?

 僕は、ずっと○だと思っていたのだが、正解は×である。ただ実態は○に近いようだが・・・・。
 
 そもそも食品衛生法に有害物質を提供してはならないという規定があり、この有害物質の中にふぐ肝を含めるという通達があることから、日本全国例外なく、ふぐ肝を提供する、つまり食事に出したり、販売することはできない。大分とて例外ではない。
 が、僕は大分でふぐを食べる、それもふぐ肝を薬味の入ったお醤油に溶いて、それでふぐ刺しを食べるのを(あん肝と同じ要領)、この上なく楽しみにしている。本当はどこの店が安くておいしいと紹介したいところだが、お店に迷惑が掛かってはいけないので今日は止めておく。もっとも大分でふぐを出す店なら、ほとんどの所でふぐ肝が食べられると思う。何故だろう。

 ほとんどの都道府県では食品衛生法を受け、ふぐ肝の扱いに関して条例で定めている。例えば東京では、ふぐ肝を販売した場合「6月以下の懲役又は30万円以下の罰金」が科せられることになっている。ところが大分には最近までふぐ肝の扱いに関する条例がなかった。そして漸くできた条例(食の安全・安心推進条例)にも特に罰則規定はない。無論、お店が肝を出して中毒でも起こせば営業停止になるが、事故がなければ、注意はされてもお咎めなしである。
 おそらく、これは大分県が自らの地域の食文化というか慣習に配慮し、ふぐ肝を食べることを黙認したためであろう。それだけふぐ肝が大分の人々の生活に根付いているのだと思う。大分では年中ふぐが食べられるし、極めて身近な魚のようだ。いずれにしろ、大分の役所は大らかである。

 実は大分以外でもお店でふぐの肝を食べたことがある。瀬戸内の某所だ。マスターは、今日は“ピンクの豆腐”があるよ、と言って出してくれた。旨い。マスター曰く、天然のふぐは訳の分からないものを食べているから危ないが、養殖物なら大丈夫とのこと。真偽の程は定かではないが、僕はまだ生きているわけだし、確かに毒はなかったようだ。

 さて、ここで疑問が一つ。大分の肝はピンクではない。どちらかというと茶色かくすんだ肌色といった感じだ。養殖物の肝とはえらく違う。じゃあこれは天然物?大分にはふぐ肝の毒をなくす秘伝の技でもあるのだろうか。連金術師ならぬ、連“肝”術師か。
 もし、そんな技があるなら、正々堂々、ふぐ肝を売りにしてはどうか。「ふぐ肝特区」を作るとか、公海上でふぐ肝を死ぬほど(?)食べる「ふぐ肝クルーズ」をやるとか。2泊3日ふぐ肝と関あじ・関さばの旅、とかあったら、是非参加したい。

ウィーンでオペラ

2006-05-15 23:57:00 | もう一度行きたい
 昨日、今日とちょっと文化の香りのする時間を過ごした。昨日はフラメンコ(妻の友人が通うフラメンコ・スクールの発表会)、今日はオーケストラの演奏会(チャイコフスキー・プログラム)である。この演奏を聴きながら、ふと思い出したのがウィーンでの1日だった。

 ウィーンには大学の卒業旅行で行った。3週間の旅行があっという間に残り1週間になったときだ。若いとはいえバックパックの貧乏旅行はさすがに体にこたえる。いつもは日本でいえば民宿に毛が生えたような安宿に泊まっていたのだが、ウィーンではちょっと贅沢をしてホテルに泊まり体を休めようと思った。民宿がビジネスホテルに変わった程度なのだが、それでも僕にとっては贅沢だった。
 で、何をしたかというと、久々にちゃんとお湯のでるシャワー(これが贅沢!)を使い、そしてベッドで、昼間だった気がするが、ぐっすり寝た。そんなわけでウィーンの名所と言われる所は何も見ていない。

