25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

男と女は何をみているか

2015年11月27日 | 文学 思想

  僕は日本人のよく使う建前と本音というのがよくわからない。本音を言うと「言い過ぎだ」「子供っぽい」と言われる。建前を喋るのが「大人だ」などと思っている節もある。他人を思いやることは必要である。しかし、他人を思いやることは「建前」ではないかと疑うときもある。

「お金、名誉、地位、学歴」が本音のくせして、「愛と智恵と勇気」を本音のように言う人がいかに多いか。

 僕もたいした男ではないが、人間の美しさというのは「行為」のような気がするので、まず、世間体を気にした義理の行為はしない。葬式においても、哀悼の意を表したい人の葬儀にしかいかない。それと「いさぎよさ」を重んじたい。まだある。「やけ酒」は飲まない。そして「タテマエ」は言わないことである。そんな生き方をしようと思っている。なかなかにできるものでもないが、理念として持っていれば、それに近づいていくだろうと思っている。

 正中線がとれて、正しく歩く人を見ると、美しく見える。 頭を下げてスマホばかりをみている人や化粧室ですればいいものを電車内で鏡とにらめっこしている女性に智恵があるとは思えない。これも「行為」に関することだ。

 日本人が猫背やo脚歩き、がに股歩きを克服することができたら 、もっとよい世になるように思える。

  実は本当は、男も女も見ているのはタテマエではなくて、本音であり、行為をみてkルのではないかと思う時がある。それが日本人の自然体なのではないかと思うのだ。

 人の振りみてわが振りなおせ、と言うが、 よくよく気をつけなければならないと赤面してしまう。