縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

『地下鉄(メトロ)に乗って』

2006-10-30 23:59:00 | 芸術をひとかけら
 昨日、久しぶりに邦画を見た。妻が招待券をもらってきたのと、場所が最近オープンした「ららぽーと豊洲」だったからだ。見物がてら映画を見に行った。

 さて、久々に邦画を見た感想はというと、?、って感じ。おもしろくないとか、見てて苦痛というのではないが、見終わって「だから何?」という気がした。これは、僕が映画にストーリーを求めたり、何かしらメッセージを期待しているせいかもしれない。ないしは単に僕の心が狭いだけかもしれない。いずれにしろ、心から感動とか、思いっきり笑えた、思わず涙した、といった類の映画でないことは事実だ。

 話の筋としては、二つの糸が絡み合う話である。一つは父と子の確執。息子が地下鉄に乗って過去にタイムスリップし、本当の父の姿を知る。暴君にしか見えず愛想を付かした父の、その思いもよらぬ一面を知り、過去のわだかまりは消える。が、時既に遅し、父は亡くなってしまう。
 もう一つは男女の愛、運命に翻弄された母と娘、夫々の愛。共に自分勝手な男に惹かれ、道ならぬ恋に苦しむ。出口のない恋に苦しむのは嫌、私など生まれてこなかった方が良かった、あるいは、あの人のためには私などいない方が良い、と思った娘の取った行動には驚かされた。この映画の白眉といえよう。

 この映画の内容、行く末を暗示するものとして、男の働いていた会社のおやじさんの読んでいた『罪と罰』がある。この主人公は、金のため狡猾な老婆を、さらに偶然居合わせた彼女の妹まで殺してしまった。優れた人間は取るに足りない人間を殺しても構わないという身勝手極まりない論理で殺人を犯した男だったが、思いがけず妹まで殺してしまったことで罪の意識に苛まれ、ついには発狂してしまう。それが聖女のような女性と知り合い、人間性を回復して行く。これが『罪と罰』のあらすじだ。

 ということは、この映画は、あの娘によって男が救われて行く、という物語なのだろうか。ちょっと深読みし過ぎかもしれない。が、もしそれが正しいとすれば、描き方が足りない気がする。もう少し説明がないと、誰もそうは考えないだろう。

 あと、この映画は年齢不詳ならぬ、年代設定不詳である。娘と僕はほぼ同い年。とすると、今を基準にすれば、あの男は60歳近くだ。?? 因みに、娘は岡本綾(注:おじさんのために言っておくが、岡本綾子ではない)、男は堤真一。うーん、イメージが合わない。深く考えず、単にファンタジーだと考えよう。
 そう、もし僕がその男だったら、それこそ発狂しそうな状況だった。にも拘わらず、彼は生きている。やはり聖女に救われたのだろうか。

アランフェスを聴きながら

2006-10-25 23:58:00 | 芸術をひとかけら
 アランフェス協奏曲を聴いている。もうすぐ12時。深夜、若干近所迷惑かもしれないが、少し大きめの音でCDを掛けている。一つにはゆったりとした夜を楽しみたいから。もう一つ、これは結構切迫した理由だが、猫がうるさいからである。おとといの記事に書いたが、ここ数日、猫が鳴き続けている。猫初心者の僕は戸惑ってしまったが、妻曰く、盛りが付いて鳴いているだけとのこと。避妊手術をしたと聞いたし、おまけに、もう20歳のおばあちゃん猫なのに、本当に恐れ入ってしまう。愛は生きるためのエネルギーであり、それがウチの猫の長生きの秘訣なのかもしれない。

 それはさておき、アランフェス協奏曲。あのロドリーゴの有名な曲だが、クラシックではなくジャズ、ジム・ホールのCDを聴いている。ジャズではマイルス・デイヴィスの『スケッチズ・オブ・スペイン』の中のアレンジが有名だが、この演奏も良い。ジム・ホールのギターは勿論、チェット・ベイカーのトランペットにローランド・ハナのピアノがなかなかの優れものだ。
 アランフェスの第2楽章、哀愁のある美しいメロディ。ジム・ホールはじめ皆の抑制の利いた、静かで、それでいて畳み掛けるような、重厚な演奏が続く。テーマの合間に入るソロ、トランペットやサックスのソロは物悲しく、そして美しい。