 ウィーンでしたのは、唯一、オペラを見に行ったこと。たまたま当日のオペラのチケットが取れたので、国立歌劇場で『ファウスト』を見た。あとはオペラに行くのにデパートでワイシャツとネクタイを買ったくらいだ。『ファウスト』は本を読んだことがあるので筋は知っている。グノーは『ファウスト』の前半をオペラにしたようだ。
 国立歌劇場は壁にバルコニー状に座席が並んでいる馬蹄型のクラッシクなホールである。僕は2階中央やや左のバルコニーの席からオペラを見た。まるでタイム・スリップし、自分が王侯貴族にでもなったかのような錯覚に陥る。

 さて、オペラに行って驚いたことが三つ。一つはオペラの構成というか演出の凄さ。オペラを生で見るのは初めてだったが、出演者の動きが細部まで計算されているのには驚かされた。例えば、皆が飲んで騒いでいるシーン、主人公から離れた舞台の隅にいる人物まできちんと演技している。手を抜かない、きっちりした仕事振りだ。もっともこれは2点めに関係するのかもしれないが。
 この2点めというのはウィーンの芸術に関する層の厚さである。ウィーンの有名な劇場は国立歌劇場とフォルクス・オーパーの二つだが、この二つの劇場で日替わりで様々な演目が行われていた。それこそ昨日はフラメンコ、今日はクラシックのコンサート、明日はオペラ、しあさっては・・・・、といったようにプログラムに重複がなく、多くのジャンルの催しが行われていた。日本にこれだけの演目を日替わりでこなせる人材はいるのだろうかと思った。

 そして最後の点はウィーンの人々の生活の豊かさである。オペラは平日の夜だったが、随分盛況だった。皆、着飾って来ている。仕事を早く終えたのだろうか、男性の姿も多い。
 ふと、真の豊かさとは何か、考えさせられた。経済力では日本の方がオーストリアよりも圧倒的に上である。だが、どちらの生活が真に豊かなのであろう。仕事を終え、好きなオペラを着飾って聴きに行く人々。おまけに、日本ではオペラなど高くて手が出ないが、オーストリアでは貧乏学生にも手の届く値段である。
 オペラの帰り道、日本は豊かな国なのだろうか、僕の就職後はどんな生活になるのだろうか、と考えながらホテルへと急いだ。

中央青山の処分とコーポレート・ガバナンス

2006-05-13 23:59:00 | お金の話
 金融庁は10日、中央青山監査法人に監査業務の2ヶ月停止の行政処分を行った。(先週に続き、今週も業務停止命令の話ですみません。)カネボウの粉飾への協力と、内部管理体制の不備がその理由である。
 新聞などでは、中央青山の監査先企業がどのような対応を取るのかという点と、監査法人の監視をどうすべきかという点が話題になっている。加えて、私はコーポレート・ガバナンスについても考えるべきだと思う。

 カネボウの粉飾決算については、まずカネボウそのもののコーポレート・ガバナンスが問題とされるべきである。次に、不正があれば企業にそれを正すよう求めるべき役割の監査法人が、逆に粉飾に加担していたという、企業と監査法人との癒着の問題である。又、これは先のライブドアにおいても同様といえる。

 企業が不正を行っている場合、それをチェックするのは監査役はじめ内部監査に携わる者である。だが現実はどうだろう、それは有効に機能しているだろうか。
 内部監査を行っているのはその会社の社員である。不正が企業ぐるみであった場合、チェック機能が働くとは到底思えない。これは監査役にしてもそうだ。わが国の企業の監査役には、元・経理部長などの社員、取引銀行や取引先のOB・役員などが多い。彼らがその企業から独立した存在とは思えないし、彼らにどこまで権限があるのか、又、どこまで監査に携わっているのかも疑問である。
 では、外部監査はどうか、その独立性は保たれているであろうか。わが国の場合、これも疑問である。長い取引関係の中で馴れ合いになっているケースもあれば、仕事を失うことを恐れ監査先の言い成りになっているケースもあるかもしれない。

 日本とアメリカの監査体制を比較したとき、最大の違いは、わが国においては監査役が、アメリカにおいては社外取締役からなる監査委員会が監査の責任を担っている点である。アメリカに監査役の制度はない。
 監査法人の独立性にも違いがある。わが国の場合、監査法人は経営陣から仕事をもらっている。まさに経営陣はクライアント、お客様である。監査法人を決めるのも、その報酬を決めるのも経営陣であり、これでは監査法人の独立性は弱い。監査法人を他に変えられることを恐れ、経営陣の圧力に屈することがあるのも想像に難くない。中央青山の責任は否定できないが、もしかすると彼らにも被害者としての一面があるのかもしれない。
 一方、アメリカの場合、監査法人の任命やその報酬額の決定は、企業から独立した監査委員会の役割である。監査委員会が本当に会社や経営陣から独立した存在かという問題は残るが、経営陣から直接仕事をもらう日本よりはまだましな気がする。更に、アメリカではエンロン事件を契機に、2002年にサーベンス・オクスレー法が制定され、監査法人の独立性に対する規制が強化されている。

 わが国においても、コーポレート・ガバナンスの観点から監査役、そして監査法人の独立性を高める仕組み作りが望まれる。社長が悪意を持って、会社ぐるみで不正を働こうとした場合、それを防ぐのは難しいかもしれないが、対抗勢力と成り得る独立した監査役、監査制度の確立が必要だ。

高村光太郎の人生

2006-05-12 22:03:18 | 芸術をひとかけら
 一つだけ諳んじることのできる詩がある。高村光太郎の「道程」だ。“僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる”という、あの詩である。先日、本箱から『智恵子抄』を取り出したとき、一緒に他の光太郎の詩集も出した。懐かしさから、ぱらぱらとページを繰った。

 初めて「道程」を読んだのは中学2年の時だ。「道程」は元々百行に及ぶ長い詩だったそうである。それが詩集『道程』に収められるにあたり、今の短い形に変えられた。この詩は、自分の人生は自分で切り開いて行かねばならない、という決意を表したものである。
 僕は若いときに「道程」に出会うことができ幸運だったと思う。苦しくても逃げるわけにはいかない。誰のでもない、自分の人生なのだから。勇気を持って前に進んで行こう。と、前向きに考えることができた。無論、いつもそうだとは言えない。泣きたいときもあれば、飲んですべてを忘れたいと思うときもある。が、良くも悪くも、一度きりの自分の人生、自らが頑張るしかない、と気持ちを切り替えることができたのは、多分にこの「道程」のお陰ではと思う。

 時間に余裕ができたら(定年でリタイアするか、宝くじにあたって悠々自適になるか)、高村光太郎のことを調べ、本を書きたいと考えている。
 詩人、彫刻家としての彼、若くしてアメリカ、イギリス、フランスの生活を経験し近代的自我を確立した光太郎、そして父、高村光雲との反目、デカダンの日々。光太郎の人生は智恵子との出会いで大きく変わった。陳腐な言い方だが、正に運命の出会いだった。しかし、愛に満ちた、充実した生活の中で、智恵子の実家の破産、光太郎に尽くし自らは芸術を諦めたという苛立ちや怒りの鬱積からか、次第に智恵子の精神は病んでいく。智恵子を献身的に看護する光太郎。二人の愛というか、精神的な繋がりの深さは本当に計り知れない。

 光太郎は欧米で暮らし自由を知っていたにも拘わらず、天皇崇拝者であった。戦時中は愛国詩というか、戦意高揚のための詩を自ら進んで書いている。これは父、光雲の影響であろう。彫刻では光太郎以上に評価の高い光雲だが、彼の明治天皇への崇拝は尋常ではなかった。御前制作の際、天皇の膝より上は畏れ多くて見ることができない、見ると目がつぶれると彼は言っていたそうだ。光太郎はこんな父の下で育ち、かつ父のことを大変尊敬していたのである。
 ところが、戦後、事実を知った、つまり大本営発表を鵜呑みにしてきた自分が愚かだったと悟った光太郎は、それを恥じ、岩手の山小屋に篭る。自らの道を求め、かつ妥協しない、彼の厳しい一面が表れている。

