縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-04-29 22:10:48 | 芸術をひとかけら
 ポール・マッカートニーには聖母マリアがやって来て“Let it be.”(そのままで良いのよ。)と言ってくれたが、この主人公・多崎つくるには、聖母マリアの代わりに木元沙羅がやって来て「そのままにしていてはダメ。」と言う。
 なぜ自分が仲間から突然拒絶されたのか、つくるはその理由と向き合わねばならないと沙羅は言うのである。かくして彼の巡礼の旅が始まった。

 “巡礼”というと、四国八十八箇所やスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラが思い浮かぶが、ここでは特に宗教的な意味は無く、“自分探し”といった感じである。
 つくるは高校時代の友人を訪ね、東京から地元・名古屋へ、さらにフィンランドへと旅をする。自分が拒絶された理由は案外あっさりわかるが、そこに次から次へと新たな疑問、謎が生じて来る。そして謎の多くは解決されない。正直、消化不良というか、欲求不満の残る内容であった。

 タイトルに「色彩を持たない多崎つくる」とあるが、本当に彼に“色彩”はないのだろうか。
 つくると沙羅以外の主な登場人物(高校時代の親友4人に加え、その後知り合う大学時代の友人や、その友人の父親が会ったという不思議なジャズ・ピアニスト)は、皆、名前に“色彩”を持っている。赤松、青海といった具合である。併せて、各々際立った個性も持っている。
 高校時代、つくるは「目立った個性や特質を持ち合わせない」、つまり“色彩”のない自分が、なぜ4人の仲間に加えられているのかわからなかった。自分は周りの人間とは違うとおぼろげに感じながらも、それが何かはわからなかったし、自分がそのグループにいる意味、役割もわからなかった。
 しかし、彼には何か特別な印(しるし)があるのだと思う。おそらく、あのジャズ・ピアニストのように選ばれた特殊な人間にしか見えない類のものであろう。このつくるの“色彩”に係る謎は解き明かされておらず、もしかすると次回作へと繋がって行くのかもしれない。

 もう一つの大きな消化不良、欲求不満の原因は、その結末。えっ、ここで終わるんだ、という唐突感というか、裏切られた感は否めない。
 村上春樹の小説では、生と死、あるいは正気と狂気が隣り合わせにあり、何かの拍子で(いや、それは必然の流れかもしれないが)違う側に変わってしまうことがよくある。そんな中、自分の世界を飄々と生きていた主人公は、大きな挫折、喪失感に傷つき、苦しみながらも、最後は女性への愛により救われる。安全な側に引き戻されるのである。
 沙羅は、『ノルウェーの森』のレイコさんと緑(彼女も名前に“色彩”を持っている!)を合わせたような役割を担っている。そのため僕は彼女によってつくるが救われるのだと思う。それに「巡礼」の結果が“死”であっては、あまりに哀しい。

初めの一歩 ~ 共に生きる社会に

2013-04-15 00:26:50 | 最近思うこと
 分かっていても、出来ないこと、難しいことがある。

 今月の初め、まだ寒い日の朝だった。僕は、隅田川に架かる橋を渡っていた。風が冷たい。橋も終わりに近づいた頃、遠くから何かブツブツ言っている声が聞こえる。気味が悪い。何かと物騒な世の中だし、おまけに季節の変わり目、注意するに越したことは無い。
 だんだん声がはっきり聞こえてきた。橋へと続く階段を上がっている人の声だ。それは「・・・から帰る。カエルが鳴くから帰る。カエルが鳴くから帰る。カエルが・・・」と呪文のように繰り返されていた。子供の声ではない。低く、太い声。大人の男性だ。彼は小さな犬を連れていた。

 すれ違いざま、彼が言った。「メガネ、曇ってる、曇ってる。」そして、また「カエルが鳴くから・・・」と始めた。
 僕はマスクをしていた。この時期、花粉対策として欠かせないマスク。その日はまだ寒かったため、マスクの上から漏れた息でメガネが曇ってしまう。彼はそのことを言ったのである。僕は、咄嗟の事に何も言うことが出来ず、ただ通り過ぎただけだった。