 ジャズにはバーボンが似合う、というのが僕の持論。ジャズはアメリカが発祥だし、また、そのせいかジャズのお店はバーボンを出すところが多い。今はウイスキーの人気が落ちているので断言はできないが、少なくとも、昔、僕がジャズを聴きはじめた頃はそうだった。
 僕のお気に入りはジャック・ダニエル(厳密にはテネシー・ウイスキーでバーボンではないが)。当時は並行輸入などなく、今と違ってウイスキーは高かった。勤めて間もない僕に1本1万円以上するジャック・ダニエルをキープするのはかなり勇気の要る出費だったが、雰囲気に浸るため無理をしていた。若気の至りか、まずは形から入ったのだろう。

 そんな昔を思い出しながら、思わずバーボンを飲みたくなった。と言いつつ、今日は既に飲んで帰って来たところだから止めておこう。それに、そもそも家にバーボンはない。気が利かない(もっとも最近はバーボンに限らずウイスキーのある家自体少ないと思うが)。
 いずれにしろ、演奏に酔わせ、思わずバーボンを飲みたくさせる、このジム・ホールのアランフェス、名演に違いない(って、理由が無茶苦茶?)。

内部統制構築の前提

2006-10-24 01:17:35 | お金の話
 今朝の新聞に「内部統制とIT」という特集があった。そう、今、話題の『日本版SOX法』関連の話である。

 僕は“内部統制”にはちょっとうるさい(なんて、実は、内部統制は試験で一番苦労した項目なのだが、勝てば官軍、少し偉そうに言わせていただく)。

 内部統制は、別に昨日今日、突然降ってわいた話ではない。監査では昔からある考えだ。そもそも会計士が企業の監査を行う際、企業活動のすべてをチェックできるわけはない。いくつかの取引や事象を取り上げ、それが正しく処理されているかを確かめ、そこから全体の確からしさを推論する。内部統制とは、このとき、どれだけの取引をチェックするか、テストするかを決める、判断基準なのである。
 即ち、内部統制の優れている会社、社内のチェック体制のしっかりしている会社であれば、テストの量を多少減らすことができるし、逆にその体制の心もとない会社であれば通常以上のテストを行わなければならない。そうして財務報告の正確性を考えて行くのである。

 米国で内部統制がクローズアップされるきっかけとなったのは、2001年のエンロンやその翌年に起きたワールドコムの不正会計事件である。そこからSOX法(サーベンス・オクスレー法)が制定された。米国は結構極端に振れる国で、不正が起きた、それ厳しく規制しろ、ということになり、短時間で、極めて厳しい法律が制定された。その結果、コスト高が企業の競争力を削ぐ、IPOが減少する、更にはロンドンなど海外市場に企業が逃げ出す、等の問題点が指摘され、ついには基準見直しの動きが出て来ている。

 さて、翻ってわが国のSOX法はどうだろう。今年の6月に金融商品取引法(いわゆる日本版SOX法)が制定された。ただ実施基準がまだ公表されていないため、どこまで厳密な対応が要求されるのかはまだわからない。(蛇足だが、テレビや雑誌で「日本版SOX法対応」、「日本版SOX法準拠」を謳う宣伝を最近よく見るが、守るべき基準が示されていないのに何故そんなことが言えるのか、まったく不思議である。)ただわが国の場合、米国ほど極端な内容にはならず、費用負担もややマイルドになるのではないかと思う。当局も内容については、行き過ぎた米国の規制やその揺り戻しを見、そこまでは厳しくしないと言っている。

 又、米国で問題になった監査費用も米国ほどの負担増にはならないと思う。一つには監査報酬そのものの決め方の違い。米国は企業と独立した監査委員会が監査法人の報酬を決めるが、わが国では監査を受ける企業自らが監査法人を決め、報酬を決める。つまり、監査法人にとって企業はお客様なのである。仕事を失うよりも安い価格で仕事を請ける方を選ぶケースもあるだろう。加えて、米国は監査法人が直接企業の内部統制を評価する方法を採ったが、わが国は経営者が評価した内部統制について監査法人が評価する間接的な方法を採っており、監査法人の負担は少なく済む。

 内部統制というのは性悪説に立って、ちょい悪おやじどころか、ひどく悪いおやじがいても、彼の悪事をチェックできる仕組みがあるか、それを防ぐ機能が働くか、を問うものである。勿論、たとえ内部統制が完璧であっても、何人かが共謀したり、横暴な経営者が組織ぐるみの犯行を強いる等の可能性は否定できない。
 要は、仏作って魂入れず、じゃまずいから、まずは経営者自ら襟を正し、社員に法を示すことが大事といえよう。