 こうして光太郎の人生を振り返ると、本当に波瀾にとんだ、激動の人生である。それに引き替え僕の人生は・・・・。一生懸命生きてきたつもりだし、会社を飛び出したし、プータローも経験したし、うーん、だけど、やっぱり平凡かな。いや、人生、まだまだ先は長い。新たな道を、新たな可能性を切り開いて行きたい。

廣瀬さんのお店

2006-05-10 23:57:00 | おいしいもの食べ隊
 今日は食べ物ではなく飲み物の話。飲み物といえば僕の場合、やっぱりお酒、バーの話である。銀座8丁目、中央通りから三菱UFJの横を築地方向に進み、1本目の道を右に入ったところにある『 FAL 』というお店の話だ。

 この店は凄い。

 何が凄いのかというと、まずその1、お酒の種類と量。後ろの棚に所狭しと並べられた瓶はスコッチ、アイリッシュ、バーボン、マールティニークのラム(以上、よく飲むものを書いて見ました)から、ブランデー、リキュールの類まで、その本数が凄い。掘り出し物があるとすぐ買ってしまうと言い、珍しいお酒も多い。また瓶が沢山あるのに、どの瓶もきれいで埃一つない(ように見える。店は暗いので真偽は定かではないが)のも凄い。
 その2、バーテンダー、廣瀬さんのお酒に関する知識。プロだから当然といえば当然だが、それは半端ではない。海外旅行で珍しいお酒があったと話をすると、大抵ご存知で、さらにその地方の珍しいお酒の話を教えてくれる。
 その3、廣瀬さんの記憶力。僕がFALに通うようになって7年になるが、行った回数はそう多くない。ひどいときは3ヶ月振りとか、半年振りとかもざらだ。にもかかわらず、彼は僕の顔と名前をきちんと覚えていて、おまけに、こちらが忘れている、前回飲んだものや話したことまで覚えていることがある。
 その4、廣瀬さんの距離の取り方。FALには妻と行くのが多いが、僕一人でも行く。そのときの間合いというか、話掛けてくるタイミングが絶妙だ。一人で物思いにふけ静かに飲みたいときもあれば、何か話掛けて欲しいときもある。彼にはそうした気持ちが手に取るようにわかるのだろうか。

 つまり、一言でいえば、本物のバーである。内装に凝った見せ掛けだけのバーや、おざなりにお酒を揃えたバーも多いが、それは飲み屋であって、本来のバーではない。

 そして最後に、その5、FALの値段。これが極めてリーズナブルというか、これでいいの? というくらい安い。とても銀座とは思えない。
 本当はFALが満員になって入れなくなると困るので人にあまり教えたくないのだが、それ以上に、この値段ゆえ、FALが潰れてしまうことの方が心配だ。皆さん、僕がFALに行こうとしているとき以外、こぞってFALに飲みに行ってください。ただ僕が行くときは何か印を、そう、窓から“黄色いハンカチ”でも出しておくので、そのときだけはご容赦を。

食の安全について

2006-05-09 23:59:00 | 環境を考える
 妻は日本に鶏肉が無いといふ、
 ほんとの鶏肉が食べたいといふ。
 私は驚いて大山地鶏を食べてみる。
 口の中に広がるのは、
 まぎれも無い
 むかしなじみのおいしい鶏肉だ。
 豊かな自然の中で育った鶏の肉は
 弾力に富み、味わい深い。
 妻は遠くを見ながら言ふ。
 幼い頃過ごしたルーマニアで
 毎日食べたあの鶏肉が
 妻のほんとの鶏肉だといふ。
 あどけない食べ物の話である。

と、今日はお遊びで『智恵子抄』の詩を真似て始めてみた。「三つ子の魂百まで」ではないが、小さい頃の食事の記憶というのは、ずっと続くのかもしれない。確かに、北海道育ちの私は、ふかしたじゃがいもが苦手だ。きっと子供の頃たくさん食べさせられた、嫌なイメージが残っているからだろう。

