南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆16HRの思い出

2019-07-30 22:22:19 | 思い出

 3846 静高がまた優勝しましたね。この時期に日本にいることは殆どなかったので、高校野球の静岡県予選を見ることは、ほとんどなかった。

で、今回はテレビで、準決勝と決勝戦の様子を見た。両試合共、対戦相手の監督のピッチャー起用法に助けられた感があった。私には、そう見えた。大船渡といい、選手の能力は勿論だが、監督の采配が、勝敗に大きな影響があると思う。

 

今日の試合を終了と共に、久しぶりに校歌をテレビ画面と一緒に歌ってしまった。“岳南健児一千の“ですね。短い歌なので、忘れることはない。ニ三日後には、寄付金振り込みの用紙が同窓会から送られてくる。

 

と同時に、昔々、静高の1年の時の情景が思い出された。募集は350人だが、スポーツ特待生が20~30人、合計380人くらい、8クラスに配分された。一クラス50人弱、何故か、中学の時、運動で活躍していた奴が多かった。それも、特待生が多かった。明らかに学力は、全クラスで最低だった。メンバーを見れば分かった。野球部が7人、硬式テニスが2人、バスケットが1人、陸上が1人、柔道が1人、明らかに彼らは特待生と言う感じだった。その中に何故か私、卓球だった。中学の時の運動のランクと言うか成績は、私以外は、県で入賞している奴ばかり、私だけ、県中部で何位という腕前、何故、成績で入った私が、運動をやっていたとはいえ、このクラスに入れられてしまったのか、疑問に思ったし、気に入らなかった。高校に入って成績が下がったのは、このクラスになったことも原因の一つだと思っていた。

 

そして、私以外のその時の運動部の連中は、野球部は甲子園で準優勝してしまう時の出場メンバーに3人入っていたし、硬式テニスとバスケットは、インターハイで優勝、準優勝のメンバーになっていた。

こんな話があった。県大会、全国大会に出場するために、平日でも、欠席することがあった。彼らは、校内でもでも有名で、当然、顧問の先生や監督が、その日は彼らは授業に出ないという申請と許可はだしていた。私は、顧問も飾りだったし、監督もいない、現役のマネージャーがその役目をしなければならなかった。卓球部の場合は、私自身が、抜ける授業の先生の所へ行って、申請をした。先生は、私がどんなスポーツをしているか知らない。件大会やスポーツ歳の時、静岡ではなく三島や浜松が会場になる場合もあって、2日間休まなければならないこともあった。私が許可を取りゆくと、怪訝な顔をして、太田君、何をやってるんだ?と、言われることが多かった。

 

因みに、一年の時同じクラスになった。運動部の人だけではないが、石田君三人、稲葉君、川口君、野桜君、石山弟君、河原崎君、粟生君、鈴木三男君、市川君、富永君、そして湯沢先生が印象に残っている、他の人、ごめんなさい。

 

インドネシアで使っているゴルフシューズが、ボロボロになっていて、国一沿いのスポーツショップに買いに行ってきた。しかし、値段を見てびっくり、平均1万5千円するし、靴裏のスべり止めが好きじゃないから、買うのを止めた、今日本で使っているものを持ってゆくことにした。

 

帰る途中の標識看板、名古屋まで184Kmと書かれている。私に家までは数キロだ。

静高 同級生 特待生 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする