エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

よさこい祭

2016年07月18日 | ポエム
よさこい祭りは、華々しい。
その賑々しさは、歴史とその広がりと人の綾なす空間の色合いである。

今日の「よさこい」は、光が丘公園の祭である。
例年は暑い日なのだけれど、比較的涼やかな一日であった。



よさこいよさこいと口ずさむのだけれど、身体はついていかない。
嗚呼、老いたり!
と感慨する。



長嘆息、である。



踊子は、女神である。
あるいはまた、てんを飛び交う飛天である。







「踊子のうなじ光らせ滴れり」







滴る汗を拭いもせず、踊る。
その姿は清廉である。



懐かしさと、その昔の滾る血潮が蘇るようだ。
それが祭である。



日本の祭を普遍的に見せた「よさこい」の功績は大きい。
そこで踊る漢も女も美しい。



      荒 野人


刺子の布

2016年07月17日 | ポエム
刺子のコースターを頂いた。
とても嬉しかった。

刺子という民芸品は、かつては実用的な範疇であった。
けれど、その鈍重さから久しく見向かれることが無かった。

時代が、漸く追いついたと云うべきだろうか。
いま、人の温もりが見直された結果再評価されたのである。



小さな刺子のコースターだけれど、いまその命の重さに魅せられている。
大好きなアイス珈琲を少し少なめに注いで、そのコースターに載せて楽しんでいる。
藍色の刺子の生地に白く太い糸のライン。
誠に鮮やかである。







「花茣蓙や刺子の布のコースター」







このコースターは、リバーシブルになっていて一枚で二度楽しめる。
とてもお気に入りの一品、である。



この句は、いまだに悩んでいる。
中七と下五は、直ぐに決まった。
上五の措辞に悩んでいる。

候補は限りなくある。
白玉・・・夕涼・・・風鈴・・・糸取女・・・避暑の宿
手花火・・・ビール注ぐ・・・川床涼み
どれを置いても、季語としては動いてしまう。

しかも、動詞や形容詞だと刺子の布と矛盾してしまう。
やはり、名詞の季語が良い。
結果として「花茣蓙」となったけれど、まだ悩んでいる。

さて、この裏地も粋である。
実は、句友に頂いたのである。

この句友が、展示会をしていて・・・もちろん仲間たちと合同なのだけれど。
ぼくは、たまたま体調を崩して出かけられなかったのであった。
その後、句会でプレゼントされた一枚であった。

次には、来て下さいね!
そのお誘いも嬉しかった。

一枚のコースターは軽やかだけれど、古人たちの伝えて来た重さが感じられるのだ。
その重さこそが、血潮であって過去から未来へのメッセージである。
刺子の一針一針に込められた、生きると云うパトスである。

俳句を通じた友は、大切なのである。



     荒 野人

茄子の花

2016年07月16日 | ポエム
初夏、薄紫の茄子の花が開く。
梅雨時には、雨に叩かれて哀しげに萎(しぼ)む。



だがしかし、茄子の花は使命感に満ち溢れている。
人に食べられる為に開く、茄子の花。



野菜の花は、おしなべて人に食べられる為に咲く。
輪廻転生であって、食の連環を豊かに体現する。







「茄子の花実る命の巡りくる」






茄子の花が終わり、実が膨らんでくる。



その営みこそが尊い。
頂くのは、人である。


    荒 野人

青柿

2016年07月15日 | ポエム
梅雨の晴間・・・。
なのだけれど、油断してしまった。
傘を持たずに外出したのだった。

帰宅時に、豪雨に見舞われてしまった。
電車に乗っている時から、ゴロゴロと雷が鳴っていた。

喫茶店で時間をつぶしたけれど、ネットで見ると天気は更に悪化しそうであった。
結果として、雨の中を帰宅した。
濡れ鼠になって帰宅したのであった。



しかしながら、雨の前には見上げると青柿が硬い光を跳ね返していた。
いま、この季節だからこそ見られる風情である。







「青柿の硬き光の深さかな」







青柿は、いつだって夢を与えてくれる。
柿が熟れるとき、天使に分け前を分けるとき、木を守ってくれる柿を見上げるとき・・・。
皮を剥いて、お日様に晒すとき。

いつだって楽しい。
青柿の魅力は、硬質であること。
その硬さは、深い淵を思わせること。
硬い光を跳ね返し、雨をしっかり跳ね返すこと。



そこまで楽しませてくれる果実は、柿だけかもしれない。
青柿をしっかりと見届けたいものだ。



     荒 野人


病葉

2016年07月14日 | ポエム
わくらば、である。
本来なら、青々として夏の日ざしを謳歌しなければならぬ!

だがしかし、不幸にして蟲に取りつかれたり、病を得た葉のことである。
枝から離れてしまう。
拠り所を失った葉のことである。



何故か、悲しみが溢れて来るではないか。
無常とか、非情とか抗えない悲しみを思うのだ。







「病葉の残されしとき散々に」







ずっと以前、病葉を流れる川に浮かべてしんみりとする歌があった。
その女は、毎日のように病葉を浮かべて悲しみに耽っている。

確か、オキナワ出身の「ナカソネミキ」が唄った。
すこし大柄な歌手であった。



ぼくは、病葉を押し頂くように写真に撮った。
自分の健康だとか、生涯だとか、あるいはまた死生観を思った。



     荒 野人