 皆さんも、よく電車の中で、奇声をあげる人や、訳のわからないことをつぶやいている人に会うことがあるだろう。そのときの周りの反応はと言うと、触らぬ神に祟りなしといった感じで、聞こえない振り・見ない振りをしたり、その場を離れる人が多いと思う。その人の気持ちなど考えることなしに、ただ怖いとか、気持ち悪いとか、何か危害を加えられたらどうしようと考えてしまうのである。僕もその口だった。
 が、先日、ある人から、彼らが奇声を発したりするのは、ただ感情表現が下手なだけであったり、あるいは逆に彼らの方が怖く、恐怖を感じ、半ばパニックになって声を上げているのだと聞いた。我々を威嚇しているのでもないし、ましてや危害を加えようとしているのでもない。

 ところが、それが分かっているにも拘わらず、あのとき僕は何も言うことが出来なかった。せめて「本当だね、曇ってるね。」と笑って応えられると良かった。それに「あなたは、メガネもマスクもなくていいね。」と付け加えられれば言うことは無い。彼は素直に見たこと、感じたことを言っただけであり、変に構えてしまったのは僕の方なのである。人を色眼鏡で見てはいけない。
 これからは、知的障害を持った方に会ったとき、やさしく微笑んであげたり、「大丈夫だよ、何も心配することは無いよ。」と励ましてあげられるようになりたい。実際実行に移せるかどうかはともかく、まずはそう思うことから始めたい。 

西武とサーベラスの淋しい(さもしい?)争い

2013-04-07 10:51:56 | お金の話
 以前西武鉄道の人事の方から聞いた話だが、西武には親子で働いている人が多いという。聞いたのは、例の総会屋事件や虚偽記載事件の前なので、今がどうかはわからない。しかし、かつての西武は、従業員に自分の子供も西武で働かせたい、あるいは従業員の子供に自分も父親と同じ西武で働きたい、と思わせるような良い会社だったのである。
 その西武が上場問題を巡り筆頭株主である米国のファンド・サーベラスと揉めている。

 事の発端は、3月12日付けで開始されたサーベラスの公開買付(TOB)。西武の32.4%の株式を保有するサーベラスが、更に4%の株式を買い増すというのである。1/3超の議決権比率を確保し定款変更やM&Aなど特別決議の拒否権を得るとはいえ、なんとも中途半端なTOBである。
 同社が発表した「公開買付説明書」によると、その目的は、西武のコーポレート・ガバナンス及び内部統制を強化し企業価値向上を実現すべく支援と助言を行ってきた同社が、引き続き西武を支援して行く意思を有していることを示すためだという。正直、何を言っているのかよくわからない。マスコミ報道によれば、言うことを聞かない西武の後藤社長を辞めさせるため、サーベラスが揺さぶりをかけているらしい。
 背景には、早期の株式上場を目指す後藤社長と、現在想定される株価では利益が出ないから上場するな、なりふり構わず収益を上げ、もっと高値で上場しろというサーベラスとの対立がある。
 3月26日に西武側はサーベラスのTOBに反対する旨の文書を公表しているが、サーベラスは西武にリストラによる収益改善を提案していたとのこと。具体的には、駅員の削減や不採算路線の廃止、西武ライオンズの売却等が挙げられている。また、プリンスホテルのサービス料値上げ、鉄道の特急料金値上げといった増収策や、鉄道・ホテルの本社人員削減等の提案もあったらしい。目先の収益を増やし上場時の株価が上がれば後はどうなっても構わないというのが、サーベラスの考えなのであろう。

 ところで、サーベラスが西武の筆頭株主となった経緯であるが、西武は有価証券報告書虚偽記載事件を受け2004年に上場廃止に追い込まれた。西武の親会社であったコクドは解散、西武グループは再編され、その際サーベラスが1,100億円の資金を投じ、西武の32.4%の株式を握る筆頭株主になったのであった。以来、西武の再建・再上場という共通の目標の下、両者の関係は良好であったが、再上場が目前に迫った中、上場時の株価を巡り対立、今の事態に至った。今後は6月の株主総会に向け、他の株主の支持を集めるプロキシーファイト(委任状争奪戦)に発展する可能性もある。
 西武には約14,000人の株主がいる。元オーナーの堤義明氏や取引銀行は西武支持を表明しているが、株主の過半を占める個人株主の動向はわからない。ただ従業員に愛されていた西武であり、おそらく個人株主には従業員やOBが多いと思う。もっとも既に代替わりした株主、つまり株式をただ相続しただけで西武に特に愛着のない株主もいる。彼らはどのような決断を下すのだろう。

 しかし、この争い、会社が、そこで働く社員のもの、社会のものと思われていたのどかな時代から、会社は株主の物であり、株主の利益最大化を目指すべきという金融資本主義が跋扈する時代に変わった中での淋しいというか、さもしい争いと思えてならない。