縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

『清泉ラファエラ・アカデミア』の終了

2023-07-13 17:02:34 | 最近思うこと
 『清泉ラファエラ・アカデミア』をご存じだろうか? 清泉女子大が行っている社会人のための生涯学習講座である。「生涯学び続けることで人間は人間であり続けることができる」という信念のもと1993 年に開設されたという。
 英語、スペイン語などの語学講座から文学・歴史・美術などの教養講座まで幅広い講座がある。年2回、春期(4月~7月)と秋期(10月~1月)、土曜日に開講される。回数は1回から3回、10回など内容に応じ設定されている。
 僕は、この春期、10回講座一つと単発の一日講座三つに参加した。「生涯学び続けたい」とは思いながらも忙しさにかまけて、とんと“学び”とはほど遠い毎日。そんな僕に、この講座は“学び”の大変良いきっかけとなった。必要に迫られ仕事の勉強をするのではなく、まったく仕事とは関係のない、それこそ生きて行くのには必要のないことを勉強するのは、どこか心地良かった。
 そんな気付きを与えてくれた『清泉ラファエラ・アカデミア』が、次の秋期講座を最後に活動を休止するという。再開は未定とのこと。僕はこれを講座の最終日に聞き、大きな衝撃を受けた。伝えてくれた先生も同じくショックを受けており、また先生の多くの同僚の方もまだ事実を受け入れられないと言っているそうだ。

 今、女子大の経営は厳しい。少子化に加え、女子の共学志向や理系志望の高まりにより、女子大の志望者数減少が続いている。定員割れの女子大も多いと聞く。先般も恵泉女子大の閉校がニュースになっていたが、閉校や共学化により女子大の数はピークの98校(1998年)から2割以上も減っている。
 『清泉ラファエラ・アカデミア』の活動休止も経営環境の悪化が一因であろう。土曜日に多くの教職員の方に出勤してもらうのは大きな負担である。受講料は安く、人件費や事務経費を考えると、収支は良くてトントン、いや持ち出しだったかもしれない。このアカデミアの活動は地域連携・社会貢献の一つと位置付けられているが、やはり「他者のために」というキリスト教的ヒューマニズムが根底にある。1993年の開設から30年というのも一つの区切りになったのであろう。今までの関係各位のご努力には本当に頭が下がる思いだ。

 ところで、清泉女子大は品川区東五反田にある。JR山手線の五反田駅と大崎駅、都営地下鉄浅草線高輪台駅から、いずれも歩いて10分。清泉女子大にある旧島津家本邸に因み、島津山と呼ばれる高級住宅街の一角である。大きなお屋敷や低層の高級マンションが立ち並ぶ、駐車場の車は外車かLEXUS、そんな町である。
 僕のクラスは6名であったが、うち3名はご近所にお住まいの方だった。さすがにどんな家かまでは聞かなかったが、皆、それなりに裕福なお家の方であろう。サンプル数が6では少なすぎるが、『清泉ラファエラ・アカデミア』に通う方には、意識の高い富裕層の方が多いのだと思う。即ち、アカデミア受講生へのアプローチは、優良なターゲット顧客層に繋がるのである。
 そこでご提案。富裕層向けビジネスを展開する企業の方、『清泉ラファエラ・アカデミア』の活動再開に向けご支援頂けないだろうか。輸入車、高級ワイン(ワイナリー?)そしてアンティークなど高級家具の販売等に係わる企業、あるいは大口富裕層向け資産運用ビジネスの強化を狙う銀行・証券など、冠講座や寄付をご検討頂けないだろうか。島津山近辺にお住まいの方への良いアピールになること間違いない。また超富裕層のネットワークは強いことから、口コミによる顧客のさらなる拡がりも期待できるだろう。勿論、学びの機会が得られる、僕ら一般庶民へのアピールにもなる(まあ、宝くじでも当たらない限り関係ないが・・・)。

オリビアを聴きながら・・・

2018-09-20 23:54:53 | 最近思うこと
 オリビアで始まり、オリビアで終わった一日だった。その偶然というか、ちょっとした奇跡に感謝!

 週末の夜、久々に『ダイヤモンド・クラブ』に行った。四谷三丁目にあるジャズのライブのお店である。その日のヴォーカルは 萱原恵衣(かやはら けい)、ピアノは 井上ゆかり。そう、以前ブログに書いた(2009/2/28、“そうだ、『ダイヤモンド・クラブ』、行こう” )、あの萱原さんだ。あれ以来、僕は彼女の歌う “My Favorite Things” をいつも楽しみにしている。

 「ゆかりさんが弾く“My Favorite Things” は最高!」と言う彼女は、リクエストするまでもなく、早々に “My Favorite Things” を歌ってくれた。この曲を聴くと、やはり心が落ち着く。やさしい気持ちになれる。
 とすると何をリクエストしようかと、お酒を飲みながら考えていた矢先、彼女が歌い始めたのが“Have You Never Been Mellow(そよ風の誘惑)” だった。

 ところで、杏理の「オリビアを聴きながら」は、最近の若い人もよく知っていると思う。1978年の古い曲であるが、親が好き、カラオケでよく聞く、カヴァーされたのを聴いた等々、今でも耳にすることが多いに違いない。が、しかし、この “オリビア” が誰かは、いったい どれだけの人が知っているだろう。

  “オリビア” は、1970年代半ばから80年代前半に一世を風靡した、オーストラリア育ちのイギリス人歌手、オリビア・ニュートン=ジョン のことである。日本でも大ヒットした、あの“Physical(フィジカル)” を歌っていた歌手だ。

 オリビアは、デビュー当初はカントリー・ミュージックを歌っていた。イギリス人なのにカントリー・ミュージック? という批判もあったようだ。美人ではあるものの、オーストラリア育ちで、どこか垢抜けないところが、アメリカの南部っぽくて良かったのかもしれないが。彼女の最初のヒット曲 “Let Me Be There”は まさしくカントリー・ミュージックだし、上記の“Have You Never Been Mellow” もポップっぽいカントリーだった。
 それが、1978年、ジョン・トラボルタと共演したミュージカル映画『グリース』を機に、オリビアの歌は、“Xanadu(ザナドウ)” や “Physical” のように、ポップやロック色の強い曲へと変わって行った。

 僕が好んで聴いていたのはカントリー時代のオリビア。杏理が歌う(因みに作詞・作曲は尾崎亜美)オリビアも、曲が作られた時期から考えると、カントリーのオリビアである。「オリビアは淋しい心 なぐさめてくれるから」という歌詞もカントリーの方がしっくりする。
 カントリー・ミュージックは、日常の出来事を歌う曲が多い。恋愛や失恋の話はあるが、誹謗中傷や暴力はないし、世界平和を声高に訴えたりもしない。だから聴いて心が安らぐのであろう。