 昨年7月、「食育基本法」が施行された。「国民が生涯にわたって健全な心身を培い豊かな人間性を育むことができるよう食育に関する施策を総合的かつ計画的に進めることを目的」としている。食の洋風化と生活習慣病の増加、個食・孤食の増加、食の安全問題、食料自給率の低下などの問題意識の下、食育への取り組みが重要と考えられたのであった。
 中には、最近きれる子供が増えているのは食生活の乱れが一因だと言い、その点から食育の必要性を説く人までいるようだ。

 環境との係わりでは、食の安全が一番の問題だ。食品添加物や農薬、それに遺伝子組み換え食品。試しにインターネットで“食の安全”を検索してみたら、なんと1,360,000件もヒットした。それだけ人々の関心が高いということである。
 日本人は概して、良くも悪くも、声の大きな人間が一言叫ぶと皆それに追従するきらいがあり、その意味でわが国の食品は世界的にみて安全な方なのだと思う。が、しかし、日本の食品自給率はわずか40%に過ぎない。つまり、その60%を海外からの輸入に頼っているのである。これは、スーパーで肉や魚の産地表示を見ると外国産の物が多いことや、BSE問題によりアメリカからの牛肉輸入がストップしたために牛丼が姿を消したことなどからも実感できるだろう。

 さて、ここで採るべき道は二つ。極力食べ物の安全には注意しながら、(1)多少人体に悪い物を食べているかもしれないが、気にしてもしょうがないと割り切って食べる、(2)更に細心の注意を払い、多少でも疑わしき物は排除する、つまり食べない。
 以前、こんなことを言うお医者さんがいた。「よく、やれ酒は体に良くない、タバコは毒だ、止めた方が良いといったことを聞きますが、あれは嘘だと思います。多少は癌の発症率に影響あるかもしれませんが、無理に止めようとしてストレスを溜める方がずっと体に悪い。ストレスが体にとって一番悪いんです。」私は彼に従い、こと食と酒に関しては、大らかに生きている。
(これじゃあ食育にならないって、すみません。)

タスマニア・ワインの旅

2006-05-08 23:48:59 | もう一度行きたい
 昨日タスマニアのワインを開けた。“Marion’s Tamar Valley Pinot Noir 1993”である。何かの記念日に飲もうと思っていたのだが、劣化しているのではとの不安がよぎり、ついつい開けてしまった。実はこのワイン、新婚旅行に行った際、現地で買った記念すべきワインの1本なのである。1ダース買って来たのが、これでついに残り2本になってしまった。

 タスマニアへはワインがメインというのではなく、妻が動物を、フェアリー・ペンギンやタスマニアン・デビルを見たいと言って訪れたのであった。季節は春から初夏、そう日本でいえば5月。しかし、オーストラリアの南にある島、タスマニアは寒かった。
 我々はホバートで1泊した後、レンタカーで北に向かい、ジョージタウンで1泊してペンギンを見、そしてその翌日、タマー・ヴァレーのワイナリー巡りをした。そこには10箇所程のワイナリーがある。

 タスマニアのワイナリーの特徴、それは家族経営と、おそらくそこから来る、暖かみ・やさしさ・素朴さ、といったものだと思う。パイパース・ブルックやタマー・リッジを除けば、どこも規模の小さい、家族経営のワイナリーのようだ。そのため日本はおろか、オーストラリアでさえ、タスマニア・ワインはあまり見掛けない。生産量が少なく、ほとんどが島内で消費されているらしい。ワイナリーでの販売も重要な販路の一つなのか、小さなショップが併設されているところが多く、テイスティングにも快く応じてくれた。人手が足りず忙しいだろうに、タマー・ヴァレーで出会った方は、皆、親切だった。

 なかでもお勧めのワイナリーは、冒頭に挙げたマリオンとホルム・オーク。タスマニアは寒いので(緯度的には北海道と同じくらいだ)ワインには向かない気がするが、ピノ・ノワールやリースリングだけでなく、場所によっては良いカベルネ・ソービィニヨンも育つそうだ。そのあたりをテイスティングしながら、気に入ったワインを買えば良い。ただ善良かつ小心者の我々二人は、ご馳走になった以上は買わねばならぬとの強迫観念に駆られ、どんどん買ったワインの本数が増えてしまった。
 あと、旦那さんがワインを作り、奥様がラベルの絵を描いている、というワイナリーがあった。デラメアである。なかなか洒落た絵を描いていた。彼女はワイン作りの説明もしてくれた。英語のため僕がどこまで理解できたかは別として、熟成させているワインの瓶を毎日少しずつ回しているのよ、と言ったのを覚えている。小さなワイナリーといっても結構な瓶の数だ。我が子のように大事にワインを育てている愛情が感じられた。