猫とカルメンと僕の安眠

2006-10-23 22:45:32 | 最近思うこと
 昨日からウチの猫の様子がおかしい。とにかく鳴く。それも大声で。そして時折、妙な声で鳴く。別に盛りがついたわけではない。疲れないのかなと思うくらい、鳴き続けている。カラオケでもあんなに歌えば声が枯れるだろうに、と心配するが、猫はおかまいなしだ。

 なぜだろう。おとといまでは平気だったのに、突然昨日からおかしくなった。

 考えられること。その1、臭いに反応している。実は昨日の午前中、フローリングにワックスを掛け、そして強力な洗剤を使ってお風呂の掃除をした(正確には、してもらった)。空気の入れ替えはしたつもりだが(今も換気扇を回している)、それでもまだ臭いに反応しているのではないか。
 その2、ストレス。猫にしてみれば、知らない人が家に入っていたし、掃除の都合で狭い部屋に押し込められたりと、ストレスがたまったのかもしれない。また、昨朝、アクシデントというか自業自得というか、残り少ない歯を1本折ったこともストレスの原因かもしれない。ウチの猫はもう20歳近く、人間でいえば100歳過ぎ。最近は噛むのに苦労しているようだが、これで一層噛むのは難しくなった。思う存分食べられないこともストレスの一つだろうか。ただ今日になっても鳴き声は続いているし、最近は餌をそのまま飲み込むことが多いようだし、ストレス説は違うかもしれない。
 その3、ついにボケた。だが、これも昨日から突然、それまでは何の兆候もなかったので怪しいと思う。いや、そう思いたい。

 鳴き声は、猫と離れていたり、更には僕がドアを閉めて部屋にこもったりすると、それは容赦ない。鳴き声に加え、ドアをガシガシと、爪で引っ掻いたりする。トイレに入ったときもそうだし、寝室で寝ようとしたときもそうだった。おかげで寝不足である。
 もっとも、鳴きやむときもある。一つは寝てるとき(あたりまえか)。もう一つは僕が猫の側に行ったとき。これで餌を上げたりするともっと効果があるが、餌なしでも静かになる。多少安心するのかもしれない。

 『カルメン』を思い出した。カルメンに思い焦がれ、そしてカルメンに翻弄された男が言う。「ところがあの女のほうは、人が呼ぶときには来たがらず、呼ばないとかえってそばへ来る、女と猫に持ち前のあの流儀で私の前に立ち止まり、話かけてきたものでした。」
 やれやれ、因みにウチの猫は雌だ。ああ、今晩はぐっすり眠りたい。

九州の旨いもの(その3) ~ 阿蘇、大地の恵み

2006-10-19 23:54:00 | おいしいもの食べ隊
 この前の3連休、阿蘇に行った。熊本は2度目。前回は天草から島原へと抜けた。今回は黒川など温泉がメインの旅、のはずだったが、阿蘇の自然に、その雄大さに圧倒された旅だった。旅の話はまた別の機会に書くとして、今日は阿蘇の水と牛について書く。

 まずは水。阿蘇には日本名水百選が3箇所ある。その内の二つ、白川水源と池山水源に行った(因みに残る一つは菊池水源)。
 白川水源は阿蘇の南にある。毎分60トンの湧水量を誇る。水が澄んでいるので、川の底から水が湧き出るのがよく見える。ひしゃくで水を汲み、飲んでみた。もちろん、白川水源の水といえども、やはり水は水であり、特別な味などない。ただ、東京のまずい水(最近はオゾンや活性炭などによる高度処理でだいぶマシになったが)とは違い、ゴクゴクと飲める。阿蘇に降った雨や雪が地下を流れ、自然にろ過された水だ。きっとミネラル分も豊富であろう。
 そして池山水源。阿蘇から黒川に向かう途中、少しわき道を入ったところにある。ここは毎分30トンの湧水量。樹齢200年以上の樹木に囲まれた水源である。着いた時間が夕方5時近くと遅かったため、人は少なかった。そのせいもあってか、厳かな、そして神秘的な雰囲気を感じた。阿蘇を回り、乾いた体に水が浸みた。

 次は牛。湧水は自然の、阿蘇の雄大な自然の賜物といえるが、ここの牛も阿蘇の自然があればこその旨さと言える。旨さの秘密は「放牧」にある。
 阿蘇の雄大さは半端じゃない。北海道出身の僕が言うのだから間違いない。世界最大級のカルデラを取り囲む、東西18km、南北25kmの外輪山、そして、さらに台地が続く。阿蘇は火山のため木が少なく、ほとんど草原である。そこで悠々と草を食む牛たち。それこそ無農薬の、有機野菜ならぬ、有機牧草である。また、放し飼いのためストレスも無縁だ。
 特に、あか牛が良い。あか牛は和牛の一種で、品種名を褐毛和種(あかげわしゅ)という。明治の終り、熊本の在来牛とスイス原産のシンメンタール種とを掛け合せ、ここ阿蘇で誕生した牛である。元々は小型で成長の遅い牛だったらしいが、交配により大型化し、かつ肉質も改善した。