 先週、夏の暑さの疲れがどっと出たのか、急に涼しくなったためか、はたまた年のせいか、僕はひどく疲れていた。そんな金曜の朝、通勤のバスで思わず聴いたのがオリビアの“Let Me Be There”。普段は通勤で音楽を聴くことなどないのだが、このときの僕は、なぜか YouTube でオリビアの曲を探していた。オリビアの澄んだ声が心に沁みる。僅か3分足らずの時間ではあるが、中学生の頃を思い出し、郷愁に耽る。少し元気が出て来た気がする。よし、あと1日頑張ろう。

 これが、その日の始まり。で、一日の締めくくりが、オリビアの “Have You Never Been Mellow”である。ほんの偶然に過ぎないのだろうが、僕にとっては、うれしい驚きと、望外の幸せ。萱原さんに、ありがとうと言いたい。

勘弁してよ、東京電力!

2018-04-20 22:56:55 | 最近思うこと
 電力会社を東京電力から東京ガスに変えた。

 一般家庭向けの電力自由化から2年、僕は、新電力で電気料金が画期的に下がるわけではないし、手続きは面倒そうだし、特に東電に不満があるわけではないし、新電力に変えようと思ったことは一度もなかった。
 いや、世のため人のため新電力に変えるべきではないと考えていたくらいだ。新電力のほとんどは自ら発電しているわけではない。言ってみれば、彼らは東電など既存の電力会社の上前をはねているだけである。そんな新電力のプレゼンスが高まり、東電などの利益が減って発電設備や送電設備のメンテナンスが疎かになっては困る。我が国の電力供給の安定性、信頼性が揺らぐ事態になりかねないからだ。
 が、今回、東電の度重なる不手際、失態を目の当たりにし、新電力に変えることにしたのであった(すみません、偉そうに書いておきながら、単なる個人的恨みからです)。

 事件は電気の使用開始日に起きた。

 先日ブログに書いたが、貸していた家が空き、僕らはそこをリフォームして住むことにした。工事のため電気と水道を使えるようにして欲しいと言われ、僕はネットで使用開始の申し込みをした。
 で、問題の当日。リフォームに先立ち、現地で床材、壁紙等の色合わせをしようと、業者の方3人と僕ら2人でマンションに集まった。18時半、2月の終わりで当然ながら辺りは暗い。部屋に入った。電気のブレーカーを上げたが、なんと電気が付かない。水道は出るが電気はダメ。業者の方がライトを持っていたが、とても色合わせどころではない。僕は焦って東電に電話した。
 僕が事情を説明し、先方が確認したところ、東電側の作業は終わっており、電気が付かないのはこちらの設備の問題だという。作業員を送るが到着には1時間近く掛かり、相応の費用が発生するとも言った。設備の故障とは俄かに信じ難いが、電気のプロが言うのだから従うしかない。

 暗い部屋の中、色合わせも出来ず手持無沙汰な5人。作業員はまだかと皆待ちわびていたところ、40分は経っただろうか、僕の携帯が鳴った。まもなく着くとの作業員の連絡かと思い安堵したが、電話は先程の受付担当の上司のようだった。彼は、実は東電側の作業が終わっていなかったと言い、これから作業するが現地に誰かいるか、熱の出る電化製品等の電源が入っていないか、とのたまう。
 ちょっと待ってよ。まずは謝罪だろう、この無駄に過ごした40分をどうしてくれるんだ!と思いながらも、ご迷惑をお掛けしているリフォーム業者の方を前にして、僕は怒るのは控えた。なぜ手続きが漏れていたのか、最初の電話でなぜ手続き漏れを確認できなかったのか、なぜ謝罪しないのか等々を問い詰めたいところだが、その時間がもったいない。僕は現地にいる、近くに発熱する恐れのあるものはない、早く作業をお願いしたい、とだけ言った。
 後で妻が、いつもと違って(?)よくキレなかったわね、と感心していた。

 これには後日談がある。前の家から引っ越す、使用停止の日の話である。
 オートロックのマンションのため、室内での作業があるガスのほか、最後のメーター確認がある電気と水道も立会いを求められた。いずれも事前に電話してから来るとのこと。ガスと水道はその通りにやって来た。が、電気は来ない。予定時刻から1時間近く過ぎ、出発が迫っている。どうなっているのかと思い東電に電話した。
 先方が言うには、担当が1時間前に伺ったが不在のため帰ったとのこと。部屋には引越業者の方を含め常に5、6人おり、不在はありえない。スマホの履歴を確認したが、電話も来ていない。前の予定が押し、ウチを飛ばしたのではないだろうか。3日後がマンションの検針日となっており、ブレーカーを落とせば特に問題ないと言われ、その疑念が一層深まった。もしや計画的犯行か?

 「お役所仕事」というが、東京都水道局はきちんと対応してくれている。東電の方がよっぽど「お役所」的ということか。東電には、地域独占だった昔とは違い、我々には他の選択肢があるのだということを肝に銘じて欲しい。

パーソナル・トレーニングでダイエット?

2018-04-14 15:24:25 | 最近思うこと
 この半年、週1回、スポーツクラブでパーソナル・トレーニングを受けている。あのライザップではない。いつも通っている近所のクラブである。ライザップに通うのは相当の覚悟が必要。僕には到底無理だ。大きな楽しみ、生きる喜びである食事やお酒を制限されては、速攻ギブアップに違いない。
 というわけで、多少カロリーは気にしながらも好きなものを食べ、相変わらず週5、6回ペースでお酒を飲み、ゆるい感じでトレーニングしている。まあ、これで劇的に痩せるはずはないが、そもそも僕の体形を気にしてくれる人などいないし・・・。

 元々僕は週に1度スポーツクラブに行き、マシンで筋トレをし、小一時間走っていた。もう20年近く続けている。今まではこれで体形や体重を維持することができた。しかし、悲しいかな、この年になると代謝が落ち、同じことをしていては太るようになってきた。そこで今回スポーツクラブの回数を週1から週2に増やし、かつ内1回は個人レッスンを受けることにしたのである。
 僕は、体幹を鍛える、お腹周りの肉を落とす、の二つを目標にレッスンをお願いした。トレーナーは、元気で明るい筋トレ大好き女子。腹筋運動をするときの彼女は、満面の笑みを浮かべ、この上なく幸せそう。うら若き乙女(?)なのに、筋トレ好きが高じ、今に“エネゴリくん”のような体形になってしまうのではと、僕は秘かに心配している。

 そんなエネちゃんは(注:ゴリちゃんでは失礼なので)、僕にきつい運動をさせるのが好き。彼女曰く、トレーナーには、自分も含め、Sの人が多いとのこと。確かに、やさしく、遠慮がちな性格では、人に嫌な運動や厳しい運動を強いることは難しいだろう。もっともエネちゃんの言うトレーニングの内容はハードだが、その口調はいたってソフト。純粋に、僕の体を鍛えよう、筋肉を増やそうと頑張ってくれているに違いない(と思いたい)。
 この半年間、エネちゃんから、基本的な体幹トレーニングのほか、場所を意識した腹筋の鍛え方、足を鍛えるトレーニング、それにベンチプレスなどフリーウェイトのやり方を教わった。また、自分では気が付いていない体の特徴、弱点を指摘してくれ、目から鱗で有難かった。

 さて、半年間のトレーニングの成果であるが、たるんだ生活を送りながらも体重は2、3キロ減り、お腹周りは少しスッキリした(注:本人の主観的感想)。足の筋肉はもう少し欲しいが、肩や胸には筋肉が付いたように思う。
 そして、僕としては何よりも腰の状態が良くなったのがうれしい。体幹トレーニングは腰痛に効く。さすがに若い頃のようには行かないが、過去十数年で一番良い状態である。腰痛持ちの方は是非体幹トレーニングを!

 ところが、ここにきて大きな問題が。実は、今度引っ越すことになったのである。これからは一人でつらいトレーニングをしないといけない。もうエネちゃんの助けはない。トレーニング方法は一通り覚えたものの、やはり一人だと甘えが出てしまう。勝手に楽なやり方に変えたり、苦手な運動はやめたり。ダメだ、せっかく引き締まった体が元に戻ってしまう。
 が、不幸中の幸い、引っ越しその他物入りで(引っ越し代高い!!)お金がないから自然と食事制限できるかもしれない。あと、エネゴリくんのぬいぐるみでも買おう。それを見てはエネちゃんを思い出しトレーニングに励むのはどうだろう。しかし“いい年したオヤジとぬいぐるみ”という構図は若干気持ち悪い。そう思うと、同じENEOS繋がりで、エネちゃんがエネゴリくんより吉田羊に似ていたら良かったのだが・・・。
 あっ、誤解のないように付け加えると、エネちゃんは吉田羊とただタイプが違うだけで、とっても可愛い女の子です(って、もう遅い??)。

家を貸すって大変!

2018-03-14 21:42:41 | 最近思うこと
 「こんな変わり果てた姿になって・・・。お前には本当に苦労かけたな。」

 べつに『おしん』のように子供を厳しい奉公に出していたわけではない。貸していたマンションが空き、4年振りに部屋を見て来たのである。
 マンションは随分ぼろくなっていた。床には大きなシミ、壁紙には汚れやひび割れ、障子は破れ、そして窓は開きにくい等々。勿論経年劣化は仕方がないが、使い方のせいなのだろうか、4年という歳月以上に傷んでいる気がした。この間、我々は違うマンションに住んでいたが、そこはここまでひどくない。
 う~ん、人に家を貸すというのは、こういうことか。自分の家であれば大事に使うが、他人の家、それも一時の住まいだと思えば、使い方は自ずと雑になるのだろう。せっせと稼いで住宅ローンの返済を助けてくれたマンションに、お詫びの言葉もない。

 この4年間、家を貸すとぼろくなると知った以外にも、いくつか発見があった。

 まずは、賃借人、つまり借り手の権利が極めて強いと知ったこと。契約書上は「正当な事由」があれば賃借人に退去してもらえるとあるが、実際にはほとんど無理だと聞かされた。例えば、自らが住みたいとか、子供が住むといった程度では「正当」と認められないという(別途家を借りて住めば良いということらしい)。どうしてもとなると、賃借人に相当な立ち退き料を支払う必要があるそうだ。よって、転勤等でいずれ戻って来るつもりならば、多少賃料は下がるかが、期限を切った定期賃貸借にしないといけない。

 次に税金の高さ。給与天引きでは税金をあまり意識しないが、確定申告し、自ら追加で税金を納めるとなると、その金額の大きさに驚いた。これは以前「家主はつらいよ 確定申告編」に書いた通りである。

 そして退去ビジネスの存在。今回、退去時の立会い代行から、原状回復工事の見積り・交渉、そして実際の工事まで行う業者の存在を知った。入居者の募集・管理等は大手不動産販売業者にお願いしていたが、賃借人の退去にあたり、そこの協力会社として紹介されたのである。また、こちらがプロであれば、先方にもプロがいる。保険会社である。業者の出した見積りを精査し、妥当と判断した金額を支払ってくれる。
 原状回復をめぐるトラブルが多いとは聞いていたが、こうしたビジネスが成り立っているとは知らなかった。今では保険に入ることが賃貸の条件になっているケースが多いとのこと。原状回復は敷金で十分といった牧歌的な(?)時代はとうの昔の話なのであった。

 実は、このマンションを買う前、一時的に家を借りていたことがある。このときの仲介業者のおばさんがとても良い人で、家主は法人契約を希望していたのに、この人なら個人契約でも問題ないと押し切ってくれたし、僕らが1年ほどで出ることになった際も、綺麗に使っていると敷金は全額返ってくるようにしてくれた。20年近く前の話だが、今のご時世では到底考えられない対応である。やれやれ、家を貸すのも借りるのも大変な世の中になったものだ。

 というわけで、結局僕らはこのマンションに戻ることにした。現在リフォーム中。苦労をかけた家が、また綺麗な姿に戻るのが楽しみだ。この家が終の棲家になるか、それとも売って他所に移るか、先のことはわからない。ただ、もう貸すのは止めようと思っている。


軽減税率の問題は新聞だけ?