 タマー・ヴァレーのワイン巡り、皆さんにも是非このアット・ホームな雰囲気の中で、日本で味わうことのできないタスマニア・ワインを堪能して頂きたい。
 が、移動手段は車しかないので、その点は注意が必要だ。飲み過ぎてはいけない(そもそも飲んで運転すること事体いけないが)。もっとも酔っ払って運転してもワインルートで人を轢く確率は極めて低いだろう、なにせ田舎だから。その代わり、動物を轢く確率が高い。可愛い動物を守るため、運転にはくれぐれも注意してください。


1週間のご無沙汰でした

2006-05-07 23:58:00 | 最近思うこと
 「1週間のご無沙汰でした」と聞いたとき、単に事実として受けとめるか、続けて「玉置宏でございます」と思い浮かべるか、若者とおじさん・おばさんの分かれ目ではないかと思う。残念ながら、僕は後者の方に近い。子供の頃、日曜に見た“ロッテ歌のアルバム”のイメージがまだ残っている。

 さて、この1週間、初めてお休みを頂いたが、実はずっと家にいた。ゴールデンウィークだからと、どこか旅行に行っていたのではない。2ヶ月半程ずっと書き続けていたので、リフレッシュの意味で少しお休みを頂いたのである。本当はネタを仕入れて、ブログの書き溜めをしようと思っていたのだが、結局何もせずに終わってしまった。日々新鮮な気持ちでブログを書けということだろうか。また苦労の毎日が始まる。

 今回のゴールデンウィーク、僕は暦通り、つまり、1、2日は出勤で、3日から5連休だった。5連休というと長く感じるが、考えていたことの半分もできず、あっという間に終わった感じがする。5日間、同じ時間でも働いていると長いのに休みとなると短い。

 以前、アインシュタインの相対性理論を評し、こんな話を聞いたことがある。「ご機嫌な彼女とデートしていると時間はあっという間に過ぎるのに、学校でつまらない授業を聞いていると時間は永遠のように感じられる。相対性理論ってこんなもんだろう。」時間は相対的、つまり時間がゆっくり進むことがあるという相対性理論の有名な部分を、自分はそんなこと昔から知っているぞと、ジョークにしたものである。
 確かに主観的に時間の流れ、感じ方は違うと思うが、相対性理論の凄さは、客観的な科学の話として、我々の常識、価値観を覆したことだと思う。我々は空間や時間は絶対的なものだと考えているが、それが絶対ではない、変化し得るというのだからである。
 例えば、『猿の惑星』という映画があった。宇宙飛行士が謎の猿の惑星に不時着したかと思ったら、そこは未来の地球だった、という話である。ロケットでの時間は地球上の時間よりゆっくり進むため、長い旅の末、未来の地球に辿り着いたのであった。これは相対性理論を前提とした映画といえる。

 もっとも時間がゆっくり進むのは光速に近い速さで運動している場合の話である。高速を車で飛ばそうが、飛行機に乗ろうが、その程度では話にならない。
 とすると、あの浦島太郎の話、亀か竜宮城が光速に近い速さで移動していたのであろうか。であれば辻褄が合う。浦島太郎は、地球上の現実の世界よりもゆっくり時間の流れる世界にいたため、現実に戻ったとき、その時間差を調整するのに玉手箱が必要だったのだ。ただの御伽噺かと思っていたら、案外含蓄に富んだ話かもしれない。

 と、久々のブログで取り留めのない話で恐縮だが、要はまた元の生活に戻り、時間に追われ、毎日ブログを書かないといけないということ。現実に光速で運動する術はない。