 さて、あか牛は「あか牛肉料理認定店」のマークのあるお店で食べることができる。熊本の牛肉が皆あか牛というわけではないので注意が必要だ。我々はJR豊肥本線の宮路駅前にある「レストラン藤屋」でステーキを食べた。ミディアム・レアに焼いたサーロインとフィレ肉のサイコロステーキ(これはサービス品でとってもお得)。肉がやわらかい。それこそ、口の中でとろけるような感じだった。別に脂が多いわけではない。サーロインは風味が良く、フィレはきめ細かで、本当にやわらかかった。
 欲を言えば、もっと厚みのある肉を食べたかった。サーロインは我々としては結構奮発したのだが、残念ながらそんなに厚くはなかった。ミディアム・レアが、食べてるうちに鉄板の熱さでウェルダンになってしまう程度の肉の厚さだった。悲しい。

 もう一つ。車だったので、ワインを飲めなかったのが、さらに悲しい。ちょっと(ひどく?)古いが、ワインのないステーキなんて、クリープを入れないコーヒーのよう(?!)。今度はバスで行くぞ!

5年経った401k

2006-10-18 23:58:00 | お金の話
 この10月1日で日本版401k、確定拠出年金導入から丸5年となった。加入者数200万人、運用残高2兆5000億円と、残念ながら、制度導入時に懸念された通り、401kはあまり普及していない。未だ米国の1/100の規模だ。当時、関係者の間では「小さく産んで大きく育てる」が合い言葉だったが、それは夢のまた夢、といった感じである。今日はこの「日本版401k」について、導入の経緯および制度の問題点を考えてみたい。

 そもそも「日本版401k」という言葉をご存知の方、更にその内容をある程度理解されている方はどのくらいいるのだろうか。おそらく、年金の一つのタイプだと名前は知っていても、それ以上はよくわからないという方が多いのだと思う。
 日本版401k = 確定拠出年金 とは、従来の確定“給付”年金、即ち、受取額が確定している年金に対し、月々の年金への積み立て = 拠出額 は確定しているものの、受け取る金額が自らの運用成績により変化する年金である。

 僕が初めて401kの名前を聞いたのは確か1988年、米国に工場を建設する取引先に対し、銀行の海外進出をサポートする部署の担当が、「優秀な従業員を確保するには401kという年金制度を採り入れる必要があります」と説明するのを聞いたときだと思う。そのときは、ふーん、そんな制度があるんだ、ぐらいで、さして気にはしなかった。
 それから10年以上経ち、なぜか401kに関係する仕事に就いた。感慨もひとしおとは言わないが、妙に懐かしく思った記憶がある。

 が、上述の通り、日本の401kはひどく貧弱な内容だった。401kを名乗るには、本家米国に対し失礼極まりない。わが国の401kは、税務当局との兼ね合いから目立たないよう、質素に始めざるを得ないが、将来は立派な制度にしようと、皆、志(商魂?)高く、スタートを切った。とはいうものの現実には育っていない。米国のようなリクルーティングの必須条件など程遠い。では、何が日本版401kの問題なのだろう。

 一言でいえば、「使い勝手が悪い」に尽きる。まず企業側の使い勝手。非課税となる拠出額、掛け金の額は月23,000円(企業年金のある会社の場合)と極めて小さい。このため企業は401kだけで年金制度を組み立てることができず、従来の年金との組み合わせか、年金前払いを検討するしかない。因みに米国では月300,000円近い金額が非課税で拠出を認められている。日本の10倍以上の金額である。
 又、マッチングを認めない、つまり企業の資金拠出しか認めず、従業員個人の401kへの拠出を認めないことも問題である。

 一方、従業員から見た使い勝手も悪い。転職時に年金をそのまま移行できるポータビリティが401kのメリットと言われている。しかし、それは転職先も401kを導入していることが前提で、かつ手続きが大変面倒である。又、60歳まで資金を払い出しできないことも問題だ。

 いっそのこと国民年金は国庫負担100%、つまり全額税金で賄い、401kは個人で積み立てる年金と位置付けてはどうだろう。ついでに社会保険庁を廃止できるともっと良いのだが・・・・。