2017-10-30 21:45:40 | 最近思うこと
 小泉進次郎議員が、先の選挙特番で唐突に「新聞への軽減税率はおかしい。」と言い、話題になっている。
 確かに食品と新聞だけが消費税の軽減税率の対象というのは若干奇異な感じがする。ニュースはインターネットで十分と考える人が増えており、50百万部以上あった新聞の発行部数はこの10年で10百万部も減っている。それなのに、なぜ殊更に新聞を食品と並ぶ生活必需品として軽減税率を適用する必要があるのだろうか。
 もっとも、個人的にはもう一歩踏み込んで軽減税率自体必要なのかと小泉議員には言って欲しかった。というのは、昨年2月に軽減税率の導入が決められたとき、代替財源の確保以外、問題点の議論を聞いた覚えがないからである。

 軽減税率の導入は、国民の増税への抵抗感を弱めるための策に過ぎない。更に言えば、これはひとえに与党の選挙対策である。ポピュリズムであり、そこには理念も何もない。
 公明党は、弱者保護のお題目の下、軽減税率の導入を強く主張しており、一方の自民党は、公明党の選挙協力を得るためには導入已むなしとの考えだった。かくして2019年10月の消費税10%への引き上げの際、①酒類・外食を除く飲食料品と、②週2回以上発行される新聞(定期購読契約に基づくもの)に、8%の軽減税率が適用されることになったのである。

 この軽減税率、課税の三原則 - 公平・中立・簡素 - に照らして考えると、大変おかしな仕組みである。
 まず「公平」の観点。消費増税は逆進性を高める、つまり低所得の人ほど負担が大きくなるというのが、軽減税率導入の最大の根拠となっている。しかし軽減税率は逆進性対策として必ずしも効果的ではない。一つは絶対額の差。高所得者の方が食品への支出額は大きいので、軽減税率導入の恩恵、軽減される金額は、高所得者の方が大きくなってしまう。
 また、この議論は「低所得者の方が消費に占める食費の割合(エンゲル係数)が高い」との前提に立っているが、実はエンゲル係数の所得水準による差はあまり大きくない。金持ちだからといって衣食住の食だけ増やすのではなく、衣や住、それに旅行やレジャー、教育等への支出も増やすからである。
 例えば、手取り月20万円の家庭と、月100万円の家庭を考えてみよう。エンゲル係数を25%とすると、各々食費は 5万円、25万円となり、よって軽減税率の効果はその2%、1,000円と 5,000円。絶対額は高所得者の方が断然大きい。仮に月100万円の家庭のエンゲル係数が20%だったとすると軽減税率の効果は 4,000円に減る。手取り額に対する軽減税率の効果を考えれば、月20万円の家庭は 0.5%、月100万円の家庭は 0.4%。この程度の差なら、絶対額の違いもあるし、低所得者に税額控除や給付等を実施した方が逆進性対策として有効だと思う。

 次に「中立」。テイクアウトや宅配は軽減税率の対象になるが、外食やケータリングは対象にならない。お弁当や惣菜の店、スーパー・コンビニにとっては有難いが、外食業界にとっては由々しき問題である。最近コンビニでイートインが増えているが、これは2年後の軽減税率を睨んでのことかもしれない。特にオフィス街の飲食店にとっては大きな脅威であろう。
 また、中小企業にとっては軽減税率に備えたシステム対応への負担も小さくない。

 最後の「簡素」についても軽減税率は問題がある。まず対象品目の線引きが難しい。上述の通り、飲食店でテイクアウトや出前をすれば軽減税率となるが、同じ物であっても、それをお店で食べれば軽減税率にはならない。ところが、お店で食べても、それがコンビニで買った物をイートインで食べるのであれば軽減税率になる。不思議な話だ。
 もう一つ、「一体資産」というのがある。おもちゃ付きのお菓子や、綺麗な器に入った食べ物など、食品と食品以外のものがあらかじめ一体となった商品をいうらしい。これは一定の条件を満たせば軽減税率の対象になるというが、これまた分かりにくい。

 小泉議員が何を思って新聞の軽減税率を採り上げたのかは解らない。聖教新聞を持つ公明党に喧嘩を売っているのか、はたまた公明党の組織票頼みの自民党に活を入れているのか。その真意はともかく、これを機に軽減税率の意味が改めて議論されると良い。
 それにしてもポピュリズムというか、政治家の日和見主義は何とかならないのだろうか。

(写真:食べるならテイクアウト?)

WSET Level 2 に合格しました!

2017-08-29 20:14:34 | 最近思うこと
 ある日唐突に「ワインを英語で語れるおじさま(注:“おじさん”ではない!)になろう。」と決意し、WSETのLevel 2を英語で受験することにしました。
 WSETというのは “Wine & Spirit Education Trust” の略で、イギリスに本拠を置く、ワインの教育や資格認定を行う世界的機関です。19の言語により世界60カ国以上で教育、試験が行われています。日本でワインの資格というとソムリエやワインエキスパートが有名ですが、これは㈳日本ソムリエ協会の認定資格。ワインの国際的な資格としては断然WSETということになります。

 WSETの資格はLevel1~ 4の4種類。Level 3までは日本語でも受験できますが、Level 4からは英語のみとなります。難易度等は概ね以下のイメージかと思います。
  ・Level 1 : 初心者向け、ほぼ全員受かる。
  ・Level 2 : 初級者向け、スクールに通って勉強すれば大体受かる。
  ・Level 3 : 中級者から上級者向け、ソムリエ並み(それ以上?)の知識が要求され、かなり難しい。
  ・Level 4・ディプロマ : 上級者・プロ向け。英語が得意なワインスクールの先生など日本で30人程度しかいないらしい。
 さらに、この上にマスター・オブ・ワイン(MW)があって、こちらはもうほとんど“神”レベル。世界29カ国でわずか356人(2017/3)、日本人に至ってはたった2人しかいません。
 「な~んだ、Level 2って大したことないじゃない。」との声が聞こえてきそうですが(事実そうなのですが)、この年で新たな挑戦をしたということでご容赦ください。

 僕は4月から「アカデミー・デュ・ヴァン」のWSET資格取得コースに通いました。2時間の授業が8回あり、その後に試験です。講師はスコットランド出身のイギリス人。彼のスコットランド訛りのせいか、はたまた僕の英語力のなさのせいか(後者の可能性極めて大)、正直、授業はあまり聴き取れませんでした。僕以外はほとんど帰国子女と外国人で、皆普通に先生と話していたのですが・・・。一人だけ疎外感。
 ただ「ワインを英語で語る」という当初の目的に関しては、毎回のテイステイングで彼のコメントを繰り返し聴き、最低限の表現のコツをつかむことができたと思います。

 8月2日が試験でした。実はその直前に前々から海外旅行の予定が入っており、真剣に勉強したのは旅行前の1週間だけ。テキストを読み、ノートをまとめ、自分なりの暗記表を作成。赤・白別に、縦にブドウ品種、横に国名の表を作り、各々の欄に産地や銘柄、ワインの特徴等をまとめました。これは我ながら秀逸な出来栄えです。色使い等体裁を良くすれば、他の受験者に売れるかもしれません。
 しかし、この完璧な表を作ったことで満足し、その後はあまり勉強しませんでした。ずっと英語を見ていてもなかなか頭に入りません。すぐに飽きるし、疲れてしまいます。が、練習問題はそこそこ出来ていたし、それに僕には長年飲んだくれて来た経験と実績があるから、試験は合格するとの自信(過信?)がありました。

 試験は4択が50問。試験時間は60分で、正答率55%以上が合格です。試験開始。最初の20分で一通り回答し、15分で見直しをしました。わからない問題や迷った問題もありましたが、6割の回答には自信があります。合格には3段階あって、正答率55~69%が“可”、70~84%が“良”、85%以上が“優”となっています。6割にどれだけ正解を上乗せできるか、試験を終え、優はちょっと厳しいが良に届けばいいな、といった感触でした。

 昨日、結果が届きました。蓋を開けてびっくり、もとい実力通り(?)堂々“優”で合格です。合格証書と襟章をもらいました。これで僕もいっぱしのワイン通。
 と思ったものの、俄か勉強は忘れるのも早い。試験から1カ月弱、日に日に薄れ行く記憶。「ワインを英語で語れるおじさま」となる夢は遠のき、ただの“飲んだくれおやじ”に陥る危機。おまけに、そもそも英語は読めるけど語れないとの噂も・・・。昭和の英語教育の典型的申し子です、まったく。まずは英会話学校の方が先だったかな。

ノーベル賞授賞式、ディランに代わりパティ・スミスが歌う

2016-12-08 21:16:59 | 最近思うこと
 今週の月曜、12/10のノーベル賞授賞式でパティ・スミスがボブ・ディランの“A Hard Rain's A-Gonna Fall”(激しい雨が降る)を歌うとの発表があった。また晩餐会にはディランからメッセージが寄せられているとのこと。誰がそのスピーチを読むかは当日のお楽しみのようだ。

 僕はボブ・ディランの音楽をほとんど聴いたことがない。歌うというより、ギターを弾きながら、ただ歌詞を読んでいる人みたいなイメージがあって、あまり好きではなかった。おそらく僕の英語力のなさゆえ、彼の詩を、彼の世界観を理解できなかったことが、その大きな理由だと思う。このため僕は、ディランがノーベル賞受賞につき沈黙していたことにも、受賞はするが式典は欠席することにも、取り立てて何の感情もなかった。

 無論、世の多くの方はボブ・ディランが授賞式に出ない、歌わないことを大変残念に思われていることだろう。が、気落ちせず、是非パティ・スミスの歌を聴いて頂きたい。彼女は詩人であり、そして「ロックの殿堂」入りを果たした一流のミュージシャンなのだから。ディランと相通ずるところもある。

 彼女は70年代にまず詩の朗読で舞台に立った。その後音楽をバックに詩を朗読するようになり、ついには自ら作詞作曲し歌うようになった。パンク・ロックの走りである。初めのうちは一部でしか評価されていなかったが、ブルース・スプリングスティーンとの共作“Because the Night”のヒットで一躍メジャーの仲間入り。ランボーに憧れ詩を書き始めた彼女の詩は、激しく、ときに反体制的であった。そして彼女の歌声もまた激しい。
 そんな彼女の歌を僕は高校時代によく聴いていた。一番のお気に入りは“Rock N Roll Nigger”。niggerに人種差別的な意味はなく、反逆的でありながらも尊敬されるべきアウトサイダーといった意味だったと思うが、nigger、niggerと連呼するこの曲、今では放送禁止かもしれない。

 知らなかったが、彼女は十代の頃からかれこれ50年ディランのファンだという。ディランとの交流も古く、彼の前座としてツアーを回ったこともあるそうだ。そんな経緯からディランの代役として彼女に白羽の矢が立ったのかと思ったが、元々彼女は今回の授賞式で歌うことになっていたという。9月に、ディラン受賞の発表前に、授賞式でオーケストラをバックに歌って欲しいとのオファーがあったそうだ。おそらく、ディランが出る・出ない、どっちに転んでもディランと親しいパテイ・スミスなら何とかしてくれるとノーベル側は考えたのであろう。さすがノーベル、用意周到である。

 今回は彼女の方で自分の歌ではなくディランの歌を歌うことを決めたという。“A Hard Rain’s A-Gonna Fall”を選んだのは、この歌がディランの最も美しい歌の一つだから。彼女曰く、この歌は彼のランボーのような卓越した言葉使いと、人間の苦悩や回復する力についての深い理解とを兼ね備えている。
 う~ん、難しい。自分で訳しておいてなんだが、何を言っているのかさっぱりわからない。皆さん、この意味を知るため、謎を解くため、是非授賞式を見よう。パティ・スミスの歌を聴こう。YouTubeなら全部見られるはずだ。
 で、おぼろげにでも彼女の言葉の意味が分かった方は僕に教えて下さい!


高樹沙耶と『かわいい女』

2016-10-31 22:33:34 | 最近思うこと
 この週末、テレビで高樹沙耶のニュースを見ていたら、ふとチェーホフの『かわいい女』を思い出した。高樹沙耶の容姿云々の話ではない。彼女の性格というか、過去の交際相手との関係を聞き、そう思ったのである。

 『かわいい女』を読んだのはもう30年以上も前。細かい内容までは覚えていないが、バカもここまで行くと憐れを通り越し、かえって立派、かわいいといった話だったと記憶している。
 主人公の女性は一途で夫や恋人にのめり込むタイプ。ひたすら相手のことだけ考え、相手のために尽くす。そして話すことといえば相手の男性の仕事の話ばかり。当然男が変われば話題もがらりと変わる。自分というものがなく、男がいなくなった途端、私は何を話せばいいの、話すことがないわ、と嘆く始末だ。
 ねっ、バカでしょ。が、しかし、何の見返りを求めることなく、ただ盲目的に愛する主人公の姿を見て、かのトルストイまでこの小説を大絶賛したそうだ。今の世の中だと女性蔑視と怒られそうだが、この小説が書かれたのは19世紀終わりのロシア。ご容赦願いたい。

 さて、翻って高樹沙耶。ワイドショーで彼女の男性遍歴を事細かに話していた。シンガーソングライターの中西圭三との離婚後、ハワイに移住。そこで知り合った水中カメラマンと付き合ったことからフリーダイビングに傾倒。ついにはフリーダイビング・ワールドカップで日本記録を樹立し、銀メダルを獲得したとのこと。
 その後彼と別れ日本に戻り女優業に復帰したかと思えば、エコロジカルな生活を目指すと千葉の房総に移住。このときは自然農法家の男性と同棲していたという。
 そして、今回一緒に逮捕された大麻草研究家(?)の男性。彼との出会いにより彼女は大麻に手を染めることになった。

 『かわいい女』の主人公と違い、高樹沙耶はしっかり自分というものを持っている気がする。さらに、女優としての成功、フリーダイビングの腕前、森林を自ら開墾し宿泊施設を建設等から考えるに、彼女は類稀な才能や行動力に恵まれているのであろう。きっかけはパートナーの男性だったとしても、彼女はすぐさまその分野で相手に追い付き、あるいは凌駕する知識や実力を身に付けたのではないだろうか。そして『かわいい女』の主人公のように、自分の意見、考えとしてそれを話すのである。

 が、いかんせん、彼女には男運というか、男を見る目がなかった。なぜ、男の影響を受けるのではなく、自らの意思で、自らの信じる道を進めなかったのだろうか。彼女ならそれが出来た気がしてならない。それとも、彼女は強いように見えて実は弱く、誰かからほめられ、ちやほやされ、そして支えてもらわないと生きていけない性格だったのだろうか。
 
 もし彼女が実際の人生でも『相棒』の杉下右京のような男性と巡り会っていれば、まったく違う人生を歩んでいたに違いない。自らが逮捕されるのではなく、逆に逮捕する側であったり、社会の安全や治安を守る仕事に携わり成功を収めていたかもしれない。そう思うと本当に残念だ。
(あっ、そういえば『相棒』の中でも、たまきさんは右京さんと離婚していたんだ。やはり彼女は、現実・虚構問わず、男運がないのだろうか・・・。)

コンピュータの将棋や囲碁の実力は?

2016-10-25 23:29:46 | 最近思うこと
 日曜日にEテレのNHK杯将棋トーナメントで今話題の三浦九段の対局が放送されていた。あの将棋ソフト不正使用疑惑の三浦九段である。対戦相手は橋本八段。疑惑が表面化する前の収録らしい。僕は途中から見たが、急戦で展開が早く、なかなか面白い将棋だった。
 三浦九段が対局中に将棋ソフトを不正に利用していたのか、現状、その真偽の程は定かではない。状況証拠から絶対にクロだという声もあるが、本人は否定しており、かつ確たる証拠があるわけでもない。本件どう決着するかはわからないが、勝負の世界の話であり、僕は白黒をはっきりつけた方が良いと思う。そうでなければ日々研究、精進している棋士の方々に対し失礼であろう。

 ところで、こうした疑惑、囲碁の世界では今のところ考えられない。いや、将棋の世界でも十年くらい前まではまったく考えられなかった。理由は簡単、人間の方がコンピュータより断然強かったからである。

 チェスの世界では20世紀終わりにコンピュータが人間を追い越した。が、将棋はチェスより複雑であり、当時はコンピュータが人間に勝てるはずなどないと考えられていた。
 チェスと将棋を比較すると、マス目の数はチェス 64に対し将棋 81、駒の種類と数は、同じく 6種類32個に対し 8種類(+成駒 7)40個と、いずれも将棋の方が多い。さらに両者の差を決定的にしているのは、将棋では取った駒を自由に使えることである。チェスでは盤上に残っている駒しか使えない。この駒の再利用の可否により、次の1手の可能性に雲泥の差が生じている。

 しかし、この十年で将棋ソフトは格段の進歩を遂げた。これはコンピュータの計算能力向上もあるが、ソフト面の進歩の方がはるかに大きいという。
 将棋ソフトは、プロ棋士の棋譜(将棋の指し手を順に記録したもの)を徹底的に学習した。棋譜を丸暗記するのではない。それでは全てが同じ場面でしか役に立たない。将棋ソフトは指し手の持つ意味を学習したのである。つまり、ある局面においてプロにより指された手は、他の選ばれなかった手よりも優れている手だと学習し、自らの判断基準、評価関数を修正して行ったのである。これを膨大に繰り返した。繰り返しはコンピュータの得意とするところであり、生身の人間では到底太刀打ちできない。かくしてコンピュータは成長を重ね、将棋でも人間の上を行ったのであった。

 一方、囲碁では、コンピュータの実力はアマチュアの有段者レベルだという。まだプロ棋士の足元にも及ばない。囲碁は将棋よりも複雑で、大局観の判断、数値化がなかなか上手く行かないようだ。が、これはあくまで今現在の話。コンピュータがプロのトップ棋士を凌駕する日もそう遠くないであろう。
 もしコンピュータが囲碁のような複雑なゲームで大局的な判断ができるようになれば、いっそのこと政治を、たとえば地方議会の代わりに意思決定を任せてはどうだろう。コンピュータは、それこそ“ゲーム理論”により、効用を最大にする選択をしてくれるだろうし、少なくともカラ出張や白紙の領収書などは無くなると思うが。

やわらかく、そしてやさしく ~ 熊本地震の被災地支援

2016-04-21 23:16:46 | 最近思うこと
 この週末、テレビでACジャパンのCM『やわらかいこころをもちましょう』をよく見かけた。相田みつをの「セトモノ」という詩の流れるCMである。いいなぁ、と思う。僕は好きだ。

 このところ社会全体が、とげとげしたというか、ギスギスしたというか、“やわらかいこころ”を失っている気がしてならない。かくいう僕も年とともに怒りっぽくなっている。心の余裕がなくなり、次第におおらかさ、寛容さが薄れてしまった気がする。
 例えば朝夕の通勤時。僕の前にスマホを見ながらのんびり歩いている奴がいたりすると思わず「とっとと歩け」と蹴飛ばしたくなるし、階段の上り下りのルールを無視した奴がぶつかってきたりすると「危ないだろ」と怒鳴りたくなってしまう。

 いつ頃からだろう、“キレる”という言葉が使われ出したのは。当初は若者に使われていたが、その親の世代がモンスターペアレントと騒がれるようになり、最近はその上の世代でキレる老人が話題になっている。ネットの炎上も日常茶飯事だし、まさに一億総キレ社会(?)といった感じである。
 長引く景気の低迷に格差の拡大、さらには高齢化の進展と人口の減少。もう昔のように無邪気に明るい未来を思い描くことなどできない。漠とした不安に閉塞感、そして日々溜まっていくストレス。まあ、皆が怒りっぽくなる、キレるのも無理はないかもしれない。
 しかし、今、それが行き過ぎていないだろうか。

 ACジャパンのCMが増えているのは、皆さんご存じのように、企業が熊本地震を受けCMを自粛しているからである。企業は、この非常時にも自分の利益しか考えていないのか、被災者の方が本当に大変な想い・つらい想いをされているのに非常識だ、等々の非難、苦情を避けようとCMを自粛しているのである。
 そんな企業の中には被災地支援に真摯に取り組んでいる企業もあるとは思うが、多くの企業は「君子危うきに近寄らず」的な対応をしているだけである。そう、目に見えない世間の圧力、怒りを慮っての行動、リスク回避でしかない。世間の、というか一部の声の大きな人達と言った方が良いかもしれないが、その圧力、怒りのパワーは凄まじいものがあるし、さらに恐ろしいのは、そこには理屈がないのである。

 今回の震災への対応を巡り、ネットで炎上した芸能人が数多くいる。被災地の方を励ましたり、寄付をしたのに売名行為だと罵られ、あるいは被災の苦しみを綴れば つらいのはおまえだけじゃないと非難される。どこかおかしくないだろうか。やり方や公表の仕方に多少の問題はあったのかもしれないが、僕は、仮にそれが本当に売名行為だったとしても、やらないよりはやった方が良いと思う。他人が、それも被災者ではない人間が、とやかく言うことではないだろう。

 被災地の方のため、皆が自分のできることをすれば良い。自らの正義をかざして他人を非難するだけでは何の解決にも支援にもならない。また自粛するだけでは前に進むことはできない。
 まず、何かを始めよう。そして、それを続けて行こう、ずっと。

『わたす 日本橋』 ~ 南三陸町との橋渡し

2016-04-14 22:25:00 | 最近思うこと
 今日のお昼、『わたす 日本橋』に行った。南三陸町はじめ東北の被災地を支援するための施設である。もうオープンして1年、会社のすぐそばなのに僕はその存在をまったく知らなかった。昨日偶然ネットで見つけ、南三陸町を応援する僕は早速ランチにお伺いした次第。場所は東京メトロ日本橋駅からすぐ、COREDO日本橋とふとんの西川の間の路地にある。小さなビルの1階・2階が飲食フロアになっており、3階は復興関連のイベント等を行う交流フロアである。
 
 『わたす』は三井不動産が東日本大震災復興支援の一環として昨年3月3日に開設した。南三陸の海の幸・山の幸を使った料理を提供したり、観光やイベントの情報を提供したりしている。TV会議システムを利用して地元の中学生への学習支援も行っているそうだ。「南三陸町と日本橋に、人と未来に、心の懸け橋を」との想いに端を発するプロジェクトである。

 元々は三井不動産の一人の女性社員のボランティア活動がきっかけとのこと。彼女は南三陸のことをいたく気に入り何度も足を運び、南三陸の良さを多くの人に知ってもらいたいと考えるようになった。そんな彼女の想いが会社の中で少しずつ広まり仲間が増え、ついには同社の役員の耳にも入った。そこから会社のプロジェクトとして動き始めたのだという。一人の女性の夢、願い、(関係者の方の言葉を借りれば)妄想が現実のものになったのである。

 南三陸町には、旬の魚介類を使った春夏秋冬の「キラキラ丼」がある。僕はその美味しい記憶があったのでランチには迷わず「三陸海鮮DONBURI」を頼んだ。女川や南三陸から直送した鮮魚とトマトやアボガドを使ったバラちらしと書いてある。1,380円とランチにしてはお高いが、美味しいのであれば・・・。
 さて、期待した海鮮DONBURI、美味しいことは美味しいが、いかんせん量が少なかった。もとい、ご飯の量はそこそこあるが、肝心の魚の量が極めてお上品なのである。にもかかわらず1,380円。コーヒーが付くとはいえ、しがないサラリーマンのランチである。ワンコインとは言わないまでも1,000円には抑えて欲しい。もっとも夜のメニューを見ると昼に比べてリーズナブルな気がする。よし、今度は残業した夜にでも来てみよう。

 失礼ながらランチにはあまり感動しなかったが、このプロジェクトに携わっている方の想いには感動するし、僕も応援して行きたい。震災後4年経ったところで『わたす』はスタートし、これからもずっと被災地の方と繋がっていたいという。その気持ちが本当に素晴らしいと思う。
 ニクイねぇ! 三井 (あれっ、ちょっと違う??)

10年前と今 ~ 十年一昔、あるいは歴史は繰り返す?

2016-02-12 23:15:43 | 最近思うこと
 早いものでブログを始めて今日で10年になる。最初の3か月は毎日記事を書いていたが、最近はとんとさぼりがち。週一はおろか、月一に近い ていたらくである。

 この10年、個人的には大きな変化があった。まず、仕事が変わったこと。2度目の転職をした。さらに、そこで2度目の合併を経験。合併は疲れるし、皆がハッピーとは行かないので、これが最後になると良い。
 次に引っ越し。十数年住んだ月島から中野に引っ越した。そしてまた住宅ローンを抱えた生活に逆戻り。これでは当分文句を言わずに働くしかない。
 ブログを始めた10年前には今の生活を、勤め先も住む家も両方変わることなど、予想だにしていなかった。十年一昔。月日の流れ、その変化は大きい。
 また、この間も技術の進歩は目覚ましい。身近なところでは、テレビ、携帯電話、パソコンなど。いずれも昔と今では比べ物にならない。大画面かつ鮮明なテレビ、スマホ、タブレット等々、まさに十年一昔を実感できる。

 しかし、世の中に目を向けると、不思議と10年前と変わらないこと、同じようなことが起きている。
 一つは安部内閣。第一次安部内閣が誕生したのは2006年9月、そう、ちょうど10年前。このときも自公連立政権だった。もっとも当時と今とでは安部首相の印象が全然違う。第一次安部内閣では大臣の問題発言・不祥事等が続き、安部首相は突然首相の地位を放り出した(後に持病の重症化も理由だとわかったが)。
 が、今の安部首相にそんな弱さは微塵もない。大臣が問題発言や不祥事を起こそうが、ただその首を挿げ替えるだけ。自らは東京オリンピックを首相のまま迎えるかの意気込みすら感じられる。まあ、この首相の変わりよう、これはこれで十年一昔と言えるかもしれないが。

 もう一つ、監査法人の不祥事がある。2006年5月、中央青山監査法人は、その会計士がカネボウの巨額粉飾決算に加担したとして 2カ月の業務停止処分を受けた。その後顧客離れが止まらず、我が国を代表する監査法人であった中央青山は翌2007年解散に追い込まれた。
 そして今、新日本監査法人が東芝の不正を見逃したとして 3か月の業務停止処分を受けている。ただ中央青山との違いは、業務停止が新規業務に限定されたことである。既存顧客に係わる業務は行うことができ、3月末決算の会社の期末・期初の対応も可能である。もっとも自らのガバナンスが問題視された新日本、顧客の流出が起きないと断言はできない。

 人は皆、生まれ、成長し、老い、そして死んで行くわけで、人生は変化の連続である。そして技術は進歩の積み重ねである。この二つが、人が時間による変化、“十年一昔”を感じる所以であろう。
 一方で人そのものは変わらない。つまり、種としてのヒトを考えれば、人間が突然賢くなることはないし、急に欲がなくなることももない。だからこそ、いつの時代でも所詮人間のやることに大きな変わりはなく、同じようなことが起きる、歴史が繰り返すのだと思う。

 この10年を振り返るつもりが取り留めのない話になってしまったが、明日からも折に触れブログを書いて行きたい。

“ベターハーフ”の本当の意味は?

2015-12-14 22:25:22 | 最近思うこと
 クリスマスが近いことだし、たまにはロマンチックな話を。

 ベターハーフ(better half)の語源というか由来をご存知ですか。
 これは僕が勝手に信じ込んでいるのですが、それはプラトンの『饗宴』ではないかと思います。ソクラテスが宴の席で居合わせた詩人や医師らと愛について語ったときの話です。

 その中でアリストパーネスという詩人がこんな話をしました。

 むかしむかし、人間は今の形ではなく、二つの体がくっついた、つまり二人一組だったのです。その組み合わせは、男と女、男と男、女と女の3通り。ところが、知恵を持ち、力を持った人間は次第に生意気になり、神様に反抗するようになりました。怒った神様は、人間の力を削ぐため、人間を二つに分け、今の形にしたというのです。
 そのため人間は、かつての片割れ、もう半分を求め、常に一緒にいたいと想うようになりました。それが愛です。男と女のペアであったものは異性を、男と男、女と女のペアは各々同性を好きになる。これは古代ギリシアの話なので同性愛もタブーではありません(ご関心のある方は、『欧米の首脳がソチの開会式を欠席する理由』(2014/ 2/ 3)をご覧ください)。

 僕が『饗宴』を読んだのは純粋な高校生の頃。「そうか、人は完全な姿を取り戻すために恋をする。自分探しというか、もう半分の自分をずっと探し求める。それが愛なんだ。」などと思ったことを覚えています。
 同時に「完全になるためのもう半分、自分のより良いもう半分だから better half なのか。」と妙に納得したことを覚えています。

 このアリストパーネスの話は後でソクラテスに論破されてしまうのですが、不思議と記憶に残っていました。肝心のソクラテスの話はすぐ忘れて、もとい、初めからよく理解できなかった気がしますが・・・。
 
 しかし、改めて英和辞典をみると、better half の原義は「自分の存在の大半を占めるほど親しい人」とあります。そう better には「より良い」のほか「より多い」との意味もあるのです。もっともこの場合も、“もう半分・片割れ”ではないものの、それだけ大切な人であることに変わりはありません。

 最後に、これは俗説ですが、betterを「より多い」の方で解釈し、better half を“半分以上お金を取る人”とする説もあります。つまり、自分が稼いだお金の大半を取る人 = 妻、というものです。確かに better half は通常妻を指す言葉です。妻が夫を better half というのは稀です。

 とすると、最後のが一番説得力ある気がしますが、みなさんはどう思いますか?
 (あれ、なんだかな~、全然ロマンチックな話じゃないな。)

南沙問題は日本に関係ない?

2015-11-08 00:31:11 | 最近思うこと
 自民党の野田前総務会長が、南沙諸島の問題は日本に関係ないと発言したそうだ。僕はそのテレビ番組を見ていないので、前後の脈絡や彼女の意図するところはよくわからない。ようやく関係改善の兆しが見えてきた中国のことを慮ったものか、あるいは、自衛隊の南沙諸島派遣が取り沙汰され安保法案を巡る騒ぎが再燃するのは避けたいとの思いか等、その真意は定かではない。
 しかし、たとえ相手が中国であろうと法に反することは悪いときっちり言うべきだと僕は思う。政治家として筋を通す必要がある。
 また、わが国の経済や私たちの生活、さらにはわが国の安全保障を考えたとき、本当に南沙問題は日本に無関係と言えるのだろうか。残念ながらマスコミの報道でこの観点からの指摘を見ることは少ない。マスコミでは、南沙問題は元々中国とフィリピン、ベトナムとの領有権の問題、そこに中国による軍事利用を嫌うアメリカが加わってきたと捉えられている気がする。そう、外国の問題、外国にも尖閣と同じ問題があるといった感じ。国民の関心もあまり高くはない。こうした状況が野田前総務会長の発言の背景にあると思う。

 南沙諸島は南シナ海南部にあり、20あまりの島、岩礁、砂州からなる。元々人が住んでいなかったため、その領有権は曖昧。ベトナムを植民地としたフランスが実効支配を始め、太平洋戦争中は日本が支配した。戦後、中華民国(台湾)、ベトナム、フィリピンが自国に近い島を実効支配し、各々領有権を主張した。そして、最後に出てきたのが中国。1953年、南シナ海の地図上に勝手に「九段線」なる九つの破線を引き、しまいにはその内側にある海域はすべて中国の領域だと主張し始めた。
 遅れてきた中国は、軍事力により南シナ海での勢力を拡大する。1974年、中国は当時の南ベトナムと戦い西沙諸島を手中に収め、1988年のスプラトリー諸島海戦でベトナムを破り、いくつかの岩礁を実効支配した。今埋め立てや滑走路建設で話題になっているのは、いずれもこの海戦で手に入れた岩礁である。

 さて、冒頭で「法に反する」と言ったのは、一つは中国が主張する「九段線」に何ら法的根拠がないことであり、もう一つは、国連海洋法条約で領海も排他的経済水域も有さないとされる、満潮時に沈む岩礁や常に沈んでいる岩礁までも、中国が埋め立てにより人工島とし領海等を主張していることである。
 南沙問題のわが国への影響であるが、南シナ海はわが国のエネルギー資源輸送の大動脈である。日本は原油輸入の8割を中東に依存しており、その9割がマラッカ海峡から南シナ海を経て運ばれている。南シナ海の航行の自由、安全が脅かされたとき、日本経済や私たちの生活への影響は大きい。もっとも、これはタンカーがロンボク海峡(あのバリ島の横)からフィリピンの東側を通り、南シナ海を迂回できた場合の話。それができなかった場合の影響は計り知れない。
 中国は「九段線」から台湾、尖閣、沖縄、九州までを「第一列島線」とし、その海域の制海権を握ることを目標に掲げている。次の段階として、中国は、パプアニューギニア、グアム・サイパン、小笠原、伊豆諸島にかけてを「第二列島線」とし、海軍を展開する計画である。中国がこの段階に入っていたとすれば、最悪、タンカーは南シナ海を迂回するため遥かオーストラリアの南を通り太平洋を北上せざるを得ないかもしれない。このとき、運送費や保険料の大幅なアップは勿論、タンカーそのものの確保が課題になる。輸送日数が大幅に増えるからである。しかしタンカーの造船や大型化は一朝一夕にはできない。恐ろしい話であるが、日本に必要な量の原油を運べないことも十分考えられるのである。

 これでも南沙問題は日本に関係ないと言い切れるのだろうか。